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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
10月22日(日)夜の部
一、沓手鳥孤城落月
 玉三郎の淀の方がとても美しかったのだけど、途中から正気を失ってしまって、感情移入しにくい。七之助の秀頼が美しくて賢いけど家康にしてやられてしまった感。米吉の千姫、児太郎の常盤木がちょっといいな。

二、漢人韓文手管始
 浪花もののせいか、男の嫉妬が実直な男を殺人に追い詰めるのだけど、何かねっちりした描かれ方ですっきり感がない。でも芝翫の悪役は憎々しさが豪華でよい。

三、秋の色種
 玉三郎、梅枝、児太郎の舞。夜の部はこれが一番よい出来だったと思う。

10月23日(月)昼の部
極付印度伝
マハーバーラタ戦記
 序章 神々の場所より
 大詰 戦場まで

 パーカッションが異国情緒溢れて印度歌舞伎っぽいところがよい。ステージの使い方や大道具も現代劇っぽいセンスだったけど、たとえば最終幕の戦いを表現する幕や柱、旗の使い方がとてもよい。衣装も、特に神々がきらきらしくて素敵。
 菊之助の迦楼奈にはうまく感情移入できなかったのは途中居眠りしてしまったからか(汗)。太陽神の子で非の打ち所がない性格なのになぜ戦いに巻き込まれてしまったのか、その辺りの葛藤が今いち。ライバル役、帝釈天の子の阿龍樹雷王子を演じた松也が位負けしてない演技で、今月新橋演舞場『ワンピース』で負傷した猿之助の代役に入った右近などと浅草歌舞伎を盛り上げているだけあって早くもこの世代が主役級を演じられるように育ってきたなぁと感じる。そして何と言っても七之助。新作でスケールの大きい、いっちゃってる王女を美しく演じられる七之助が素晴らしい。


「マハーバーラタ」歌舞伎化でインド神話と源平の無常感融合 歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」
 昼の部一杯を割いて、新作歌舞伎「極付印度伝 マハーバーラタ戦記」を上演。古代インドの大叙事詩「マハーバーラタ」からバラタ族の王位継承をめぐっていとこ同士の王族たちが争うさまに焦点をあてた。「マハー」とは“偉大な”の意。「マハーバーラタ」歌舞伎化への尾上(おのえ)菊之助の熱情で実現した。青木豪脚本、宮城聰演出。
 象の国(インド)で起こった戦争がついには世界を滅ぼすと憂えた神々は、慈愛に満ちた太陽神の子、迦楼奈(かるな)(菊之助)と武力を培った帝釈天の子、阿龍樹雷(あるじゅら)(尾上松也)を地上で誕生させ、慈愛と力のどちらが争いを止められるか、眺める。現在の世界情勢にも敷衍(ふえん)できるインドの叙事詩の描写は、そのまま源平時代に重なり、戦乱から生まれる無常感は歌舞伎の古典作と通じる。
 菊之助の着眼がそこにあり、本作が肚(はら)にインドの物語を据えつつ、展開はすべて古典歌舞伎の仕様であり意匠である。浄瑠璃、三味線が主導し、ガムラン音楽風な木琴の調べがエスニックな情感を湛(たた)える。両花道を使い、つらね、見得、くどきなど、万全な時代物風味。新作歌舞伎の方向性を指針したのではないか。尾上菊五郎、市川左團次、中村七之助らが出演。
夜。「沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)」。坂東玉三郎が初役で淀の方。和事のおかしみがたっぷりな「漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)」。中村鴈治郎(がんじろう)、中村芝翫(しかん)ら。打ち出しが、玉三郎他で長唄舞踊「秋の色種(いろくさ)」。25日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
渡辺保の劇評
2017年10月歌舞伎座

歌舞伎版「マハーバーラタ」

 
 インド神話の叙事詩「マハーバーラタ」が歌舞伎化された。
 序幕第一場、屏風絵風の極彩色の背景に高い壇上に黄金の仏像風の菊五郎の
那羅延天を中心に上手へ松也の梵天、下手に菊之助のシヴァ神、楽善の大黒点
が並んで「忠臣蔵」大序の竹本のオロシ、東西声で幕が開き、そこへ本花道か
ら左団次の太陽神、仮花道から鴈治郎の帝釈天が出揃ったその神々しさ、金色
まばゆい豪華絢爛さは目を奪うばかり、さすがにインドの大叙事詩が歌舞伎座
のスケールにはまって拍手喝采であった。
 青木豪脚本、宮城聡演出。
 まずは快調の滑り出しであり、あの長大にして難解複雑な物語が意外にわか
りやすく、むずかしいインドの人名もなんとかこなして、前後幕間をいれて五
時間弱。よくまとまったとは思うが、それでも三つの問題点がある。
 一つは、物語を通すのに急で、役者の仕どころ、観客の側からいえば芝居の
見どころがないこと。これではただの絵巻物であって、芝居としては組まれて
いない。
 二つ目は、人間の性根が描かれていない。
 この作品の主人公は、シヴァ神と菊之助二役の迦楼奈であるが、彼は太陽神
の子として生まれながら人間たちの戦争を止め、世界を救うという宿命を持っ
ている。しかしふとしたことから従兄弟の一人王位につくべき悪女鶴妖だ王女
と友情を結び、実の弟たちと敵対する。自分の運命からいえば、戦争を止めな
ければならない。これが彼の性根であるが、その戦争を止めるといっても大し
た苦労も見せる場がなく、なんでこの場にこの男がいるのかがわからないシー
ンが多い。つまり人間の行動が、モチべーションがきっちり描かれていない。
 三つ目は、せりふが乱暴すぎる。こういう原作である以上、現代人にもわか
りやすい言葉に書かれる必要があるし、現代語が時に入ってくるのはやむを得
ないにしても、その人物の行動や思想を表す言葉が貧しい。たとえば迦楼奈が
自分の運命を悟って、那羅延天に教えを授けられるところは、大詰の白眉であ
るはずだが、原作の哲学がむずかしい上に、せりふがうまく書けていないため
に、見ていてなんのことかよくわからない。
 以上三点。折角の大企画にもかかわらず絵巻物にとどまった理由である。
 菊五郎の那羅延天はさすがに座頭の貫禄。菊之助の二役迦楼奈は凛々しいが、
すでにふれた三点によってドラマとしては彫が浅い。対する松也の阿龍樹雷王
子は力演であるが、実の兄を殺してしまった悔悟と悲しみがうすい。しかしこ
れは台本のせい故、仕方がないか。
 時蔵の汲手姫は、これも性根がもう一つ鮮明でないが、これは時蔵のせいで
はない。梅枝の若き日の汲手も平凡。梅枝はそれよりも二役森鬼飛がいい。
 七之助の悪女鶴妖だは手強くていい。そのほかの役々のうちでは、亀蔵の風
い魔王子が目につく。
 夜の部第一は、玉三郎初役の淀君で「沓手鳥狐城落月」の奥殿、乱戦、糒庫
の三場。
 玉三郎の淀君を期待して行ったが、歌右衛門以来だれも坪内逍遥をうたわな
くなって玉三郎もしかり。きわめて心理的で奥殿など次の糒庫につなげるため
だろうか、後半半分気が狂っているように見えて面白くない。玉三郎ならば堂
々とせりふをうたって、この役の面白さを復活してくれるかと思ったがそうは
ならなかった。それのみならず今夜は二日目の故もあるだろうが滑舌あざやか
ならず、息つぎ、間の取り方も十分ではなかった。その点は日ならずしてなお
るだろうが。
 糒庫になると、さすがに「また来おったか」の第一声から凄味がついて奥殿
よりはいい。「わらはの化粧箱も同然」あたりのスケール、凄味はいいが、そ
の後は平凡である。
 万次郎の正栄尼と彦三郎の氏家内膳がしっかりとしている。児太郎の常盤木
は役に負けているが是非なし。梅枝の饗庭の局,鴈成の大蔵卿の局、松也の大
野修理、米吉の千姫。
 七之助の秀頼がキッパリしているが、母への情愛、豊臣家の崩壊を一身に背
負う悲劇の深さまでは出なかった。
 さて、今月一番の見ものは、次の芝翫、鴈治郎の「唐人殺し」。上方版で序
幕が長崎丸山千歳屋の門口と奥座敷、廻ってもとの門口。二幕目が国分寺客殿
と奥庭殺しの二幕五場。奈河彰輔補綴の台本をさらに整理して一時間半。短く
簡潔になったのはいいのだが、お宝内見の時刻、にわかの出船のいきさつがわ
かりにくい。その混乱はプログラムにも及んで、唐の使節の出船が「都へ向け
て出船」と書いた数行あとに、唐使が「自国へ帰る」とある。「都」といえば
当然京都(実は江戸)であり、「自国」といえば中国だろう。この船はどこへ
行くのか。これでは初心者は混乱する。
 今月これ一役の芝翫の大通辞幸才典蔵がいい。序幕の花道の出から、ごく普
通のいい人という解釈は、これはこれで面白く、なによりも世話の、地の芝居
が確かなのが芝居を盛り上げる。
 伝七に高尾のことを頼むために、フッと持っていた紅葉の扇子を渡しての引
込みの伝七への思い入れも芝居としては十分の出来である。
 もっともその普通の人が、伝七と高尾の仲を知って怒りに燃えるのはいいと
しても、ここでガラリと変わる凄味が少し足りない。「心の闇」という、その
闇が多少うすいからである。
 国分寺になってからも最初はやはり普通の人でいるのが、それはそれで一理
ある解釈だが、もう観客は典蔵の変心を知っているのだから敵役で行った方が、
あとの芝居が盛り上がるだろう。ここでも普通の人でいてガラリといじめにな
る方がいいという考え方だろうが、それでは序幕と同じになってつまらず、こ
こははじめから敵役に徹して奥庭までグイグイ押していくべきだろう。「忠臣
蔵」の師直とは違うのである。
 しかしその難点を差し引いても、芝翫は立派な大敵。線の太さ、スケールと
もにいい典蔵である。
 対する鴈治郎の伝七は、こういう役に色気が出て、ユーモラスなところが自
然に出ている具合がいい。まだまだこれからであるが、この珍しい作品を復活
したのはお手柄である。
 この二人の奥庭の殺しは、昼の「マハーラバタ」の大詰めの立ち廻りにうん
ざりしていた私には一服の清涼剤。歌舞伎はこれでなければならない。
 七之助の高尾は、まだこの役には無理。つい典蔵の情けにほだされて伝七と
の仲を口走ってしまう辺りの芝居の面白さ、女心のはかなさはまだ不十分。
 米吉の名山は、ほとんど飾りものの如く、さすがに高麗蔵の和泉之助が、又
五郎や秀太郎ほどではないが、こういう現代ばなれのしたつつころがしの役を
よくやっている。努力賞。
 下役須藤丹平は、この芝居では大事な役で若い福之助には無理。ワキの端敵
の腕達者がつとめるべきだ。
 亀蔵の呉才官、橘太郎の珍花慶。
 友右衛門の千歳屋の女房、松也の奴光平。
 奥庭の殺しは、今まで純日本風の渡り廊下であったように思うが、今度は朱
塗りの中国風で、序幕の千歳屋との対照を失ってよくない。
 夜の部の最後は、玉三郎の舞踊「秋の色種」。もとより長唄の素の曲として
有名なものだが今度花柳寿応・寿輔の振付で私ははじめて見た。
 踊りとしてはさして面白くはないが、玉三郎の持ち味のあでやかさ、背景の
月や星の美しさ、勝国の三味線の虫の音、それに今度は梅枝と児太郎の二人が
からんで、しかも琴を弾くという大サービス。キレイづくめのムード舞踊。玉
三郎が若い二人に入ってなおだれよりもきれいに見えるのは驚くほかない。二
人の琴がおわると黒の衣裳にかわって、今度は二人の娘の母親という景色もい
い具合である。 

