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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
今日拾ったニュースです。

新選組資料 初の修復へ 近藤、土方の書簡など15点
 幕末の新選組の資料などを保存、公開している町田市小野路町の小島資料館が、初めて所蔵品の修復に乗り出す。新選組局長の近藤勇の手紙など直筆の十五点で、長年の公開で和紙の一部が傷むなどしていた。四月から作業を開始する。
 同資料館は当地の旧家、小島家の当主が残した日記や文書、和漢書など七千点あまりを所蔵する私設の資料館。
 一八三四(天保五)年に現在の調布市に生まれた近藤は、剣術の出稽古で小島家を訪問して指導し、二十代小島鹿之助と親しくなって義兄弟の契りを結んだ。六三(文久三)年に上洛(じょうらく)して土方歳三らと新選組を結成すると、近況を知らせに鹿之助に多数の手紙を書いた。
 修復されるのは新選組関連の約百点のうち、近藤と副長の土方が鹿之助らに送った十三点の書簡と二点の掛け軸。人気の資料のため、他館への貸し出しや閲覧が繰り返されて和紙の端が摩耗するなど劣化が目立っていた。
 近藤が六五年に長州征伐の戦後処理に赴く直前に書いた書簡には、自身に万一のことがあったら新選組は土方に任せたいなどと打ち明けている。また土方は京都や大阪の花街でのモテぶりを自慢し「報国の心をわするる婦人かな」の一句で結んでいる。
 「土方のちゃめっ気が出ている。手紙は書き手の人間味が読み取れて面白い」とは、現当主の小島政孝館長(66)。書簡は和紙を裏打ちし、掛け軸はのりづけをし直したりして補強する。「貴重な資料を後世に残し、今後も研究者や歴史ファンの方に見てもらいたい」と話す。 (栗原淳)

 後世に残すための努力をありがとうございます。
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八王子から見る幕末 市郷土資料館で特別展
 黒船来航により江戸幕府の体制が揺らいだ幕末、八王子の人たちが国内外の情報を積極的に集め、激動の時代を乗り切ろうとした足跡をたどる特別展「幕末の八王子-西洋との接触」が、八王子市郷土資料館(上野町)で開かれている。展示された古文書など約百点の資料は、大きく変わろうとしていた時代や社会を物語る。十一月二十四日まで。 (村松権主麿)
 「鎖国をしていた江戸時代は閉鎖的なイメージが強いが、幕末の八王子の人たちはさまざまな情報を集め、恐怖を感じると同時に興味を持って学び、どう対処するべきかを考えていた」と説明するのは、郷土資料館の加藤典子学芸員(26)。
 情報収集などで重要な役割を果たしたのが、八王子を拠点に徳川家に仕えた半士半農の集団「千人同心(せんにんどうしん)」だ。日光東照宮を警備する「火の番」を務め、幕末の混乱期には各地に派遣されて国防や治安を担った。
 特別展は、中国でのアヘン戦争(一八四〇年)を機に国防の意識が高まった幕末直前から、明治維新までの時代が対象。八王子に伝わる古文書や絵図、千人同心が使った近代的な「ミニエー銃」などを展示する。
 幕府作成の世界地図を写した「両半球世界図」は、貿易で主導権を握る国防論を唱えた千人同心の松本斗機蔵(ときぞう)がつくった。やはり千人同心で、高野長英らと交流した秋山佐蔵(さぞう)が活版印刷で出版したドイツの医学書や、西洋の軍事研究をした河野仲次郎(なかじろう)が残した大砲の絵や縮尺図も並ぶ。
 このほか、黒船を描いた絵やペリーの似顔絵、大阪湾にロシア船が来航した際の海岸警備図、桜田門外の変の状況を詳しく知らせる手紙もあり、各地の情報が集まっていたことをうかがわせる。維新期の資料は、新政府軍に兵士や食料を差し出すよう命じた「大急達状(おおいそぎたっしじょう)」、新政府への恭順を誓った千人同心の「血判誓詞(せいし)」もある。
 加藤学芸員は「初公開の資料も交え、幕末の八王子の様子を網羅的に紹介する初めての試み。地域史の観点から幕末を考えてほしい」と話す。古文書などを解説した図録は五百円で販売している。入館無料。休館日は月曜だが、祝日の月曜は開館し、翌日休館。問い合わせは郷土資料館=電042(622)8939=へ。
 時間があったらいきたいと呟いたら、歴友の野間みつねさんが提案してくれたので、台風19号の影響で交通機関が止まらないうちに……という半日観光コース、絶妙のタイミングでした。
 自ブログで検索すると、私が八王子市郷土資料館を訪れたのは大河ドラマ『新選組!』放映翌年の2005年9月。当時は開発途上でぽっかり開いていた南口ロータリーにビルが建っていて驚きました。

 展示は、松本斗機蔵と秋山佐蔵を忠臣とした幕末の八王子千人同心メインの人物たちが、江川太郎左衛門(「目玉」こと英龍だけでなく、英敏や英武とも?)とのやりとり、日野の佐藤非小五郎や小野の小島鹿之助とかとのやりとりも……。
 『武術英名録』のコピーに「土方歳蔵」の名前があるだけでも、もう嬉しくて。

 入場無料だけど常設展もけっこう楽しくて、特別展の資料がカラー図版で500円というのは素晴らしい。
 猫カフェに行ってきました。暖かくて柔らかくてふわふわしているニャンコ達と触れあうことができて、癒されました。これからも、時々遊びに行きたいと思っています。

茨城
映画「桜田門外ノ変」ロケ応援 豚汁食べてホットな演技を 地場産でおもてなし/茨城・JA水戸女性部【関東】
 【茨城・水戸】JA水戸女性部員らは10日、水戸市で撮影中の映画「桜田門外ノ変」で、炊き出し支援隊として、地元産農産物を使った豚汁を振る舞った。屋外の撮影で体を冷やした俳優やスタッフに「温まって」と差し出し、応援した。女性部員らによる炊き出し支援は19、20の両日にも行う。
 この日は、同市の千波湖畔に建設された約1万3000平方メートルのオープンセット内で撮影が行われた。豚汁は、舞台となる幕末の江戸城などを再現したセットの一角で、作った。参加した女性部員の一人は「JA水戸の農産物の良さを知ってもらいたい」と、話していた。
 佐藤純彌監督がメガホンを取り、人気俳優の大沢たかおさんが主演を務める映画は、水戸藩の開藩400周年を記念した企画。1860年に水戸藩脱藩浪士ら18人が江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変を描く。
 地域活性化を目指し、一昨年に結成した「『桜田門外ノ変』映画化支援の会」が全面的にサポートするなど、地域発案型の映画としても注目を集めている。


