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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
自分が生で観た「京鹿子娘五人道成寺」「二人椀久」をシネマ歌舞伎で再び見る。歌舞伎は生で観るのが一番ではあるけれど、シネマ歌舞伎はスクリーン一杯に役者をアップや全身で見られたりインタビューが聞けたり、ライブとはまた違った味わいがあって、繰り返し見られるのが嬉しい。

京鹿子娘五人道成寺
 玉さまに四人の若手が絡んで五人の花子が華やかな舞台。玉さまが次世代の育成と芸の継承を意識していることに加えて、演出的にも映える作品だと思う。

二人椀久
 シネマ歌舞伎でまた見られるとは嬉しい限り。松山太夫の玉さまの美しさは言うまでもなく、勘九郎の椀久もかっこ美しく、ギリシャ悲劇を舞で見るような舞台だった。

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銀座six地下3階にある観世能楽堂に行くのは初めて。ちょっと早めに行って探し当てて吉。能楽堂の見切りの柱を外しており、能であればその柱で見切りとなる斜め正面席だったのだが……柱を外しているし、L字型の舞台の正面と脇正面の観客に応えるために志の輔師匠もいつもより上下の切り方が大きかったので斜め正面は見やすい席になってました。

買い物ぶぎ/志の輔
長唄
徂徠豆腐/志の輔

 千秋楽なので今日まで沢山練習してきました、から始まって、観世能楽堂についての解説、落語の小咄をいくつか入れてのウォーミングアップ。からの買い物ぶぎ。

 徂徠豆腐もマクラたっぷり、最初は消防士の話から入ったので火事息子かなと思ったら、江戸大火の話から振袖火事を解説して徂徠豆腐。赤穂事件の関わりなど入れ毎が多かったせいか、13時30分開演で16時30分終演と全部で3時間になりました。

 最後は毎年パルコでやっている長唄連中にあわせての手拍子。右手首の骨折からかなり回復して、今日は手を合わせられました。
先週から始まった『西郷どん』ですが、私は早くも流し見モードです。原作者と脚本家に対する好みの問題が大きいのですが、幕末の歴史好きとして勝てば官軍的な宣伝臭が苦手なのです。

西郷隆盛 幕末維新の立役者は「工作員」だった? 倉山満
 明治維新150年の節目、平成30年のNHK大河ドラマは「西郷どん」である。主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄だが、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もある。西郷隆盛とはどんな人物だったのか。知られざる実像に迫る。(iRONNA)



 私の近著『工作員・西郷隆盛 謀略の幕末維新史』(講談社)のタイトルを見て「清廉潔白で人格者の西郷さんが工作員? 何を考えているのか、イロモノ本か?」と思われたであろうか。そもそも西郷は近現代で伝記の発刊点数が最も多い人物だ。そして、明治以来現在まで、一度も不人気になったことがない英雄である。中には「全人類の中で最も偉大な人物は西郷である」と信じて疑わない人もいる。

 ただ、ここで言う「工作」とは、最近の流行語で言うと、「インテリジェンス」である。では、インテリジェンスとは何か。情報を収集し、分析することである。では、何のために情報を収集して分析するのか。自らの意思を相手に強要するためである。これをコントロールとも言う。コントロールには他に「支配する」などの意味がある。

斉彬の「お庭方」

 青年時代からこうした意識をもって勉学に励んでいたのが西郷である。11代薩摩藩主、島津斉彬に見いだされてからは「お庭方」(つまり工作員)として情報収集に励む。情報収集には、人間関係の構築が何よりだ。ここに青年期の勉学が生きた。江戸の教育は世界最高だったといわれるが、西郷はその知的空間の一員として活動した。のみならず、そのような知的階層こそが、維新へのうねりを生み出していく。

 とはいえ、若いころの西郷は、何をやってもうまくいくという才人ではなく、苦労も経験している。あるいは人間臭い面もある。たとえば、単身赴任の妻に家庭のもめ事を押し付け、自分は仕事と称して女遊びに励むなど。そして、主君斉彬の死、幕府の大老井伊直弼の大弾圧、二度にわたる島流しなどを経て、さらに自らの勉学を磨く。

 しかし不遇の地位にあっても、限られた情報を頼りに己の未来を描いていた。そして常に、「皇国」の運命を思っていた。インテリジェンスオフィサーとしての西郷の真価が発揮されるのは、こうした苦労を経て帰還してからである。西郷は、薩摩藩重役として、幕末政局で多くの謀略を主導する。

 そして西郷の復帰に尽力したのが大久保利通である。大久保は常に西郷を指導者として立てていたが、西郷の失脚により政治家として目覚め、そして西郷の帰還により政治的盟友として御一新へと突き進んでいく。しかし、障害があった。徳川慶喜である。慶喜は常に西郷や大久保らの前に立ちはだかった怪物政治家だった。文久の政変で薩摩を利用して政権を奪取して以降、朝廷・将軍家・幕府・諸大名、そして外国勢力をも変幻自在に操り、幕末政局の中心に位地した。

奇跡の「鳥羽伏見」

 最近、明治維新は誤りであったとの説が流布している。「慶喜こそ真に日本の指導者にふさわしく、慶喜に任せておけば当時最高の人材を網羅した政府ができたはずだ。それを吉田松陰の弟子たちの長州や西郷に率いられた薩摩らテロリストがぶち壊した」と。これは謬(びゅう)論である。そのような政権で、富国強兵、殖産興業、日清、日露戦争の勝利以上の成果が見込めたのか。既成勢力の寄せ集めなど、しがらみだらけで何もできまい。

 一方で、大久保には未来が見えていた。その大久保を支え、泥をかぶったのが西郷だった。大久保の智謀と西郷の実行。この二つが掛け合わされたとき、奇跡が起きた。鳥羽伏見の戦いである。西郷が3倍の敵の猛攻を支え、大久保が錦の御旗を翻したとき、徳川軍は雪崩現象を起こして潰走した。大久保にとっては国づくりの始まりだが、「工作員」としての西郷の人生はここに完結する。

 その後、2人は愛憎入り交じる中で悲劇的な最期を遂げることとなる。2人の行き違いは、討幕御一新をどのようにとらえたかの違いだろう。大久保にとって討幕は、政治家人生の通過点だったが、西郷にとっては終着点だったといえよう。



 【プロフィル】倉山満(くらやま・みつる) 憲政史家。昭和48年、香川県生まれ。中央大大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得退学。在学中から国士舘大で日本国憲法などの教鞭(きょうべん)をとる。現在、倉山塾塾長を務めるとともに、ネット放送局「チャンネルくらら」を主宰。著書に『嘘だらけの日英近現代史』(扶桑社)など多数。

2018.1.2 07:00【鳥羽伏見の戦いから150年】日本近代化への扉開いた決戦 西郷を奮い立たせた1発の銃声
 260年あまりにわたった徳川幕府の世に終わりを告げ、明治維新に向かう戊(ぼ)辰(しん)戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いが起きたのは、大政奉還翌年の慶応4(1868)年1月。今年の正月、日本史の転換点からちょうど150年の時が流れる。近代国家建設を目指した新政府軍と旧幕府軍がにらみあった激戦の地(現・京都市南区、伏見区)は今、どのように変化し、痕跡を残しているのか。霊山歴史館(同市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長(69)とともに訪ね歩いた。(池田祥子)

伏見

 「明治維新は、王政復古の大号令と、段階的に新国家像を描きながら進んだ改革。戦いは日本の平定に必要な前哨戦だった」。当時の事情に詳しい木村氏が、改めて鳥羽伏見の戦いの意義を語った。

 正月早々4日間にわたった戦いは、鳥羽と伏見の2つの地が舞台となった。城下町として栄えた伏見では、御香宮(ごこうのみや)神社に陣取る薩摩軍と、南約50メートルの伏見奉行所に本陣を置く旧幕府軍がにらみ合った。

 伏見の戦の端緒は、1月3日、北西約3キロの鳥羽・小枝橋で薩摩兵が放った1発の銃砲だった。奉行所にいた旧幕府方の新選組副長、土方歳三も銃声と閃光(せんこう)を確認したという。火ぶたが切られ、激戦が続いたが、薩摩軍が撃った砲弾が奉行所の火薬庫に命中し、大爆発した。

 この砲弾が放たれたのは、同神社東側の高台。眼下には現在マンションが立ち並んでおり、奉行所があった場所は視界から遮られているが、木村氏は「かつてはしっかりと奉行所が見渡せたはずだ」と思い巡らせる。広大な奉行所跡は明治以降、旧陸軍が所有し、現在は市営桃陵(とうりょう)団地に。敷地からは薩摩軍のものとみられる砲弾も見つかった。
 近くの料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の表の格子には、生々しい当時の銃撃戦の弾痕がある。この戦乱で伏見の街の南半分が焼失したが、この店は運良く免れ、同神社の杜とともに往事をしのばせる。

 4日、明治天皇の命令を受けた仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍になり、5日に新政府軍は「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は兵力では圧倒していたが、たちまち「賊軍」となり、勝負は決した。

 「新政府軍だけでなく、徳川慶喜も、おそらく大政奉還の先に新たな国家を見据えていただろう」。木村氏はそう推察し「世界地図を念頭に新しい国を生み出すために、明治維新は避けては通れない道だった」と語った。

