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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
高知)戊辰戦争従軍の土佐藩士の書状 戦地伝える
高木智也2018年4月17日03時00分
 明治新政府と旧幕府勢力による戊辰(ぼしん)戦争(1868~69)に従軍した土佐藩の郷士が記した書状など42点が新たに見つかった。県立高知城歴史博物館が発表した。渡部淳館長は「戦地での兵士の気持ちや日常生活の様子をよく表す価値ある資料」と評価している。

 同館は2017年1月から明治維新期や戊辰戦争に関する資料の提供を呼びかけており、土佐藩の郷士・住江源馬(すみえげんま)(生没年不明)が家族に宛てた書状などが同館に寄せられたという。

 書状の中には、新政府軍と旧幕府軍による白河城(福島県)を巡る戦いで、戦地に魚を売る人が登場。多少腐っていたが、戦地での物珍しさから兵士たちは魚を買っていたことが記されている。

 戦地に赴く出陣では、板垣退助が土佐藩の兵士を前に軍令を読み上げる様子も記録されている。渡部館長は「土佐藩単独ではなく新政府軍の一員として参戦するので、土佐藩の兵士の気を引き締めたのでしょう」と解説する。

 書状は同館で開催中の明治150年特別企画展「明治元年の日本と土佐~戊辰戦争それぞれの信義~」で展示されている。5月28日まで。会期中無休。入場料700円で高校生以下無料。(高木智也)

非公開文化財特別公開戊辰戦争の展示充実 京都市内19カ所、27日から /京都
 普段は見られない仏像や建物の内部を見学できる「春期京都非公開文化財特別公開」が27日、京都市内の寺社など19カ所で始まる。明治維新から150年にあたる今年は、戊辰(ぼしん)戦争関連の展示を充実させる。

 仁和寺(右京区)は、戊辰戦争時に官軍が戦場で掲げたとされる「錦の御旗(みはた)」や、征討大将軍に命じられた親王が身につけた軍服などを紹介する。

 広く一般に公開するのが初となる妙教寺(伏見区)では、本堂の柱に残る砲弾の着弾痕が当時の生々しい記録として残る。行基上人が開いた法伝寺(同)周辺は戊辰戦争の激戦地で、敷地には戦死者を供養する石碑や戦死者の名簿がある。

 このほか、京都ゆかりの日本画家・木島桜谷(このしまおうこく)が住んでいた和洋館などからなる「桜谷文庫」(北区)も見どころ。桜谷の作品や下絵のほか、伊藤若冲(じゃくちゅう)の作品を展示。壬生(みぶ)寺では若冲が奉納した狂言面「僧」を公開する。

 5月6日まで。午前9時~午後4時。拝観料は1カ所につき大人800円、中高生400円(東寺の五重塔は一部拝観料が異なる)。問い合わせは京都古文化保存協会(075・754・0120)。【菅沼舞】

【群馬】幕末の人体骨格図など60点 渋川で北橘歴史資料館新収蔵品展
 渋川市北橘歴史資料館新収蔵品展が開かれている。近年寄贈を受けたものを中心に収蔵品の一部を公開するもの。幕末から明治時代にかけて当時の渋川村で医師をしていた都丸梁香(りょうこう)の医療関係資料約20点や川島村の文書約30点など60点あまりを展示している。

 都丸の資料は「人体骨格図」や「吸入器」など。人体骨格図は掛け軸で、担当者によると、都丸が書き写した図であることをうかがわせる書き込みがあり、同様に書き込まれた干支(えと)から描いたのが慶応2(1866)年とみられるという。吸入器は明治期に使われたもの。薬剤をアルコールランプで熱して霧状の蒸気にして吸い込み、風邪など病気の予防や症状緩和のために使われた。

 川島村文書は名主を務めた家に伝えられていたもので、江戸後期の名主文書や生糸業について書かれた文書など。

 川島村文書については28日午前10~11時に解説会がある。無料だが事前の申し込みが必要。定員30人で超えた場合は抽選。19日までに電話で同館=電0279(52)2102=に申し込む。

 新収蔵品展は6月24日まで。休館日は毎週月曜日と火曜日(祝日除く)、祝日の翌日(土曜日と日曜日を除く)。入館料は大人200円、高校生・大学生100円。 (竹島勇)
幕末・維新をゆく岩倉具視幽棲旧宅=京都市左京区 先祖ゆかりの地に逃れ
 <ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>

 幕末の都は騒々しかった。幕府を助けようという「佐幕」、倒そうとする「倒幕」、天皇と幕府とを一体化させることを目指す「公武合体」など、さまざまな思惑と人が入り乱れ、時代を動かした。【山口敬人】

 では、そうした「人」の中で地元出身者はとなると、はて? 例えば「維新の十傑」--。薩摩の西郷隆盛、大久保利通(としみち)、長州の木戸孝允(たかよし)ら、京にのぼってきた雄藩の志士の名がずらりと並ぶ。ここで異彩を放つのが岩倉具視(ともみ)(1825~83)。公家の出とあれば、生まれは京都。下級貴族でありながら明治新政府の中枢を占めるまでになった傑物の面影を求め、洛北を訪ねた。


岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区岩倉上蔵町)
 京都御所から8キロほど。ここまで来ると東西に山が迫ってくる。住宅と病院に囲まれ、息を潜めるように国指定史跡「岩倉具視幽棲(ゆうせい)旧宅」(京都市左京区岩倉上蔵町)が建っていた。

 幽棲とは「俗世を避けて隠れ住むこと。また、そのすまい」(広辞苑)。公武合体を図るため皇女和宮(かずのみや)と将軍徳川家茂(いえもち)との婚姻をまとめた具視。だが、それが原因で倒幕急進派からつけ狙われ、官職を辞し、先祖ゆかりの岩倉の地に逃れた。1862~67年の5年間のこと。

 幽棲旧宅では3年を過ごした。大工の住まいを買い取った瓦ぶきの付属屋と、増築したかやぶきの母屋「鄰雲軒(りんうんけん)」からなる。母屋は六畳二間。床の間のある東の六畳間で、具視が坂本龍馬や中岡慎太郎らと会っていたというのだから、歴史好きにはたまらない。

 実際にその部屋に上がって大正ガラスの障子戸ごしに南側の庭園を眺めるのもいい。具視お手植えの松の見事な枝ぶりに、150年の時の長さを知る。庭の一角には具視の遺髪を埋葬した塚もある。


「対岳文庫」の内部。重岡伸泰学芸員が岩倉具視の人物像を語ってくれた=京都市左京区岩倉上蔵町で、山口敬人撮影
 鄰雲軒と対をなすように、洋風の登録有形文化財「対岳(たいがく)文庫」が建つ。具視の遺品類を収蔵するために1928年に建設された。維新150年を記念し、波瀾(はらん)万丈の具視の人生を描いた一代絵巻全20巻から名場面をえりすぐって4月27日から5月6日まで公開される。

 さて、幽棲旧宅で会った重岡伸泰学芸員に具視の人物像を聞いてみた。返ってきたのは「目つきが鋭く、小さな声でぼそぼそ話すことで、うさんくさいとか陰謀家とかのイメージを持たれるが、本人はそうした評判も気にしていたようだ。自信満々の人ではなく、割合気の弱い人では」。

 そんな具視役を、NHKで放映中の大河ドラマ「西郷どん」では笑福亭鶴瓶さんが務める。笑顔の裏に闇を持つ人物の演技に定評がある鶴瓶さんだけに、重岡学芸員ら関係者は「期待半分、不安半分」とか。

岩倉具視幽棲旧宅
 開館は午前9時~午後5時、水曜休館(祝日の場合は翌平日が休館)。300円(中高生200円、小学生100円)。近くには、「床みどり」などで知られる実相院、具視がしばしば参拝したという石座神社などがある。075・781・7984。
【太宰府天満宮宝物殿】明治維新150年 太宰府幕末展
 幕末期、三条実美を中心とした尊王攘夷(じょうい)派の5人の公家である五卿が太宰府天満宮に約3年間滞留したことから、太宰府に多くの志士が訪れ、新時代を見据えて談議が重ねられた。本展では西郷隆盛、高杉晋作らの手紙や、五卿の太宰府での生活を詳細に伝える記録など、維新を見届けた太宰府にまつわる資料を展示する(会期中展示替えあり)。11月25日(日)まで。大人400円、高大生200円、小中学生100円。月曜(祝日は開館)、5月7日(月)~11日(金)、7月2日(月)~6日(金)休み(臨時休館あり)。

=2018/04/16付 西日本新聞夕刊=


幕末の古地図“完全描き起こし”、ウェブメルカトルで現代によみがえる「江戸切絵図」の街並みと距離感スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」ができるまで
 古地図と現代地図を重ねて見比べながら、スマートフォン内蔵のGPSを使って現在地が分かる“古地図アプリ”は、幅広い層に人気を呼んでいる。2017年12月にリリースされた「大江戸今昔めぐり」も、このような古地図アプリの1つだが、これにはユニークな特徴がある。それは、スマートフォン上で古地図と現代地図とを見比べるときに、地図がぴったり重なり合う点だ。

 一般的な古地図アプリの多くは、昔に作られた古地図をそのままデジタル画像化して収録しているものが多い。当然ながら古地図は距離や方角が正確ではなく、ずれが生じるためにうまく現代図と重ならない。また、古地図に描かれている文字が読みにくいこともある。

 これに対して「大江戸今昔めぐり」に収録されている古地図は、江戸末期の古地図をそのまま使うのではなく、現代の地図をもとに江戸末期の古地図を“完全描き起こし”で再現したものを収録している。地図の透過度を変えることにより、古地図と現代地図で位置がずれることなく、今と昔を見比べられる。文字も旧字が新字体に直されているので読みやすい。


「大江戸今昔めぐり」

地図の透過度を変えられる
 「江戸切絵図」のような図式で描かれた幕末の古地図でありながら、現代のスマートフォン地図として距離や方角が正しく描かれている――この不思議なデザインの古地図アプリがどのようにして生まれたのか、話を聞いた。

※「大江戸今昔めぐり」は、株式会社ジェイアール東日本企画、株式会社JAFメディアワークス、有限会社菁映社、株式会社ビーマップ、株式会社フジテレビジョンの5社からなる「大江戸今昔めぐり製作委員会」からリリースされたアプリです。

江戸の“切絵図”を現代地図に復元、制作開始は今から30年前
 この完全描き起こしの復元地図を制作したのは、中川惠司氏。雑誌「プレジデント」の表紙イラストなどを手がけたイラストレーター/デザイナーだ。地図の専門家ではなかった中川氏が、あるきっかけで古地図の復元に取り組み始めたのは、今から約30年前のことである。


中川惠司氏

雑誌「プレジデント」の表紙絵などを手がけていた中川氏
 「最初のきっかけは、江戸時代の“切絵図”を現代地図に復元しようと思ったことです。切絵図というのは厳密な測量を行って作ったものではなく、イラストのようにいい加減なものですが、そういうものではなく、本来の地理的なデータに基づいた江戸を描こうと思ったのが出発点でした。」(中川氏)

 このような考えに基づいて制作を進め、1994年に株式会社朝日新聞出版から刊行されたのが「復元・江戸情報地図」だ。A3という大きな判型で制作されたこの地図帳は、縮尺6500分の1という大縮尺で、江戸の町部だけでなく農村部も含めて、精密に描かれている。

 「大江戸今昔めぐり」に収録されている古地図は、中川氏が制作した「復元・江戸情報地図」の原画をデジタル化したものだ。


「復元・江戸情報地図」

6500分の1の大縮尺で江戸の地図を楽しめる
ベースにしたのは、明治初期~中期に作られた“比較的正確な地図”
 江戸切絵図をもとに、現代の街の区割りや道路と重なり合う地図を、広範囲にわたり新しく描き起こすという前例のない仕事に取り組んだ中川氏は、どのようにしてこの地図を制作したのだろうか。

