新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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活字出版ではあるが和綴じ(汗)。ネットにて購入。
作中、「坦庵」が時々「垣庵」と思ってクスッと笑った後で、自分のATOKに誤って「担庵」と登録していたことが判明……うわああっ(滝汗)、本宅とブログの記事を一晩で修正した(^^ゞ。
明治三十五年十二月二十二日印刷・明治三十五年十二月二十五日発行。発行所・國光社。
著者の矢田七太郎について「在法科大學」とある。前書きによると、坦庵先生とは同郷で、坦庵先生のご子息英武氏が設立した韮山校の出身とか。ネットで軽く検索すると、外交官だったようだ。
漢文調に慣れないとしんどい。「大小相去る事遠しと雖も、伊豆は実に東海道の伊太利半島にして総房はバルガン[注・原文は「バルカン」ではなかった]の地、参遠二州はスペーン[注・これも「スペイン」ではなかった]、ポルトガルに相当るものとなすも不可なきを見る」という下りに、明治末期のヨーロッパ情勢を思って「ほほー」と思った。しかも、全体は漢語調なのに、「導星」という言葉に「ガイディングスター」とか「栄誉」に「プライド」とかルビを振ってたり、欧米の政治家の名前が引用されていたり、すでに読了した青少年向きの昭和初期の本『江川太郎左衛門』とは趣が違う……(汗)。
でも単なる偉人伝でなく面白いエピソードもある。奢侈取り締まりを厳しく行った(韮山で、ある女性が銀の簪を身につけていたら、問答無用で抜き取ったというエピソードあり)として、地元では「韮山様、お代官様」と聞けば泣く子も黙るとか、「韮山風が吹く」とおそれたとか(苦笑)。
明治末期にあって、なぜ江川坦庵公が広く知られていないかについて、5点にまとめている。
一、彼れが幕府の士なりし事、換言すれば薩長其の他の雄藩の如く、順境者、勝利者たるの地位に立たずして、敗者逆境者の中に在りしこと
二、彼れの死の比較的早かりしこと
三、地位底く[注・原文ママ]、大政に参するも常に局面に立たずして後庭《バックグラウンド》に在りしこと
四、彼れの生涯に同情を催す可き劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事、即ち変化《バライエティー》に乏しかったこと
五、門下親友の明治に残りしも単に砲術なるものの師弟の関係にして威風を発揚するものなきこと
昭和初期の修身教育向け読み物(『江川太郎左衛門』古見一夫)での評価よりは、馴染みやすい歴史観であるような(苦笑)。
この5点に加えるとするならば、国のためになる意見ははっきり言うけど自己宣伝になるような主張をしない方だったことも、佐久間象山や勝海舟と比べたら明治以降に名前が残りにくい理由だったかも。地方代官の家系の出身としては幕政に重んじられて異例の出世に近い扱いではあったけど、西洋通を嫌う幕臣鳥居耀蔵の暗躍もあって逼塞する時期もあり、幕閣や雄藩藩主に影響力を持った時期が短すぎたのが残念……そういう意味では決して「劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事」とは、白牡丹は思わないが。
いやむしろ、大河ドラマで一年かけて描いてくれないかなーと思える人物のひとりだ……タイトルは時代背景を込めて坦庵公の句作「里はまだ 夜深し富士の あさひ影」から『あさひ影』でいかがだろうか。地元韮山だけでなく、武蔵・相模・伊豆・東駿河・甲府の旧代官領全体でドラマ化運動を盛り上げてもらいたいなぁ(爆)。
