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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は夕方から雨の予報で、ソメイヨシノの見頃もピークかなと思い、昼間は欲張って近隣5ヵ所の桜の名所を歩いてきました。
 午前・午後の2回に分けましたが、10キロは歩いたと思います……これだけ歩いたのは久しぶりです。でも途中で見かけたケーキショップでケーキを買って食べたので、エネルギーはプラマイゼロですね^_^;。

山形
月遅れひな祭り
 立派なひな人形を飾った旅館などを着物姿の子どもたちが巡って、地域で成長を祝うひな祭りが3日、大蔵村の肘折(ひじおり)温泉郷で行われた。
 火山が噴火したカルデラの中にある同温泉郷は県内有数の豪雪地域のため、1か月遅れで実施。住民にとっては春の訪れで、江戸時代頃から伝わるという。
 地域の子どもたちや関係者が楽しみにしている行事の一つ。ひな人形を見た後には菓子が配られ、子どもたちは「ありがとう」と笑顔をはじけさせて次の旅館へと向かっていった。
 旅館の中には、幕末の頃のひな人形が飾られているところもあり、児童だけでなく都会からの観光客にも「山奥にこんな立派なおひな様があるんですね」と好評だったという。


東京
【産経大江戸ウオーク】「新選組の世界を歩く」 来月23日開催
 産経大江戸ウオーク「新選組の世界を歩く」を、5月23日(土)に開催します。多摩川沿いの豊かな自然とともに、激動の時代に強い意志を持って「誠」を貫いた若者たちの生き方に触れるウオーキングです。健康づくりを兼ね、多摩川沿いの風情をお楽しみください。
 参加者の中から抽選で1人に日進館万座温泉ホテルペア宿泊券(東京からの送迎付)をプレゼントするほか、展覧会招待券などが当たります。
 【日時】5月23日(土)午前9時、日野市役所(JR日野駅下車徒歩15分)前集合。雨天決行
 【コース】日野市役所前をスタート。新選組のふるさと歴史館、日野宿本陣、多摩川河岸、万願寺中央公園(昼食)、土方歳三資料館、石田寺などをめぐり高幡不動尊までの約11キロ。
 【参加費】1人2000円。参加者には、関連施設入場券、完歩証などを贈呈。昼食はご持参ください。
 【申し込み】はがきに必要事項(郵便番号、住所、氏名、年齢、職業、電話番号)を明記の上、〒100-8077 ウェーブ産経事務局「大江戸新選組」係まで(住所不要)。1枚で2人まで(同伴者も必要事項を記入)。先着500人に「参加費振込方法・案内」をお送りします。
 【問い合わせ】TEL03・3275・8134(平日午前9時半~午後5時半まで)
主催 産経新聞社
共催 メタボリックシンドローム撲滅委員会
後援 厚生労働省、東京都、日野市
協力 日本ウオーキング協会、京王電鉄

 ガイドさんが付くのでしょうが、幕末の歴史に詳しい方がつくのかどうかが今いち不明です。

神奈川
「六郷の渡し」の実態紹介/川崎で企画展
 江戸時代に多摩川の「六郷の渡し」の渡船業務が川崎宿の請け負いとなってから今年で三百年になることから、当時の実態などを紹介する企画展「六郷の渡し~川崎宿経営300周年」が二十六日まで、川崎市市民ミュージアム(同市中原区等々力)で開かれている。入場無料。
 多摩川に架けられた六郷橋が洪水でたびたび流失したため、一六八七年以後は渡し舟による渡河が行われた。渡船の運営は当初、対岸の江戸町民らが担っていたが、一七〇九年からは川崎宿が請け負い、幕末まで続いた。
 企画展では、当時の請負契約の書類や多摩川での渡し舟の絵図など約十五点が展示されている。羽田地域で不法に渡船業務をしている実態を幕府に訴える書類や、事業の収支決算書なども並び、同館担当者は「渡し舟の運営についてはあまり知られていない。地域の歴史を知るきっかけにしてほしい」と話している。
 午前九時半から午後五時まで。月曜日休館。

 東京都南部で生まれ育ったので、多摩川下流は原風景のひとつです……今日も多摩川沿いの某所に花見に行ってきたし^_^;。機会があったら「六郷の渡し」展示行ってみたいです。
 土方さんも江戸で隊士募集のため下向した折りに通っているだろうし(爆)。