 まず中川氏は、現代の地図から一足飛びに江戸の切絵図と結び付けようとすると違いが大きすぎるため、明治初期から中期にかけて作られた東京の地図を土台にすることにした。使用したのは、「東京五千分ノ一」(参謀本部陸軍部測量局、1883年)や、「東京実測全図五千分ノ一」(内務省地理局測量課、1885年)、「東京近傍二万分ノ一」(帝国陸地測量部、1880年)、「東京近傍一万分ノ一」(帝国陸地測量部、1909年)など。


ベースとなった明治初期の地図
 すなわち、東京の“比較的正確な地図”としては時代的に最も江戸の状態に近い明治初期~中期の地図の道や街の区割りをベースに、そこに江戸時代の資料をもとにして施設名や武家屋敷の名前などを落とし込んでいくことにしたのだ。

 ――と、簡単に説明したものの、これは実際にやってみると途方もなく手間のかかる作業である。まず、現代地図(国土地理院の2万5000分の1地形図)と照らし合わせながら明治時代の地図の道筋や街の区割りを復元するという最初のステップだけでも一苦労だった。

 「江戸切絵図ほどではありませんが、明治の地図も、現代の地図のように空撮をもとにしたものではないので、あまり正確ではありません。都市部はまだしも、農地となると道のカーブの曲がり具合が現代と重ならない部分が多いし、あぜ道ばかりなので、どの道が現代の道路になったのかを判断しにくい。また、等高線と境界線の見分けが付かないことも多い。このような場合は周囲の状況を見ながらラインを修正し、当時の状況を推測しながら整合性を付けていきました。」(中川氏)

 ときには文献を調べて道路の線を1本引くだけで数日かかることもあったという。このような気の遠くなるような作業を続けてこられたのは、なんとかして江戸時代の地図を現代によみがえらせたいと思う中川氏の熱意があったからだ。


農村部の地図
 「とにかく分からないことだらけでしたが、間違った地図は作りたくありませんでした。正確性に欠ける明治初期~中期の地図をベースに作ったという限界はあるし、細かい部分は整合性を付けようがありませんが、“大筋においては正しい”というものにしたいと思って作りました。例えば、江戸時代は村と村とで厳密な境界線を設定する必要がなかったため、文献を調べても『○○村はこの辺りにある』としか書かれていません。さらに、明治維新後の廃仏毀釈によって寺院が縮小したり、敷地の一部が学校などになったりすることもあり、位置が大幅に変わってしまったりすることも多い。そのような変遷を1つ1つ調べていくのはとても大変でした。」(中川氏)


現在の地図と明治の地図を重ねながら整合性を検討
文献資料をもとに寺社などの名称を特定、大名のプロフィールも記載
 道路や街の区割、建物の位置などを明治の地図をもとに推測した上で、次に中川氏が行ったのが、施設名や武家屋敷の名称を入れる作業である。「大江戸今昔めぐり」アプリを見ると、市街地の地図では役職名や氏名、字(あざ)、出身地などが細かく記載されており、まるで現代の住宅地図のようだ。記載する文字についても、旧字ではなく新字体を使用しているため、誰でも簡単に読み取ることができる。さらに、中川氏の計算に基づく“石高”も記されている。


大名の名前や石高などが細かく記載されている

農村部の地図。寺社名まで細かく記載されている。
 「大名の名前や役職名、石高については、全二十数巻に及ぶ『江戸城下変遷絵図集』(原書房、1987年)をもとにしました。この資料には、文政から天保にかけての市街地の区割りが載っていて、切絵図に書かれている人物が、それぞれどのような身分の人なのかというデータも掲載されています。もちろんこの資料も、道路の距離や区画の広さはかなりいい加減ですが、屋敷の配置などはしっかりと残っているので、江戸の中心部についてはこの資料がとても参考になりました。」(中川氏)


「江戸城下変遷絵図集」
 一方、農村部については明治の地図と照らし合わせながら、神社や寺院の記号がある場合はその名称などについて調べた。

 「農村部については、とにかく手がかりは村名しかありません。例えば稲荷神社であれば、全国の稲荷神社だけを集めたリストなどを見て、『○○郡○○村のこの辺りに神社があった』という文献を探します。神社だけでなく、お寺についても日本全国の寺を集めた文献があるので、その資料の中から目的の村を探し当てることで、初めて地図の上に寺社名を記すことができるわけです。1つの寺を調べるために国会図書館に行って、丸一日かけたこともありました。目当ての寺社を文献の中に見つけることができたときは『やった!』と声が出てしまうほどうれしかった。とにかく何を調べるにしても手間と時間がかかるので、本気で取り組んだら一生仕事だと言えますし、本当にこの古地図作りは面白かったですね。」(中川氏)

 寺社について参考にした文献は、「日本寺社大観」(名著刊行会、1970年)や、「寺社書上」(寺社奉行編、文政12年)など。このほか、江戸・東京に関する資料として、「角川 日本地名大辞典 東京都」(角川書店、1978年)や「江戸幕府・旗本人名事典」(原書房、1990年)、「江戸名所図会」(角川書店、1965年)、「江戸学事典」(弘文堂、1984年)など、挙げればきりがない。

 さらに、「豊島区史地図編」(豊島区史編纂委員会編、1974年)や、「地図で見る新宿区の移り変わり」(東京都新宿区教育委員会編、1982~1985年)、「墨田の地図」(墨田区立緑図書館、1979~1986年)、「港区の歴史」(名著出版、1979年)など、地域の文献も細かく調べている。


書棚に大量の資料が並ぶ中川氏の仕事部屋
 これまでの地図制作について振り返ると、道路の位置や区割を検証するよりも、どこに何の施設があったのかという、施設名称を書き入れていく作業のほうが大変だったという。

 このように、気の遠くなるような文献調査を経て長い年月をかけて中川氏が描き起こした「復元・江戸情報地図」の原画は、畳3畳ほどの大きさになった。


「復元・江戸情報地図」に書き込まれた修正情報
歪みを補正、図法をウェブメルカトルに、POI情報も追加
 「大江戸今昔めぐり」で古地図と現代地図とをきれいに重ね合わせて見比べられるのは、このようにして制作された「復元・江戸情報地図」の原画を使用しているからなのだが、実はこれをデジタル化したのは「大江戸今昔めぐり」アプリが最初ではない。「江戸東京重ね地図」というWindows用ソフトが2002年に発売されている。同ソフトでは、「大江戸今昔めぐり」アプリと同様に、幕末の江戸の地図と現代の東京の地図を重ねて、地図の透過度を調節しながら見比べられる。その後、これに明治の地図を加えた「江戸明治東京重ね地図」も発売された。

 「江戸東京重ね地図」および「江戸明治東京重ね地図」も一応、現代の地図が重なるように、区画の長さや施設の位置などがある程度、正確に制作されていたものの、ベースにした現代の地図があまり正確なものではなかったため、位置情報の精度は低いものだった。


Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」
 これに対して今回リリースしたアプリ「大江戸今昔めぐり」では、地図の歪みの補正など改良が加えられている。具体的には、Google マップ上で位置情報が合致するように、図法をウェブメルカトルに変換するとともに、きちんとした経緯度情報を持たせている。地図データの整備を担当した有限会社菁映社の取締役社長・籏禮直喜氏によると、これはかなり手間のかかる作業だったという。

 「『江戸東京重ね地図』のときに整備した江戸地図は、25年以上前の紙媒体の現代地図をもとに作られたので、国土地理院の地形図やGoogle マップなどの正確な地図に合わせようとしても難しいのです。そこで、いくつかのブロックをIllustratorでつなぎ合わせて1枚の大きなデータにした上で、歪みを補正していきました。また、『江戸東京重ね地図』のブロック分けは地図帳の各ページに合わせたものでしたが、今回は全体を国土地理院の地図をベースに分割し直したので、この作業にも多くの時間を費やしました。」(籏禮氏)


Illustrator上で1枚の大きな地図を作成

開発中の様子
 このほか、それぞれの屋敷の坪数の情報など新しい情報が加えられた。アプリの制作担当者であり、大江戸今昔めぐり製作委員会メンバーである株式会社ビーマップの開元聡氏(事業推進本部・ナビゲーション事業部)によると、POI情報の解説もこだわったという。

 「例えば寺社については、都内の寺社情報を集めたサイト『猫の足あと』というサイトのデータを収録しており、寺社名だけでなく宗派なども記載しています。さらに、『江戸名所百景』の情報や画像なども収録しています。」(開元氏)


区画ごとに坪数が記載されている

寺社情報サイト「猫の足あと」のデータを収録

「江戸名所百景」の情報を収録
最新アップデートで、地図の掲載範囲を東京23区に拡大
 さらに、今年2月末に行われたアップデートにより、掲載エリアも現在の23区内全域に広げた。Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」や、リリース当初の「大江戸今昔めぐり」では、カバーエリアは東京の中心部の「御府内」と言われる範囲だけだったが、アップデート後は掲載範囲が大幅に広がることになる。なお、今回のアップデートで追加した御府内の外の地図については、中川氏に改めて原画制作を依頼したという。

 「菁映社が国土地理院の地形図と明治の地図を同じ範囲に切り分けてプリントし、中川さんが作業する下図として用意しました。この下図に中川さんが手書きで情報を書き込み、その後、菁映社がデジタル化しました。さらに、一部のエリアについては同時進行で菁映社で地図を整備した部分があり、こちらについては中川さんの監修を受けています。」(籏禮氏)


Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」の掲載エリア。赤線(朱引き)で囲まれた「御府内」と言われるエリアに近い範囲に限られていた

「大江戸今昔めぐり」アップデート後のカバーエリア
 「復元・江戸情報地図」が刊行されてからすでに20年以上が過ぎたいま、最新のスマホアプリとしてよみがえった中川氏の復元地図。しかも、新たに掲載範囲を大きく広げたというのは驚きだ。

 「江戸時代の地図と現代の地図を重ねて見比べることができるので、これを見ると、はるか自分たちの先祖の生活が見えてとても面白い。このアプリを通して東京の変遷を知ることで、こんなに面白い街はなかなかないということを知っていただけるとうれしい。」(中川氏)

 なお、今回のアップデートにともなって、「大江戸今昔めぐり」に収録されている地図データは、APIの形式でも提供されることになった。このAPIを利用すれば、他のアプリからも中川氏による復元地図を利用できるようになる。また、開元氏によると、自治体の郷土資料館など、一部エリアをオフラインデータとしてライセンス提供することも検討しているという。中川氏のライフワークである江戸の復元地図が今後、アプリやAPIの形態でどのように広がっていくのか楽しみだ。


透過度を変えて現代地図と比較できる古地図をAPIで提供することも検討

中川氏の復元地図作成はこれからも続く
本連載「地図とデザイン」では、INTERNET Watchの長寿連載「趣味のインターネット地図ウォッチ」からの派生シリーズとして、地図の図式や表現、地図のグラフィックデザイン/UIデザイン、デジタルによる新たな地図デザインの可能性……等々、「地図とデザイン」をテーマにした記事を不定期掲載でお届けしています。

片岡 義明

フリーランスライター。ITの中でも特に地図や位置情報に関することを中心テーマとして取り組んでおり、インターネットの地図サイトから測位システム、ナビゲーションデバイス、法人向け地図ソリューション、紙地図、オープンデータなど幅広い地図・位置情報関連トピックを追っている。測量士。インプレスR&Dから書籍「こんなにスゴイ!地図作りの現場」、共著書「位置情報ビッグデータ」「アイデアソンとハッカソンで未来をつくろう」が発売。
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渋谷に福来たるSPEICIAL2018 落語フェスティバル的な
百花繚乱 渋谷春の特撰落語会