千葉
和宮愛用の雛人形紹介
佐倉・歴博でミニ企画展

 幕末の動乱期に波乱にとんだ生涯を送ったことで知られる皇女和宮が愛用していた雛(ひな)人形や雛道具を紹介するミニ企画展示「和宮ゆかりの雛かざり」が佐倉市城内町の国立歴史民俗博物館第3展示室で開かれている。
 和宮親子内親王は1846(弘化3)年、仁孝天皇の第8皇女として誕生。1861(文久元)年に「公武合体」の証しとして、14代将軍・徳川家茂に降嫁した。江戸時代に広まった雛祭り行事は次第に装飾が豪華になり、さまざまな種類の人形や精巧な作りの道具類が生み出された。和宮も多くの雛人形を手元に置き、大奥で雛祭りを楽しんだという。
 会場には、同館所蔵の「和宮所用雛人形御所人形」から約100点を展示。貴族的な面持ちの上品な内裏雛や、当時の流行を反映したガラス(ギヤマン)製の器といった精巧な雛道具のほか、兄・孝明天皇の形見として和宮に譲渡された御所・三ツ折人形などが並び、江戸時代の女性の暮らしや職人の優れた技術を紹介している。


春の九州物産展:NPOが講演--きょう、そごう /千葉
 そごう千葉店6階で16日、長崎にスポットをあてた「春の九州物産展」が始まる。初日の午後1時と3時にはボランティアガイドとして活躍する「NPO長崎の風」の黒田雄彦理事長(64)が講演する。坂本龍馬と同じ紋入りのはかま姿で、幕末の人物を中心に話す予定。黒田さんは「50年前に新婚旅行で来たという老夫婦をガイドしたのが印象に残っている」と目を細める。九州の名産品も販売。3月1日まで。【渡辺洋子】


関寛斎:東金出身の蘭医、生誕180年記念し展示会--東金で来月4日まで /千葉
◇生涯を地域医療にささげ
 東金市出身の蘭医(らんい)、関寛斎(1830~1912)の生誕180年を記念する特別展示会が、東金文化会館で開かれている。3月4日まで。
 現在の東金市東中の農家に生まれた寛斎は4歳で在野の儒学者・関俊輔の養子となった。「世のため人のために尽くすことが人の道」と教えられ、18歳で佐倉の順天堂に入門し医学を学んだ。銚子で医院を開業。その後、長崎に留学、徳島藩の藩医となり、戊辰戦争に軍医として従軍。徳島に戻り40年間、医療に尽くした。金婚式後、72歳で北海道に渡り、開拓に携わりながら生涯を地域医療にささげた。
 記念展は実行委と郷土研究愛好会が主催。寛斎ゆかりの佐倉市、銚子市、徳島市、北海道陸別町も協力し、約500点の資料が紹介されている。主催者の木村卓実行委員長は「関寛斎の偉業を若い人たちにも知ってもらいたい」と話している。
 20日午後1時半から、戸石四郎氏が「関寛斎の医業-その現代的意義を考える」と題して記念講演する。入場無料。【吉村建二】


神奈川
横須賀の葬祭式場で「龍馬とおりょう」しのぶイベント-月琴演奏・講談も /神奈川
 横須賀中央の総合葬祭式場「おりょう会館」(横須賀市米が浜通2、TEL 046-821-4242)で2月21日、坂本龍馬と妻・おりょうをしのぶイベント「おりょう祭り」が行われる。同会館・地域感謝祭の一環。(横須賀経済新聞)
 イベントでは、よこすか龍馬会会長・藤井親さんによる講演「坂本龍馬とおりょう」、同会女性グループの月琴演奏と女性弁士による講談「おりょうの生涯」を行うほか、おりょうの資料パネル展示、屋台コーナーなども出店。
  同会館は1996年に設立。敷地が「おりょう終焉の地」に当たることから、供養の意味を込めて「おりょう会館」と命名された。運営は県内18店舗を展開するメモワール。
 おりょうは京都の町医者の家に生まれ育ち、龍馬亡き後は高知・京都・大阪・東京を転々として波乱の生涯を送ったという。1875(明治8)年に「三浦郡豊島村深田」(現在の横須賀市米が浜通)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍。晩年を同地で暮らし、1906(明治39)年に66歳で病没。大津町・信楽寺(しんぎょうじ)に墓碑が建立されている。
 企画担当マネージャーの松下和代さんは「NHKドラマ『龍馬伝』が始まったこともあり、地域の皆さんにおりょうさんのことを知ってほしいと願い、初の『おりょう祭り』を開催することになった」とし、「おりょうさんが暮らした場所で、幕末を生きた女性の姿を感じてもらえたら」と話す。
 開催時間は10時~16時。入場無料。


京都
龍馬効果、はや春のにぎわい 墓所や霊山歴史館 本物じっくり
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映が始まり、坂本龍馬の墓がある京都霊山護国神社(京都市東山区)や、幕末維新をテーマとする霊山歴史館(同)を訪れる人が増えている。冬シーズンは観光客が少ないが、龍馬の墓や歴史館へ向かう「維新の坂」は、平日も客足が絶えない。京都霊山護国神社によると、「1月の参拝客数は、前年同時期の2~2・5割増」といい、個人のほか団体客も観光バスで次々と訪れる。
 近郊の住民が「龍馬伝」をきっかけに墓を知って訪れるケースも多い。大阪府高槻市に住む龍馬ファンの遠近克尚さん(66)もその一人。「円山公園の龍馬の銅像にはしょっちゅうお参りしていたが、こんなところに墓があるなんて知らなかった。これからちょくちょくお参りに来たい」
 1月から通年企画「大龍馬展」を開催している霊山歴史館には、週末になると問い合わせの電話がひっきりなしにかかる。入館者数は、NHK大河ドラマ「新選組!」の放映で過去最高を記録した2004年をさらに2~3割上回るという。
 入館者の多くが1、2時間かけてじっくり展示を見るといい、同館の木村幸比古学芸課長は「単に龍馬ブームというだけではなく、本物をもっと詳しく知りたいという歴史ファンが増えている」と分析する。
 「ドラマの舞台が京都に移ると、さらに来館者が増えるでしょう」と木村課長。春や秋の観光シーズンを迎えると、さらに多くの観光客で維新の坂のにぎわいが増しそうだ。


