新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 本文500ページを超える大作。タイトルは『剣客斎藤弥九郎伝』となっているけど、剣の達人としての斎藤弥九郎に関する記述は、少ない。

 むしろ、坦庵先生こと第36代江川太郎左衛門英龍の片腕としての斎藤弥九郎、水戸藩や長州藩に対してコンサルティングを行っていた斎藤弥九郎の軌跡を中心に追っている。



 あとがきで「この稿は、最初江川英龍のことを書くつもりであった」とあるぐらいだから、江川英龍・江川家のことにもかなり触れている。『江川坦庵全集』もかなり参照しているようだ。

 残念なのは、鳥羽伏見の戦いの後、新政府側に恭順を申し入れた江川家の動向についてページが割かれていないことだなぁ……それが読みたかったのに(苦笑)。この本では、柏木総蔵が江川英武に同行して桑名の東海道先鋒総督の橋本実梁《さねやな》
謁して恭順の意を表したとあるのみで、斎藤弥九郎の関与はないような表現。

 水戸や長州とのつながりが強く、明治新政府にも出仕している斎藤が幕府についてどう考えていたかを具体的に示す資料は提示されていないが、その心境について筆者は以下のように書いている。
 弥九郎が説いた尊王攘夷は、敬幕を前提とするものであって、決して倒幕を意味するものではない。それが、主立った門人達は、尊皇攘夷から倒幕の道を奔り、多くの者がそれに殉じたのである。
 時代は数年の間に激動し、すでにそれに取り残されようとしている、ひとりの老剣客の姿を見出すのである。


 そして、ちょっといい話。長男次男と共に箱館で戦死した中島三郎助は幼い息子をひとり浦賀に遺していたのだが、明治政府の元勲となった元弟子の木戸孝允(桂小五郎)は遺児の後見をしたのだとか。

 後で参考にしようと思って付箋を貼ったら50枚以上になってしまった(汗)。

 また改めて読み返そう……。







 昨日は晴天でしたが、今日は冷たい雨が降ってます。

岩手
高野長英夢物語大賞:奥州市が創設 作品募集 夢や希望、全国に発信へ /岩手
 奥州市水沢区出身で幕末の蘭学者、高野長英(1804~50年)の没後160年を来年に控え、市は「高野長英夢物語大賞」を創設し、夢をテーマにした作品を募集している。日本の夜明けを著書「夢物語」に託した高野に学び、未来の夢や希望を全国に発信することが狙い。
 高野は17歳の時に江戸に出た後、長崎の鳴滝塾でシーボルトから蘭学と西洋医学を学んだ。夢の中での話に仮託して開国を説いた「夢物語」が幕府を批判したとして罪に問われ、弾圧を受けた。
 同大賞は、一般、高校生、中学生、小学生の4部門で募集。400字詰め原稿用紙に、一般・高校生は8枚以内、中学生は5枚以内、小学生は2枚以内にまとめる。直木賞作家の高橋克彦さんを審査委員長に、各部門の大賞と佳作7編を選ぶ。相原正明市長は「回を重ねるごとに成長させていきたい」と話す。
 応募は郵送かメールで。10年2月22日必着。問い合わせは市歴史遺産課(電話0197・35・2111)。【湯浅聖一】


神奈川
ペリー艦隊が贈った西洋皿、横浜開港資料館に
 幕末に黒船で来航したペリー艦隊が浦賀奉行所の役人に贈った西洋皿1枚が、横浜市中区の横浜開港資料館に寄贈された。
 同館は「ペリーとの交流を今に伝える貴重な史料」としており、来年にも一般公開したい考えだ。
 ペリー艦隊の皿を寄贈したのは、川崎市高津区の会社員合原義人さん(26)で、ペリー艦隊の交渉役を務めた浦賀奉行所の与力、合原猪三郎の子孫にあたる。
 猪三郎が1853年(嘉永6年)か翌年の54年にペリー艦隊から受け取った皿を、合原家が約155年間保管していた。義人さんは開港150周年を記念して、今年9月に皿を同資料館に寄贈した。
 皿の大きさは直径約23センチ、厚さ2センチの円形。白色だが、皿の周囲は黄色でふちどられている。
 合原家では昭和時代初期、ペリー艦隊から贈られた皿3枚の存在を確認しており、そのうちの1枚を1928年(昭和3年)に市に寄付していた。しかし、市庁舎が空襲で焼けた後、皿の所在がわからなくなっており、約80年ぶりに再び別の1枚を寄贈したという。
 同館主任調査研究員の西川武臣さんは「ペリー艦隊は将軍や老中に贈り物をしていたが、今回の皿は地方奉行所の一般的な役人が受け取っており、ペリー艦隊の幅広い交流を知ることができて興味深い」と話している。

(2009年11月19日02時26分 読売新聞)


滋賀
水戸藩士墓参で、和解行脚完結
彦根・井伊家当主ら21日に

 幕末の「安政の大獄」を主導した大老井伊直弼(なおすけ)ゆかりの滋賀県彦根市の井伊家当主や市長が21日、刑死した水戸藩士4人の墓参を水戸市で行う。同様の墓参は長州藩の吉田松陰、福井藩の橋本左内に続く第3弾。直弼が旧水戸藩士らに暗殺された「桜田門外の変」から来年で150年になるのを前に、関係者は「志士の墓参は今回が最後で、因縁にけじめをつけて交流を深める機会にしたい」と話す。

 ■桜田門外の変、来年で150年

 刑死した水戸藩士は、藩主・徳川斉昭側近だった家老の安島帯刀(あじまたてわき)や右筆役の茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)、京都で朝廷工作をした鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)、幸吉父子の4人。直弼が日米修好通商条約や将軍跡継ぎ問題で斉昭と対立し、大獄の刑死者(8人)では水戸藩が最多だった。
 墓参するのは井伊家18代当主の井伊直岳彦根城博物館長、獅山向洋彦根市長ら7人。水戸藩開藩400年記念シンポジウムに参加した後、墓前に参列。水戸市の加藤浩一市長らも同席するなか、哀悼の意を捧げる。
 両市は明治維新から100年後の1968年に「親善都市」となり和解した。今回、彦根市側が「井伊直弼と開国150年祭」開催に合わせ「歴史的わだかまりを完全になくすけじめにしたい」と水戸市側に申し入れた。
 井伊館長(40)は「立場は違えど直弼も志士も国のことを考えて生きたと思う。先人をしのび、交流につなげたい」と話している。



舟橋聖一青年文学賞:最優秀賞 さいたまの冨士野さんに
 滋賀県彦根市は19日、第21回舟橋聖一顕彰青年文学賞の最優秀賞(賞金50万円)にさいたま市、日大芸術学部文芸学科助手、冨士野督子(まさこ)さん(27)の小説「虹待ち」を選んだと発表した。佳作(同10万円)は鳥取市の農業、漆原正雄さん(24)の小説「棚子」。
 また、昨年8月から1年間に出版された単行本の小説が対象の第3回舟橋聖一文学賞(同50万円)には作家・詩人のねじめ正一さん(61)=東京都杉並区=の「商人(あきんど)」(集英社)を選んだ。
 青年文学賞は、幕末の大老で旧彦根藩十三代藩主・井伊直弼を描いた小説「花の生涯」の作者で彦根市名誉市民の故舟橋聖一氏の業績をたたえて制定。18~30歳が対象で24都府県から96点の応募があった。


特別企画展:井伊直弼と幕末の人物史料 29日まで、彦根城博物館 /滋賀
 幕末の大老・井伊直弼と、同時代に生きた政治的人物の作品や史料を集めた特別企画展「政治の時代-井伊直弼と幕末の群像」が、彦根市の彦根城博物館で開かれている。29日まで、無休。【松井圀夫】

 ◇孝明天皇勅諚、日本初の洋式砲など--貴重な146点
 ▽藩主井伊直弼の政治▽溜詰大名(将軍のそばに仕える譜代大名)井伊直弼と幕府政治▽大老井伊直弼の政治▽直弼以後--の四つのテーマで146点を展示している。
 中には、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したことに怒った孝明天皇が、直弼らの説得でわだかまりが氷解したことをしたためた「孝明天皇勅諚」も。同館は「内容は知られているが、(個人蔵のため)文書が公開されるのは珍しい」としている。
 また、直弼が大老に就任した直後に幕府に出した「大老就任誓詞」の控えや、直弼とは深い信頼関係があった第十四代将軍・徳川家茂の画像なども展示している。ほかに、薩摩藩主・島津斉彬所用の木製地球儀や、江戸時代後期の砲術家・高島秋帆(しゅうはん)が作った日本初の洋式砲「モルチール砲」などもあり、どれも貴重なものという。
 観覧料は▽一般500円▽小・中学生250円。問い合わせは同館(0749・22・6100)。


兵庫
山田風太郎:円熟期の作品、直筆原稿見つかる /兵庫
◇「笊ノ目万兵衛門外へ」など
 養父市出身の作家、山田風太郎(1922~01)の「笊(ざる)ノ目万兵衛門外へ」など直筆原稿数点が東京の自宅で見つかり、同市の山田風太郎記念館に贈られた。いずれも風太郎の円熟期の作品で貴重なものという。
 笊ノ目万兵衛は幕末の下級役人である町奉行所同心。上司に尽くしたが母や妻子を死なせ、最後は上司に敵対する悲劇を原稿用紙78枚に書いた。歴史に埋もれた人物を虚実交えて描いた時代小説で、1972年に雑誌に発表された。
 「拝啓奈良本先生」も同じころの原稿。旧制豊岡中で教えを受けた奈良本辰也先生の思い出をつづった回想文。「『歴史の答案は山田のように書くものだ』とホメて下さいました」などと記し、母を亡くし、荒れていた風太郎の数少ない理解者だった先生を懐かしんでいる。
 ほかに著名人の亡くなる直前の言葉や様子をまとめた「人間臨終図巻」は新たに正岡子規など約300人分が見つかった。養父市の風太郎研究家、有本倶子さん(65)は「風太郎の優しいまなざしが感じられ、興味深い」と話している。【吉川昭夫】

〔但馬版〕


山口
ミュージカル:松陰の生涯描く 21・22日に萩、来月23日は山口 /山口
◇キャストとスタッフ、県内から参加
 幕末の志士・吉田松陰の生涯を描いた創作ミュージカル「SHOWIN 若き志士たち」の公演が21、22日、萩市の萩市民館で開かれる。吉田松陰没後150年記念事業の一環。12月23日に山口市、来年2月11日は東京でも公演する。
 ミュージカルは、山口市宮野のスタジオ・レイ主宰、山内令子さんの脚本・演出。キャスト約60人、スタッフ約30人は県内各地から公募で参加しており、「県民手作り」の作品だ。
 松陰は、伊豆下田沖のペリーの船に国禁を破って乗り込もうとするが失敗。その後、松下村塾を主宰し、久坂玄瑞や高杉晋作ら若き志士たちを育てるが、安政の大獄で志半ばにして処刑される。「学び」と「実践」の大切さという、松陰が発したメッセージを現代の観客に伝える内容となっている。
 公演は、21日午後6時半、22日午後2時=萩市民館▽12月23日午後2時=山口市民会館▽来年2月11日午後6時=東京・世田谷区民会館。萩と山口の両公演は、前売り一般2000円▽高校生1000円。当日は500円増。問い合わせは、萩市文化・生涯学習課(0838・25・3590)。【川上敏文】


下関歴史伝承講座:晋作の足跡追う--22日 /山口
 下関市の旧跡を訪ねる下関歴史伝承講座が22日、同市新地町の周辺である。下関観光コンベンション協会の観光ガイド、平松資朗さんの解説を聞きながら維新の志士、高杉晋作が最晩年を過ごした一角を歩く。
 市民グループの下関歴史研究所が主催。第15回講座は現地散策「ぶらり新地界隈(かいわい)」。晋作が維新目前の27歳で病死した上新地町の「終焉(しゅうえん)の地」や厳島神社、愛人のおうのと隠れ住んだ家の跡など、晋作の足跡を追う。
 集合は午前10時、同市竹崎町のJR下関駅改札口前。約1時間半かけて3~4キロを歩く。参加費用500円。雨天決行。問い合わせは研究所(090・1334・5617)。【取違剛】
〔下関版〕



長崎
ボトルに龍馬の肖像デザイン、果実酒発売へ
 農産物販売などを行う佐世保市の「堀内商事」(山下功三社長)は21日、幕末の志士、坂本龍馬にちなんだブルーベリー酒「あいあいの雫」を発売する。龍馬の肖像をデザインしたボトルが特徴で、21~23日には長崎市伊良林2の亀山社中資料展示場で披露する。
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映に合わせ、龍馬が長崎・出島で赤い色の洋酒を飲んだというエピソードにちなんで企画。昨年11月、佐世保市の造り酒屋「梅ヶ枝酒造」(長野哲也社長)と共同開発したブルーベリー酒を使い、ボトルのデザインは神奈川県鎌倉市在住の勝海舟の子孫の芸術家に依頼した。龍馬の肖像などをあしらったもので、研磨剤を吹き付ける「サンドブラスト」という手法で絵柄を描いた。
 ブルーベリーは、グループ会社の総合建設「堀内組」の資材置き場や休耕田で栽培したもので、約3~4か月間麦焼酎に漬け込んだ。アルコール25度。果実酒特有の甘さを抑え、甘いのが苦手な男性でも楽しめるという。堀内商事外商部の石松昭洋さん(64)は「幕末に世直しに奔走した龍馬に思いをはせながら、味わってほしい」と話している。
 亀山社中資料展示場では、約500本を限定販売する予定。720ミリ・リットル入りで、2830円(税込み)。問い合わせは、堀内商事(0956・48・6185)へ。

(2009年11月19日 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(37)東大教授・山内昌之 立見尚文
■不敗の将軍

 日本史上、負けたことのない将軍がいたのをご存じであろうか。桑名藩出身の立見尚文その人である。立見鑑三郎こと尚文ほどの軍人は滅多に出るものではない。彼は、幕末から明治にかけて現れた最高の指揮官と謳う(うた)われている。

 ≪仏教官から近代軍事学≫
 日露戦争で第4軍司令官だった野津道貫(みちつら)は薩摩の出身だったにもかかわらず、藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価した。幕末に江戸でフランス人教官から近代軍事学を修めた立見は、「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら、30歳になる前に将軍になっただろう」とも称賛されたほどだった。
 立見については、歴史家も本格的な評伝をものしていない。最近、ある雑誌で日本最強の指揮官を選ぶアンケートに答えたことがある。私はためらわずに立見の名を挙げた。旧知の直木賞作家、中村彰彦氏に、「誰を選んだのか」と尋ねると、氏も立見を挙げたので大笑いしたものだ。立見のキャリアは、戊辰戦争から西南戦争を経て、日清日露の戦役にも及んでいる。立見の桑名藩は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕軍の主力として戦いながら、敗北した。
 そこで主戦派は、飛び地のあった越後(新潟県)の柏崎に移って抵抗を続けた。この時、24歳の立見が率いた75人の雷神隊など350ほどの桑名勢は、朝日山に迫った1000人の新政府軍を散々に打ち破った。奇兵隊の時山直八(なおはち)が戦死したのはこの時である。
 参謀だった山県有朋が時山の死から受けたショックは大きく、立見の昇進を何かと邪魔した山県の生涯にわたるこだわりは朝日山の敗戦から始まったといってよい。
 山県が朝日山を詠みこんだ和歌は、立見の颯爽(さっそう)としたシルエットを逆に浮かび上がらせる結果にもなっている。
 『あだまもる 砦(とりで)のかがり影ふけて 夏も身にしむ越(こし)の山風』

 ≪西南戦争でも際立つ≫

 降伏後、立見はやがて司法省に出仕、下級判事などを務めたが、各地で士族の反乱が相次ぐと、請われて明治の陸軍に入った。なにしろ、高級軍人の出身地薩摩が反乱を起こしたので、“朝敵”とか“賊軍”といったレッテル貼(は)りにこだわっていられなかったのだ。
 西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮、日清戦争では陸軍少将で歩兵第10旅団長を経験したが、いずれも際立った統率力を発揮した。

 ≪世界戦史にもない夜襲≫
 彼の名を不朽にしたのは、黒溝台(こっこうだい)の戦線左翼で壊滅の危機に瀕(ひん)した秋山好古(よしふる)の騎兵部隊を支援した戦であろう。第8師団(弘前)を率いた立見は、師団の総力を挙げて夜襲する世界戦史にもない作戦をとった。当時では2万人の夜襲とは破格のものである。
 この時、命令受領者を集めて訓示した立見は興奮も極まって、演説台の代わりにした箪笥(たんす)を思わず足で踏み破った。立見は多くの犠牲者を出しながら、臨時立見軍を編制し、ロシア軍を分断して後退させたのだった。
 零下40度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのもつらいのに、先頭で指揮を取り続けた粘り強さには驚くほかない。ロシア軍の冬季攻勢を退けたのは、東北の兵の勇敢さに加えて、「立見がいたからだ」というのが東北の農村で語り継がれた逸話であった。
 義経記や太平記のような戦記物がもはやない時代に、賊軍出身ながら大将にまでなった立見の武勇を知らしめるのは、作家の仕事になっている。中村彰彦氏の『闘将伝 小説立見鑑三郎』(角川文庫)や柘植(つげ)久慶氏の『常勝将軍 立見尚文』(PHP研究所)は、この知られざる名将の事績をとりあげた作品として興味深い。(やまうち まさゆき)
                  ◇