道具や/彦星

初天神/生志
 飛行機で喉をやられたとのことで声を張れない師匠。

二階ぞめき/花緑
 久しぶりに拝見。若旦那ネタをさらに発展させ、オーバーアクションなものの大いに笑えました。現代的な話し方が、AKB追っかけてるお坊ちゃまと思えばいいなと。

鶴満寺/雀々
 爆笑派とは知っていたものの、こんなに笑わせるなんて。台湾人のバスツアーで京都から山中湖で通訳付きで小咄や落語をやったという枕もアクションが大きくて爆笑もの。
 そして初めての上方ものながら、愛宕山よろしく桜の花見にハメモノがあり、寺男を酒でぐでんぐでんに酔わせるところは上方言葉が分からなくてもアクションで爆笑できる。

中入り

一眼国/扇辰
 中入り後は両国の見世物小屋と賑わいのある枕からSFチックな、味わい深いネタ。多数派と少数派の違いで見世物を見る側と見られる側が入れ替わる。現実に置き換えるとひやりとする。

武助馬/鯉昇
 芸協所属なのでなかなか機会がないのだけど、この方も爆笑派。初めて聴いたけどやっぱり大笑い。

渋谷に福来たるSPEICIAL2018 落語フェスティバル的な
落語ムーヴ 春一番2018

おしゃべり
 正太郎さんと白酒さんと談笑さん。三三さんは小田原から移動中とのことで(三三師匠のマクラでネタになってた)。
 いきなり時事ネタで相撲の土俵に女性を上げることに会場の賛否を拍手で取られる。伝統芸能好きが集まっているので相撲の伝統としきたりを重視する人が多いかといえば、渋谷に福来たるの会場は否定派多く、途端にステージの空気変わる。まぁ落語家ですから。

権助魚/正太郎
 昨日権助ネタを聴いたばかりなのでちょっと被った感じあり。

幾代餅/白酒
 お得意ネタ。ちょっとカリカチュア部分多いのはじっくり聴かせるよりどっかん笑わせる方を選んだのかな。

中入り

元犬/三三
 白酒師匠が柳家を軽くいじったのをいじり返したり、昼間の小田原での仕事ぶりをちょっと紹介したり。
 笑い多めの元犬。そして、このオチ方は三三さんオリジナルか。笑いつつもよかったねーといいたくなるいいオチ方。

子別れ 昭和編/談笑
 古典ネタが続いたので談笑師匠はどう締めるかと思ったら昭和か。まだまだ進化してるなとは思う。女性目線だと復縁を頭から否定していたおかみさんが最後に翻心するところの心のうちを丁寧に描いて欲しかったな。




4.14国会前にも行きたかったが、昨日下ろしたてのサンダルで左右の足に大きな靴擦れができて帰宅困難なほど大きな皮むけができて長距離歩行が無理だし、渋谷に福来たるの昼夜チケット取ってしまったし。

昼の部「プレミアム大吟醸」

入船亭小辰/子ほめ

柳家権太楼/佃祭

仲入り

五街道雲助/持参金

柳家小菊/粋曲

柳家さん喬/素人義太夫
 ネタ帳は「寝床」だけど宴席のとこでサゲ、定吉が泣かなかったので「素人義太夫」。さん喬さんも最後にそう伝えてました。

夜の部「江戸暦」
 最前列で全身がよく見える。歌舞伎もそうなんだけど落語も空間大事。他の人に遮られない空間で見る芸はいつも以上にインパクトある。

あおもり/まんじゅうこわい

文菊/権助提灯
正妻とお妾さんの演じ訳がすごい。そして権助のインパクト(笑)。

文蔵/笠碁
へぼ碁打ちのご隠居さん二人が子供みたいにムキになるところが可愛い。

お仲入り

馬石/湯屋番
見た目が若旦那っぽい馬石さん、妄想に浸りすぎて可笑しい。

一朝/抜け雀
 本日の大一番。大好きな噺を大好きな江戸弁で聞く嬉しさ。これぞ正統派「抜け雀」。


今年は頑張って通います、毎日新聞主催の「渋谷に福来たる」。初日の夜公演は「春風亭昇太と仲間たちⅡ」。

トーク 昇太、彦いち、白鳥
みんなで白鳥さんいじる 
大ヒットは「ポメラニアンの鉢植え」。お腹痛くてしばらく復帰できなかった。

三遊亭粋歌 銀座なまはげ娘

三遊亭白鳥 落語の仮面第四話
『テレビ仮面舞踏会』
花ちゃん、笑点の座布団運びになる。昇太さんをいじり倒し、ちょっと持ち上げる。

~お仲入り~

林家彦いち つばさ

春風亭昇太 オヤジの王国
先週外出した時に転んで左手の平に大きな青あざをつくってしまいました。まだ握力が戻っておらず、右手首骨折から回復したばかりの右手よりも握力が落ちている状態。またペットボトルで飲み物を購入した時は店員さんに開けてもらう日々に戻りました、くすん。まぁ骨や腱に異常はなさそうなので、一週間もすれば軽くなると思います。

「戊辰」事業4月1日から本格化 式典やクイズラリー
 戊辰150年の記念事業は4月1日から会津若松市内で本格化する。市戊辰150周年記念事業実行委員会は同日、鶴ケ城天守閣前でオープニングセレモニーを催すほか、クイズラリーなどをスタートし、市を挙げて観光誘客に取り組む。
 セレモニーでは実行委員会長の室井照平市長らがテープカットし記念事業の幕開けを宣言する。クイズラリーは県立博物館、白虎隊記念館などの観光名所10カ所を巡ると、正解数に応じて抽選で温泉宿泊券などが当たる。
 さらに、スマートフォンなどで利用できるアプリケーション(アプリ)「AR幕末の会津若松」の機能を拡充する。現実の風景に架空の物体を重ねて映し出す拡張現実(AR)を活用し、幕末に京都守護職を務めた会津藩主松平容保公らを模したアニメキャラクターが音声と文章で観光地を紹介する。各キャラクターと記念撮影ができる場所を5カ所から18カ所に増やし、動画撮影にも対応する。
 鶴ケ城天守閣では幕末の息吹を伝える収蔵品展が始まる。会津若松観光ビューローの主催。「松平容保と京都守護職」と題し、京都での動乱を巡る資料を展示する。
 5月19日は会津大で奥羽越列藩同盟と会津をテーマにした歴史シンポジウムを催す。歴史コメンテーターや仙台、米沢、長岡、鶴岡の歴史関係者らを招く予定だ。7月28、29の両日には白虎隊士飯沼貞吉に焦点を当てた「オペラ白虎」を上演する。会津まつりが開幕する9月22日は記念式典を実施する。

(2018/03/30 12:19)

「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
佐倉藩・二大噺~<義民>佐倉惣五郎と幕末の老中・堀田正睦~謎多き「直訴の農民」と開国にほんろうされた幕閣
高崎 哲郎
<義民>の実像
私は柏市に移り住んで以降、千葉県が生んだ古今の歴史上の人物に関心を持ち、その生き様を確認する旅を続けている。<義民>佐倉惣五郎はその中の一人であった。成田市、佐倉市などのゆかりの地を訪ね文献にもあたってきた。藩主堀田氏(佐倉藩)の圧政に抗議し将軍に直訴して妻子もろとも処刑にされ怨霊となった惣五郎。正義・人道のために一身をささげる<義民>の姿が歌舞伎・講談・浪曲の一大ヒットとなり民衆のヒーローとなった惣五郎。だが史実となると、確認できる文献は少なく、存在否定説も含めて諸説紛々としているのだ。将軍への直訴や処刑後怨霊になったとの説話は、実は惣五郎の死後ほぼ2世紀も経った江戸後期に創作されたものなのである。そこで『佐倉惣五郎』(児玉幸多)や「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)などを参考にして<義民>の実像と虚像に迫ってみたい。

佐倉惣五郎(生年不明 ― 承応2年8月3日・西暦1653年9月24日没)は、佐倉城下の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現成田市台方)の名主だったようである。姓は木内氏、俗称は宗吾や惣吾とされる。堀田氏時代の公津村名寄帳(なよせちょう、土地台帳)によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認されている。

惣五郎の処刑後半世紀ほど経った正徳5年(1715)に編まれた「総葉概録」(堀田氏の後を受けた佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、(1)堀田藩主時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと(2)「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと(3)藩主堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟(たた)りとみなされたこと(4)祟りをおさめるため「惣五宮」という祠(ほこら)が藩によって建てられたことが記されている。が、惣五郎が農民の窮状を憂えて将軍に直訴したことを裏付ける史料は確認されていない。

惣五郎の直訴・処刑の背景についても、藩による過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの説が挙げられている。承応2年(1653)に行われた公津村の分村(台方村など5カ村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加が確認されており、惣五郎が抗議に立ち上がったとの推論もある。名主惣五郎を中心とした反藩主闘争があったことは否定しえないようである。

歌舞伎の大当たり、<義民>像の定着
惣五郎の義民伝承は、江戸時代後期以後成立した「地蔵堂通夜物語」や「堀田騒動記」などの実録本、講談「佐倉義民伝」にうかがえる。これらの作品は虚構であるため矛盾が目立ち、時代や事実に反する記述も少なくない。共通する点は(1)藩主・堀田正信が新たに重税を取り立てたことから、領民の暮らしは極度に困窮した(2)領内の名主らは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた(3)やむなく、惣五郎がひとりで将軍に駕籠訴を行った。「地蔵堂通夜物語」では承応2年(1653)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴したとしている。「堀田騒動記」では正保元年(1644)とされており、将軍は三代徳川家光にあたる。(4)直訴の結果、訴えは聞き届けられ佐倉藩の領民は救われた。だが惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男の子ども4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、同寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、それが寺地内にある「宗吾様御廟」であるという。

延享3年(1746)、新たな佐倉藩主として堀田正亮(まさすけ)が入封した(惣五郎が訴え出た正信の弟である正盛の子孫)。宝暦2年(1752)、正亮は惣五郎親子の百回忌の年であるとして、将門山(現千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀る「口の明神」を造営し、「涼風道閑居士」の法号を与えて以後春秋に盛大な祭典を行うようになった。寛政3年(1791)には藩主堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り石塔一基を寄進した。藩主堀田家が惣五郎を公認したことで、江戸後期以降<義民>惣五郎の姿が明確化される。東勝寺は明治期に惣五郎の霊(本尊)を祀る宗吾霊堂を建てた。

実録本「地蔵堂通夜物語」や「佐倉義民伝」を素材とした最初の脚本化は、幕末の天保4年(1851)三世瀬川如皐による歌舞伎狂言「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」(中村座初演)である。作品では舞台を室町時代に設定し、主人公の名を「浅倉当吾」としている。この作は歌舞伎史上はじめて農民一揆を扱った戯曲で、大当たりをとり以後<義民物>と呼ばれる出し物の嚆矢(こうし)となった。明治後期以後は役名を実名どおりにして上演され、演題も「佐倉義民伝」で定着することになった。 芝居や講談などに取り上げられたことで、惣五郎は一躍<義民>として全国に知られるようになった。人気演目となったのである。明治以降、社会運動家や思想家は社会改革運動の先駆者として惣五郎を称揚した。思想家福澤諭吉もその一人で「古来唯一の忠臣義士」として賞賛している。自由民権運動家たちも惣五郎に民権運動の先覚者の姿を見たのであった。
改革を進める開明的藩主
「海闊(ひろ)く天高し其(そ)れ器宇」
幕末の老中・佐倉藩主堀田正睦の書である。世界の大勢に通じ西洋文明の導入を説いた正睦の気迫がうかがえる。江戸幕府親藩・佐倉藩の領主であった堀田家は最初の領主になった正信系を「前の堀田」と呼び、江戸中期以降の正俊系を「後の堀田」と呼んだ。正睦は「後の堀田」系である。正睦は文化7年(1810)に生まれた。父は、正俊から数えて7代目の藩主正時である。正睦は16歳で藩主になった。藩内には、佐倉藩親戚筋の下野国(現栃木県)佐野藩主正敦の子を推す意見もあった。正睦の賢明さを知る上級藩士らは若い藩主を歓迎し藩内にしこりは残らなかった。

