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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日の『スタジオパークからこんにちは』に『陽炎の辻 居眠り磐音江戸草紙』の原作者、佐伯泰英さんが出演されていました。
 佐伯さんとは、もう20年ほど前になりますが、スペイン情勢に詳しいノンフィクションルポライターだった時にお会いしたことがあります。まさか20年後には時代劇小説の人気作家になってらっしゃるとは当時は思いもしませんでしたが、一度でも面識のある方が元気でご活躍されているということを目の当たりにするのは嬉しいものです。

山形
町創設者 九蔵の墓参果たす 北爪家 子孫とも対面
 400年前の町の創始者・北爪九蔵の供養を鶴岡で実現―。群馬県高崎市にある九蔵(くぞう)町の住民有志が18日、町名の由来となった北爪家の墓地がある鶴岡市陽光町の総穏寺を墓参に訪れた。北爪家の子孫との“400年ぶりの再会”も果たした一行は「これまで抱いていた思いが同時にかなって感激した」と話していた。

 九蔵町区長の石橋輝治さんらによると、北爪九蔵は江戸初期、高崎藩主・酒井家次に従い「大阪夏の陣」(1615年)に出陣、大阪城一番乗りを果たし酒井家の旗を城内に立てたという。この戦功で家次から高崎城下に町を与えられ、これが九蔵町の始まりとなった。

 家次は大阪の陣の功績で5万石の高崎藩から10万石の越後高田藩主となり、家督を継いだ忠勝が信濃松代藩を経て庄内に入部。九蔵も藩主に従い高崎、高田、松代を経て庄内に移った。その後、北爪家は庄内藩の家臣として幕末まで酒井家に仕えた。

 江戸初期の町名が現在まで続く九蔵町は、独自に「町誌編さんだより」を発行して町の歴史の考察に力を入れている。そうした中で町のルーツを探る北爪九蔵研究会が生まれ、以前から明らかになっていた九蔵の墓のある鶴岡への訪問を計画。併せて九蔵の子孫捜しを進め今年9月、青森県八戸市在住の北爪政征さん(65)にたどりついた。

 九蔵の墓参に訪れたのは、石橋区長ら九蔵町の60―70代の住民など同研究会メンバー17人。一行は総穏寺で、八戸市から駆けつけた北爪さん夫妻と合流し、町の創始者の北爪家と町民が400年の時を超えて再会を果たし、北爪家の墓に花や線香を供え、江戸初期に成立した九蔵町の現在の姿などを報告した。九蔵の墓参に先立ち、高崎藩主でもあった家次がまつられている鶴岡市家中新町の大督寺にある酒井家墓所も訪れた。

 九蔵町は、明治初期に群馬県内で最初の銀行とされる第二国立銀行高崎支店が開設され、昭和初めには高崎商工会議所が設置されるなど商都・高崎の中心の一角を担った。九蔵の屋敷内にあった「九蔵稲荷」は現在も地区の鎮守として祭られ、住民たちが毎年11月15日に例祭を開いている。

 九蔵の墓参を果たした区長の石橋さんは「九蔵町は400年前に開かれた伝統のある町。その創始者の北爪九蔵の墓参りとともに、子孫の方とも対面でき、念願がかなった。善政を敷いた酒井公の功徳が、この日につながったのだとしみじみ感じた」と話した。

 高崎市に先祖の名を冠した町があることを今回初めて知ったという政征さんは「先月、研究会の方から自宅に電話をいただき、経緯を聞いて驚いた。同時にうれしくなった。九蔵町の方々から墓参していただき、祖先の良い供養になった」と感慨深そうに話していた。

 18日に庄内を訪れた研究会のメンバーは2泊3日の日程で、酒田市の本間家旧本邸、南洲神社、鶴岡市の旧藩校致道館、致道博物館、松ケ岡開墾記念館などを見学して庄内藩の歴史に触れ、20日に帰途に就いた。



福島
河井継之助をしのび62キロサイクリング
 会津坂下青年会議所の奥会津魅力発見サイクリングは19日、只見町の河井継之助記念館から会津坂下町のJR会津坂下駅まで約62キロのコースで行われた。