【プロフィル】立見尚文

 たつみ・なおふみ 幕末の伊勢(三重県)桑名藩士、明治の陸軍軍人。弘化2(1845)年、江戸の藩邸に生まれる。戊辰戦争では雷神隊を組織して新政府軍と戦うが、敗れて桑名に幽閉された。のち陸軍に入り、西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第8師団長を務め、黒溝台の会戦で活躍する。明治39年、陸軍大将。明治40(1907)年、63歳で死去。

 「立見鑑三郎キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!」です(戊辰戦争の活躍ぶり以降はこの記事で勉強中^_^;)。
 「参謀だった山県有朋が時山の死から受けたショックは大きく、立見の昇進を何かと邪魔した山県の生涯にわたるこだわりは朝日山の敗戦から始まったといってよい」というくだりに「やっぱり」という言葉が出てしまうのは、何か予見が入っているかしら^_^;。

文化芸能
好調の「JIN―仁―」映画化決定? 「ドラマ引き継ぐ」と女性誌が報道。
 11月8日に放送された第5話で視聴率が20.3%(ビデオリサーチ調べ)の大台を突破した連続ドラマ「JIN―仁―」(TBS系)。15日放送の第6話も20.2%を記録、平均視聴率は「秋ドラマ」トップの18.0%と快進撃を続けているが、この「JIN―仁―」の映画化の情報を、現在発売中の女性週刊誌「女性自身」が伝えている。
 「女性自身」に掲載されたのは「大沢たかお 絶好調の現場を支える内野聖陽との『バカボン父』同盟!」との記事。その内容は撮影現場の楽しい雰囲気や、盛り上がりを伝えるものだが、最後に今後の展開について触れ、「実は映画化が決定したんです。来年3月から撮影開始です。最終回以降のストーリーを映画が引き継ぐ形になると思います」と、テレビ局関係者の話を伝えている。
 連続ドラマの映画化は近年のトレンド。2010年正月&春には上野樹里主演の「のだめカンタービレ THE MOVE I&II」、同年秋には岡田准一主演の「SP」が公開されるほか、「秋ドラマ」の作品でも、「ライアーゲーム」(フジテレビ系)の映画版「ライアーゲームザ・ファイナルステージ」(2010年2月公開)、米倉涼子主演ドラマ「交渉人~THENEGOTIATOR~」(テレビ朝日系)の映画版「交渉人 the movie」(2010年2月公開)の製作がすでに発表済みだ。
 視聴率が低迷するTBSにとって、「JIN―仁―」のヒットは明るい話題。高視聴率に加え、その内容についてもかなり評判が良いだけに、映画化の続報に期待したいところだ。


☆「JIN―仁―」とは
 江戸時代にタイムスリップした脳外科医の南方仁(大沢たかお)が、病気で苦しむ人々を助け、幕末の志士たちと交流していくというストーリー。大沢たかおのほかに中谷美紀、綾瀬はるか、小出恵介、桐谷健太、田口浩正、戸田菜穂、高岡早紀、六平直政、麻生祐未、小日向文世、内野聖陽、武田鉄矢(特別出演)らが出演している。

 女性週刊誌『女性自身』がソースでは、まだ信じる気にはなれませんが……『スーパージャンプ』誌上で発表されたら、喜びたいと思います(笑)。






 『11月9日~15日の幕末ニュース その1』にご紹介したニュースに、江川太郎左衛門の評伝が出版されたというものがありました。
 即、アマゾンで買っちゃいました……出版されたばかりなのに中古があったので、つい中古で^_^;。

 すぐに配送されてきたので、即読みました……盟友斎藤弥九郎先生の評伝を読みさしたままだというに(^^ゞ。

 坦庵先生こと第36代江川太郎左衛門英龍に関する本、あまり、ないんですよ。比較的に入手しやすい本でいうと、下記でしょうか。


 なので、今回の出版はとても嬉しいのです。腰帯の惹句が「幕末沸騰前夜、日本陸海軍の礎を築いた幕臣の軌跡」とあって、歴史的な功績を正しく表現していると思いますし。

 ただ、坦庵公の生涯に丸々一冊割いていることを期待して読み始めると、ちょっとがっかりするかも知れません。

 3分の1ぐらいは、保元・平治の乱をきっかけとする武家の台頭と鎌倉政権の成立にちょっと登場する江川家の話とか、源頼朝が住んでいた蛭が小島は韮山のすぐそばだとか、下克上の世を切り開いた(後)北条氏、織田・豊臣・徳川と天下の覇権争いが展開する中で滅亡した北条氏と江川家のつながりとか、徳川の世になぜ江川家が世襲代官として生き残ったのかとか、延々と江川家の解説が入ります。自分はそういうバックグラウンドにも興味があったので、OKでしたが。

 『風雲児たち』『風雲児たち幕末編』を読んでいる方には、バックグラウンドの解説も頭に入りやすいですね……みなもとキャラで浮かんでしまうのが欠点といえば欠点ですが(笑)。参考文献リストに入ってはいませんが、著者は読んでらっしゃるような気がします。当時の西洋列強と日本の関わりを描く時にベニョブスキー事件(「はんべんごろ」事件)から入っていくところなんか、ツボツボでした(^^)。

 坦庵先生に関するちょっとしたエピソードも紹介されており(自分は戦前に出版されていた本で読んでましたが)、多面的な人物像が紹介されているのもいいと思います……ただ、坦庵公といい斎藤弥九郎先生といい、食生活は質素だし睡眠時間は少ないし、冬でも薄着で火の気にもほとんど当たらず身体鍛錬しまくりだし、なかなか真似できませんわ^_^;。

 砲術師範の高島秋帆が投獄された事件に際して釈放されるまで支援を惜しまなかったとか、釈放後も師匠として手厚く迎えたとか、義に篤いところも魅力です。押しかけて勝手に弟子になった末に自分で卒業してしまった佐久間象山とは性格が合わなかった(笑)のも無理ありません。

 ペリーやプチャーチンと幕府の交渉過程がけっこう詳しいのも嬉しいです。川路聖謨とか、ジョン万次郎とか、坦庵公人脈の人物が具体的に紹介される点もいいです……が、やっぱり中島三郎助さんは直接の面識がないから出てこないのね、とか、桂小五郎もちょこっとだけだなぁ、とか、言い出すときりがないでしょう。

 『秋の金魚』の読者には、長くはないですが肥田浜五郎が紹介されているのが嬉しいかも……松岡磐吉は浜五郎に比べると、ここでも影が薄いです(苦笑)。

 ただ、ディープな坦庵公ファンだけに、ちょっと物足りない気がしました。坦庵先生と水戸藩徳川斉昭公との交流はよく出てくるのですが、その間を仲介しているはずの斎藤弥九郎先生が出てこないとか……。高野長英が逃亡の過程で相模に滞在して著作を残しているのだけど、おそらくは坦庵公の支援があったと思われる(確か、柏木総蔵の出身地の名主の別宅ではなかったかと)こととか、取り上げて欲しかったことは他にもいくつかあります。

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 以上、とりとめのない感想です。

 坦庵先生が亡くなった後、鳥羽伏見の戦いの直後、京都政権に恭順を申し入れた江川家の立場を決めたのは斎藤弥九郎・柏木総蔵・望月大象らだったとか、その辺りの話を掘り下げたいと思ってますので、まずは斎藤弥九郎先生の評伝に戻って読了しようと思います。

拙ブログ内 関連記事
『幕末之偉人江川坦庵』矢田七太郎 読書メモ  上記著作の参考文献リストには入ってませんが、本文にこの書からの引用があります。
『江川太郎左衛門』古見一夫 読書メモ  参考文献リストに入ってます。

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補足 『風雲児たち 幕末編』ファンの自分にツボった豆知識。ロシアのプチャーチン、実は蒸気船が苦手だった(笑)……帆船はいいけど蒸気船は苦手って、揺れには強いけどスピードには弱いってことでしょうかねぇ。






 過日、憲政記念館にて特別展示『激動の明治国家建設』を見てきましたので、簡単に報告。

 趣旨と主な展示内容はリンク先を参照してください。自分的には明治史はあまり詳しくないので、明治期における議会政治の成立までを俯瞰するのにいい展示かなと思って見てきました。

 あいかわらず、その時代を解説したビデオがわかりやすく、20分で時代を俯瞰できてしまう点がいいです……NHKサービスセンター製作でした(苦笑)。

 でも幕末維新期への興味が強いので、やはり維新の終焉となる西南戦争・三傑の死というひとつの区切りまでについついエネルギーを注いで見てしまいました。ここで一番印象に残ったのは別府晋介の佩刀ですね……朱色の鞘と脇差しでした。脇差しなので西郷さんを介錯した刀ではないと思いますが、朱色が目にも鮮やかでした。

 民権運動の各地での展開も興味深いものでした。ひとつひとつの憲法草案を丁寧に読むエネルギーがなかったのでざっと眺めただけですが、有名な五日市の憲法草案だけは目を通してきました。国民の権利について丁寧に書いているという点で興味深かったです。

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 先日読んだ『幕末維新消された歴史』(リンク先は拙サイト感想記事)のエピローグに興味深いエピソードが紹介されていました。

 概略は以下の通りです。

 大久保利通の孫で日本近代史家である大久保利謙が戦後まもなく、国立国会図書館に新設された憲政資料室の主任に任命された。大久保は仕事をはじめるに際して衆参両院議長に挨拶に行った。当時の参議院議長は松平恒雄という人物で、松平容保の子だった。

 私が議長室に入って、しかじかの仕事を始めますからよろしく願いますというと、松平議長は、無愛想げに「それは結構なことであるが、歴史を書くのなら公平にやってもらいたい」という意味のことをもらされた。私はそのとき、はっとしたことを覚えている。
 松平議長は旧会津藩主松平容保の子である。まさか、私が薩長派の子孫であることを意識されたわけではあるまいが、とにかく国会図書館で、公的にそういう仕事を始めるということを耳にすると、そういう言葉がつい口にでてしまったのであろう。


 ……このエピソードで、そうだ憲政記念館のあの特別展示を見てこようと思った自分でした(苦笑)。

 「公平」というのは難しいことですが(何をもって「公平」というのは難しいと思いますが、ひとつの見方だけをよしとするのではないという意味に理解したいと思います)、大日本帝国憲法成立までにいろいろな意見があったこと、政府が言論規制を行ったことなど、時の政府の立場だけをよしとする視点ではなかった点がよかったと思います。

☆★☆★

 入場無料の割に見応えがあるし、展示物を解説した小冊子もいただけるし、ビデオがいい出来だし、見物客が少なくてゆったり見られるし(苦笑)、また興味を引かれる展示があったら見に行こうと思います。





 雨がよく降りますねぇ……冷えてきます。龍馬の誕生日・命日があったせいか、龍馬関係のニュースが多いです。

北海道
函館に龍馬記念館
 幕末の志士・坂本龍馬の資料を集めた「北海道坂本龍馬記念館」が、市民有志らによって、龍馬の誕生日で命日でもある15日、函館市に開館した。関係者は「歴史のまち函館の新たな観光資源にしたい」と意気込んでいる。
 龍馬は生前、脱藩浪士らを集め、北海道開拓と防備に充てる計画を立てていたことで知られる。明治時代に龍馬のおいの直寛が高知県で移民団を結成し、北海道に移住。一族から画家・坂本直行(故人)を輩出するなど、子孫が北海道で活躍している。
 記念館には、龍馬と一族の足跡を紹介するパネルのほか、坂本家ゆかりの資料など100点余りを展示。龍馬直筆の手紙2通もある。運営するNPO法人「北海道坂本龍馬記念館実行委員会」の三輪貞治理事長(46)は、「龍馬と北海道とのつながりを知ってもらえれば」と語る。
 開館式典には、坂本家9代目当主の登さん(72)も参加。「坂本の人間として無類の喜び」と話していた。
(2009年11月16日 読売新聞)


龍馬の精神、函館に 記念館がオープン
【函館】幕末の志士、坂本龍馬の足跡を伝える北海道坂本龍馬記念館が15日、函館市末広町8に開館した。
 NPO法人北海道坂本龍馬記念館実行委員会(三輪貞治理事長)が、龍馬が本道開拓の夢を持っていたことや、親族が函館に住んでいた縁から、道内外から集めた寄付などで開設した。龍馬が薩長同盟成立の直前に親族あてに書いたとされる直筆の手紙や、勝海舟や西郷隆盛の書など約100点を展示している。龍馬の記念館は高知市に次ぎ2館目。
 11月15日は龍馬の誕生日と命日。坂本家9代目当主の坂本登さん(72)=東京都=は「若者に龍馬の精神を伝える場になってほしい」と話していた。
 入場料は一般300円、高校・大学生200円、小中生100円。月曜休館。問い合わせは同館(電)0138・24・1115へ。


龍馬記念館、函館に開館
式典や演武披露も
 北海道開拓を夢見た幕末の志士・坂本龍馬や北海道に渡った坂本家の子孫たちの志や業績を伝えようと道内のNPO法人が計画した「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長)が15日、函館市末広町に開館し、多数の見学者でにぎわった。
 午前10時から記念セレモニーが行われた。西尾正範・函館市長は「記念館は龍馬を慕う人たちが思いを込めてつくった。龍馬の志を函館から発信できるきっかけになるかなと大いに期待している」とあいさつした。
 記念館名誉顧問で、坂本家9代目の坂本登さん(72)=東京在住=は龍馬の甥(おい)で北海道に渡った自由民権運動家、坂本直寛のひ孫。登さんは「資料の展示だけでなく、記念館を大きな出会いの場にして欲しい」と述べた。
 記念行事として近くの五島軒本店で龍馬が学んだ北辰一刀流の演武が披露され、龍馬に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんが講演を行った。宮川さんは北辰一刀流の千葉定吉道場の千葉重太郎について言及。「重太郎は明治5年から開拓使に出仕した。記録から函館に来たのは間違いない」と龍馬の友と函館の因縁について説明した。
 登さんの父で、六花亭の包装紙のデザインでも知られる画家の故坂本直行さんのコーナーも設けられた。近所に住む公務員の及川雅子さん(49)は「六花亭の包装紙の画家が龍馬とゆかりがあると知らなかった」と驚いていた。


龍馬の遺志 今に…記念館オープン
 函館市と青森市のツインシティ提携20周年を記念して行われた「赤い糸プロジェクト」のモニュメント除幕式が14日、青函両市で行われた。函館では悪天候のため、モニュメントが設置された緑の島(大町15)の対岸に位置する市青函連絡船記念館摩周丸で行われ、西尾正範市長や、同プロジェクトに携わった市内の高校生、大学生らが両市の末永い交流を願った。
 同プロジェクトは青函圏域の新たな魅力づくりに向け、青森ゆかりの作家、太宰治の作品にヒントを得て実施。今年6月から両市の高校生、大学生21人が小委員会を組織、公立はこだて未来大の鈴木克也教授らをコーディネーターに進めてきた。
 モニュメントは山形在住の彫刻家、峯田義郎さんが制作し、高さ2メートル30センチ、幅90センチの大きさ。太宰の小説「思ひ出」(1933年)の中で、青森港の桟橋で男女を結ぶ赤い糸について弟と話し合うシーンをもとに「ふたり」と名付けられ、2人の人物が両市の絆(きずな)の深さを表現している。函館では緑の島、青森は県観光物産館(アスパム)裏に設置された。
 函館での除幕式では西尾市長が「新幹線が開通すると青函は40分で行き来できる。新しい交通時代を見ながら、さらにつながりを深めたい」とあいさつ。出席者は緑の島でモニュメントの幕が取り払われる様子を摩周丸から眺め、拍手を送った。
 大学生の小委員会メンバーはその後、緑の島に出向いて記念撮影。公立はこだて未来大3年の伝法谷朋弘さん(21)は「青森出身なので、人一倍思いがあった。プロジェクトにかかわれて誇らしく思う」、函館大2年の矢本千晶さん(20)も「少しでも市のために何かできたことがうれしい。青森を身近に感じられるようになった」と話していた。


坂本龍馬記念館:函館に開設 開拓の遺志、一族が継承 /北海道
◇先取の精神と甥らの足跡たどる
 大政奉還後の北海道開拓を提唱したとされる坂本龍馬(1835~67)の記念館が函館市末広町に開設された。龍馬自身は道内に足を踏み入れることはなかったが、遺志を継いだ一族が道内各地に足跡を残しており、戊辰戦争最後の地・函館で「龍馬の志」を伝える場にしたい考えだ。【昆野淳】
 「エゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃(ころ)より、新国を開き候ハ積年の思ひ」。龍馬が暗殺される9カ月前に親しい長府(山口)藩士に差し出した手紙。現在も残されている直筆の文面には、北海道開拓を真剣に志した龍馬の思いが熱く語られている。
 龍馬の記念館は高知に県立施設があるが、恵庭市で商店を経営していた三輪さんがこうした話を知り、01年にNPO法人を作って道内での設立に奔走。当初は札幌での設置を検討したが、函館が幕末・維新の歴史の残る歴史的な観光地であり、函館に開設することにした。
 記念館では、龍馬の直筆の2通の手紙や愛用の湯飲み茶わんのほか、一族の生涯を紹介したパネルなど約100点を展示している。月曜日休館。入場料は大人300円、小中学生100円。