天保の改革を進めた幕府老中水野忠邦との関係についての記述が面白い。
「垣庵[注・原文ママ]が父祖よりの職を襲ひ、代官に任じられしは天保六年乙未五月四日にして、時に年三十五、代官見習(文政七年)となりしより七年、幕府に於ては家齊将軍(文恭公)猶職に在り、酷烈無比なる剛愎漢水野越州を推挙して所謂天保の改革を断行せし時代とす。此の有名なる改革家が、多大の抱負と過分の自信と、少しく之れに伴はざる手腕を以て、抜擢されて老中となり、鋭意改革に着手したるは其の前年天保五年なりとす。坦庵の如何によく越州と気脈相通じ、肝胆相照したるか、如何によく越州の旨を奉じて、有力なる翼賛者として、強固なる補助者として働きしかを知らんとする前に、少しく水野の人物及び其の改革に就いて知る要ありとす」
ちなみに「天保六年五月四日」って、土方さんが生まれた日と伝承される天保6年5月5日の一日前じゃないですか……土方さんが生まれた日には、当地のお代官様は就任翌日だったと(笑)。
天保の改革を実行した水野忠邦についての評言をさらに一部引用する。
「……要するに彼れの手段の苛酷に失して些の余裕を残さるる、執拗の極、偏急に近くして人を容るるの寛量に乏しき、人を識るの明なく部下に陰険姦驕の酷吏多き、余りに野猪的にして盲目《ブラインド》なる、改革家としては彼れは幾多の欠点ある可しと雖も(以下略)」
うーむ、かなりボロカス(苦笑)。まぁ、「部下に陰険姦驕の酷吏多き」と「多い」と評価するのが正しいのかどうかは、まだわからんけど……鳥居耀蔵に追従する幕臣もいただろうからなぁ。
そして、その鳥居耀蔵について。
「大目付鳥居耀蔵は、――当時幕吏中の醜汚、姦黠[注・「かんかつ」と読むらしい]、陰険、頑迷、固陋、猜疑等有らゆる不潔分子の完全なる代表者として、保守主義の自力なるチャンピオンとして、ティピカル俗吏として、姦悪の化身《インカネーション》として、造化が特別念入りに製造せしかと怪しまるる彼、林家に出て、林大学頭の次男なる関係を以て少なからぬ勢力を振るえる彼、此の種の人の特長として、深く西洋進歩の新事物を嫌ひて、理非を問はず西洋舶来の物を厭悪して、其の実自らの立脚地なる儒学が支那より伝来の思想なるを忘れたる彼、江川坦庵の人物の朝野の間に重きをなせるを嫉み、其の蘭学者と親しむを悪み、坦庵を陥れんが為めには、如何なる手段をも採るも敢て辞せざる彼、――」
矢部定謙罷免(矢部は絶食して憤死)、蕃社の獄、高島秋帆投獄事件……まぁ無実の人に罪を着せて追放・投獄して政治的に葬り去ることを繰り返している政治家なので、水野忠邦以上にボロカスな評価になっても致し方ないかと(滝汗)。
幕末の蘭学者に「下町派」と「山の手派」があったということ。医学医術に専心しようとするのを「下町派」、医学医術の枠を越えようとするのを「山の手派」と呼んだようだ。
「忠実に己れの本業をのみ勉むる下町派に対し、山の手派と云ふ、下町派中最も顕はれたるものを宇田川玄真[注・芝蘭堂四天王筆頭、大槻玄沢の実質的後継者]、杉田立卿[注・杉田玄白の実子、眼科医として若狭小浜家に仕える]、坪井信道、岡研海等とし、山ノ手派中には高野長英、小関三榮[注・小関三英]、鈴木春山[注・医師・兵学者。著「三兵活法」「海上攻守略説」「西洋兵制」など]等手耳を執る、此の山ノ手派ノ同志相謀りて、都下知名の実学者を集合し、当世の要務を議論する目的を以て一の協会を組織す、尚歯会と名づく、三州田原の藩士渡辺崋山も来りて輔く所あり、諸侯の策簡中其の議題の重要なるものあれば、此の会に於て對議し以て間者に答ふ、衆皆其の経世に補益あるに服し、政務を問ふもの益々多く、尚歯会は隠然国家の政務に参与し、人智を開発するに至れり」
