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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
シネマ歌舞伎 東海道中膝栗毛

 今年の新作シネマ歌舞伎の一本なので見てきました。

 うーん、『大江戸リビングデッド』を飛行機内で見た時もそう思ったけど、時事性のあるネタってライブで芝居小屋で見る分にはいいけど、シネマ歌舞伎化されると笑えないかも。。

 特に、この作品は途中で挿入される環境DVDみたいな風景画とか、役者紹介のアニメ絵っぽい処理とか、私のセンスには合わなかった。

 主役だけでなく脇役にもいい役者さん使っているのに、今さらドリフのコントみたいな寸劇見せられても私なんかは笑えない。何か惜しい……。
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七世尾上梅幸二十三回忌
十七世市村羽左衛門十七回忌 で
坂東彦三郎改め坂東楽善
坂東亀三郎改め坂東彦三郎
坂東亀寿改め坂東亀蔵
坂東亀三郎初舞台 の夜の部

大向こうの掛け声の「音羽屋」率が9割以上。。まあ、目出度いのでよろしいのではないと。

一、壽曽我対面

イヤフォンガイドのおかげでこの様式美にもだいぶ慣れてきました。型どおり演じることが大事。
舞台終盤はお披露目のご挨拶に。楽善、彦三郎、亀蔵、亀三郎に菊五郎、時蔵、萬次郎、松也(だったかな? 萬次郎さんが記憶あやふや)。

一、伽羅先代萩

前半は菊之助演じる政岡が中心、後半は海老蔵演じる仁木弾正が中心。
……うーん、去年秋に玉三郎の政岡と吉右衛門の仁木弾正を見てしまったので、やはり雲泥の差と言わざるを得ない。特に仁木弾正は国崩しの存在感とか妖気がないなぁ。

一、弥生の花浅草祭り
亀蔵さんと松緑さん二人で四場踊りきる。
亀蔵さん、松緑さんと息が合った踊りを見せる。神功皇后と粋人がほっそりしてるので似合う。そして最後の石橋には赤白の獅子の毛振りが壮観。特に亀蔵さんは腰から回っているのがよく見えた。


 談春がかけるネタは廓もの特集、かつて観音様の裏っ手に吉原があった時代を偲んで。ただし、「五人廻し」は吉原が舞台だけど、「文違い」は新宿の宿が舞台ですね。

一、一目上がり
 こはるちゃんがなぜか長めの自己紹介。「実は女です」「えーっ」みたいな。
 妹弟子のちはるちゃんが奉公に出ているので今日は自分が前座働きです、というお断り。
 ネタは安定の「一目上がり」。

一、五人廻し
 この会の趣旨を軽く説明した後、ちはるの一件。何と一般の会社に預かってもらっているとのこと。落語家を目指す若者は、体育会系の経験がなく、師匠や先輩からいろいろ言われるタテの関係で叱られることに慣れてない、と、奉公に至った経緯を説明。談春師匠たちが築地の卸問屋で働いたように、かな。
 五人廻しは、五人の登楼客の演じ分けがポイント。鯔背な職人、田舎もの、キザでサドっ気があるインテリ、軍人、お大尽。特にインテリは笑った。

中入り

一、動物園
 上方落語の雲水さん、活き活きとダジャレ満載に。

一、文違い
 談志が文楽のDVDを見ながら、最初はだらーっとしていたのに終盤は正座して最後に拍手、とか。
 新宿宿のお杉が、馴染み客のせいさんには質の悪い義理の父親と縁を切るため、杢兵衛お大尽には病気のおっかさんに朝鮮人参を食べさせるため、多額の金を用立ててもらう。しかし、これは間夫のよしじろうの眼病を治すためで、実はこれはよしじろうが馴染みの女のためにおすぎを騙す手口だったという、入れ子構造。
 先月、渋谷で桃月庵白酒のを聴いていたせいか、久しぶりではないのだけど(しかも白酒の文違いって、ひょっとして談春兄さんから習ってないかという気がする)、やっぱいいなぁ。談春は。
一、芋俵 春風亭きいち

 学生落語? 口は回っているが発声が悪く、上下の切り方が悪い。

一、橋場の雪 柳家三三

 先週、沖縄帰りの飛行機で出会った事件。
 夢の酒も最近聴いた気がするが、どちらかというと夢の酒でおとっつぁんが夢の女に会いに行く後半が聴き所。橋場の雪は後半が盛り上がりが少ないかも。

一、化け物使い 春風亭一之輔

 昨日の夜に三三さん白酒さんと佐世保で会をして呑んで、今日帰ってきたそうで、ちょっとお疲れ。もっと笑える化け物になると思うんだけど……。

一、錦の袈裟 柳家喬太郎

 どうも声質が私の好みでないことがあるんだけど、与太郎の描き方も好きでない。馬鹿だけど愛される気質があって、特に「錦の袈裟」ではしっかり者の女将さんがいる上に吉原で(勘違いがあったとはいえ)町内の若い衆十一人で遊びにいって一人だけ花魁の接待を受けられるわけだから、愛されるところがないといけない。
板東楽膳・彦三郎・亀蔵襲名、眞秀《まほろ》ちゃん初お目見えの昼席。今回は知り合いのつてがあり、1階席3列目という良席。役者さんの姿も表情もよく見え、お芝居としての迫力満点。

 石切梶原は梶原平三を演じる新彦三郎のお目見えの色が強かった。彦三郎を譲った楽膳の大庭三郎、憎まれ役の俣野五郎とのバランスがよく、また六郎太夫の團蔵と梶原の芝居もよかった。右近ちゃんの梢は、ちょっと芝居が過剰気味で浮いていた気がする。菊之助さんの奴菊平、祝い口上を読み込んだ囚人剣菱呑助を演じた松緑さんとお祝いムードも一段。

 吉野山はひたすら海老蔵と菊之助の見た目にうっとりする。

 芝居として面白かったのは、やはり魚屋宗五郞。菊五郎の宗五郞はこの人のニンに合っているし、妾奉公に出した妹が無実なのに不義の咎を受けて斬り殺されたと知って、金比羅様と約した禁酒を破ってどんどん呑んでいく様子がやっぱり巧い。そして、菊五郎劇団といわれるだけあって、おはまの時蔵さんはじめ前半の配役が素晴らしい。寺嶋しのぶさんの息子、眞秀《まほろ》ちゃん四歳で台詞をあそこまでこなすのは凄い。後半は武士たちに精彩がないように感じた。

歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」 好感度満点の新彦三郎
 今年の團菊祭は、七代目尾上梅幸(おのえばいこう)二十三回忌、十七代目市村羽左衛門(うざえもん)十七回忌追善。羽左衛門長男・八代目坂東彦三郎の初代坂東楽善(らくぜん)、その長男・亀三郎の九代目彦三郎、次男・亀寿(かめとし)の三代目坂東亀蔵の襲名披露に加え、新彦三郎の長男(侑汰(ゆうた)、4歳)が六代目亀三郎で初舞台。梅幸のひ孫で尾上菊五郎の孫、菊之助のおい、寺嶋眞秀(まほろ)(4歳)が「魚屋宗五郎」の酒屋丁稚(でっち)役で初お目見得(めみえ)など盛りだくさんの興行となった。

