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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 10月初旬から気の抜けない仕事が連続して入っていたのですが、やっとピークを過ぎました。毎年11月は風邪引いたりなど体調を崩しやすいのですが、それもまぁ何とか。
 あまりに寒いので、遠赤外線ストーブで暖めてます。

東京
新扁額:拝島大師に 1世紀ぶり、天然理心流--きょう奉納式 /東京
 昭島市の拝島大師本覚院旧本堂に掲げられている天然理心流心武館が奉納した大扁額(へんがく)に今月、新しい1枚が加わった。1913(大正2)年に初代館長の井上才市が奉納して以来、約1世紀ぶりで、23日午後1時半から境内で奉納式が行われる。同流派の演武とともに午後3時からは新大扁額の除幕式もある。見学無料。

 幕末の新選組の近藤勇局長らが身につけた武術として知られる天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した総合武術。心武館はその流れをくむ流派で、現在は初代館長の親類にあたる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市=が4代目を継承し、昭島市や牛久市などに稽古(けいこ)場を開いている。

 昭島消防署長を務めていた4年前にに拝島大師本覚院に掲げられている奉納額を発見。間もなく1世紀を迎えることから、新しい額の奉納を思い立った。

 額は縦1・2メートル、横3メートル、重さ約300キロのケヤキの一枚板で、大きさや彫刻は従来と同じ様式にし、現在の門弟や賛助者ら228人の名前が書き込まれている。【河嶋浩司】



天然理心流 新扁額奉納へ 昭島
 昭島市の拝島大師旧本堂に、天然理心流心武館の初代館長が1913(大正2)年に奉納した大扁額(へんがく)が掲げられている。約1世紀たった今秋、その額の横に、新しい額が並んだ。23日に奉納式が行われる。
 天然理心流は、江戸末期に近藤内蔵之助が創始した剣術、居合術、棒術、柔術などを備えた総合武術。新選組の近藤勇局長、土方歳三副長らが身に着けた武術として知られている。
 心武館はその流れをくむ流派で、初代館長の井上才市が創設。現在は縁戚に当たる大塚篤さん(63)=茨城県牛久市在住=が4代目として昭島市や牛久市などにけいこ場を開設、流派の技を引き継いでいる。
 大塚さんは、昭島消防署長を務めていた4年前、拝島大師に初代館長による奉納額が昔のままに掲げられているのをみつけた。すすけ、文字はかすれているものの、近隣に住む師範や門人、支援者ら300人ほどの名前が読み取れた。額が掲げられて間もなく100年になるのを機に、新たな額の奉納を思い立った。
 形は100年前の額とほぼ同じ。1.2×3メートルのケヤキの一枚板に、同じ彫刻を施した。重さは約300キロ。現在の門弟、賛助者ら228人の名前を書き込んだ。大塚さんは「我々も100年後に残せる技や心を伝えたい。後に続く人たちによって新しい額が掲げられることが夢ですね」。
 23日の奉納式は、同大師境内で午後1時半から演武、午後3時から扁額の除幕がある。見学は無料。(ライター・榎戸友子)





京都
近藤勇:京都で見つかった直筆掛け軸、初公開--東山・霊山歴史館 /京都
◇“英雄論”に熱視線 新選組ファンら「感動」
 京都市の美術店で先月見つかった新選組局長、近藤勇(1834~68)直筆の掛け軸が、同市東山区の霊山歴史館で初公開されている。近藤の人間像をうかがわせる詩書を見ようと、多くの新選組ファンらが訪れている。【花澤茂人】

 詩書は「英雄」のあり方を論じた七言絶句。前段は「隠者のように暮らすべき」「議論するだけの俗人とは違う」と、攘夷派の志士に皮肉ったような内容で、後段は「果たして英雄の心上(しんじょう)のことを識(し)らば、英雄ならざるところぞこれ英雄」と結ぶ。

 漢詩に詳しい西村富美子・三重大名誉教授は「英雄は、それを世に誇るべきではない、という意味だろう」と分析。「七言絶句の細かいルールも踏まえておりレベルは高い。ただ、『英雄』という言葉が3度出てくるのは考えられないことで、よほど強調したかったのだろうか」と話す。