☆★☆★
坦庵公が、まだ微官であった鳥居耀蔵に初めて会った時の印象。
「坦庵の初めて鳥居耀蔵に面するや、私かに人に語りて曰く、彼れ一旦高官顕職に進むも、恐らくは終りをよくする能わざる可しと当時耀蔵未だ用ひられずして微官に居りし時なるを以て、人皆な終りを能くするとせざるとよりも、その顕位に登るや否やを疑ひしに、果して坦庵の言の如く、累進して勘定奉行となり、甲斐守に任じ、町奉行に転じ、一時権勢を極めしも、後ち譴を蒙り、改易預(改易は籍没、預けは諸侯に命じ其の國に禁錮せしむるを云ふ)となれり、人鑿識の高さに服す」
鳥居耀蔵は坦庵公を見くびっていたようだけど、坦庵公は鋭い人物眼を持っていた、と。
☆★☆★
文武両道にして和魂洋才、しかも驕らずおのれの高名を求めず、国の為に尽くした……この辺りが徳川幕府の臣であったにも関わらず、明治以降もの偉人として取り上げられた理由であるようだ。
「明治時代の理想的紳士は、人化して江川太郎左衛門となりより、吾人が今、日本固有の武士道の地に、泰西文明國の倫理思想を加味し、個人として、大夫として、人間として、吾人の脳裏に想像てふ書筆を以て、書き得可き最も完全なる人物を表はし出したりとせよ、則ち『江川坦庵』を想像し得たるなり」
「(中略)而も単に人物として、出処進退の巧妙なる、先見の明に富みて、鳥居一派の激しき嫉妬の熱点となりしも、遂に彼らの術中に陥らず、政略《ポリシー》ありて政略なきが如く、妙の極自然に帰して些かの剥痕を止めざる、体度の円満にして難点を見出しがたき、凡てこれ坦庵独壇の技量にして、他の起因す可からざる所なり」
坦庵公自らの思いについて、引用。
「彼をして更に自ら語らしめん乎、曰く『窮居して辛苦に耐え、野処して飢寒に狎る、笑ふに堪へたり身を謀るの拙なる、何んぞ国難に報ずるを忘れん、寸心人の識らざるも自ら許して丹より赤しとなす』と、丹心人の知るなきも可、赤誠世の認むるなきも可、卑官微位に居りて、空しく双腕を撫して海外を望むも亦た可なり、唯恐る、国難に報ずるも忠誠足らず、国事に尽すも思慮至らずして、倦怠萌し易く、不平生じ来りて、寸志丹の如く赤からざらんを、首を巡らせば苦心三十年、策用ひられず、議容れられず、言聴かれず、経国の大計空しく胸中に葬り終りて、『纔か[注・わずか]に学剣に因りて虚名を得』るも、何の不平かあらん、唯憂ふる処は、當塗要路の有司が、覚醒の期の晩くして、國患の耳目の間に迫り来るを悟らざるに在り、況んや陥穽前後に横はり、讒誣雨と降り、迫害潮と寄するも、何の意に介する処ぞ、『憶ひ看れば紛々たる世の情態、不平は却て受恩の人に発す、怒るを休めよ鬼葵燕麦生じ、点頭沈黙して幽情のこころよき[注・ATOKに漢字が入っているのだけど変換できない……りっしんべんにはこがまえ、中に『夾』、読みは『こころよ・い』]を』
坦庵公のキーワードのひとつでもある「丹心」を調べていたら、とても素敵な言葉に出会った。
へきけつ-たんしん 【碧血丹心】 このうえない真心の意。また、このうえない忠誠心のこと。▽「碧」は青の意。「丹心」は真心。赤心。
箱館戦争で戦死した旧幕府側兵士たちの鎮魂碑にも使われている「碧血」と「丹心」が一語となって存在しているとは。しかも「丹心」は「赤誠」にも通じる言葉だ。
碧血丹心、心にしみいる言葉だなぁ……座右の銘にしたい一言。