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『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/
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ちょっとだけ遅れたのですが無事に着席しました。白鳥さんが入院して点滴されていた時に輸液バッグを点滴箇所より低いところに置いて輸液に出血が混じったとか、病院の中で迷ったとか、白衣のお婆さんがエレベーターから出て来てぎゃぁだったとか、お婆さんは地下の風呂に行きたかったんだけどエレベーターで迷ってたとか、相変わらず実話が落語みたいに面白い。
 お腹回りが随分凹んでシュッとしてます。力が出ないそうで、一席目でくらくらしてるとか。でもやりきってくれてありがとう。

真夜中の襲名/白鳥
 私が落語デイズとかお台場とかネット配信でいろいろ聞きかじっていた頃、聴いたネタですね。白鳥さん(師匠と呼びにくい)が言うには、こぶ平の正蔵襲名の時につくってかけ、一平の三平襲名の時にもかけたネタで久しぶりだとか。作風的には「流れの豚次 任侠流山動物園」の原型で、私の頭の中では白鳥さんの動物イラストとともに白鳥どうぶつシリーズとして記憶されています。
 上野動物園のふれあい公園に連日子供たちに触られている(虐められている)パンダウサギのピョン吉が、大名席の「カンカン」に憧れるが、「カンカン」は生まれたばかりのジャイアントパンダの赤ちゃん「シャンシャン」がいずれ襲名する名前に決まっていた。生まれによって決まってしまう襲名に怒って動物舎に抗議に行くピョン吉だが、長老のあした順子インド象先生のとりなしで、「ラビット亭園長」の大名席を襲名することが決まり、まん丸お月様の下で襲名ご挨拶するというおめでたい一席。
 「任侠流山動物園」のパンダがすげーヤクザで笑えるんだけど、こちらは赤ちゃんパンダが母パンダの政治力によって笑点出演が決められていたりで親の七光りでいい思いもするけど実力不足にいじけているというキャラクター造型。
 そういえば三平はNHK『落語THE MOVIE』で「ざる屋」をかけていた。寄席では漫談以外『ざる屋』しか聴いたことがないのだけど、だいぶ聴けるようになった。まぁニンも米あげざる屋にとても合っているので、ネタ数は少なくても寄席で生きていける芸人でいてくださいね。

牡丹の怪/白鳥
 柳家ミミちゃんが主人公で、師匠の小三治も登場する。『牡丹灯籠』をパロディ化していて、練馬の飯島病院の院長先生が再婚して、後妻と折り合いのつかない令嬢お露さんが目白の別邸にお手伝いの米さんと一緒に暮らしている。身体が弱くて庭の草花を育て、落語を聴くのが趣味。師匠に紹介されたミミちゃんはお露さんといい仲になるのだが……。
 途中展開にちょっとエッチな場面あり、後半はB級ホラーじみた展開。けど、オチは白鳥作らしい駄洒落。高田馬場と目白の間に素敵な名所ができました(ネタ)。

仲入り

雪国たちきり/白鳥
 白鳥さんの故郷の高田のお隣の城下町で、商家の若旦那が津軽から来た芸者の小糸に惚れ……津軽三味線が鳴るラストがちょっともの悲しい白鳥版「たちきり」。
 こりゃ確かに十何年か一度にしかかけられないわ(汗)。
たまたま都合がよかっただけなのだが、初日に見に行った。

シネマ歌舞伎「四谷怪談」

 コクーン歌舞伎を生で観た時の感想は下記。
渋谷・コクーン歌舞伎「四谷怪談」

 舞台で見た時と印象あまり変わりないかも。現代と江戸時代の混ぜ方があまり効果的でないように思う。現代でもあり得る話というメッセージだけなら、モブを割り込ませなくても音楽だけでかなり効果があったと思う。『三人吉三』がすっきりした画面で効果上げていたので、こちらは過剰な気がした。

 業と強欲が殺人やらお家乗っ取りやら近親相姦やらに繋がる、物語の力は強い。民谷伊右衛門とお岩の因縁話だけでなく、お岩の妹お袖を巡るふたりの男を後半で際立たせ、忠臣蔵のサイドストーリーである設定。

 勘九郎さん七之助さん獅童さん扇雀さん笹野高史さんなど俳優陣の魅力はほんと素晴らしい。勘九郎さん演じる直助と獅童さん演じる民谷伊右衛門。殺人を含めて手段を問わず、欲を見たそうとするが決して報われない。強欲と業の物語。

 やっぱり大きなスクリーンといい音響、シネマ歌舞伎は生の歌舞伎とは違う魅力。ネットで何度か見ているのに『め組の喧嘩』予告編で勘三郎さんを見て、ぽろぽろ泣いてしまった。
9/22夜の部

・ひらかな盛衰記 逆櫓
前半は、平和な船頭一家が取り違えで預かった子の素性が知れ、人のいい入り婿の正体が実はという話。小さな第二場があって、遠景に主人公が若い船頭に逆櫓を教えている場面、子役で遠景に見せるという趣向が面白い。第三場は碇知盛の着想の元となった、船頭多数との戦闘シーンから大碇を投げつけるシーン、最後は畠山重忠が出て来て締め。でも主人公はお縄になり、守った主君の子の命と引き換えに切腹する運命。
 ……吉右衛門がもう少し若い時に見たかったなぁ(ぼそ)。

・再桜遇清水
 最初は北条の桜姫と千葉家の若侍の恋物語で始まり、ちょっとシェイクスピア『真夏の夜の夢』か『十二夜』あたりのテーストなんだけど、桜姫の美しさに魅せられて彼女のために殺生戒を破った僧清玄が破戒僧に墜ちてなお桜姫を求める展開はプッチーニ『トスカ』も真っ青。衆道あり強盗殺人あり、小姓ふたりの入水自殺あり、どうなるかと思ったら最後は『四谷怪談』ばりの怪談オチ。死して成仏できない清玄が化けてなお桜姫を求めるスリラー仕立ての幕は後味がよくはなかったけど、高潔な僧が恋に落ち、肉欲物欲に怪物化するあたりは結構好き。染五郎が陽気な奴と破戒僧清玄の両方を演じ、時には笑いを呼びつつ最後のスリラーまでよく化けてくれた。雀右衛門の桜姫はやはりハマリ役だし、米吉と児太郎の若衆コンビが可愛美しい。

9/23昼の部

・彦山権現誓助劔 毛谷村
仇討ちものの傑作。女武道の菊之助が美しい。染五郎&菊之助の美男美女でうっとり。

・仮名手本忠臣蔵 道行旅路の嫁入り
通しで踊りなので、ついうとうとと。

・極付幡随長兵衛 「公平法問諍」
やはり吉右衛門は似合うなぁ。

芝居も極付、感動の長兵衛 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」
 初代中村吉右衛門の俳名を冠し、功績をたたえる「秀山祭」。孫の二代目吉右衛門が、初代ともどもの当たり役である2作品に主演した。

 昼の「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」が河竹黙阿弥の名ぜりふと呼応して感動的。江戸・花川戸の侠客(きょうかく)長兵衛(吉右衛門)と旗本水野十郎左衛門(市川染五郎)との男の意気地をかけた対決。「長兵衛内」の場がことにいい。吉右衛門が、死を覚悟して後事に思いをはせる「歎息なして…」の語りにつれ、顔を硬直させる。無言の容貌に宿る芝居の醍醐味(だいごみ)。竹本葵太夫の炎のような浄瑠璃も、名演に火をつける。染五郎初役の水野の作りも眼を射る。白塗りに映える憂愁。含みある面立ちに人間性の分の悪さをあらわにする。見事な水野像だ。

 夜に「ひらかな盛衰記」から名場面「逆櫓(さかろ)」。せりふ、見得と俳優の器量で見せる時代物。吉右衛門が軟から硬へ、町人の船頭松右衛門から実は武将樋口次郎へと鮮やかに変わる。漁師権四郎に中村歌六(かろく)。

 夜の最後に吉右衛門が松貫四(まつかんし)の筆名で書いた「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」。歌舞伎伝来の「清玄桜姫物」にアイデアを借りた。美しい桜姫(中村雀右衛門(じゃくえもん))に恋い焦がれてしまった僧侶清玄(染五郎)が破戒、堕落をものともせず、殺され幽霊になっても姫に付きまとう。人間の業を諧謔(かいぎゃく)味たっぷりに描く。吉右衛門が32年前に作、主演。歌舞伎座では初上演。昼はほかに「毛谷村(けやむら)」と舞踊「道行旅路の嫁入」。25日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
<評>吉右衛門、緩急自在 歌舞伎座「秀山祭大歌舞伎」
 歌舞伎座は初代中村吉右衛門の芸をしのぶ秀山祭。昼夜にゆかりの演目が並ぶ。
 昼の部「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」の吉右衛門が素晴らしい。緩急自在のしみ通るようなせりふで、「たかが町人風情」の自分の死に場所を見定めた男の覚悟を浮き彫りにする。その覚悟をあくまでも静かに受け止める中村魁春(かいしゅん)の女房お時も感動的。中村又五郎が劇中劇の坂田公平と出尻清兵衛で好演を見せ、中村錦之助の近藤登之助に悪が利いていい。中村歌六の唐犬権兵衛、市川染五郎の水野十郎左衛門。
 「彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち) 毛谷村」は染五郎の六助、尾上菊之助のお園が華やかにして爽やか。お園のクドキに悲哀がにじみ、六助は出立で義太夫にのるところがわくわくさせるおもしろさ。又五郎の微塵弾正(みじんだんじょう)実は京極内匠、上村吉弥の後室お幸。昼の部は他に坂田藤十郎の戸無瀬、中村壱太郎(かずたろう)の小浪、中村隼人の奴(やっこ)で「仮名手本忠臣蔵 道行旅路の嫁入(よめいり)」。
 夜の部は「ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)」から。吉右衛門の松右衛門実は樋口次郎兼光は、カドカドの見得(みえ)が錦絵そのまま。中村歌六の権四郎は孫の死を聞いての衝撃と悲嘆、そして怒りと、胸の内が手に取るように伝わるきめ細かさ。中村東蔵の女房およしとともに、名もなき生活者のリアリティーに満ちている。中村雀右衛門のお筆、市川左団次の畠山重忠。
 「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」は吉右衛門が松貫四(まつかんし)の名で清玄桜姫物の古作を書き改めた作品。芝居の足取りがやや重いが、適役ぞろいで、埋もれた演目を甦(よみがえ)らせる意義ある試み。二十五日まで。
(矢内賢二=歌舞伎研究家)
渡辺保の歌舞伎評
2017年9月歌舞伎座新しい長兵衛
 今日、私は新しい長兵衛を見た。吉右衛門の「湯殿の長兵衛」である。別に