佐賀
龍馬と交流、嬉野茶輸出の女性に脚光 市が企画展へ
 江戸時代、嬉野茶をイギリスに大量輸出して財を成した長崎商人・大浦慶が歴史ファンからあらためて注目を集めている。坂本竜馬が主人公のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の原作に登場、竜馬ら幕末志士に莫大(ばくだい)な資金援助をする豪快な女性として描かれている。嬉野市は「お慶と竜馬とうれしの茶(仮題)」のパネル展を計画、茶業を振興し、嬉野を育てた業績を伝える。
 慶は1828年に長崎油屋町の商家に生まれた。53年に出島在留のオランダ人テキストルを介して嬉野茶の見本をイギリスやアメリカ、アラビアに送り、3年後にイギリス人貿易商オールトから注文を取り付けた。嬉野町史にも、嬉野や八女、人吉など九州各地から1万斤(6トン)もの茶を集めて輸出したと記述されている。
 「龍馬伝」の原作・司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」に登場するお慶は、商才と行動力に富んだ豪快な人物として描かれている。お慶の傍らにいる人物に大隈重信や松方正義、後の外務大臣・陸奥宗光ら明治政府の要人が名を連ねる。竜馬もお慶から資金提供を受けて大船を購入したり、綿の転売で得た利益を折半するビジネスパートナーとして付き合う場面がある。
 「稀代(きだい)の才女だが、稀代の男食い」(原文まま)という記述もあるが、慶の子孫の竹谷浩和さん(49)=長崎市=は「日本初のキャリアウーマンだったので、あらぬうわさも立てられたのではないか」と少し複雑な思いを語りながら「ドラマ放映が、彼女の業績を多くの人に正しく理解されるきっかけになればいい」と話す。
 「お慶がいなかったら今の嬉野はない。だが、地元でも語られてこなかった」。嬉野市で茶業を営む三根俊一さんは、慶を研究しながら嬉野とのかかわりを明らかにしたいと願っている。「北九州一円の農家に茶園増殖を呼びかけ茶の輸出に努力」と嬉野町史にあり、嬉野茶の発展に功績を残したことをたたえる。
 史実の慶の晩年は、巨額の詐欺事件に遭うなど不遇な面もあった。ただ負債は完済し、明治政府が「茶の輸出功労者」として表彰している。
 嬉野市は近く、市内中心地でお慶と「うれしの茶」、竜馬を結びつけるパネル展示を企画。資料提供を呼び掛けている。地域から幕末の歴史ロマンをひもとく取り組みが始まっている。

【写真上】大浦慶の肖像(竹谷家伝)
【写真下】大浦慶の生家跡。商店街の中に位置しており、今はカラオケボックスとなり石碑のみが残っている=長崎市油屋町


大隈重信 ケータイ演説
 「帝国議会は解散されました。今、全国は選挙の競争が盛んにおこっておるとみております」。佐賀市出身で総理大臣を務めた大隈重信(1838~1922)の演説を携帯電話iPhone専用のソフト「セカイカメラ」で聞けるサービスを、同市が20日から始める。大隈記念館(同市水ケ江2丁目)周辺でソフトを起動すると、重信公の写真が携帯電話の画面に映し出され、肉声が流れる趣向だ。
 1915(大正4)年、帝国議会選挙の地方遊説の際に行った「憲政に於(お)ける輿論(よ・ろん)の勢力」と題する約20分間の演説では、帝国議会の運営には世の中の声が必要で、声を届けるために選挙に行くべきだと主張。政治を大きく動かすのは世論だと訴えている。演説の原盤は重信公の創設した早稲田大が保管していた。
 今回のサービスでは、セカイカメラを大隈記念館の半径約300メートル以内で起動すると、重信公の静止画が現れ、冒頭の25秒の演説を聞くことができるという。
 企画した市観光振興課は「政権交代もあり、幕末をテーマにしたNHK大河ドラマ『龍馬伝』や明治維新が注目される時代。重信公の演説も世直しを訴える内容なので、流れに乗りたい」



長崎
龍馬本が百花繚乱! 長崎市内各書店がフェア展開
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」放映に合わせて、主な舞台となる長崎市内の書店では坂本龍馬フェアを展開。店内の一角に「日本の夜明けを疾駆した快男児」などと大書した横断幕やポスターを掲示、龍馬や幕末関連書籍をそろえて歴史ファンを呼び込んでいる。
 各店の特設コーナーには小説や伝記、史跡ガイド、人生啓発本などさまざまな切り口の関連書が百花繚乱(りょうらん)。既存の歴史書棚や地元出版コーナーも龍馬本が目立つ。先日は、長崎新聞の連載をまとめた「龍馬と弥太郎 長崎風雲録」も平積みされた。メトロ書店本店(同市尾上町)はドラマで龍馬役の福山雅治さん関連書籍の販売にも力を入れ、「この方あっての龍馬人気ですから」と相乗効果を狙う。児童書の棚も読本や劇画の龍馬が躍り、ジグソーパズルなどグッズもそろえた書店もある。
 紀伊國屋書店長崎店(元船町)の話では、龍馬フェアの盛況ぶりは他の龍馬ゆかりの地、高知や京都では見られない現象らしい。「もともと龍馬はファンがいて確実に売れていた。今回のブームはそれに輪を掛けた」と言う。好文堂書店本店(浜町)は、先月15日から直木賞のベストセラー本の売り出しに力を入れたが、今月8日まで約80冊の売れ行き。一方、同じ期間に販売した龍馬関連本は約200冊だったという。同店の担当者は「フェアは通常1、2カ月だが、大河ドラマはまだ1年もある。ドラマ放映と併せて売れ行きも持続させたい」と意気込む。
 各店とも、ドラマガイド主体だった「篤姫」「天地人」の数倍の売れ行き。人気は雑誌の特別編やムック系で、大河放映を前にした昨年後半からは「龍馬伝」ガイドと「岩崎弥太郎」本の動きが活発になったという。
 出版点数3けたともされる龍馬本だが、玉石混交ともいわれる。ある歴史研究者は「本選びに水先案内が欲しい」「膨大な書籍の刊行が長崎の歴史研究に成果をもたらしたかどうか、後の検証が必要」と慎重な目でブームを見ていた。だが、龍馬本の盛況ぶりは、市民が郷土史に関心を深めるきっかけになったことは間違いない。