作中、「坦庵」が時々「垣庵」と思ってクスッと笑った後で、自分のATOKに誤って「担庵」と登録していたことが判明……うわああっ(滝汗)、本宅とブログの記事を一晩で修正した(^^ゞ。
明治三十五年十二月二十二日印刷・明治三十五年十二月二十五日発行。発行所・國光社。
著者の矢田七太郎について「在法科大學」とある。前書きによると、坦庵先生とは同郷で、坦庵先生のご子息英武氏が設立した韮山校の出身とか。ネットで軽く検索すると、外交官だったようだ。
漢文調に慣れないとしんどい。「大小相去る事遠しと雖も、伊豆は実に東海道の伊太利半島にして総房はバルガン[注・原文は「バルカン」ではなかった]の地、参遠二州はスペーン[注・これも「スペイン」ではなかった]、ポルトガルに相当るものとなすも不可なきを見る」という下りに、明治末期のヨーロッパ情勢を思って「ほほー」と思った。しかも、全体は漢語調なのに、「導星」という言葉に「ガイディングスター」とか「栄誉」に「プライド」とかルビを振ってたり、欧米の政治家の名前が引用されていたり、すでに読了した青少年向きの昭和初期の本『江川太郎左衛門』とは趣が違う……(汗)。
でも単なる偉人伝でなく面白いエピソードもある。奢侈取り締まりを厳しく行った(韮山で、ある女性が銀の簪を身につけていたら、問答無用で抜き取ったというエピソードあり)として、地元では「韮山様、お代官様」と聞けば泣く子も黙るとか、「韮山風が吹く」とおそれたとか(苦笑)。
明治末期にあって、なぜ江川坦庵公が広く知られていないかについて、5点にまとめている。
一、彼れが幕府の士なりし事、換言すれば薩長其の他の雄藩の如く、順境者、勝利者たるの地位に立たずして、敗者逆境者の中に在りしこと
二、彼れの死の比較的早かりしこと
三、地位底く[注・原文ママ]、大政に参するも常に局面に立たずして後庭《バックグラウンド》に在りしこと
四、彼れの生涯に同情を催す可き劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事、即ち変化《バライエティー》に乏しかったこと
五、門下親友の明治に残りしも単に砲術なるものの師弟の関係にして威風を発揚するものなきこと
昭和初期の修身教育向け読み物(『江川太郎左衛門』古見一夫)での評価よりは、馴染みやすい歴史観であるような(苦笑)。
この5点に加えるとするならば、国のためになる意見ははっきり言うけど自己宣伝になるような主張をしない方だったことも、佐久間象山や勝海舟と比べたら明治以降に名前が残りにくい理由だったかも。地方代官の家系の出身としては幕政に重んじられて異例の出世に近い扱いではあったけど、西洋通を嫌う幕臣鳥居耀蔵の暗躍もあって逼塞する時期もあり、幕閣や雄藩藩主に影響力を持った時期が短すぎたのが残念……そういう意味では決して「劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事」とは、白牡丹は思わないが。
いやむしろ、大河ドラマで一年かけて描いてくれないかなーと思える人物のひとりだ……タイトルは時代背景を込めて坦庵公の句作「里はまだ 夜深し富士の あさひ影」から『あさひ影』でいかがだろうか。地元韮山だけでなく、武蔵・相模・伊豆・東駿河・甲府の旧代官領全体でドラマ化運動を盛り上げてもらいたいなぁ(爆)。
天保の改革を進めた幕府老中水野忠邦との関係についての記述が面白い。