江戸時代も後期に入ると、各藩とも財政に苦しむようになった。佐倉藩も例外ではなかった。窮乏にあえぐ藩士の中には武芸を怠り、風紀の乱れた生活を送る者も出てきた。一方、藩の財政を握る上級藩士の中にはぜいたくな暮らしをする者もいて、藩内の秩序は乱れていた。正睦は藩政立て直しに立ち上がり、佐倉藩独自の天保改革を実施した。この改革は倹約一辺倒ではなく、学問・武術を高めることも目的としていた。庶民の生活の苦しさをしのぐため藩から一時金の貸し出しを行った。その一方で、学問・武芸を修めなかった者が家を継ぐ時には家禄を割り引くという厳しい措置をとった。その結果、武士たちは文武に励むようになった。

正睦は改革の一環として高等教育充実させた。佐倉藩藩校は寛政4年(1792)の「佐倉学問所」に始まる。その後「温故堂」と改称された。儒教中心の小規模なものにすぎなかった。正睦は兵学・医学・洋学(蘭学・英学)をはじめ様々な武芸を学べる先進的学校として「成徳書院」を天保6年(1835)開校した。成徳書院の充実により佐倉は「南関東の学都」と呼ばれるようになった。江戸の著名な蘭学医・佐藤泰然は正睦の招きで佐倉に移り、医学教授とともに病院を開いた。佐倉順天堂の始まりである。特筆すべき医学上の成果として、天然痘で亡くなる患者を救う種痘の実施がある。近代的な予防医学の先駆けである。

貧しい農家で生まれた子を間引して人手を減らさせてはならないと、正睦自らが書いて農村に示した「子育教諭直書(こそだてきょうゆじきしょ)」には、貧困にあえいでも嬰児を殺すことは神や仏が深く憎むことであり、天罰を受けることは必定であると諭した。人口を増やす政策の一環として「陰徳講」という制度を作り、藩や裕福層の者が子育てのための補助金を出すようにさせた。正睦は、学問を愛し、西洋文化を積極的に取り入れる藩主であった。鎖国の幕末にあっては数少ない開明的名君である。
反対派を抑え、開国を目指した老中
正睦が最初に幕府の役職に就いたのが、文政12年(1829)で20歳の時であった。この時の奏者番(大名らを将軍に取り次ぐ役)からその後寺社奉行に昇進し、大坂城代から西の丸老中へと着実に幕府内で出世していった。天保12年(1841)、6人の老中の1人となる。幕政の中心にあった老中水野忠邦が正睦の佐倉藩での改革の成功やそれまでの幕府内での仕事ぶりを評価して登用した。水野の後を受けた老中は阿部正弘(福山藩主)であった。嘉永6年(1853)、提督ペリーが率いる東インド艦隊が浦賀(現神奈川県横須賀市)沖に現われ幕府に開国を迫った。アメリカ側の要求を断れば、戦争を仕掛けられる心配があり、戦争となれば敗北することも見えていた。

長く鎖国を続けてきた日本では開国反対が多数派であった。だが正睦は、日本が欧米列強に比べて軍事力で劣っていることを指摘し、開国した上で外国との貿易も行った方がよいとの意見を出した。幕府は最終決断をまとめきれず、朝廷にも事の次第を報告した。幕府の無力を示す結果となった。結局翌年、幕府は下田(現静岡県下田)、箱館(現北海道函館)の港を開く日米和親条約を締結することになった。

安政2年(1855)、正睦は阿部正弘から推されて再度老中となった。正睦は先進的な考え方の持ち主であり、性格は「善良無我」と評される温和な人柄であった。「内憂外患」の時世を乗り切れるのは正睦しかいないと期待されての再任であった。正睦は46歳で、当時では隠居してもおかしくない年齢であった。政治の表舞台に登場した。事態は、日米修好通商条約を要求するアメリカの初代駐日総領事ハリスの強硬な姿勢でますます困難になって行った。正睦は開国した上で富国強兵を推進する考えであったが、国内では世界情勢を知らずに鎖国・攘夷を叫ぶ声が強かった。

条約問題とともに、国内では病弱な13代将軍家定の跡継ぎを巡って意見が二つに分かれた。一人は紀州(現和歌山県)藩主徳川慶福(よしとみ、後の家茂)、もう一人は水戸(現茨城県)藩主・徳川斉昭の子で一橋家を継いだ一橋慶喜であった。血筋から言えば慶福が将軍に近かったが、10歳代前半なので政権を担うのは無理とされた。正睦は成人に達し聡明と評判の高い慶喜を推した。

外交・将軍の跡継ぎという2つの難題を抱え、正睦はまず条約を結ぶことに全力を注いだ。国内の強い反対を抑えるために朝廷の許しを得ようとして京都まで足を運んだ。朝廷の理解を得られず江戸に帰らざるを得なかった。その後、朝廷の許可なく条約を調印した責任を取る形で正睦は老中を辞めさせられた。

その直前に、大老となった井伊直弼は将軍の跡継ぎを慶福(14代家茂)に決めた。実権を握った井伊直弼は反対派の弾圧に乗り出し、50人以上の志士らを処刑した。安政の大獄である。正睦は将軍の跡継ぎ問題で対立したことから佐倉での隠居を命じられた。直弼は2年後に桜田門外で水戸藩浪士らに暗殺された。正睦は病気がちとなり元治元年(1864)、55歳で他界した。墓は佐倉市最上町の甚大寺にある。

参考文献:「佐倉惣五郎」(児玉幸多)、「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)、「堀田正睦と幕末の政局」(佐倉城研究会)、筑波大学附属図書館資料

(つづく)
<戊辰戦争150年>慰霊祭開催など事業計画を決定 仙台藩志会総会
 仙台藩士の子孫らでつくる仙台藩志会は8日、仙台市青葉区のホテルで本年度の総会を開いた。約100人が出席し、10月に戊辰戦争150年を記念して戦没者慰霊祭を開催するなど事業計画を決めた。
 戊辰戦争関連として、会津若松市で9月に開かれる会津まつりのメイン行事「藩公行列」に、奥羽越列藩同盟の参加藩である仙台を代表して藩志会が初めて加わることを報告した。
 4代藩主伊達綱村の300回忌に合わせた講演会を6月に開く方針も示した。
 伊達宗行会長は「戊辰150年、綱村公300回忌という二つの節目の年にどう行動するか、よく議論しよう」とあいさつ。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「仙台の発展のために心血を注いだ先人に感謝する1年としたい」と述べた。
<戊辰戦争150年>会津出身・陸軍大将が極貧しのいだ食を再現
 戊辰戦争に敗れ会津から青森県の下北半島に移住させられ、後に陸軍大将になった柴(しば)五郎(1860~1945年)の下北での極貧時代の食卓を再現するイベントが8日、むつ市であった。
 約25人が参加。料理研究家の坂本謙二さんが「ある明治人の記録」(中公新書)に書かれた「オシメ」というおかゆのような食べ物を再現した。
 ワラビとゼンマイを数センチほどに切り、コンブのような海藻のツルアラメを砕いてどろどろになるまで火を通し、交ぜ合わせて作った。参加者らは「思ったよりはいける」「毎日は食べられない」などと感想を述べ、当時の暮らしに思いをはせた。
 参加した大平小5年の井本結月さん(10)は「微妙な味だった。よく食べられたものだと感心した」と話した。
 イベントは、戊辰戦争から150年の節目に合わせ、市の任意団体「ディスカバリーむつプロジェクト」が主催した。
武家装束で和歌 戊辰戦争敵味方の子孫初の顔合わせ 鹿児島
 曲がりくねった水流沿いに並び、和歌を詠む「曲水の宴」が8日、鹿児島市の仙巌(せんがん)園であった。明治維新150年に当たる今年は、戊辰戦争で敵味方に分かれた薩摩藩島津家と徳川本家、会津藩松平家、庄内藩酒井家(山形県)の子孫が初めて一堂に会し、武家装束で和歌をしたためた。
 島津家32代嫡男の島津忠裕さん(45)、徳川家18代嫡男の徳川家広さん(53)、会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)、庄内酒井家18代嫡男の酒井忠順さん(43)ら8人が参加した。和歌のテーマは「語(かたる、ご)」。島津さんは「新しき御世を開きし御祖らの 語るを聞きて未来を築かむ」、松平さんは「150年義の勲しを語り来て 明き未来を祈るこの春」と詠んだ。
 大勢の観光客や市民らが訪れ、雅楽が鳴り響く優雅な雰囲気に魅了されていた。(南日本新聞社提供)
戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。
福島)戊辰150年 長岡と会津若松の図書館が連携企画
戊辰(ぼしん)戦争で越後・長岡藩は、侵攻する新政府軍(西軍)に対し、軍事総督河井継之助(つぎのすけ)を中心に奮闘。長岡城落城後、藩士や家族は会津藩領に逃れ、一部は鶴ケ城の攻防戦に加わった。それから150年。両藩の城下町、新潟県長岡市と福島県会津若松市の市立図書館で、「河井継之助がつなぐ長岡と会津若松」と題した共同企画展が始まった。相互に関連図書を紹介し、観光情報をPRしようという取り組みだ。

 4月1日から始まった長岡市立中央図書館の展示では、企画名が大きく書かれたパネルの下で、星亮一著「会津藩斗南へ」、野口信一著「会津えりすぐりの歴史」など約90冊が紹介され、貸し出しに供されている。書棚の脇に会津若松市の観光案内や「戊辰150周年記念事業」のパンフレットが置かれていた。

 会津図書館の展示は3月31日に始まった。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長の数々の著作のほか、救援米を学校建設に充てた「米百俵」で知られる長岡藩士小林虎三郎や、長岡出身の山本五十六・連合艦隊司令長官関連の書籍など100冊余りが並ぶ。

 書籍に加えて、会津で亡くなった長岡藩士を悼む本光寺の「殉節の碑」や、長岡で重傷を負い、福島県只見町で没した河井継之助の遺骨が一時埋葬された建福寺など、会津若松市内の関連スポットを示す写真や地図も掲げられた。

 今回の企画は、会津図書館が長岡市立中央図書館に呼びかけて実現した。

 会津図書館では一昨年、戊辰戦争後に元藩士らが移住した北海道余市町と、同様の共同企画を初めて実施。昨年は初代藩主保科正之が若き日々を過ごした長野県伊那市と行った。

 「戊辰150周年の記念の年は、ゆかりのある長岡市と一緒にやりたいと考えた」と司書の成田陽子さん。会津若松市の室井照平市長は昨年11月、長岡市を訪問し、磯田達伸市長との会談で交流の促進を確認していた。

 長岡市立中央図書館にとって、このような共同企画は初めてだったが、「先人たちの歩みに思いを巡らす良い機会」(山田あゆみ館長)と快諾。それぞれの所蔵図書から展示する本を選び、観光パンフレットなど配布資料を相互に送って準備を進めた。