変った新演出があるわけではない。いつもの通り。しかし回を重ねて洗練され

て、今まで見えなかった一本の線がつながって、長兵衛という男の人生のドラ

マがはっきり浮かび上がった。これだから古典は同じものを何度見てもその度

に新しい発見があるのだ。

 むろん「湯殿の長兵衛」はいつ見ても江戸ッ子の男一匹、意地の張り合いか

ら殺される男の話であるが、今度はそうではなかった。死に場所を自ら発見す

る男の話であった。人間はいつか死ぬ。しかしいつ死ぬかはだれもわからない。

死を自ら求めるのは単なる自殺に過ぎない。長兵衛は自殺者ではない。自ら死

に場所を発見した。ここで死ななければならないと思い、そうすることが自分

の人生を全うすることだと思った。全てを終わらせようとしたのではない。そ

こが自殺と違う。

 たとえば二幕目の花川戸の長兵衛の内の長兵衛自身の告白を聞いているとよ

く分かる。今度の吉右衛門のそれは、自然な軽さのなかに実がこもっていて、

そのリァリティがこれまでにない深さである。すでに夫の覚悟を知っている魁

春の女房お時がせっかく仕立てた黒紋付がこんな役に立とうとは思わなかった

という。そうすると長兵衛はこれが一世の晴れ舞台だからこそ仕立て下ろしを

着るのだという。なぜ晴れ舞台なのか。実力があっても所詮しがない町奴にと

って士農工商の身分制度は鉄壁であった。その鉄壁に向かって長兵衛は革命を

起こしたわけではない。八千石の旗本と対等に死ぬのは晴れ舞台だと思った。

むろんたかが八千石である。八万石でも八十万石でもない。そこに長兵衛の勇

気と哀れさがある。

 彼が偉いのは彼がプライドを捨てなかったこと。体を張って血の涙を流しな

がら生きて来たからである。多くの人の難儀になることを知りながら、ここが

自分の人生の終末だと思った。そこにこの男の発見がある。今度の吉右衛門の

長兵衛はそういう男のドラマであった。

 序幕村山座の名調子もさることながら、それ以上に大事なのは坂田金左衛門

に対してあくまでお詫びに出たのでございますといっていることである。この

卑下した態度が一貫している。初代吉右衛門の長兵衛は愛嬌こぼれるばかりで

あったが、その愛嬌こそ士農工商の最下位にいる人間の被差別感覚とそれを超

えようとする方便から出る。当代またそれに近く初代の光彩につながっている

と同時に、次の幕の花川戸の内での述懐で爆発する。私が一本筋が通って男の

ドラマが浮かび上がったといい、新しいという所以である。

 大詰水野の屋敷では、風呂場へ誘われてよんどころなく立ち上がって向うを

見る思い入れが、夫婦、親子の別れの情が出てうまい。それに引きかえて湯殿

では満場を沸かせる、ここ一番の大タンカ、胸のすく出来である。

 魁春のお時は、あえてベタベタせずにサラリとしながら、夫の気持ちは底の

底まで知っている女房を描いて、しかも風格がある。

 又五郎が村山座の坂田金平の大荒事のあとすぐ引っ返しての三枚目の出尻清

兵衛で腕を見せる。ことに金平で舞台番に思わず「もう大丈夫なんだろうね」

というさり気なさ、可笑しさがうまい。橘三郎の慢容上人が手に入ってうまい。

 染五郎の水野は悪が効かないが、この年配では仕方がない。その分錦之助の

近藤登之助が悪を聞かせて水野を助けている。

 歌六の唐犬権兵衛が舞台を締めている。

 錦吾の渡辺綱九郎、吉三郎の保昌武者之助、吉兵衛の舞台番、蝶十郎の中間。

脇のなかでは吉之亟の坂田金左衛門がいい。

 児太郎の頼義、米吉の御台、松江、亀鶴、歌昇の子分。

 以上この芝居がこの興行一番の見ものである。

 昼の部はこの前に染五郎、菊之助の「毛谷村」と藤十郎、壱太郎の「八段目」

の道行がある。

 「毛谷村」は次代の歌舞伎を背負う二人。ことに染五郎の六助がいい出来で

ある。前半の「なんとでごんす、ぼろんじどの」の愛嬌から、太鼓を叩いてス

キを見せずにお園への物語がいい。お園と知れてからの居所が真中へ出過ぎて

せせこましいほかは、ニンも芝居もいい。後半、斧右衛門が出てからはやや力

不足。タッチが弱くなる。しかし「義の一字」と扇を開いた大見得で大分取り

返した。まずは上出来である。

 菊之助のお園は花道の出がよくない。女が男装しているという面白さがはっ

きりしない。男か女かわからぬ中途半端。相手が六助と知れてからは、尺八を

火吹き竹と取り違へたり、臼を持ち上げたりするのがとかく段取りめく。六助

への狂熱的な思いが出ていないからである。くどきはカラミを使って一通り。

型通りであるが、もう少し色気が欲しい。

 この一幕では又五郎の微塵弾正が、凄味、憎みともによく、今月昼の部の三

役、大当たり。

 吉弥のお幸は、人品卑しからず、立派な吉岡家の後室。ことに後半斧右衛門

が入ってから舞台にスピードが出たのはこの人のリードの力である。吉之亟の

斧右衛門は突っ込みが足りず不発。

 次の「八段目」は、私は藤十郎の戸無瀬をはじめて見た。九段目は再三見た

が八段目は東京では初役。小浪とともにせり上がったところはさすがに立派な

風格。しかし仕どころがあまりない役だから、それまでである。

 藤十郎とともにせり上がった壱太郎の小浪が十分藤十郎に対抗するだけの立

派さには一驚した。ここのところ大いに芸格が上がったからである。しかしと

かく顔を上げすぎるのはよくない。むろん小浪は力弥に会えて嬉しいだろうが、

同時に不安もあるはず。上を向いてばかりいては、その性根を失う。

 隼人の奴。

 夜の部は、吉右衛門の「逆櫓」と染五郎、雀右衛門の「清玄桜姫」。

 吉右衛門の樋口は、前半花道のはなやかさから、梶原に目通りしての物語の

うまさが、浮き立つようで面白い。後半は「権四郎、頭が高い」で門口の柱に

つかまって向こうを見込んでのキマリ、二重に上がりかけて振り返っての裏見

得、表になっての大見得まで錦絵の美しさ。これぞ歌舞伎という味わいで堪能

させる。物語はわずかな動きでありながら大波が波頭に砕ける如き面白さであ

る。「そめろの山、千尋の海」の情愛、遠見を挟んでの逆櫓の松の大立ち回り、

物見のカドカドの見得の立派さ。いずれも堪能させる。

 歌六の権四郎が秀逸。ことにお筆の話を聞いている間の、絶望に打ちひしが

れてジッと動かずしかもハラで芝居を受けている具合が印象的であった。今日

の権四郎である。

 東蔵のおよしは、お筆が帰るというのを聞いて引き留めるところに、わが子

可愛さからせめてこの人と話をして居たいという母親の情、女の気持ちが出て

ホロリとさせる。このあと権四郎に手を引かれてのれん口へ入る時、二重に上

がった歌六、東蔵がフッと立ち止まる。その二人の背中に親子の不運を思わず

にはいられなかった。結婚によって血族には他人が入ってくる。そして新しい

絆が生まれる。およしの再婚、樋口の入り婿。まして武士と船頭という身分の

差。その人間関係の複雑ななかから樋口はむろん、およしも権四郎も生きてい

かなければならない。そう思わずにはいられない親子の後姿であった。

 雀右衛門のお筆はベテランに囲まれてまずは神妙な出来。又五郎、錦之助、

松江の三人が船頭に出る顔揃い。

 左団次が重忠。

 次の「清玄桜姫」は南北の名作「桜姫東文章」の先行作。南北のネタは全部

ここに揃っていることがわかる。その「遇曽我中村」という古い脚本を吉右衛

門が三十年余り前に「松貫四」の筆名で脚色、四国と大阪で上演したが、私は

どちらも見なかったので今度はじめて見た。吉右衛門監修、戸部和久補綴。

 全三幕のうち、序幕新清水花見の場は、染五郎の清玄上人と奴波平の二役早

変わり、錦之助の千葉之助清玄、雀右衛門の桜姫、魁春の山路という適役揃い

なのに、いささか冗長な上に、演出がキッパリせず、役者が芝居に慣れぬとこ

ろもあって芝居がこなれていない。

 一つだけ例を挙げる。千葉之助と桜姫の不義が証拠の手紙で手詰めになった

時、山路がその手紙は「キヨハル」ではなく「セイゲン」だと主張するのを思

いつくところ、セイゲンが偶然石段の上に立っているのは、芝居としては面白

くない。なんのためにここへ清玄が出て来たのかがわからず、その分山路が思

いつく運命的な瞬間が立体的になっていない。

 桂三の荏柄の平太が手強くない上に、一味の吉之亟の大藤内が神職だといい

ながら雑色みたいな格好しているのも軽々しい。敵役陣が弱いので主役たちに

枷が掛からないのである。もっと整理して演出を面白くすればいい芝居になる

のに惜しいことである。

 二幕目雪ノ下桂庵宿の場は、原作の風俗描写をするには装置が原作と違って

ありきたりの店先であるのが不自由。原作が面白いだけに残念。

 大詰六浦庵室になってもまだ物語がごたつく。児太郎、米吉の寺小姓も、京

妙の富岡の後室もカットしてここまで来たらばもう清玄桜姫に筋を絞った方が

インパクトもあり、役者も仕甲斐があったろう。現に染五郎、雀右衛門、錦之

助の三人もここでグッとよくなる。

 再演に期待したい。

 

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8月から頸椎手術のため休養していた小三治師匠を心配していたのだが。

国宝・柳家小三治さん高座復帰 手術で療養、1カ月ぶり
 頸椎(けいつい)の手術で療養していた人間国宝の落語家柳家小三治さん(77)が13日夜、岐阜県多治見市で開いた落語会で、約1カ月ぶりに高座に復帰した。
 口座にちょっと上がってくれてお喋りしてくれたらいいなぁ、という思いで「柳家小三治独演会」のチケットを手に大田区区民ホールアプリコへ。
 「独演会」は「一門会」に変更。それでも大トリに師匠が上がってくださる。