 昼。「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」は、名刀の鑑定を依頼された梶原平三(新彦三郎)が、人間を2人重ねて刀の試し切りをする「二つ胴」や、手水鉢(ちょうずばち)を真っ二つに斬る見せ場で立役冥利(みょうり)の役。家伝といえる十五代目羽左衛門型が久しぶりに出た。手水鉢の背後に立ち、客席正面に向かって刀を振り下ろす豪快さに胸がすく。新彦三郎、生真面目過ぎるが、口跡のよさと潔さ、武士の面目かくやで好感度満点。楽善が大庭(おおば)、亀蔵が俣野(またの)で敵役。尾上松緑(しょうろく)が囚人で、常道の酒尽くしを3人への祝いぜりふに変えた。

 次に市川海老蔵の狐忠信、菊之助の静御前が義太夫で踊る「吉野山」。菊五郎の宗五郎、中村時蔵の女房おはまとしみ込んだ熟成コンビで「魚屋宗五郎」。

 夜。劇中で坂東家三代の襲名口上付きの「壽曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は「御殿」から「刃傷(にんじょう)」まで。菊之助=政岡の艶(つや)、海老蔵=仁木弾正の悪の華、中村梅玉(ばいぎょく)=細川勝元の優麗さ。松緑、亀蔵による「弥生の花浅草祭」で打ち出し。27日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
(評・舞台)歌舞伎座「団菊祭五月大歌舞伎」 菊之助、強さと優しさ
「魚屋宗五郎」の菊五郎の宗五郎は、江戸の魚屋がそこにいるようだ。禁酒を破って最初の一杯を飲むと「いい酒だなあ」と、思わず酒に気をとられて、他のことは一切忘れてしまう。この表情は誰もかなわない。

 リアルで洗練された味わいは菊五郎劇団の芸風である。今月は同劇団の昭和の名優七代目梅幸と十七代目羽左衛門ログイン前の続きの追善公演。菊五郎のもうひとつの演目「対面」の工藤祐経も、自分を敵と狙う曽我兄弟に、傲慢(ごうまん)ではなく鷹揚(おうよう)に接する時、劇団の歴史がそこに結晶している。

 坂東彦三郎が初代楽善を名乗り、長男の亀三郎が九代目彦三郎を、次男の亀寿(かめとし)が三代目亀蔵を襲名した。新彦三郎は「石切(いしきり)梶原」の梶原と「対面」の曽我五郎を演じて、真っすぐに通る癖のないせりふが快い。

 新亀蔵は「弥生の花浅草祭」で、松緑と連れ舞をして、踊りの名手の腕を披露している。

 「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が面白い。菊之助の乳人(めのと)政岡は我が子を惨殺されても、びくともせず若君を守る。魁春(かいしゅん)の栄御前は、政岡が我が子を若君と取りかえていたと思い、悪人一味の連判状を渡す。六代目歌右衛門の政岡は花道付け際に座って栄御前を見送り、勝利の笑みを浮かべた。

 菊之助は笑わず、立って花道七三へ進み、栄御前の後ろ姿をしばらく睨(にら)んでいる。この強い姿から一転して、我が子の亡骸(なきがら)を抱き上げる優しさは、祖父七代目梅幸を思わせる。海老蔵の仁木弾正はふてぶてしく、観客の心胆を寒からしめる。

 「吉野山」は義太夫の地で、菊之助の静御前は舞台奥から出る。海老蔵の忠信。梅幸の静は清元と義太夫を使う型で、花道から出た。さりげなくて、しかも馥郁(ふくいく)たる香気があった。今月ばかりはその型が恋しい。

 (天野道映・評論家)
渡辺保の歌舞伎評
2017年5月歌舞伎座追善と襲名の団菊祭
 七代目梅幸二十三回忌、十七代目羽左衛門十七回忌。菊之助時代から見てき
た梅幸、彦三郎の時からの羽左衛門、その二人が逝ってもうこんな月日がたっ
たのかと思うと感無量である。

 今年の五月恒例の団菊祭は、それに彦三郎の楽善、長男亀三郎の彦三郎、弟
亀寿の亀蔵、新彦三郎の長男が初舞台で新亀三郎にという坂東一家三代の襲名、
それに菊五郎の孫、寺嶋しのぶの長男寺嶋真秀の初御目見得まで加わっての一
大イベントである。寺嶋真秀が「魚屋宗五郎」の酒屋の小僧で酒樽をもって花
道を歩いてくると、この日一番の大きな拍手が起こった。まさかこの子を見る
ために超満員の観客が集まったとも思わないが、異様な熱狂ぶりであった。二
月の勘九郎の子供二人の初御目見得といい、大人の役者が子供に食われている
ようで情けない。

 さて、坂東一家の襲名披露狂言は、昼が「石切梶原」、夜が「対面」。その
ほかに新亀蔵が松緑と組んで二人で踊り抜く四段返しの舞踊「弥生の花浅草祭」
がある。

 まず「石切梶原」から。
 新彦三郎の梶原は花道を出たところ祖父十七代目羽左衛門そっくりである。
いろいろな事情があって祖父が羽左衛門を継ぐことになって、この梶原も十五
代目羽左衛門型であった。今度の梶原もそれに従う。しかし芸風だけのことを
いえば祖父もそうだったが、新彦三郎も形容本位で派手な羽左衛門型よりもじ
っくり芝居を見せる吉右衛門型の方が似合っているのではないだろうか。

 新彦三郎のいいところは三つある。

 第一に口跡がいいこと。その深い声が広い歌舞伎座に響き渡っている。名調
子、美声、爽やか、凛凛としているというのではないが、観客の心にしみる深
さが独特である。もっともせりふ廻しは今日でまだ三日目、緊張していて緩急
に乏しく力み過ぎているが、日が立てば余裕が出来てうまさが出るだろう。こ
の深さでせりふ廻しがうまくなれば鬼に金棒である。

 第二にいいのは、型を楷書でキッチリやっていること。教わった通り精一杯、
まだ余裕がないのは是非もないが、後半の物語はまことにキッカリしていい。
次にはこの型がどうしてこうなっているのかをよく考えることである。たとえ
ば石橋山で頼朝を引き起こせばというところで左手を高く上げて下を見込むが、
左手を上げるのは引き上げた瞬間で、下を見る時にはもう左手は下がっていな
ければいけないと思う。違和感があってリアリティを失うからである。あくま
で左手は引き起こす形容、下を見るのは頼朝を覗き込む芝居である。

 第三にいいのは、これは羽左衛門型のいいところだが、たいていの人がカッ
トする物語のなかで後世自分は佞人讒者といわれるかもしれないが、実はそう
ではない、正義の士だという告白があること。この告白こそこの浄瑠璃一段の
いわば性根であって、義経を讒言して滅亡させた悪人梶原景時というイメージ
を逆転させたところに作者苦心の趣向がある。それをキチンとやっているのは
羽左衛門型のいいところである。

 新楽善の大庭はさすがに立派。新亀蔵の俣野はこの人のニンで悪が効かない
のは仕方がない。この役が憎らしく突っ込まないと梶原が引き立たず、芝居も
盛り上がらない。

 団蔵初役の六郎太夫は、世話な芝居のイキがうまく、リアルさがありながら
締めるところは締めて緩急自在、いい六郎太夫である。右近の梢は娘と人妻の
間を行くところがあいまいである。あどけなさを強調し過ぎるからである。性
根は人妻、姿は娘とハッキリ割り切った方がいい。巳之助が梶原方の大名の筆
頭だが、声を張るのはいいが怒鳴り声になるのは注意すべきだ。