 同館の木村幸比古・学芸課長は、近藤が入洛した文久3(1863)年ごろの作とみており「意気揚々と職務に燃えていた様子が感じられる」と話している。東京都多摩市から訪れた中央大3年、松村由紀さん(21)は「直接見て感動した。力強い筆遣いが近藤さんらしい」と喜んでいた。

 掛け軸は特別展「龍馬と土佐の衝撃」(12月26日まで)に合わせて展示されている。問い合わせは同館(075・531・3773)。


薬局もヲタク層にPRする時代です、沖田総司が解説する調剤薬局
 京都・四条堀川の調剤薬局「りぼん薬局」が、女性向けイラストで新撰組の沖田総司を起用した調剤薬局のPRサイトを100日間限定で公開した。
京都では最近、京都市交通局企画課がオリジナルキャラクター太秦萌(うずまさもえ 17歳)というオリジナル萌キャラクターを作成したり、財団法人 京都市都市整備公社がアイドルユニット「自転車利用マナー向上隊 ほっとかナイス」を結成するなど、萌文化に訴求するPR方法が多く採用されている。
今回100日間限定で公開された「りぼん薬局」の特設サイトでは、新撰組の沖田総司が調剤薬局にも病院と同じくかかりつけを利用することを分かりやすく解説。
ちなみに話中で登場する、沖田かかりつけの調剤薬局「りぼん薬局」はこの会話の中で壬生の屯所に近いという設定になっている。

なお、今回特設サイトを公開した「りぼん薬局」の広報担当によると「一般に『お堅い』とイメージされるところが趣向をこらしてアピールする中、調剤薬局は情報発信がやや不足しているようにも思われます。医薬分業のこと、かかりつけ薬局の大切さなど、普段なかなか興味をもたない調剤薬局の役割に少しでも興味を持っていただきたいと、 親しみやすい新撰組をモチーフにした情報発信を行いました。」とコメントしている。

普段あまり意識することのない調剤薬局の“かかりつけ”。これを機会に是非考えてみて欲しい。


事故物件かどうかを調べることができるサイト「大島てる」に、あの歴史的事件が!
過去に物件で何らかの事件・事故が起きていないかを調べることができるサイト「大島てる」に、まさかの「池田屋事件」が!

なんでこれが? と思ったら、どうやらユーザーによって登録されたものみたいです。たしかに事件が起きたことがあるという意味では「事故物件」なのかもしれませんけど...!

ちなみに池田屋事件とは1864年に起こった出来事で、旅館・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を新選組が襲撃したというもの。歴史的な事件であり、これまでに何度も小説や映画の題材になってきました。

現在、池田屋跡地は居酒屋の「はなの舞」になっているとのこと。歴史ファンなら一度は訪れたい聖地の一つですね。

なお「大島てる」はマンションやアパートの事故物件情報を集めるためのサイトですので、基本的にはこういう投稿は避けた方がいいかもしれません。

 うーむ……誰が登録したのやら(°°;)。

兵庫
忠臣蔵・大石家の書状秘蔵か 幕末の勤王志士が記録 兵庫・豊岡
 忠臣蔵で知られる大石内蔵助(くらのすけ)(良雄(よしたか))とその家族がつづった書状や手紙を内蔵助の妻、りくの出身地(兵庫県豊岡市)の大地主が秘蔵していると記録した幕末の書状が、同市の地主の子孫宅に残されていたことが21日、わかった。市出土文化財管理センターは「信憑(しんぴよう)性は高い」として書状全文の解読と手紙などが現存していないか調査に乗り出した。

 書状は、のちの明治天皇の養育係を務めた後、勤王志士として尊王攘夷運動に奔走した豊岡出身の田中河内(かわちの)介(1815~62年)が、地元支援者の大地主、田井家のために書いた証明書的な文書。日付は、元禄15(1702)年の赤穂浪士討ち入りから155年後の「安政四年(1857年)」と記されている。

 現在解読作業中だが、「赤穂の義士大石良雄…」で始まる文面には、内蔵助の書状や、りくが名乗った「香林院」の手紙、赤穂浪士の一人で長男、良金(主悦(ちから))の幼少期の絵などを、田井家が保管していると記載、他の赤穂浪士の名も登場する。河内介の正式名の「綏猷(やすみち)」の署名と落款も押されている。