 参加者は会津を目指した河井の思いを考えながら秋の奥会津を自転車で疾走した。

 戊辰戦争140年を記念し、幕末に長岡藩家老を務めた河井継之助をしのんで企画。

 戊辰戦争の敗戦により長岡城下(現在の新潟県長岡市)から会津を目指したが、只見町で亡くなった河井の思いを胸に、約20人が河井に代わって自転車で只見町から会津盆地を目指した。


群馬
小栗上野介と幕末維新の高崎 高崎市歴史民俗資料館
 日本近代化の父とも言われ、幕末、米国から持ち帰ったねじを横須賀造船所などの建設に多用した幕臣、小栗上野介忠順の資料が、高崎市歴史民俗資料館(群馬県高崎市上滝町1058番地、電話027-352-1261)で11月24日まで開催されている「小栗上野介と幕末維新の高崎」で見ることができる。


 小栗上野介忠順は日本の近代化へのレールを敷いた「日本近代化の父」と言われている。遣米使節目付として海を渡った小栗上野介忠順が米国より持ち帰った土産の中に「ねじ」があった。小栗は、のちの日本の近代化、工業化の第一歩を踏み出す立役者となって、横須賀造船所建設など“鉄”を根底にしたインフラ社会の構築へと取組み、同時に物と物を締結する部品としてねじが多用されていった。ほかにも日本初の株式会社設立、郵便制度・鉄道の提唱など活躍をみせている。

 [特集/小栗上野介忠順 幕末、米国から持ち帰ったねじ]

 展示会では慶応4年閏4月に小栗上野介忠順の養嗣子の「又一忠道(またいちただみち)」と従者3人が、高崎で斬首された高札を記録した柴田家旧蔵「日記 第弐番」の一部などが公開されている。開催概要は次の通り。

【開催概要】
▽会期:平成20年10月1日(水)~11月24日(月)まで
▽休館日:月曜日(祝日の場合は翌日休館)
▽開館時間:午前9時~午後4時
▽入館無料
▽ホームページ http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/rekimin/oshira.htm

 ねじ業界紙のニュースからです。そういえば小栗上野介を主人公に描いたマンガ『天涯の武士』でも、ねじは効果的な小道具として最後の場面まで登場しましたっけ。





滋賀
浮世絵 そば名産にヒント
守山市民が会設立

 そば打ちを通じて守山市をPRしようと、地元の有志らが「守山宿だるまそばの会」を設立した。幕末の浮世絵師・歌川国芳が、守山宿に来た達磨(だるま)大師がそばを食べている姿を描いていることにちなんだ地域興し組織で、「新たな守山の名物を」と意気込んでいる。

 同宿でそば打ちが行われていたことを示す史料こそないが、国芳の「木曽街道六十九次」の1枚で、大師が山盛りそばをほおばっている。地名から連想してそうした図柄を考案したとの説もあり、数年前から、同市の旧中山道沿いの中央商店街婦人会などがこの絵にならい、イベントなどの際「だるまそば」と名付けたそばを振る舞ってきた。

 同市には全国に知れわたる名産品が少なく、婦人会の活動を知った住民らから「そばを本格的に名産にしてはどうか」との声が上がった。中山道守山宿歴史保存会の川端美臣さん(64)や松永之和さん(54)らが中心となり、「だるまそばの会」の設立準備を進めてきた。

 今後、約20人の会員が月1回程度、そば打ち練習をするほか、イベントなどで市民を対象にそば打ち体験などを実施する予定。会長に就任した松永さんは「眠っている歴史の素材を掘り起こし、名産として発信したい」と力を込め、川端さんは「いずれ、実の栽培からそば打ちまでを一貫して行い、『守山のそば』としてブランド化できれば」と話している。問い合わせは中山道街道文化交流館(077・583・3503)。


京都
学生の応募激減なぜ 京都時代祭の行列バイト異変
 歴史絵巻を思わせる華麗な装束行列で知られる京都の時代祭の「足元」で異変が起きている。行列の担い手となるアルバイト学生の応募が激減し、主催者が地域でボランティアを募る試みも始まった。講義への出席を重視する大学の方針や学生気質の変化が理由のようだが、「学生の街ならではの伝統がすたれるのは寂しい」との声も上がる。