エンターテインメント
ファンイベント大盛況!「新撰組PEACEMAKER」紹介動画-MBS
 14日、毎日放送製作の深夜ドラマ「新撰組 PEACEMAKER」のファンミーティングがお台場で行われ、盛況のうちに幕を閉じた。「新撰組 PEACEMAKER」は人気コミック原作の新撰組がテーマのドラマで、初回放送時の視聴率は高くなかったものの、回を進めるごとに視聴率を上げている。
 この日はワタナベエンターテイメントの若手俳優集団「D-BOYS」から吉田稔麿役の荒木宏文(26)と沖田総司役の柳下大(やなぎした とも=21)、更にドラマ主題歌を担当する「+Plus」の4人が登場した。同ドラマは名子役として名高い須賀健太(15)の初主演ドラマであると同時に、脇役をイケメン揃いで固めている事もあって若い女性からの注目度が高いドラマになっている。
 ファンミーティングは600席を用意してあったが、バレンタインデーという事もあってチケットは即日完売、会場の大半は女性たちで埋め尽くされた。トークでは撮影現場の裏話などが披露され、新撰組のトレードマークである陣羽織と袴の下にはじじシャツに肌色ももひきをつけた上でカイロを装着という状態だった事を明かし、会場は大いに盛り上がった。
 「新撰組 PEACEMAKER」は、数ある新撰組を取り上げた作品の中でも、弱冠14歳で入隊した市村鉄之助を主人公としている点で従来の作品とは視点が異なり、独自の切り口とキャラクター設定の奇抜さが評判となっている。
 ドラマ化に当たって、MBSでは公式サイト内に「『新撰組 PEACEMAKER』の世界を紹介するスペシャルムービー」コンテンツを配置し、ドラマ開始前に製作されたスペシャル番組を丸ごと配信している。内容はキャスト紹介やメイキング映像などを盛り込み、世界観をわかりやすく解説することで途中から見始める視聴者の手助けにもなっている。「歴女」という言葉が流行語となり、日本史の中でも特に人気の高い幕末モノである上に個性的な男性の集団という事で、昔から新撰組は白虎隊と並んで女子ファンの多いテーマである。
 俳優陣もイベントに出席したD-BOYの二人を始め、男性アイドルユニット「FLAME」から伊﨑右典(25)、「新選組リアン」から榊原徹士(20)、よしもと所属のパフォーマンスグループ「RUN&GUN」から上山竜司(23)といったように旬の若手イケメン芸能人を一堂に集めているのが魅力だ。
全10話で今週は第5話放送となっており、まだまだこれからの盛り上がりが期待出来る。チェックしていなかった方は、スペシャル動画で予習してから本編を楽しもう。
 「新撰組 PEACEMAKER」の放送は、MBSでは毎週金曜日深夜、TBSは毎週水曜日深夜。スペシャルムービーは毎日放送による「新撰組 PEACEMAKER」公式サイト内で視聴出来る。


IT
Bbmf、Yahoo!ケータイ向けに新作『お宝コレクター伝説』と『天晴!幕末大富豪』2月17日配信
ビービーエムエフは、Yahoo!ケータイ用ゲームサイト「ゲーモバ」にて、2月17日に2本の新作を追加配信することを発表しました。
今回追加される作品は、『お宝コレクター伝説』と『天晴!幕末大富豪』の2本です。
『お宝コレクター伝説』は、恋人のすみれと結婚するため、30日で一人前のコレクターを目指す泰造の物語です。ネットオークションやリサイクルショップ、ゴミ屋敷などから価値のありそうな物を入手し、転売することで財産を築いていきましょう。

■ストーリー
コレクターとして一人前になったら結婚しようと約束して1年。しかし日々の忙しさもあり、コレクターとしてはまだまだ半人前のサラリーマン・泰造は、30日後に転勤で遠くへ赴任する事になってしまった!
つきあって3年になる恋人「すみれ」に一緒に田舎へ行ってもらうよう泣きついたが、あえなく断られてしまい、残された30日間で最強のコレクターになることを堅く決意するのであった…。
ゲームの進行につれ、登場した女性と親しくなるチャンスも!? コレクターとしての腕を磨きながら、多方面の「目利き」スキルを身につけましょう。
『天晴!幕末大富豪』は、幕末の志士たちとなって大富豪をプレイするゲームです。2種類用意されたプレイモードで、大富豪を存分に楽しんでください。
大富豪にすごろくの要素を取り入れた「幕末モード」は、鳥羽伏見からスタートして、どのプレイヤーが最初にゴールの函館に到着するかを競うモードです。大富豪に勝利することで場所移動することができ、成績がよければ多く進めます。止まったマスによっては、選択したキャラのパートナーが登場するイベントや、次の試合でのルールが変更されてしまうので、変化のある対戦が楽しめそうです。
坂本龍馬、西郷隆盛、近藤勇、篤姫の4人からキャラを選べ、キャラごとにエンディングは異なります。
また、ルールをカスタマイズしてプレイできる「フリーモード」も搭載。「いつもの」ルールを設定して、楽しめる親切設計です。
どちらの作品も3G端末に対応し、情報料は1ダウンロードあたり315円(税込)となります。
アクセス方法:Yahoo!ケータイ!→メニューリスト→ケータイゲーム→ゲームパック→ゲーモバ







 八王子千人同心関係の読み物、連続して3冊目です。著者は法政大学で日本史の博士号を取り、2002年初版発行当時は國學院大学兼任講師。
 標記の本は、既読2冊(末尾に関連記事としてリンク)の著者「村上直先生の慫慂(注・他の人が勧めてそうするように仕向けること)によって成ったものである」ということなので、師弟関係でしょうか。



 以下、例によって、引用と感想の混じった独り言っぽい読書メモ。

・八王子千人同心の設置の目的と経緯について
 慶長五年(1600)、徳川家康と石田三成の間に勃発した関ヶ原の戦いには、小人頭は500人の増員を受けて出陣した。この時から同心が1000人になったわけで、以下では小人頭を千人頭ということにする。江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』は、このことを以下のように伝えている。
江戸にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて新に五百人ばかりめしかかへられ。小禄の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武蔵と甲斐の境界なれば、もし事あらんときには。かれらに小仏口を拒しめ給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡内に往来し。絹帛の類をはじめ彼国の産物を中買し。江戸に持出売ひさぐをもて常の業とせしめしとなり

 ここで触れられている「御長柄もつ御中間」というのが千人同心のことである。江戸時代の中間といえば、草履取などの卑職を務める非戦闘員の姿が思い浮かぶが、戦国時代から江戸時代初期の中間はそうではない。中間とは、長柄という槍をもち、武士の戦闘を助ける戦闘補助員だった。両刀を差していたが、鉄砲・槍をもつ足軽よりワンランク下で、苗字も名乗れなかったようである。要するに江戸時代初期の中間は武士ではなく、戦闘に参加する武家奉公人といえる。先に触れた千人頭の由緒書では、このときの召し抱えのことを村々に離散していた「諸浪人」を「又候」召し抱えたと表現している。戦国大名に仕えていた者が主家の滅亡により農村に散在していたのである。千人同心はそのような人物を召し抱えることによって成立した。

 村上直氏の著書2冊を読んでいるので、ここは素直に読んだ……のだが(汗)。
(中略)千人同心は八王子に置かれたのだろうか。通説では関東と甲州の境である甲州街道の小仏峠を守り、外敵の江戸への侵入を食い止めるため千人同心が必要だったとされている。これは前掲の『徳川実紀』でも述べられている古くからの説である。本当だろうか。