11月17日朝刊


山形
活動充実と一層の発展誓い合う 米沢有為会の創立120年記念行事
 置賜地方出身の学生を対象にした寄宿舎運営や育英事業などを続けている米沢有為会(本部・東京)の創立120周年記念行事が15日、東京都内のホテルで開かれた。会員ら約220人が出席し、活動の一層の充実を確認した。
 式典で下條泰生会長(米沢市出身)は「先人の志と会員の支えによって事業は継続してきた。次の130周年に向け継承していこう」とあいさつ。名誉会長で旧米沢藩上杉家17代当主の上杉邦憲さんは「厳しい世の中で、ますます米沢有為会の存在が大事になる。発展を祈念する」と祝賀の言葉を述べ、安部三十郎米沢市長も来賓として出席し、祝辞に立った。
 式典に先立ち、会場では「有為会歴史回顧展」と題し、歴代会長の遺影のほか、幕末から明治、大正、昭和にかけて活躍した先人の伝記図書を展示。上杉さんによる記念講演などが行われた。
 米沢有為会は1889(明治22)年に米沢市出身の建築家、伊東忠太氏ら在京学生が創設。都内と仙台市で寄宿舎「興譲館」を運営し、奨学金事業や産業分野の顕彰も行っている。寄宿舎生は計2000人近くに上り、奨学生は360人を超えている。


茨城
【決断の日本史】(6)1645年・黄門さまの向学心
■明治維新生んだ「水戸学」

 越後のちりめん問屋のご隠居が助さん、格さんを従えて諸国を漫遊し、悪代官の不正をあばき、懲らしめる。日本人ならだれもが知っている水戸黄門の勧善懲悪の物語である。
 黄門さんは水戸徳川家2代藩主、徳川光圀(1628~1700年)であり、「黄門」は官位・権中納言の中国風の呼び名であることも、歴史ファンなら知っている。しかし、黄門さんは諸国漫遊はおろか、江戸や日光、水戸近辺しか見たことがなかったといえば、少々意外にも思うだろう。
 「光圀が名君だったことは事実ですが、漫遊記は明治20年代以降に作り上げられたフィクションなんです」
 3年前、『徳川光圀』(吉川弘文館)で新たな光圀像を描き出した鈴木暎一(えいいち)・茨城大学名誉教授はいう。
 光圀は徳川家康の十一男で初代水戸藩主、頼房の三男として誕生した。子供のころは乱暴者だったが正保2(1645)年、18歳のとき司馬遷の『史記』伯夷(はくい)伝を読んで感動し、学問に開眼した。伯夷伝は伯夷、叔斉(しゅくせい)の兄弟が国王の座を譲り合う話である。
 光圀には6歳上の同母兄がおり、兄を差し置いて水戸藩を継ぐことに複雑な思いがあった。のちにこの兄の子を3代水戸藩主に迎えている。
 光圀の向学心は尋常ではなく、30歳で歴史研究のための史局(のちの彰考館)まで開設した。彰考館には全国に伝わる古い文献史料を集めるための専任スタッフも置かれた。その中心人物だった佐々十竹(じっちく)と安積澹泊(あさか・たんぱく)は京都や奈良などを駆け巡り、彼らが助さん、格さんのモデルとなったのである。
 光圀は収集した史料を分析、考察し、膨大な歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手した。朱子学の大義名分論の立場に立った歴史観は「水戸学」として大成され、幕末の尊王思想へとつながり、明治維新と近代国家誕生のバックボーンになった。
 「学問に生きる」という決断が歴史を動かしたのである。(渡部裕明)
 

栃木
埋もれた歴史遺産に光 鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委 観光商品化へツアー
【日光】ホテルなどの関係者でつくる鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委員会は、地域内の埋もれた歴史、文化遺産ツアーの商品化を目指し、首都圏の住民を対象にした初のモニターツアーを18日に行う。鬼怒川温泉から三依まで会津西街道沿いの史跡など10カ所前後を視察。参加者の意見を参考にし、再来年までには商品化を目指す。関係者は「愛される商品にしたい」と意欲的だ。
 この企画は「歴史遺産創造事業プロジェクト」。JTB協定旅館ホテル連盟鬼怒川・川治地区会が、同連盟本部の基金から支援を受け、昨年から3カ年にわたり行っているものの一環だ。
 戦略委は地元の人にも意外に知られていない史跡などが多いことに着目。本や資料で下調べした上で現地調査やホテル関係者による視察を行うなど、数カ月かけ準備してきた。
 ツアーには東京、神奈川、埼玉の5組、13人が参加。野仏群や道祖神のほか、幕末の漢学者大橋静庵終えんの地を示す大橋静庵墓碑、戊辰戦争時の小原沢古戦場跡なども視察する。
 地産地消を意識し、昼食は新そばや山菜の天ぷらを予定。戦略委は今後も地産地消の研究を重ね、歴史遺産探訪と温泉、食を組み合わせることで商品化を図りたい考えだ。
 同プロジェクトの小野真事務局長は「埋もれたものを再確認しようと始めたら、多くの歴史や文化遺産があると分かった。歴史に興味のある人は多く、ヒット商品に育てたい」と話している。


東京
写真でたどる龍馬の生きた時代 1月にフジフイルムスクエアで
 明治維新の原動力となった坂本龍馬(1835~67)の人生を振り返る写真展「写真で辿(たど)る『坂本龍馬の生きた時代』」が平成22年1月16日から2月25日まで、フジフイルムスクエア(東京都港区赤坂)で開かれる。
 龍馬の写真は6点が現存するとされ、靴をはいて立っている有名な写真など複数枚が展示される予定。さらに、龍馬と同時代に活躍した人物や当時の風俗などの写真、龍馬が生前に残した書簡、所持品などが展示される。
 富士フイルムは「幕末は写真技術が伝来した写真文化の幕開けの時代。一枚一枚に込められた当時の人々の思いを体感してください」としている。
 また、同時にNHK大河ドラマ「龍馬伝」展が開催される。22年1月から放送される福山雅治主演のドラマの撮影風景や小道具などが展示される予定。
 いずれも入場無料。フジフイルムスクエア(電)03・6271・3350。


神奈川
横浜ロイヤルパークホテルが期間限定「徳川遊膳」ランチ
 横浜ランドマークタワー内「横浜ロイヤルパークホテル」68階の日本料理「四季亭」(横浜市西区みなとみらい2)は、期間限定の特別ランチ「徳川遊膳」を提供している。
 同ランチは、現在横浜美術館で開催中の展覧会「大・開港展 徳川将軍家と幕末明治の美術」にちなみ企画されたもので、期間中は徳川将軍家の食にまつわるエピソードや、天璋院篤姫の出身地「薩摩(鹿児島)」の名物、篤姫が好んだと伝えられている料理にアレンジを加えたメニューを用意する。
 内容は、先付け「茶碗蒸し」、お造りは将軍家縁の「鯛、イカ、芽物、山葵」、焼物八寸は篤姫好物、将軍家・故郷薩摩縁の「小串、さつま揚げ、胡瓜と薩摩味噌、白インゲン豆栗含ませ」、煮物替は篤姫好物の「揚げだし豆腐べっ甲あんかけ」、小鉢「菊花、青菜浸し」、篤姫好物の「きがら茶ご飯」をアレンジした季節の味ご飯など。料金は3,465円。
 同ランチを始めて以来、横浜美術館の前後に立ち寄る方が多く好評だという。
 横浜ロイヤルパークホテル・営業企画部広報企画課の釜本晴美さんは「このランチは横浜美術館の企画展と連動している事もあり、ぜひお客様に歴史を知る楽しさを味で感じてもらおうと思い企画いたしました。簡単には資料が見つからず、江戸をテーマにした博物館や、文献を多く所蔵する図書館へ行くなど、時間をかけて調査した内容です。お召し上がりいただく際、ぜひスタッフにお声をお掛けいただき、篤姫や将軍家の食についてのエピソードなども聞きながら味わってみてください」と話す。
 開催時間は11時~14時30分(土曜・日曜・祝日は15時まで)。問い合わせはレストラン予約(TEL 045-221-1155)。11月23日まで。
 「大・開港展 徳川将軍家と幕末明治の美術」は、横浜開港150周年記念 横浜美術館開館20周年記念の企画展。封建体制下における政治・文化の頂点に君臨した徳川将軍家に焦点をあてた幕末の将軍遺愛の品々や大奥を彩った調度品から、開港により揺れ動く時代を表す史料、そして開港を経て新しく生み出された美術までを3部構成で展示する。11月16日からは徳川慶喜の騎馬肖像写真が登場する。会期は11月23日まで。


京都
竜馬ゆかりの4県タッグ 鹿児島県などの大阪事務所 京都市で観光PR
 坂本竜馬ゆかりの鹿児島、長崎、山口、高知の4県の大阪事務所が観光客誘致でスクラムを組み「大龍馬恋」と題したPR展を、竜馬の命日にあたる15日、幕末維新の志士が活躍した京都市で初めて開いた。
 「大龍馬恋」は来年1月に始まるNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ企画。“大”阪事務所が“恋”(連)合するという意味で、等身大の竜馬像も設置された京都駅前のPR会場には各県の観光キャンペーンレディーやキャラクターの着ぐるみも登場し、市民や竜馬ファンらに観光パンフレットなどを配った。
 霧島ふるさと大使の川畑りえ子さんは「鹿児島は、竜馬が日本人で初めて新婚旅行に訪れた場所。癒やしの旅を味わって」とPRしていた。


大阪
龍馬“174歳”高知で祝う ホテルに「龍」点灯
 幕末に活躍した坂本龍馬(1835~67)の誕生日で命日にもあたる15日、龍馬の偉業を顕彰する催しが、高知市内各地で行われた。来年1月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送が始まり、県内でも「土佐・龍馬であい博」が開かれるのに合わせ、今年は、観光機運を盛り上げるための新たなイベントも開かれ、県内外から訪れた大勢の龍馬ファンが、薩長同盟の橋渡しや大政奉還に大きな役割を果たした、幕末の英雄の生涯に思いをはせていた。
 龍馬の生誕地にある記念碑(同市上町)前では、174回目の誕生日を祝う「龍馬誕生祭」があり、約100人が参加。龍馬の子孫にあたる神戸市須磨区の土居晴夫さん(86)らが玉串を奉納した後、近くの保育園児が鼓笛隊の演奏を披露し、全国龍馬社中の橋本邦健会長らが講話した。
 講話の中で橋本会長は、今後、オランダや台湾など海外にも龍馬会を作っていく考えを明らかにし「我々も龍馬の行動力、先取性を見習い、少しでも近づけるよう頑張りたい」と語った。
 高知市鴨部の江川澄雄さん(78)は「現代の日本も激動の時代を迎えているが、龍馬のような発想の人はいない」と、〈平成の龍馬〉の出現に期待。神奈川県秦野市の会社員女性(29)は「今の時代に、龍馬が生きていたら、宇宙にいこうとしているのでは」と、思いをはせていた。
 一方、「ホテル日航高知旭ロイヤル」(同市九反田)では、ホテルの壁面に「龍」の一文字を夜空に浮かび上がらせた。隣接する立体駐車場の壁面には、龍馬の立像写真をプロジェクターで浮かび上がらせ、坂本雅彦マネジャーは「長崎に負けず、高知も一緒に盛り上げていきたい」と意気込んでいた。
 また、丸の内緑地公園(同市丸ノ内)では「龍馬よさこい冬の舞」が初めて開かれ、有名チームを含む19チームがよさこい鳴子踊りを乱舞。JR高知駅では、龍馬や岩崎弥太郎のキャラクターや肖像画などを車体に描いた特急「南風」の出発式が開かれた。南風は、JR岡山駅と県とを結び、来年いっぱい運行される。
(2009年11月16日 読売新聞)


岡山
異国人の強さ知る 龍馬テーマの講演会
 開催中の岡山城秋季特別展「江戸時代に学ぶ行財政改革 熊澤蕃山から山田方谷まで」(山陽新聞社など主催)に合わせ15日、岡山市北区柳町の山陽新聞社さん太ホールで、幕末の政治史に詳しい一坂太郎・山口県萩市特別学芸員が講演した。
 演題は「龍馬とその時代 黒船来航」。一坂氏は、嘉永6(1853)年のペリー来航のころ坂本龍馬が江戸・品川付近の警備を担当し、自らの意志で西洋の砲術も学んでいたと指摘。「異国人を討ちたいという思いだけでなく、強さの理由を知らなければならないという深い考えを持っていた」と評価した。
 同十日市西町、会社員諸河博さん(37)は「男らしいイメージがある龍馬の思想が、どんな影響を受けて成り立ったのか実感できた」と話していた。
 坂本龍馬に関する一坂氏の講演は来春も同ホールで開かれる予定。



香川
日向市史談会が小豆島で交流 香川
 小豆島(香川県)と幕末の人物史を共有する宮崎県日向市の歴史研究グループ「日向市史談会」の甲斐誠二会長(72)ら17人が16日、小豆島町福田の雲海寺で、幕末の事件「寺田屋騒動」で殺害された田中河内介(かわちのすけ)・左馬介(さまのすけ)父子を顕彰する「田中河内介顕彰会」(小豆島町)と交流し、非業の死を遂げた志士たちを偲(しの)んだ。
 河内介は但馬・神美村(現在の兵庫県豊岡市)の生まれで、後に明治天皇となる祐宮(さちのみや)の養育係だった勤王の志士。文久2(1862)年4月、倒幕急進派の薩摩藩士や諸国の志士らと集まった京都・伏見の寺田屋で公武合体に動く薩摩藩に首謀者として捕らえられる。
 父子のほか、黒田藩家臣の海賀直求や千葉郁太郎、中村主計の志士は海路で薩摩へ護送され、父子は船中で惨殺されて瀬戸内海に捨てられ、残る3人は現在の日向市細島の海岸で殺害されてともに歴史から抹殺された。
 父子の遺体は、足かせがついたままの姿で小豆島の同寺近くの海岸に漂着。地元では手厚く葬り、現在も慰霊と顕彰が続いている。日向市でも同様に維新の志半ばで消えた3人の志士と歴史を顕彰し続けている。
 日向市史談会の訪問は4回目。15日夕方に3人の位牌(いはい)を携えて来島し、河内介らが中心の物語でTVドラマ化された「天皇の世紀」(大佛次郎原作)のビデオを、顕彰会のメンバーと鑑賞して旧交を温めた。
 この日は同寺で合同の法要と墓参をして、歴史談議に花を咲かせた。甲斐会長は「小豆島の会と交流しながら、顕彰を続けたい」と話していた。


高知
「龍馬型」拳銃 20日から公開
 佐川町甲の町立青山(せいざん)文庫は坂本龍馬が京都・寺田屋事件で使ったとみられる拳銃と同型の拳銃を20日から特別公開する。29日まで。
 この銃はアメリカのスミス&ウエッソン社が幕末から明治初めにかけて製造した回転式6連発の「モデル2アーミー」=写真。2年前に県内の民家で見つかった。民家から提出を受けた高知地検が「歴史的な価値があるのでは」と同文庫に移管した。
 龍馬自身が「6連発の拳銃を使った」と語った1866(慶応2)年の寺田屋事件とは製造時期が重なっている。同文庫名誉館長の松岡司(まもる)さんは「このモデルだった可能性が大きい。初物好きの龍馬は拳銃が好きだったようで、懐に入れた手で拳銃を握っていたという見方もある」と話す。
 拳銃は現在でも使用できるため、一般公開には厳重な管理が必要という。同文庫は来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて常設展示するかどうか検討している。問い合わせは同文庫(0889・22・0348)へ。


焼酎の夜明けぜよ
 来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせ、坂本龍馬が幕末に活躍した高知、長崎、京都の3府県にある酒造メーカー3社が、共同で開発した焼酎「龍馬伝」を発売した。
 長崎県壱岐市の焼酎メーカー「壱岐の華」が「龍馬伝の名称で、瓶やパッケージなどが共通デザインの焼酎を造らないか」と、安芸市本町4丁目の菊水酒造と京都市伏見区の酒蔵「北川本家」に持ちかけた。
 菊水酒造は高知産金時芋を使った芋焼酎、長崎は麦焼酎、京都は米焼酎を造った。それぞれサブタイトルとして「土佐 立志篇」「長崎 希望篇」「京都 風雲篇」と名付けた。ラベルには坂本家の家紋を記し、化粧箱には日本地図や龍馬が残した和歌をあしらった。
 菊水酒造の担当者は「ドラマを見ながらそれぞれの地の焼酎を味わってもらえれば、楽しみが倍増するのでは」と話している。
 価格は1本720ミリリットルで立志篇が1600円、希望篇と風雲篇が各1400円(税抜き)。問い合わせは菊水酒造(0887・35・3501)へ。


高知で坂本龍馬誕生祭 ファンらがしのぶ
 幕末の志士・坂本龍馬の誕生日で、命日でもある15日、高知市上町の生家跡に立つ記念碑前で恒例の「龍馬誕生祭」が開かれ、地元住民や県内外の龍馬ファンらが龍馬をしのんだ。
 地元住民らでつくる同実行委が主催。龍馬の写真が掲げられた記念碑の前で近くの神社の神職が祝詞を読み上げた後、神戸市須磨区に住む龍馬のおいの孫にあたる土居晴夫さん(86)ら出席者が碑の前で手を合わせた。
 土居さんは「10数年前から出席しているが、地元の人たちのおかげで誕生祭が続けられることはありがたい」と話した。
 龍馬に関する講話や地元の市立第四小学校の児童による龍馬にあてた手紙の朗読、上街保育園の園児の鼓笛演奏などが行われた。
 誕生祭に合わせて訪れる全国の龍馬ファンも多く、千葉県市川市の会社員、目黒薫さん(40)は「毎年、龍馬の命日のころにゆかりの地を訪れており、今年は高知に来た。龍馬の奇抜な発想や先を見すえた考えなどにひかれファンになった」と話した。


高知 坂本龍馬の誕生祭
 幕末の志士、坂本龍馬の174回目の誕生日にあたる15日、高知市の龍馬の生家跡で誕生祭が行われました。ことしは全国から100人余りの龍馬ファンが集まり、参加者が記念碑に玉ぐしをささげて龍馬をしのびました。



