新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ヤネセン散歩の話題ふたつめです。幕末つながりなので、カテゴリーを「幕末よもやま話」に。
谷中霊園に行ったのは初めてでした。高橋お伝と雲井龍雄と川上音二郎の墓が並んでいるという不思議ワールド……(汗)。
「徳川慶喜の墓」という案内表示が出ていました。英語で案内表示もある……(@_@)。
そして、大正2年に亡くなった、徳川最後の将軍、徳川慶喜の墓所がありました。
改築中なのか一部をシートで囲まれてましたが、鉄の柵と門でしっかり囲まれた一角。内部は公開されていませんが、外から様子を見ることができます。
☆★☆★
そこに、待ちかまえたように、ボランティアガイドらしき方が出てきて、話しかけてくれました。
その方から伺った話を順不同でざくっとご紹介します。
・ 慶喜の墓所の土地は都立谷中霊園のものではなく、上野寛永寺のものである(実際、東京都教育委員会の史跡解説板には「寛永寺内」とありました)。ネット上ではよく「谷中霊園」「谷中墓地」内とされているが、慶喜の墓所はじめ徳川家関係者の墓所は寛永寺の飛び地である
・ 慶喜、正室美賀子の墓所は墳墓の形をしているが、これは神道の形式の墓。それも慶喜が出身であるところの水戸徳川家の伝統によるものだ
・ 慶喜は、最後の将軍として、死後は寛永寺に埋葬されることを望んだ。しかも、水戸徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、自分は朝廷に刃向かうつもりはまったくなかったのだということを示すためにも、神式で埋葬されることを望んだ。
・ しかし、天台宗のお寺である寛永寺に、神式で墓を建てることが歓迎されるわけもない(神仏分離がなされた後ですし)のはわかっているので、生前に寛永寺に土地を確保させておいた。そして、遺言で神式の墓を造成させた。
・ 神式の墳墓は、自分は朝敵ではないという慶喜の自己主張である。
・ 寛永寺にとっては迷惑以外の何ものでもないので、徳川慶喜公の墓所は寛永寺の土地であるとは大きな声で言っていない。
……という内容でした。
☆★☆★
たとえばwikipediaの徳川慶喜の項目には渋沢栄一『德川慶喜公伝』に言及して、以下のように書かれています。
『徳川慶喜公伝』は未読ですが……ご本人が亡くなってから元家臣が故人の顕彰のために書いた本ですし、明治維新後に成立した国家体制を是とした上で徳川慶喜の過去の言動を意味づけようとする意図があっただろうとか、出版意図や時代背景も理解しておく必要があるだろうなと思います。
☆★☆★
ボランティアガイドさんの説は、『慶喜公伝』の内容より、ずっと生々しいというか、生臭い慶喜公の像がイメージできて、とても面白かったです。鳥羽伏見の戦いで負けた後に家臣たちを置いてさっさと江戸に戻ってしまった行動を振り返り、このお墓を見ながら「あ、明治大正を経ても、この人はこういう人だったんだ……と、腑に落ちてしまったというか(汗)。
☆★☆★
谷中霊園の後はJR山手線・京浜東北線を渡って反対側の根岸方面に出たのですが、羽二重団子のお店近辺に史跡案内板がありました。その中で、この一帯は上野戦争で敗れた彰義隊らが脱出して潜伏したと解説されていました。
寛永寺で謹慎して恭順した慶喜公。その寛永寺を最後の砦として戦い、あえなく散っていった、あるいは命からがら落ち延びていった彰義隊の兵士たち。
様々な人の運命を呑み込み押し流していく時代の奔流を感じずにはいられませんでした。
谷中霊園に行ったのは初めてでした。高橋お伝と雲井龍雄と川上音二郎の墓が並んでいるという不思議ワールド……(汗)。
「徳川慶喜の墓」という案内表示が出ていました。英語で案内表示もある……(@_@)。
そして、大正2年に亡くなった、徳川最後の将軍、徳川慶喜の墓所がありました。
改築中なのか一部をシートで囲まれてましたが、鉄の柵と門でしっかり囲まれた一角。内部は公開されていませんが、外から様子を見ることができます。
☆★☆★
そこに、待ちかまえたように、ボランティアガイドらしき方が出てきて、話しかけてくれました。