 展示期間は長岡市立中央図書館が5月30日まで、会津図書館が5月29日まで。会津図書館の成田さんは「この展示をきっかけに、多くの人に長岡市に行っていただければ、と思っている」と話していた。(戸松康雄)
戊辰150年 激動期の相馬題材に歴史講演会 4月28日相馬
 相馬地方の幕末と戊辰戦争をテーマにした歴史講演会は4月28日午後1時から相馬市民会館で開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、相馬郷土研究会が共催し、市教委が後援する。戊辰戦争や明治改元から150年の節目に合わせ、地元の研究者が当時の資料を読み解きながら、激動期の様子を説明する。
 講師は相馬郷土研究会代表で南相馬市文化財保護審議会委員の藤原一良氏と、相馬美術倶楽部会長の斎藤重信氏が務める。
 藤原氏は「中村藩の幕末と戊辰戦争をふりかえる」、斎藤氏は「明治戊辰軍功賞について」の演題を予定している。
 福島民報社は明治時代の紙面、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流局 出前講座係へ。ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、申し込みの先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
(2018/04/06 11:01)
<仙台市博物館>戊辰戦争の資料展示 設備改修終え3ヵ月ぶり再開
 老朽設備改修のため休館していた仙台市博物館(青葉区)が、3カ月ぶりに再開した。館蔵品約1000点による「旬の常設展2018春」で、幕末の仙台藩の動向を伝える「戊辰戦争150年」コーナーが設けられている。
 戊辰戦争関連資料は14点。1853年のペリー来航を報じる瓦版をはじめ、外国への対応策を尋ねる幕府に対し「武備が整うまで2、3年は穏便な措置」を具申する仙台藩主伊達慶邦の意見書控えなどが並ぶ。
 諸藩に先駆けて建造した洋式軍艦「開成丸」の威容を伝える版画や模型、西洋銃術の導入を図る慶邦の申渡書もある。
 同館は10月から特別展「戊辰戦争150年」を開催する。担当者は「今回の常設展は開国を巡って藩内の対立が激化する以前の資料を集めた。季節ごとに展示を入れ替えるので、ぜひ順にたどって見学してほしい」と呼び掛ける。
 旬の常設展は6月10日まで。入場料は一般460円、高校生230円、小中学生110円。連絡先は同館022(225)3074。
戊辰150年ラッピングバス、白河で運行開始、機運盛り上げ
 白河市は3日までに、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスの運行を開始した。

 市がジェイアールバス関東などに運営を委託する市循環バスの中型車両など計6台にラッピングを施し、「甦る『仁』のこころ 白河戊辰戦争」のキャッチフレーズのほか、陣羽織と西軍が恐れたとされ、遊撃を得意とする「十六ささげ隊」のロゴマークを入れた。

 記念式典が同市のJR白河駅前で行われた。鈴木和夫市長や白河戊辰戦争150周年記念事業実行委員会の人見光太郎会長らがテープカットに臨んだ。  鈴木市長は「白河には戊辰戦争の足跡が残っている。歴史的意義を多くの人に知ってほしい」と述べた。



「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
幕末の漢文聖書に感動 出版元の香港関係者が来日 京都・円光寺
 京都市左京区の真宗大谷派・円光寺で約160年前の漢文の聖書「代表訳本」が見つかったことを受け、香港から出版元の関係者が同寺を訪れた。歴史的にも貴重とされる聖書を感動した様子で確認していた。

 来日したのは、香港の中学校、香港英華書院の鄭鈞傑校長ら4人。同校では、1860年代まで、宣教師の養成やキリスト教の普及のため、学内の印刷所で漢文の聖書などの出版物を発行していた。

 聖書は昨年6月に円光寺で見つかった。幕末に12代住職で同派の学僧だった樋口龍温(1800~85年)が、キリスト教研究のために入手したとみられる。旧約、新約が合冊され、旧約部分は初版本にあたり、世界的にも貴重な一冊だという。表紙には、出版年の1855年を指す清時代の元号「感豊五年」や「香港英華書院印刷」の印字がある。

 報道で発見を知った香港英華書院が訪問を希望し実現。3月末に訪れた鄭校長らは、目の前で木箱から出された聖書が披露されると、真剣な表情でページをめくりながら内容を確認したり写真に収めたりしていた。

 同校の資料館に保管されている聖書十数点は重版のものばかり。鄭校長は「初版の代表訳本を目にしたのは初めて。非常に感動している。(当校が)西洋以外に日本とも文化交流を深めていたのだと知り、うれしい」と話した。
幕末製造の洋式銃など40丁見つかる 堺の鍛治屋敷から
 全長2メートル超の火縄銃や西洋の技術を模索して製造した洋式銃など計40丁が、堺市に現存する鉄砲鍛冶(かじ)屋敷から見つかった。うち7丁は江戸末期の製造と特定された。鉄砲専門家らは、外国船来航に備えて堺の鉄砲生産が幕末にも増えたとする資料を裏付けるとともに、激動の時代の息づかいを感じられる貴重な資料としている。

 この建物は鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、市の指定文化財。井上家は江戸前期に堺に定着し、主屋も江戸時代初めに建てられた。明治末ごろまで鉄砲を生産していた。

 2014年に屋敷の蔵などから大量の古文書が見つかり、市と関西大が共同研究を開始。ペリー来航直後の1855年に海岸防備のため大筒を幕府側に上納した記録など、鉄砲づくりが江戸中期以降衰退したという通説を覆す記述も見つかった。さらにその過程で40丁の銃を確認。年代の特定を進め、府教委へ古式銃の登録をしてきた。

 26丁は火縄銃。「摂刕住(せっしゅうじゅう)井上関右衛門作」という銘文と花押(サイン)のある全長2メートル超のものや、乗馬で使う馬上筒(全長48センチ)も複数確認された。洋式銃は、弾を装塡(そうてん)する際レバーを引くボルトアクション式(141センチ)など14丁。

 40丁のうち製造年代が特定されたのは7丁で、いずれも幕末のもの。上下2連ピストル(29センチ)は、西洋の近代技術を基に幕末の1863年ごろ製造されたことがわかった。これらの銃は、屋敷から見つかった記録を裏付けるとともに、幕末に鉄砲鍛冶も敏感に時代に反応していたことをうかがわせるという。

 屋敷には16代目の井上修一さん(74)が暮らしていたが、3月に主屋と座敷棟、23丁の銃を堺市に寄贈した。市は銃を博物館で保管し、年代の特定など研究をさらに進める。井上さんは「鉄砲は関右衛門が気持ちをこめてつくったもの。屋敷とともに、個人で持ち続けるよりも市に保存継承してもらい、市民の財産として使ってほしい」と話している。(村上潤治)

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 古式銃研究家の沢田平・堺鉄砲研究会長の話 太平洋戦争で軍刀にするため火縄銃などの古式銃はスクラップにされて日本刀と比べ残っている数は極端に少ない。鉄砲鍛冶の歴史が終わり、100年以上経つ中で40丁の古式銃が1カ所で見つかるのは極めて珍しい。日本の火縄銃は世界で最も完成度が高い。技術の結晶として残った古式銃を堺市は早く展示してほしい。

     ◇

 〈堺と鉄砲〉 鉄砲は1543年に種子島に伝来したとされ、金属加工の伝統があった堺は生産現場として発展。ピーク時には約140人の職人がいた。堺の銃は1575年の長篠の戦いで使われ、大坂の陣で徳川方に供給された功績から江戸幕府が一定数を堺に注文した。国友(滋賀県長浜市)や根来(和歌山県岩出市)も生産地として知られる。
幕末明治の写真をデジタル再生 文書資料補う鮮明さ ガラスネガから270点
 昔も今も、歴史学で重視されるのは文書資料だ。しかし近世末期以降は、写真も重要な資料になり得る。そのことを改めて感じさせる大著が刊行された。『高精細画像で甦る 150年前の幕末・明治初期日本 ブルガー&モーザーのガラス原板写真コレクション』(洋泉社)だ。

 東京大史料編纂所の「古写真研究プロジェクト」(代表・保谷徹同所所長)による成果だ。1869(明治2)年に来日した2人のオーストリア人写真家が、維新期の日本で撮影、収集した写真とガラス原板ネガコレクションを調査した。2010年から7回、オーストリアで撮影した。江戸・東京や横浜と京都など。本書はその一部、270点を紹介している。

 「当時の世界最高レベル」(保谷所長)という8000万画素デジタルカメラ技術で撮影、拡大した。江戸は日本橋や江戸城、神田や深川、浅草、王子など。鮮明な写りならではの発見が多々ありそうだ。たとえば1871年末から翌年初めごろ、愛宕山で撮影した写真。眼下には元大名屋敷が整然と並んでいる。しかしよく見ると、屋根瓦があちこちではがれている。

 また文書資料では詳細が分からないことも伝えている。たとえば1872年、新橋-横浜間の鉄道が開業した年の横浜駅だ。その一枚は、駅構内や真新しげな蒸気機関車と客車、周囲の街並みなどを鮮やかに収めている。駅や列車の構造を知る手がかりになる。

 ひときわ驚かされる一枚は「英国士官・殺人犯の獄門首」だ。1864(元治元)年、英国陸軍の少佐と中尉が鎌倉・鶴岡八幡宮の参道入り口付近で、浪人2人に襲われ殺された(鎌倉事件)。浪人は後に捕まり、斬首される。写真はその一人。英国側の強い主張により、横浜・吉田橋のたもとに首がさらされた。顔には少年の面影が残る。正視しにくいが、歴史的事件を記録した貴重なものでもある。

 さらに1872年ごろの外国人居留地の写真には、外国語の看板が多数確認でき、興味深い。ちょんまげ姿の人々やその生業の様子も分かる。またこのころ、新政府は神仏分離を進めていた。神社と一緒にあった仏像や仏塔が壊されたり、他の場所に移されたりした。しかし写真は分離が完全に進む前、神仏習合の状況も記録しており、興味深い。同じ国際港でありながら同時代の横浜に比べて情報が少ないという、長崎を撮影した写真群も貴重だ。

 風俗史や建築史など、読み手の関心と知識によって多くの情報を読み取ることができる。またさまざまな研究に貢献するだろう。【栗原俊雄】
外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治
150年前の幕末・維新期に来日し、「激動の時代の目撃者」となった外国人少年写真家がいた。東京大学史料編纂所の古写真研究プロジェクトチームが少年の祖国・オーストリアで、少年が撮影・収集した多数のガラス原板を確認。8000万画素のデジタルカメラで原板を撮影し、拡大したところ、驚くほど鮮明な当時の日本が写り込んでいた。少年の足跡をたどるとともに、成果を写真史料集『高精細画像で 甦 よみがえ る 150年前の幕末・明治初期日本』(洋泉社)にまとめたプロジェクトチーム代表の保谷徹所長(幕末維新史)に現地調査の経緯などについて聞いた。
16歳で来日したオーストリア人少年
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)

 江戸から明治に変わって間もない1869年(明治2年)10月2日、横浜港に到着したオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦フリードリヒ大公号に一人の少年が乗船していた。日本と修好通商条約を結ぶため派遣された使節団(東アジア遠征隊)に随行していた写真家ヴィルヘルム・ブルガーの助手で、ミヒャエル・モーザーという16歳のオーストリア人少年だった。

 ミヒャエル・モーザーの名は、横浜で創刊された日本初の写真入り英字紙『ファー・イースト』で写真家として活動していた人物であることは知られていた。が、つい最近まで生没年すらわからない「謎の人物」だった。写真技術の高さから、大人の写真家だと思われていたが、実際には10代の少年だったことが判明し、研究者を驚かせた。ミヒャエル少年は、使節団が条約締結を終えて帰国した後も、ただ一人、日本に残った。16歳から23歳まで、7年余りを明治初期の日本に滞在したミヒャエル・モーザーとは、いったい、どんな人生をたどった人物だったのだろうか。
偶然だった師・ブルガーとの出会い
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
 ミヒャエル・モーザーは1853年、現在のオーストリア中部・シュタイアーマルク州アルトアウスゼーで生まれた。師となるヴィルヘルム・ブルガーとの出会いはまったくの偶然からだった。モーザーとブルガーの二つのガラス原板コレクションを集成した写真史料集に掲載された「解説」(ペーター・パンツァー、宮田奈奈の両氏執筆)によれば、次のような経緯だった。