大分
勝海舟と龍馬足跡たどる
街道ウオークに400人

 大分市は14日、幕末に勝海舟と坂本龍馬が佐賀関から大分を横断したことを記念した「愛媛街道健康ウオーク」を市内で開いた。市民ら約400人が参加、鶴崎公園から国道197号(愛媛街道)沿いのコースを通って佐賀関を目指す20キロのコースと、その半分の10キロのコースに分かれ、途中、別府湾などの景色を堪能しながら半日をかけて歩いた。
 市などによると、2人は1864年、英、仏、米、蘭の四国連合艦隊の下関攻撃を中止させる説得交渉のため長崎に赴いた。その際、佐賀関の徳応寺に宿泊した記録が、当時の住職の手で記されている。
 この日、20キロコースに参加した郷土史家の北川徹明さん(75)は「くたびれたが気持ちよかった。小説などでは海路を使ったと描かれることが多かったが、これを機に史実が広まってくれれば」と話していた。
(2009年11月15日 読売新聞)


長崎
オランダ商館付属の遺構 江戸初期、基礎や石垣の一部確認 綱造り工場関連跡か 平戸・横島
 平戸市教委は16日、同市田平町沖の横島で、江戸時代初期、平戸島にあったオランダ商館(1609-41年)の付属施設とみられる建物の基礎や石垣の一部を確認したと発表した。当時の記録にある帆船用のロープ造り作業所(リンバーン)に関連した施設の可能性が高いという。商館付属施設の遺構が見つかったのは初めてで「商館の活動を裏付ける貴重な発見」(市教委)としている。

 市教委によると、横島は、同市大久保町の国史跡「平戸和蘭(おらんだ)商館跡」から北東に約4キロ。1981年から無人となっている。2007年の踏査で、集落跡を広範囲に囲んだ石塀(南側約100メートル、西側約33メートル、高さ約3メートル)の形状が商館時代のオランダ建築と類似していることが分かった。

 江戸初期の丸瓦も見つかったことから今年10月、発掘調査に着手。その結果、石塀内部の敷地から商館時代の建物の礎石が出土、南側石塀の下からも商館と同じ構造の護岸石垣が見つかった。また、西側石塀の一部が商館時代に築かれたものであることも分かった。石塀は幕末ごろまで改修を重ね、近年まで防風壁として島民が利用していたとみられる。

 オランダ商館の商館長日記や仕訳帳には、川内浦など4カ所に付属施設があったことが記されている。横島は「商館の島」と記述され、ヤギやヒツジの放牧地やリンバーン、墓の存在は知られていたが、それらの遺構は特定されていなかった。

 市教委の赤木寛さん(考古学)は「今回見つかった礎石は、リンバーンで働いた作業員の住居跡と思われる。文献にはリンバーンは長さ120メートル以上あったとされており、今後の調査で場所を特定したい」と話す。

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 ●西欧の思想 色濃く反映

 ▼元佐賀県立名護屋城博物館学芸課長の高瀬哲郎さん(城郭史)の話 横島の石塀の構造を見ると、日本古来の築造技術を用いながらも、垂直に石が積まれている。日本の石垣は斜めに積むのが普通で、形状には西欧の思想が色濃く反映されている。

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 ▼平戸オランダ商館 東インド会社が1609年設立。江戸幕府により長崎出島移転を命じられるまでの33年間、敷地内に住宅や倉庫など十数棟が建てられ、鎖国以前唯一の国際交易拠点として隆盛を極めた。平戸市は2011年秋オープンをめどに、1639年築造の石造倉庫の復元工事を進めている。


オランダ商館でロープ作り 長崎・平戸の無人島で跡地判明
 長崎県平戸市の横島に17世紀前半、平戸オランダ商館が設置した航海用ロープ作りの作業場があったことが発掘調査で判明し、同市教育委員会が16日、現地説明会を行った。
 横島は周囲約4キロの離島で、昭和56年から無人島になっている。市教委は海に面した石垣の内側で、17世紀前半の陶磁器の破片を発見。また石垣は積み直されているが、元島民の証言から以前はオランダ建築の名残をとどめていたことが分かり、文献に記録があるロープ作りの作業場と作業員家屋の跡地と特定した。
 無人島になる前、石垣の内側には3世帯が居住。その1人で、説明会に参加した農業、沢井真実さん(72)は「生まれた時から石垣はあったが、オランダに関係するものとは思ってもみなかった」と話していた。



3体目の龍馬像ぜよ 長崎でお披露目
 幕末の志士、坂本龍馬が活躍した長崎市で、龍馬の3体目となる銅像が丸山公園に建てられた。誕生日で命日でもある15日、除幕式が開かれた。
 地元自治会や観光業界、財界などが企画。来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」ブームも手伝って、13日現在、建立費約700万円を超える約1255万円が寄せられた。
 高さは台座も含めて約2.4メートル。制作した市内の版画家・彫刻家、小崎侃(こざき・かん)さん(67)は「手で触れ、肩を並べて写真を撮ってほしい。愛される龍馬になれば」。


亀山社中幕末祭:龍馬の功績しのぶ /長崎
 坂本龍馬の誕生日であり命日の「11月15日」を前に、長崎市伊良林2の若宮稲荷神社などで14日、亀山社中幕末祭(亀山社中ば活かす会主催)があった。
 神社は「勤皇稲荷大明神」とも呼ばれ、幕末には龍馬をはじめ、多くの志士が参詣したという。境内では生誕祭が執り行われ、会員ら約20人が参加した。
 また、今年8月の神社近くの長崎市亀山社中記念館リニューアルに伴って、社中跡から境内に移設された坂本龍馬像の奉呈式も行われた。
 松尾光弘宮司は「今後は神社の宝として末永く保持していきます」とあいさつ。針屋武士・活かす会会長は「来年はNHK大河ドラマ『龍馬伝』が放映され、ここにも多くの観光客が訪れると思う。その盛り上がりを来年以降にいかにつなぐか考えたい」と語った。
 15日午前10時~午後3時には、神社近くの亀山社中資料展示場で、見学者にお神酒、お茶が振る舞われるサービスもある。【蒲原明佳】


社会 
龍馬・武将…歴史モノ人気
■カレンダー2010

 国内外の来年のカレンダー約2500種類を集めた「丸善カレンダーフェア2010」が、岡山市北区表町1丁目の丸善岡山シンフォニービル店表町ギャラリーで開かれている=写真。来年1月11日まで。
 フェアは同店の恒例行事。「中四国最大級」という品ぞろえで、国内では珍しい輸入品をはじめ、風景、アート、花、動物などの分野別に様々なカレンダーが並ぶ。
 同店によると、近年は不況のために自社のカレンダーを作って配る企業が減ったこともあって、「好みに合った商品を自分で選ぶ人が増えている」という。今年は坂本龍馬、新選組、戦国武将などをテーマにした「歴史モノ」が特に人気という。また、エコに配慮して過剰な冷暖房をしないよう液晶温度計が付いたものや、メタボ対策にも役立つ食事記録の記入に適したものもあり、見るだけでも楽しい。


近畿日本ツーリスト、「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を発売
坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー 11月16日から発売開始

~歴ドル・美甘子が講師としてツアーに同行~


 近畿日本ツ-リスト株式会社(本社:東京都千代田区、社長:吉川 勝久 以下、KNT)は、日本出版販売株式会社(本社:東京都千代田区、社長:古屋 文明、以下、日販)と協力し、2010年3月21日に全国4都市で同時開催される「第2回 坂本龍馬 幕末歴史検定」(主催:全国龍馬社中 共催:長崎新聞社、企画・運営:日販)の合格対策ツアー「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」を企画、11月16日から募集を開始します。
 http://biz.knt.co.jp/ryoma/mikako

 テレビドラマ・映画やゲームソフトなどが火付け役となり、歴女(れきじょ:歴史好きな女性)という言葉も流行るほど、現在、幕末や戦国時代が大きなブームとなっています。そんなブームの中、昨年に引き続き来年3月に「第2回 坂本龍馬 幕末歴史検定」が開催されます。当検定のインターネット申し込みが11月16日から先行スタート( http://www.kentei-uketsuke.com/ryoma/ )することに連携し、今回の検定対策ツアーを企画、募集することとなりました。

 ツアーのポイントは、(1)検定対策を3回(高知、長崎、京都)に分けて坂本龍馬ゆかりの地を見学しながら学習する。(2)歴ドル(歴史アイドル)の美甘子が同行、検定対策ポイントを学ぶ。(3)各コースとも検定主催者監修の模擬試験付きとなっており、実力チェックすることができる、などです。

 検定に合格したいと考えている方や、坂本龍馬ファンにとっては、大変魅力的な内容となっております。

 坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアーを実施するのは、旅行会社ではKNTのみとなっています。


 「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」概要

 ■コース数:
   (1)「高知コース」(2)「長崎コース」(3)「京都コース」の3コース

 ■実施日:
   (1)2010年1/23(土)~24(日)1泊2日
   (2)2010年2/13(土)~14(日)1泊2日
   (3)2010年3/20(土)~21(日)1泊2日

 ■発着地 :
   (1)羽田空港発着 (2)羽田空港発着 (3)京都駅集合、現地解散

 ■最少催行人員:各コースとも30名様

 ■ご旅行代金:(1)49,800円 (2)54,800円 (3)24,800円 いずれも、お一人様代金
   ※検定料金(初級4,300円ほか)は含まれていません。

 ■添乗員:全行程同行します。

 ■コース一例
  (1):1日目 羽田発→高知着 龍馬ゆかりの地を美甘子と巡ります (高知泊)
      2日目 検定に関する講義&龍馬ゆかりの地をめぐります 高知発→羽田着


お問い合わせ先
 KNT 虎ノ門公務旅行支店 「美甘子と行く坂本龍馬 幕末歴史検定対策ツアー」係
 TEL:03-3502-2921 FAX:03-3502-8588 9:15~18:00(土・日・祝休)


コラム
【次代への名言】竜馬がゆく編(3)
■「世の人はわれを何とも云はばいへ わがなすことはわれのみぞ知る」

 引き続き、坂本竜馬を導く観音(女神)さまの話をつづりたい。
 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』には2人の「乙女」が登場する。きのう紹介したお田鶴さまは架空の女性だったが、乙女はともに、実在する観音さまである。
 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず(志士は自分の遺体が道端に捨てられることを覚悟のうえで国を救おうとする)」。幕末志士の生涯を象徴する孟子の格言だ。少年・竜馬は姉の乙女から漢籍の素読をまなんだとき、このことばに「ひどく感銘した」(「立志篇」)という。女丈夫(じょじょうぶ)だった乙女は、竜馬にとって「最初の武術の師」というイメージが強いが、志士の魂もまた、授かったことになる。
 「姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺(ぶちころし)、日本(ニッポン)を今一度せんたく(洗濯)いたし申(もうし)候」。こんな個性豊かな名文の数々は、乙女との文通のなかで生まれている。
 また、冒頭の味わい深い歌、さらに≪文開く衣の袖はぬれにけり 海より深き 君が美心(まごころ)≫といった優美な歌は、乙女の手ほどきに由来する。彼女は、竜馬の文才を引き出した観音さまでもあった。
 さて、もう一人の乙女は江戸っ子である。そして竜馬の許婚(いいなずけ)だったという。(文化部編集委員 関厚夫)





 嬉しいなぁ、堺さんが武士のブラかぶった姿をまた見られる。

堺雅人、初の時代劇主演…来年公開「武士の家計簿」
 俳優の堺雅人(36)が、2010年に公開される大型時代劇映画「武士の家計簿」(森田芳光監督)に主演することが16日、共同配給する松竹、アスミック・エースから発表された。堺の時代劇の主演は初めて。ヒロインは女優の仲間由紀恵(30)が務める。

 同作は金沢を舞台に、磯田道史氏の同名小説が原作。堺が演じるのは、激動の幕末維新を生き抜き、加賀藩で代々「算盤(そろばん)さむらい」として御算用者として財政に携わってきた猪山家の八代目・直之役。仲間はその妻・駒役。2人は初共演となるが、森田監督は「共通してあるのが、芸能人というものではなく、普通の人の感覚を持っていること。主人公の2人に通ずるものがある」と期待を込めた。

 劇中では天才的な数学感覚の持ち主としてそろばんを用いるシーンもあり、堺は撮影を前に練習に臨んでいるという。

 堺は08年のNHK大河ドラマ「篤姫」で存在感を発揮し、出世作となった。06年の大河「新撰組!」での評価も高く、初主演の今作は、それらの経験を集約した演技に期待が集まる。堺も「派手なチャンバラなどはしませんが、幕末・明治という激動の時代に誇りをもって生きた、ひとりの侍の姿をお見せできれば」と撮影を心待ちにした。12月3日に映画の舞台、金沢でクランクイン。来年4月完成を目指す。


 しかも「そろばん侍」……あの山南さんが小首を傾げてた計算問題を、河合さんのように解いちゃう役なんですか(笑)。時代的にも幕末だし、これは見てみたいです。



 その2です。

青森
斗南藩士・廣澤安任:末えいが足跡、本に 八戸の安正さん、出版 /青森
 青森県の発足に尽力するなど県の成り立ちに大きく貢献した斗南(となみ)藩士、廣澤安任(やすとう)(1830~91)の足跡をたどった本「活人剱(かつじんけん)、活人農」を、安任の末えいにあたる八戸市の会社役員、廣澤安正さん(59)が出版した。
 廣澤安任は会津藩に生まれ、戊申戦争で敗れた会津が、現在の青森県下北、上北、三戸郡付近に斗南藩を興すことを許された際、青森に移住した。
 71年の廃藩置県では、農業基盤の安定した津軽地方と経済力の弱い県南地方の合併を提言し、現在の青森県の誕生に寄与した。また海外の肉食文化を取り入れようと、日本で初の洋式牧場を現在の三沢市に開設した。
 本では、会津藩士として藩主に尽くし、斗南藩に移ってからは青森の発展に力を注いだ安任の苦労や功績が丁寧に書かれている。大久保利通ら新政府とのかかわりについては、家に残っていた資料や安任に関する書籍を読み解き、廣澤さんなりの解釈を記した。
 廣澤さんは「安任は不器用だが、自分がこれと思うことを追求する情熱と信念を持っていた。明治維新のころの日本人には国をどうにかしたいという熱い思いがあった。(安任の生き方には)現代に訴えるものがあると思う」と話している。
 本は税込み1890円で、県内の書店などで販売されている。【喜浦遊】



福島
「オペラ白虎」制作へ 会津若松の市民グループ
 福島県会津若松市の市民グループが中心になって、白虎隊をテーマにした市民参加型の「オペラ白虎」が制作されることが決まった。
 本年度から取り掛かり、2012年度に会津若松市と東京都での公演を計画。白虎隊を通して愛や平和を訴えるとともに、地域観光への貢献も目指している。
 オペラ制作の中心になるのは同市の地域振興芸術委員会(宮沢洋一委員長)。11年度までに完成させるという。
 制作スタッフはいずれもプロで、同市出身の指揮者佐藤正浩氏が芸術監督を務める。作曲家加藤昌則氏と声楽家宮本益光氏が、それぞれ作曲と台本を担当、演出家岩田達宗(たつじ)氏が演出担当になる。オペラに参加する合唱団約80人は市民から公募する。
 佐藤氏は「地域発のオペラは初演だけで終わることが多いが、今回は繰り返し上演できるようにしたい。福島県は合唱が盛ん。オペラが豊かな音楽体験の場になるようにしたい」と話す。
 地域振興芸術委は「観光型地域オペラ」を目指すという。そのためにオペラをハイライトで短く紹介したり、曲をコンサート形式で演奏したりして、上演回数を増やせるよう工夫する。
 地元でIT関連のベンチャー企業を経営している宮沢委員長は「今の時代を反映した新しい作品にして、次世代に引き継ぎたい。会津若松市の活性化にも結び付けたい」と言う。
 オペラ制作までの間、体験型講座やフォーラム、それらの成果を発表する演奏会なども開催する。本年度分の講座は来年1月から4回、小中学生を対象にオペラ「夕鶴」を取り上げる。


白虎隊をテーマに新作オペラを制作へ
 会津若松市出身の世界的な指揮者佐藤正浩さんが芸術監督となり、白虎隊の悲劇をベースに愛や平和などをテーマとしたオペラ「白虎」が制作される。
 平成24年度の初演に向け、地元会津でワークショップなどを催し、舞台への住民参加に結び付ける考えだ。
 幕末の会津の歴史を題材にした日本を代表する歌劇を目指す。


磐城・平城の本丸跡を歩く会/参加者を募集
 磐城平城の歴史を学ぶ体験学習会「本丸跡を歩く・見る・考える」は21日、いわき市平字旧城跡の本丸跡などで開かれる。
 15日まで参加者を募っている。
 市内の有志でつくる磐城平城跡公園の会が、城跡の保存と活用を目指して6月に開いたシンポジウムに続く活動。
 いわき商工会議所の共催。
 城跡は民間の所有地となっているため、普段はなかなか入れない本丸跡などが見学できる。
 当日は午前10時から戊辰戦争後に旧藩主・安藤家が暮らした住宅で座学を行い、磐城平城の概要や歴史などについて理解を深める。
 正午からは昼食を取りながら本丸跡を散策、周辺に伝統のいわき絵のぼりを掲げて雰囲気を盛り上げる。
 午後1時半ごろから再び旧安藤家住宅でまとめの場を設ける。
 定員100人。
 保険代、資料代などを含み参加費1千円。
 昼食、飲み物は各自持参する。
 磐城平城は戊辰戦争で落城、城跡は明治初期に磐前県から民間に払い下げられた。
 問い合わせは商工会議所電話0246(25)9152へ。