 同センターの潮崎誠所長は「大地主と大石家の関係など興味深い。新発見につながる可能性もある」と期待している。書状は23日、神美地区公民館(同市三宅)で開かれる河内介の顕彰行事で公開される。


コラム
 琵琶湖疏水関係者。
(138)東大教授・山内昌之 北垣国道
革命家から琵琶湖疏水の父

 朝まだきの京都・南禅寺には不思議な霊気が漂っている。歌舞伎の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」と科白(せりふ)を廻した三門に立ち、水路閣(琵琶湖疏水(そすい)の水道橋)を眺めれば、1200年来の古都とモダンとの絶妙のバランスが霊気のなかに浮かび上がる。

 琵琶湖の水をいくつもの山々を穿(うが)った隧道(ずいどう)(トンネル)に通して、京都市東部の山科から市内中心部に運ぶ水路の建設は、いまでいえば新幹線や青函トンネルの開通にも比すべき壮大な工事にほかならない。そして、この掘削を命じた京都府知事・北垣国道と、設計建設にあたった青年技師・田辺朔郎のコンビによる時代を先取りする雄大な構想や、後世に対する責任感の強さに驚嘆する人も少なくない。

 但馬国(兵庫県)養父(やぶ)郡の庄屋の家に生まれた北垣は、文久3(1863)年に公卿(くぎょう)の沢宣嘉(のぶよし)に率いられた生野(いくの)銀山の挙兵(生野の変)に参加したのだから、相当にキャリアのある尊皇志士ということになる。義挙の失敗後、あれこれを経て長州に潜伏し、戊辰戦争では山陰道鎮撫(ちんぶ)総督の西園寺公望(きんもち)の下で戦い、やがて北越戦争にも従軍している。

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度肝を抜かれる土木事業

 幕末明治の面白いのは、こうした生粋の革命家が民政家に転じても業績をあげる人物の多かったことだ。

 高知や徳島の県令を経て京都府知事に就任した北垣は、地下水や北の山々に発する川の貧弱な水量に頼るしかなかった京都の水事情を一変して、東京への奠都(てんと)(新都を定めること)でさびれる一方の京都の活力を蘇生(そせい)する第一歩にしようとした。

 大きなスケールの構想に驚くのは明治人だけでなく現代人も同じだろう。まず大津市の三井寺の近くから長等山(ながらやま)を穿つ第1トンネルだけでも2436メートルもあり、江戸時代の安眠から醒(さ)めたばかりの国民にとって度肝を抜かれる土木事業となった。しかし、これこそ国家百年の大計ともいうべき構想であり、その着想力は官僚というよりも政治家の素質である。さすがに生野の変から戊辰戦争の荒波をくぐり抜けてきた志士だけのことはある。

 明治18(1885)年の着工から4年8カ月の大工事の末に完成した琵琶湖疏水は、灌漑(かんがい)、上水道、水運、水車の動力補給などを円滑にしただけでなかった。工期途中でアメリカを視察した田辺は、当初の計画になかった水力発電を構想し、日本初の営業用水力発電所となる蹴上(けあげ)発電所を建設した。建物の雄姿の面影は今でも残っている。この水力発電の成功は、明治28年に開通した京都と伏見を結ぶ日本最初の路面電車(京都電気鉄道)の営業運転を可能にする快挙でもあった。

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 北垣の事績は、明治25年に北海道庁長官に転じても続いた。着任してすぐ、港湾部が浅く土砂の堆積も重なり大型船接岸が不可能となった函館港の改修を指示し、港内浚渫(しゅんせつ)や防波堤・灯台の新設、埠頭(ふとう)建設などの工事によって、31年にいまの函館港の原型が出来上がった。

 北海道の拓殖と国防を兼ねた北海道官設鉄道を計画したのも北垣である。北垣は東京帝国大学教授となっていた田辺を道庁に招聘(しょうへい)し、函館本線の一部、宗谷本線や根室本線の一部となる区間の調査と建設にあたらせた。

目的税受け入れた府民

 帝大教授を辞めて道庁鉄道部長になる田辺のこだわりの無さも凄(すご)い。当時の職階意識では、内務大臣兼台湾総督だった児玉源太郎の陸軍参謀次長への降任ほどではなくても、格下げの感もある人事であった。いずれにせよ、必要とされる場所に屈託なく出かける明治初期の逸材たちの姿には頭が下がる。もっとも、疏水工事竣工(しゅんこう)を機に田辺は北垣の娘婿となっており、親子として独特な平仄(ひょうそく)があったのかもしれない。

