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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 いつも冒頭に一言書くのですが、「ヤネセン散歩」と称して2本記事を書いたら、ネタ切れになってしまった(汗)今日です。
 

北海道
函館開港150周年 小林亜星さん作曲の記念ソング初練習
 函館開港150周年を記念して、函館市が作曲家の小林亜星さんに依頼した記念ソング「あれから そして今」が完成。7月1日の記念式典などでの披露に向けて13日、市芸術ホールで初練習が行われた。函館合唱連盟の会員が、同会理事長の大坂吉明さんの指揮で音を合わせた。
 歌は「新しい函館の歌」をテーマに、市民から函館の歴史や思い出にまつわる言葉を募集した。これを歌詞に編集し、小林さんが混声4部合唱に作曲した。式典当日、合唱に参加するのは同連盟に加盟している約15団体の約220人。練習はこの日を含めて4回で、初回は約140人が参加した。
 同事業実行委総合プロデューサーの岩堀恭一さんは「後世に残るような曲にしたいと考えた」と説明。大坂さんの指示で、パートごとや全体での音確認を繰り返した。練習後、大坂さんは「親しみやすい割に変化があり、中身の濃い合唱曲だと感じた。歌い手にとって充実感があるので、当日が楽しみ」と話した。
 最終回となる30日の練習には、小林さんも同席する予定。



東京
明治維新 金座跡に建つ「金融センター」

 かつての金座を仕切った後藤家の屋敷があった「本町1丁目」は、現在の日本橋本石町にあたる。日銀の本店の所在地だ。現在の旧館の建築中には、土中から多くの金粒が出てきたとのうわさもたった。
 富士山がよく見えたため、この界隈(かいわい)は昭和7(1932)年ごろまで駿河町と呼ばれた。近くには日本橋魚河岸があり、活気のあふれる商業の町だった。また、金座に近いため、後に銀行となる両替商も軒を連ねていた。
 明治初期のこの町の風景を描いた錦絵からは、文明開化の中で活気にあふれる庶民の生活ぶりと、駿河町が商業と金融の中心地として発達していく様子など、近代国家の息吹が感じ取れる。
 明治5(1872)年12月には国立銀行条例が公布され、近代的な銀行制度が誕生。国立銀行設立が相次ぎ、明治12(1879)年には全国で153行まで増えた。明治政府や国立銀行が発行した不換紙幣が大量に増えるなか、西南戦争の戦費調達で貨幣供給量が増大し、深刻なインフレに見舞われた。
 明治15(1882)年10月、これらの諸問題を解決するために、中央銀行である日本銀行が設立された。設立当初は隅田川にかかる永代橋のたもとの現在の日本橋箱崎町に拠点を構えたが、場所が不便だったことから、現在の場所に新築移転した。
 旧館の設計者は、東京駅のレンガ造り駅舎などを手がけた辰野金吾博士。明治維新当初、国内の様式建築設計は外国人建築技師に頼っていたが、辰野博士は工部大学校を明治12(1879)年に卒業して、日本最初の建築家の一人となった。
 日銀の設計にあたって辰野博士は、海外視察で目にしたベルギーの中央銀行をモデルにネオバロック様式の西洋式建物を採用。明治23年9月に着工し、29年2月に完成した。地下1階、地上3階建ての石積みレンガ造りで、威風堂々とした建て構えを誇った。
 完成翌月に開かれた落成祝賀会は、皇族をはじめ各国大使など約1800人が招待され、万国旗がはためく中、盛大に祝われたという。その後も多くの見物客が訪れ、周辺はさながら観光地と化したという。
 大正12(1923)年に発生した関東大震災では、周辺の建物が倒壊被害に見舞われる中、堅固なつくりの旧館は傾くこともなかった。ただ、破れたガラス窓から周辺の火の粉が建物内に入り火災が発生。必死の消火作業で消し止められたが、2階以上の内部はかなりの部分が消失した。
 大火の翌日も窓口を開き、中央銀行としての機能を中断させることはなかったという。当時も、金融システムの維持がいかに重要な指名だったかがうかがえる。