郡山(福島) 明朗 開拓者精神 今も
 「今の自分たちがあるのは開拓のおかげ。疎水(水路の新設や通水)で水田が開けたのだから、米作りには思い入れがありますよ」。古川勝幸さん率いる「漢方無農薬研究会」の一員、安田潤一さん(46)が言う。会津藩士だった祖先が400年前にこの地に移り住み、安田さんで17代目という。「戊辰戦争で負けたから、水をもらうにも後回しにされて苦労したようです」と開拓の秘話を語る。
 湖水東注――それがかつての寒村、安積地方の悲願だった。奥羽街道の宿場町だったが降雨量が少なく、たびたび干ばつに見舞われた。日本海に注ぐ広大な猪苗代湖から何とかして水を引きたいと人々は考えた。
 「ちょうど廃藩置県で困窮する侍たちを救う開墾地が必要でした。内務卿だった大久保利通が、この場所に目を付けたんです」と鈴木剛之さん(72)。開拓の拠点で現在は資料館となっている「開成館」で案内ボランティアを務める。
 果たして、奥羽山脈にトンネルを掘り、原野に水を通す大規模な疎水工事が行われることになった。わずか3年で延べ85万人の労力と、今の金額にして400億円相当の工費が投入され、130キロに及ぶ水路が1882年(明治15年)に完成した。人口5000人の村に、近隣の会津や二本松を始め、九州・久留米や四国・土佐など9藩から2000人が入植し、開墾に励んだ。明治政府の大規模開発事業の第1号だった。
 張り子のトラの絵付けをする92歳の現役人形師、橋本ミヨシさん 「フロンティアスピリットっていうのかな、排他的じゃなくて明朗闊達(かったつ)、悪く言えばがさつ。そんな気質が郡山の人にはありますね」。鈴木さんが快活に笑う。
 母なる湖を望もうと、車を走らせた。市の西端にある標高1000メートルの布引(ぬのびき)高原。ダイコン畑に高さ100メートルの風車33基が巨大な羽根を回す。現代の「開拓」の風景がそこにはあった。年間1億2500万キロ・ワット時の電力を作り出す、国内最大級の風力発電所。展望台からは青々と水をたたえた猪苗代湖と磐梯山、那須連山や安達太良山など、360度のパノラマが楽しめる。
 貧しい時代に人々の心を慰めた郷土玩具も忘れてはならない。300年前から作られている高柴地域の張り子人形。大黒様や舞い姿。躍動感あるしぐさや目を細めて笑う表情など、見ているだけで楽しくなる。
 工房集落「デコ屋敷」の一軒、大黒屋には92歳の現役人形師がいる。橋本ミヨシさん。21代目の当主、彰一さん(34)の祖母だ。20歳で嫁いで以来、人形を作り続けている。毎日工房にちんまり座り、観光客と会話を楽しみながら来年の干支(えと)、トラの張り子に注意深く絵筆を走らせる。「そんなにたくさんできないの。年だからね」。完成するトラは1日2、3個。素朴さが人気を集め、来年2月分まで予約でいっぱいだという。
 「伝統って、いつまでも古びないフレッシュなものなんです」。彰一さんの言葉に共感した。

■アクセス
 東北新幹線で東京から郡山まで1時間20分。

■開成山公園

 市中心部にあり、安積開拓への布石となった最初の開墾地。大久保利通やオランダ人技術者ファン・ドールンら開拓の尽力者たちをテーマにした彫刻「開拓者の群像」=写真=が立つ。周辺には開拓ゆかりの開成館や安積歴史博物館もある。

■家庭用漢方農法商品

 古川さんが使っている漢方活性剤や虫よけなどには家庭用シリーズ「Kampo Garden」もある=写真=。1000倍に薄めて使う活性剤(150cc)3200円、プランター栽培用の土(4リットル)1600円など。NPO法人「漢方環境安全対策普及協会」の製造で、発売元はアトリエ・ユキヤナギ((電)03・6325・0545)。
■問い合わせ
 郡山市観光協会((電)024・924・2621)。古川農園((電)024・952・8854)。
(2009年11月4日 読売新聞)


栃木
先祖の恩返しに拝殿幕 那須塩原の渡部さん、那須・高久神社に寄贈
【那須】「先祖を助けてくれた神社に恩返ししたい」と、那須塩原市大黒町の無職渡部健助さん(78)はこのほど、高久甲の高久神社に拝殿幕を寄贈した。新装された幕は縦1・5メートル、横9メートルで、左三つどもえの紋がある。従来の幕は、同神社が合祀により建立された1915(大正4)年から使われており、全体が黒ずみ傷みも激しかった。26日の秋季大祭で披露される。
 渡部さんによると、渡部さんの祖父らは明治時代中期、仕事探しのため福島・会津地方から上京。だが当時、戊辰戦争の影響で会津出身者は「賊軍」扱いされ職に就けなかった。失意の帰郷途中、衣食に困っていたところ、同神社宮司らの温かいもてなしを受けそのまま土着したという。
 また、昨年5月に亡くなった妻の純子さんは同神社宮司家の出身。亡くなる直前に、同神社で桜の花見という思い出づくりもできたという。
 渡部さんは「私たちが幸せに暮らして来られたのは神社や地元の人たちのおかげ。これからも地域の皆さんに神社を守っていただきたい」と述べた。
 同神社宮司の清水寛治さん(59)は「幕は傷みが激しかったが、資金的な事情もあり新装できなかった。氏子の皆さんにも喜んでもらえると思う」と話していた。


神奈川
かながわ遊ナビ:坂本龍馬の活躍描くミュージカルオペラ /神奈川
◇25・26日、横浜・中区 来月1日、横須賀
 幕末に奔走した坂本龍馬の活躍を歌と踊りで描くミュージカルオペラ「龍馬」が11月25、26日に横浜市中区の横浜関内ホールで、12月1日に横須賀市本町3のよこすか芸術劇場で、それぞれ上演される。各回先着30組をペアで招待する。
 龍馬をバリトン歌手の平良交一さん、勝海舟を野口五郎さんが演じるなど豪華で多彩なキャストがそろう。脚本はジェームス三木さん、演出を江守徹さんが手掛けるなどスタッフも充実。振り付けは、龍馬の出身地・高知県の「よさこい鳴子踊り」を現代風にアレンジし全国に広めた國友須賀さんが担当する。
 舞台は幕末の黒船来航で始まる。当時19歳の龍馬が、黒船と大砲のごう音に衝撃を受け、世界に目を向ける勝海舟とのかかわりや大政奉還などに尽力した姿を描く。広報担当者は「幕末の英雄の姿を通して、子供たちに何を残せるのかを伝えたい」と話している。
 いずれも午後6時開演。チケットは全席指定でSS席1万2000円、S席1万円、A席7000円。問い合わせ先は龍馬東京オフィス(03・5284・8440)。【中島和哉】



山形
出版:「なぜ西郷隆盛が祀られたか」 季刊誌「日本主義」で庄内藩特集 /山形
◇精神文化を再考
 季刊誌「日本主義」(東京・白陽社)の庄内藩特集が出版され、庄内地方を中心に話題になっている。
 「庄内藩の秘密 庄内の地になぜ西郷隆盛が祀(まつ)られたか」と題した特集。戊辰戦争で賊軍とされた庄内藩だが、西郷隆盛から極めて寛大な措置を受けた。庄内藩は西郷隆盛を敬慕し全国的に有名な「南洲翁遺訓」を刊行。また76年には酒田に南洲神社が創建された。
 特集はこれら庄内人の精神文化を再考する形で構成。鶴岡市の到道博物館館長で庄内藩主酒井家18代当主の酒井忠久さんらの座談会▽戊辰戦争の実相、酒田・本間家のマンパワー▽鶴岡市出身の作家藤沢周平の文学--など地元の著名人を交え多彩に展開している。
 「日本主義」は日本文化の価値を見直そうと幕末・明治維新にスポットをあて2年前に発刊。長岡藩(新潟)や会津藩(福島)などを扱ってきた。「庄内藩」の今号は酒田の書店や南洲神社、山居倉庫、鶴岡の到道博物館などで扱っている。1050円。【佐藤伸】




茨城
安政の大獄から150年 “因縁の歴史”雪解け加速
 幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷(じょうい)派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによる「桜田門外の変」で暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、滋賀県彦根市の獅山向洋市長ら一行が二十一日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した水戸藩家老の安島帯刀ら三人の墓参りをすることが分かった。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが水戸藩士の墓参りをするのは初めてという。来年は「桜田門外の変」から百五十年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。 (吉原康和)
 安政の大獄は、一八五八(安政五)~五九年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、十三代将軍の後継者に紀州藩主徳川慶福(後の十四代将軍徳川家茂)を決定したことに反発した大名、公家、志士ら百人以上を大量弾圧した事件。五九年、水戸藩の安島帯刀や長州藩士の吉田松陰、福井藩士の橋本左内ら計八人が死罪となり、翌年三月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
 墓参りに訪れるのは獅山市長のほか、井伊家十八代当主・井伊直岳さんら。二十一日に予定されている水戸藩開藩四百年記念シンポジウムなどに参加後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら二人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
 彦根市では、安政の大獄から百五十年に当たる今年八月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士の墓参りはこれに続く第三弾といえる。
 水戸市と彦根市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から百周年に当たる一九六八年、親善都市を締結。以来、さまざまな交流を続けている。
 水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じだった。今回の水戸藩士への墓参りは大変ありがたいこと。私自身もしかるべき時期に井伊直弼公のお墓参りなどをしたい」と話している。


古式の火縄銃を披露 土浦
 土浦藩に伝わった関流古式炮(ほう)術(火縄銃)の公開演武が、中央一の土浦城址本丸内で開かれた=写真。市、市観光協会などが主催。昨年は雨で中止になったが、毎年行われ今回が第十五回。

 関流宗家の初代誕生は慶長元(一五九六)年といわれ、土浦藩土屋家の炮術指南として伝授され、幕末まで続いた。撃ち手が一人ずつ、立放ちや片ひざ立ちに構えて火縄銃を次々に発射。それを十一代宗家の関正信さんが解説した。連射による豪快な釣瓶(つるべ)撃ちも披露。大勢の観客の中には外国人グループもいて、伝統の妙技に見入っていた。 (塙幸雄)


千葉
らんどまあく@千葉
富津岬沖の海堡

 「ひどく崩れている。これでは100年後には海に戻ってしまう」。10月下旬、富津岬の先端の東京湾口に浮かぶ第一海堡(かい・ほう)を一緒に海から見た東京湾海堡ファンクラブの小坂一夫会長(62)が顔を曇らせた。海堡南側に、以前にはなかった大きな崩れを見つけたのだ。
 島全体が薄茶色だった。台風の大波が打ち寄せたのだろう。「大南(強い南風)で海堡全体が潮をかぶったに違いない」
 岬の西方、富津市域の東京湾にある二つの島が海堡だ。往来する船に、そこが湾口であることを告げるランドマークだ。
 海堡はもともと、明治国家が首都・東京を防御する砲台を据えるために築いた人工島だ。深い海、潮流も速い。ろくに土木機械もない時代、軍に雇われた富津の漁師や農民が石や土砂を運び、作業に携わった。
 同市千種新田に住む雨笠正昭さん(68)の祖父も現場で働いた一人だ。「おじいさんの首の後ろに大きなコブがあった。モッコを担いで石や土砂を運び、タコになったと言っていた」
 第一海堡の近くまでノリ養殖の網が広がっていた。岬の外湾側は新富津漁協の漁場だ。沖合約3キロ、岬に沿って6キロほどの海に179区画。漁場というより水を張った田んぼのようだ。
 漁場の6地点で、漁協の観測船「拓南」が海水温や透明度などを調べている。平野裕巳船長(62)は「海は毎日、表情が違う。海中も浅瀬ができたりなくなったり日々変わる」と話す。
 海堡から砲弾が発射されることはなかった。「しかし」と安室真弓・同クラブ幹事(76)は強調する。「日露戦争ではロシアのウラジオストク艦隊が房総沖に現れたが、海堡が抑止力になった。海堡がなかったらロシア艦が湾内に入り、東京は艦砲射撃されたに違いない」
 第一海堡は岬と陸続きで自由に遊びに行けた時代もあった。今は海が遮り、財務省も不発弾存在の可能性を理由に立ち入り禁止を続ける。海上保安庁が管理する第二海堡も上陸禁止だ。
 幕末、黒船の砲艦外交から江戸を守った品川沖の台場は国史跡で都立公園になっている。明治期の緊迫した国際情勢と海洋土木技術の高さを象徴する歴史遺産である二つの海堡は、荒れ果てたままだ。(高山修一)



山梨
龍馬の姉・乙女の魅力伝える 15日、剣道大会でひ孫の岡上さん 前向きな生きざまを紹介
 幕末の志士・坂本龍馬の姉・乙女のひ孫にあたる岡上汎告さん(69)=南アルプス市西野=が15日、山梨市民総合体育館で開かれる千葉さな子杯剣道大会(山梨龍馬会、甲斐援隊主催)で曾祖母の乙女を語る。当日は、女性剣士の参加児童らを前に祖母や家族から語り継がれる乙女の人間像や生きざまを紹介。子孫だからこそ知る魅力を披露する。岡上さんは「剣術などにたけた乙女だが、常に前進していく強い精神面を中心に伝えていきたい」と話している。
 岡上さんなどによると、坂本乙女(1832-79年)は剣術や馬術、弓術にたけ、剣術を龍馬に教えたことでも知られる。岡上さんは幼少時代、高知県内に住み、小学1年時の7カ月間は乙女の娘で自身の祖母にあたる菊栄と過ごした。
 「口の人になりな 心の人になりよ」-。菊栄の「口先だけでなく、心豊かな人になりなさい」という意味の言葉が一番印象に残り、「乙女から菊栄、そして子孫へと語り継がれた思い」と説明する。菊栄などから聞いた話で、乙女の人間像が浮かび上がるといい「型破りな女性で、自立心が強く、前向きな人だった」と話す。
 岡上さんが語る剣道大会は今年で5回目を迎え、龍馬のいいなずけとされる女性剣士千葉さな子を偲しのぼうと始まった。大会を含めて乙女を大勢の前で語るのは初めてという。岡上さんは「曾祖母の話から龍馬やさな子への興味を深めてもらうとともに、礼儀や心の大切さを知ってもらいたい」と話している。
 剣道大会は15日午前9時半スタート。岡上さんの話は閉会式内で午後1時ごろの予定。


長野
上田藩主暗殺未遂事件などを紹介 上田で資料展示
 上田市立上田図書館で10日、幕末に起きたとされる上田藩主暗殺未遂事件などを記した「上田縞絲之筋書(じまいとのすじがき)」や関連資料を並べた「貴重資料紹介展 幕末藩主暗殺疑獄」が始まった。
 絲之筋書は、1868(明治元)年に上田藩士が書き残した文書を同市出身の飯島花月が1913(大正2)年に書き写して加筆。上田藩最後の藩主松平忠礼(ただなり)が稲荷山(千曲市)の宿で普段と異なる雰囲気を感じ、食事を取らなかったことや、飯島が稲荷山の老人から、家老の一人が忠礼の弟を藩主にするため、忠礼暗殺を企て食事に毒を盛ったと聞いた話が記されている。
 上田市の主婦らでつくる古文書学習会「山なみ」(宮島かつ子会長、25人)が読み下した粗筋や藩士の経歴などを冊子にまとめ、館内で500円で販売。登場する藩士の屋敷を記した地図や松平氏の系譜なども展示している。
 宮島会長は、絲之筋書について、忠礼暗殺を企てたとのうわさがあった家老と対立した別の家老側の視点で書かれているとし、「史実としてでなく、小説として読んでほしい」と話していた。(提供:信濃毎日新聞)


「和田嶺合戦」の戦死者しのぶ
 下諏訪町の青木悟町長など役場関係者や住民ら約30人は10日、145年前の幕末に同町と長和町境の和田峠で起きた「和田嶺(れい)合戦」で戦死した水戸浪士をまつる浪人塚(下諏訪町樋橋)と松本藩士の墓(同町東町中)を訪ねて冥福を祈った。水戸市からも浪士の子孫をはじめ、浪士をまつった回天神社の役員ら5人が訪れ、交流している地元住民との再会を喜んだ。
 
石川
火薬製造の遺構確認 加賀藩の土清水塩硝蔵 辰巳用水引く水路も存在
 加賀藩の黒色火薬製造施設だった土清水(つっちょうず)塩硝蔵(えんしょうぐら)跡(金沢市涌波町)で進められている同市の発掘調査で、火薬の原料を粉末に加工していた「搗蔵(つきぐら)」の遺構が12日までに確認された。同塩硝蔵で製造施設の存在が明らかになるのは初めて。辰巳用水から水を引き込む水路跡も確認され、市は国史跡指定を申請している同用水の文化的価値がさらに高まるとみている。
 市は、幕末から明治初期にかけての土清水塩硝蔵の配置を記した「土清水製薬所絵図」などを参考に発掘調査を行った。広さ約8万平方メートルに及んだとされる塩硝蔵敷地で、搗蔵が存在したとみられる東側の1カ所で東西方向に11メートル、南北方向に2メートル掘削したところ、直径約50センチの円を囲むように石が並べられた遺構が見つかった。
 市はこの円形の集石遺構が搗臼(つきうす)の痕跡とみている。黒色火薬の原料となる塩硝、硫黄、木炭を搗臼の中に入れて粉末にしていた可能性が大きい。
 集石遺構から約2メートル離れた場所には石が2列に並べられていた。幅約1メートルの水路跡で、敷地東側を流れる辰巳用水から水を引き込んでいたとみられる。水流で水車を回し、杵(きね)を上下に動かしていたと想定され、土清水塩硝蔵と同用水との密接なかかわり合いがあらためて浮き彫りとなった。
 塩硝蔵は軍事施設の性格上、史料が極めて少なく、実態は解明されていない点が多い。市は2007年度から発掘調査に乗り出し、これまでに塩硝を保存していたとされる硝石御土蔵(しょうせきおんどぞう)の遺構が見つかっている。
 市は搗蔵の痕跡と内部構造の一部を確認したことで「製造過程に直結する主要施設の構造を理解することが可能となった」(市埋蔵文化財センター)としている。調査では、搗蔵の築造時に旧地形を掘り込んだ上に土を盛り、地盤改良していたことも分かったという。
 市は14日、金沢歴史遺産探訪月間の一環として搗蔵の遺構跡で説明会を実施する。今年度は搗蔵に至る道路の遺構を確認するための発掘調査も実施し、土清水塩硝蔵の全容解明を目指す。
 土清水塩硝蔵 もともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため1658(万治元)年に土清水に移転し、1870(明治3)年以降に廃止されたとみられる。加賀藩の塩硝は国産最良品質で生産量も最大とされた。五箇山の山間部で生産、湯涌などを経由する「塩硝の道」を通じて金沢に運び込まれた。