「垣庵[注・原文ママ]が父祖よりの職を襲ひ、代官に任じられしは天保六年乙未五月四日にして、時に年三十五、代官見習(文政七年)となりしより七年、幕府に於ては家齊将軍(文恭公)猶職に在り、酷烈無比なる剛愎漢水野越州を推挙して所謂天保の改革を断行せし時代とす。此の有名なる改革家が、多大の抱負と過分の自信と、少しく之れに伴はざる手腕を以て、抜擢されて老中となり、鋭意改革に着手したるは其の前年天保五年なりとす。坦庵の如何によく越州と気脈相通じ、肝胆相照したるか、如何によく越州の旨を奉じて、有力なる翼賛者として、強固なる補助者として働きしかを知らんとする前に、少しく水野の人物及び其の改革に就いて知る要ありとす」
ちなみに「天保六年五月四日」って、土方さんが生まれた日と伝承される天保6年5月5日の一日前じゃないですか……土方さんが生まれた日には、当地のお代官様は就任翌日だったと(笑)。
天保の改革を実行した水野忠邦についての評言をさらに一部引用する。
「……要するに彼れの手段の苛酷に失して些の余裕を残さるる、執拗の極、偏急に近くして人を容るるの寛量に乏しき、人を識るの明なく部下に陰険姦驕の酷吏多き、余りに野猪的にして盲目《ブラインド》なる、改革家としては彼れは幾多の欠点ある可しと雖も(以下略)」
うーむ、かなりボロカス(苦笑)。まぁ、「部下に陰険姦驕の酷吏多き」と「多い」と評価するのが正しいのかどうかは、まだわからんけど……鳥居耀蔵に追従する幕臣もいただろうからなぁ。
そして、その鳥居耀蔵について。
「大目付鳥居耀蔵は、――当時幕吏中の醜汚、姦黠[注・「かんかつ」と読むらしい]、陰険、頑迷、固陋、猜疑等有らゆる不潔分子の完全なる代表者として、保守主義の自力なるチャンピオンとして、ティピカル俗吏として、姦悪の化身《インカネーション》として、造化が特別念入りに製造せしかと怪しまるる彼、林家に出て、林大学頭の次男なる関係を以て少なからぬ勢力を振るえる彼、此の種の人の特長として、深く西洋進歩の新事物を嫌ひて、理非を問はず西洋舶来の物を厭悪して、其の実自らの立脚地なる儒学が支那より伝来の思想なるを忘れたる彼、江川坦庵の人物の朝野の間に重きをなせるを嫉み、其の蘭学者と親しむを悪み、坦庵を陥れんが為めには、如何なる手段をも採るも敢て辞せざる彼、――」
矢部定謙罷免(矢部は絶食して憤死)、蕃社の獄、高島秋帆投獄事件……まぁ無実の人に罪を着せて追放・投獄して政治的に葬り去ることを繰り返している政治家なので、水野忠邦以上にボロカスな評価になっても致し方ないかと(滝汗)。
幕末の蘭学者に「下町派」と「山の手派」があったということ。医学医術に専心しようとするのを「下町派」、医学医術の枠を越えようとするのを「山の手派」と呼んだようだ。
「忠実に己れの本業をのみ勉むる下町派に対し、山の手派と云ふ、下町派中最も顕はれたるものを宇田川玄真[注・芝蘭堂四天王筆頭、大槻玄沢の実質的後継者]、杉田立卿[注・杉田玄白の実子、眼科医として若狭小浜家に仕える]、坪井信道、岡研海等とし、山ノ手派中には高野長英、小関三榮[注・小関三英]、鈴木春山[注・医師・兵学者。著「三兵活法」「海上攻守略説」「西洋兵制」など]等手耳を執る、此の山ノ手派ノ同志相謀りて、都下知名の実学者を集合し、当世の要務を議論する目的を以て一の協会を組織す、尚歯会と名づく、三州田原の藩士渡辺崋山も来りて輔く所あり、諸侯の策簡中其の議題の重要なるものあれば、此の会に於て對議し以て間者に答ふ、衆皆其の経世に補益あるに服し、政務を問ふもの益々多く、尚歯会は隠然国家の政務に参与し、人智を開発するに至れり」
☆★☆★
坦庵公が、まだ微官であった鳥居耀蔵に初めて会った時の印象。