 新彦三郎のために松緑が呑助を付き合って、いつもの酒づくしのせりふの替
りに襲名に引っ掛けたせりふで笑わせる。菊之助が伊東入道からの使者の奴を
付き合う。

 もう一本の襲名披露狂言は、夜の部の「対面」。今度は終わりに劇中口上が
付くためか、幕が開くと浅黄幕で、これを振り落とすと全員板付き、すでに菊
五郎の工藤が高座に座っているという変則。むろんこういう形は故人寿海、十
三代目仁左衛門でも見たが、それは二人とも老齢かつ足が悪かったからである。
ことに今度の菊五郎初役の工藤は苦味に加えて色気があって「さてこそ兄弟」
でほのかに笑みを含む当たりいい工藤なので、ぜひとも障子の内の第一声の
「園の梅」から、平舞台へ降りての「高座御免下さりましょう」というところ
が見たかった。それにこうして全員板付きの絵づらだけが揃ってみると「対面」
という芝居が実は異様な恰好をした連中がゾロゾロ動き回る一種のページェン
トに面白さがあることがわかる。それがないと盛り上がらないのである。

 新彦三郎の五郎は、これも「石切」同様キッチリ型を守って手堅いが、緊張
のためか力の表現が足りないのと、五郎らしいふくらみがほしいところである。
 十郎は時蔵で本役。

 新楽善の朝比奈は可笑し味を含んでいい出来。大磯の虎が万次郎、鬼王新左
衛門が権十郎と三人兄弟が揃って坂東、市村、河原崎三家の当主が顔を揃える。
 新亀蔵は近江小藤太、万次郎の長男竹松が秦野、権十郎の鬼王と共に新亀三
郎が友切丸を持ってくる。
 他に松也の八幡、梅枝の化粧坂の少将、家橘と橘太郎の梶原親子。

 工藤の「思い出だせばおおそれよ」で、二重後ろの襖を払うと富士山の書割
になるのは仁左衛門の時にも見たが、これは芝居が終わって最後の口上になる
ときの方がよかった。その口上に菊五郎はじめ主だった役者が平舞台に並ぶた
めに、ここでもいつもの幕切れの富士山と鶴の絵面の見得もないのが残念。

 「石切」と「対面」のほかにもう一本の披露狂言は「弥生の花浅草祭」。実
をいうと今月昼夜を通して一番面白かったのはこの四段返しである。第一段が
常磐津で神功皇后と武内宿祢、第二段がいつもの清元の「三社祭」、第三段が
常磐津で通人と野暮大尽、第四段が長唄で石橋であるが、今まで「三社祭」は
面白くとも他の三段、ことに三段目の通人と野暮大尽がつまらなかった。とこ
ろが今度は四段ともに面白い。第一段は新亀蔵が神功皇后をそれらしく踊って
松緑の宿祢とともにキレイづくめ、居所替わりでの「三社祭」の善玉悪玉の踊
り比べが面白いのはいうまでもなく、また居所替わりでの亀蔵の通人が嫌味の
ない意外の面白さ、これに悪玉が絡んだ上に田舎侍風の野暮大尽に替わった松
緑がニンにピッタリ。二人のイキがあって面白い。最後に石橋の踊り比べの面
白さ。

 感心したのは、亀蔵が今まであまり見たことがなかったが踊りがうまいこと。
松緑がその亀蔵を引き立て引き上げる踊りっぷり。二人が一緒に踊る時には上
手が下手に合わせるのが鉄則だが、その合わせ方がまことにいいばかりか、そ
のコンビのイキの合わせ方がまた踊りを一際面白くしている。力量均等火花を
散らすというのも面白いが、こういうイキの合わせ方、取り合わせの異色さも
面白い。かくてこの一幕の二人、今月第一等の出来である。

 以上三本の他、昼の部は「石切」のあとに、海老蔵、菊之助の舞踊「吉野山」
続いて菊五郎の「魚屋宗五郎」。夜の部は「対面」と「弥生の花」の間に海老
蔵、菊之助の「先代萩」御殿、床下、対決、刃傷である。

 まず「吉野山」は、これまたいつもとは違って清元抜きの竹本だけという演
出。幕が開くと一面桜の書割。「恋と忠義」の置き浄瑠璃が終わるとこれを左
右に割って正面桜の立木の後ろに高二重の桜の山、下手に吉野川だろうか御丁
寧に何の役にも立たぬ滝車までついた川の流れ。菊之助の静御前は高二重の桜
の奥から出てつづら折りの道を下ってくる。「弓手も馬手も」もカットでいき
なり「見渡せば」になって普通は忠信と二人で踊る「天井抜けて据える」も
「徳若にご万歳」も一人で踊り、いつもの「女雛男雛」もここにはない。いか
に本文通りとはいえ、静が未亡人になったようで寂しい。その上清元と違って
竹本の地でのりが悪く踊りにくそうである。やっとそれこそ「遅ればせなる」
忠信が出て二人の「雁と燕」になり、ここで「女雛男雛」の振りがあるのがせ
めてもである。

 海老蔵の忠信は、源氏車を全体に散らした派手な衣裳の割には、狐というこ
とを強調するためか、衣裳の着方のせいか、猫背で、幽霊じみて色気が薄い。
竹本は愛太夫慎治ほか。

 次の「魚屋宗五郎」が芝居としては今月もっともすぐれた出来である。菊五
郎の宗五郎は二月の「四千両」の富蔵とは全く違って余裕たっぷりの傑作。花
道から出たところの愁いの肚から始まって、例の長ぜりふが思わず知らず聞き
入ってしまうよさ。今日の歌舞伎の水準を代表する舞台である。酒を呑んでの
酔態から「矢でも鉄砲でも持ってこい」の引っ込みまで十分の出来である。廻
って玄関先は「喜びありゃあ悲しみと」は普通だが、何度かの笑いがうまい。
奥庭までサラサラ運んで聞かせるところは聞かせて秀逸である。
 今度の菊五郎がいいのはむろん本人の芸のためだが、同時に周囲がいいから
でもある。幕開きに時蔵のおはま、万次郎の菊茶屋の女房、権十郎の三吉のや
り取りを聞いていると七五調が生きて、しかも芝居とは思えぬほど自然な生活
感が漂っている。ことに万次郎の菊茶屋の女房が「お大事に」といって門口を
出たところでフッと向こうを見る、思い入れがたまらぬよさ。
これが世話物の芸である。団蔵の太兵衛もいい。これといい、六郎太夫といい、
今月この人大当たり。梅枝のおなぎは神妙というまで。
 廻って玄関先ではさすがに左団次の浦戸十左衛門、市蔵の岩上典蔵がよく、
以上の役がいずれもサラサラしていながら、自然な芝居の面白さがそれぞれツ
ボにピッタリはまる面白さ。ここらがこの一座のアンサンブルのよさである。
松緑の磯部主計助は一通り。
 さて今月最大の問題は、すでに実験済みでもあり、さぞ進歩していてよかろ
うと思って大いに期待した「先代萩」の意外な期待外れ。