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 それにしても、疏水工事で偉かったのは、北垣や田辺だけでない。この琵琶湖疏水の建設は、国や京都府からの財政支出だけでなく、市債や寄付金にも頼った。そのうえ当時の府民たちが素晴らしいのは、この事業が後世の子孫まで潤す財産になることをしっかりと了見して、疏水建設のために目的税を受け入れたことである。

 もちろん、庶民の間には、重税感に不満もあっただろう。それでも、明治初期の聡明(そうめい)な京都人は、権利や受益のためには、負担や義務が伴うことを知っていた。北垣は、京都商工会議所の創設などにも尽力し、近代産業都市としての京都建設に大いに貢献した。北垣ら幕末から明治に生きたたくましい先人を知るには、その同志であり娘婿だった田辺についても次回で触れる必要がありそうだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】北垣国道

 きたがき・くにみち 天保7(1836)年、但馬(兵庫県)生まれ。維新後は高知、徳島県令を経て、明治14(1881)年、京都府知事に就任し、琵琶湖疏水事業を推進。25年、北海道庁長官。晩年は枢密顧問官となり、大正5(1916)年、死去。


(139)東大教授・山内昌之 田辺朔郎

京都と北海道を開いた恩人

 京都の蹴上(けあげ)や岡崎のあたりは、私のいちばん好きな場所である。

 水路閣という琵琶湖疏水(そすい)の分線が南禅寺の境内を静かに通り、その煉瓦(れんが)造やアーチ構造の優美さは訪れる者を魅了する。南禅寺の歴史に自然に溶け込んだ異国伝来の建築様式は、テレビドラマなどでもすでにお馴染(なじ)みであろう。

 南禅寺を出て蹴上のほうに坂を上るとすぐレールにつきあたり、まもなく不思議な台車を見つけることになる。これがインクライン(舟用の傾斜鉄道)の名残にほかならない。文明開化からほど遠からぬ時代に若き日本人技師の手でつくられた最大の洋式意匠が、いまでは京の古典的な建造物や伝統美と巧みに融合している。この調和を見ると、先人の偉業が偲(しの)ばれいつも誇らしい思いになる。

琵琶湖疏水の夢実現へ

 水路閣とインクラインという対照的な名称の結構をつくったのは、田辺朔郎である。幕臣・田辺孫次郎の長男として生まれた朔郎は、父が高島秋帆(しゅうはん)門下の洋式砲術家だったせいもあり、理工系に才を伸ばすべく、できたばかりの工部大学校に入学した。その卒業論文が「隧道(ずいどう)建築」つまりトンネルを扱い、琵琶湖疏水の工事を具体的に構想したことが彼の一生を決めた。北垣国道京都府知事に請われて京都府御用掛となった田辺は、さっそく琵琶湖疏水をつくる夢の実現にとりかかった。

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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 北垣は、わずか21歳の工学士に、豊臣秀吉このかた幾多の為政者が夢見た野心の実現を託したのだ。このあたりの思い切りのよさや太っ腹なところが、幕末維新の動乱をくぐりぬけた志士たる所以(ゆえん)であろう。安定期に成長した国家官僚とは違う資質なのである。しかも北垣は、疏水工事の進行中に田辺をアメリカ視察に派遣した。後に長女しずを娶(めあ)わせる北垣としては、この前途有望な青年をさらに大きく飛躍させようという好意も含まれていたのかもしれない。

 果たして田辺は、府知事というよりも国士の風貌をもつ北垣の期待に恥じなかった。滞米中に疏水から水力発電を起こすヒントを得た彼は、蹴上にインクラインと並ぶハイカラの極致たる発電所をつくったからだ。インクラインを走らせる電気も疏水から引いた水で起こしたものだ。万事に無駄がないのである。

 それにしてもインクラインという名前がよいではないか。傾斜鉄道などという野暮(やぼ)な名前を避ける一方、疏水分線の水路橋には水路閣という絶妙の和名をつけるなど、どうして明治の知識人のセンスと教養はかくも高いのだろうか。感動するほかない。