 ……えっ、1ページ半も通説で説明しておいて、ここから新説ですかっ(滝汗)。
 徳川氏が関東に入部した直後の知行割を見てみよう。軍事力が大きい譜代大名は北関東に置かれた。上野国箕輪に井伊直政12万石、同館林藩に榊原康政10万石、下総国結城に結城秀康10万1000石等々。伊達政宗ら後背常ならぬ東北大名が仮想的だったわけである。つま北が主戦線であり、甲斐や東北地方には徳川家と同じく豊臣家に臣従している大名が配置されているのだから、南西方面の軍事的意味は低い。こんなところから開沼正は先の論文で小仏峠の防衛という理由は、甲州街道が未発達だったこともあって、江戸時代初期にはありえなかったと主張している。妥当である。では千人同心が八王子に設置された理由はどこにあったのか。
 それは八王子の政治的位置にある。江戸幕府代官頭大久保長安は八王子の小門に陣屋に構え、長安配下の代官たちの陣屋もその周辺に配置された。長安配下の代官たちがいわゆる八王子十八代官で、長安と同じく武田家家臣がほとんどを占めている。八王子は広域幕領支配の拠点だったのである。江戸時代中後期には代官陣屋は武力を持たないのが特徴だが、初期には違う。初期には惣無事令がまだ貫徹しておらず、争論にも暴力沙汰がつきものだった。代官陣屋の防衛のためにも、代官行政上の必要のためにもある程度の武力が必要だったろう。そのためには治安を乱しそうな八王子周辺の元戦国大名に仕えていた「失業者」を召し抱えれば一石二鳥である。こう考えれば先の由緒書と整合性が出てくる。
 成立期の千人組は幕府直属軍の構成員であることが一義的意味であり、二次的な意味として政治的拠点であった八王子の警衛という役割を果たしていた。この時期の千人同心を後世のイメージから八王子の地域的特質からのみ位置づけるのは間違っている。しかし、三代将軍家光の死とともに幕府直属軍の一員として行動することはなくなり、千人組は八王子に根ざしていく。

 うーん、ちょっと違和感があるなぁ。徳川家康が江戸に幕府を開いた当時、最大の仮想敵が伊達政宗であるのはわかります。でも、江戸の西側を防御する必要はないとは言い切れないでしょう……距離的には離れてますが、同じく仮想敵の毛利家・島津家は西にあったのだから。
 大久保長安が甲州街道と八王子を整備し直し(北条氏の城があった滝山城の城下は、以来、元八王子となる)たり、初期の日野宿などを整えたのは、北から伊達政宗が攻めてきた時に逃げられる街道でもあり、西国大名から江戸を守るための前線基地……と説明される方が、自分には素直にうなずけるなぁ。歴史学も兵学も専門的に習っていない、素人感覚の感想でしかないのだけど。
 旧武田家家臣を召し抱えれば一石二鳥という点は理解できるのだが(八王子には、武田信玄の四女・松姫が尼となって信松院に住み、旧武田遺臣の心のよりどころになっていたとか)。

・「百姓化」そして「百姓の抵抗としての武士意識」
 自分が最初に読んだ八王子千人同心に関連する記事が童門冬二さんの土方歳三架空インタビュー(爆)で、その中で八王子千人同心が江戸幕府の身分体制整備を通じても半士半農という身分で幕末まで生き延びた特殊性を強調したせいもあり、八王子千人同心が次第に「百姓化」したという表現になじめなかった。
 多摩の外から移封された武田・北条の旧臣たちが土着した、というのなら、わかる。でも、もともと、鎌倉以来の関東の地侍は武士であり百姓でもあった(豪農ではあったろうけど)という感覚が自分にあるので、「百姓化」という表現には違和感があるんだよなぁ……。
 そしてまた一方で、武士志向というか、身分の二重性ゆえ、よりステータスのある武士として遇されることを目指し、江戸時代を通じていろいろと起こった争議を「百姓の抵抗としての武士意識」ととらえるのも、自分には、ちょっと違和感なんだよなぁ……。時代が下るにつれて、貨幣経済や商品経済が進んで没落した千人同心の株を金で買う百姓が出てきて、その新興千人同心たちが武士としてのステータスを求めていろいろ争議を起こしたという流れは、すごくリアルだし、わかりやすいんだけど。
 江戸時代の初期から兵農分離が完成していたわけじゃないし、まして関東は鎌倉武士以来の伝統ある(笑)騎馬武者であってしかも土地持ち百姓、耕す土地があるからこそ自分たちの土地は自分たちで守るという自治意識が高い層が、一部は八王子千人同心となり、他の一部は多摩の名主・豪農層を形成し、という方が、自分にはすっきりするんだけどなぁ……。
 そして、江戸時代を通じて保たれた、千人同心の半士半農という二重性が、徳川幕府の崩壊という時代にあって先鋭化した、という方が、しっくり来るんだよなぁ。その先鋭化のひとつが、新選組であった、と、つながる方が。

・多摩の女性たちの知られざる活躍
 佐藤文明さん講演会で伺った、多摩出身の女性が江戸城の大奥や薩摩藩の奥向きで活躍したという話。この書にもう少し詳しく書かれていた。
 多摩郡上平井村(現東京都日の出町)で同心株を買った野口家の娘「とら」は江戸城大奥で徳川家祥(第13代将軍家定)に仕えた使番「藤波」。身分は御家人で御目見ではないが、対外的な折衝を行った重要な役職だ。
 また多摩郡宮下村(現八王子市)の旗本川村家知行所の名主荻島家の娘「まさ」は薩摩藩下屋敷の奥向きに「喜尾」という名で務め、同じ多摩出身で大奥に勤めていた藤波と積極的に遣り取りして情報を収集していたという(佐藤氏の講演会では、江戸城開城の時に奥向き間での遣り取りをしたのは、このふたりだったと説明された)。
 多摩の名主・富裕層がただの百姓ではないこと、その層の女性が大奥や大藩の奥向きで活躍できる教育や教養を身につけていることを感じさせる。

・試衛館道場の門人たち
 「戦争と身分制の終焉」という章で、新選組について、特に八王子千人同心との関係について述べているのだが、特に試衛館の門人たちについて興味深い記述があった。
 さらに武士や武家奉公人も挙げられる。武士といっても浪人や下級武士である。後に新選組に参加した近藤芳助は、試衛館近くに居住していた「幕府ノ小臣者」で、試衛館の稽古にも参加したという。また試衛館のような「諸藩士幕臣」へ剣術を教授する撃剣道場は多くあり、「浪人道場」といったとも記されている。勇の門人のなかには「先手組」や「根来組」などの幕府鉄砲組の者もいたので、小給の幕臣は多くいただろう。前節では旗本の家臣や陪臣・浪人・百姓が一つのグループになって共同の目的のために行動する事例を見たが、近藤勇を支えた基盤も江戸の下級武士や武家奉公人、浪人、多摩地方周辺の千人同心・百姓などである。