滋賀
井伊家子孫らが初の旧水戸藩士墓参りへ
 幕末の「安政の大獄」で尊王攘夷派の志士らを弾圧し、水戸浪士らによって暗殺された江戸幕府大老・井伊直弼の地元、彦根市の獅山向洋市長らが21日、水戸市を訪れ、大獄で刑死した同藩家老の安島帯刀ら3人の墓参りをする。水戸市と親善都市を結ぶ彦根市の市長らが旧水戸藩士の墓参りをするのは初めて。来年は井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」から150年。今回の墓参りを機に、“因縁の歴史”の雪解けがより一層進むものとして期待されている。
 安政の大獄は、1858(安政5)~59年、井伊直弼が、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、13代将軍の継嗣に紀州藩主徳川慶福(後に14代将軍徳川家茂)に決定したことに反発した大名、公家、志士ら100人以上を大量弾圧した事件。59年、長州藩士の吉田松陰や福井藩士の橋本左内、水戸藩の安島帯刀ら計8人が死罪となり、翌年3月に起きた「桜田門外の変」の一因とされる。
 墓参りをするのは獅山市長をはじめ、井伊家18代当主・井伊直岳さんら。21日に予定されている水戸藩開藩400年記念シンポジウムなどに参列後、安島帯刀の墓のある酒門共有墓地、同藩京都留守居役鵜飼吉左衛門ら2人の墓のある常磐共有墓地を訪れる。
 彦根市では、安政の大獄から150年にあたる今年8月以降、獅山市長ら一行が、大獄で死罪となった吉田松陰や橋本左内の地元の山口県萩市、福井市などを相次いで訪れ、歴史的な和解を果たした。今回の水戸藩士らの墓参りはこれに続く第3弾。
 彦根市と水戸市は、安政の大獄や桜田門外の変以来の歴史的わだかまりを超え、明治維新から100周年にあたる1968年、親善都市を締結。彦根市から白鳥、水戸市から黒鳥が贈られ、さまざまな交流を続けている。
 水戸市の加藤浩一市長は「(大獄や桜田門外の変で殉職した双方の関係者は)立場の違いこそあれ、国を思う気持ちは同じ。今回の水戸藩士の墓参りは大変ありがたいこと。私自身も機会をとらえて、しかるべき時期に井伊直弼公の菩提(ぼだい)寺などにお墓参りをしたい」と話している。
 (水戸支局・吉原康和)


彦根城300分の1模型が一新
 国宝・彦根城を300分の1にした模型が一新され、城内の佐和口多聞櫓(たもんやぐら)で展示されている。幕末の大老・井伊直弼が青年期を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」や家老を務めた木俣家の屋敷など城の内堀と中堀の間の部分が新たに作られた。
 元になった模型は、1971(昭和46)年に故・藤島亥治郎東大名誉教授の監修の下、城中心部に限って作製。今回は絵図など最新の史料を踏まえ、リニューアルした。寸法は縦2・6メートル、横3・4メートル、高さ1・7メートル。さらに模型の周りの床には、同じ縮尺で武家の屋敷を赤色に、町人の屋敷を黄色に色分けした平面図を描き、すべての町名を表記した。
 事業費は約2800万円。歴史まちづくり法に基づき3分の1が国からの補助金の対象となる。
 (伊藤弘喜)


京都
龍馬の酒続々発売 伏見に活気
来年の大河ドラマ当て込み

 京都・伏見の酒造会社が、来年のNHK大河ドラマの主人公、坂本龍馬にちなんだ商品を相次いで発売している。京都市内の百貨店も龍馬フェアを催すなど、消費低迷の中で早々と龍馬人気を当て込んでいる。
 齊藤酒造は11月から、純米吟醸酒「疾風の煌(きらめき)」の先行販売を大丸各店で始めた。切れがある辛口で、幕末の動乱期を駆け抜けた龍馬をイメージした。ドラマ開始の来年1月から本格販売する予定で、「京都を訪れる観光客にも土産として買ってほしい」(営業課)と期待する。
 「京の龍馬」と名付けた純米酒を発売したのは老舗の山本本家。すっきりとした辛口で瓶ラベルに龍馬の写真を使った。黄桜は、生産休止していた純米酒銘柄「竜馬の恋」の販売をこのほど再開。約20年前から販売している吟醸酒「伏見の竜馬」にも180ミリリットル入りを投入した。
 伏見の酒業界は、若者らの日本酒離れと不況で清酒出荷量が前年割れしており、寺田屋事件など伏見に縁が深く、若い世代のファンも多い龍馬人気を起爆剤にと期待を寄せる。焼酎でも北川本家が龍馬ゆかりの高知、長崎両県の酒造会社と共同で「龍馬伝」シリーズを商品化し、龍馬の誕生日と命日の11月15日に発売する。
 販売低迷に悩む百貨店業界でも、大丸京都店(下京区)が龍馬をテーマに食品フェアを開いており、17日まで高知の地酒や長崎県のカステラなどを販売する。「龍馬は性別や年齢を問わず人気が高く、歳末前の商戦を活性化させたい」(広報)。地元商店街も動きだした。京都三条会商店街(中京区)は14日に「龍馬まつり」を初めて開く。近くの武信稲荷神社で仲尾宗泰宮司が龍馬と神社のゆかりを紹介する。


龍馬 恋愛成就 見守るぜよ NHK大河決定後カップル続々 京都・武信稲荷神社
 幕末の志士、坂本龍馬と、妻のお龍(りょう)のロマンス伝説が残る「武信稲荷神社」(京都市中京区)が、来年からNHK大河ドラマで「龍馬伝」が放送されることもあって、「縁結び」の人気スポットとなっている。龍馬の命日とされている15日には、恋愛成就を祈願するカップルでにぎわいそうだ。
 同神社の境内には古くから「縁(えん)の木」として、縁結びに御利益があるといわれている樹齢約800年のご神木・エノキ(高さ約30メートル)がある。江戸時代末期、龍馬とお龍はこのご神木に登り、神社の近くの獄舎に捕らえられていたお龍の父親の様子をうかがったとされる。
 その後、命を狙われるようになった龍馬は音信不通になったが、しばらくしてご神木に「龍」の文字が刻んであったことから、お龍は龍馬が京にいると確信。龍馬の知人宅を訪ね歩き、再会を果たしたという。
 この伝説は、もともと地元住民に語り継がれていたが、「龍馬伝」の放映が決まった昨夏以降、ネットなどで紹介され、同神社ではカップルがご神木に手を合わせる光景が目立つようになったという。
 同神社の仲尾宗泰宮司は「口伝とはいえ、今も2人の人気は根強く、龍馬とお龍にあやかりたいという人たちが訪れています」と話している。


高知
罪状無念…龍馬の盟友、武市瑞山の切腹直前の書状見つかる
 幕末の志士・坂本龍馬の盟友として知られ、土佐勤王党を主宰した武市(たけち)瑞山(半平太、1829~65)が、切腹直前に獄中から仲間に送ったとみられる書状が、高知市の土佐山内家宝物資料館で見つかった。反論の機会すら与えられず、罪状を言い渡されたことに対し「実に(以下3回)絶言語申候(げんごにぜっしもうしそうろう)(言語道断だ)」と、「実に」を4度繰り返しており、同館は「志を遂げられなかった悔しさが生々しく伝わる」としている。13日から同館の特別展で公開される。
 同館が、志士らの書状約20通をまとめた巻物を所蔵資料から見つけた。武市の書状は複数あり、あて先は不明だが、いずれも藩に捕らえられた1863年から切腹までの1年半の間に記されたらしい。
 「実に」と書かれた書状は、1865年の罪状言い渡しの直後のもの。病床から無理やり連れて行かれた取り調べの様子などを筆記。「皆々…所置(切腹)スル事」になるだろうとの覚悟を記して結んでいる。
 明治時代の歴史書「維新土佐勤王史」には同様の内容は記されていたが、書状の所在は不明だった。
 藤田雅子・同館学芸員は「武市の普段の字よりも小さいが、『実に』の字だけは大きく、無念さがわかる」と話している。

(2009年11月13日 読売新聞)


佐賀
朝日新聞財団 鍋島家の人形修復助成
 佐賀市の財団法人「鍋島報效会(ほうこうかい)徴古館」が保存している佐賀藩鍋島家伝来の「ひな人形 左大臣・右大臣」と「葵御紋付御所人形」などの修復事業が、朝日新聞文化財団の「文化財保護に関する助成」(09年、10年度)の対象事業に選ばれた。同財団による助成は今年から始まり、選考の結果、全国の30件に総額約6千万円が助成される。
 今回修復される「左大臣・右大臣」は江戸後期の作。鍋島家の「ひな人形」は、江戸時代は佐賀藩江戸藩邸、明治時代以降は東京の侯爵鍋島家に伝わったが、「左大臣・右大臣」だけは当初から佐賀の地に伝わり、1874(明治7)年の「佐賀の乱」による焼失を唯一免れたものとされる。経年劣化により、絹糸で作られた頭髪が抜け落ちたり、衣装の傷みが激しくなっていたりしているという。
 また、「葵御紋付御所人形」は金糸の葵の御紋をつけており、徳川家ゆかりの品と推測されている。幕末の佐賀10代藩主鍋島直正の妻盛姫か継室筆姫の愛用品と考えられる。江戸時代の末、人形の目にガラスの目が入るようになった早い時期の作。人形の表現の変遷を研究するうえで貴重な資料だが、この人形も傷みが激しく、鼻部分が欠け、髪の毛もほつれている。
 徴古館によると、修復作業は10年1月に開始。文化財としての価値を失わないよう、髪の毛や衣装などがこれ以上劣化しないように現状を維持する方法で修復をするという。徴古館の野口朋子学芸員は「年春の佐賀城下ひなまつりには一般公開出来ると思うので、楽しみにしてほしい」と話している。


福岡
武家屋敷跡からスペンサー銃の弾46発…久留米
 福岡県久留米市は12日、京町の京隈侍屋敷遺跡で江戸時代の武家屋敷や道路の跡、スペンサー銃の弾などが見つかったと発表した。
 市文化財保護課は「武士の居住区の様子と、久留米藩でも当時、最新鋭とされた武器を使っていたことがわかった」としている。
 同藩では、上級武士は久留米城内に屋敷を与えられたが、中級、下級の武士は城周辺の京隈(京町、城南町)や櫛原(櫛原町)に住んでいたとされる。
 今回の発掘調査は、九州新幹線開通に向けたJR久留米駅周辺整備の一環。約2000平方メートルを調べ、武家屋敷数軒と屋敷を区切る道路が見つかった。道路と屋敷の間には側溝跡や漆喰(しっくい)を塗った壁の跡があった。
 藩士の可児(かに)家跡からは、茶わんなどの陶器のほか、子どもたちがままごとに使ったとみられる数センチのかまどや花瓶も出土。貯蔵用の穴倉や、ごみ捨て穴も見つかった。
 同家跡からは、スペンサー銃の未使用弾46発も出土。スペンサー銃は、米国の南北戦争時に使用され、江戸末期に佐賀藩によって輸入されたもので、戊辰(ぼしん)戦争では最新鋭の銃として活躍した。これまで久留米藩での使用を示す文献はなかったが、同藩でも使われていたことがわかったという。
 久留米藩は戊辰戦争で政府軍として東北に追討軍を派兵し、可児家は隊の幹部として参加していた。同課は「後の西南戦争前に政府は武器を回収しているが、使用しなかったものを隠していたのではないか」と推測している。
 同課は15日午前10時から、現地で説明会を開く。(沢井友宏)




長崎
小﨑侃さん制作の龍馬像完成 長崎・丸山公園で15日除幕
 来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放映を前に、長崎で活躍した幕末の志士坂本龍馬の銅像が長崎市の丸山公園に完成した。15日午前10時から除幕式があり、その雄姿がいよいよ披露される。銅像を制作した長崎市風頭町の版画家、小崎侃さん(67)が龍馬像に込めた思いなどを語った。
 郷土色豊かな版画で知られる小崎さんだが、もともとは彫刻家を目指していた。彫刻は上山公園(諫早市)の野呂文学碑レリーフや肥前夢街道(佐賀県嬉野市)の不動明王像などを手掛けている。だが、武士など時代物の人物像は今回が初めて。「思わぬ依頼で緊張した」という。
 龍馬像といえば、高知市の桂浜や長崎市の風頭公園が有名。全国に10カ所ほどある像を調べ「少しでも違うものを作りたい」と取り組んだ。
 人物像で注目されるのは、やはり顔。現存する龍馬の写真は6種類あるが、「すべて顔が違う」と戸惑った。見比べた結果、長崎の上野撮影局で撮った座像の顔が「一番きりっとしている」と気に入った。「いまの若者の顔も加味した」と「若さ」を意識した。
 イメージしたのは「花街丸山の風を浴び闊歩(かっぽ)する姿」。はかまは「定説」のよれよれではなく、折り目の付いた新品に。髪形は長髪を後ろで束ねたポニーテール。「小崎版龍馬」は、大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じるような好男子だ。
 「今回の像は龍馬の等身大で、横に並び記念撮影ができる。現代の若者のような親しみやすさも考えた」
 もちろん、外面の表現だけではない。デッサンを描きながら心の中で龍馬を探求するうちに、わが道を歩み続けた龍馬の強さをひしひしと感じた。像の中には「人間は自立する」という思いが込められている。
 「龍馬像を作りながら、もっと自分に自信を持ってやっていかなければ、と励まされた。龍馬の人生は33年と短かったが、見事に生きて死にきった。僕も、作者が死んでからも生きるものを作らないといけない」
 今なお龍馬の生きざまに影響を受ける人は多い。小崎さんも例外ではなかった。
 【編注】小崎侃さんの崎は、大が立の下の横棒なし


対馬の資料館所蔵の2印章、旧藩主に朝鮮国王発給
 県立対馬歴史民俗資料館(対馬市厳原町、阿比留徳生館長)が所蔵している銅製の印章2個が、朝鮮国王から対馬藩主に発給され、対馬藩と朝鮮国との外交文書などに押された「図書(としょ)」であることが分かった。
 図書は江戸時代、朝鮮国王が、朝鮮との外交や貿易を担っていた対馬藩に出したもの。同藩は朝鮮国との外交文書や渡航証明書に用い、藩主が死亡したら返還し、新しい藩主に発給されるというしきたりだったとされる。
 印面は、2個とも1辺が6・7センチの正方形で、高さは約7・8センチ。取っ手が付いたピラミッド形。13代藩主・宗義章(よしあや)(在位1839~42年)と14代藩主・宗義和(よしより)(同42~62年)の名前が彫られている。
 この印章は、同資料館収蔵庫で保管されていたが、詳しい調査は行われていなかった。県教委が今年度から3年計画で藩政史料「宗家文書」のうち、未整理だった絵図類や器具類を調べており、慶応義塾大の田代和生(かずい)教授(近世日朝交流史)が、図書と認めた。
 同資料館によると、近世の図書は、第15代藩主・宗義達(よしあき)(同62~72年)のものが韓国国立中央博物館(ソウル市)に残っており、今回確認された2個と形や大きさがほぼ同じという。
 同資料館の山口華代学芸員は「なぜ返還されなかったのかなど、今後の研究が待たれるが、幕末混乱期の対馬藩や朝鮮通交の実態を解き明かす鍵になるのでは」と話している。

(2009年11月11日 読売新聞)


IT
ケータイで龍馬を一人前の武士に育てよう! iモード『いつでも手のり龍馬』11月16日配信開始
ビービーエムエフは、iモード向けゲームサイト「iゲーム大好き!」にて、新作アプリ『いつでも手のり龍馬』の配信を11月16日(月)より開始することを発表しました。
本作は、産まれたばかりの「龍馬」のお世話をし、一人前の立派な武士に育てあげるという「幕末育成歴史シミュレーションゲーム」です。
ゲームをスタートさせると、以降の起動の有無に関わらず、龍馬が1日で1歳成長します。お世話の仕方により性格や体型、プレイヤーへの愛情度が変化。毎日コツコツ龍馬のお世話をし、ときには釣りと狩猟が楽しめるミニゲームで汗を流し、ときどき会話や指でつつくなどのコミュニケーションを図りながら、彼の日々を見届けましょう。
なお、しばらくの日数お世話をしないと龍馬はやせ細り、最悪の場合、お世話係を解任されてゲームオーバーになってしまいます。逆に、龍馬の人生を最期まで見届けることができたときには、今までのお世話に対する評価と感謝をつづったメッセージが届くとのこと。「お世話係に任命してよかった!」と龍馬が思えるよう、せっせとお世話してください。
『いつでも手のり龍馬』は2009年11月16日配信開始。プレイには「iゲーム大好き!」への登録が必要で、情報料は月額315円(税込)です。「メニューリスト→ゲーム→ミニゲーム→iゲーム大好き!」の順にアクセスしてください。