鳥羽

 鳥羽の戦いは、城南宮周辺で起こった。木村氏は、境内にある文久元(1861)年建立の石造りの鳥居を見上げ「戦の一部始終を見ていただろう」と思いをはせた。

 慶応4年1月3日、新政府軍は城南宮から小枝橋に続く参道に陣を構え、旧幕府軍と長時間対峙(たいじ)した。

 突如、小枝橋で薩摩兵が挑発のため撃った一発で戦いの幕は上がった。

 〈鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし〉

 北に約3キロ離れた薩摩軍の本陣、東寺(南区)の五重塔から遠眼鏡で状況を見守っていた総指揮官の西郷隆盛は喜んだという。「倒幕が目的だった西郷としては、戦が勃発したことで旧幕府軍を朝敵として討てるという大義名分ができた」。木村氏が説明する。

 城南宮の西350メートルの小枝橋周辺。木村氏によると、戦後は田畑が多かったが、現在は住宅や工場が立ち並び、西郷がいた五重塔も見えない。150年前の記憶は、小枝橋近くと鳥羽離宮跡公園にある石碑のみに刻まれている。

  


 鳥羽伏見の戦い 王政復古の大号令の後、将軍家の領地返納を強行採決した薩長両藩に対し旧幕府側が1万5千人で挙兵。大坂から京に進攻し、両藩兵ら4500人が迎え撃った。慶応4年1月3日、鳥羽と伏見で衝突したが、「官軍」となった新政府軍が旧幕府軍を圧倒し、6日に戦が終わり、徳川慶喜は江戸へ逃れた。


観光マップ土方歳三の世界へ 戊辰戦争、一次資料に忠実に改訂 /栃木
 地域おこしに取り組む宇都宮市の市民団体「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰(ぼしん)戦争で戦場となった同市内の史跡などを集めた改訂版観光マップ「新撰組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」を作製した。

 同プロジェクトは2011年、「歴女」ブームを受け、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の内容に沿ったマップを作った。しかし小説は、実際には戦いに参加していない人物も登場するなど、史実に反する部分もあった。

 このため、宇都宮藩の資料や戦争参加者の日記など、一次資料に忠実な改訂版を作成。一般的には土方歳三が快進撃したと思われがちな第1次宇都宮城攻防戦が、実際には少ない兵力で宇都宮藩側が一時旧幕府軍を食い止めていたことなどが紹介されている。

 マップはアンテナショップ「宮カフェ」(同市江野町)で缶バッジ(200円)とセットで販売。また、宇都宮新撰組同好会ホームページ上にもPDFファイルで公開されている。【高橋隆輔】
幕末・維新を生きのびた、日本橋の大店たち榮太樓、西川、柳屋・・・試練を乗り切った老舗
明治末期のある日、取材記者の石井研同(陸奥国郡山)は、三ノ輪の埃っぽい裏路地にある長屋を訪ねた。「零落した豪商が住んでいる」と聞き込んだからだ。
6畳1間の主は伊勢屋加太八兵衛(かぶとはちべえ)。かつて麹町7丁目で呉服店を営み、「山手随一の豪商」と言われた「伊勢八」である。幕府御用商人として苗字帯刀を許され、旗本や諸大名の資金調達も担ったが、維新ですべて踏み倒された。「諸大名に数万金の貸し流れあり、その証書のみにて、つづら籠一つに満つ」(『明治事物起源』)。
明治維新で、たびたび御用商人に課せられた「御用金」など、幕府への債権は貸し倒れとなった。各藩への売掛債権の返済は新政府が肩代わりするが、20年以上前の天保年間以前のものは時効、それ以降は50年債での返済とされ、実際には棒引き。伊勢八はたまらず倒産したのだ。
幕末、幕府の統制が揺らぐと江戸の治安は悪化。ある日、日本橋西河岸の榮太樓の店に、京都・大覚寺の寺侍を名乗る数人の武士が訪れ、「誰の許しを得て『榮太樓』を名乗っているのか。『樓』は高貴な文字だ」と脅した。こんな謂われのないゆすりが横行し、群衆が大店に暴れ込んでの略奪や打ち毀(こわ)しも相次いだ。彼らは「天狗がやった、やったのは天狗だ」とうそぶいたという。今に続く老舗は、存亡をかけた試練をどうやって乗り切ったのか。

業態を華麗に変更した「ふとんの西川」

本記事は『東京人』2018年2月号(1月4日発売)より一部を転載しています(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)
日本橋の南側、日本橋通りをはさんでの通1丁目は「間口一間値千両」と言われた江戸第一級の商業地で、近江商人の店が集中した。豊臣の楽市楽座政策を機に、近江商人は全国に活躍の場を求め、御朱印貿易にも携わった。

今でも近江八幡や五個荘(ごかしょう)など北国街道沿いの街並みを歩くと、他の地方には見られぬ「勢い」が感じられる。

橋を渡ってすぐの「西川」は「近江八幡の御三家」、初代西川仁右衛門(にえもん)が元和元(1615)年、畳表や蚊帳を商う近江本店の支店として設けた。江戸はまだ普請中、畳表は江戸城や武家屋敷からの引き合いが多く、町屋向けに手代が売り歩いた蚊帳への需要も、江戸の街と一緒に膨張し続ける。売上は右肩上がりだった。

西川は経営の近代化に熱心だった。売上から運転資金、原材料費、当時多かった大火などの損失引当金を引いた分を従業員に分配する「三ツ割銀制度」は現代の会計理論にも通じ、寛文7(1667)年の勘定帳は、わが国に残る最古の帳簿とされる。「近江八幡の本家で拝見しました」と日本橋西川の店長・執行役員の伊藤敦司さんは語る。売り手、買い手、世間の「三方よし」とともに、近江商人の先進性と精神を現代の社員たちに伝える存在だ。
幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。


寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。

醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。

国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。

幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。

八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。

幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。


寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。

醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。

国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。

幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。

八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。

幕末明治・横浜の西洋犬事情は 浮世絵から伝わる驚き
 犬はいつごろからペットとして飼われるようになったのだろうか。戌年(いぬどし)に合わせ、そんな歴史をひもとくミニ展示企画「幕末明治 横浜犬事情」が横浜開港資料館(横浜市中区)で開かれている。女性のそばに座る犬、飼い主と散歩する犬、台所をうろつく姿……。開港したばかりの横浜で描かれた西洋の犬に焦点をあてた。

特集:どうぶつ新聞
 幕末から明治初期にかけて、浮世絵師の歌川貞秀(さだひで)は横浜で、外国人の風俗や商館などを題材に数多くの浮世絵を描いた。「横浜絵」と呼ばれ、庶民の間でブームに。その中に、洋犬も数多く描かれていた。

 「最初は洋犬が珍しいから貞秀が描いたと思っていた。でも、それだけではなかったようです」。同資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は、史料や文献に当たるうちに気付いた。

 江戸時代までは、富裕層が室内で飼っていた小型の「狆(ちん)」や猟師が飼う猟犬を除き、個人で犬を飼うことは珍しかった。「犬公方」と呼ばれた5代将軍・徳川綱吉も江戸城で狆を飼っていた。集落周辺に住む里犬や町犬はいたが、「地域の番犬」の役割は果たしても、各戸で飼われていたわけではなかったという。

 明治時代に各道府県で「畜犬規則」が定められてから、個人の所有が増えていく。それまでの里犬たちは外国人らから「未開の象徴」とみられたこともあり、処分の対象になっていったという。「居留地で洋犬が飼い主に行儀よく従う姿は、貞秀にとっては驚きの光景だったのでしょう」と伊藤さんは話す。約10点の関係資料を紹介するミニ展示は2月末まで。(佐藤善一)
幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
 二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)

 同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。

 会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。

 入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。 
 最近はワンちゃんに「カメ」という名前をつけることもなくなったようですが、一時はポピュラーな名前だったそうです。横浜辺りで"Come here!"と英語で呼ぶのを聞きつけた人が、「カメ」を犬の名前と思ったのが始まりとか。

企画展幕末の奈良町を伝える 28日まで、奈良・市史料保存館 /奈良
 明治維新150年に合わせ、奈良市脇戸町の市史料保存館で企画展「幕末の奈良町」が開かれている。1854年の伊賀上野地震を伝える瓦版など、幕末~維新期の奈良町の出来事を記した資料が並ぶ。無料。28日まで。

 瓦版には、同地震により「南都」(奈良)で350人が死亡し、火災や池の堤防の決壊による被害が記され…
 以下は有料版にて。

「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
 平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。

 約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。

 急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。

 浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。

 小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。
 清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)

 明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)

 ■りりしい西郷どん

 明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
 本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。

                   


 【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
【号泣】佐賀県、大河ドラマに無視されすぎ問題
遂に始まりました、大河ドラマ『西郷どん』。方言が激しくてテロップがないと何を言ってるかわからないって話題になってますが、こういう時字幕放送は便利ですね。

いやぁ、それにしても10年くらい前から幕末、戦国、幕末、戦国、ひとつ飛ばしてまた幕末、戦国、幕末、戦国、戦国、幕末と、幕末と戦国を行ったりきたりしている大河ドラマ。『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』に『花燃ゆ』と、薩摩、土佐、会津に長州……日本史でも習いましたもんね。明治維新は幕末の雄藩「薩長土肥」が主力となってなされたって……うん、うん、うん……って、おーい!

肥(肥前)はどこへ行ったよ!!!
肥前どこ行ったよ!明治維新の立役者と日本史の授業やテストで出題され、漫画とかでもよく登場するこの言葉「薩長土肥」。今で言うと、

薩摩 → 鹿児島
長州 → 山口
土佐 → 高知
肥前 → 佐賀

肥は?ねえ肥は??肥、僕の地元なんですけど?何でまた薩摩?10年前に『篤姫』やったじゃん!なぜ、ここでまた薩摩の『西郷さん』??もっといえば、西郷隆盛は1990年に『翔ぶが如く』でやってるじゃん!