 まず「御殿」から。
 菊之助の政岡は、御簾が上がった立ち姿が思いもかけず空虚である。愁いの
肚もなく、二人の子供への愛情もなく、二人の子供をうまく操る乳母としての
才覚もない。「今、御屋形に悪人はびこり」の聞かせどころもただのせりふに
過ぎず、まことにあっけらかんとした「御殿」である。飯焚き抜きは祖父もそ
うだったから仕方がないが、さらに驚いたのは千松が刺された時に少しも驚か
ないことである。むろんそれらしい芝居はするのだが、それがとても驚いてい
るようには見えない。その上になによりも素早く鶴千代を抱かない。そっちへ
気が行かないから、若君大事という心が見えない。となると「涙一滴目に持た
ぬ」が空虚になるのは当然だろう。これでは栄御前が取り換え子と思うのも当
然であった。
 鶴千代を沖の井に預けないのはある型だが、それもそそくさと上手奥へ連れ
て行って、また平然と出てくるのは問題だろう。大事な若君をどこへ連れて行
ってしまったのかと思ってしまうからである。
 くどきは、悲しみ、狂熱、陶酔なにもなかった。一体どうしたのだろうか。
 歌六の八汐は、憎々しいところ、手強さがいい。魁春の栄御前はいかにも人
が良く、とても毒入りの菓子を持ってくる人には見えなかった。

 梅枝の沖の井、右近の松島。

 床下になる。松緑の男之助は、せり上がったところ合引きにかかった姿が不
安定である。せりふ廻しにも語尾の伸びる悪い癖が出てよくない。

 海老蔵の仁木は、掛け煙硝の白煙のなかにあらわれた顔が期待に反して、普
通の現代人、ただの人にしか見えない。凄味、妖しさがないのである。
 対決になる。海老蔵の仁木は、額の傷もほくろもなく、凄味がない。額の傷
をつけないのは富十郎もそうだったがやはり損である。しかもきわめて無表情
で現代人がそのまま法廷に出てきたようである。観客はボードレールではない
が巨大な「悪の華」を見に来るので、実録の原田甲斐のような仁木では面白く
ない。勝元との芝居もほとんど受けず、それでいて「恐れ入り奉る」で急に右
足を立てガーッと口を開けてのオーバーぶり。白けるだけである。

 気の毒なのは梅玉の勝元。この仁木相手ではどうにもならず、迫れば迫るほ
ど勝元の方が空転してバカに見えてしまう。刃傷ではじめて立派な勝元になった。
 市蔵の渡辺外記、友右衛門の山名宗全、右之助の大江鬼貫、九団次の黒沢官
蔵。右団次が神妙に渡辺民部を勤めている。
 刃傷。前回の海老蔵の仁木はこの場の殺気が凄愴、目を見張らせたが、今回
は余裕が出て却ってその殺気にたるみが見える。やたらに唸る、口を開ける、
というありさまだからである。
 以上、この海老蔵、菊之助、松緑三人の「先代萩」の意外な不出来は、将来
の「団菊祭」を背負う世代だけに不安に駆られる。
Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.
『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/
長谷部浩の劇評
【劇評75】菊五郎劇団のDNA 音羽屋坂東の襲名と寺嶋眞秀初お目見得。
 歌舞伎劇評 平成二十九年5月 歌舞伎座昼の部

五月の團菊祭は、七世尾上梅幸二十三回忌、十七世市村羽左衛門十七回忌追善の興行である。梅幸はもちろんだが、羽左衛門が亡くなってもう十七年も過ぎたのかと思うと溜息が出る。そのあいだに鬼籍に入った名優は数多く、梅幸、羽左衛門の時代と比較して歌舞伎がいやおうもなく変化しているのはいうまでもない。羽左衛門は自らの藝、一門の藝ばかりではなく、菊五郎劇団の若手たちに対しても厳しい指導を行ったことで知られている。こうした「怖いおじさん」が歌舞伎界にほとんど見当たらなくなってしまったのも、歌舞伎の現状に影響を与えているのだろう。
さて、昼の部は、亀三郎改め九代目彦三郎による『梶原平三誉石切』。もちろん彦三郎の名跡を長男にゆずった初代楽善、亀寿から三代目(坂東)亀蔵が、それぞれ大庭三郎、俣野五郎を勤める。もとより家の藝で、十五代目羽左衛門の型を採り、あくまで颯爽たる武者として演じている。新・彦三郎は、口跡、姿、所作いずれもこの役にふさわしい。生締の分別、思慮よりは、この場を鮮やかに切り抜け、六郎太夫(團蔵)とその娘、梢(尾上右近)の難儀を救う美丈夫としての色が強い。これから回を重ねるうちに、独特の光彩が与えられていくのだろう。囚人の剣菱呑助に松緑、奴菊平に菊之助がつきあう。
それにしてもこの演目、梢が六郎太夫の命により刀の折紙を取りに戻ってから、大庭三郎、俣野五郎が舞台を去るあたりまで、言い方が悪いが意識が遠くなる。もちろん寝ているわけではない。どこか台詞が入ってこない。このあたりの沈鬱な空気があってこそ、手水鉢を二つに割る大団円が生きてくるのだろう。劇作の難しさを思う。
新・彦三郎、亀蔵の世代が大きな役を勤めてこそ、将来の歌舞伎に展望が開ける。それだけの素質と努力がそなわっている。ふたりには楽善が健在なのがありがたいが、菊五郎劇団全体で考えれば、役の伝承にあたって三津五郎が欠けたのがあまりにも痛い。その損失の大きさを改めて考えさせられた。
次は、めずらしく義太夫の地による『吉野山』。いわずと知れた『義経千本桜』の道行だが、桜の満開に静御前(菊之助)と狐忠信(海老藏)が主従ながら道行をする情景を描いた舞踊である。
今日、数多く上演される清元の地と比べると重みがあり丸本物狂言の原型があり、語りといっても竹本と豊後節浄瑠璃の性格の違いを考えさせられる。男雛女雛として決まるときの陶酔感はないが、軍物語の描写に強く引かれる。静御前が舞台中央の大木から出て、狐忠信が花道のスッポンから出るが、義経の愛妾とその持ち物の鼓を慕う狐の関係性よりは、幻想の男女が桜が満開の吉野山、その雲の上で戯れに踊っているかのような気分が横溢していた。
切りは、菊五郎の『魚屋宗五郎』である。もはや名品とよびたくなるアンサンブルの充実がまずある。時蔵のおとく、團蔵の太兵衛、権十郎の三吉、萬次郎のおみつと揃って菊五郎の宗五郎を支えている。また、梅枝のおなぎ、丁稚の与吉の寺嶋眞秀まで菊五郎劇団のDNAが着実に伝えられている。
菊五郎の宗五郎は、飲み始めてから生酔いのあいだが特に自然で酒飲みの特長をよく捉えて自然である。また、磯部屋敷の玄関での悪態から一転して、庭先の場での照れまで、劇作上は荒唐無稽であるにもかかわらず、流れがよく、さらさらとした名人の趣が強くなってきた。
菊五郎孫の寺嶋眞秀は初お目見え。せりふもきちっと強く、なにより姿勢がいい。幼さで受けを取るのではなく、芝居で取ろうとする意志がある。花道の引っ込み、大向こうから「よく出来ました」と声がかかったのはご愛敬。客席のだれもがうなずいた。二十七日まで。
広瀬和生さんプロデュースのシリーズ。ちなみに第1回は「文七元結」だったそうだ。文七と「ある人物」のエピソード……佐野槌の女将だと嬉しいんだけど聴けなかったので残念。

 談笑さんの「居残り佐平次」には思い入れがある。大金がかかるお大尽遊びを一晩ぱっとやって、後で居残りとわかると自分を叩きのめすはずの若い衆《わかいし》になけなしのお金を全部渡して、手心を加えさせる、というプロっぽい手口がまずいい。そして、女郎たちを取り巻くところに化粧の仕方だけでなく新興宗教ちっくな笑顔の大切さが入ってきたり、夜の実技指導をしたり。今日は特に「品川甚句」の踊りの指導をする場面が入ったり、ご内証では複式簿記もつけたり、八面六臂。そして、この女郎屋の全員をたらし込み、旦那を追い出してしまう凄腕ぶり。旦那の捨て台詞が落ちなのもいい。