 113年前にスタートした時代祭は、約2千人が時代ごとに行列をつくって都大路を練り歩く。今年も22日に開催される。

 戦前は、荷物を持って付き従う役などに近郊の労働者が雇われたが、戦後は学生がアルバイトで参加するようになった。8時間半ほどで日当6700円。主催者の平安講社が毎年10月初旬になると、京都、同志社、立命館など地元の大学に募集掲示を出し、約600人が応募してきた。

 ところが、数年前から変化が見え始めた。かつては「応募が始まると、窓口に行列ができた」(同志社大)ほどだったが、祭りの直前まで定員に満たないようになった。

 講社本部の場合、昨年は求人150人に対し応募は祭りの3日前でやっと約80人。あわてて三重県の皇学館大学などにも応援を仰ぎ、ようやく人手をそろえた。今年は例年より早く9月下旬からに募集を始め、今月17日現在で本部では110人にこぎつけたが、「応募は求人の6割程度」(京都大)という所も。

 人気低落の理由はさまざまだ。最近は大学が欠席に厳しくなったことや、アルバイトの多様化を挙げる声が多い。京都大で募集掲示を見ていた3回生の赤星翔太さん(21)は「僕は大抵情報誌でバイトを探す。掲示に気づかない人も多いのでは」と話す。

 学生に頼らず、地域で祭りを支える動きも出てきた。北区や上京区の住民でつくる「平安講社第1社」は5月頃から、平安期の公卿(くぎょう)の姿を再現した「延暦文官参朝列」を担うボランティアを募集。地域や地元企業に声をかけたところ、「ぜひやってみたい」などと希望する人が相次ぎ、必要な計32人が集まった。

 今回限りの試みだが、第1社の当番を務める石崎伊佐雄さん(61)は「地域のつながりが広がれば、祭りも盛り上がる」と話す。

 5月の葵祭でも参加者の3分の1に当たる約170人を学生アルバイトに頼ったが、定員に達したのは祭りの直前だったという。7月の祇園祭でも、京都大が06年を最後に学内で山鉾(やまほこ)巡行のアルバイトを募集しなくなった。一方で、ボランティア組織の活動が年々活発になり、今年は過去最多の600人が32基の山鉾のうち21基の巡行を担った。

 葵祭や時代祭の運営にかかわってきた猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(70)は「時代祭が市民参加型になるのはいいことだが、祭りのアルバイトは単なる金稼ぎではなく、京都で青春を過ごした思い出になる。これからも学生に参加してほしい」と話す。(山村哲史)

     ◇

 <時代祭> 平安神宮の創建と平安遷都1100年祭の奉祝行事として1895(明治28)年に京都市で始まった。学区単位で市民が組織する平安講社が主催。戦中戦後の1944~49年に中断し、50年に復興した。平安初期から明治維新までの装束をまとった行列で、京都の歴史と文化をたどれる。葵祭、祇園祭とともに京都三大祭りとされる。


時代祭の行列、詳細に図解
パンフ一新 1000人余り衣装など忠実に

時代祭の行列、詳細に図解 パンフ一新 1000人余り衣装など忠実に
 京都三大祭りの一つ、時代祭(22日)のカラーパンフレットが今年、一新される。行列をイラストで掲載。裃(かみしも)のお供を除く1000人余りを衣装や小道具まで忠実に絵で表し、時代祭を楽しく分かりやすく伝えている。

 昨年から室町時代列が加わったのを機に改訂した。「行列の全体像が一目で分かるように」(平安神宮)とイラストを取り入れた。

 約2000人の行列のうち、役がついている人を中心に1071人を1-2センチの大きさで描いた。馬車に乗った名誉奉行の京都市会の正副議長に始まり、維新勤王隊列から最後を行く神幸列の弓箭組列、各時代の旗を持つ人や馬を引く人まで掲載した。馬の向こう側に人の足だけ見えたりと遊び心もあふれる。

 カラー写真もふんだんに使い、列の全景や主な登場人物と衣装や設定を説明する。英訳もつけている。

 大きさはA4判で、昨年までのパンフレットより一回り大きくした。祭り当日、沿道で販売する。34ページ、800円。


福岡
直方日若踊:「踊り通し地域研究」 静岡大の坂田さん、卒業論文に /福岡
直方日若踊:「踊り通し地域研究」 静岡大の坂田さん、卒業論文に /福岡
 直方市の伝統芸能で県無形民俗文化財「直方日若(ひわか)踊」を、市出身の静岡大人文学部4年、坂田安里(あんり)さん(23)が卒業論文のテーマに取り上げている。取材を兼ねて18日夕、多賀神社(同市直方)で奉納された踊りに急きょ参加した。「踊りを通しての地域のかかわりあいを研究したい」と話している。