「坦庵の初めて鳥居耀蔵に面するや、私かに人に語りて曰く、彼れ一旦高官顕職に進むも、恐らくは終りをよくする能わざる可しと当時耀蔵未だ用ひられずして微官に居りし時なるを以て、人皆な終りを能くするとせざるとよりも、その顕位に登るや否やを疑ひしに、果して坦庵の言の如く、累進して勘定奉行となり、甲斐守に任じ、町奉行に転じ、一時権勢を極めしも、後ち譴を蒙り、改易預(改易は籍没、預けは諸侯に命じ其の國に禁錮せしむるを云ふ)となれり、人鑿識の高さに服す」
鳥居耀蔵は坦庵公を見くびっていたようだけど、坦庵公は鋭い人物眼を持っていた、と。
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文武両道にして和魂洋才、しかも驕らずおのれの高名を求めず、国の為に尽くした……この辺りが徳川幕府の臣であったにも関わらず、明治以降もの偉人として取り上げられた理由であるようだ。
「明治時代の理想的紳士は、人化して江川太郎左衛門となりより、吾人が今、日本固有の武士道の地に、泰西文明國の倫理思想を加味し、個人として、大夫として、人間として、吾人の脳裏に想像てふ書筆を以て、書き得可き最も完全なる人物を表はし出したりとせよ、則ち『江川坦庵』を想像し得たるなり」
「(中略)而も単に人物として、出処進退の巧妙なる、先見の明に富みて、鳥居一派の激しき嫉妬の熱点となりしも、遂に彼らの術中に陥らず、政略《ポリシー》ありて政略なきが如く、妙の極自然に帰して些かの剥痕を止めざる、体度の円満にして難点を見出しがたき、凡てこれ坦庵独壇の技量にして、他の起因す可からざる所なり」
坦庵公自らの思いについて、引用。
「彼をして更に自ら語らしめん乎、曰く『窮居して辛苦に耐え、野処して飢寒に狎る、笑ふに堪へたり身を謀るの拙なる、何んぞ国難に報ずるを忘れん、寸心人の識らざるも自ら許して丹より赤しとなす』と、丹心人の知るなきも可、赤誠世の認むるなきも可、卑官微位に居りて、空しく双腕を撫して海外を望むも亦た可なり、唯恐る、国難に報ずるも忠誠足らず、国事に尽すも思慮至らずして、倦怠萌し易く、不平生じ来りて、寸志丹の如く赤からざらんを、首を巡らせば苦心三十年、策用ひられず、議容れられず、言聴かれず、経国の大計空しく胸中に葬り終りて、『纔か[注・わずか]に学剣に因りて虚名を得』るも、何の不平かあらん、唯憂ふる処は、當塗要路の有司が、覚醒の期の晩くして、國患の耳目の間に迫り来るを悟らざるに在り、況んや陥穽前後に横はり、讒誣雨と降り、迫害潮と寄するも、何の意に介する処ぞ、『憶ひ看れば紛々たる世の情態、不平は却て受恩の人に発す、怒るを休めよ鬼葵燕麦生じ、点頭沈黙して幽情のこころよき[注・ATOKに漢字が入っているのだけど変換できない……りっしんべんにはこがまえ、中に『夾』、読みは『こころよ・い』]を』
坦庵公のキーワードのひとつでもある「丹心」を調べていたら、とても素敵な言葉に出会った。
へきけつ-たんしん 【碧血丹心】 このうえない真心の意。また、このうえない忠誠心のこと。▽「碧」は青の意。「丹心」は真心。赤心。
箱館戦争で戦死した旧幕府側兵士たちの鎮魂碑にも使われている「碧血」と「丹心」が一語となって存在しているとは。しかも「丹心」は「赤誠」にも通じる言葉だ。
碧血丹心、心にしみいる言葉だなぁ……座右の銘にしたい一言。
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柚といいます。
歴史の事とか凄く詳しくてまとまり(?)も解りやすいです。
実は去年の土方歳歳三の自由研究に利用させて頂きました。
それで突然なのですが、江川家の家系図の載った本やサイトをご存じないでしょうか?