『ブラタモリ』未踏の地、佐賀県
大河だと秀吉が朝鮮攻めするとき名護屋城がチラッとセットで出てくる程度の扱い。そして、もう直ぐ100回に手が届きそうなのにあのタモリさんが一度もブラついてない『ブラタモリ』未踏の地の一つ、それが我が地元佐賀県。

朝ドラだって、主人公の出身地どころか『おしん』(1983)以来舞台にもならない佐賀県。『信子とおばあちゃん』(1969)では主人公の出身地だったらしいけど、それも半世紀以上前の話。だいたいその『おしん』だって、嫁いで佐賀に来てみたら旦那も姑も酷い奴らでイビられ倒されたあげく右手が使えなくなるという地獄設定。どうよ、この冷遇ぶり!佐賀県民だって受信料払ってんだぞ!

幕末佐賀藩大河ドラマ
え?だって、佐賀でしょ?大河になりそうな人いるの?って声も聞こえてきそうなんで、歴史それほど詳しくないですがこの際なので『幕末佐賀藩大河ドラマ』のプレゼンをさせていただきます。

肥前の妖怪『鍋島直正(鍋島閑叟)』
若干17歳で家督を継いだら、浪費家だった父親のツケが溜まりに溜まってて藩は財政破綻状態。そうとは知らず江戸藩邸から佐賀に向けて出発しようとしたら、商人たちが金返せと押しかけ大名行列がストップしてしまったという超苦労人。口癖は「腹を割って話そう」「一丸になろう」。

国元に帰ったら「ソロバン大名」と揶揄されるほどの質素倹約で財政改革、教育改革、農村復興を推し進め、結果佐賀藩は今だったら『ガイアの夜明け』(テレ東)で取材されちゃうんじゃないかって勢いで奇跡のV字回復!

また、日本初の実用反射炉でアームストロング砲を完成させ、極秘裏に洋式陸海軍を備え蘭学・英学を奨励。海外文明を積極的に移植し近代化に成功。幕末最強の科学・技術・軍事力を持ってるにもかかわらず最後の最後まで佐幕派からも倒幕派からも距離を保って加わろうとせず、あまりにも得体が知れない存在だったため「肥前の妖怪」と呼ばれたキレモノ且つ、クセモノなお殿様。

司馬遼太郎先生も短編集『酔って候』の中で「肥前の妖怪」ってタイトルで小説書いてるし、ちょっとググったら逸話がわんさと出てくるしネタには困りませんよNHK様!

佐賀にもいるぞ維新志士
直正公を含め、佐賀の七賢人とか呼ばれてるので何人かご紹介。

不遇の才物『江藤新平』
桂小五郎や伊藤博文とも交流のあった佐賀の維新志士。最下層の出身から薩長が圧倒的権力を握っている新政府の中枢で司法卿になった超逸材。この人の献言で「江戸」が「東京」と改称された。犬猿の仲だった大久保利通と大モメ、そして下野。「新政府クソくらえ!」と武力蜂起しようとする地元佐賀の不平士族を諌めようと帰郷したら、逆に担ぎ上げられ佐賀の乱が勃発。大久保の策略で正式な裁判にもかけられず斬首の上、さらし首にされた(ほとんど見せしめ)という不遇の人。

司馬遼太郎先生も『歳月』って小説を書いちゃうくらいなので、そろそろまともに評価してあげて!佐藤健くんとかイケメンだけど哀愁感のある演技派に演じてもらいたい。

あだ名はハゼ『大隈重信』
落ち着きが無く激しく動き回ることからあだ名はハシクリ(ハゼ)。藩校では常にトップの成績をおさめるも直正の教育方針に批判的だったアンチ閑叟。佐賀の特色である『葉隠』的教育に反発し退学。蘭学寮に入学し、閑叟にオランダ憲法を講義するまでに至る。副島種臣と将軍・徳川慶喜に大政奉還を進めることを計画し、脱藩するも失敗。

大政奉還後は「直ちに兵を率いて上洛いたしましょう!」と藩主の直正に熱弁するもスルーされる。相性悪そうなこの2人のやりとりを大河で見てみたい。

大河ドラマ『直正 -肥前の妖怪-』(主演:大泉洋)
維新の後は、北海道開拓と防衛の必要性にいち早く気づき北海道初代開拓使長官に任命され「北海道開拓の父」と言われる島義勇を送り込んだり他藩が尻込みするなか600人以上集団移住させたりと、意外にも北海道と繋がりがある直正公。

ここは是非、北海道出身の大スター大泉洋さんに主演をやっていただき、脇を安田顕さんとかTEAM NACSで固め『直正 -肥前の妖怪-』とかいうタイトルで大河やっちゃいましょう!大泉さんが大河主演!北海道の視聴率も取れる筈(多分)!

というわけで、次の幕末大河ドラマは是非、「薩長土肥」の肥!肥前でお願いします!
 私は相変わらず江川英龍の大河ドラマ化を希望する者ですが、佐々木譲さんの歴史小説三部作の三作めとして『英龍伝』が刊行されて嬉しい限りです。
毎日新聞出版 英龍伝 著者佐々木 譲 
ISBN:978-4-620-10833-9
定価:本体1,800円(税別)
判型:四六判
頁数:320頁
ジャンル:小説・評論

平和的開国に尽力した知られざる異能の行政官。その不屈の生涯。
開国か戦争か。いち早く「黒船来航」を予見、未曽有の国難に立ち向かった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍。誰よりも早く、誰よりも遠くまで時代を見据え、近代日本の礎となった希有の名代官の一代記。明治維新から180年。新たな幕末小説の誕生。
『武揚伝』『くろふね』に続く、幕臣三部作、堂々完結!


【江川太郎左衛門英龍 1801-1855】
伊豆韮山の世襲代官だったが、「黒船来航」の十年以上前から幕府に海防強化の建議を繰り返し、ペリー来航時には海防掛に任命され、江戸湾台場築城を指揮した。
幕末遣米使節随員・玉虫左太夫~近代への大いなる目覚めと挫折~「航米日録」記した悲運の逸材
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。


玉虫左太夫墓(仙台市・保春院、提供:高崎氏)
異文化の衝撃、サムライの覚醒
激動の幕末に太平洋を渡った遣米使節団(77人)のうち、私は使節団正使・新見豊前守正興(にいみぶぜんのかみまさおき)の従者(随員)である仙台藩士・玉虫左太夫(たまむしさだゆう)に注目する。彼の克明な「航米日録」(航海日誌)に強くひかれるからである。

左太夫は、文政6年(1823)仙台に生まれた。学問を究めたい一心から、24歳の時脱藩し江戸に出て大学頭林復斎の門に入った。高い教養が認められ塾長を命じられ、大名などに復斎の代講をつとめるまでになった。万延元年(1860)、幕府がアメリカと通商条約締結のため使節団を送ることになった。彼は正使新見豊前守の従者に選ばれアメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を渡った。未知の国への旅立ちであった。

日本を離れるとすべてが新しく、奇異に映るのは当然であった。左太夫は外国語の知識に欠け、海外事情にもそれまで無縁であった。だが、俊才の彼は儒学の素養と鋭い観察眼によって異国をつぶさに観察し、詳細かつ正確な記録を残した。「航米日録」(8巻)である。比類ない観察記録といえる。副使・村垣淡路守範正(のりまさ)の日記が、アメリカの進んだ文物に接しながら、「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我日本(ひのもと)の 国の光を」と31文字に読む国粋ぶりとは異なり、左太夫は知的に、客観的に見聞を詳細に書き留めた(批判的記述は別の日誌に書き止め他見に供しなかった)。米艦ポーハタン号乗艦から世界一周を果たして横浜帰港までの9カ月の間、果敢な取材や観察をもとに具体的数字を挙げて実証的に記述するその手法には類を見ない価値がある。彼は緻密で冷静な頭脳の持ち主であった。

遠藤周作の左太夫評価
文学者・遠藤周作は左太夫の近代化への目覚めに注目した最初の作家である。「走馬灯」の「玉虫左太夫のこと」より引用する。
「左太夫の『航米日録』は、その素直な感受性と率直な批判精神で書かれた得がたい外国体験の記録である。まず彼には、その後の留学生たちに見られるような卑屈なコンプレックスは毛頭なかったが、と言って無意味な強がりや偏見もない眼で、米国を見ようとしたのである。彼は最初、米国を聖道のない国と考えていた。米国人を礼節をわきまえぬ国民と考えていた。その定太夫が、幕府の遣米使節の最下級の属官として米国船に乗りこんだのである。そして彼は、毎日の船旅で少しずつ、自分のこの考えが間違いであったことに気づいていくのだ」。