 日若踊は幕末期、地元で伝わる舞に大阪の踊りが融合してできたのが発祥。素朴な「思案橋踊」と優雅な「本手踊」がある。いずれも三味線と長唄にあわせて笠をかぶった踊り子が踊る。中心部の3地区に保存育成会があり、初盆の家庭を回るなどの活動に励む。

 中心部で生まれ育った坂田さんは物心ついたころから踊りに参加。高校卒業後に郷里を離れても、機会があれば笠をかぶる。大学では文化人類学を専攻し、「なぜ今も日若踊が残っているのか」と疑問に感じたのが研究テーマに選んだきっかけだという。文献を調べたり、地元の高齢者に聞き取りをする。

 故郷を離れて改めて分かったことは「地域の人々が集い、仲良く話をする。そのきっかけが踊りだ」ということ。調べるうちに成り立ちだけではなく、踊りの持つ意義も気になり始めた。「地域がいつでも帰れる、家のようになっていた。今回踊ってみて実感した」と語った。20日まで滞在し、来年1月までに2万4000字の卒論として完成させる。【入江直樹】




長崎
グラバーの事業を引き継いだ英国商人 リンガーの功績に光 戦争で離れ70年 ひ孫再訪
グラバーの事業を引き継いだ英国商人 リンガーの功績に光 戦争で離れ70年 ひ孫再訪
 幕末の長崎に渡り、九州の商業や産業の近代化に貢献した英国商人フレデリック・リンガー(1840‐1908)とその一族の功績と足跡にあらためて光を当てる研究が進んでいる。一族が長崎を離れて約70年。英国に住むひ孫のエリザベス・ニュートンさん(71)が19日、長崎市のグラバー園内にある旧リンガー邸を訪ね、同園名誉園長のブライアン・バークガフニ長崎総合科学大教授に思い出を語った。

 「私がここで過ごしていたころの写真を見ると、とてもハッピーに見えた。ここにいると、海や港、山や坂の記憶がよみがえってくる」

 幼少期を長崎で過ごしたエリザベスさんは、旧リンガー邸から一望できる長崎港の眺めに声を弾ませた。

 リンガーは1864(元治元)年ごろ、幕末の志士との交流で知られるスコットランド商人トーマス・グラバーの招きで来日。グラバー邸近くに居を構え、68(明治元)年にグラバーの事業を引き継いで「ホーム・リンガー商会」を設立した。

 一族は、貿易や底引き網漁、捕鯨、保険、ガス、ホテル経営、新聞など幅広く事業を展開し、日本の近代化に大きく寄与したが、太平洋戦争が迫り外国人に対する迫害が激しくなった1940(昭和15)年、商会を閉鎖し追われるように長崎を離れた。

 「愛する人や友人との別れがとてもつらかったからでしょう」。エリザベスさんによると、リンガー家の人々がその後、長崎の思い出を語ることはほとんどなかったという。

 昨年11月、約70年ぶりに旧リンガー邸を訪れたエリザベスさんはグラバー園に自身の幼少時の姿も写った一族の写真6枚を寄贈。今年も9月に来日し、今月18日から24日まで長崎県内に滞在し島原半島の雲仙温泉など一族ゆかりの地を巡るという。

 長崎居留地の歴史を研究しているバークガフニ名誉園長は今年8月、英国で暮らすエリザベスさんたちを訪ね、一族が保管していた当時の写真や手紙など段ボール一箱分の資料を調査した。今後、一族に関する新資料を基に本や論文をまとめるほか、旧リンガー邸内のソファやベッドなどの内装も忠実に再現したいという。

 バークガフニ名誉園長は「『政治はグラバー、経済はリンガー』と言われるほど貢献したが、多くの謎に包まれていた。貴重な資料が見つかり、一族と長崎との関係が再び深まったことを契機に、一族の歴史や功績を広く伝えたい」と話している。
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