 しかも、その設計技術の高い水準にも驚くほかない。浜大津の近辺で琵琶湖水を取り入れた水路は、山に向かって静かに流れているが、この取水口と京都の蹴上との落差はわずかに4メートルにすぎない。また、浜大津から蹴上までの総延長は12キロもあった。それでいて琵琶湖の水がきちんと流れを止めずに、南禅寺の近辺まで届いたのだから驚異である。計算機もコンピューターもない時代に設計した田辺の優秀さはいくら褒めても褒めたりないほどだ。

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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 この蹴上から高さ35メートルの急勾配を小ぶりの荷物運搬舟が下り、鴨川経由で京都市街の中心に入っていくために、勾配を下る舟を運ぶ台車が必要となった。そこでインクラインが工夫されたのだ。

 子供の頃、父が戦前に京都へ修学旅行をした際に買い求めた絵はがきでインクラインの写真を見たことがある。私も中学生の頃に北海道庁長官の北垣の名を知っていたが、疏水やインクラインに縁のある人物だと知ったのは高校生になってからのことだ。

北の大地の鉄道形作る

 北海道人は北垣や田辺の治績に多くを負っている。北海道は新橋-横浜間、大阪-神戸間に次いで、手宮(小樽)-札幌間に鉄道が開通した地である。開拓使の運営する鉄道はやがて払い下げられて北海道炭礦鉄道の所有に帰したが、北海道庁長官の北垣は開拓を成功させるには北海道炭礦鉄道では荷がかちすぎると考えた。道庁が直接に鉄道の建設と運営をおこなうことを決意し、明治29(1896)年に田辺を招いたのである。

 帝国大学教授の職を辞し、北海道で再び現場に立った田辺には、技術者としての誇りをもつ明治人らしい健全な愛国心や経世済民の志があったにちがいない。この結果、現在の主要幹線たる函館本線、宗谷本線、根室本線などの原型が次第に建設されたのだ。私を含めて北海道人は、改めて田辺朔郎の開拓貢献に感謝すべきではないだろうか。

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田辺朔郎(京都市上下水道局所蔵)

 鉄道事業の骨格をつくって北海道を去った田辺が懐かしの京都で帝国大学教授や工科大学長になったのも、奇縁というべきであろう。平成の私たちはあまりの豊かさを当然とするあまり、田辺や北垣のような先人の偉業に謙虚でない。そして、その存在さえ忘れがちである。心すべきことではないだろうか。(やまうち まさゆき)



【プロフィル】田辺朔郎

 たなべ・さくろう 文久元(1861)年、江戸に生まれる。明治16(1883)年、工部大学校(現・東大工学部)卒業後、京都府知事の北垣国道に請われて同府御用掛となり、琵琶湖疏水の設計、工事を手がける(明治23年完成)。北海道庁長官に転任した北垣とともに北海道の鉄道建設にも尽力し、京都帝国大学工科大学学長、土木学会会長などを歴任。昭和19(1944)年、死去。


薩長軍の活躍は、失敗の反省から始まった
 幕末を扱った大河ドラマでは、「ゲベール銃」や「ミニエー銃」という言葉がよく出てくる。ゲベールとはオランダ語で「小銃」であるが、日本では前装式滑腔銃の通称となっていた。「前装」とは、火薬と銃弾を銃口から入れ、槊杖(さくじょう)で突き固めて装填する方式である。そして「滑腔」とは、銃身内部にライフルリング(施条)がないという意味だ。

 もう1つのミニエー銃は前装式ライフル銃の通称であり、その代表的なものがエンフィールド(エンピール)銃である。ゲベール銃との違いは、銃身にライフルリングが刻み込まれていることだ。このライフルリングによって銃弾が旋転し、ジャイロ効果で弾道が安定するのである。

 表が示すとおり、ミニエー銃は遠距離でも命中率が高く、有効射程(実戦で50%の命中率を期待できる射距離)は300ヤード(約274メートル)に達する。それに対して滑腔銃身のゲベール銃は、射距離が長くなると命中率が急激に低下し、有効射程は100ヤード(約91メートル)くらいしかない。

表●射距離と命中率
射距離 ゲベール銃 ミニエー銃
100ヤード 74.5% 94.5%
200ヤード 41.5% 80.0%
300ヤード 16.0% 55.0%
 実戦では、この射程の差が非常に重要である。ミニエー銃の射手は、敵のゲベール銃の射程外から一方的に撃ち込むことができるからだ。そのため、1850年代の西欧諸国では、ミニエー銃への更新が進み、大量のゲベール銃がお蔵入りとなった。