 なかなか面白そうですね。土方さん版があったらなぁ……土方さんを「手乗り」で育ててみたいじゃないですか(爆)。

史実も! 恋愛も! 幕末志士たちとの同居生活を楽しめる女性向けゲーム『幕末志士の恋愛事情』iモードにて配信開始
 スタイルウォーカーは、iモード公式サービスとして、女性向け恋愛ゲーム『幕末志士の恋愛事情』の配信を開始したことを発表しました。
 本作は、幕末に活躍した維新志士たちとの、ピュアで熱い恋愛を楽しむことのできる女性向け恋愛ゲームです。2008年10月に配信開始された第一作目『執事たちの恋愛事情』から始まった「恋愛事情シリーズ」の第4弾タイトルとなります。
現代を生きるごく普通の女の子がふとしたきっかけで幕末の京都に迷い込んでしまい、幕末の維新志士たちと出会うところからストーリーは始まります。彼らとの同居生活の中で、「大政奉還」「薩長同盟」「寺田屋事件」などさまざまな歴史的事件を垣間見ながら、維新志士たちとの恋心を深めてゆきます。
 攻略キャラクターには坂本龍馬、高杉晋作、武市半平太をはじめ、岡田以蔵、桂小五郎、中岡慎太郎など多彩な志士が続々登場する予定とのこと。他にも大久保利通や土方歳三、沖田総司などの幕末ならではの豪華で本格的な布陣となっています。
ゲームは、物語を読みながら主人公の行動を選択するだけで、ストーリーや結末が変化していきます。1話10分程度で満足できる内容になっており、電車の中や空いた時間などに簡単にプレイできるとのことです。また、プレイが終了するたびに志士からメールが届いたり、イベント画像のダウンロード、時代を反映したかわいい着物のアバターアイテムなど、本編以外にも楽しめる要素が用意されています。
 『幕末志士の恋愛事情』は2009年11月9日より配信中。情報料は315円からとなっています。「メニューリスト→ゲーム→恋愛ゲーム」の順でアクセスしてください。

 こっちは幕末の志士たちと同居できるんですね……土方さんとは同居できないようですが(笑)、まぁ女性は新選組に入れないですから同居はできませんね^_^;。



文化
寺田屋事件で龍馬が使用?米S&W製回転銃
 幕末の志士・坂本龍馬が、寺田屋事件で難を逃れるため、使用したとされる米国スミス・アンド・ウエッソン(S&W)社製の回転式拳銃と同型の拳銃が高知県内で見つかり、佐川町立青山文庫(同町奥の土居)が11日、公表した。
 史料研究に役立てるため、地検から移管されたもので、20~29日(24日は休館)に一般公開される。松下司・名誉館長(66)は、「同型の拳銃を間近で見られるのは全国でもおそらくここだけ。ぜひ多くの人に町を訪れてほしい」としている。
 見つかったのは、同社が、南北戦争を機に製造した軍用の回転式拳銃「モデル2アーミー」(32口径、6連発、27・8センチ)。一部銀メッキ加工され、全体に唐草模様が施されており、銃身上部に社名が入り、県の管理番号「明治22年 八五七四 高知県」が記載されている。同型の拳銃は、1861年~74年に約7万7000丁製造されたが、製造番号「55280」から後期のものとみられる。
 同館によると、龍馬の遺品として、同社製の別型の拳銃が伝わっているほか、1866年の寺田屋騒動直後に龍馬が書いた書状に「高杉晋作からもらった6連発の拳銃で撃った」との表現があることから、龍馬が同型の拳銃を所持していた可能性が高いという。
 拳銃は2008年9月に県内の民家で発見。所有者が不明のまま地検で保管していたが、今年4月、「押収した古い銃刀類は貴重な史料として残すべき」と、地検に働きかけをしてきた同館に移管された。
 公開時間は、午前9時~午後5時。入館料400円(中学生200円、小学生100円)。問い合わせは同館(0889・22・0348)。
(2009年11月12日15時16分 読売新聞)


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
■政略の総合プロデューサー

 ◆望んで降格受け入れ

 昇進すごろくを生きがいにする政治家や役人にとって、降格や降任などは想像もできない人事であろう。しかし、幕末明治以来の日本政治史で望んで降格人事を受け入れた稀有(けう)の例がある。それも陸軍の歴史の中にあった。

 驚きは、大山巌(いわお)参謀総長を次長として補佐した田村怡与造(いよぞう)が日露戦を控えて急死する突発事件の後に起きた。これが有名な児玉源太郎の降格人事にほかならない。

 内務大臣と台湾総督の職にあり、陸軍大将への昇進を控えた児玉にとって、参謀次長は各省の次官か局長くらいのポストであり、はるかに格下であった。しかし、川上操六(そうろく)や田村といった優秀な作戦家を相次いで亡くした陸軍で対露戦を仕切れるのは児玉以外にいなかった。ここで大臣や総督といった栄職を捨て、国家の危機に当たろう、と自然に決意したのが児玉の偉さなのである。

 誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。

 現代の政治家でも官房長官や大臣だった人で副長官や副大臣になった人もいる。民主党新政権で大臣になってもおかしくない人で副大臣や政務官になった人がいるかもしれない。こういう人は、児玉と自分の才を虚心に比べてみることだ。すると、国と国民のために働ける大事さやありがたみが改めて分かってくるだろう。

◆政治のバランス熟知

 児玉は、奉天会戦で日露戦争を終わらせた立役者であるだけでなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえていた政治家である。政治に必要な理想・信念とリアリズムのバランスを彼ほど知っていた明治の軍人政治家もいない。児玉のバランス感覚は長州人といっても支藩の徳山藩の出身であり、軍隊でも乃木希典のように少佐からでなく、藩閥外の武士と同じく下士官から出発する苦労を重ねた点と無縁ではない。軍人の能力は試験の成績でなく、天性の資質に負う点が多い。

 五稜郭戦争でも敵の夜襲などに冷静沈着に対応し、熊本で神風連(しんぷうれん)の乱が起きて、鎮台司令官や参謀長らが殺されても落ち着いて指揮をとっただけでない。西南戦争でも熊本城で参謀副長として、西郷軍の猛攻をしのいだあたりは、後年の日露戦争の満州軍総参謀長の才を彷彿(ほうふつ)させる。

 陸軍大学校の創設と参謀教育にあたったドイツのメッケルも児玉の天才ぶりを評価し、「コダマ将軍がいる限り日露戦争で日本は負けない」と語ったほどだ。

 ◆人情家で友人思い

 合理主義者児玉には、別の側面もある。それは人情家であり、友誼(ゆうぎ)にも篤(あつ)いことであった。旅順攻略に乃木将軍がてこずっているとき、友人の児玉が出かけて指揮権を一時的に委譲させ、二〇三高地を落とした話は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』で美しく描かれた。この友情物語の厳密な真偽はおくにしても、児玉は旅順戦での手柄を一言も吹聴せず、すべてを乃木の功績に帰したのは事実である。

児玉が死んだとき、篠つく雨のなか、柩(ひつぎ)に連れ添う乃木の姿が目立ったのは偶然でない。これは、つい100年ほど前の日本にあった光景である。児玉は日露戦争が終わって1年後、わずか55歳の若さで急死した。児玉は50代で国運を賭けた日露戦争の政略と作戦を演出した総合プロデューサーだったのである。

 児玉だけでなく、川上といい田村といい、何という若さで亡くなったのだろう。国が滅ぶかもしれない心労で命を縮めた児玉らは、その年齢を越える現在の指導者の姿をいま見るなら何と言うのだろうか。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】児玉源太郎

 こだま・げんたろう 幕末の武士、明治の陸軍軍人。嘉永5(1852)年、周防(山口県)徳山藩生まれ。17歳で戊辰戦争に参加。維新後兵学寮を卒業し、佐賀の乱、神風連の乱で軍功を認められる。西南戦争では熊本鎮台参謀副長として政府軍の勝利に大きく貢献。明治20年に陸軍大学校の初代校長となり、軍隊の近代化を推進する。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相などを歴任し、日露戦争では満州軍総参謀長を務め、卓越した手腕を発揮する。同39(1906)年に参謀総長となるが、ほどなく死去。享年55。

 今週もまとめて、ぼちぼちご紹介します。

函館
龍馬の夢 伝える記念館 函館にあす開館
■寺田屋模した外観

 幕末の志士坂本龍馬の誕生日であり、命日でもある15日、函館市末広町に「北海道坂本龍馬記念館」(三輪貞治館長)が開館する。
 龍馬は北海道開拓を夢見たが、暗殺された。その後、坂本家の人々が龍馬の志を継いで北海道に渡った。
 NPO法人が運営する同館では、龍馬の書簡や勝海舟の掛け軸、ペリー提督の書簡など貴重な資料が展示され、龍馬や坂本家の子孫の生涯などをパネルで解説する。坂本家の子孫の山岳画家、坂本直行のコーナーも設けられ、山の道具や作品も展示される。
 記念館は、函館の市電停留場「十字街」前の旧家具店展示場を改築。外観は、龍馬の定宿だった京都の寺田屋を模した。
 初日は午前10時からセレモニーが行われ、坂本家9代目の坂本登さんや西尾正範・函館市長らがテープカットする。記念行事として、近くの五島軒本店で午前11時から龍馬が学んだ北辰一刀流の演舞が披露され、同11時半からは龍馬に詳しい京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんの講演「坂本龍馬と北辰一刀流」がある。いずれも入場無料。
 同館の開館時間は午前10時~午後6時(30日から月曜休館)。入館料は一般300円、大学・高校生200円、小中学生100円。初日のみ入館無料。問い合わせは同館(電話0138・24・1115)へ。



山形
庄内藩の歴史、生き方を本に テーマの2冊発刊
 庄内藩をテーマとする本が2冊発刊された。一つは藩の歴史を紹介した「シリーズ藩物語 庄内藩」(現代書館)、もう一つは庄内人の生き方を探る季刊オピニオン雑誌「日本主義 2009年冬号」(白陽社)。いずれも地元鶴岡市では深い関心を持って読まれている。
 「庄内藩」は鶴岡市史編纂(へんさん)委員の本間勝喜さんが執筆した。庄内藩の成立から幕末までの歴史が書かれている。
 酒井家の庄内入部については1622(元和8)年、山形・最上家が改易されたことにより、酒井忠勝が庄内3郡(田川、櫛引、遊佐)13万8000石余を分与された。その後、財政難に見舞われたため、豪商の本間光丘を登用し、財政改革を進めた。1840(天保11)年には幕府が庄内藩主を長岡へ、長岡藩主を川越へ、川越藩主を庄内に移封する命令を下したものの、庄内藩の領民が猛反発し、幕命が覆るという3方領知替えがあったことなどを伝えている。
 「日本主義」では、庄内藩酒井家第18代当主で致道博物館長の酒井忠久さんと小野寺時雄・荘内南洲会理事長、歌人で鶴岡総合研究所顧問の東山昭子さんの座談会が掲載されている。
 戊辰戦争で庄内藩が降伏した後の出来事について酒井さんは「11代忠篤が謹慎処分になったが、酒井は庄内に復帰できた。降伏に際し黒田清隆を将とする官軍が礼に厚い処理をしていた。そこで庄内藩の重鎮・菅実秀がかなりすごい人物がいるに違いないと思っていたら西郷隆盛の指示だということが分かった」と指摘。小野寺さんは「西郷は日本中を見ても庄内藩ほどしっかりした、礼を知っている藩はないと見ていた。新政府から『庄内をあまりにも大事にしすぎる』と言われた時も西郷は『そんなことはない』と言って引かなかった」といったエピソードを紹介した。
 庄内藩に関する本が2冊出たことについて酒井さんは「うれしいことで、こうしたことがきっかけとなって庄内の良き理解者が増え、庄内の活性化につながればありがたい」と話している。
 庄内藩は206ページ。定価は1680円。主な書店で扱っている。日本主義は176ページ。定価は1050円。致道博物館などで販売している。



栃木
「日光修験の道」本に 宇都宮の池田さん
【宇都宮】大通り2丁目の元小学校長、池田正夫さん(71)は「全踏査日光修験三峯五禅頂の道」を出版した。古文書を手掛かりに6年かけ、日光修験の修行ルートを一人で歩いて調査した独自の成果をつづった。日光山興雲律院、中川光熹住職は「四季に入峯し研究する姿は修験僧そのもの。日光修験研究の先駆けとなる」と発刊に寄せている。
 かつて日光山にあった、四季ごとの修験者の修行ルート「三峯五禅頂」は「冬峯」、春の「華供峯」、「夏峯」、秋の「五禅頂」の総称。奥、表日光連山を時計回りに一周する夏峯など、過酷な行程だったという。室町期に全盛期を迎え、幕末まで続いたが、明治の修験道廃止令で途絶えた。
 池田さんは一人で6年間、750日以上かけて、いくつかの古文書の記述を忠実にたどって歩き、日光古道を再現した。道端の石仏や修験僧など、現在の写真も豊富に添えた。
 池田さんは宇都宮大学芸学部(当時)卒後、数学・技術教師となり、小学校長を歴任。中川住職の影響を受け退職後の1999年、日光修験研究を始めた。「それからは3日に一度は日光山中に入った」という池田さん。
 古文書のコピーを携え、朝4時に自宅を出てはGPSや携帯電話、クマよけの鈴や爆竹を持って険しい山中を歩き続けた。地図を頭にたたきこみ、迷わないよう木々に赤いテープを張ったという。
 夏峯の錫ケ岳(2388メートル)では「能々尋可(よくよくたずねるべし)」との記述から、山頂付近を探し歩き、林立する石躰を発見。「神が現れたようだった」と当時の感動を振り返る。
 A5判408ページ。4935円(税込み)。随想舎刊。


埼玉
唐人揃い:あす川越で 津から初参加、20団体350人パレード /埼玉
 江戸時代に友好親善で幕府に派遣された「朝鮮通信使」を模した仮装行列「第5回 復活!唐人揃(ぞろ)い」が15日、蔵造りの街並みで知られる川越市の一番街(県道)で行われる。今回は津市から、通信使など外国の風俗を取り入れた「分部(わけべ)町唐人踊り」が初参加。多文化共生や国際交流をテーマに、約20団体350人が華やかにパレードする。
 唐人揃いは、江戸で使節団の華やかな行列を見た川越の有力商人が地元に伝え、幕末まで行われた。市民団体などで作る「川越唐人揃いパレード実行委員会」(江藤善章代表)が05年に復活させた。
 初参加する分部町唐人踊り(三重県無形民俗文化財)は江戸時代に始まり、使節団とそっくりの帽子に喜怒哀楽を表現したお面をかぶり、「ロッペ」と呼ばれる南蛮風の上着に虎模様のパンツを着用。軽妙な踊りを披露しながら、ラッパや笛、太鼓を奏でる。保存会の林俊一代表(61)ら20人が参加する。
 パレードは午後0時半、仲町交差点を出発し、札の辻交差点までの約400メートルを練り歩く。官衣を着た正、副使ら使節団と唐人踊り、アイヌ民族や琉球の文化を伝承する団体やフィリピンの人たちなどが参加する。その後、各団体が踊りや音楽を披露する。
 雨天は正午~午後2時半、川越小体育館(同市郭町1)で行う。問い合わせは実行委員会の小川満さん(電話090・7422・2002)。【鈴木賢司】



東京
西郷どん役 熱演の誓い 浅草で修業の演歌歌手
 浅草で修業した演歌歌手がオペラで熱演誓う-。十七日から台東区の浅草公会堂で上演される幕末の志士・坂本竜馬を描いたミュージカルオペラ「龍馬」で西郷隆盛を演じる演歌歌手、高瀬一郎さん(44)が上演を前に同区上野公園の西郷隆盛像を訪れた。高瀬さんは西郷と同じ鹿児島県出身。郷里の偉人を前に思いを新たにした。
 「長州藩に御加担つかまつる。我らは同志でござる」。竜馬、西郷、桂小五郎らが顔をそろえ、薩長連合が成立した瞬間だ。公演の二幕目で、やや小柄でやさ男の高瀬さんが、舞台で流ちょうな薩摩弁を操り、堂々たる西郷を演じる。
 十五歳の時、NHKのど自慢で優勝。二年後に上京、レコードデビューした。浅草との出会いは、実力を磨きたいと浅草にある日本浪曲協会の沢孝子会長に師事し、浪花節の修業をしたことだ。
 洋楽のオペラに演歌歌手を抜てきしたのはオペラ歌手で本公演の総合プロデューサー、岡本光正さん(59)。「さまざまなジャンルの人間で一つの舞台をつくり上げているのもこの公演の魅力」
 坂本竜馬をオペラ歌手の平良交一さん、勝海舟を歌手の野口五郎さんが演じる舞台は、すでに竜馬の故郷・高知県など四国公演を終え、東京公演に臨む。
 演技、歌、踊りなどさまざまな基礎を積んできた高瀬さんは「演技ではなく、自然体の西郷隆盛をみてほしい」と話している。
 東京公演は二十三日まで。問い合わせは、龍馬東京オフィス(スガジャズダンススタジオ・東京オフィス内)=(電)03(5284)8440=へ。