遠藤は左太夫の目覚めを具体的に記す。
「日本を離れると、船はたびたび暴風にあった。属官である彼は正使、副使たちと違い、もっともひどい場所に起居していたため風波に持物を濡らし、ずぶ濡れになったが、その都度、親切に助け、慰めてくれたのは同乗した日本人の上司たちではなく、ほかならぬ米国人の下級船員たちだった。彼は米国人にたいする偏見がまず薄れたのはこの時である。
左太夫は、この船内で士官と水兵とが互いに助けあい、協力しあい、その交情の親密なことに気づき始めた。これは、彼が受けた儒教的教養にたいする最初の衝撃だった。米国人には聖道はないかもしれぬが、そのかわり人間的な暖かさがあると彼は気づいたのである。
『我国にては礼法、厳にして、総主などには容易に拝謁するをえず、少しく位ある者は…下を蔑視し、情交、かえって薄く、兇事ありといえども悲嘆の色を見ず』と彼は書いた。『しからば、礼法厳にして情交薄からんよりは、寧(むし)ろ、礼法薄くとも情交、厚きを取らんか』
なんと爽やかで、率直な観察と結論であろう。玉虫左太夫は厳しい儒学的教育を受けて育った侍だっただけに、この彼の反省は我々もしみじみと受け取れるのだ。
こうして太平洋を渡り米国に赴く船のなかで、左太夫の心には少しずつだが微妙な変化が始まった」
「属官である彼が、自分の船内観察や考えが上司に伝わるのを怖れて、自分だけの日記をつけだしたのもこの時からである。その日記には、同船の日本人上司にたいする痛烈な批評も書き込まれている。たとえば、同船の日本人たちは船内の食事に不平を言いつづけているが、連中は平生は家にあっては一汁一菜しか食べていないくせに、こういう旅行の際には『俄(にわ)かに奢侈の言を発して美味を好む』とは不思議であると、彼は言っている。
(中略)。左太夫の上司にたいする批判は彼自身が属官であるゆえんの不平も感ぜられないではないが、しかし、いかにも外国旅行に行く日本人的な性格を浮き彫りにしていて、今も昔も変わらない部分を衝いているのが面白い。いずれにせよ、『航米日録』には、初めて接する異国の人によって目ざめていく若い日本青年の心の変化が、手に取るように書かれている」。
ワシントンでの観察と見解
首都ワシントンでの観察を見てみたい。玉虫左太夫は、副使村垣と異なり、女性の存在に驚いたり、複雑な礼儀に欠けていることに苛立ちを覚えたりすることはなかった。また、議事堂の訪問に際しても、村垣とは全く違った感想を述べている。

「又行くこと2町計にして議事堂あり、カビテンハウス(注:キャピトルハウス)と云う。花盛頓府(ワシントン府)第一の巨屋高さ3、4層なり。出入口四方にあり、周囲10町計にして・・・事を議するときは中央卑き所に官吏及び書記官等列出、而(しか)して其事に管する者都(ルビすべ)て毎階に列し、高きより卑き臨む。故に官吏の公私分明に見え衆をして怨を抱かしめざるなり。」(原文カタカナ、ちなみに副使村垣は議会を「我が日本橋の魚市のさまによく似ている」と愚かにも記して、同行の監察(ナンバー3)小栗忠順の失笑を買っている)。

左太夫にも他の同行者らと同様に儒教思想の背景があり、彼はまた、その後半生を徳川幕府の封建体制支持に傾倒して生きたサムライであった。彼の記録には権力の側の価値観に対する明らかな批判や挑戦を指摘することが出来る。近代西洋文明に触れた目には、忠義という縦のつながりが弛緩しているとさえ感じられる。玉虫の体制批判は控えめである。が、それでも彼は、極度に異なったアメリカ文化の中で自国に欠けていると痛切に感じた制度を発見した数少ない使節一行の一人であった。
                  ◇
万延元年(1860)遣米使節及び咸臨丸の随員が残した旅行記、回想録のうち現存するものは約40を数えるとされる。(新見、村垣のような徳川幕府の高級官僚(幕臣)や、福沢諭吉、勝海舟のような蘭学の教養を身に着けた才気あふれる人物、さらには玉虫のような外様藩士たち、もっと身分の低い武士ではない奉公人にいたるまで、すべての階層の人びとによって書かれたこれらの記録は、未知の西洋と遭遇した際の、近代日本の夜明けの時代の徳川精神を最も適切に表している。だが「航米日録」に勝る観察記録はない。

帰国後の玉虫左太夫は、世界一周の体験や見聞に基づいて技術の重要性を感じ、食塩の製造法を研究した。文久3年(1863)、40歳の時に「食塩製造論」を著し、3年後には自ら属する東北の雄藩・仙台藩気仙沼の浜辺に製塩場を建設した。だが左太夫は不運であった。仙台藩重臣に取り立てられ小姓組並、江戸勤務学問出精を命じられ、また仙台藩学問所養賢堂指南頭取(学長)となった。

慶応4年(1868)仙台藩主の命を受けて、会津に赴き、藩主松平容保に会い佐幕連盟の約を果たした。が、仙台藩内が勤王、佐幕に分裂し、明治新政府に組しない立場を貫いた左太夫は劣勢となった。左太夫は、幕府の軍艦奉行榎本釜次郎(後に武揚)が軍艦を率いて蝦夷地(北海道)へ向かうことを聞き知って、これに乗って蝦夷地に一緒に逃げようとし、自ら造った気仙沼の製塩場に行って塩を集めて、これを榎本の軍艦に積み込み持っていこうとした。榎本武揚も、軍艦を気仙沼に寄港させ左太夫と同志門弟16人を救出しようと試みた。だが、わずか1日の差で左太夫らは捕吏に捕えられた。反対派の桜田良佐らの策謀によって反逆者の烙印を押されて、翌明治2年(1869)4月切腹自刃に追い込まれた。

享年46歳。左太夫の無念の思いはいかばかりであったろうか。明治維新後、玉虫家は家名を奪われ相続も許されず、明治22年(1889)憲法発布まで家名復興を許されなかった。明治新政府に反抗した者を容赦なく追及し罰してやまなかった非情な暴挙を、まざまざとここに見る。

参考文献:「走馬灯」(遠藤周作)、「我ら見しままに 万延元年遣米使節の旅路」(マサオ・ミヨシ)、「西洋見聞集 日本思想大系」(岩波書店)

(つづく)
2月に史跡足利学校で清光、安定の日本刀展示 新選組の沖田総司愛用の刀工
刀剣ブームに沸く栃木県足利市で、刀剣女子に人気の刀工「加州清光(かしゅうきよみつ)」と「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」の日本刀などが特別展示されることが決まった。新選組の一番隊隊長の沖田総司が愛用の日本刀を作った刀工の作で、2月2~25日、史跡足利学校(同市昌平町)で展示される。所蔵家の好意で実現したもので、全国から多くのファンが訪れそうだ。(川岸等)

 清光は室町時代から続く加賀(石川県)の刀工で、展示されるのは刃長69センチ。安定は江戸時代に活躍した武蔵(東京都など)を代表する刀工で、展示品は同82センチ。また、江戸時代の足利の刀工・源景国(みなもとのかげくに)の刀、同70センチも展示される。

 清光と安定の刀は幕末、沖田総司が愛用したことで知られ、清光は新選組が尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件で使用されたといわれる。いずれも、刀剣ブームの火付け役となったオンラインゲーム「刀剣乱舞」で擬人化され、刀剣女子と呼ばれる若い女性の間で人気が高い。
 足利市では昨年春、開催した地元ゆかりの刀工・堀川国広の名刀・山姥切(やまんばぎり)国広展にファン約4万人が訪れたのを契機に、市と地元商店会など官民連携で夏、秋と刀剣関連イベントを開催し、刀剣による地域活性化に力を入れている。

 今回は複数の個人所蔵家から足利学校に対し打診があり、学校側は「刀剣を通して足利および足利学校の歴史を深く知ってもらう絶好の機会」と急遽(きゅうきょ)企画。会期中、専門家による刀剣鑑賞会なども検討している。

 また期間中、市内では「足利冬物語」として伝統行事の節分鎧年越(よろいどしこし)など多彩なイベントが予定されており、地元商店会関係者は「話題の刀がまた足利で展示されることになり、大きな反響を呼ぶのではないか」と期待している。
 うーん、「伝・加州清光」だと思うんですが、確定的に伝えられるのはどうなんでしょうね。土方さんの和泉守兼定のように実物が残ってないので。。

影山貴彦のテレビ燦々「風雲児たち~蘭学革命篇~」 最も見応えのあった正月ドラマ
 今年の正月のテレビも、見かけは華やかだが中身の薄い長尺番組が少なくなかった。長らく思っていることだが、正月こそ質の高い番組を数多く制作してはどうだろう?「正月三が日のテレビは面白くない」と感じている視聴者の先入観を打ち破る時代になってほしいと願っている。

 もちろん、素晴らしい番組もいくつか放送された。優れた作品を探し出して見るのも無類のテレビ好きとしての楽しみである。特に良かったのが、元日の「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」だった(NHK総合)。

 みなもと太郎原作の大河歴史ギャグ漫画をスペシャルドラマの脚本に仕上げたのは、名手・三谷幸喜である。このドラマを見たおかげで、正月ボケがなかった。優れたエンターテインメントは、触れる者に大いなるエネルギーを与えてくれる。

 史上初の西洋医学書の和訳本、「解体新書」の名を知らない人はいないだろう。その執筆、出版にあたり多大な貢献をした前野良沢と杉田玄白の間で繰り広げられた人間模様を描いたドラマだ。なぜ良沢の名は「解体新書」に載らなかったのか。「医術のため」との熱き信念で結ばれていながら、互いに心離れてゆく様を描いた三谷の脚本が卓越していた。

 前野良沢を片岡愛之助が、杉田玄白を新納慎也が熱演した。他の共演者も素晴らしかったが、特に輝いていたのが、平賀源内役の山本耕史と田沼意次役の草刈正雄だった。そして忘れてならないのが、NHKの有働由美子アナウンサーだ。彼女の語りはうまさを超えている。

 ■人物略歴

かげやま・たかひこ
 同志社女子大学教授(メディアエンターテインメント論)。1962年生まれ。元毎日放送プロデューサー。日本笑い学会理事。
偉人ゆかりの地巡る幕末の宇和島、歩いて体感 明治150年で記念イベント
 明治150年にあたり、幕末明治に活躍した宇和島の偉人を知ってもらおうと、愛媛県の宇和島市観光物産協会が企画している「四国・宇和島の幕末の偉人めぐり」に合わせ、ゆかりの場所を巡るイベントが7日、同市内であった。