 大都市・ウィーンから遠く離れた避暑地・アルトアウスゼーをブルガーが撮影で訪れた際、カメラの暗箱を修理する必要に迫られた。そのとき修理したのがミヒャエルの父、ヨアヒムだった。修理が完璧だったため、お礼としてブルガーは彼の子どもたちの写真を撮影することにした。大きなレンズのついたカメラが置かれると、子どもたちはおびえて逃げてしまったが、一人だけその場に残った子どもがいた。それがミヒャエルだった。カメラに興味を持ったミヒャエルに「お前も写真家になりたいか?」と尋ねると、小さなミヒャエルが「なりたい!」と答え、ブルガーのもとで助手を務めることになった、という。
英字紙『ファー・イースト』の写真家に
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
 ミヒャエルがウィーンのブルガーのもとで働き始めてから1年たった頃、外国へ行くチャンスがめぐってきた。オーストリア・ハンガリー帝国は日本と清(現在の中国)、シャム(同タイ)のアジア三国と修好通商条約を締結することを決定し、使節団を派遣した。この時、随行する写真家として選ばれたのがブルガーだった。

 助手としてブルガーに同行した15歳のミヒャエルは、1868年10月、アドリア海に面した港町トリエステからフリードリヒ大公号で出航。南アフリカの喜望峰を回り、約1年かけて日本に到着した。この航海の途中、ミヒャエルは50日間も船酔いに苦しんだという。日本にとどまったのは、日本が気に入ったことに加え、船酔いが大の苦手だったことも理由の一つだったという。

 ミヒャエルは横浜の飲み屋で給仕として働いたりした後、知り合ったフランス人と一緒に写真スタジオを開いた。しかし、台風のため、写真スタジオが全壊。来日した翌年の70年、英国人ジョン・レディ・ブラックと出会い、創刊したばかりの英字紙『ファー・イースト』で写真家として働くようになった。ブラックがミヒャエルを雇わなければ、激動期の日本を記録した数々の貴重な写真は残されていなかったかもしれない。ちなみに、ブラックの長男ヘンリーは、明治時代に活躍した異色の落語家、快楽亭ブラックである。

 ミヒャエルは、73年に故国・オーストリアで開かれたウィーン万博で日本事務局の通訳を務めるため『ファー・イースト』を辞めた。ウィーンから戻った後は、内務省勧業寮の工業試験場で写真技術を教える教師となった。『ファー・イースト』で写真家として活動したのは、17歳から19歳までの間だった。76年、22歳のとき、フィラデルフィア万博の通訳として日本を離れた後、米国で病気になり、3か月間入院。健康を回復するため、そのままオーストリアに帰国し、再び日本に戻ることはなかった。
子ども部屋に放置されていたガラス原板
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
 ミヒャエル・モーザーのガラス原板コレクションが見つかったのは、2008年。師・ブルガーのガラス原板コレクションを1973年に発見していた日本研究者のペーター・パンツァー・ボン大学名誉教授が、探し求めていた弟子・ミヒャエル・モーザーのガラス原板も見つけた。

 東大への留学経験もあるパンツァー氏から連絡を受けた東大史料編纂所のプロジェクトチームは、2010年から17年まで計7回にわたって現地調査を実施。12年の第4回調査から、8000万画素の高精細なデジタルカメラを使用し、ガラス原板(ネガ)の撮影を行った。通常、報道用に使用するカメラが2400万~3000万画素程度であり、8000万画素はその約2.5~3倍に相当する。当時、世界一の高解像度を誇るカメラだった。

 保谷所長らが現地調査を始めたとき、ミヒャエル・モーザーのガラス原板は木箱などに収められたまま、アルトアウスゼーの生家にあった子ども部屋に放置されていたという。「日本関係の原板は全部で136点出てきました。子ども部屋に放って置かれていたにもかかわらず、比較的状態も良かった。150年の間、奇跡的に残っていました」と振り返る。コレクションには自身が撮影した東京や横浜などの風景写真の原板のほか、日本人写真家の内田九く一いちや下岡蓮れん杖じょうらが撮った肖像写真のガラス原板も含まれていた。

 写真フィルムがなかった当時、ガラス板に感光剤を塗り、それが乾く前に像をガラスに写しとる「コロジオン湿板写真」という技法が使われていた。プロジェクトチームは原板(縦約16センチ×横約21センチ)を1枚1枚、デジタルカメラで撮影し、反転加工したうえ、コンピューター画面で自由に拡大できるようにした。原板には高精細な画像情報が封じ込められており、デジタル画像を拡大することによって、細部まで観察できるようになった。

 たとえば、「芝切きり通とおし」の写真。原板を焼き付けたプリント写真にはドイツ語で「江戸の風景」とだけキャプションが付けられていたが、デジタル処理で拡大すると、写真中央左側にある建物入り口の「町名札」に「西久保広町」(現在の港区虎ノ門3丁目)と書かれていることがわかり、撮影地が「芝切通」であることが判明した。また、「横浜元町・居留地」の本村通りをズームアップすると、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋などの看板がひしめく様子が見え、西洋近代の文物が流れ込む開港場の活況が確認できた。「ガラス原板には、リアルな幕末・維新期の日本の姿が写り込んでいます。高精細な写真画像は、歴史的な変化を具体的なイメージとして再認識させてくれる。当時の写真画像はきわめて説得力があり、迫力ある史料になっている」と、保谷所長はその意義を強調する。
写真台紙の裏に富士山と鳥居の絵
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
 原板撮影には苦労もあった。カメラそのものがとてもデリケートで、性能が高いだけに、ほんのちょっとのところでピントがずれてしまったりした、という。撮影を担当した東大史料編纂所技術専門職員の高山さやかさんは「カメラが気まぐれで、なだめすかさないと動いてくれないときもあった」と振り返る。

 幕末・維新期に来日した外国人写真家として最も有名なのは、愛宕山から見た江戸のパノラマ写真などを撮った英国人フェリーチェ・ベアトだが、ミヒャエル・モーザーの残した写真の意義はどこにあるのか。「写真は『ファー・イースト』に在籍していた1871年(明治4年)と72年(同5年)のものが中心です。風景写真などには高解像度の画像があるので、遠景を拡大すると、遠く離れた場所の細部までがよく見える。江戸から明治へ、大きく時代が変わっていく様子を克明にとらえた写真として、きわめて貴重な史料になっている」と指摘する。また、収集したガラス原板の中には、1863年以前の江戸を写した現存最古とみられるネガも含まれている。

 原板は撮影が終了した後、日本から持参した中性紙の専用ボックスに納め、保存措置をとった。コレクションは現在、バートアウスゼー市のカンマーホフ博物館に永久寄託されている。

 ミヒャエル・モーザーの後半生は、波乱に満ちた前半生とは対照的に、きわめて穏やかだったようだ。ミヒャエルの孫、アルフレッド・モーザー氏が書いた『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』(宮田奈奈訳、洋泉社)によれば、米国からオーストリアに戻った後、アルトアウスゼーの両親の家に写真スタジオを構え、その後、27歳で、隣町のバートアウスゼーに写真館を設立。35歳で結婚した後、絵を背景に撮影する「アトリエ写真」で有名な写真家として活躍し、1912年11月24日、卒中発作のため59歳で亡くなった。

 再び日本を訪れることはなかったが、多感な少年期を過ごした日本での日々を終生、忘れることはなかっただろう。写真館で使っていた写真台紙が、今も残されている。その台紙の裏には富士山と鳥居の絵が描かれ、「MICHAEL MOSER, Photographer, TOKIO,JAPAN」と記されている。

幕末藩主も乗った?木製の三輪車、2年かけ完成
 幕末から明治期に活躍した福井藩主の松平春嶽が初めて乗ったとされる木製の三輪車「ビラスビイデ独行車」が復元された。

 福井県が、藩士の日記や1850年代の車輪を参考にして2年がかりで完成させた。県庁1階ホールで13日まで公開している。

 3月24日にあった福井城山里口御門の完成式典でお披露目された。全長1・7メートルで、前輪直径40センチ、後輪は同1メートル。ケヤキなどを使い、ペダルや車輪の外周は鉄製。ペダルを前後に踏み込んで回す仕組みで、ブレーキはない。

 復元の基になったのは春嶽に仕えていた藩士が書き留めた「御用日記」。1862年に江戸の藩邸で、家臣の佐々木長淳が組み立て、春嶽が乗ったという記述があった。「ビラスビイデ」は速い乗り物を意味する。

 県はこの史実を伝え、県民の自転車利用の機運を高めようと2016年度から復元に着手。坂井市のみくに龍翔館所蔵の1850年代の車輪などを参考に、専門家の協力を得て、設計を行って仕上げた。事業費は約240万円。

 県庁ホールでの公開後は、県の博物館などで巡回展示する予定。

 県交通まちづくり課は「福井と自転車の歴史的な関係をアピールする中で、より多くの人に自転車に興味を持ってもらいたい」と話している。

いざ出陣『戊辰観光』開戦 鶴ケ城で幕末特集「会津の義感じて」
 日本の歴史の転換点となった「戊辰戦争」から150年の節目を迎える中、激戦地の本県では記念事業が本格化している。戊辰戦争とゆかりの深い会津若松市や白河市は1日、「戊辰」の観光客を呼び込む新たな動きを始めた。150年前の4月は会津に向けて進攻する新政府軍が本県へと迫る時期。春の観光シーズンの到来に合わせ、観光を舞台にした"開戦ムード"が一層高まってきた。

 会津若松市の鶴ケ城天守閣前で行われた本年度事業のオープニングセレモニーでは、記念事業実行委員会長の室井照平市長が「官民連携して記念事業を盛り上げる。多くの方に会津の義を感じてほしい」とあいさつした。

 鶴ケ城を管理する会津若松観光ビューローは本年度、天守閣の展示を「幕末特集」として全館で展開する。

 各期でテーマを変え、戊辰戦争の伏線となった藩主松平容保(かたもり)の京都守護職時代を含め、会津ならではの一級資料を展示する。1日からは第1弾の「松平容保と京都守護職」(5月7日まで)が始まり、セレモニー後に内覧が行われた。

 京都御所の蛤(はまぐり)御門付近で繰り広げられた「禁門の変」を描いた「蛤御門合戦図屏風(びょうぶ)」や、新選組副長土方歳三も愛刀とした「和泉守兼定」などの日本刀、会津藩家老の書など、貴重な資料が展示されている。

 「八・一八の政変」での容保の働きに感激した孝明天皇が容保に贈った御宸翰(ごしんかん)や一緒に贈られた自作の和歌は同展のみの展示で、来場者の注目を集めている。

 若松市内10施設巡る「クイズラリー」始まる

 会津若松市では市内10施設を巡り、クイズに答えて応募すると温泉宿泊券などが抽選で当たる「戊辰ミステリークイズラリー」が1日から始まった。

 各施設や観光案内所で台紙を入手し、各施設を巡りクイズに挑戦する。7月31日までが前期、後期は8月1日~11月9日。全問正解で温泉宿泊券(各期5人)、6問正解で会津産品セット(同15人)、3問正解で会津WAONカード1000円分(同150人)が当たる。

 初日の1日も鶴ケ城では来場者が戊辰戦争にちなんだクイズに答えていた。出題施設次の通り。

 鶴ケ城天守閣、まなべこ、県立博物館、御薬園、会津武家屋敷、白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館、旧滝沢本陣、會津藩校日新館、会津新選組記念館

剣豪・森要蔵しのび80年ぶり法要へ 戊辰・戸の内の戦いで散る
 戊辰戦争の白河口の戦いの一つ、戸の内の戦い(西郷村下羽太地区)で散った剣豪・森要蔵が眠る西郷村の大龍寺で6月30日、80年ぶりとなる法要が行われる。森は千葉周作を開祖とする北辰一刀流の使い手で、千葉道場四天王の一人と称され、熊本藩生まれながら幕府側で最期を迎えた。森の生きざまなどを後世に伝えようと、戊辰150年に合わせて、同村商工会と地元有志が法要を行い、老朽化した墓も修繕する。