元犬/小八
そば清/〆治

仲入

目薬/一琴

マ・ク・ラ
転宅/小三治
 京都で頸椎手術を受け、療養のため京都をあちこち見てきました、という話からいろいろ派生。東寺、大原三千院(永六輔の歌詞をくさす)、鞍馬、御所、二条城、十分行けなかった嵐山の渡月橋。ようかんの虎屋の本家は御所のそば。でも小三治さんにいろいろ廓の話を聞かせてくれた浅草の結髪さんのおすすめは先代の白松がヨウカンの栗羊羹。それぞれに派生する話がたくさんあった。
 口開けだけちょっと言葉が出て来なかった感じだったけど、後は滑らか。
 しかも「転宅」までかけてくれた。出来は療養前よりいいと思う。
 小三治師匠、寿命を延ばされたようだ。

新築のホールというのに、談春さんが「何かあったら二次災害起こりかねないので、出口に殺到せず、そのままじっとしていた方がいい」と案内する、非常口少ないつくり。はけた後の階段の込み具合は、よみうりホール並み。トイレも個室が狭いし複雑な構造のため人の流れが悪い。
 うーん、駅から少し歩くし、大箱はあまり好きじゃないので、あまり寄りたくない日本青年館ホール。



実はこけら落としではない。こけら落としに相応しいのは志の輔兄さんで、自分はむしろクローズの時。

映画「忍びの時」ではオープニングに顔アップで登場する。日曜劇場に落語家枠ができたらしい。

自慢話といえば志らくが面白い。

といった四方山話を枕に、
1. かぼちゃ屋
1. 三年目
(仲入)
1. 文七元結

文七元結には「2017 夏」という副題がついてました。現代的な解釈だと思いますが、なぜ文七が親分から五十両の借金をできたか(左官屋の腕もさることながら娘のおひさを吉原に売れば五十両は取れる)、なぜ佐野槌の女将が文七に金を貸したか・二年の期限を設けたか、とひとつひとつがロジックです。自分と家族が立ち直るための五十両を何の縁もない文七に五十両投げつけるように渡したかは「江戸っ子だから」としか言いようがない、のですが。

談春さんの長兵衛は腕はあってもどこかに甘えがある、時に子供のような見えをはる、という造詣で、江戸というよりは戸田競艇場の風が吹く感じがないでもないのですが(爆)、談春さんの文七です。

そして、今日ちらっと言ってましたが、歌舞伎「文七元結」を中村勘三郎・文七、佐野槌おかみ・玉三郎、おひさ・松たか子で見ていたらしい。少なくともおかみの玉三郎は談春さんの『文七元結』に反映されていますし、確かに勘三郎さんっぽさも文七にありました。


千穐楽で第一部・第二部。第一部はいつもの3階席でしたが、第二部はチケット取りにくかったのでやむなく1階席を奢りました。後ろの方でしたが、やじきたの演出上花道以外の出入りがあり、勘九郎さんがかなり近くに見えたのが嬉しかったです。

第一部
刺青奇偶……玉三郎演出の好みなんだろうが、舞台がとにかく暗い。見づらい。そして長谷川伸のお涙頂戴な感じは私の好みでないこともあり、見ててしんどかった。七之助さんは玉三郎さんそっくりだったけど、第三部に自分を出し切っているせいか、ここではちょっと抑えめ。中車さんは歌舞伎でも新作ものは演技力が映える。でも収穫は染五郎さんの親分、この人の持ち味よりも風格が必要な役柄だと思うのだけど大親分の風格が出てた。

玉兎……勘太郎くん綺麗に踊りきった。踊りの名手の血筋なので期待も自ずと高くなるけど6才の今後が楽しみ。

団子売り……やっぱ踊り上手の舞台は素晴らしい。勘九郎さんも猿之助さんも軽やかに美しく踊るなあ。

修善寺物語……途中意識をなくしたところがあるが(汗)、勘九郎さんの頼家の後ろ姿が美しかった(橋之助さん弁慶を相手に富樫を演じた時の気品を思い出した)。彌十郎さんは最後の職人の執念というか芸術家としての狂気が、今月は桜の森が衝撃的だったのでちょっと物足りない。猿之助さんの桂が見事。

やじきた……前作はシネマ歌舞伎で見たけど笑いのセンスが自分には合わないと思う(そういえば猿之助さんの三谷幸喜さん舞台『エノケソ』でも合わないと思った)。でも猿之助さん染五郎さんの弥次喜多に若手もかなり出てて豪華だったし、途中からAパートBパート観客に選ばせる趣向とか凝ってはいた。子役では染五郎さん長男の金太郎くんは芸達者なのがデフォなんだけど猿之助さん長男の團子くんも以外にいい役者ぶりだった。いろいろ言われているけど、頑張って結果出してると思う。松也さんが劇中で狐忠信を演じる役者、巳之助さんが静御前を演じるけど松也さん役の事故で狐忠信を演じるという女形も立て役も演じる役者で身体能力高い。あと先月に続いて児太郎が悪婆っぽい役でドスのきく声出してて、可愛らしい姫役以外のレパートリーを広げつつあるので福助襲名が遅れているものの若手女形の中でも光ってる。勘九郎さん七之助さんもちょい顔出し。


 座頭役の中車さんのカマキリ好きに合わせてカマキリのご紋。

長谷部浩の劇評 【劇評82】玉三郎写しの『刺青奇偶』
歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎の第一部、第二部は、高い青空が見えたとはいいがたい。

まずは長谷川伸の『刺青奇偶』(坂東玉三郎・石川耕士演出)は、玉三郎の目が光る。冒頭の酌婦、お仲(七之助)は、風情、口跡、所作いずれも玉三郎写しで、七之助が行儀良く初役を勤めている。冒頭、舞台の照明が暗いこともあって、玉三郎がお仲を勤めているのかと目を疑った。それほど忠実な写しだと思った。

中車の半太郎が、また、すぐれている。歌舞伎のなかでの居場所が次第に定まってきたが、慢心が見えない。

人生にとことん失望した女が、それでも惚れてしまういなせな様子がよく序幕で、ふたりの不安定な関係をしっかりと見せる。これは七之助、中車の柄と仁をよく踏まえた演出の力によるものだ。

長谷川伸の劇作は、ときに前半と後半で、主人公二人の立場が逆転する。はすっぱだった酌婦が、病を得て亭主の将来を案じる。博奕打ちだった夫は、足を洗ったが、どうにもあがきがつかない。ふたりの思いがどうにも噛み合わないところに、劇作の巧みさがある。中車は後半、決して捨て鉢にならずに、未来へと一縷の望みを捨てない。細いながらも一本芯が通っていて説得力を持つ。

錦吾の半太郎父、喜兵衛。梅花の母おさくが、ふっと人生のむなしさを漂わせてよい。これほど貫目が出たのかと感心したのは、染五郎の政五郎。たしかに衣裳のなかに「肉」はいれているのだろうが、そんな外見など必要としないだけの落ち着きと貫禄が備わってきた。来年の襲名に向けて、一歩、一歩、努力を重ねているのだろう。

続いて踊りは、勘太郎の『玉兎』と、猿之助、勘九郞の『団子売』。勘太郎は踊りも得意とされる家に生まれただけに修業中の身。これからが楽しみだ。また、猿之助、勘九郞は、踊りの巧さに溺れず、風俗を写す役者の踊りに徹している。

第二部は、岡本綺堂の『修禅寺物語』(市川猿翁監修)。初世坂東好太郎の三十七回忌、二世板東吉弥の十三回忌。父と兄の追善を出せる役者となって、彌十郎渾身の舞台となった。いわゆる芸道物である。彌十郎の夜叉王は、はじめ気難しい面打ちと見せたところが、最後は、姉娘桂(猿之助)の断末魔を絵に写し取るだけの覚悟のある芸能者へと変わっていく。はじめから決意のある人物とするか、それとも、桂が頼朝(勘九郞)に望まれて家を出て、しかも頼朝が闇討ちを受け、桂が手傷を負い戻ってくる過程で、芸能者としての覚悟を強くしたのか。彌十郎は、全体を一貫させており、この役者、持ち前の人の良さを見せまいと勤めている。そのため、自分を律するに厳しい夜叉王となった。ときに自分の芸に対する自負や末娘楓(新悟)に対する愛情を強く出してもよい。

秀調の修禅寺の僧、巳之助の楓婿の春彦が、役をよくつかまえて、劇を支えている。

続いて『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』(十返舎一九原作、杉原邦生構成、戸部和久脚本、市川猿之助脚本・演出)。ラスベガスへ染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八が旅をした昨年の納涼歌舞伎を前作として、趣向本意の芝居を立ち上げた。(片岡)亀蔵の役名に「戸板雅楽之助」とあるように、劇評家戸板康二の一連の名探偵雅楽物を意識した推理劇仕立て。名探偵コナンなども意識しているのだろう。見どころは、沢潟屋の芸、『義経千本桜』の『四の切』をトリックとしているところで、舞台裏の仕掛を見せているところが観客を惹きつける。

また、金太郎の伊月梵太郎と團子の五代政之助が、弥次郎兵衛、喜多八と対になっているとこも、ご趣向。

かつて『野田版 研辰の討たれ』で、十八代目中村勘三郎が、染五郎と勘九郞(当時・勘太郎)を「坊ちゃん一号、二号」と呼んで大笑いさせたのを思い出した。『四の切』に対する言及とともに、こうした役者の血縁をチャリとするのはさじ加減がむずかしい。二十七日まで。
渡辺保 2017年8月歌舞伎座
(略)
「桜の森」の第三部に対して、第一部は中車、七之助の「刺青奇偶」と舞踊
の上下二幕。上の巻は勘太郎の清元「玉兎」、下の巻が猿之助、勘九郎の竹本
「団子売」。第二部が坂東好太郎、坂東吉弥追善で、好太郎の三男、吉弥の弟
である施主弥十郎の夜叉王で「修禅寺物語」と去年当たった染五郎、猿之助の
弥次喜多の新作「歌舞伎座捕物帖」。

 第一部の見ものは「団子売」である。猿之助の女房がほんのわずかな手ぶり
―――たとえば餅を取ってトントンとおこつく振りが絶妙の面白さで、この踊
りでやっと溜飲が下がった。対する勘九郎の亭主は、さすがに亡き三津五郎の
仕込みだけあってキッチリ踊って、猿之助の曲せ球に対して直球の対照的な面
白さ。この踊りくらべが第一部唯一の見ものである。
 勘太郎の「玉兎」は教わった通りに踊ってご愛嬌。
 さて「刺青奇偶」は玉三郎、石川耕士の共同演出。そのためだろう。七之助
の酌婦お仲は玉三郎生き写し。目をつぶって聞いていると玉三郎がやっている
のかと思うほどである。しかしそうなると玉三郎ではそう見えなかった序幕の
ふてくされ具合が、七之助だと実に嫌な女に見えてくる。七之助の個性が死ん
でいるためにお仲という女のイメージがつかまえられていないからである。
 その点、中車の手取りの半太郎は、それなりの独自の人間像を作っている。
ことに大詰の鮫の政五郎とのやりとりの、こんな瀕死の状況でも性根を失わないところがう
まい。
 猿弥の熊介がユーモラスでうまい。
 勘之丞の医者、芝のぶの近所の女房ともに生活感がない。錦吾と梅花の半太郎の親夫婦も平凡。
 染五郎が鮫の政五郎を付き合うが、まだ年配が足りないのは是非もない。
 かくして総体に水っぽい「刺青奇偶」になった。