古賀穀堂と直正
 「お父さんもすごいけど、この人も傑物」。佐賀県立図書館近世資料編さん室の伊香賀隆さん(45)は、感心することしきりだ。江戸後期、佐賀藩10代藩主鍋島直正の教育係、相談役を務めた儒者、古賀穀堂である◆「寛政の三博士」の一人、古賀精里の長男。遺稿が東京国立博物館に収蔵されており、伊香賀さんら10人ほどの手で解読が進められている。難解な漢文なので埋もれたままだった。句読点を入れ、重要なものは書き下し文にする。ゆくゆくは『佐賀県近世史料』として本にまとめられる予定◆原文を読み解くうち、穀堂が若き日から気宇壮大な志を持ち、ひいては直正を通し政治の正しいあり方を実践していったさまが見えるそうだ。例えば幕末の佐賀藩が、蝦夷地など北方に強い関心を寄せていたことにも、「起点は穀堂にあった」と伊香賀さんはみる◆江戸遊学中の東北見聞を記した資料があり、経験に基づいた直正への進言が、説得力を増したことがうかがえる。幕末期の基礎資料の解読は鹿児島、山口県と比べ、遅れをとっている佐賀。読みやすくすることで小説の下地となり、いつか大河ドラマにもつながろうというものだ◆直正が考えたことの多くの源が、穀堂にあるとすれば、今回の読み解きが果たす役割は大きい。お宝からどんな新史実が飛び出すか、楽しみだ。(章)

【神奈川】市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?
 横浜市中区常盤町5の市道に「六道(ろくどう)の辻通り」と刻印された石碑がある。明治初期から関東大震災(1923年)まで交通の要衝として多くの人が行き交った六差路「六道の辻」にちなんで建てられたにもかかわらず、実際とは違う通りに立っている。いったい何があったのか-。 (志村彰太)

 六道の辻は幕末から明治初期にかけて関内地区を埋め立てる過程でできた。横浜開港資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は「この場所には、埋め立て地の排水のために設けた川が街区を斜めに横切るように走っていた。明治初期に川を埋め立て、六差路になったようだ」と解説する。

 「中区史」は六道の辻を「にぎわいの中心的存在」である吉田橋などとつながる交通の要衝だったと記述。関東大震災後の区画整理で、現在のような交差点になった。

 石碑は一九九九年、馬車道から北西に一本入った、本来の六道の辻から五十メートルほど離れた場所に市が設置した。市中土木事務所の岡哲郎副所長は「馬車道商店街から要望があったようだが、文書が残っていないため詳細は不明」と説明。歴史的に正しい場所か検証した形跡はないという。

 場所が違うのは、地元商店主らでつくる「関内を愛する会」(解散)がそもそもの原因をつくったとみられる。同会は九二年三月、関内地区の市道の愛称を公募。半年後、有識者、市幹部らと共に、後に石碑が設置される通りを「六道の辻通り」とする案を採用した。馬車道商店街協同組合の山口和昭副理事長は「多数の応募から選んだと思うが、資料が残っておらず、どの程度史料を検討したかは分からない」と話す。

 市のまちづくりの歴史に詳しい市都市デザイン室の担当者は「石碑は六道の辻につながる斜めの道路の跡地に近く、完全に誤っているわけではない」と唱えるものの、史料の確認が不十分だったのが真相のよう。山口副理事長は「この謎めいたところも、馬車道周辺の魅力を引き立てているのでは」とプラスに評価している。

松前藩からアイヌ有力者宛てに出された文書 ロシアで発見
今から240年前の江戸時代に松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書がロシアで見つかり、調査に参加した専門家は「公式文書の原本としては、最も古いものと見られ、貴重な発見だ」と話しています。

この文書は、東京大学史料編纂所がロシアのサンクトペテルブルクで行った調査で見つかりました。

文書は240年前の1778年、安永7年7月に松前藩の「蝦夷地奉行」から現在の根室市にあった「ノッカマップ」というアイヌの集落の有力者、「ションコ」に宛てて出されました。

文書ではションコに対して、アイヌの人と和人が交易などを行う拠点施設の「運上小家」の管理を徹底することや、和人が海で遭難したときは手当てをしたうえで、周辺のアイヌの集落と協力して松前藩まで送り届けることなどを求めています。

北海道博物館によりますと、松前藩の文書は幕末の混乱などで多くが失われていて、今回の文書は、松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書の原本としては、最も古いものと考えられるということです。

調査に参加した北海道博物館の東俊佑学芸主査は「松前藩が、北海道東部へ支配を及ぼした時期を解明するうえで貴重な資料で、なぜロシアに残されていたのかなどについても、今後調べていきたい」と話しています。


戊辰150年
 仙台藩祖伊達政宗の生誕450年だった昨年、連載企画などで政宗とその時代を多角的に取り上げた。
 その中で印象に残ったのは、東北の独特な戦国事情だ。大名同士が政略結婚や養子縁組で縁戚関係となり、紛争が起きてもほどほどの戦闘でとどめ、徹底的に滅ぼすことはない。
 「冬が厳しく助け合わないと生きていけない事情もあるのだろう。白河関を境に国家観が違っていたのではないか」。政宗の一代記「鳳雛(ほうすう)の夢」を書いた作家上田秀人さんは、こう語っていた。東北には共生、共助の精神を育む風土性があるのかもしれない。
 今年は「戊辰戦争150年」だ。東北が苦難の道を歩んだ戦い。あの時代と今をつなぐ多くの記事が紙面をにぎわせるだろう。
 仙台市の作家熊谷達也さんは現在、幕末期の仙台藩をテーマとした小説の準備を進めている。奥羽越列藩同盟を巡る動きなどは、物語の中心になっていくに違いない。
 列藩同盟が会津藩を救済しようと立ち上がったことも、共助の精神の表れだろうか。「戊辰」を足掛かりに東北人の世界観を探る一年になりそうだ。(生活文化部次長 加藤健一)
「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
 平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。

 約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。

 急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。
 浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。

 小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。

 清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)

 明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)

 ■りりしい西郷どん

 明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
 本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。

                   


 【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
 二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)

 同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。

 会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。

 入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。 
幕末・維新グルメ明治改元150年/5止 武市と玉子とじ 獄舎へ届けた妻の愛 /高知
 坂本龍馬の盟友として知られる土佐勤王党の盟主・武市半平太(1829~65)。昨年には俳優・市原隼人さん主演の映画「サムライせんせい」が公開され、新たな資料も見つかるなど、その生涯に改めて注目が集まっている。そんな武市が愛した「幕末維新グルメ」。それは妻・冨との愛情を感じる「玉子(たまご)とじ」だった。

 現在の高知市仁井田に当たる吹井村に生まれた武市は、龍馬とは「武市のアギ(あご)」「龍馬のアザ(あばた)」と呼び合う仲だったという。1861(文久元)年に尊王攘夷(じょうい)を進めようと土佐勤王党を結成。土佐勤王党は政敵の吉田東洋の暗殺などを決行するが、武市は1863(文久3)年には入獄を命じられ、過酷な獄舎での生活を余儀なくされる。

 本来は許されない冨との手紙だが、ろう役人の計らいもあり、2人のやり取りは現在も残されている。冨は獄内の武市のために毎日、食事を作って夫へと届けさせた。体調を考えての麦飯や鯛飯、牛肉については食べると「のぼせて悪い」という記述が。薄暗い獄舎の中でせめて季節を感じられるようにと、食事の他に桜の花を差し入れたこともある。

 そうした食事の中で武市が特に「うまい」と好んだものの一つが、冨の差し入れた玉子とじだ。

 松崎淳子・県立大名誉教授(調理学)にアドバイスをもらい、冨が作ったであろう当時の「玉子とじ」の味を再現してみた。だしは、その頃に一般的だったじゃこ(イワシの小魚)でとり、しょうゆで味付けする。煮込んだネギに当時は高級品だった卵を絡めれば、作り方こそ簡単だが、素朴な野菜の甘みにじゃこのうまみが溶け込み、優しい味がする。

 「あいたい事はいわいでもしれたこと」と武市は冨に宛てた手紙で書いている。だが、1865(慶応元)年うるう5月11日、武市は切腹。付近には、今も「武市瑞山先生殉節之地」の碑(高知市帯屋町)が残っている。

 歴史研究家の松岡司・佐川町立青山文庫名誉館長は「武市が冨のことを思い、冨もまた武市の教えを守ろうとした2人のつながりが手紙のやりとりから見えてくる」と話す。【岩間理紀】=おわり
巡回展幕末志士らの肖像、湿板写真で伝える 撮影や焼き付け体験 いの /高知
 貴重な幕末のガラス湿板写真を中心に展示する「幕末維新写真展」がいの町幸町のいの町紙の博物館で開かれている。2月18日まで。「志国高知 幕末維新博」の一環で開かれている巡回展で、維新博推進協議会主催。

 湿板写真は幕末に伝わった写真の技法。ガラス板に硝酸銀溶液を塗り、感光性を持たせることで、ガラス板がフィルムと同じ役割を果たす。現像や定着を、ぬれた状態ですることから湿板写真と名付けられた。

 会場では坂本龍馬ら、幕末から明治にかけて活躍した志士らの肖像写真や江戸時代末期に日本各地を撮影したイギリスの写真家フェリーチェ・ベアトが使用したとされる大判カメラなど約160点を展示している。


湿板写真が並ぶ「幕末維新写真展」の会場=高知県いの町幸町のいの町紙の博物館で、柴山雄太撮影
 巡回展としては初めて公開された「手彩色写真」は、モノクロの写真に人が手作業で色を付けた写真で、茶摘みや相撲取り、芸妓(げいこ)らの様子が生き生きと浮かび上がってくる。