 創作ものの影響もあって「百姓剣法」とか「芋道場」とかのイメージが強い天然理心流宗家試衛館だが、江戸の下級武士や武家奉公人や浪人という門人層があったことも、もう一度思いおこす必要がある。思い起こせば、近藤勇の妻「つね」も一橋家の家臣の娘という陪臣の出だったなぁ。そして、門人の沖田総司(八王子千人同心頭の井上源五郎の親戚筋だったわけだが、小藩の家臣である沖田家の長男ということで陪臣の出身だ)、松山藩の中間若党の出身だったと伝わる原田左之助、さらには武家出身だと伝わるが様々な理由で浪人になっている永倉新八・藤堂平助・山南敬助・斎藤一たちとの交流はまさしく、下級武士とか武家奉公人とか浪人。
 近藤勇の養父である、天然理心流三代目の近藤周助は、先代の近藤三助が亡くなった時に数え29歳。実力も人脈もあった兄弟子たちに多摩から相模にかけての先代の門下生たちの人脈を押さえられ(その中には八王子千人同心たちもいた)、多摩の名主・豪農層に新たな門人を開拓していった。道場を江戸に開いた理由は歴史的にはあまり検証されていないように思うが、結果的には、江戸で下級幕臣や陪臣、武家奉公人や浪人といった層の門下生を得た。この辺りは、新選組の歴史を語る時に多摩の天然理心流の流れにある近藤勇・土方歳三・井上源三郎・沖田総司を中心に見てしまうと軽視しがちではあるのだけど、改めて意識したい。


関連記事:
『江戸幕府八王子千人同心 増補改訂版』村上直 編(雄山閣)
『千人のさむらいたち ~八王子千人同心~』村上直(八王子市郷土資料館)





 八王子郷土資料館に特別展示を見に行った時に購入。

八王子郷土資料館 図書の販売
ブックレット『千人のさむらいたち~八王子千人同心~』監修 村上直(八王子郷土資料館)
千人同心は、八王子を本拠地とした江戸幕府の家臣団です。
その成り立ちから解体までを簡潔に記述した千人同心の概説書です。
難解な用語には頭注をつけ、写真や図表も多く盛り込んで読みやすくなっています。

A5版・126ページ・口絵カラー
価格1000円


 先日読んだ『江戸幕府八王子千人同心』に比べてコンパクト、口語体で書かれていてわかりやすく、八王子千人同心の概要や通史を知る目的ならこちらのブックレットで十分。

 以下、『江戸幕府八王子千人同心』読書メモの補完も兼ねた読書メモ。

・八王子千人同心の身分や職務について、補完
 千人同心は、10人の頭に1000人の同心という形態になってわけであるが、恒常的に幕臣としての地位を有していたのは頭だけであって、組頭以下の同心たちは、任務に就くときだけ武士としての身分が与えられた。

 「千人」同心とはいえ、同心の実数は500人に及ばないくらい。また、頭も創設時は9人、時代の変遷とともに改易・絶家や分家など数は前後して、幕末には9人だった。
 千人頭たちはいわば常雇い。
 幕臣として知行地を与えられていた千人頭たちに隊士、一般の同心たちは八王子周辺の村に居住して、ある特定の時期だけ同心としての役割を担っていた。

 同心たちは、公務に就く時だけ武士身分として扱われた。
 ……ふっと、新選組の組織のつくり方について、千人同心と比較すると多くの共通点が見出されるのではないかと思った。直感的には、禁門の変に出動した時の組織編成が千人同心の公務の組織編成に近いという気がする。

・八王子千人同心の蝦夷移住
 前回の読書メモには特記しなかったが、寛政年間、ロシアの南下政策を意識して幕府直轄地となった蝦夷地に、まさしく屯田兵(リンク先はwikipedia)の先駆けのような形で、八王子千人同心の一部とその家族が勇払(現・苫小牧市、リンク先は苫小牧市「八王子千人同心顕彰碑」紹介)・白糠(現・北海道白糠町、リンク先は白糠町「八王子千人同心頭 原半左衛門」紹介)に入植した。
 約4年の開拓は厳しい自然との闘いの連続だった。文化元年(1804)年3月の段階で、蝦夷地に渡った130人のうち、死者は移住者全体の4分の1に達する32人。その主な原因は野菜不足による壊血病・浮腫、次が寒さによるもの。
 残留者のうち26人は白糠に残ったが、一部は箱館や鵡川などに転居、19人は帰国……と、挫折といっていい。
 しかし安政年間にも八王子千人同心の一部家族が蝦夷地に移住し、うち、箱館近郊の七重村に移住した者たちは養蚕・織物で一定の成功をみた。
 こうして蝦夷地に残った八王子千人同心の子孫たちの一部は、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が蝦夷地を占領した時、抵抗・スパイ活動をしたり、新政府軍に編成されたりしている。つまり、多摩出身で旧幕府脱走軍の土方さんや中島登さんと敵対し、戦った……歴史の皮肉だなぁ。

・松本斗機蔵 補足
 最上徳内と交流する前に、そもそもなぜ蝦夷地に関心があったのか、だが。
 寛政12年(1800)には、千人頭原半左衛門が同心の子弟100名を率い、開拓と防衛の任を帯びて蝦夷地に渡っています。同時に、江戸霊巌島に、実務を担当する蝦夷地御用江戸掛として組頭五人が置かれ、斗機蔵の父胤保も文化2年(1805)までの6年間勤めました。この時期早くも斗機蔵は、蝦夷地の諸情報を身近に受け取る環境にあったと思われます。

 なるほど。
 前回「浦賀奉行として赴任するはずだった」と書いたけど、訂正。
 天保12年、斗機蔵は浦賀奉行の与力として赴任直前、9月19日病没しました。

 中島三郎助さんと同輩になる予定だったのね。

・品川台場と多摩八王子
 坦庵公こと江川英龍様が築造した品川台場に、ちょこっと関係。
 台場は11基計画され、そのうち第5、第6番台場の松丸太9900本の切り出しが多摩郡鑓水村《やりみずむら》(現・八王子鑓水)に命じられた。現在東京都史跡公園として保存されている(お台場)。第6番台場の土台には、今も鑓水村から切り出された松丸太が、海底で台場を支えている。

 第六台場は立ち入り禁止で野鳥のパラダイスになっているのだが、その海底で支えているのね。

・八王子千人同心と洋式軍隊化
 ここで、多摩を含む広い天領を預かっていた江川家の「江川塾」が出てこないはずがないと思っていたが……ビンゴ!
 (中略)千人同心が近代化された軍隊への一歩を歩み始めるのは、安政2年(1855)、老中阿部正弘から西洋銃の修行を命じられてからのことである。その命を受け、幕臣家臣団が正式に発足する前の芝新銭座(芝新銭座大小砲修練場)に入門していった。安政2年9月の従士組《かちぐみ》の入門を皮切りに、小十人《こじゅうにん》組、小姓組、書院番などがつぎつぎに入門し、千人同心も安政3年(1856)3月、各組から一人ずつ選ばれた組頭9名が新銭座の門をたたいた。6月まで、一通りの訓練を受け、帰郷している。帰郷するとこの9名を教示型手伝いとし、9組から同心42名が選ばれ高嶋流砲術が調練された。