 今回かけられたのは本編よりだいぶ軽いが、本編が幕末設定となるよう脳内で時間を巻き戻すようアナウンスがあり、そこから御殿場での花見。うん、御殿場の吉宗公お手植えの桜が削られたという幕末設定だね。
 何と佐平次は徳川家側の隠密で、幕府の御用金を盗んだりする不逞の下級幕臣を「お化け白木」(「品川心中」の舞台)の主人として情報収集し、時にはお庭番衆と協力して始末する。店は解散するが、どこまでもついていくと言った女房に明かした次の任務とは……という話。
 幕末大好きな私としてはこれでオチ、はちょっともったいない。もう少し引っ張ったエピソードにできるのに。もう少し練り込めば幕末にあったかも知れない裏話エピソードいいんじゃないかな。

 そして第3回は「井戸の茶碗」。フィーチャーされるのは千代田のご老人の過去か、はたまた高木佐久左衛門と祝言を挙げたご老人の令嬢か、それとも屑屋か。これも楽しみ。
ACTシアターの志の輔らくごも5年連続。初日。

第一部 大忠臣蔵〜仮名手本忠臣蔵のすべて

 今回は顔世夫人についての言及はなし。桃井若狭助について強調しておいて、終幕の解説で引き立てる。家老の加古川半蔵については逆にトーンダウンし、山科の段では大石親子とのやり取りも省略され気味。
 後半の五段目を理解するための通し解説といいつつも、本筋のところをしっかり押さえて。討ち入りは武士の敵討ちの話だけど、おかるの父与惣兵衛夫婦に象徴される農民、天川屋利兵衛に象徴される商人を登場させて武士以外の身分の観客にも共感性が持てるようにフィクション部分を膨らませている、というメッセージ。

第二部 落語 中村仲蔵

 五段目の塩冶判官切腹の場にも太棹を鳴らして演出性を高めたところが新演出のようで、とてもよかった。中村仲蔵が演じる斧定九郎の部分も芝居性を高め、ライティングを強調し、志の輔が描写する様子は色彩のコントラストを強調し、あたかも芝居を見ているような。
 芝居の歴史の一ページを刻む、役の革新。血筋や身分など伝統に縛られた制約、名人團十郎や師匠の夫婦とお岸を除いて周囲は敵という苦境からの産みの苦しみ、偶然出会った浪人から得られるセレンディピティ。それが舞台に結びついた時の新しさや洗練。
 いろいろなものを感じたけど、「生きる勇気」をもらった、とまとめたい。
今月はチケットが取りやすかったので千穐楽に昼の部・夜の部を連続で見てきた(腰に悪いが)。

<評>染五郎、はまり役 歌舞伎座・四月大歌舞伎
 歌舞伎座昼の部の「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」は「追駈(おっか)け」から「奥庭」まで。市川染五郎が福岡貢(みつぎ)を片岡仁左衛門の型で演じる。初役だけに手いっぱいだが、柄にぴったりのはまり役で、キリリと引き締まった姿かたちの爽やかさが第一。やはり初役の市川猿之助の仲居万野は憎々しさがやや表層的。いずれも再演に大いに期待したい。片岡秀太郎の今田万次郎が春風駘蕩(たいとう)、独自のおもしろさで秀逸。嵐橘三郎の大蔵、市村橘太郎の丈四郎が現今難しい上方風の喜劇を腕で見せる。
 「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき) 熊谷陣屋」、松本幸四郎の熊谷はスケールが大きい。市川左団次の弥陀六(みだろく)が、武将の手づよさ、悔恨の情、義経・熊谷への複雑な思いをせりふで明瞭に描き出す。猿之助の相模はぐっと抑えた芝居に母の情がにじみ出す上出来。染五郎の源義経、市川高麗蔵の藤の方はともに品格があっていい。昼の部はほかに「醍醐(だいご)の花見」。
 夜の部「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」の中村吉右衛門の又平は、サラサラと自然に演じているのにその境涯の悲哀の重さがひしひしと伝わってくる。中村歌六、中村東蔵の土佐将監(とさのしょうげん)夫婦が情愛に富み、尾上菊之助初役のおとく、中村又五郎の雅楽之助(うたのすけ)、中村錦之助の修理之助(しゅうりのすけ)まで好演ぞろいの一幕。
 「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ) 帯屋」は坂田藤十郎の長右衛門の、真っ赤な鼻緒の木履を抱いて花道を引っ込む姿がしたたるように官能的。中村壱太郎(かずたろう)がお半と長吉の二役。上村吉弥のおとせは意地悪さの中に程よいおかしみがある。ほかに猿之助の「奴(やつこ)道成寺」。二十六日まで。 (矢内賢二=歌舞伎研究家)
渡辺保の歌舞伎劇評
2017年4月歌舞伎座
円熟の「吃又」
 「吃又」は吉右衛門の当たり芸の一つであるが、今度は前回と違って一変している。むろんやっていることは前回と同じだが、その芸の心境が違うのでま
るで新しいものを見ているようであった。
 どう変わったのだろうか。
 第一に前回まではここぞという仕どころが目立って面白くもあり、よかったのだが、今回は総体に流れる如く自然でリアルでサラサラ運んで、それでいながら前回に倍増して見る者の心を抉る深さを持っている点。
 たとえば花道の出。いつもの型通りだが、そこに深い思いが潜んでいて目が離せない。あるいは将監が修理助に名前をやったというのを聞いてスーッと顔をあげる。そのあとおとくに「こなたを吃りに産み付けた親御をうらみなさんせいな」といわれてのなんとも言えない表情。さらに必死のお願いの吃音もうまいが、その表情たるやいうにいわれぬ思いつめた無限の思いがあって引き込
まれる。あるいはまた「親もない、子もない」の寂しさ、孤独の翳が広がる。あるいは「(吃りでなくば)こうもあるまい」という悲痛さ。「斬らっしゃりませ」と階段を上がる必死の覚悟の姿。いずれもスッと肩の力が抜けていながらはるかに深く強い力が出ている。自分の運命に呆然としている表情が印象的で忘れられない。
 第二にそのために余韻が出ている。
 たとえば筆をもって手水鉢へ歩いて行くところ。なんでもなく歩いていているようで、今までになかった味わいが滲んでいる。芸の光彩である。これを円熟というのだろう。
 第三に、以上の結果、又平という人間の悲劇が私たち現代人の身近な鮮やかさで迫ってくる。それでいていかにも歌舞伎的なのは、型が身体の身内に消化されて、この人が自由になったからである。しかも自然と型の本質にはまっている。手水鉢に絵を描く瞬間の、「名は石魂に止まれと」の必死の形相の凄さでも、力がだれよりも入っていながら軽くて快い。その快さが観客の共感を呼
ぶ芸の艶である。
 たとえば「さりとはつれないお師匠様」や「嚊、抜けた」というところが前回までは多少の型の堅さがあったのに、今回はすんなりして一分の違和感もないのもそのためである。
 以上三点。吉右衛門の芸の心境、長足の進歩である。