 担当の掛水志歩三さんは「幕末から明治にかけての技術の変遷を見てほしい」と来場を呼び掛けている。期間中には「ガラス湿板写真撮影体験」と「鶏卵紙焼き付け体験」も実施される。入場料は大人500円、小中高生100円。体験参加費は無料。問い合わせは紙の博物館(088・893・0886)。【柴山雄太】
<東京人>明治を支えた幕臣・賊軍人士たち 敵味方なく人材登用
 江戸無血開城を成功させた勝海舟、近代資本主義の父と言われる渋沢栄一、第二十代総理大臣を務めた高橋是清、「学問のススメ」で西洋文明を紹介し、慶応義塾大学を創立した福沢諭吉-。幕末に生まれ、明治時代に功績を残した彼らは皆、徳川幕府に仕えた「幕臣」です。

 一九六八年に誕生した明治新政府は西欧列強にならい、富国強兵、文明開化を押し進めますが、巨大政府を切り盛りした経験のない薩長土肥は、深刻な人材不足に直面しました。そこで、海外使節などを経験し、幕府の下で行政経験のある幕臣たちが多く登用されました。薩長土肥は、敵味方関係なく、優れた人材を集める寛大さがあったとも言えるでしょう。

 東京人2月号では、幕末に生まれ、明治期に活躍した幕臣・賊軍人士たちを、政治、実業、ジャーナリズム、医療、文芸、学問・思想の六つのジャンルに分けて紹介します。作家の中村彰彦氏は「会津籠城四人組」と題し、会津出身の井深梶之助、山川健次郎、大山捨松、新島八重の教育界への貢献などを語ります。医療分野では、順天堂大学創立者の佐藤泰然をはじめ、西洋医学の流れを作った幕臣たちを作家の山崎光夫氏がまとめました。

 次週からは幕臣・賊軍人士たちが多く集まった明六社や沼津兵学校、特集のメイン記事である御厨貴氏、関川夏央氏、幸田真音氏による座談会を紹介します。(「東京人」編集部・久崎彩加)

 「都市を味わい、都市を批評し、都市を創る」をキャッチコピーに掲げる月刊誌「東京人」の編集部が、2月号の記事をもとに都内各地の情報をお届けします。問い合わせは、「東京人」編集部=電03(3237)1790(平日)=へ。
湿板写真150年前の京都、発見 写真師・堀内信重のガラス原板 高い技術、屋外でもくっきり /京都
 幕末から明治初期にかけて京都で活躍した写真師、堀内信重(のぶしげ)(1841年ごろ~76年)が、下鴨神社や八坂神社などの名所を撮影した際に使った湿板写真のガラス原板18枚が見つかった。ガラス板は洗って再利用されていたため、撮影したままネガの状態で見つかるのは珍しく、黎明(れいめい)期の写真技術の様子がうかがえる。

 湿板写真は江戸時代末期から明治初期に用いられた写真術で、ガラス板に薬剤を塗って感光性を持たせ、フィルムとして利用。ただ、薬剤が乾くまでに撮って現像しなければならない上、屋外で撮影する場合は機材一式を持ち歩く必要があった。

 信重は寺侍として知恩院(京都市東山区)の警護に当たる傍ら、写真の技術を習得。来日していたお雇い外国人らに、京都を訪れた記念品として名所旧跡を撮り、売っていたと考えられている。

 ガラス原板は2016年夏、知恩院の近くでかつて信重が住んでいた家屋を解体することになり、荷物の整理中に「東山寫(しゃ)真堂」と書かれた木箱から見つかった。内側には等間隔で溝が刻まれ、縦30センチ横24センチの原板が重ならないように1枚ずつ離して保管されていた。

 箱には「寫真種板」との張り紙があり、ふたの裏側には明治11(1878)年7月と書かれていた。信重の死後、ゆかりの品を残すために箱を用意したとみられる。

 原板に光を当てると、知恩院の三門や、西本願寺の大谷本廟(びょう)にある円通橋がうっすらと浮かび上がった。焼き付けた写真はレトロな雰囲気を帯び、150年も昔に撮影したとは思えないほど建物や人物がくっきりと写っていた。下部にはアルファベットで撮影場所が記されているが、慣れていなかったためか、文字の上下や左右が逆になっているものもあった。

 信重を研究している写真家の中川邦昭さん(74)は「条件が一定しない屋外での撮影は難しく、信重は高い技術を持っていたのではないか」と指摘。「写真技術だけでなく、当時の京都の様子を知る上でも大きな手掛かりになる史料だ」と話している。

 原板と焼き付けた写真の一部は、京都市上京区の市歴史資料館で17日まで展示中。

〔京都版〕


お年玉〈年始ご挨拶〉尾上松也

一、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)鳥居前
佐藤忠信実は源九郎狐 中村 隼人
源義経 中村 種之助
静御前 中村 梅丸
逸見藤太 坂東 巳之助
武蔵坊弁慶 中村 歌昇

真山青果 作
真山美保 演出
二、元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)御浜御殿綱豊卿
徳川綱豊卿 尾上 松也
富森助右衛門 坂東 巳之助
御祐筆江島 坂東 新悟
中臈お喜世 中村 米吉
上臈浦尾 中村 歌女之丞
新井勘解由 中村 錦之助


第二部
お年玉〈年始ご挨拶〉中村 歌昇

一、操り三番叟(あやつりさんばそう)
三番叟 中村 種之助
千歳 中村 隼人
後見 中村 梅丸
翁 中村 錦之助

双蝶々曲輪日記
二、引窓(ひきまど)
南与兵衛後に南方十次兵衛 中村 歌昇
女房お早 中村 米吉
平岡丹平 坂東 巳之助
三原伝造 中村 隼人
母お幸 中村 歌女之丞
濡髪長五郎 尾上 松也

銘作左小刀
三、京人形(きょうにんぎょう)
彫物師甚五郎 坂東 巳之助
京人形の精 坂東 新悟
娘おみつ実は義照妹井筒姫 中村 梅丸
女房おとく 中村 種之助
奴照平 中村 歌昇

 ロビーで仁左さまを目撃した情報があります……残念orz
 
 仁左さまから教えを受けた音羽屋の松也さんの綱豊卿がいつか歌舞伎座にもかかるのでしょうか、楽しみです。












家族ふたりを亡くして喪中のひとり寂しい年の暮れ。去年だったら近所で弟とそばをいただいて、母とふたりで紅白。そんな暮れを送れない今年は、違うことをしたくて、横浜にぎわい座の志の輔トリの寄席チケットを入手。

子ほめ/全楽
時そば/志の彦
権助魚/志のぽん
漫談/寒空はだか この日限定のウルトラマンのネタとか、歌のイントロじゃなくて中トロクイズとか、馬鹿馬鹿しさがいい。
看板のピン/生志 予想通りの相撲ねた。
漫談/松元ヒロ  ウーマンラッシュアワー村本さん、寄席には松元ヒロがいます。あなたもテレビに出られようと出られなかろうと時事ネタ頑張ってください。鹿児島実業時代のジンサン、おもしかったです。うっかりネタが口からこぼれて、話が壊れてしまったけれど、芸人は最後まで。
歌とアコーデオン/遠峰あこ 両国風景のアコーデオン版がすごい。
三方一両損/志の輔 今年一年を締めくくるのが志の輔らくごで幸せ。
昨日はNHKプレミアム『明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」』を楽しみました。

歴女のお供に「戊辰戦争・宇都宮攻防戦マップ」改訂 宇都宮の市民グループ
 【宇都宮】宇都宮の魅力向上などに取り組む市民グループ「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰戦争をテーマにした観光マップを6年ぶりにリニューアルした。市内を舞台にした攻防戦を図解で紹介したほか、宇都宮城などゆかりの地をマップで案内。歴史好きの女性「歴女」に人気の高い新選組の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)を前面に出し、宇都宮の戦跡巡りブームにつなげたい考えだ。

 マップのタイトルは「新選組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」。布陣や戦況の推移を当事者らの日記や紀行文を参考に図解で紹介した。裏面には二荒山神社や簗瀬橋など戊辰戦争ゆかりの12カ所や、まちなかでお薦めの飲食スポットを掲載した。

 市職員でメンバーの荒瀬友栄(あらせともしげ)さん(39)は「歴史に詳しい歴女から初心者まで楽しめる内容。宇都宮にはギョーザ以外にもたくさんの魅力があることを知ってほしい」と話している。
マップは折り畳みA6サイズで2千部製作。1月2日から宮カフェで「明治150周年記念のミヤリー缶バッジ」購入者に進呈する。

近藤勇や沖田総司、土方歳三の本当の姿は?
書名
歴史のなかの新選組
監修・編集・著者名
宮地正人 著
出版社名
岩波書店
出版年月日
2017年11月17日
定価
本体1360円+税
判型・ページ数
文庫・336ページ
ISBN
9784006003692
BOOKウォッチ編集部コメント
 近藤勇や沖田総司、土方歳三ら錚々たるメーンキャラクターでおなじみの新選組。小説や映画、テレビドラマなどで盛んに取り上げられ、最近は漫画やアニメ、ゲームでも大人気だ。

 登場人物たちは幕末の動乱で主役の一翼を担い、さまざまな事件に関与する。ただし大きな問題はどこまでが史実か、はっきりしないことだ。

「時代小説からの決別」
 『歴史のなかの新選組』は、東京大学史料編纂所教授や、国立歴史民俗博物館館長などを務めた近現代史研究者の宮地正人さんが、学者の目で新選組について検証した本だ。もともとは2004年、単行本として出版され多数の書評で取り上げられた。NHK大河ドラマで「新選組!」が放映されたころだ。それを文庫化したのが今回の新版だ。