 芝新銭座の修練場とは、安政2年に江川英龍が病没して直後、代官職と太郎左衛門を引き継いだ江川英敏が幕府から拝領した土地に開いた西洋式砲術の調練場(別名「縄武館」)。この調練場を実質的に切り盛りしていたのは、代官手代の柏木総蔵(柏木忠俊、明治維新後に足柄県令)だったといわれている。
 ちなみに成績。
 千人同心の新銭座への入門者の中で、免許皆伝まで至った者は3名であることから、入門期間の制限など考慮しなければならない条件もあるかと思われるが、洋式銃の訓練はかなり苛酷であったと予想される。ちなみに、千人同心と同時期に新銭座へ入門した他の幕臣たちの場合をみてみると、小十人組230人中、最初に伝授される目録以上に達したものは53名で、その割合は四分の一、従士組に至っては10分の1という成績であった。これらの数字をみる限りにおいては、千人同心の習得ぶりは江戸の幕臣をも凌ぐものであった。そのような状況中で、千人頭の河野仲次郎の成績は抜きん出たもので、着発弾の伝授を受けている。この着発弾の伝授は免許皆伝の者にのみ許された高度なもので、当時の砲術に関する最高の知識と技術を修得していたといわれている。

 後の日野農兵隊が誰から調練を受けていたかが気になっていたのだが……八王子千人同心の子弟が江川塾で洋式軍隊の調練を受けていたことは、関係あるんじゃないかな?

・第二次長州征討に参加した八王子千人同心
 帰国時に温泉や名所旧跡をまわったという記述を読んで、「うーん、この時の幕府軍の為体《ていたらく》とシンクロしてる(汗)」と思っていたのだが……やはり近代戦の走りだけあって、戦線に立たされた者には苛酷だったようだ(ごめんなさいm(__)m)。
 頭4名、同心400名に目付支配に組み込まれた旗指方の同心32名を加えると総勢436名の出張であった。

 で……。
 しかし、その代償として砲術方79名にも及ぶ「従軍中に病死または病気療養中による国元送還などによって4人に1人が戦線を離脱」(『同心史』)していった事実が伝えられる。「武」の代償は余りにも大きなものであった。
 こうした長州征討の間においても八王子に残った千人同心たちは休む間もなく役務をこなしている。定番である日光勤番、武州一揆への対応、第二次横浜警衛など、幕府の威信回復への道程の中でその歩みを進めていた。しかし歴史の潮流は皮肉にも幕府の崩壊へと突き進んでいくのである。

 八王子千人同心と新選組は、歴史の表舞台に立ったら途端に幕府の崩壊に直面したという意味で、やはりシンクロしているなぁ……。





 関心の深いところ以外はざっと斜め読み・流し読みですが、なかなか収穫がありました。
 坦庵公こと江川英龍と土方歳三・新選組に関心を持つ白牡丹にとって、多摩という土地固有の歴史が幕末・明治維新(ちゅーか幕府瓦解^_^;)とどう相互に関連し合っているかという点は、見過ごせないですし。



 いくつか興味を引かれた点について、メモ書き。

・八王子千人同心出身にして蘭学者、松本斗機蔵(リンク先はwikipedia)
松本 斗機蔵(まつもと ときぞう、1795年(寛政5年)-1841年10月26日(天保12年9月12日))は儒学者。八王子千人同心組頭。三十表一人扶持。
 同じ千人同心組頭で「桑都日記」を著した塩野適斎に学び漢学を修め、湯島の昌平黌に学んだ。下総千葉氏の出といい、千人同心組頭の松本家の養子となった。渡辺崋山・高野長英・伊豆韮山代官江川英龍など蘭学者と親交があり、探検家最上徳内や地理学者高橋景保とも通じ、水戸藩の藤田東湖とも接点を有するなど、開明派の一人であった。
 1837年(天保8年)末、「献斤微衷(けんきんびちゅう)」を著し、水戸・徳川斉昭に献上、その後、幕府に「上書」を提出した。斗機蔵は、これらの著述の中で、鎖国政策を見直し、貿易を振興し、海防の充実を図るべきこと、外国船打払令が無謀なこと、そして穏便な交渉が必要であると建言した。1841年(天保12年)、斗機蔵は幕府に才能を評価され、浦賀奉行に任命されたが、赴任しないまま同年病没した。八王子市千人町の宗格院に墓がある。

 Wikipediaが要領よくまとめてくれているのでそのまま引用^_^;。『風雲児たち』第15巻(リイド社)で尚歯会が紹介された時に、小関三英を紹介した後に「とまぁこれくらいの人物が尚歯会にははいて捨てるほどおったわけで……」と省略されてしまった中に入るであろう人物のひとり、だろう(汗)。
 でも『風雲児たち』の読者なら、おおっと思うはず。何しろ、最上徳内(田沼時代に蝦夷地~千島列島を探検)・高橋景保(シーボルト事件で投獄された暦学者)と交流があり、渡辺崋山・高野長英・伊豆韮山代官江川英龍(ちなみに、この本では、英龍様の盟友・斎藤弥九郎とも親交があったようだ)など蘭学者や水戸藩ブレーンの藤田東湖と親交があり、水戸・徳川斉昭公に外交政策について意見書を建策したって……『風雲児たち』に登場したっておかしくないではないですか(苦笑)。
 しかも病没しなかったら浦賀奉行に赴任していたはずとなったら……も少し長生きしていたら、浦賀奉行所与力の中島三郎助とも親交を結んでいたかも知れない。
 この書によれば、モリソン号事件に対する松本の意見は、渡辺崋山・高野長英の意見と比べても遜色ないどころか、「現実の対応策においてきわめて説得的」だったそうだ。その背景には、西洋事情や蝦夷地はじめ対外関係に関する重要な書物を持っていたり、詳細な日本地図を持っていたり……その上に幕府の支配下にあるのでかなり最新の情報を得ていたことがあるようだ。
 先日の佐藤文明氏の講演会でも紹介されていたのだが、改めて、松本斗機蔵についてもう少し知りたくなった。

・八王子千人同心あれこれ

 八王子千人同心そのものは幕府直轄で鑓奉行の配下にある。御家人待遇だが半農半士で普段は農耕に従事しているために扶持米も少なく、また旗本・御家人全体がそうであったように、江戸時代全体を通じて貨幣経済・消費経済が発達してくると経済的に没落する者も多く、千人同心株を売ったりすることも多かったようだ。