京都
戊辰戦争新史料で学ぶ
 戊辰戦争の史料などに焦点を当てた春季特別展「よみがえる幕末維新~動乱から変革まで~」が3日、東山区の霊山歴史館で始まった。戊辰戦争で旧幕府軍が優位に戦いを進めた場面を描いた「矢嶋戦争之図」など初公開3点を含む約100点を展示している。
 同図は長さ1・5メートルで、明治初期の絵図。旧幕府軍の庄内藩(山形県)が新政府軍側に味方した矢島藩(秋田県)と激しく衝突したり、矢島藩が城を焼いて退陣したりする様子などが記録されている。同戦争の局地戦で旧幕府軍が勝利を収めた際の史料は珍しく、同館が昨年に購入した。
 ほかに、最後の将軍徳川慶喜が二条城(中京区)から退去する場面や、新選組が同城に入場するところを描く京都国立博物館所蔵の「伏見鳥羽戦争図草稿」(長さ26メートル)などが展示されており、霊山歴史館の木村武仁学芸員は「日本が近代化していく“生みの苦しみ”を感じ取ってもらえれば」と話している。
 5月6日まで。月曜休館。午前10時~午後5時30分。入館料700円、高校生400円、小中学生300円。問い合わせは同館(075・531・3773)へ。

 この特別展、見たいなぁ……関西に住んでいたら間違いなく見に行ってました。5月6日までですので、見に行く方はお早めに。
 霊山歴史館にお出かけの際は、昨日の記事で紹介した土方さん電子紙芝居もお忘れなく。