 単にサイズをコンパクトにしたというものではない。この10年余りで新選組についての研究はかなり進んだという。特に新選組の母体となった浪士組や、江戸の新徴組に関する研究が進んだそうだ。それらをベースに補足や修正を加えているのが本書だ。

 アカデミズムの世界にいる宮地さんが単行本のときからこだわっているのは、語られている様々な出来事が史実かどうかということ。本書でも「前置き」として、「時代小説からの決別」と、徹頭徹尾史料を基に論を展開することを強調している。

 具体的には第10章「史実と虚構の区別と判別」に詳しい。新選組を多くの日本人に広めたのは子母沢寛の『新選組始末記』(1928年)だ。その「子母沢本」にはタネ本があった。西村兼文による評伝『新撰組始末記』(1889年脱稿)だ。ところがこの「西村本」をきっちり読んでみると、いくつものおかしいところが見つかる。ゆえに宮地さんは「西村本」についてこう記す。

 「ある事実なり事件を手掛かりとして、彼の判断で事実の創作をおこなっていないか、という疑いがある」「一八六五(慶応元)年閏五月以前の記述に関しては、すべての点で、他の史料によって裏を取る必要がある」

「近藤勇書簡集」がない
 このほか宮地さんが史料の不備を憂えるのは、新選組の中心人物、近藤勇についてだ。様々な伝説が残り、人物像が語られ、書状なども部分的に紹介されている。しかし、残念なことに、現在に至るまで「近藤勇書簡集」というものが編纂されていない。そのため、部分的に公開されている書状の全文を見ようと思っても見られない。これまでに新選組の本で儲けた出版社が、きちんとした校訂のもとに、書簡集を出版すべきではないかと提案している。

 一方で、新選組の関係者は地方出身者が多いので、それぞれの地元などでは、独自にコツコツと実証的な研究が行われ、良書も出版されていることも伝える。とりわけ日野市立新選組のふるさと歴史館など各地域の資料館の取り組みを高く評価、本書では2004年以降のそうした研究について「補章」を立てて詳しく紹介している。現時点の新選組研究の、一つの到達点を示したものだろう。

 かつては非情な殺戮者。その後、卓越した市井の剣客集団として再評価。さらに滅びの美学が加わり、沖田や土方がキャラ立ちして女性の人気も高まるなど、小説やドラマの世界での「新選組像」も時代とともに変化している。いったいどれが本当の新選組なのか。史料を基にした実像の構築に期待しているファンも多いのではないか。今後もさらなる研究の深化が待たれる。
2017年に行った落語209席。諸事情のため、2010年以来で一番少なかった。

2017/12/31クライマックス寄席
2017/12/19 志の輔らくごinEX2017
2017/11/29 晩秋、Wホワイト落語会19 in 成城
2017/11/21 立川談志七回忌特別公演 談志まつり2017
2017/11/21 立川談志七回忌特別公演 談志まつり2017
2017/10/9 創作落語30周年記念リロード 白鳥ジャパン雪月花
2017/9/19 柳家小三治一門会
2017/9/7 日本青年館オープニング記念公演 立川談春独演会
2017/8/23 毎日新聞落語会 渋谷に福来たる 2017 夏一番 〜桃月庵白酒25周年記念落語会的な〜
2017/7/22 志の輔らくご in 下北沢2017 恒例 牡丹灯籠
2017/5/23 立川談春「廓噺の会」
2017/5/22 柳の家に春風が…柳家喬太郎・柳家三三・春風亭一之輔三人会
2017/5/10 名作落語〜それまで・そのあと・スピンオフ〜 談笑『落語外伝』 第2回「居残り佐平次」
2017/5/4 TBS赤坂ACTシアタープロデュース 恒例 志の輔らくご
2017/4/22 よってたかって春らくご'17 21世紀スペシャル寄席 ONE DAY
2017/4/1 渋谷に福来たるSPECIAL〜落語フェスティバル的な〜 江戸暦
2017/4/1 渋谷に福来たるSPECIAL〜落語フェスティバル的な〜 春爛漫 白酒一之輔二人会
2017/2/28 立川談春独演会2017
2017/2/4 落語の仮面祭り in 下北沢演芸祭
2017/1/19 立川談春新春独演会「居残り佐平次」

 チケット取れにくいながら今年も志の輔談春を追いかけ、またひとり友人をファンにした。
原作の長年のファンとしても、ミタニン&吉川Pコンビの『組!』『組!!』『丸』ファンとしても、楽しみな作品。

三谷幸喜、正月にギャグ漫画の時代劇
脚本家・三谷幸喜によるエンタテインメント時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』(NHK総合)が1月1日に放送。漫画家・みなもと太郎による歴史ギャグ漫画『風雲児たち』を原作に、大河ドラマ『真田丸』のキャストを集めた三谷流歴史ドラマとなる。

一心同体で「蘭学事始」に 取り組んだ前野良沢と杉田玄白だが、「解体新書」には良沢の名は載らなかった。2人の間にいったい何が

歴史ファン、みなもとファンだと公言する三谷は、「僕の大学時代に連載が始まった、みなもと太郎さんの『風雲児たち』。僕はこの作品で、歴史の新しい見方を学びました。『風雲児たち』には、今の日本を築き上げた先人たちの感動的なエピソードがぎっしり詰まっています。今回、そのほんのちょっと一部分をドラマ化しました」とコメント。

江戸幕府老中・田沼意次を演じる草刈正雄と博物学者・平賀源内を演じる山本耕史

本ドラマは、西洋医学書の和訳『解体新書』にまつわる物語で、三谷がNHK時代劇を手がけるのは『真田丸』以来1年ぶり。キャストには、片岡愛之助、新納慎也、山本耕史、草刈正雄、長野里美、岸井ゆきの、迫田孝也、大野泰広、栗原英雄、高木渉など、三谷の笑いのツボがわかっている『真田丸』の出演者が再集結する。放送は19時20分から。
NHK総合・正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』
放送:2018年1月1日(祝・月)・19:20〜20:49
URL:https://www.nhk.or.jp/jidaigeki/fuuunjitachi/
「風雲児たち」新納慎也“ほふく前進”の俳優人生 道しるべ三谷氏に感謝「期待に応えたい」
 昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀吉の甥・豊臣秀次を好演した俳優の新納慎也(42)が正月時代劇「風雲児たち〜蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)〜」(来年1月1日後7・20、総合)に出演。「真田丸」に続き、劇作家・三谷幸喜氏(56)の作品を彩る。

 「真田丸」の脚本を担当し、ブームを巻き起こした三谷氏の新作脚本ドラマとして、さらに「真田丸」のキャスト23人(発表分)が再集結して注目される今作。「真田丸」の後、三谷氏の新作ドラマ脚本は今回が初。原作は今年、画業50年を迎えた漫画家・みなもと太郎氏(70)の同名大河歴史ギャグ漫画。今回は片岡愛之助(45)と新納を迎え、前野良沢と杉田玄白による“蘭学事始”のエピソードを描く。

 西洋医学書「ターヘル・アナトミア」の日本初の和訳に一心同体で取り組んだ良沢(愛之助)と玄白(新納)の2人。鎖国ド真ん中の江戸中期に革命的な翻訳を成し遂げた。しかし、刊行された「解体新書」に良沢の名前はなく、名声は玄白だけのものとなった。2人の間に一体、何が起きたのか…。笑いとサスペンスに満ちた新しい三谷流歴史ドラマが生まれる。

 新納にとって映像の仕事としては、これほど出番とセリフの多い役はなかったという今回の“大役”。人生初となる“剃髪”を敢行し、外見も気合の役作りをして臨んだ。11月に約20日間の撮影を終え「幸せな毎日だったという感謝の気持ちと、撮影前はプレッシャーもあって、途中でケガしたら…とか風邪をひいたら…とか、いろいろ不安もあったので、無事に終えられて、ひと安心しました」と振り返った。

 翻訳の精度にこだわって完璧を目指した良沢とは対照的に、あまりオランダ語が分からなかった玄白は不完全でも医学発展のために「出しちゃえ、出しちゃえ」と「解体新書」刊行を急いだ“乗りだけ”の男。「お調子者の新納さんにピッタリでしょ?」という三谷氏からのオファーに、新納は「おいおい!」と笑ってツッコミを入れながらも「時代劇だからといって重くならず、とにかく軽快に演じてほしい」というリクエストに応えた。

 具体的には、翻訳作業に打ち込んでいる良沢と中川淳庵(村上新悟)に対し「あまりオランダ語が分からない玄白は2人を手伝えない。2人がああでもないこうでもないとオランダ語と格闘していると、玄白はすぐに『先、行きましょう』と言うんです。そのセリフを、どう言えばいいか。良沢が『この男は…』とイラッとするように、時代劇にあり得ないトーンとテンポで、その部分だけ一種、現代っぽくしてみました。そこの現代感覚のスピード感とリズム感は大事にしました」と工夫を明かした。

 三谷作品には2007年、ユースケ・サンタマリア(46)主演の舞台「恐れを知らぬ川上音二郎一座」で初参加。09年には、元SMAPの香取慎吾(40)主演のミュージカル「TALK LIKE SINGING」で4人の出演者の1人(主人公の親友役)に起用され、念願のオフ・ブロードウェーデビューを叶えた。

 「真田丸」の時も、三谷氏について「僕の人生の連結部分で『さあ、この道を進みなさい』と言ってくれる、人生を変えてくれる人です」と語っていたが、再度尋ねると「僕、本当に、こうやって匍匐(ほふく)前進で進んできたような俳優人生なんです」と身ぶり手ぶりを交え、切り出した。