 菊之助初役の女房おとくは、しっとりと嫌味の微塵もないいい出来である。吉右衛門を向こうに回して必死に情を出そうと大奮闘である。しかもこのおとくは独特なところがある。たとえば花道の出。普通は七三で本舞台を見て思わず足が止まるところへ又平が突き当たる。大抵はそうである。ところが菊之助は七三で俯いて思案に暮れるから足が止まる。おとくはおとくなりの思いに沈
んでいる。そういうおとく。この女には又平とはまた違った人生があるのだろう。しかしただ一ついけないのは、冒頭のしゃべり。ここは亭主の吃り を庇おうとしてしゃべるのはむろんだが、同時に女形独特のしゃべりの芸でもある。
 女形にしゃべりの芸が生まれたのは、しゃべらずにはいられない女形独特の生理による。そのモチーフが菊之助に全くないのは菊之助が最近立役に手を染めているからだろう。
 歌六の、きびしさと優しさの両面を描いて貫目もあるいい将監。前月の「岡崎」の幸兵衛女房に続く東蔵の北の方が品よく、気配りもいいふくよかさ。役者によってこうも役が膨らむものか。加えて錦之助一代の傑作修理助。前回よりも年を取ったのを考えて、白粉も厚く若返って色気も加味しているが、相変わらずこの役にピッタリ。将監が又平を手討ちにするというのを聞いて恐れて
平伏する芝居のほどよさ、手に入ったものである。
 この三人がいい上に、吉三郎吉五郎以下の百姓までそろって、この連中が引込んで葵太夫寿治郎で「ここに土佐の末弟」とくると、さすがに広い間口の歌舞伎座の大舞台がピーンと一本綱を張ったように引き締まるから恐ろしいものである。これだからこそおとくと又平の出が新鮮になる
 キッパリと歌舞伎味十分の又五郎の雅樂助も含めて、全員のイキがあって水も漏らさぬチームワークの近来稀な舞台。吉右衛門チームの勝利である。

 夜の部はこの後の「帯屋」も見ものである。
藤十郎東京初役の長右衛門。私ははじめて見た。前半いささかたどたどしいところもあり、後半で布団に蹴躓いてハラハラしたが、今日はまだ二日目ゆえ是非もない。しかし長右衛門としてのニンは天下一品。私がかつて見た初代吉右衛門や寿三郎と違って柔らか味と色気のある持ち味は独特の上方風である。ことに幕切れ、死に行くお半を追って表へ出て、木履をもっての引込みは、濃厚
な持ち味で見ものであった。
 扇雀の女房お絹が控えめでしっとりとしていい女房ぶり。ことに百両の金の使い道が自分の弟のためと聞いての驚きがうまい。ただ少し気の強そうに見えるところがあるのが玉にキズ。壱太郎の長吉とお半の二役は、長吉が意外にも舌足らずなところがあって滑稽味が薄い。お半は可愛らしさを出そうとして背を盗むのが丸見えで困る。一月の静御前の大当たりに大いに期待して行ったが
期待外れで残念。染五郎の儀兵衛は、全員大阪役者のなかでたった一人東京役者。ネイティブで
ない不利をなんとか器用にこなしてはいるが、何分ともにニンにないのは如何ともしがたい。ことに悪が効かずゲスっぽさがないのは是非なし。その点、吉弥のおとせはお手の物。手強いうちに滑稽味があって面白い。藤十郎を除けばこの幕第一の出来。壽治郎の隠居繁斎は、気の弱いのはいいが芸も弱いのは困る。
 この後に猿之助の「奴道成寺」。器用に踊ってくどきの三つ面も鮮やかだが、どういうわけか終始不機嫌そうに見えるのは、愛嬌が足りないせいか。右近隼以下の所化、長唄は今藤尚之稀音家祐介、常磐津は兼太夫文字兵衛。

 昼の部は幸四郎の「熊谷陣屋」。
 花道へ出たところ、いつもより顔が赤く濃くニンは立派な熊谷だが、七三で珠数を刀にあててチャリンとさせたり、木戸の外で草履を脱いだりするのは困りものである。
 しかし「妻の相模を尻目にかけ」でハッとする具合のうまさ、「オーイオーイ」の凛凛たる調子、物語の前後のカドカドで細かく相模の反応を伺う細緻さ、「討ち奉る」で二重の肚を効かせるうまさはさすがである。
 二度目の出から制札の見得はスケールが大きいが、三度目の出からは味が急に薄くなり、ことに花道七三で編笠を被った後もう一度笠を揚げて観客に大きく泣き顔を見せるのは過剰な当ッ気。つづいてこらえかねての泣き過ぎのオーバーさはかえって余韻を失い、前半の好演が帳消しになりかねない。
 どうかと思った猿之助の相模は、思いがけなくも神妙で、この人今月の三役中第一の出来。情もあり、色気もあり、「国を隔てて十六年」のくどきまで立派にやってのけた。真女形はだしのうまさである。
 高麗蔵の藤の方は度重なるお勤めでおつとりとした品格が出て来て、猿之助の相模を向こうに回して確かにその女主人と見えたのは大手柄。
 左団次の弥陀六が本役。述懐がさすがに聞かせて飽きさせない。
 染五郎の義経、錦吾の梶原、松江の軍次。
 幕開きの花褒めに高麗五郎の庄屋なる役が出て、梶原が弥陀六を連れて詮議に来ているという筋を売る。一見親切なようだが、そうなれば藤の方、相模の入込みもいわねばならず、結句無駄か。

 この「陣屋」の前に舞踊劇「醍醐の花見」と染五郎初役の「伊勢音頭」。
 役者の都合だろうが、本当は時代物の「陣屋」、世話物のくだけた「伊勢音頭」という狂言建が順当で、観客の生理からいえばこの立て方は疲れるし、役者も損をしている。

 さてその「伊勢音頭」はいきなり追っ駆けから。ない例ではないが観客にはわかりにくい。
 橘三郎の大蔵、橘太郎の丈四郎は今日では最上の配役。リアルで可笑し味があっていいのだが、私が昔見たたしか璃珏と九団次の大蔵丈四郎の上方風追っ駆けの面白さに比べると物足りない。あの時は満員の歌舞伎座の客席が抱腹絶倒で揺れたのである。あの狂熱がほしい。一つは時代が理に詰んで、野放図な喜劇が少なくなって来たせいだろうが、もう一つは下座の合方が東京風で淡泊なのと、役者の体がそれに乗りきっていないために両者一体の相乗効果が出ないためだろう。隼人の奴林平は真面目過ぎて硬い。この役にも実はとぼけた味がいる。
 廻って二見ヶ浦。染五郎初役の福岡貢は、花道から出たところ、黄八丈の着付けがいくらか黒っぽ過ぎるように見えるが、まずは本役。いい貢である。秀太郎の万次郎は体の柔らかみ、仁左衛門や故人団十郎や梅玉の大舞台でも立派に通用する万次郎である。
 さて二人が本舞台へきて丈四郎に突き当たっての、貢の「とんと気違いのようじゃ」は味も素っ気もないが、密書を口咥えた立身の姿はまことにいい味である。

 だんまりになる。これに限ったことではないが、最近のだんまりは誰もが闇の中で人の気配を感じるという感覚がないために味も面白さもない。染五郎の貢も密書を読もうとするだけで、この闇、この人の気配への表現がないためにただの踊りじみた動きになってしまう。むしろ磯辺の白波の光で透かして読もうというキザな演出があった方がいい。したがって「嬉しや日の出、読めた」
が引き立たず、愛嬌不足で見ているこっちはちっとも「嬉しく」ない。まずは部分的に上出来。いい貢だけに再演に期待したい。