京都復権の希望乗せ空へ~明治の有人気球飛行
 平安遷都以来、都であり続けた京都の誇りは、明治維新を機に失いかける。天皇は江戸へ出かけたまま戻らず、帝都の地位が消えた。江戸が「東京」と名を変えると、京都は「西京」と呼ばれるようになり、都の名すら奪われた。東京の人々が「京都」という呼称に抵抗感を持ったともいう。
 明治4年から行われた京都博覧会は、京都の景況回復を目的として町衆が始めたが、やがて官民を挙げた産業見本市としての性格を強めていき、京都の科学技術力の高さと意地を発信すると同時に、誇りを取り戻す場となった。
 明治10年には、人々の度肝を抜く大実験が行われている。12月6日午前9時。京都御苑(京都市上京区)内にある仙洞御所広場上空に、1人の人間を乗せた気球が浮かんだ。気球による日本初の有人飛行といわれている。
 発案者は、理化学教育の熱心な推進者だった京都府学務課長の原田千之介。欧米で進んでいた気球研究に着目し、日本人の手だけで飛行を成功させれば、目に見える形で科学技術力を誇示できると考えた。当時京都府知事だった槇村正直もこの計画に食いついた。
 気球は直径約9メートルで、気体は水素。フワフワと30メートル以上も上昇し、西風に乗って東に200メートルほど移動した。観覧は有料で一般3銭。米1升が5銭ほどの時代にぜいたくな出費だったが、4万8000枚の入場券は完売したという。気球は人間だけでなく、京の市民の希望も乗せていた。
 製作者は島津源蔵という理化学機器の職人。現在の島津製作所の創業者だ。後に発明家として知られた源蔵だが、それまで気球というものを見たことはなく、原田から渡された外国雑誌の絵だけで造り始めた。
 肝心の風船部分についてはいろいろ試行錯誤を繰り返した。気体が漏れないだけでなく、人を乗せるには軽い素材が求められる。当初は木綿の布に油を塗ってみたが、うまくいかない。油をにかわに、素材を紙に変えても失敗した。最終的に、着物に使われる羽二重にたどりつき、生地を油で溶かしたゴムでコーティング。気密性が高く、丈夫で軽い気球が完成した。
 だが、パイロットを誰にするのかというもう一つの問題が残っていた。えたいのしれない飛行物体に命を預ける勇気を持ち、なおかつ小柄な大人は、簡単には見つからなかった。
 源蔵は店に出入りする取引先の店員、中田寅吉を口説き落とす。島津創業記念資料館(京都市中京区)の左近茂樹館長は「最後は拝み倒してでも乗せたのかもしれませんね」と笑う。わずか半年程度の突貫研究。源蔵の飽くなき熱意が気球を飛ばした。
 もちろん、不安はあった。30年後の新聞に、60歳となった寅吉が振り返っている。「幾万の人々の拍手を浴びながらフワフワと上っていた。かごが揺れ、気球が張り切ってなかったので、風にあたるとバサバサと気味の悪い音がした」
 槇村は市民に対し、近くに気球が落ちても不用意に触らないことや、火気を近づけないようお触れを出している。槇村は、墜落という最悪の事態も予測していたのかもしれない。
 わずかな資料だけで気球を作り上げた源蔵は、西本願寺(同市下京区)近くで仏具製造店を営んでいた清兵衛の次男。21歳になった幕末の万延元(1860)年に独立して、現在の中京区木屋町二条下ルに自分の仏具製造店兼自宅を構えた。そしてこの周辺は、明治維新を機に、京都の近代化を支える工業科学研究の一大拠点と変容を遂げていく。
 明治3年、理化学者の明石博高の進言で、源蔵宅の近くに舎密(せいみ)局が設立された。西洋の最先端科学を取り入れた工業技術の一大研究拠点で、源蔵は手先が器用なことから、機械の修理役として重宝された。
 それが高じて源蔵は家業を理化学機器製造に替えてしまう。「舎密局に出入りするうちに理化学の素晴らしさに気付くと同時に、廃仏棄釈の影響で家業の将来を不安視したのではないでしょうか」(左近館長)。
 加えて、槇村邸は源蔵宅の南にあり、いわゆる「ご近所さん」だった。舎密局に出入りする好奇心旺盛な源蔵の評判と仕事ぶりを、槇村が身近に耳にしていていても不思議ではない。
 「もし、源蔵が違うところに家を構えていたら、気球はできなかったかもしれませんね」と左近館長。気球の完成は、人々の偶然の出会いと歴史的背景が産んだ奇跡ともいえる。
 気球の打ち上げで集まった観覧料は、子供たちの教科書代にあてられたほか、理化学機器の発注という形で源蔵にも還元された。日々の暮らしにも窮していたという源蔵だが、苦心の末に作り上げた気球が、島津製作所の礎を生み出した。
 やがて日本を代表するメーカーへと成長を遂げる同社。同社フェロー、田中耕一さんのノーベル賞受賞も、明治に再生した「京都力」の結晶なのかもしれない。(渡部圭介)

 ■舎密局 名前の「せいみ」はオランダ語で化学を意味する「Chemie」から取られ、明治2年、大阪に開設されたのが始まり。大阪舎密局に勤務していた明石博高は、京都府に出仕すると同時に京都にも舎密局の開設を進め、3年に河原町二条の勧業場内に仮オープン。5年に分局、6年には本局が作られた。研究機関であると同時に、氷砂糖やラムネ(炭酸水)などの製造工場も兼ねていた。京都府勧業課の管轄だったが、知事名による献金の呼びかけで民間からも設立資金が集められた。

 ドラマチックですねぇ……再現ドラマで見てみたいかも。

鹿児島
南日本新聞連載「さつま人国誌」が本に 幕末・明治編4日発売
 南日本新聞に連載中の「さつま人国誌」が本にまとまった。南日本新聞社から第1弾として「幕末・明治編」を刊行。鹿児島県内の主要書店や南日本新聞販売所などで4日に発売する。
 連載は2007年4月に始まり、週1回の掲載で2009年3月末までに102回。本書には53回分を収め、加筆修正したうえ、テーマごとに再構成。天璋院篤姫をはじめ、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通など郷土の人物や事件を取り上げ、維新前後の鹿児島の姿に迫り、意外な史実も掘り起こしている。
 筆者の桐野作人さん(54)は出水市出身の歴史作家、歴史研究者。「島津義久」(PHP研究所)、「だれが信長を殺したのか」(同)、「孤高の将軍 徳川慶喜」(集英社)など数多くの著作がある。
 「さつま人国誌」は四六判、228ページで1365円(税込み)。問い合わせは南日本新聞開発センター=099(225)6851。





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