静岡
名代官の生涯描く「評伝 江川太郎左衛門」
◆韮山塾開き佐久間象山や桂小五郎育成 
 幕末、現在の伊豆の国市に兵学校「韮山塾(江川塾)」を開き、佐久間象山、橋本左内、桂小五郎らを育てたとされる韮山代官・江川太郎左衛門英龍(ひで・たつ)(1801~55)の軌跡を描いた「評伝 江川太郎左衛門」(時事通信社)が出版された。英龍の一生を描いた本は初めてといい、作者の加来耕三氏は出版記念の講演で「英龍がいなかったら明治維新はもっと遅れ、違ったものになっていたのではないか」とその生き様を振り返った。
 江川家は幕末までの約300年間、世襲で代官を務め、伊豆、相模、武蔵、駿河など7万石余りを差配したと伝わる。代々の当主は太郎左衛門を名乗り、英龍は第36代に当たる。
 韮山塾では高島流砲術などを指南し、佐久間象山らのほか、江戸幕府の勘定奉行・川路聖謨(とし・あきら)、明治政府で陸相や参謀総長を務めた大山巌、日清戦争時の連合艦隊司令長官・伊東祐亨(すけ・ゆき)、首相や農相、枢密院議長などを歴任した黒田清隆ら約4千人を世に送り出したと伝わる。
 また、ペリーら外国船の侵入に備えた品川沖の台場や、伊豆の国市に残る反射炉の建設にも携わった。将兵の携帯食用にパン作りに取り組んだり、種痘を広めて「世直し大明神」と呼ばれたりするなど、様々な分野で活躍。塾は現在の県立韮山高校につながり、同校の「学祖」となっている。
 「評伝」はこうした事跡を当時の時代背景や事件、人々とのかかわりを通じて描き出し、英龍の成長と活躍、滅びゆく側の幕臣としての姿を描き出している。
 本は県東部地区を中心に書店に並びつつある。英龍の系譜を伝える韮山高の横山光男校長は「時代を切り開き、次代を見据えた人づくりをした坦庵(たん・なん)公(英龍)の軌跡があきらかになったのは本当に貴重。特に若者に読んでほしい」と話す。
 加来さんは「幕臣という立場だったため歴史上ほとんど登場しないが、地に足をつけ、時代の荒波を切り開いていった『幕末の巨人』に間違いない。多くの人がその姿に触れてくれれば」と話している。


◆加来耕三氏
 1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部卒業後、同大研究員を経て、「正しく評価されない人物・組織の復権」をテーマに歴史家・作家として活躍。雑誌「歴史研究」編集委員のほか、NHK「その時歴史が動いた」などテレビ・ラジオ番組の企画・構成・監修などにも携わる。主な著書に「将帥学 信長・秀吉・家康に学ぶ人を使う極意」「日本経営者列伝」「坂本龍馬事典〈虚構と真実〉」など。

 おぉ、坦庵先生の評伝ですか!この方の著作で本棚に残っているのは今ないんですが……(苦笑)、とりあえず、入手して読んでみます。

長野
幕末の養蚕技術書、欧州での役割解説
 上田市中央2の「ギャラリーUD」で14日、上田高校OBの元農業生物資源研究所昆虫科学研究領域長の竹田敏さん(60)が「幕末に海を渡ったわが国養蚕技術書」と題し、日本の養蚕技術書が19世紀のヨーロッパで果たした役割について講演。
 竹田さんは、養蚕の起源や蚕の飼育技術などを記した「養蚕秘録」がフランス語に翻訳された1840年代当時はあまり注目されなかったと解説。50年代から60年代にかけ、病気によってフランスの養蚕業が壊滅的な被害を受けてから、日本の技術が注目された-と話した。


大阪
大阪画壇の魅力を再評価 芦屋市立美術博物館
 近世から近代にかけて大阪で活躍した絵描きが、独特の画風で風俗や歴史を伝える「大阪画壇」の魅力を再評価しようという 動きが、“大阪の奥座敷”兵庫県芦屋市の市立美術博物館で進められている。
 同館では、2006年度から計4回、大阪画壇をテーマに企画展を展開。仕掛け人の明尾圭造学芸課長(47)は「きっちり評価されないままではいずれ大阪が困ることになる。この10年くらいが勝負」と危機感を強めている。

  ◇    ◇

 大阪における画壇の特徴は、近世では、煎茶(せんちゃ)や書画をたしなむ町人らの文人意識の中で発展。一方で、伝統形式にとらわれない戯画にも魅力がある。
 独特の土壌が築かれる中、近代では、実業家や料亭らの依頼で作品を描き、しつらいの一環として重宝されるなど、他人の評価よりも篤志家の支援で成り立ってきた一面も。京都や東京など、主要な派閥や官立の美術大系が品評会などで成果を競う世界とは違う形ではぐくまれてきた。
 買い手の要望に応じ、四季折々の地元の景色や風習を描いた作品も多く、明尾課長は「貴重な風俗資料の価値がある」と指摘。
 しかし、コンクールなどでの絶対的評価がない上、個人用で小ぶりの物も多く、絵画の世界では「迫力がない」「洗練されていない」などと批判され、史料価値としては時代考証の困難さから軽視されがちだという。
 「日本では正当な評価をされずに見過ごされてきた作品も多いが、ここ10年ほど欧米の美術館が注目している」と明尾課長。第三者の評価よりも絵の魅力で判断し、いわゆる「大家の作品」よりも安いため買収が進みやすいという。
  ◇    ◇
 なぜ芦屋市で大阪画壇なのか-。同市では、大阪にゆかりのある文化的資料が個人宅などで多く受け継がれているという。大阪で成功した実業家らが同市に移り住んだことなどが影響。床の間を飾る書画や、幕末・大坂のグルメガイド本として知られる全3冊の画帖(がじょう)「花の下影」などが見つかっている。
 こうした縁で、浪速の風俗画家・菅楯彦さんによる軽妙洒脱(しゃだつ)な作品の数々や、京都の四条派の流れをくんだ画人、大阪ならではの文人画など、有名無名の優れた作品を紹介。一方で、下手な役者が大根と一緒に煮られる「役者地獄」などを描いた耳鳥斎(にちょうさい)らの作品など、笑える戯画や、挿絵の世界なども多面的に紹介してきた。
 明尾課長は大阪画壇について「ただ美しさを競うだけではない総合芸術」と表現。集客につながりにくい面は認めつつも「本来、大阪の美術館で身のある展示会を年一度くらいは開くべき。10~20年丁寧に継続すれば資料も残るが作品が流出してしまってからでは遅い」と力を込める。「それが、高い素養を備えていた大阪の文化を啓発することにつながる」。
 同館では、12月13日まで企画展「うまいもんと大坂画壇」を実施。問い合わせは電話0797(38)5432、同館へ。



高知
武市瑞山:不条理さ切々と 獄中からの書状初公開--土佐山内家宝物資料館 /高知
◇獄中から仲間らへ
 土佐勤王党の盟主として知られる武市瑞山(半平太、1829~65)が、獄中から切腹間際に仲間らに送ったとみられる書状が見つかった。初公開資料として、土佐山内家宝物資料館(高知市鷹匠町2)で13日から始まった企画展「土佐藩維新の群像」で展示されている。来年1月25日まで。
 瑞山は土佐勤王党を結成し、一時は土佐藩を尊王攘夷路線へと導いた。しかし、15代藩主・山内豊信(隠居後に容堂、1827~72)の支持で藩政改革を進め、公武合体を唱える吉田東洋(1816~62)を暗殺するなどの罪に問われ、1865年の切腹まで2年近く獄中で生活した。
 書状は山内家から県に寄贈され、約20通の書状などを巻物にした「幕末志士遺墨」の中にあり、取り調べや罪状言い渡しの様子が記されている。病気で寝込んでいた瑞山がふとんを持って出廷する様子や、自らの主張を聞き入れてもらえない不条理さを「実にゝゝゝ絶言語申候」と、「実に」を4度も繰り返し表現。同館の藤田雅子学芸員は「瑞山の強い怒りと絶望がみて取れる」と話す。
 書状は1909年に瑞山を顕彰する「瑞山会」が刊行した「維新土佐勤王史」に一部が引用されているが、原本の所在は分かっていなかった。藤田学芸員は「後からの回想ではないため、内容の信用性が高く歴史研究には格好の素材。当時の尋問もイメージでき、貴重な資料だ」と位置付けている。
 約50点を並べた企画展では他に、土佐勤王党に属した平井収二郎(1835~63)の書状も初公開している。入館料は一般300円、高校生以下無料。問い合わせは同館(088・873・0406)へ。【服部陽】



長崎
海舟の子孫が龍馬をデザイン 「出島の珍駄酒」お目見え
 2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなみ、堀内商事(佐世保市光町、山下功三社長)は、勝海舟の子孫が坂本龍馬の勇姿をボトルに刻んだ「出島の珍駄酒(ちんだしゅ)」を商品化した。
 製造元の梅ケ枝酒造(同市城間町)で14日、発表会があり、「幕末の英雄ゆかりの“コラボ”を味わって」とアピールした。限定5千本で、全国の龍馬関連イベントで販売する予定。
 特製ボトルで発売するのは、鮮やかな赤色の佐世保産ブルーベリー焼酎。山下社長が「江戸時代、出島で飲まれていた赤い洋酒(当時の言葉で珍駄酒)を、龍馬も長崎で飲んでいたのでは」と想像し発案。幕末の写真家、上野彦馬の縁戚(えんせき)で、「海援隊龍馬倶楽部」会長の海保幸康さん(68)=東京都在住=に仲介を依頼し実現した。
 勝海舟のやしゃご(孫の孫)に当たるガラス工芸家の高山みな子さん(47)=神奈川県在住=が、彦馬撮影の龍馬を基にデザイン。坂本家9代目当主・坂本登さん(72)=東京都在住=の承認を得て、龍馬が家族にあてた手紙に残る自署も、砂をガラスに吹き付けるサンドブラストの技法で彫り込んだ。
 税込み2835円(720ミリリットル)。同じデザインが施されたグラスとのセット販売も予定。21~23日には、酒を長崎市伊良林2丁目の亀山社中資料展示場で販売。期間中は高山さんを招き、交流会をする。22日は坂本さんも参加する。問い合わせは堀内商事(電0956・48・6185)。


坂本龍馬之像を奉呈 長崎・若宮稲荷神社で亀山社中幕末祭
 坂本龍馬の業績をたたえる第21回亀山社中幕末祭が14日、長崎市伊良林2丁目の若宮稲荷(いなり)神社であり、龍馬生誕祭の神事や、同神社に移された「坂本龍馬之像」(青銅製、高さ106センチ)の奉呈式が執り行われた。
 11月15日が龍馬の生誕、死没の日であることにちなみ、市民グループ「亀山社中ば活かす会」(針屋武士会長)が毎年開催。龍馬之像は、伊良林3丁目の風頭公園に立つ龍馬像の原型で、彫刻家の山崎和國さんが製作。1991年から近くの日本初の商社「亀山社中」跡に据えられ、今年7月には同神社へ移設、除幕されていた。
 像の前であった神事は、活かす会のメンバーや神社関係者ら約20人が出席。玉ぐしをささげるなどして、龍馬の活躍をしのんだ。引き続き、社務所で龍馬之像の奉呈式があり、活かす会の針屋会長は「来年は(NHK大河ドラマの)龍馬伝も始まり、このかいわいはますますにぎわう。その次のステップも今のうちに考えたい」とあいさつ。奉呈の目録を受け取った同神社の松尾光弘宮司は「像を神社の宝としたい」とお礼を述べた。
 活かす会幹事の黒岩信元さん(72)は「私たちは龍馬を崇拝している。龍馬の在りし日に思いをはせたい」と語った。


熊本
21日に熊本市で国際シンポ 横井小楠生誕200年
 幕末に活躍した肥後藩出身の儒学者、横井小楠(1809-69)の生誕200年を記念した国際シンポジウムが21日午後1時から、熊本市桜町の崇城大市民ホールで開かれる。
 横井小楠は、肥後藩時代に私塾から多くの門弟を輩出し、幕府を支えた福井藩主の顧問として勝海舟や西郷隆盛にも思想的影響を与えたとされる。シンポでは、小楠の思想を分かりやすく朗読劇で解説し、猪飼隆明大阪大名誉教授が「小楠は世界をどのように見たか」と題し基調講演。海外の研究者を交えたパネル討論もある。
 参加費は一般千円、学生無料。“横井小楠生誕200年”記念事業実行委員会事務局=096(381)0283。


コラム
【次代への名言】竜馬がゆく編(1)
■「男は、わが思うおのれの美しさを守るために死をも厭(いと)わぬものぞ」(司馬遼太郎『竜馬がゆく』回天篇から)

 『竜馬がゆく』の何が読者をひきつけて放さないのか。一つには、主人公、坂本竜馬という人間の大きさだろう。
 「天がおれを、この地上の紛糾をおさめるために降した-と自分をそのように思いはじめている。おれがいなければ日本が潰(つぶ)れらァ」。ほらにしても痛快だが、彼はこの言葉通りの生涯を送る。
 にもかかわらず、「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」という。無欲と無私も彼の魅力である。
 それから、死生観がある。
 「さすがは剣客だな。逃げることを知っている」とは潜伏中の長州藩の志士、桂小五郎を評したことばである。冷笑ではない。幕末という激動期のまっただ中にあっては生きのびることほど貴重なものはない、と竜馬は言っているのだ。
 しかし、冒頭のことばにあるように、彼は死を恐れはしない。もう一つ、旧暦ではあるが、竜馬が生まれ、そして斃(たお)れたきょうという日にふさわしい、こんな一節が『竜馬がゆく』にある。≪「志士とは」とも、竜馬はいった。「すでにその名が冠せられたときに、いのちは無きものとおもっている者のことだ」≫(文化部編集委員 関厚夫)


文化芸能
<幕の内外>ワルのイケメン『色悪』 近代的なキャラクター
ワルのイケメンほど、よくモテる?

 「色悪」は歌舞伎ならではのユニークな役柄。文字通り女性を翻弄(ほんろう)する二枚目で、自分の欲望のためには平然と悪事も行う。
 幕末の退廃的な世相のなか、完成された役柄で、鶴屋南北の作品にしばしば登場。普通の二枚目より複雑な性格で、近代的なキャラクターと言えます。
 白塗りのニヒルな容貌(ようぼう)で、「四谷怪談」の民谷伊右衛門や舞踊劇「かさね」の与右衛門が代表的。自分の妻や恋人を死に追いやる悪人ですが、実は彼らとて、必ずしも最初からそのつもりではないのが、興味深い。
 公金横領のため、妻お岩と離縁させられた浪人中の伊右衛門。未練タップリの彼は、お岩の父を殺し「敵を討ってやるから」とお岩をだまして復縁。そこまでしながら、生活が苦しくなると、彼にひと目ぼれした金持ちの娘にアッサリ乗りかえる。甘ったれた身勝手な性格と言えます。
 与右衛門の方も元は武士。ご法度の社内恋愛の末、身ごもった腰元の恋人と、いったんは心中を決意。実は彼は、恋人の母親とも密通し、その夫を殺したという過去がある。その因果で、恋人の顔が醜く変わったのを見た与右衛門は約束をひるがえし、罪のない彼女まで殺してしまいます。
 両者とも、その場の状況にズルズルと流されやすい性格ゆえに、悪事に手を染めやすい、という見方もできる。罪を犯さなくても、こういう人間は、今も昔もいるのでしょう。
 こんな男の犠牲になる女性は、きまじめな性格のお岩だったり、一途(いちず)でウブな気性の腰元だったりするのも、なにやら現代的です。 (イラストレーター・辻和子)

 『ピスメ』ドラマ化続報が入ってきました。
須賀健太:「新撰組 PEACE MAKER」で連続ドラマ初主演 人気マンガが原作
 幕末に京の町を駆け抜けた「新撰組」を描いた人気マンガを映画「釣りキチ三平」などの須賀健太さん(15)主演でドラマ化した「新撰組 PEACE MAKER」がMBS・TBS系で放送されることが15日、明らかになった。須賀さんは連続ドラマ初主演で、ドラマは10年1月から放送される。

 原作は、累計500万部を発行している黒乃奈々絵さんの人気マンガ「新撰組異聞 PEACE MAKER」(マッグガーデン)。黒船来航以来、維新の嵐が吹き荒れる幕末を舞台に、両親の敵を討つために新撰組に入隊した市村鉄之助(須賀さん)の成長を描く。須賀さん以外のキャストは今後発表される予定で、人気の高い沖田総司ら主要キャラクターを若手俳優が演じるという。【立山夏行】


 土方さん沖田君は誰が演じるのか、気になるのはそっちですね(苦笑)。近藤先生とか山南さんとか、山崎丞・歩のきょうだいとか。
 この辺だろうなぁと思ってうろうろしたことが何度かあります。近くの京都ロイヤルホテルにも案内板があったと記憶しています。

 ハトヤ瑞鳳閣の角に、新選組不動堂村屯所(文中では「屋敷」とありますし、実際お屋敷だったと思いますが、自分的には「屯所」という言葉を使いたいですね)の石碑と案内板が建てられたそうです。

新撰組最後の本拠、不動堂村屋敷
石碑と解説板を新設

 新選組が最後に本拠を構えた「不動堂村屋敷」を紹介する石碑と解説板が、京都市下京区西洞院通塩小路の交差点にお目見えした。

 交差点の南西角にあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」が設置した。以前に瑞鳳閣が建てた解説板があるが、歴史的事実などを精査したうえで、新たに設けた。10月18日に除幕式を行い、関係者約30人が新たな建碑を祝った。

 解説の監修は歴史地理研究者の中村武生さん(42)=伏見区=が担当した。この付近に新選組の屋敷があったことは確実とした上で、当時は新選組の社会的地位が最も高かったなどと説明している。


 次回、上方を訪問する時には立ち寄りたいと思っております。





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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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