 「森は最後の出撃を前に(世話になった礼として)寝泊まりしていた民家に(武士の魂の)小刀を託した」「西軍が押し入った民家に赤子がいて、西軍が殺そうとしたが、会津藩が助けた」。戸の内の戦いに関する資料はあまり村に残っておらず、商工会の大高紀元会長(70)は戦禍を生き延びた住民から伝え聞いた話を披露した。

 「森要蔵は最後の武士。その存在は村にとって財産であり、法要を地域の歴史を再確認する機会にしたい」。大高会長は、森の墓を戊辰戦争の象徴の一つと位置付けており、寄付を募るなどして法要までに再整備する考えだ。70周忌法要には大高会長の祖父も参加したといい、80年ぶりの法要を通して、大高会長は歴史の保存と、いまだ解明されていない戊辰戦争の調査の進展に期待を寄せる。

 森は講談社の創設者野間清治の祖父としても知られている。70周忌法要では清冶が感謝の言葉をつづった手紙4通を同寺に送っており、手紙は今でも寺に保管されている。

 大高会長と内藤信光住職(68)は「講談社の関係者も呼ぶ予定だ。150周年の節目に東西両軍関係なく、国を思い散った先人に村一体となって手を合わせたい」と話した。

戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導
◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。
 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。
 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。
 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。
 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。
 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。
 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。
 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。
 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>
 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。
 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。


[但木土佐]1817~69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。

[藤原相之助]1867~1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

激戦の舞台たどる 新年度、戊辰150周年事業
 会津美里町は2018(平成30)年度、戊辰戦争150周年を記念した各種事業を行う。講演会やパネル展、史跡を巡るツアーなどを繰り広げる。28日までに概要が固まった。
 会津美里町には、下郷町の大内宿から町内の関山宿(現関山地区)などを通って会津盆地に入る下野街道が通り、参勤交代などにも使われていた。関山宿付近は戦火で民家がほぼ全焼するなど、旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となった歴史がある。さらに高田地区などでも戦いが行われたことを示す史料もある。
 5月13日にオープニング事業として歴史講演会を開く。町文化財保護審議会の笹川寿夫会長を講師に、若松城下へ迫ろうとする新政府軍と、防ごうとする旧幕府軍の攻防などについて、史料や町内各所に残る石碑などについて紹介する。
 5月27日に本郷地区で開かれる向羽黒山城跡ふれあい茶会では、城跡の麓にある向羽黒山ギャラリーで戦時品やパネルの展示を行う。
 7月下旬か8月に、町内の関山地区、下野街道など戊辰戦争に関わる場所、史跡を巡るツアーを行う。9月には京都を訪れ、京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡る予定。

【会津美里町の戊辰戦争150周年事業の主な内容】
(かっこ内は開催場所)
・5月13日 歴史講演会(本郷体育館)
・5月27日 向羽黒山城跡ふれあい茶会で、戦時品やパネルを展示(向羽黒山ギャラリー)
・7月下旬か8月 関山地区、下野街道などを巡るツアー(町内)
・9月 京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡るツアー(京都など)

<奥州の義 戊辰150年>(1)プロローグ 画期的瞬間、東北が一つに
白河以北一山百文。東北を軽視するこの言葉が、いつから使われだしたか定かではない。しかし世の人の心に深く刻まれた契機は、はっきりしている。
 今から150年前、幕末から明治へと時代が転換する中で起きた戊辰戦争で、東北の諸藩が明治新政府にひざを屈したことだ。

 西国の薩長土肥を中心に成立した明治新政府は、幕末の動乱期に対立した会津、庄内両藩を討ち滅ぼそうと「朝敵」と位置付けた。東北自らの手で両藩を攻めろと命令した。
 朝廷、幕府双方に忠誠が厚く、京都、江戸の治安維持に尽力してきた会津、庄内を討つ必要がどこにあるのか。納得できない仙台、米沢など東北諸藩は擁護へと立ち上がる。
 新政府と両藩の和平を取り持つため大同団結しようと、東北と北越の31藩が奥羽越列藩同盟を結成。それは東北全域が一つになった画期的な瞬間でもあった。
 しかし平和解決を求める嘆願は新政府に一蹴され、「会津、庄内に味方する者は全て敵」と、東北の地は戦火に巻き込まれていく。そして敗れて「賊軍」のいわれなき汚名を背負い、その後も負け組の意識が付いて回ることとなる。

 今年、日本各地で維新を記念する行事が開催されている。「近代化の幕開けとなった大業」「明治の精神に学ぼう」。そんな称賛の言葉が飛び交う。
 待ってほしい。勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。
 維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい。戦雲を追って。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[戊辰戦争]1868(慶応4)年1月から翌年5月にかけて、明治新政府と旧幕府側の諸藩との間で起きた内戦。鳥羽・伏見の戦いから上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、箱館(函館)五稜郭の戦いまでを指す。開戦年のえとが戊辰に当たるため、この呼称が付いた。薩摩、長州藩などが中心の新政府は、前年に大政奉還した前将軍の徳川慶喜や会津、庄内両藩を朝敵として追討軍を進め、両藩を擁護する東北・北越諸藩が抗戦した。戦後、敗れた東北諸藩には減封や未開拓地への移住など厳しい処分が課せられた。




この舞台を最後に勘九郎さんが大河ドラマ撮影に入ってしまい、舞台で見られる機会がなくなってしまうので、大船の鎌倉芸術館まで足を延ばして見てきました。
 前から4列目の好位置のチケットでしたので、役者さんたちを等身大で見ることができました。それだけで眼福です。
一、芸談
このツアーの振り返り。七之助さんはラーメン三昧。
今後の予定で、兄弟のスペイン公演は既に公表されてましたがパリ公演があるような。
七之助さんはコクーン公演「切られの与三」について語ってましたが、
八月歌舞伎「演目決まってない」(つまりご出演は決まっている)とも。
二、鶴亀(つるかめ)

帝:中村小三郎

鶴:中村仲之助

鶴:中村仲四郎

亀:中村いてう

亀:中村仲助

従者:中村仲侍
三、浦島(うらしま)

浦島:中村勘九郎

近くで見るとますます早変わり凄いです。
四、枕獅子(まくらじし)

傾城弥生後に獅子の精:中村七之助

禿ゆかり後に胡蝶:中村鶴松

禿たより後に胡蝶:澤村國久
こちらも前半の花魁(御殿女中風)から後半に獅子の精に変わるので七之助さんの凛とした美しさを堪能できます。
国性爺合戦、愛之助は結構ニンに合っていたと思うけど、主人公としてストーリー全体に絡んでないんだよね。芝翫は主役より主人公のライバル役の方が映えるかも知れない。そして、日本人女性代表の渚お母さんと義理の娘錦祥女が男たちの選択のために自殺する必然性がわからず、納得いかない。。
 男女道明寺はいつもの道明寺を男女で踊り分ける。雀右衛門さん(立役を引き立てる女形としては素晴らしいと思う。だからこそ、酷使されないで長生きして欲しい)、松緑さん、気持ちいい踊り。
 芝浜革財布は落語で見知ったストーリーだけに、勘三郎さんで見たかった。。

 於染久松色読販は、色悪の仁左衛門、悪婆の玉三郎がいいだけに、物足りなかった。ちっぽけな悪事が失敗したところで終わって残念、せめて髪結新三ぐらいには活躍して欲しかったんだよな。。
 でも神田祭で仁左玉のラブラブは国宝だなと思った。これ見られただけで今日は満足。
 そして滝の白糸。歌舞伎座でやる意味としては玉三郎が演出で壱太郎と松也という若手が主役級という若手養成の意味はあったし、お芝居としてもかなり熱演だったと思う。
 ストーリー展開上自分が疑問符つけたところは、新派のストーリーがそうなっていたらしく、泉鏡花の原作は納得入ったというのは私が近代人だからかも。滝の白糸がいくら大金を強奪されたからと言って、助けを求めて入り込んだ高利貸しの家で殺人するというのはイマイチ説得力がない。強奪する側と金を貸す側がぐるだったと知って激高する、というストーリーの方が説得力ある。そして、最後の場面の順番も原作の方が納得する。。まぁ歌舞伎という手法はリアリティを必ずしも追求しない、という理屈ではあるのだけど。。

三月大歌舞伎 美、際立つ「莨屋」=評・小玉祥子
 昼の序幕が「国性爺(こくせんや)合戦」。愛之助の和藤内は、声が通り、荒事らしい力強さと稚気があり、芝翫は甘輝にうってつけの容姿で大きさがある。華やかさに加えて情がある扇雀の錦祥女、強さと優しさのある秀太郎の渚、東蔵の老一官とそろう好舞台。

 中幕の「男女(めおと)道成寺」は四世雀右衛門七回忌追善。雀右衛門の花子は体の使い方が美しく、「恋の手習い」など愛らしさにあふれる。松緑の狂言師左近が軽快だ。

 最後が「芝浜革財布」。芝翫の政五郎と孝太郎のおたつが世話物らしい夫婦の機微をおもしろく見せた。

 夜の最初が「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」の「莨屋(たばこや)」「油屋」。鬼門の喜兵衛(仁左衛門)と土手のお六(玉三郎)の場面に絞っての上演で、すごみと色気がある喜兵衛と歯切れ良く伝法なお六である。薄汚れた「莨屋」で早桶(はやおけ)や死人を用いるグロテスクさが2人の美を際立たせ、別世界が現出する。「油屋」のゆすりは、2人の息が合ってテンポが出た。橘三郎の久作が好演。

 中幕は舞踊の「神田祭」。仁左衛門の鳶頭が粋で、玉三郎の芸者があでやか。

 最後が「滝の白糸」(泉鏡花原作、高田保脚本、坂東玉三郎演出)。水芸の芸人、滝の白糸(壱太郎)と法律職を志す青年、村越欣弥(松也)の悲恋物語。壱太郎が初々しく、欣弥へのいちずさを表現し、松也は法廷の場面で、セリフに説得力を出し、さわやかだ。歌六の春平、彦三郎の南京寅吉、米吉の桔梗がふさわしい味わい。【小玉祥子】

歌舞伎座で27日まで
<評>歌舞伎座「三月大歌舞伎」 新派の「白糸」上演、刺激に
 昼の部は「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」から。片岡愛之助が初役で和藤内(わとうない)をつとめる。中村芝翫(しかん)の、これも初役の甘輝(かんき)が若々しくも堂々とした将軍でいい。片岡秀太郎の母渚は、情愛と強さとをメリハリの利いた演技で見せる。中村扇雀の錦祥女(きんしょうじょ)、中村東蔵の老一官。

 「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」は先代中村雀右衛門の七回忌追善狂言。姫や娘の印象の強かった雀右衛門が厚ぼったい色気をのぞかせる。尾上松緑も安定感のある洒脱(しゃだつ)な踊りで、ともに役者ぶりがぐっと大きくなった。

 他に芝翫、片岡孝太郎の「芝浜革財布(しばはまのかわざいふ)」。

 夜の部「於染(おそめ)久松(ひさまつ)色(うきなの)読販(よみうり)」は「莨屋(たばこや)」「油屋」の二幕。片岡仁左衛門の鬼門の喜兵衛、坂東玉三郎の土手のお六は四十一年ぶりの顔合わせ。喜兵衛の凄味(すごみ)、お六の愛嬌(あいきょう)とも申し分なく、鶴屋南北の描いた江戸の闇が浮かび上がる。