私の祖母が江川太郎左衛門(江川英龍、江川家)の分家の分家の分家の分家…〈←もはや他人w〉だと言って聞かないのです。
本とか家系図に祖母の名が載ってるとか思えないですが、大阪、近畿に来ている江川家の人間はいるのか?と気になってます。
もしも、知って居られたらぜひ教えて下さい。
乱文、長文失礼いたしました。
> 歴史の事とか凄く詳しくてまとまり(?)も解りやすいです。
> 実は去年の土方歳歳三の自由研究に利用させて頂きました。
それは汗顔の至りでございます……素人の読書メモ、感想文でしかありませんので(^^ゞ。
> それで突然なのですが、江川家の家系図の載った本やサイトをご存じないでしょうか?
サイトで家系図を見たことはありません……本では、絶版になっていないといいのですが、下記の本で系図を見ています。
『江川坦庵』仲田正之(吉川弘文館 人物叢書)
ただ、この本に掲載されているのはあくまでも江川本家の血筋のみで、分家まではわかりません。江川氏は幕府の地方代官でしかないので「分家」があるとは考えにくいのですが……嫡男以外の男子が他家に養子に行ったとか、女性が他家に嫁いでいったとか、そういう意味でしょうか。
また、ご存じかと思いますが、近代以降でないと女性は「女」としか表記されていませんので、この系図ではご祖母様の名前は確認できません(汗)。
あまりお力にはなれていませんが、存じている範囲でお答えしました。
……すみませんっ、上記の返信にてお名前を「紬」さんと謝ってしまいました。
ここに訂正させていただきますm(__)m、平伏。
> お名前を「紬」さんと謝ってしまいました。
正しくは「誤ってしまいました」ですね……焦って投稿したために変換ミスに気づきませんでした。
柚さん、失礼致しました。ご寛恕いただければ幸いです。
訂正コメントが入って読みづらいのをご容赦ください。江川家の家系図について追記です。
英龍(第36代、坦庵公)の直系男子の子孫については、22時34分に書き込んだコメントにご紹介した本に掲載されています。第38代英武(坦庵公の子、第37代英敏の末弟)の系譜については、直系子孫は娘さんも名前が掲載されていますが嫁ぎ先の家系までは掲載されていません。
英龍には娘もいたと思います(江川家の所蔵物の中に、娘に与えた文箱が残ってます)が、残念ながら、この系図には書かれてません。
ご存じかと思いますが、嫡男の家系のみしか残されていない(公開されない)ことが多いですからね……。
お役に立ててませんが、追加情報として。
変換ミスとかは気にしないでください。
それに、私も 土方歳歳三 って書いちゃってましたし。。。
本は図書館で探してみます。
実は先ほど祖母に電話でもう一度ちゃんと聞いてみようとしたのですが、祖母もよく知らないそうで、祖母の母、私から見た曾祖母に昔聞いただけとかで……
とりあえず、曾祖母の家系をさかのぼれる(名前の分かる)あたりまで調べてみます。
英龍の名を出して「パンを日本で初めて作った人」だ。
と教えられたそうなので、嫡男以外の男子が他家に養子に行ったとか、女性が他家に嫁いでいったとか、そういう意味だと思います。
でも、きっと縁があれば解るでしょうし、天国で曾祖母に聞いてみるのも楽しいかも知れませんね。
でわでわ、いろいろとお手数をかけました。
本当にありがとうございました。
> 本は図書館で探してみます。
何か手がかりがつかめるといいですね。
江川坦庵公のご縁について何かわかりましたら、またこちらにお書き込みいただければ幸いです。
でわ、ご報告させて頂きます……と言いたいところなのですが、たぶん本腰入れて調べるのは夏休みに入ってからになると思います。
解るまではもっとかも…
ですので、すご~く気長に待っていて下さい。
では、また書き込みさせて頂きます。
失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
> でわ、ご報告させて頂きます……と言いたいところなのですが、たぶん本腰入れて調べるのは夏休みに入ってからになると思います。
了解しました。気長にお待ちしております。
ちなみに、書籍がどこの図書館に入っているかを調べるにはWebcat Plusというサイトがお勧めです。書名や著者名のあいまい検索だけでなく、キーワード連想をしてくれるので、かなり広汎に探せます。
http://webcatplus.nii.ac.jp/
すでにご存じでしたら余計なお節介ですが、お役に立てば幸いです。