奈良
幕末制作の鏡板90年ぶり背景に
宇陀・あきの蛍能

 宇陀市大宇陀区迫間の阿紀神社の能舞台で13日、第17回「あきの蛍能」(あきの蛍能保存会など主催)が催され、数百匹のゲンジボタルが舞う幻想的な光景が観客を魅了した。
 舞台は午後6時30分、浦田親良さんの仕舞「清経」で始まり、茂山宗彦さんらが狂言「飛越(とびこえ)」を披露。浦田保親さんらの能楽「田村」の中入りで、明かりが消えた舞台に蛍が放たれた。
 地元では17年前、江戸時代から大正まで続いた同神社の「薪能」を復活。第3回公演から原野悦良・元大宇陀観光協会長が養殖した蛍を放ち、名前も「蛍能」と改めた。今回は、神社の蔵にあった江戸時代末期の作で、老松を描いた舞台背景の「鏡板」を約90年ぶりに使った。
 保存会の太田三千男会長は「鏡板が舞台に彩りを添え、鼓の音も一段とさえ渡った。気をもんだ蛍の羽化も間に合った。住民ぐるみで伝統文化を守りたい」と話している。


山口
玖珂隕石と郷土史を小説に
 「玖珂隕石(いんせき)に光を当てる会」代表の清水秀登さん(72)=周南市呼坂=が、河村秀のペンネームで小説「隕(お)ちてふたたび」を自費出版した。1938年に現在の岩国市周東町川越地区で発見された玖珂隕石と、地区の歴史を絡ませて物語を紡いだ。
 小説は、隕石の発見をきっかけに発足した会の研修旅行を通じて、戦国時代に中国地方で勢力争いを繰り広げた毛利、大内、尼子氏の動きを浮かび上がらせている。
 川越地区には毛利氏の奉行を務めた井上氏の墓があり、その盛衰も紹介。子孫は幕末に活躍した元勲の井上馨と「日本鉄道の父」と呼ばれる井上勝につながる、としている。
 タイトルは、隕石の落下と、一度毛利氏に粛清されながらも復活した井上氏の姿に、清水さん自身の人生などを重ね合わせて付けた。



福岡
知りたい:宮若の福岡藩犬鳴御別館とは /福岡
◇藩主幽閉の場所説も
 「福岡藩最後のお城」といわれる城が宮若市犬鳴の山中にあった。「犬鳴御別館」。開国と近代化で国中が揺れ動いた幕末。有事の際に藩主をかくまう「逃げ城」とされてきたが、近年になって「藩内の反藩主派が藩主を幽閉するために造ったのではないか」との説が浮上している。【入江直樹】

 宮若市から久山町に抜ける犬鳴峠。その山中にある犬鳴ダム沿いの道を上流方向へ車を走らせること5分。車両進入禁止の柵の脇で車を降りて約200メートル歩くと、生い茂る木々の緑の間から古ぼけた石垣が見える。御別館跡地だ。
 福岡藩の居城・福岡城(現・福岡市中央区)は海に近い平山城で、開国を求める列国艦隊の砲撃への防備に不安があった。藩家老、加藤司書は「逃げ城」を造るよう藩主・黒田長溥に意見具申。1865(慶応元)年に着工した。
 当時藩内では親幕府の佐幕派と反幕府の勤皇派の勢力争いが激化。加藤は勤皇派トップだったことから、佐幕派から「藩主を山奥に幽閉し、クーデターを起こすつもりだ」と疑われて同年、数十人の腹心とともに切腹させられた。大政奉還の2年前だった。
 佐幕派の陰謀--。加藤ら勤皇派への弾圧は、長らくこう見られ、加藤らに対する同情も生まれたという。
 しかし、ここにきてクーデター計画は事実とする説が研究者の間で語られ始めたのだ。近年見つかった御別館の見取り図から、玄関らしい玄関がないことが判明し、城としては極めて不自然だからだ。築かれた場所も加藤が以前から製鉄所を開いていた近くで、周辺の地理に詳しかったこともクーデター疑惑の根拠の一つという。
 結局、有力藩の一つだった福岡藩は佐幕派が権力を掌握し、明治新政府樹立の中心になった薩摩・長州両藩とは対照的に影が薄れていく。御別館もそれを象徴するかのように1884(明治17)年に暴風雨で倒壊した。
 長年研究を続けている「福岡藩犬鳴御別館市民の会」事務局長の小方良臣さん(59)は「事実はまだよく分からないが、福岡藩が明治維新に乗り遅れたのは事実。両派どちらが悪いとは言えず、いつの時代も政争の常だ」と話す。