 油屋になる。
 染五郎の貢は、仁左衛門に教わったとかで道具がまず仁左衛門型。音羽屋型の上手二階の障子屋体ではなく、平舞台一階の簀戸の屋体である。奥庭の殺しも上手二重に丸窓がある。芝居も仁左衛門型。しかし仁左衛門型にしては大事な性根を覚え損なっている。仁左衛門の貢はあくまで女たちにやさしく、見栄っ張りでもあるところ。だから滅多に怒らない。それをいいことに女たちが付け込む。万野にいじめられた貢が思わずカッとなって立ち上がる、腰の刀を手で探す。ない。そこで菊五郎型ならば癇癪を起して扇を引き裂く。仁左衛門で行けば腰を探った時点でハッと気が付いて照れ隠しに手を後ろへ廻して帯を締め直すふりで胡麻化す。優しさとテレ性で見栄っ張り。仁左衛門の貢はそういう男なのであり、その性根はここにある。染五郎だとそれがあいまい。この人にはおっとりした仁左衛門型よりも本当は癇性の強い菊五郎型があっているのかもしれない。しかしこの点を別にすれば、姿のすっきりしたよさといい、柔らか味といい、いい貢。将来この人の当たり芸になるだろう。万野を斬ってののれんを肩に掛けた形、奥庭の殺しになってカドカドのキマリの形といい、まことに貢ぐらしいよさである。
 猿之助初役の万野は、パッとのれんを揚げると突っ立つて居る姿といい、ものすごい怖い目つき、意地悪そうな唇の歪め方、全て現代風で観客大受けであるが、「伊勢音頭」の芝居らしくない。顔だけの現代式だからであり、主役の染五郎の貢とも釣り合いが取れていないし、芸の面白さになっていないからである。
 万次郎のお鹿は、出て来たところお定まりの古風な拵えでさぞいいだろうと思いの外に面白くない。一つは染五郎、猿之助、梅枝に囲まれては浮いているからである。役者の看板、人気を別にすれば、芝居としてはこの人こそ万野、猿之助がお鹿に廻った方がずっといい舞台になったに違いないし、万次郎も猿之助も得だったに違いない。
 梅枝のお紺はきれいだが、女郎ではなく芸者っぽい。仁左衛門型だから愛想尽かしの後の出はカット。いきなり奥庭の幕切れに出る。米吉のお岸も梅枝同断に芸者。伊勢古市の油屋はどうやら花柳界らしい。
 松也の喜助は無暗に江戸ッ子がっている割には江戸前のすっきりしたところがない。
 秀太郎の万次郎はここでも光っているが、米吉のお岸とはバランスが悪い。
 京妙の千野が客を迎えて「舞の会」の演目は「伊勢音頭」と「保名」だというのは下座で「保名」を使うからだが、要らぬ説明。そんなことをしたら殺しは「山姥」だといわなければならなくなる。第一「保名」をいいたいならば「小袖物狂」というべきだろう。
 桂三、由次郎、錦一の阿波のお客一行。

 「醍醐の花見」は中内蝶二の作詞、吉住小三郎が曲をつけた長唄の人気曲。
これに今度はじめて勘十郎が振りをつけた舞踊劇。今井豊茂補綴。
 鴈治郎の秀吉、扇雀の北の政所、壱太郎の淀殿、右近の三条殿、笑也の松の丸殿、笑三郎の前田利家夫人まつ、歌昇の大野治長、松也の秀次の亡霊、右団次の石田三成、種之助の大野治房、万太郎の曽呂利新左衛門という歴史上の大人物を集めてわずか三十分で全員を裁いたのは器用ともなんとも言いようがない。しかしそれにしても昔の有名人揃いも揃って踊りがうまくなかったらしい。
 もつともその頃は歌舞伎踊りは存在しなかったが。

Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.
『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/

 こういうプロの劇評を見ているとやはり重みが違う。誰からどういう芸を引き継いだ型で、どうふう工夫があって、それがニンに合っているのかどうかまできっちり評価している。

 では、拙くも、私も。

 昼は染五郎の福岡貢がまだ荒削りだけどよかった。幸四郎の熊谷直実はちょっと力み過ぎている感じがあった。相模を猿之助がやっていて、この人は女形もいけるのかと感心した。

 夜は上方者が二本続いてちょっと辛かった。吃又は芸的に凄いのだろうけど私的にはちょっとオーバーリアクション気味。菊之助の女房おとくがいい女やった。桂川連理は主人公の長右衛門が姑と小姑の嫌がらせを我慢して我慢して、一回の過ちで隣のお嬢さんを孕ませちゃって、女房がよく出来た人なんだけど養子の悲しさで強く店と家族を仕切ることができない。あぁ見ててストレス溜まる。
 最後のスーパーダンサー猿之助の奴道成寺が華やかで、大向こうも盛り上がって、そうそうこれがいいんだよなと楽しんだ。
千穐楽のチケットを押さえていたので2回目に挑戦。前回は弟と母を亡くした直後で、特に太郎が転生する中で一部の太郎に弟を思い出させる設定があったので見るのが辛かった。
 今回も多少辛くはあったが、よく出来ていると思った。

なぜ赤坂大歌舞伎は「ドラえもん」借用を明示しなかった
 そうは書かれていないが、「ドラえもん」の歌舞伎化である。もっともドラえもんは出てこない。ドラえもんのいない世界で、のび太はどう生きるのかという話だ。作・演出は若手劇作家の蓬莱竜太で、初めて歌舞伎に挑む。

 歌舞伎とは何かという答えのない質問には、「歌舞伎役者がやれば歌舞伎」という乱暴な、それでいて的確な回答もあるが、赤坂大歌舞伎「夢幻恋双紙~赤目の転生~」はまさにそういう歌舞伎だ。セリフは現代語でテンポよく進む。舞台装置の転換も鮮やか。ピアノ音楽も違和感がない。何よりも演劇として出色の出来だ。

 舞台は江戸時代。どこかの原っぱで、子供たちが遊んでいるシーンから始まる。子供時代から大人までを同じ歌舞伎役者が演じるのだが、子供に見えるからさすが。とくにジャイアン(剛田武)にあたる「剛太」役の市川猿弥がうまい。
中村勘九郎演じる主人公「太郎」は、のんびりしているので「のび郎」というあだ名。「静」は中村鶴松、スネ夫にあたる「末吉」は中村いてう。この4人は幼馴染で、大人になってもその関係が続く。ヒロインは静ではなく、最近引っ越してきた「歌」で、中村七之助が演じる。その兄を中村亀鶴、父を片岡亀蔵。歌の父は病床にあり借金もあって苦労している。太郎はそれを助け、2人は夫婦になるが、うまくいかない。太郎は殺され、気がつくと子供時代に戻っている。

 冒頭のシーンが繰り返されるが、今度の太郎は性格が異なっていた。太郎は前の記憶を持ったまま、前とは異なる人生を歩み、そしてまた……と劇中、3回ループする。この芝居はどうやって終わるのだろうと引き込まれる。見事な結末を迎えるが、それは真の結末ではない。だから、幕は下りないで終わる。観客が劇場を出た後も、太郎は延々とループしているはずだ。
 ドラえもんの世界から人間関係を引っ張ってきて、それが転生によってどう変化するかを見せるのはなかなか巧い手だと思う。でも私もちょっと引っかかった。