 第二部の「修禅寺物語」は、弥十郎の夜叉王が抑えた心理的な芝居でいいが、
その分この男に潜んでいる職人としてのプライドの高さ、そのプライドゆえに
先の将軍頼家にも楯突く激情が薄い。これはのちにふれるせりふの朗誦法にも
かかわるだろう。
 幕開き、例の如く砧を打つ桂と楓姉妹のせりふで始まるが、猿之助の桂が観
客の気持ちを一気にとらえるリアリティがあってうまい。この女の生まれ、育
ち、そこから来る性格の権高さ、生き方の理想手に取る如くである。新悟の楓、
巳之助の春彦がこの猿之助に食いついていい。
 勘九郎の頼家は、この人ならばいま一息鋭いだろうと思ったが、意外に穏や
かである。
 亀蔵の金窪兵衛が本役。秀調の修禅寺の僧、万太郎の下田五郎。
 さてこのメンバーの一座過不足のない出来、リァリティは十分であるが、私
には大きな不満がある。いずれもせりふの歌うべきところを歌わないことであ
る。綺堂作品を歌舞伎役者が歌わなくなってからすでに久しい。おそらく幸四
郎歌右衛門の、久保田万太郎演出の「番町皿屋敷」以来だろう。しかしそれは
せりふを歌うことによってリァリティを喪失したことへの反省のためであった。
そのリァリティがこれだけ濃くて、しかもうまく表現されるようになったから
は、歌うところは歌ってもいいのではないかと私は思う。それが歌舞伎であり、
岡本綺堂の戯曲だろう。弥十郎の夜叉王にも猿之助の桂にも、今一歩激情が出
ないのはそのためである。考えてみればいくら芸術至上主義者でも、断末魔の
娘の死に顔をスケッチしようというのは異常だろう。父も父、娘も娘の狂気で
あるが、その狂気こそ歌うアリアに支えられているのであって、歌わなければ
夜叉王は唯の老父になってしまい、スケッチも芸術のためではなく、唯の遺品
を残すに過ぎなくなってしまう。それでは作者が書こうとした芸術にのみ生き
る人間の悲劇は意味を失うのではないか。 

 この後が、去年ラスベガスまで行った「弥次喜多」の第二編。杉原邦生構成、
戸部和久脚本、猿之助脚本演出。
 歌舞伎座で殺人事件が起きる。犯人はだれが。思い付きは面白いが、サスペ
ンスとしてはすぐ犯人がわかってしまうので面白くなく、ドラマとしての見せ
場もなく、喜劇としても爆笑とはいかなかった。劇中劇に「四の切」があって、
化かされの法師にバイトで出ていた弥次喜多が、間違いで宙乗りになるのが面
白いだけの芝居になった。構成も台本も芝居のツボを外しているからである。
 中車の座元、児太郎の女房、大道具の棟梁に勘九郎、鑑識の女医に七之助、
竹本に門之助、笑三郎、役人に亀蔵、猿弥、役者に巳之助、隼人、新悟、竹三
郎、弘太郎という、ほとんど一座総出なのにもったいない。
 
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歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」 金太郎と團子、成長ぶり披露
8月恒例の3部制。

 第1部。長谷川伸作の新歌舞伎「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」。最下層で生きる博奕(ばくち)打ちの半太郎(市川中車(ちゅうしゃ)=香川照之)と、女房お仲(中村七之助)の純愛を描く。落ちぶれ、いらだちを表出する中車の自然な演技と、死病の床から夫に博奕をやめさせようと、画然と訴える七之助。現代劇と歌舞伎の融合を見るよう。市川染五郎が人情味あふれる賭場の親分で新境地。続いて6歳の中村勘太郎の「玉兎」と父、中村勘九郎、市川猿之助(えんのすけ)の「団子売」の舞踊2題。

 第2部。岡本綺堂の新歌舞伎「修禅寺物語」。初代坂東好太郎(こうたろう)三十七回忌、二代目坂東吉弥十三回忌追善で、好太郎の三男で吉弥の弟、坂東彌十郎が夜叉王(やしゃおう)。姉娘、桂(猿之助)の瀕死(ひんし)の顔を写生する夜叉王の恬淡(てんたん)さに、慙愧(ざんき)を捨てた彌十郎の解釈が見える。昨年8月公演での好評を受け、再び染五郎の弥次さん、猿之助の喜多さんで「東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖(こびきちょうなぞときばなし)」。2人の宙乗りを含め、俳優陣総出のにぎわい。松本金太郎と市川團子(だこ)がコンビで成長ぶりを披露した。

 第3部。野田秀樹作・演出「野田版 桜の森の満開の下」。坂口安吾作品の潤色で、野田の夢の遊眠社時代の人気作を歌舞伎化。壬申の乱時代を背景に、国家権力の権謀術数(けんぼうじゅっすう)ぶりをシニカルに描き出す。(遺産争いを喜劇的に描く)プッチーニ歌劇のアリアが随所に流れ、今作のテーマが「だまし・だまされ」ごっこと分かる。耳男(みみお)に勘九郎。27日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
玉三郎、猿之助、野田秀樹…演出家で見せる8月納涼歌舞伎
 8月の歌舞伎座は「納涼歌舞伎」。いつもの月とは異なり、3部に分かれ、1部の舞踊を除けば、徳川時代の芝居はひとつもなく、明治、昭和、平成の作品で、役者もさることながら、それぞれの「演出家」を意識させる月となった。

 第1部は長谷川伸の「刺青奇偶」。昭和7年初演で、六代目菊五郎と五代目福助が主演した。この2人のひ孫にあたる中村七之助が「お仲」を演じ、市川中車(香川照之)が「半太郎」。バクチ打ちと、身を持ち崩した酌婦が知り合い、数年後、2人は一緒に暮らしているが、女は重い病で長くはない――と、ストーリーは陳腐なのだが、坂東玉三郎による演出は、すべてが抑制的で、見る側の想像力を必要とする。往年のフランス映画のような雰囲気で、見ごたえがある。

 第2部最初は岡本綺堂の「修禅寺物語」。坂東彌十郎演じる「夜叉王」が主人公のはずなのだが、脇役の市川猿之助演じる「桂」のほうが主人公になってしまう。猿之助の存在感の凄さを改めて感じた。
 次が新作「歌舞伎座捕物帖」。バックステージものだが、歌舞伎座で役者の連続殺人事件が起き、犯人は誰かを、染五郎の弥次さんと、猿之助の喜多さんが解いていくミステリー劇でもある。2種類の結末が用意され、その日の観客の拍手でどちらにするか決める趣向。猿之助は演出も担い、ドタバタコメディーに仕上げた。これはこれで笑えて楽しいのだが、このストーリーならば、シリアスな芝居にしても面白いように思った。

 第3部が「野田版 桜の森の満開の下」。野田秀樹にとって4作目の歌舞伎座での演出。これまでは既存の歌舞伎、オペラを脚色して演出したが、今作は野田自身の代表作「贋作 桜の森の満開の下」を歌舞伎化したもの。もとのセリフを七・五調に書き換え、それが売り物のひとつらしいが、そうしたからと歌舞伎らしくなるわけではない。野田演劇を歌舞伎座で歌舞伎役者を使って上演してみました、という実験にすぎない。そもそも30年近く前の演劇を、なぜいまリメークするのか、その意図が伝わらない。役者は、みな熱演。

「刺青奇偶」と「野田版桜の森の満開の下」での中村芝のぶが、出番は少ないが、名演だった。

(作家・中川右介)
(評・舞台)歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」 愛の破壊衝動、三つ巴
 第三部野田秀樹作・演出「野田版 桜の森の満開の下」は、お盆興行のせいか、亡き十八代目勘三郎をしのばせる。

 古代の飛騨の国で、ヒダの王(扇雀)は耳男(勘九郎)、オオアマ(染五郎)、マナコ(猿弥)に、娘夜長姫(七之助)の守護仏ミロク像を彫らせる。

 彼らは3人で1人の匠(たくみ)を形作る分身たちである。耳男は師匠殺し。オオアマは壬申(じんしん)の乱の大海人皇子。マナコは山賊。

 大海人は権力を奪い、山賊は滅び、耳男は仏を彫って、夜長姫を殺す。バルザックの「知られざる傑作」の画家のように、芸術家は自分の作品を破壊したい衝動を抱く。芸術家に限らず人は、愛する者に対して同じ衝動を持っている。

 夜長姫は耳男の恋人で、作品の寓意(ぐうい)である。全ては耳男が桜の下で見た夢だった。坂口安吾の原作では耳男が主役(シテ)で、他の2人は主役に随伴する役(ツレ)の匠に過ぎない。

 それをオオアマとマナコという独自の性格に書き換え、3人が対等の主役として、三つ巴(どもえ)になる舞台に仕立てたのが、野田版の特徴である。十八代目勘三郎が上演を望んだが果たせず、遺児たちに手渡された。

 舞台の命は絵よりも短い。愛する者による破壊の手さえ待たずに消えていく。終幕耳男が独り夢から覚める寂しさは、演出家の思いであろうか。

 第一部「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」は、中車の直情径行さが、手取りの半太郎の命がけの生き方によくはまっている。七之助の病身の女房お仲の情愛の濃(こま)やかさ。他に舞踊「玉兎」「団子売」。

 第二部は「修禅寺物語」。弥十郎の面作師夜叉(やしゃ)王のスケールが大きい。染五郎と猿之助の弥次喜多コンビで、娯楽本位の「歌舞伎座捕物帖」。

 (天野道映・評論家)
このメンバーだったらグダグダでも楽しいという、一之輔と白鳥と彦いちと白酒の落語会。しかも口上つき。



口上
 下手から一之輔、彦いち、白酒、白鳥。ソニーのCDジャケット撮影で使ったらしく、それぞれのカラーに合わせた座布団。一之輔イエロー、彦いちブルー、白酒ピンク、白鳥グリーン。なんだか戦隊ものみたい(笑)。
 一之輔の司会もグダグダなら、それぞれの挨拶もグダグダ。皆すぐに白酒の前座名(五街道はたご)と二つ目名(五街道喜助)が思い出せない。初めて会った場面を思い出せない。
 でも白鳥が、去年談春兄さんが30周年でゲストに白酒や白鳥を呼んだ会で、楽屋で「30周年ぽっちで記念落語会なんて、けっ」みたいなことを言ったとチクったのを始め、みんなろくでもない挨拶(褒め言葉)。白鳥の三本締めも入りの口上が締まらず。

代書屋/一之輔
 「代書屋」といえば権太楼なんだけど、一之輔版は吉さん本名は中村吉右衛門、母はメイ子さんという同姓同名バージョン。

黄昏のライバル/白鳥
 Q蔵の師匠は桃月庵白酒、池袋のおでん屋をやっているかつてのライバルは白鳥で。対決場面では60分の「ざるや」と「マキシム・ド・呑兵衛」で勝った方が「芝浜」をするということになってました。