   ◇     ◇

 最近、御別館の建物とみられる一部が近くの民家や寺などに再利用されているのが分かった。築約160年の古民家を改装した温泉旅館「湯原荘」では客室を仕切る板戸や書庫兼作業部屋の畳床が御別館のものだと伝えられる。板戸には墨で桜や松などが描かれ、宿泊客に限って公開している。
 小方さんは「新撰組や坂本龍馬などが活躍した同じ時代に身近なところでもドラマがあった。石垣を整備し、将来は建物を復元して、多くの人に知ってほしい」と語った。

 佐幕派と反幕派(「佐幕vs勤王」という対立軸そのものがどうも自分にはしっくり来ないので、仮にこう書きます)の抗争はあちこちの藩で起こってますが、こうして具体的な事例を知ると生々しいなぁ……。


コラム
景気は「木」から 繁盛願う風刺マンガ
 富や経済繁栄への願いを込めた「金のなる木」の錦絵は、貨幣が庶民に浸透するようになった江戸時代から明治時代に至るまで、数多く描かれてきた。その絵を見ると、昔から庶民が景気と貨幣をしっかりと関連づけていたことが、うかがえる。
 江戸時代になると、庶民の間で、金銭的な豊かさが幸せの一つとしてとらえられるようになった。年の初めになると、庶民は七福神の描かれた錦絵のほか、縁起もよい「金のなる木」の錦絵を買い求めたという。
 著名な浮世絵師の手による、デザイン的にみても優れた作品が多い。
 三代・広重による「樹上商易諸物引下図」は、幕末の物価高騰に悩む庶民の困惑を描いている。庶民が「金のなる木」の枝に高くひっかかった食料品や生活品を地上に落とそうと躍起になっている様子には、物価安定への願いが込められている。
 ちなみに、絵に描かれたコメや紙といった品目は、現在の消費者物価指数の算定対象品と共通しているものが多いという。
 「富世道外遊」は、幕末に貨幣の流通が混乱した様子を描いた錦絵。当時、寛永通宝などが不足したため、幕府は従来の銅製に加えて鉄製の一文銭も鋳造して流通させた。その結果、「銅一文銭1枚=鉄一文銭4枚」といった二重貨幣の相場が形成される事態になった。貨幣が相撲を取る様子は、開港以降の幕府による改鋳政策の混迷を非難しているようにもみえる。
 明治時代になると、錦絵の雰囲気も変わってくる。日銀金融研究所の藤井典子さんは「世論を代弁し、庶民の政治的なメッセージも描き込まれるようになった」と話す。
 明治17年に描かれた「不景気(木)」などは、現代の風刺マンガさながらだ。金融が不景気の原因であることを庶民が熟知していたことが、よく分かり、庶民の経済知識レベルが、非常に高かったことを裏付けている。
 新聞などがまだ広まっていない当時、錦絵は庶民にとって、ある種のマスメディアの役割も果たしていたようだ。






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