赤坂大歌舞伎「夢幻恋双紙」 作者、俳優が「現代」模索した傑作
 人間生き直すことができたら! 今の不運をリセットしたい。失恋のつらさを消去して、今度こそもっと巧みに彼女を誘導しよう。現代演劇界の気鋭劇作家で演出家の蓬莱竜太が、中村勘九郎・七之助兄弟の要請を受け、初めて書き下ろした新作歌舞伎「夢幻恋双紙(ゆめまぼろしかこいぞうし)-赤目の転生」は、幼き日の恋のファンタジーを、成人してリアリティーで終局させる物語である。

 江戸時代。貧しい長屋の子供たちが集う原っぱ。不思議な異空間のように子供たち(太郎=勘九郎、剛太=市川猿弥(えんや)、末吉=中村いてう)が転生を繰り返す。核となるのは、長屋へ引っ越してきた歌(七之助)への、太郎の恋心の行く末だ。

 人物設定に巧妙な伏線が張られ、太郎や歌だけでなく、長屋のもう1人の娘の静(中村鶴松)や、歌の兄で酒浸りの源乃助(中村亀鶴(きかく))の描き方も変化する。現代劇で人間心理の複雑さを活写する、蓬莱の真骨頂が貼りつく。

 太郎は最初、グズでのろまで気弱だが、転生によって粗暴な人格に変貌する。一方、源乃助は常に太郎への敵意をむき出しにする。太郎は右目が赤く、源乃助は右目に眼帯をしている。歌の太郎への愛は涼しいが、実の兄へ向けるまなざしは熱い。最後に成人した歌の口からもれる一言が衝撃的。口語せりふにも違和感はなく、歌の父(片岡亀蔵)も含め、作者、俳優全員による歌舞伎の現代を模索した傑作である。25日まで、東京・赤坂の赤坂ACTシアター。(劇評家 石井啓夫)

ドラえもんに着眼点、大絶賛の「赤坂大歌舞伎」 セリフは現代語、歌舞伎初心者でも聞き取れる
 東京・TBS赤坂ACTシアターで上演中の赤坂大歌舞伎「夢幻恋双紙(ゆめまぼろしかこいぞうし)赤目の転生」。演劇記者は「面白い話だが、登場人物が人気アニメのキャラクターのオマージュというか」と大絶賛する。

 歌舞伎俳優の中村勘九郎(35)が気鋭の劇作家、蓬莱竜太氏(41)に作・演出を依頼した作品。

 江戸時代、憧れの歌(中村七之助)を幸せにするために輪廻転生を繰り返す太郎(勘九郎)の物語だが、登場人物の性格付けや呼び名が「ドラえもん」を彷彿とさせると、前出の演劇担当者は指摘する。

 「太郎のあだ名はのび太郎、市川猿弥は合田ならぬ剛太、中村鶴松が静、中村いてうが末吉。のび太、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫です」

 物語は4人の子供時代から始まる。弾けるように遊ぶ姿をみせ、子供という設定を伝えるため、「僕たち、こう見えても12歳だから」というせりふで笑わせる。

 そこに歌が登場することで、仲間内のパワーバランスが崩れ出す。以前はアイドル的存在だった静ちゃんは歌への不満をぶつくさ。すかさず剛太と末吉が「時代は変わるんだよ」と突き放すと、どっと笑いが起きる。
「印象深いのは猿弥が演じる剛太。子供時代の剛太はまさにジャイアン。ガキ大将っぽいせりふ回しも猿弥の大柄な体形もぴったりの役です」(前出・演劇担当記者)

 子供時代の関係性のまま大人になるケース、子供時代の関係性が逆転するケースなど、時間をうまく遊ぶ物語を構築しているが、「ここが蓬莱さんの巧みなところ。時間を描くために、観客に『ドラえもん』を意識させる。『ドラえもん』は未来を良くするために過去をきちんとしなきゃという話ですからね。本当に着眼点がうますぎる」(エンタメライター)

 せりふはすべて現代語で、歌舞伎初心者でも聞き取れる。音楽は義太夫は一部だけで、ほとんどがピアノ。「エリック・サティのようなけだるさを内包した音楽で歌舞伎にも合っていた。物語もいろんな見方ができる。『ラ・ラ・ランド』のように、かなえられなかった別の物語の持つ切なさが描かれています」(前出・エンタメライター)

 2008年に勘九郎と七之助の父、故中村勘三郎さんが始めた赤坂大歌舞伎。今回が5回目。確実に根付いている。
 太郎は歌を幸せにするために転生を続け、しかしいずれも性格に何らかダメ男の要素があるためにうまく行かず、時には剛太に恋を譲るが諦めきれずに悲劇を起こす。さらに、太郎の転生を断罪し殺してやり直させる源乃助は太郎の合わせ鏡的存在で、歌とは……。

 千穐楽とあってスタンディングオベーションあり。二回目だったのでいくらか落ち着いて見られた。歌舞伎のようでもあり、センスは現代劇で、SF的でもあり。
毎回、出演者がはっちゃけたり、くすぐりを次の演者が拾ったり、いろいろ楽しい「よってたかって」。

やかん泥/あおもり
 三遊亭白鳥門下。これがなかなかしっかりした古典をする。白酒さんに「白鳥の下にいる意味あるのか?」といじられる。

短命/白酒
 「週末でお子様もいるのに」と言いながらバレ噺をかける白酒さん、さすが羊の皮をかぶった狼。女房が亭主のためにご飯をよそうのは普通じゃない、とか、ハッつぁん夫婦の生活ぶりが見える仕込みがよかった。

母恋いくらげ/喬太郎
 前半は街の擬人化。京橋にへつらい、日比谷は(皇居があるから)微妙に丁寧に接し、築地や新橋にはぞんざいな銀座。大塚と目白に挟まれる池袋は、目白が半分豊島区半分文京区で上から目線。デパートの擬人化も面白い。三越本店、三越池袋店、西武池袋店と東武池袋店。
 それでかなり時間を使ったけど、後半は母恋いくらげでちゃんと落語。しかも、くらげの仕草はさん喬師匠が仕込んでくれてパワーアップされたとか。はける時もタコの擬態で爆笑。

かぼちゃ屋/一之輔
 さすが一之輔、与太郎がかぼちゃを荷売りする途中で、唐茄子を売り歩く元若旦那に出会って、「そっち誓願寺店の方には行かない方がいいよ」とアドバイスし、「よしっ、歴史を変えた」というくすぐりが入って大笑い。

豆腐屋ジョニー/白鳥
 中入前に喬太郎師が新作ではっちゃけた後なので古典っぽい新作で来るかと思ったけど、空気読まずに豆腐屋ジョニー。

殿様と海/三三
 「何やっても三三がきっちり古典やってくれるから」と暴れた白鳥師の後に上がった三三、ここで古典でなくて白鳥の新作「殿様と海」かけちゃうんですね。
 そして、浅草の釣り名人、魚鱗堂の助三を三太夫が訪ねるところで、唐茄子を売り歩く元旦那に誓願寺店の方に行くよう促して歴史修正。
 六代目助三から借り受けた釣り竿が左甚五郎作で初代助三の魂が宿っているスーパー釣り竿なのが白鳥作らしい。そして、殿様がご機嫌で釣り竿を垂らす仕草に「野ざらし」がちょっと入ったり、役立たずの船頭さんが「船徳」の徳さんだったり、くらげの母子が登場したり、三三も遊んでます。そして最後は座布団をマグロに見立てて殿様が担ぎ上げ、マグロに乗って無事にご帰還。

 喬太郎師以降は擬人化まつり。大笑いできました。



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