ねっけつ!怪談部/彦いち
 この時期には一度は聞きたいネタなんだけど、新作聞きたいなぁ。でも今年初めてというくらい寄席に行ってない私じゃ当たらないよな。

井戸の茶碗/白酒
 熱血な屑屋さんで話がテンポよかった。

歌舞伎美人八月納涼歌舞伎より。
演劇史上に輝く珠玉の名作がついに歌舞伎に!
坂口安吾作品集より
野田秀樹 作・演出
  野田版 桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)
耳男 勘九郎
オオアマ 染五郎
夜長姫 七之助
早寝姫 梅枝
ハンニャ 巳之助
ビッコの女 児太郎
アナマロ 新悟
山賊 虎之介
山賊 弘太郎
エナコ 芝のぶ
マネマロ 梅花
青名人 吉之丞
マナコ 猿弥
赤名人 片岡亀蔵
エンマ 彌十郎
ヒダの王 扇雀
野田版 桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)
現代演劇史に輝かしい軌跡を残した戯曲が、待望の「野田版」歌舞伎として蘇る
 深い深い桜の森。満開の桜の木の下では、何かよからぬことが起きるという謂れがあります。それは、屍体が埋まっているからなのか、はたまた鬼の仕業なのか…。
 時は天智天皇が治める時代。ヒダの王家の王の下に、三人のヒダの匠の名人が集められます。その名は、耳男、マナコ、そしてオオアマ。ヒダの王は三人に、娘である夜長姫と早寝姫を守る仏像の彫刻を競い合うことを命じます。しかし、三人の名人はそれぞれ秘密を抱えた訳ありの身。素性を隠し、名人と身分を偽っているのでした。そんな三人に与えられた期限は3年、夜長姫の16歳の正月までに仏像を完成させなければなりません。ところがある日、早寝姫が桜の木で首を吊って死んでいるのが見つかります。時を同じくして都では天智天皇が崩御。娘と帝を同時に失ったヒダの王は悲しみに暮れます。やがて3年の月日が経ち、三人が仏像を完成させたとき、それぞれの思惑が交錯し…。
 野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに書き下ろした人気作『贋作・桜の森の満開の下』を、『野田版 研辰の討たれ』、『野田版 鼠小僧』、『野田版 愛陀姫』に続く、「野田版」歌舞伎の4作目として、満を持しての上演です。人間と鬼とが混在し、時空間を自由に操りながら展開する物語をお楽しみください。
長谷部浩の劇評より
【劇評81】『野田版 桜の森の満開の下』七之助の夜長姫の残酷
歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎、第三部は、満を持して『野田版 桜の森の満開の下』が上演された。野田秀樹がかつて主宰していた夢の遊眠社時代の代表作であり、平成元年の初演以来、京都南座、大阪中座を含む伝統的な様式を持つ劇場でも上演されてきた。

十八代目中村勘三郎が健在のとき、この『贋作・桜の森の満開の下』の上演が企画され、勘三郎(当時・勘九郎)の耳男、福助の夜長姫を前提に、歌舞伎化する脚本がすでに進行して、三分の一が書き上がっていたと聞いている。結果として、勘三郎と野田の歌舞伎での共同作業は、平成十三年の『野田版 研辰の討たれ』が先行して、野田は歌舞伎座六度目の演出となる。

現・勘九郎の耳男、七之助の夜長姫の配役でこの舞台を観て、野田三十歳の若々しい文体には、この若い歌舞伎役者の肉体がふさわしいと思った。

この物語は、アーティストの耳男が、芸術の源泉となる力を追い求める物語である。彼にインスピレーションを与えるのは、夜長姫の美と残酷である。夜長姫は妖艶な美しさを放つばかりか、耳男の耳を切り取り、耳男のアトリエに火をつけることも辞さず、妹の早寝姫(梅枝)を自殺に追い込んでも平然としている。この二人の関係性が、勘九郎、七之助の踏み込んだ演技によって鮮明になった。

芸に一心に打ち込む耳男の真摯、そして酷いまでの残酷で他者を狂わせていく夜長姫がいい。特に、これまで女優によって演じられてきた夜長姫が、女方に替わって、その残酷を躊躇なく表現している。野田の歌舞伎作品のなかでも、もっとも、人間の精神性を深く描ききり、しかも国作りと歴史の改ざん、敗北した国の民を「鬼」として排斥していく人間の身勝手さが背景となっている。

染五郎の天武の大王(オオアマ)が大らかでありながら野心に燃える姿を活写。猿弥のマナコが野人の貪欲な欲望を精緻な演技で浮かび上がらせる。また、(片岡)亀蔵の赤名人、巳之助のハンニャロ(ハンニャ)が対となって狂言を回していく。彌十郎のエンマ、扇雀のヒダの王に、異界と現実界を支配する男の大きさがある。

Zakの音響と田中傳左衞門の作調がすぐれたコラボレーションを実現した。重低音の表現、また、笛による自転車のブレーキ音など、細部まで見どころがおおい。歌舞伎はまぎれもなく音楽劇であるが、空気感を創り出し、劇場を埋め尽くす音の力が大きい。それもまた、歌舞伎なのだと考えさせられた。二十七日まで。
 野田版歌舞伎は『鼠小僧』をビデオで見ただけし、原作の坂口安吾作品は読んでない。そんな私でも、30年前に現代演劇として成功した作品が歌舞伎になっても違和感がない、ただし中村勘三郎・中村勘九郎・中村七之助という親子リレーがあって初めてなんだろうと思う。坂口安吾原作だからか野田30才の作品だからか、込められた寓意を表現できないとならないからだ。

 歴史好きな私は天智天皇から天武天皇にかけての時代と聞くと、ああ壬申の乱だなと思う。古事記と日本書紀の時代だなと思う。青銅から鉄の剣に替わった時代だなと思う。ヒダの王は天智天皇に滅ぼされた蘇我石川麻呂かな。早寝姫は大田皇女、夜長姫は後に持統天皇になる鸕野讚良皇女。歴史劇としては大友皇子が出てこないとしまらないのだけど、まぁ歴史劇でなく寓意劇だし、テーマはむしろアーティストである耳男とミューズであり破壊神である夜長姫の関係だろう。

 『阿弖流爲』で立烏帽子と鈴鹿とアラハバキ神の三役を演じることで女性の三面を描いた七之助さんが一役で女性の神性(この場合はミューズと破壊神・戦争神)、あどけなさ無垢さと非情さ残酷さの二面性がよく表現されていた。

 勘九郎さんは相変わらず高い身体性で報われないミッションをひたむきに果たそうとする役が似合う。そしてオオアマの色悪ぶり(国崩し級)は染五郎さん似合う。歴史は勝者のものであり、勝者に都合の悪いものは改竄され隠蔽されないことにされる、というのは現代に通じた。

 戦または空襲や原爆の寓意である「青いおおきな空が落ちてくる」。人は突然の雨に降られたように雨宿りして「ああ、まいったなぁ」という、というのは、数え切れない焼夷弾や原爆2発を日本に落とした米軍を天災と理解しないと対米従属の日米地位協定を受け容れられない国民になってしまうからだと思う……受け容れられないと沖縄県民のようにまつろわぬ民になるしかない。自分は今限りなく沖縄民に近い心証にあるのだけど。

 七様がゆっくり倒れていく最後の場面が息を呑む美しさだった。

☆★☆★

追記。朝日新聞評
(評・舞台)歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」 愛の破壊衝動、三つ巴
 第三部野田秀樹作・演出「野田版 桜の森の満開の下」は、お盆興行のせいか、亡き十八代目勘三郎をしのばせる。

 古代の飛騨の国で、ヒダの王(扇雀)は耳男(勘九郎)、オオアマ(染五郎)、マナコ(猿弥)に、娘夜長姫(七之助)の守護仏ミロク像を彫らせる。

 彼らは3人で1人の匠(たくみ)を形作る分身たちである。耳男は師匠殺し。オオアマは壬申(じんしん)の乱の大海人皇子。マナコは山賊。

 大海人は権力を奪い、山賊は滅び、耳男は仏を彫って、夜長姫を殺す。バルザックの「知られざる傑作」の画家のように、芸術家は自分の作品を破壊したい衝動を抱く。芸術家に限らず人は、愛する者に対して同じ衝動を持っている。

 夜長姫は耳男の恋人で、作品の寓意(ぐうい)である。全ては耳男が桜の下で見た夢だった。坂口安吾の原作では耳男が主役(シテ)で、他の2人は主役に随伴する役(ツレ)の匠に過ぎない。

 それをオオアマとマナコという独自の性格に書き換え、3人が対等の主役として、三つ巴(どもえ)になる舞台に仕立てたのが、野田版の特徴である。十八代目勘三郎が上演を望んだが果たせず、遺児たちに手渡された。

 舞台の命は絵よりも短い。愛する者による破壊の手さえ待たずに消えていく。終幕耳男が独り夢から覚める寂しさは、演出家の思いであろうか。

 第一部「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」は、中車の直情径行さが、手取りの半太郎の命がけの生き方によくはまっている。七之助の病身の女房お仲の情愛の濃(こま)やかさ。他に舞踊「玉兎」「団子売」。

 第二部は「修禅寺物語」。弥十郎の面作師夜叉(やしゃ)王のスケールが大きい。染五郎と猿之助の弥次喜多コンビで、娯楽本位の「歌舞伎座捕物帖」。

 (天野道映・評論家)

 27日まで。

東京新聞
<評>心弾む「団子売」 歌舞伎座「八月納涼」
歌舞伎座は舞踊を除き、新歌舞伎・新作尽くしの「八月納涼歌舞伎」。
 第一部「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」では市川中車の半太郎、中村七之助のお仲が、世間の片隅に生きる男女の純愛を描き出す。市川染五郎の政五郎。市川猿弥の熊介に軽みがあっていい。「団子売(だんごうり)」は中村勘九郎、市川猿之助の踊りがともに小気味よく充実していて気持ちが弾む。ほかに中村勘太郎の「玉兎(たまうさぎ)」。
 第二部はまず坂東好太郎、坂東吉弥の追善狂言「修禅寺物語(しゅぜんじものがたり)」。坂東弥十郎の夜叉(やしゃ)王は、自ら打った面にじっと見入る姿に、芸術家の狂熱とはまた違う、愚直な職人像が浮かんだ。猿之助の桂がまことに巧緻(こうち)で、職人を侮り「関白大臣将軍家のおそば」を望む気位の高さ、気性の激しさが鮮やかに表れる。坂東巳之助の春彦、坂東新悟の楓(かえで)も好演。勘九郎の頼家、秀調の修禅寺の僧、片岡亀蔵の金窪兵衛。
 次は昨年に続き染五郎、猿之助の「東海道中膝栗毛」。今回は「歌舞伎座捕物帖(こびきちょうなぞときばなし)」と題し、舞台稽古中の歌舞伎座で殺人事件が起きるというミステリー仕立て。旅をしない弥次喜多という趣向だが、その分二人の影が薄く、さらに推理劇、バックステージ物としての興味が欲しかった。
 第三部は「野田版 桜の森の満開の下」。故中村勘三郎と野田秀樹とが上演を約束していたという企画が実現。もとより屈指の名作であり、勘九郎ら役者の技量には舌を巻くが、少なくともこの戯曲の目も眩(くら)むような疾走感には、歌舞伎の感覚は必ずしも適していないのではないだろうか。二十七日まで。
 (矢内賢二=歌舞伎研究家)