 「今回も『風雲児たち』の共演者の方々に『新納君って、もともと何なの?』と聞かれたんですが、劇団にいましたとか特撮ヒーローでしたとか(笑い)、僕にはそういった“もともと”が何もないんです。ただただ、ミュージカルのカーテンコールで一番後ろの列の端っこで気付かれない程度にお辞儀をしていたところから、1個1個、こうやって匍匐前進で脇目も振らず進んできただけなのです。三谷さんは、そうやって先を見ず、今、目の前にあることを1つ1つやっている“腹ばいの僕”の横にたまにやって来て、匍匐前進する僕に『新納さん、今度はこっちに進んでください』『次はあっちに行ってみたら、どうかなぁ?』と進む方向を指さしてくれるみたいな、そんな存在。これ、うまく文章になります?」とジェスチャーを交え、少しおどけながら話して笑いを誘った。

 「この距離感が僕と三谷さんの関係性を我ながら上手に言えていると思います。頻繁に連絡を取り合っているわけじゃなく、1年ぐらい音沙汰がない時もありますから。僕のどこをそんなに評価してくださっているのか、ちゃんと聞けていないんですが、それを言葉にせずとも、今回のような役を頂けることが三谷さんからの評価なんだと思い、これからも期待に応えられるように頑張っていきたいと思います」。モデルから俳優に転向し、20年以上。「来年の今頃、どうなっているんだろうか。役者を始めた当時はその不安しかなかったですし、今も拭えていないまま生きています」。暗中模索の役者道を、三谷氏という“道しるべ”が節目節目で明るく照らす。
[ 2017年12月30日 08:00 ]
新納慎也“映像待ち”の20代“心が摩耗”の30歳も「芝居をしたいだけ」40代「真田丸」で飛躍
 昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で豊臣秀吉の甥・豊臣秀次を好演した俳優の新納慎也(42)が正月時代劇「風雲児たち〜蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)〜」(来年1月1日後7・20、総合)に出演する。今や日本ミュージカル界を支える1人になったが、30歳の頃には「心が摩耗」し、休養を申し出た過去も。20代は映像の仕事に恵まれず、悔しい思いもしたが、40代になってドラマでも実力を発揮。「結局、僕はスターになりたいんじゃなく、芝居をしたいだけの人」。活躍のフィールドが増え、さらなる飛躍が期待される。

 「真田丸」の脚本を担当し、ブームを巻き起こした劇作家・三谷幸喜氏(56)の新作脚本ドラマとして、さらに「真田丸」のキャスト23人(発表分)が再集結して注目される今作。「真田丸」の後、三谷氏の新作ドラマ脚本は今回が初。原作は今年、画業50年を迎えた漫画家・みなもと太郎氏(70)の同名大河歴史ギャグ漫画。今回は片岡愛之助(45)と新納を迎え、前野良沢と杉田玄白による“蘭学事始”のエピソードを描く。

 西洋医学書「ターヘル・アナトミア」の日本初の和訳に一心同体で取り組んだ良沢(愛之助)と玄白(新納)の2人。鎖国ド真ん中の江戸中期に革命的な翻訳を成し遂げた。しかし、刊行された「解体新書」に良沢の名前はなく、名声は玄白だけのものとなった。2人の間に一体、何が起きたのか…。笑いとサスペンスに満ちた新しい三谷流歴史ドラマが生まれる。

 16歳の時、出身の神戸でスカウトされ、モデルとして芸能界入り。この世界を目指したことはなく、モデルもアルバイト感覚で始めたが「結構、最近になって親から聞いて、僕は覚えていないんですが、小さい頃、縄跳びの切れた紐をマイク代わりにしてテーブルの上で歌っていたそうです。カギっ子だったので、親が帰ってくるまで映画館にいたり。当時は入れ替え制じゃなかったですからね。もともとエンターテインメントの世界は割と好きな子供だったと思います」と明かした。

 とあるファッションショーのメインモデルに選ばれた時、リハーサルで「この衣装とメイク、この音楽と照明なら、このポーズとこの顔でしょ?と自分なりに表現したのですが、演出家さんから『真っすぐ立って。服がシワになるから』と言われて…。自分がやりたいことはモデルじゃないな、と。自分の中から湧き出るものを、ちゃんと表現したいと思いました」と俳優を志し、大阪芸術大学舞台芸術学科演劇コースに入学。2年生を終え、自主退学し、20歳の時に上京した。

 その後、ミュージカルを中心に活動。2000年、25歳の時には大ヒットミュージカル「エリザベート」(東宝版初演)に初代トートダンサー(黄泉の帝王トートの分身)として出演。圧倒的な人気を集めた。02年にはミュージカル「GODSPELL」の主演に抜擢。三谷氏作・演出の「恐れを知らぬ川上音二郎一座」(07年)などでストレートプレイにも進出し、09年には三谷氏作・演出のミュージカル「TALK LIKE SINGING」に主人公(香取慎吾)の親友役で起用され、念願のオフ・ブロードウェーデビューを叶えた。

 昨年の「真田丸」はインターネット上に“秀次ロス”が広がる大反響。着実に歩みを進めてきたように見えるが、30歳の頃には「絶対に人前に立ちたくない」と半年間の休養を申し出たことがあった。

 「役者というのは、生身が評価されるわけじゃないですか。名指しで評価されることが怖かったですし、当時ありがたいことに、とにかく仕事が続いていて、アウトプットばかりで自分の中のストックが何もなくなって…。芝居というのは、日常生活に起こらないからこそ舞台やドラマになるわけで、普段の暮らしより感情が動いて精神をすり減らすので、心がどんどん摩耗していって、何も感じなくなってしまったんです。病気とかじゃないんですが、そんな精神状態の人間が役者なんかしていたらダメだと思い、仕事を全部空けてもらいました」。ただ「2カ月ほどでお金がなくなり、仕事を再開しました」と笑い飛ばしたものの、いい充電期間に。「やるしかない」と前向きになった。

 来年、そして今後の目標を尋ねると、まず今年は後厄だったと切り出し「役者は“役が付く”のはいいことなので『厄払いしたらダメ』と言われていて。僕も前厄から厄払いはしていません。前厄の時は『真田丸』のお話を頂いて、本厄の時はまさに秀次を演じていましたし、後厄は今回の『風雲児たち』と、本当に役が付いているんです。2018年は厄年が終わりますが、役がもっと付く年になればいいなと思います」と抱負を語った。

 「20代の頃はスターを夢見て、舞台のスケジュールを空けて映像の仕事を待ったりもしました。舞台は2年先とかのスケジュールが埋まってしまい、急にドラマのオファーがあっても応えられないので」。しかし、三十路を迎え「スターは来世で、と思ったわけです」と笑って振り返り「映像のオファーはなくても、舞台のお話は途切れなく頂いていたので、会社にも『もう舞台のオファーを断ってまで“映像待ち”はしない』『とにかく舞台の仕事はスケジュールさえ合えば、やる』と伝えて、その頃から自分のことを舞台俳優と言うようになりました。そんな僕が40歳を超えて、まさか、こんなにドラマに出るなんて、自分でも思っていなかったですね」と率直に打ち明け、自ら驚いた。

 「結局、僕はスターになりたいんじゃなく、芝居をしたいだけの人。最近、映像の分野で芝居をするフィールドを増やしていただいたので、今後の目標としては、ありきたりですが、舞台に映像に垣根なく、いろいろな仕事を続けさせていただけたら、うれしいです」。取材の場が和む明るい素のキャラクターと語り口も魅力的。来年は「風雲児たち」を皮切りに、輪をかけて大暴れしそうだ。
[ 2017年12月30日 08:00 ]

愛之助、『真田丸』キャスト再集結の『風雲児たち』現場満喫「同窓会みたい」
 歌舞伎俳優の片岡愛之助と俳優・新納慎也が、来年1月1日にNHKで放送される正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~』(後7:20)の撮影間の取材会に参加した。同作は脚本家の三谷幸喜氏が、2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』以来、1年ぶりに同局の時代劇脚本を手がけ、愛之助や新納のほかにも山本耕史や草刈正雄、遠藤憲一、小日向文世、高嶋政伸ら『真田丸』おなじみのキャストが集合。「本当に楽しく、和気あいあいと朗らかに、同窓会みたいな『久しぶり~』みたいないい雰囲気で入れる」と現場の雰囲気を明かした。

 同ドラマは、みなもと太郎氏の大河歴史ギャグ漫画『風雲児たち』を原作に、史上初の西洋医学書の和訳に一心同体で取り組んだ前野良沢(愛之助)と杉田玄白(新納)らの物語を描く。新納は「三谷さんからは『坊主だけど、今時かつらの技術がすごいからいいよ、かつらで』とおっしゃっていただけたんですけど、こんなにいい役をいただけたんだから剃ります!と剃ったんです」と決意の剃髪姿を披露している。

 ほぼ全員が真田丸キャストで、入れ代わり立ち代わりにクランクイン・アップしていくことから新納は「きのう、小日向さんがアップして『不思議な感じだね~』と言っていたんですけど、僕はまさにお正月に親戚のおじさんがやってきたみたい。僕や愛之助さん、村上(新悟)さん、迫田(孝也)さんは基本この家にいて、親戚の人が順番にあいさつにくるお正月みたいな。そこでちょっと昔話をして…みたいな、そんな気分です」と久々の再会をよろこび、愛之助も「確かに」と納得。

 演出の吉川邦夫氏は「『真田丸』のメンバーに集まっていただいたんですが、むしろ『真田丸』とは違う役ですから、引き出しの多い皆さんなのでまた違った一面を見てほしい。新しい魅力を引き出したいし、役者さんたちには『真田丸』の時にやらなかった新しい一面を出してほしい。全体として魅力が倍に膨らむ感じになっていければ」と期待を寄せていた。




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