 ところがミニエー銃の時代は長く続かず、1860年代後半には、スナイドル銃などの後装式ライフル銃が登場した。「後装」とは、火薬と弾丸が一体化した弾薬筒を銃身の後尾から装填する方式である。

 これまでの前装銃は、装填に手間がかかるので、熟練兵士でも1分間に4発撃つのが限界である。しかも、装填の際に銃を立てないといけないので敵に狙撃される危険性も高かった。それに対して後装銃は、装填動作が簡単なので未熟な兵士でも前装銃の数倍のペースで射撃できるうえに、匍匐姿勢での装填も容易であった。そのため西欧諸国では、先を争うように後装式ライフル銃を導入したのである。

 かくして旧式化したミニエー銃が、さきほどのゲベール銃と共に、幕末の日本に大量に出回ることになった。先進国で要らなくなった中古兵器を武器商人が買い集め、発展途上国である日本に売りつけてボロ儲けをしたというわけだ。このあたりの構図は、今も昔も変わらない。

優秀な銃器を装備していた薩長軍

 戊辰戦争における薩摩藩・長州藩の強さは、銃器の差によるところが大きい。両藩ともいち早く軍事改革に着手してミニエー銃を主装備としたうえに、戦争後期には、より高性能のスナイドル銃への更新を進めていた。

 これに対して東北諸藩では、洋式装備への切り替えが遅れたことに加えて、軍事技術に疎い購入担当者が武器商人にだまされ、性能の低いゲベール銃を掴まされるケースが少なくなかったという。ちなみに、北越の戦いでは、僅か7万石の長岡藩の健闘がよく知られているが、河井継之助の指導により同藩兵がミニエー銃を装備していたことがその理由である。

 あと半年ほど時間の余裕があれば、他の藩も長岡藩と同様に洋式銃を調達し、薩長軍に匹敵する戦力を整備したことだろう。しかし新政府側では、鳥羽・伏見の戦勝後すぐに東征軍を派遣し、武器商人との取引場所である横浜を押さえた。さらに矢継ぎ早に東北地方に侵攻し、敵に立て直しの時間を与えなかった。

 その結果、薩長軍は優秀な兵装によって東北諸藩を短期間で圧倒した。まさに「先んずれば人を制す」である。戊辰戦争は我が国最大級の内戦だが、世界標準からすると、死傷者数や被害規模は非常に少なく、外国による紛争介入という最も懸念すべき事態も回避された。勝機を逃さず一気に攻め続けた維新の元勲たちの情勢判断を高く評価すべきだろう。

財政改革で積み上げた資金が倒幕の原動力に

 ところで、薩長両藩は、もともとは攘夷の急先鋒であったはずなのに、どうして諸藩に先駆けて洋式兵装の導入を成し遂げたのだろうか。その理由は、攘夷に失敗して実力の差を思い知らされたためである。

 薩摩藩は、文久2(1863)年の薩英戦争で、英国艦隊の鹿児島砲撃により軍事施設や城下町を破壊されたことを契機に、逆に英国との友好関係を構築するに至った。長州藩も、その翌年の下関戦争で英仏米蘭の四国連合艦隊に完敗した後は、海外からの先進技術の導入に積極的になった。

 その意味では、両藩とも攘夷戦の失敗経験を生かしたことになる。ただし、外国兵器の必要性をいかに痛感したとしても、先立つものがなければ購入できない。

 薩摩藩の場合は、1830年代には藩財政が破産状態であったが、調所笑左衛門が徹底した債務整理を行うとともに、砂糖の専売制を導入して税収を拡大した。また、長州藩でも、1840年代に村田清風による改革が行われ、交通の要所である下関で貿易事業を手がけて数百万両の剰余金を積み上げた。こうした潤沢な資金が武器購入や対朝廷の政治資金に充てられ、歴史を動かす原動力となったのである。

 拡大戦略を描こうとするのであれば、まずその前に組織内部をしっかり固めないといけない。内部の問題点を放置したままで、薔薇色の成長戦略に期待をかけるのは、現実逃避にすぎないのだ。






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