渡辺保
2017年8月歌舞伎座野田版「桜の森の満開の下」
野田秀樹が歌舞伎の歴史に新しい一頁を書き加えた。

その一頁は、今月三部制の歌舞伎座の第三部「野田版 桜の森の満開の下」の

大詰、勘九郎の耳男が七之助の夜長姫を殺すシーンの、幻想的な美しさである。

むろん歌舞伎にはこういう美しさはなかった。しかし在来の野田秀樹の「贋作 

桜の森の満開の下」にもなかった。その意味では単に歌舞伎の歴史の新しい一

頁であるばかりでなく、野田演劇の新しい特異なページでもあるだろう。 

染五郎のオオアマの政治体制が、扇雀のヒダの王を滅ぼし、勘九郎の耳男も桜

の森に追い詰められる。そこで耳男が七之助の夜長姫を殺す。満山の桜―――

堀尾幸男の墨の強く入った、一風変わった桜の森の装置のなか、桜吹雪が激し

く降る。高鳴る音楽。そこで展開する「殺し場」が官能滴るばかり。その美し

さは幻想的で、ぼってりとした厚みのある豊かさで、しかも儚く、これまでの

歌舞伎の「殺し場」とは一味も二味も違う新しい美しさであり、同時にこれぞ

歌舞伎という本質的な歌舞伎そのものの造形性の極北を示している。

さらに殺された夜長姫は薄衣一枚を残して消え、舞台上手奥から般若の面をつ

け、黒の薄衣を着た鬼たちが、枝垂桜の大きな枝を手に手に二列に並んで、舞

台を横切り花道へ入って行く。それと同時に舞台奥の下手から上手に向かって

鬼たちと逆行するように、影のようにオオアマの輿が朧に消えて行く。御承知

のように歌舞伎はページェントの面白さをその特徴の一つとする。この二組の

行列はこの作品の世界の構造を示すと同時に「殺し場」の余韻であり、背景で

もあった。

私はその美しさを堪能し、陶酔に浸った。今までにない美しさである。

しかしそこへ行くまで、ことに第一幕は大変だったし、見ていてくたびれた。

野田秀樹の言葉遊び、彼方へ飛び、此方へ行って時代の感覚に触れていくせり

ふの面白さが歌舞伎調になると失速し、ほとんど死んでいる。そうなると言葉

の方向性が見失われて、本来ならば舞台に浮かび上がるはずのもの―――たと

えばヒダの王の作ろうとした体制が少しもイメージとして成立しない。

全体のテンポも遅い。歌舞伎の造形性は「キマル」ところにあるが、この「桜

の森」は耳男に象徴されるように「キマ」らない疾走感にある。その二つの表

現の落差、違和感が強いのである。第一幕が終わったところで私はほとんど

「桜の森」の歌舞伎化は失敗だとさえ思った。

 しかし二幕目になるとその違和感がなくなり、ついに冒頭にふれた「殺し場」

に至って、第一幕とは全く違う一頁を開くことに成功した。

 この作品を歌舞伎化しようという話は、勘三郎生前、いや「野田版」三作以

前にあったというが、もしそうだとすれば勘三郎がやりたかったのも野田秀樹

がやりたかったのもこの第二幕にあるのだろうという気がした。そして今は亡

き勘三郎に代わってその夢を実現した野田秀樹の、勘三郎への深い愛情を思わ

ずにはいられなかった。

 「桜の森」の第三部に対して、第一部は中車、七之助の「刺青奇偶」と舞踊

の上下二幕。上の巻は勘太郎の清元「玉兎」、下の巻が猿之助、勘九郎の竹本

「団子売」。第二部が坂東好太郎、坂東吉弥追善で、好太郎の三男、吉弥の弟

である施主弥十郎の夜叉王で「修禅寺物語」と去年当たった染五郎、猿之助の

弥次喜多の新作「歌舞伎座捕物帖」。

 第一部の見ものは「団子売」である。猿之助の女房がほんのわずかな手ぶり

―――たとえば餅を取ってトントンとおこつく振りが絶妙の面白さで、この踊

りでやっと溜飲が下がった。対する勘九郎の亭主は、さすがに亡き三津五郎の

仕込みだけあってキッチリ踊って、猿之助の曲せ球に対して直球の対照的な面

白さ。この踊りくらべが第一部唯一の見ものである。

 勘太郎の「玉兎」は教わった通りに踊ってご愛嬌。

 さて「刺青奇偶」は玉三郎、石川耕士の共同演出。そのためだろう。七之助

の酌婦お仲は玉三郎生き写し。目をつぶって聞いていると玉三郎がやっている

のかと思うほどである。しかしそうなると玉三郎ではそう見えなかった序幕の

ふてくされ具合が、七之助だと実に嫌な女に見えてくる。七之助の個性が死ん

でいるためにお仲という女のイメージがつかまえられていないからである。

 その点、中車の手取りの半太郎は、それなりの独自の人間像を作っている。

ことに大詰の

鮫の政五郎とのやりとりの、こんな瀕死の状況でも性根を失わないところがう

まい。

 猿弥の熊介がユーモラスでうまい。

 勘之丞の医者、芝のぶの近所の女房ともに生活感がない。錦吾と梅花の半太

郎の親夫婦も平凡。

 染五郎が鮫の政五郎を付き合うが、まだ年配が足りないのは是非もない。

 かくして総体に水っぽい「刺青奇偶」になった。

 第二部の「修禅寺物語」は、弥十郎の夜叉王が抑えた心理的な芝居でいいが、

その分この男に潜んでいる職人としてのプライドの高さ、そのプライドゆえに

先の将軍頼家にも楯突く激情が薄い。これはのちにふれるせりふの朗誦法にも

かかわるだろう。

 幕開き、例の如く砧を打つ桂と楓姉妹のせりふで始まるが、猿之助の桂が観

客の気持ちを一気にとらえるリアリティがあってうまい。この女の生まれ、育

ち、そこから来る性格の権高さ、生き方の理想手に取る如くである。新悟の楓、

巳之助の春彦がこの猿之助に食いついていい。

 勘九郎の頼家は、この人ならばいま一息鋭いだろうと思ったが、意外に穏や

かである。

 亀蔵の金窪兵衛が本役。秀調の修禅寺の僧、万太郎の下田五郎。

 さてこのメンバーの一座過不足のない出来、リァリティは十分であるが、私

には大きな不満がある。いずれもせりふの歌うべきところを歌わないことであ

る。綺堂作品を歌舞伎役者が歌わなくなってからすでに久しい。おそらく幸四

郎歌右衛門の、久保田万太郎演出の「番町皿屋敷」以来だろう。しかしそれは

せりふを歌うことによってリァリティを喪失したことへの反省のためであった。

そのリァリティがこれだけ濃くて、しかもうまく表現されるようになったから

は、歌うところは歌ってもいいのではないかと私は思う。それが歌舞伎であり、

岡本綺堂の戯曲だろう。弥十郎の夜叉王にも猿之助の桂にも、今一歩激情が出

ないのはそのためである。考えてみればいくら芸術至上主義者でも、断末魔の

娘の死に顔をスケッチしようというのは異常だろう。父も父、娘も娘の狂気で

あるが、その狂気こそ歌うアリアに支えられているのであって、歌わなければ

夜叉王は唯の老父になってしまい、スケッチも芸術のためではなく、唯の遺品

を残すに過ぎなくなってしまう。それでは作者が書こうとした芸術にのみ生き

る人間の悲劇は意味を失うのではないか。 

 この後が、去年ラスベガスまで行った「弥次喜多」の第二編。杉原邦生構成、

戸部和久脚本、猿之助脚本演出。

 歌舞伎座で殺人事件が起きる。犯人はだれが。思い付きは面白いが、サスペ

ンスとしてはすぐ犯人がわかってしまうので面白くなく、ドラマとしての見せ

場もなく、喜劇としても爆笑とはいかなかった。劇中劇に「四の切」があって、

化かされの法師にバイトで出ていた弥次喜多が、間違いで宙乗りになるのが面

白いだけの芝居になった。構成も台本も芝居のツボを外しているからである。

 中車の座元、児太郎の女房、大道具の棟梁に勘九郎、鑑識の女医に七之助、

竹本に門之助、笑三郎、役人に亀蔵、猿弥、役者に巳之助、隼人、新悟、竹三

郎、弘太郎という、ほとんど一座総出なのにもったいない。

 

Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.

『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/

河村常雄の新劇場見聞録 八月納涼歌舞伎評
<見>恒例の三部制。大看板は姿を見せず、若手花形で大歌舞伎座を賄う。今回の芝居は、若手花形だと勉強会になりがちな古典物がなく、新歌舞伎2本に新作喜劇、野田版。それだけに出演陣は存分に持ち味を発揮、三部とも概ね充実した舞台になっている。

第一部は長谷川伸の新歌舞伎「刺青奇偶」から。玉三郎と石川耕士の演出。
渡世人半太郎(中車)と元酌婦お仲(七之助)の哀しくも純な夫婦愛を描く。中車は元来芸達者、古典でなければうまい。渡世人のいなせな感じがよく出ている。お仲を病から救うために賭場荒らしに手を染めた経緯を語る件がうまい。七之助は薄幸の女性が仁に叶う。自暴自棄の前半から亭主思いで病弱の女房になる後半への切り替えも鮮やか。初役の2人の好演で見応えのある舞台になった。
染五郎が鮫の政五郎。最後に親分の貫禄を見せる役だが、貫禄を見せるにはあと一歩。錦吾演じる半太郎の父・喜兵衛、梅花の母・おさくが、情味を出している。
舞踊は勘太郎があどけなさの残る「玉兎」。猿之助のお福、勘九郎の杵造でテンポのいい「団子売」。勘三郎、三津五郎亡き後の踊り手。暗い芝居のあと、舞台を明るくして第一部の幕を下ろした。