 多摩の天領は旗本や代官の統括下にあったが、八王子千人同心そのものは幕府の直接支配下にあるので、関係はやや複雑。つまり、千人同心として出動がかかった時には幕府鑓奉行の配下になるのだが、公務の時以外は農民として処遇され、たとえば代官地の住民であれば代官の支配下にあった。しかし普通の農民ではないという矜持も強く、「五人組帳」や「宗門人別帳」に苗字記載をするか否かを巡って訴訟が起こったり、半農半士という例外的な身分やアイデンティティゆえの特別な事情があったようだ。
 巻末の年表を見たら「天保9年(1838)12月、代官江川坦庵、八王子千人同心の絹布着用を禁じ紛糾する」との一行があり、目を見張った。坦庵ファンでいくつか評伝を読んだけど、このエピソードは初めて知った。しかも、坦庵公の人柄、八王子千人同心の複雑なアイデンティティからして、興味深い。
 坦庵公は地方代官ではあるけど知行地が生涯最大で10万石以上(でも地方代官だったので代官としての石高は確か800石^_^;……もちろん、老中の直接支配下に入ってからは別途役付手当があったはず)を治める大・代官だったけど、公務の時に着る礼服以外はツギのあたった綿の着物で過ごし、衣食住すべてにわたって質素倹約を旨とした人だった(ただし、マリナー号事件でイギリス船と直接談判しなければならなかった時には派手で豪華な着物を着用して交渉役としての威儀を保った)。だから、天保改革の幕府方針に従って、八王子千人同心にも質素倹約を求めたのだろう。
 しかし、半農半士という身分とはいえ、あるいはその身分ゆえ、並の農民と同列に扱われたくない八王子千人同心、武士の特権のひとつである絹着用を禁じるというお触れに、反発したのではあるまいか。歴史の複雑な多摩領についてはなるべく自治に任せたと今まで聞いていた江川代官さまだけど、この一件ではちょっと痛い目を見たようだ。

 甲府で近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が薩長土肥などの東征軍に敗れた後、八王子千人同心はどうしたか。
 日光勤番についていた八王子千人同心頭石坂弥次右衛門は、日光を戦火から守るために東征軍に日光を引き渡した(その時に勤番についていた千人同心のひとりが土方さんの幼なじみ。東征軍と戦った土方さんは、敵前逃亡しかけた従者を斬ったが、戦闘直後に斬った従者を憐れんで日光の近くに弔うように幼なじみに依頼した。ちなみに日光には、任務途中で病死などで亡くなった八王子千人同心関係者の墓地があるらしい)。その石坂弥次右衛門は、切腹した。
 東征軍が甲府から八王子に入ってきた時、八王子千人同心の組織としては恭順した。江戸開城以降、強い姿勢を示した新政府に、八王子千人同心たちは大きく3つに分かれた。
 一番多かったのは、その地にとどまって農民になること。
 恭順をよしとせず、彰義隊に加わった者もいたようだ。彰義隊壊滅以降は、それに先だって甲府で敗れた甲陽鎮撫隊に協力した日野名主の佐藤彦五郎一家が親戚たちに匿ってもらったように、あちこちに潜伏したらしい。
 そして一部は、新政府の警察組織として八王子周辺の警備につき、やがて神奈川県警の一部になった(この地域が神奈川県知事の統括地とされたため)。
 
・新選組と八王子千人同心、そして……
 谷春雄氏が一本書いている。すでに何本か読んでいるので、これといった発見はなかったのだが……松本斗機蔵の略歴を読んでいて、やはり佐藤文明氏の見解通り、新選組の前身となった壬生浪士組が、水戸天狗党の流れであった芹澤鴨一派と、近藤勇ら天然理心流門下だったのは偶然ではないような気がしてきた。

 芹澤鴨が学んだ神道無念流の江戸の道場のひとつ、練兵館は斎藤弥九郎が開いたもので、その斎藤弥九郎は江川太郎左衛門英龍の右腕。坦庵公こと江川英龍と斎藤弥九郎は尚歯会と自称した蘭学グループの中心的なメンバーであったけど、水戸の徳川斉昭や藤田東湖とも交流があった。
 浪士組上京の当時、坦庵公はこの世にはいないのだけど、幕府の開いた講武所の教授方にも名を連ねていた斎藤弥九郎、多摩と水戸の両方に人脈があるんだよなぁ……さらにいえば、長州からの留学生も受け容れてるし(汗)。
 まだまだ情報収集中だけど、科学者・技術者的なセンスを持った江川英龍が欧米に対して自国を防衛するにあたって欧米の知識を積極的に取り入れたのに対して、斎藤弥九郎はそれを補佐しつつも思想的にはちょっと攘夷派寄りなのかなぁ、という印象。

☆★☆★

 新選組の幹部だった土方さんや井上源さんは、源さんの実兄である井上松五郎さんが八王子千人同心の一員として上京した折りにいろいろ相談したりして、上京以前から親しかったことが伺える。

 けど、八王子千人同心と多摩の名主・豪農層との関係は、全般にどんなもんだったんだろう。八王子千人同心と幕府の関係、多摩の天領と代官の関係、同じ多摩といっても地域性もあろうし、も少し複雑だったんじゃなかろうか。

☆★☆★

 とりとめのない感想ですが、自分用のメモということでご容赦くださいませ。




 3月30日まで開催ということで、行って来ました。平日でしたのでガラガラでしたが……(苦笑)。



八王子市郷土資料館
特別展『八王子の天然理心流』を開催!
 天然理心流は、江戸時代の寛政年間(18世紀末)に初代近藤内蔵之助長裕によって創始された剣術・柔術・棍法(棒術)・気合術を備えた総合武術です。幕末に活躍した新選組の隊士たちが身につけていた剣術として有名です。
 二代目を継いだ近藤三助は戸吹村(現在の戸吹町)の人でその道場には千人同心をはじめ、八王子周辺の村々から多くの門弟が入門し、増田蔵六や宮岡三八、松崎正作といった師範たちを輩出しています。こうした初代長裕から受け継がれた八王子の天然理心流を取り上げ、地元に残された資料を中心に展示します。


 常設展示をやっている部屋の手前に一部屋あって、そこに特別展が開催されてました。

 特に、近藤周助-近藤勇という試衛館の流れとは別に八王子を中心に天然理心流を広めた増田蔵六を中心とした流れを紹介しています。

 個人的には、浦賀奉行で天然理心流を学んだ中島三郎助さんとの関わりが出てこないかなーと思ったのですが、そこまで遠方の話は出て来なかったです。ただ、『武術英名録』を参考につくられた江戸周辺地域の剣士マップがとても参考になりました。たとえば天然理心流はやはり多摩から相模に拡がっており、たとえば神道無念流は水戸方面に向かって街道筋に伝えられている、ということが。

 また、近藤勇署名の切紙と目録もありました。「慶応二年六月」という署名でしたが、京都で署名して送ったんでしょうかね?

 立派な目録も販売されていました。私は八王子千人同心の資料の方が気になって、そちらを買ってしまったんですが……^_^;。
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