 続く「神田祭」はガラリと趣を変えて、この二人が鳶(とび)頭と芸者に。息の合った濃厚なむつまじさに客席が大いに沸く。

 最後は玉三郎演出による新派の名作「滝の白糸」。中村壱太郎(かずたろう)の白糸はしなやかで美しく、尾上松也の村越欣弥は法廷での長ぜりふを鮮やかに聴かせる。しかし、いずれも刹那的な激しさ、危うさのひと味物足りないのが惜しい。中村歌六の春平は情理を尽くしたせりふが見事で引き込まれる。坂東秀調の太夫元、坂東彦三郎の南京寅吉も好演。他に中村歌女之丞、中村京妙、坂東守若と、ベテランの女形が確かな存在感を発揮した。新派と歌舞伎は単純に連結できるわけではないが、新派の演目を歌舞伎で上演することは双方に良い刺激となる。二十七日まで。(矢内賢二=歌舞伎研究家)
鶴ケ城に『武士の魂』...23、24日投影 戊辰戦争・激戦の舞台
 戊辰戦争で激戦の舞台となった会津若松市の鶴ケ城を会場に23、24の両日開催されるプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲」の公開リハーサルが22日、行われた。武士道や不屈の魂を迫力ある音楽とともに表現した幻想的な映像が、天守閣の白壁に鮮やかに浮かび上がった。

 震災からの復興に向かって歩む人々を応援するため2013(平成25)年から県内でプロジェクションマッピングを開催している「fukushimaさくらプロジェクト」の主催。これまでは毎年県内1カ所での開催だったが、6年目の今回は開催地を増やし、戊辰150年にちなみ、3年ぶり開催の鶴ケ城と白河市の小峰城を会場とした。小峰城では4月7日に開催される。

 作品は15分間。映像製作の橋本大祐さん(郡山市出身)が「魂を込め、命懸けで作った」という映像では武士の魂や会津藩の「白虎隊」「朱雀隊」などの語源となった四神が表現され、最後は会津若松市生まれという引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラボーカルバンド「RAG FAIR」が復興支援ソング「花は咲く」を披露する。

 鶴ケ城での上映時間は2日間とも午後6時30分、同7時15分、同8時、同8時45分の4回。小峰城では4月7日の午後7時と同8時に上映する。入場無料だが予約制。予約は「はるか2018」の公式サイトから。
きょうまでプロジェクションマッピング 鶴ケ城に浮かぶ四神 若松
 会津若松市の鶴ケ城を映像で彩るプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲~」は23日、開幕した。戊辰戦争150周年や東日本大震災からの復興などをテーマにした幻想的な映像が天守閣を包み、多くの市民や観光客らが見入っていた。24日まで。
 fukushimaさくらプロジェクトの主催、市の共催、NHKエンタープライズの企画制作、福島民報社などの協賛。
 郡山市出身の橋本大佑さんが映像を制作し、武士道や不屈の魂、幕末の会津藩に組織された「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」の語源となった四神などを表現した。
 終盤には福島市出身の引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラグループ「RAG FAIR(ラグフェア)」が登場した。花々がかれんに舞う映像に合わせ、天守閣最上階で復興支援ソング「花は咲く」を披露した。計4回の公演を繰り広げた。
 観覧は予約制で、24日分は既に締め切っている。
 4月7日には白河市の国史跡・小峰城跡でも催される。専用ホームページや往復はがきで観覧予約を受け付けている。

( 2018/03/24 10:11 カテゴリー:主要 )

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。
 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。
 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。
 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。
 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。
 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。
 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836~93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
 世良修蔵 1835~68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。
 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。
 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。
 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。
 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。
 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827~68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月~73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず
中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。
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京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)
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 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。
 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。
 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。
 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。
 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。
 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。
 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。
 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。
 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611~73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748~1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828~90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に
◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん
 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意
 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。
 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。
 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。
 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>
 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。
 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。
 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。
 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部
 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。
 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。
 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。
 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860~1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845~1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。
3度目の観劇、1回目と同じく花道に近い10列目以内の席。花道での演技が見える。

(三谷幸喜のありふれた生活:887)「殿堂」が笑いで揺れる
 幕末の江戸無血開城をテーマにした新作舞台「江戸は燃えているか」が開幕した。今回はコメディーである。お客さんに笑って頂くことだけを目的にした芝居を作るのは、「酒と涙とジキルとハイド」以来、四年ぶりである。

     *

 今回は笑いのバリエーションにも工夫を凝らした。基本は定番の「勘違い」「すれ違い」から来る笑いだが、そこに普段僕がやらないタイプの笑いもプラスしている。

 偽物の西郷吉之助(隆盛)や偽物の勝海舟が登場するのだが、それがどう見てもニセというチープな仕上がり。なのに誰もが本物と信じてしまう「そんな馬鹿な」的笑い。さらには演者が共演者をアドリブで突っ込む、本来なら禁じ手の笑い。それが出来たのはひとえに、劇場が新橋演舞場であり、突っ込むのが中村獅童さんだから。

 客席の上に提灯(ちょうちん)がズラリと飾られているこの劇場には、「なんでもあり」のおおらかさがある。そして優れた歌舞伎役者さんは必ず持っている、舞台上で起こることはどんなことでも成立させてしまう懐の深さ。なにしろ獅童さんが現れた襖(ふすま)が、彼の後ろで自動的に閉まっても、まったく違和感がないのだ。普通の役者さんではこうはいかない。

     *

 新橋演舞場といえば「松竹新喜劇」。まさに喜劇の殿堂でもある。中村勘三郎さんの「浅草パラダイス」に始まる「浅草」シリーズ、最近では渡辺えりさん、キムラ緑子さんコンビの「有頂天」シリーズ、三宅裕司さんたちの「熱海五郎一座」も人気演目だ。新橋演舞場に笑いを求めてやって来るお客さんたちは確実にいる。喜劇を作るからには、その方々を満足させなくてはならない。おのずとこちらも力が入るというものだ。

 喜劇映画の面白さを伝える表現で、たまに「一分に一回は笑える」というフレーズを見かけるが、六十秒おきにしか笑えない喜劇は、実は喜劇としては失格。僕の理想は「十秒に一回」だ。

 だがそれはあくまで理想であって、映画にしろ舞台にしろ、十秒に一回の割合で観客が笑い続ける作品(二時間だと七百二十回)に僕は出会ったことがないし、当然自分でも作ったことがない。

 そもそも全編通じて十秒に一回となると、最初の笑いは幕開き十秒後に来なければならず、これは至難の業だ。よっぽど面白い顔の人が出てくるとか、犬だと思っていたら人だったとか、そんなことくらいしか思いつかない。僕の作品みたいに、シチュエーションや会話で笑いを紡いでいく場合は、どうしても状況説明、いわゆる「フリ」の部分が長くなる。だがそこを乗り切れば、後は、別に誰かが面白いことを言ったり、おかしな動きをしなくても、ごく普通の会話をしているだけで、観客を爆笑させることも可能になるのである。

     *

 今回の「江戸~」も、序盤は静かに始まるが、一幕の終盤では十秒に一回どころか、三秒に一回くらいの頻度で客席は爆笑に包まれる。千人以上が一度に笑う時のパワーはすさまじく、劇場中が揺さぶられているように感じる。そんな客席の様子を舞台袖からそっと覗(のぞ)く。喜劇作家にとって至福の時間である。

獅童出演『江戸は燃えているか』初日に向けて
 3月3日(土)~26日(月)、新橋演舞場『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』公演に中村獅童が出演、12人の出演者が初日に向けて意気込みを語りました。



 三谷幸喜書き下ろしの『江戸は燃えているか』。江戸城を攻め落とそうとする官軍の西郷吉之助、なんとしても将軍を守りたい勝海舟と山岡鉄太郎、江戸城明け渡しに至るまでのドラマは、歌舞伎の『江戸城総攻』をはじめあまたの舞台や映像、小説に描かれています。が、この作品は「笑えるお芝居をつくりました」と三谷が言うとおり、オリジナリティーあふれる喜劇です。出演者の言葉からは三谷作品、三谷演出に大きな期待と信頼が寄せられていることが伝わってきました。



12人が一丸となっての喜劇

 獅童が演じるのは勝海舟。西郷が城を攻める前に降伏を勧めにやってくると聞いて、小心者で喧嘩っ早い勝のとった言動に、交渉決裂を懸念した周囲が、江戸を戦火の海にしないためにと策をめぐらせます。獅童は、「お客様におおいに笑っていただけたらいいなと思います。喜劇はお客様がお入りになってみないとわからない。ここで笑わせようと思って演技はしていません」。喜劇の難しさを率直に語った言葉からは、稽古の充実ぶりがうかがえました。



 そして、すったもんだの末にとった策が、勝の身代わりを立てること。身代わりに選ばれたのは庭師の平次、松岡昌宏が勤めます。「いろいろなジャンルの人がいらっしゃって、存在感、笑いの間が皆違う。それが一緒になるからこそ面白い。今回は出演の12人が一丸となった、料理の“ばくだん”のような公演です。ぜひ、一人ひとりの味を楽しんでいただけたら」。まさにこれは、12人がそれぞれの味を出すことで笑いを起こす“群像喜劇”です。



 この二人について三谷は、「どんな演出の注文をしても絶対に、できないと言わないで瞬時にやってくれる。しかも、あとで冷静にきちんと考えて論理的に構築してやってくれる。本当にやりやすいです」と絶賛。さらに、「獅童さんが前半で飯尾さんと、後半で磯山さんと、毎回稽古場で笑ってしまうシーンがあるんですが、どちらも台本に書いていないところで本当に腹立たしい! あんなに的確に絶妙につっ込みつつ、ぼろぼろになっていく獅童さんが、本当に面白い」。



▲ 『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』 左より、中村獅童、松岡茉優、田中 圭、八木亜希子、高田聖子

笑わないのが難しい

 ほかの出演者も、「たくさん笑っていただけるように、たくさん汗をかいていきたい」(高田聖子)、「(芝居の)経験は少ないですが、皆さんに教わりながらここまで来ました」(八木亜希子)、「見ている皆様が、楽しかった、笑って腹筋が疲れた、という芝居をしたい」(磯山さやか)、「わくわくしています。ハッピーになってもらえるように頑張りたい」(妃海 風)、「舞台でたくさん走っております。皆様のお力をお借りして25日間走り続けたい」(中村蝶紫)と、この喜劇への意気込みを見せました。



 「皆の芝居がおかしくて。笑わないよう負けないよう芝居をします」(藤本隆宏)、「笑いなくして見られない。本番中に笑わないよう気を付けます」(田中 圭)と、喜劇を演じる側には笑いを起こすだけでなく、笑わないという試練もある様子。「始まりから終わりまでノンストップの芝居」(飯尾和樹)、「ノンストップの笑い合戦に、セットを使った笑いどころもあります」(吉田ボイス)と、笑いのツボはあちこちに仕掛けられているようです。



新橋演舞場で初演出

 新橋演舞場で初めて演出する三谷は、「花道がある舞台が初めてなので、今までやったことのない使い方をと考えましたが、ほとんどのことはやられていると聞き、オーソドックスな感じになりました」と明かしましたが、ここで出演者からはあれがオーソドックスなのかと驚きの声。花道がどういう空間になるかは見てのお楽しみです。「新橋演舞場に出演するのは初めてなので、花道を歩きたかった」とは松岡茉優、「ちょっと三谷さんに恨み節です」。



 また、三谷は、「歌える人がいっぱいいることに気づき、急きょ『江戸は世界一』というナンバーをつくりました」と、宝塚退団後初の大舞台という妃海が中心となって、ミュージカルシーンも入れ込みました。獅童は、「セットがリアルで本物かと思うくらいよくできています。ご覧になる場所によって見え方も全然違うので、2、3度は見てほしい」と、みどころは言い尽くせないようです。



 約1カ月にわたる稽古を経て、いよいよ初日の舞台へ。「稽古場で皆と一緒に過ごす時間がとても長かったですが、やっていて楽しかった。集中していたのであっという間でした」と獅童。「野球でいうなら全員野球。誰ひとり欠けても成立しない芝居です。皆で頑張ってここまでこぎつけました」と三谷。ぜひ、新橋演舞場へ足をお運びください。

 以下、畳みます。
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