その方から伺った話を順不同でざくっとご紹介します。
・ 慶喜の墓所の土地は都立谷中霊園のものではなく、上野寛永寺のものである(実際、東京都教育委員会の史跡解説板には「寛永寺内」とありました)。ネット上ではよく「谷中霊園」「谷中墓地」内とされているが、慶喜の墓所はじめ徳川家関係者の墓所は寛永寺の飛び地である
・ 慶喜、正室美賀子の墓所は墳墓の形をしているが、これは神道の形式の墓。それも慶喜が出身であるところの水戸徳川家の伝統によるものだ
・ 慶喜は、最後の将軍として、死後は寛永寺に埋葬されることを望んだ。しかも、水戸徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、自分は朝廷に刃向かうつもりはまったくなかったのだということを示すためにも、神式で埋葬されることを望んだ。
・ しかし、天台宗のお寺である寛永寺に、神式で墓を建てることが歓迎されるわけもない(神仏分離がなされた後ですし)のはわかっているので、生前に寛永寺に土地を確保させておいた。そして、遺言で神式の墓を造成させた。
・ 神式の墳墓は、自分は朝敵ではないという慶喜の自己主張である。
・ 寛永寺にとっては迷惑以外の何ものでもないので、徳川慶喜公の墓所は寛永寺の土地であるとは大きな声で言っていない。
……という内容でした。
☆★☆★
たとえばwikipediaの徳川慶喜の項目には渋沢栄一『德川慶喜公伝』に言及して、以下のように書かれています。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。これは孝明天皇の陵墓が質素であることに感動したためである
『徳川慶喜公伝』は未読ですが……ご本人が亡くなってから元家臣が故人の顕彰のために書いた本ですし、明治維新後に成立した国家体制を是とした上で徳川慶喜の過去の言動を意味づけようとする意図があっただろうとか、出版意図や時代背景も理解しておく必要があるだろうなと思います。
☆★☆★
ボランティアガイドさんの説は、『慶喜公伝』の内容より、ずっと生々しいというか、生臭い慶喜公の像がイメージできて、とても面白かったです。鳥羽伏見の戦いで負けた後に家臣たちを置いてさっさと江戸に戻ってしまった行動を振り返り、このお墓を見ながら「あ、明治大正を経ても、この人はこういう人だったんだ……と、腑に落ちてしまったというか(汗)。
☆★☆★
谷中霊園の後はJR山手線・京浜東北線を渡って反対側の根岸方面に出たのですが、羽二重団子のお店近辺に史跡案内板がありました。その中で、この一帯は上野戦争で敗れた彰義隊らが脱出して潜伏したと解説されていました。
寛永寺で謹慎して恭順した慶喜公。その寛永寺を最後の砦として戦い、あえなく散っていった、あるいは命からがら落ち延びていった彰義隊の兵士たち。
様々な人の運命を呑み込み押し流していく時代の奔流を感じずにはいられませんでした。
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いろいろ詳しい人でした。
勝海舟の養子(実は慶喜の十男)のお墓もすぐそばにあると教えてもらいました。
> 勝海舟の養子(実は慶喜の十男)
これまた、慶喜と勝海舟の複雑な関係を考えさせるものですね。
『上野~日暮里探索その3 谷中霊園』(http://sns.orahonet.jp/blog/blog.php?key=10564)に書きましたので、どうぞご覧ください。
調べたところ、「台東区ボランティアガイド」(http://www.ueno.or.jp/spot/spot_09.html )があるようですので、再訪されるのでしたら、事前に予約して行かれると良いと思います。
慶喜公については、『ジコマンの旅④・水戸 その1』(http://sns.orahonet.jp/blog/blog.php?key=9929 )や『上野東照宮の寒牡丹 その2』(http://sns.orahonet.jp/blog/blog.php?key=9406 )にも書きましたので、お読みいただけると幸甚です。
次回、谷中の墓地周辺を散歩する時に参考にさせていただきます。