第二部は岡本綺堂の新歌舞伎「修禅寺物語」。猿翁の監修。映画スターであった初代坂東好太郎の三十七回忌、その長男で二代目坂東吉弥の十三回忌の追善演目である。好太郎三男の彌十郎が夜叉王を勤め、その息子・新悟が妹娘・楓。
近年、彌十郎は脇役でありながら存在感を増しているが、期待通り主役を無事勤めた。相手が将軍といえども納得できない面は渡せないという芸術家としての気概、二人の娘への情愛、瀕死の姉娘の顔を写し取ろうとする芸術家魂など的確に表現している。
猿之助が姉娘・桂。上昇志向の強さを浮き彫りにして好演。勘九郎の源頼家、已之助の春彦。
もう一本は戸部和久脚本、猿之助脚本・演出の新作喜劇「東海道中膝栗毛・歌舞伎座捕物帖」。昨夏、染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八がクジラに乗ったり、ラスベガスで遊んだりの破天荒な「膝栗毛」を上演した。本作はその続編で、ラスベガスから帰った弥次喜多が活躍するのは江戸の歌舞伎座の舞台裏。「義経千本桜・川連法眼館」の初日を前に役者が殺され犯人を推理していく。舞台の仕掛けや舞台作りの過程が見られて楽しめる。宙乗りで出て、宙乗りで引っ込む染五郎と猿之助。今回も喜劇のセンスを発揮している。
共演は人気花形、若手、御曹司が大挙出演。勘九郎、七之助、已之助、児太郎、隼人、千之助、虎之介、新悟、片岡亀蔵。超若手の金太郎、團子から超ベテランの竹三郎。中車、門之助、笑也、笑三郎、猿弥らおもだか勢などなど。大挙出演で薄味にしているが、にぎやかな舞台にはなった。
第三部は「野田版 桜の森の満開の下」の一本立て。坂口安吾の2作品をベースにした野田秀樹作品の歌舞伎化。壬申の乱を背景にして権力、国家、恋愛,芸術を民話風にかつダイナミックに描く。演出も野田。
特有の言葉遊びで分かりにくくなりがちな野田戯曲であるが、歌舞伎俳優の強い台詞がそれをカバーする。勘九郎の耳男。染五郎のオオアマ、七之助の夜長姫。梅枝の早寝姫、猿弥のマナコ、片岡亀蔵の赤名人、彌十郎のエンマ、扇雀のヒダの王。いずれも好演である。
11日所見。
――27日まで歌舞伎座で上演。





渡辺保
2017年7月歌舞伎座
海老蔵奮闘劇 

 海老蔵が昼の部の「加賀鳶」「連獅子」、夜の「秋葉権現廻船噺」の通しと

昼夜六役のほとんど出ずっぱりの奮闘興行である。

 なかでもっともいいのは「連獅子」の親獅子。花があって下手揚幕から出た

ところの、余裕のある風格の大きさ、スッキリした姿で堂々たる歌舞伎座の座

頭である。踊りよりも役者の持ち味で見せる花やかさ。

 対する子獅子は巳之助。踊り始めると自然にそっちへ目が行くのは、この人

の踊りのうまさ、体を十二分に使う、その呼吸のよさである。男女蔵、市蔵の

間狂言をふくめて完成度からいえば、昼夜一番の見ものである。長唄は日吉小

間蔵杵屋勝松。

 この前に右団次の「矢の根」、海老蔵初役の梅吉と道玄二役の「加賀鳶」。

 まず海老蔵の梅吉が序幕木戸前一場だけだがいい。上手町木戸を出た梅吉が、

かつて見た十一代目団十郎(当時海老蔵)の、一寸暗い影があって、しかも色

気と貫目があって、さっそうたる梅吉に生き写しである。せりふが歯切れがい

いのは十一代目以上だが、いささか早口すぎて趣に乏しく、引込みももう一杯

しっかりと見せてほしい。

 二役道玄は目がよく利く御茶ノ水の殺しがいいが、世話物の芸としては、滑

稽さ、愛嬌、太々しさはまだ未完成。しかし二ついいところがある。一つは不

思議な実在感があること。もう一つは松蔵に見顕されてから恐れ入るまでのプ

ロセスが、松緑、勘三郎、富十郎、十二代目団十郎ととかく不明確だったとこ

ろがスッキリしてわかりやすいこと。すなわち松蔵がお朝の書置きを偽筆と見

破ったところでの思い入れでこれが強請であることを認めてしまい居直って

「もとより話の根なし草」になるのがハッキリしていてわかりやすい。松蔵の

指摘に思わず口にくわえていて煙管をポロリと宙ぶらりんにしてしまうところ

がそれである。道玄の「もとより話の根なし草」になる心理が手に取るように

明確になる。これは海老蔵が道玄という人間の行為をキチンと組み立てた結果

である。

そのあとの松蔵に御茶ノ水で拾った煙草入れの証拠の書き出しを突きつけられ

る件でも手を大げさに上下しないのがいい。

 対する松蔵は中車。御茶ノ水の幕切れで煙草入れを闇にかざすのに両手で持

つのはおかしいだろうし、姿が悪い。質見世は面白いとまではいかないが一応

の出来になったのは大進歩である。

 この舞台のおさすりお兼で、右之助が二代目斎入を襲名した。

 勢揃いは、右団次を筆頭に、巳之助、男女蔵、亀鶴以下、九団次、市蔵、権

十郎、団蔵、左団次と手揃いである。

 家橘の伊勢屋与兵衛、お朝は児太郎、太次右衛門は辰禄、猿三郎の大家。

 さて、この狂言の傑作は、笑三郎の道元女房おせつである。しっとりした持

ち味、芝居がしっかりしていて役をうまく仕生かしている。

 右団次の「矢の根」は、揚げ障子が揚がったところで、その隈奴をとった顔

が現代的に見えるのが損である。いずれ芸が進めば隈取が生きて輝くようにな

るだろう。明晰な調子の人なのにせりふ廻しに独特の癖があって、そのために

おせち料理の言立てや七福神の店おろしが聞きとりにくいのは残念。

 十郎は笑也、大薩摩文太夫は九団次。弘太郎の馬士がとぼけた味でいい。

 夜の部は竹田治蔵の「秋葉権現廻船噺」を台本作りのベテラン四人織田紘二、

石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎が集まって補綴演出した通し狂言。原作から

かなりはなれての新脚本といってもいい。

 発端に月本始之助(巳之助)と傾城花月(新悟)の駆け落ちを見せ、月本家

所蔵の紀貫之直筆の秘宝「古今集」を盗んだ日本駄右衛門(海老蔵)と女道楽

のため兄玉島逸当(中車)に勘当をうけた玉島幸兵衛(海老蔵二役)の立ち廻

りがある。発端からして海老蔵が二役早替りを見せるが、長い割には手際が悪

く、さして面白くない。

 序幕が月本館。上使(海老蔵)に化けた駄右衛門が月本家の当主月本円秋

(右団次)に切腹を迫る。そこへ玉島逸当がかけつけて上使が偽せ者と見破ら

れるが、円秋にかわって陰腹を切るという大芝居。

 海老蔵は上使に化けて来たところは、烏帽子、大紋まことにすっきりして駄

右衛門が化けているとは思えず、それが芝居だといえばそれまでだが別人のよ

う。正体をあらわしての御簾斬りが見ものというほかはない。駄右衛門はお家

横領の叔父月本祐明(男女蔵)も殺す。この祐明の側室と見えたのは駄右衛門

一味の女賊牙のお才(児太郎)で、駄右衛門の御簾切りのあと緋無垢の着付の

肌脱ぎになると弁慶縞の浴衣という奇抜さで、児太郎がのびのびとやってこの

幕第一の収穫。

 他では右団次の月本円秋が立派。

 しかし盛沢山すぎて役者の芸の仕どころが少ないのが難である。

 二幕目第一場は、始之助と花月の「落人」を真似たような長唄の道行。ここ

といい前幕の月本円秋の切腹で四段目の判官切腹の真似といい、とかく歌舞伎

の名場面をそのまま持ち込むのが問題である。もとを知らない観客にはなんの

ことかわからず、知っている観客にはああ二番煎じかと思われてオリジナリテ

ィを失う。もっと抽斗ばかり使わずに本当の創造をして貰いたい。

 第二場がお才の茶屋で、やっと芝居らしくなるが、かつて前進座で瀬川菊之

丞が哀愁漂う玉島幸兵衛を見せたのとはかわって、ここも「伊勢音頭」の丸取

り。海老蔵の幸兵衛は、福岡貢のようである。三階立ての大仕掛けの道具もさ

して働かずにつまらぬ。

 第三場が秋葉権現、海老蔵の三役中、この大権現が一番の出来。

 勸玄の白狐がパパの秋葉大権現に抱かれて客席を指さしたりするあどけなさ。

「成田屋」の掛け声、拍手、それこそ超満員の劇場も崩れるばかりで、この父

子宙乗りが、この通し狂言第一の見どころになった。

 大詰三場は例の如き大団円。火事場、亡者の襲撃と趣向沢山の割にはつまらず。

 海老蔵が汗みどろになっての大奮闘にもかかわらず、竹田治蔵の原作がよく

ないために以上の結果。海老蔵の努力、意欲は十分わかるが、今後はもっと骨

格のしっかりしたドラマの原作を取り上げてほしい。               

 

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『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/

長谷部浩
【劇評79】海老蔵を活かす復活狂言
歌舞伎劇評 平成二九年七月 歌舞伎座夜の部

歌舞伎座夜の部は、海老蔵と長男勸玄が宙乗りを勤める『駄右衛門花御所異聞』を通す。竹田治蔵作の芝居を復活させた台本(織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎 補綴・演出)で、海老蔵の魅力の源泉をよく理解している。
海老蔵がなぜ歌舞伎で突出した人気を誇るのか。それは荒事の暴力性と和事の柔らかさのあいだを自在に横断する力がそなわっているからだ。また、その振れ幅が大きく、まるで目くらましにあっているかのような幻を観客にもたらす。
海老蔵は、発端から廓遊びに入れ込んだ玉島幸兵衛を演じたかと思うと、一転して、日本駄右衛門に替わって骨太な悪党振りをみせる。この振幅こそが海老蔵の真骨頂だろう。
二幕目第一場は、大井川の場。巳之助の月本始之助と新悟の傾城花月の道行。富士を望む街道をいく。この色模様を所作事で見せるだけの力をふたりがそなえつつあるのに目を見張る。
第二場のお才茶屋で児太郎お才の名にふさわしく才気走った女の魅力を発散する。「こんな金の亡者は見たことがない」との評言が笑いを誘うだけのしたたかさがあって、底を割らない。
九團次のお才の兄長六が金をせびるときのせこい様子、廣松の寺小姓采女の色気もよい組み合わせとなっている。弘太郎の駄右衛門子分早飛もさまになっている。海老蔵の幸兵衛は、ここで廻国修業の僧となって現れるが、やがて殺し場になって、血が流れ、小判が手水鉢からあふれ出る。人間の欲望が全開となる場で、『伊勢音頭恋寝刃』の貢が二重写しになる。
海老蔵を中心に、若手の力を引き出す台本と演出で、新しい世代の歌舞伎を予感させる舞台となった。
さて、お待ちかねは、海老蔵と勸玄の宙乗り、私が見た日は客席に親しい人を見つけたのか、勸玄が指をさして海老蔵に知らせ、手を振る余裕を見せた。花道の出といい舞台度胸がよく満場の喝采を浴びた。これも歌舞伎なのだ、いやこれが歌舞伎なのだと実感させれらる。
大詰は、東山御殿の場から奥庭に続き、さらに御殿にいってこいとなる構成。焔に包まれるなか、ゾンビのような亡者があふれる演出がおもしろい。
繰り返しになるが、海老蔵という役者を活かし抜いた舞台であった。
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