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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
敬愛している江川坦庵こと江川英龍さまが建造された韮山反射炉が世界遺産に登録されました。
お祝いに、特集記事あっぷします。

世界文化遺産登録:韮山など…一夜明け観光客も感慨
 ドイツのボンで開催されている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は5日午後3時(日本時間同10時)から、日本が世界文化遺産に推薦する「明治日本の産業革命遺産」について審議し、登録することを決定した。産業革命遺産は、通称「軍艦島」で知られる「端島(はしま)炭坑」(長崎市)▽薩摩藩が手がけた機械工場や反射炉の遺構で構成する「旧集成館」(鹿児島市)▽幕末に実際に稼働した反射炉で国内で唯一現存する「韮山(にらやま)反射炉」(静岡県伊豆の国市)−−など、日本の近代工業化を支えた炭鉱、製鉄などの23施設で構成される。

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 静岡県伊豆の国市の韮山反射炉では6日朝、あいにくの雨にもかかわらず開場前から20人近い観光客が列を作った。一番乗りは、来年用の年賀状に使う写真を撮ろうと午前5時半に到着した同市田京の農業、殿守忠男さん(66)。近くの県立韮山高に在学中はバレーボール部に所属し、反射炉はランニングでよく来た思い出の場所だ。「同じ世界遺産の富士山と一緒に写真に収めようと思った。天気が悪く富士山は見えなかったが、登録は本当にうれしい」と感無量の様子だった。

 初めて訪れたという愛知県蒲郡市の女性会社員(32)は歴史が好きで、「中学か高校時代に韮山反射炉を知り、いつか見たいと思っていた。思ったより小さかったが、レンガの保存状態が良くとてもきれい」と話した。

 橋野鉄鉱山のある岩手県釜石市も祝賀ムードに包まれた。午前9時から市庁舎前でセレモニーがあり、集まった市民を前に野田武則市長が「橋野鉄鉱山は日本の近代製鉄の発祥で、八幡製鉄につながる日本の鉄鋼業にも大きく関与した。登録をきっかけに釜石人としての誇りをもう一度、取り戻したい」とあいさつした。セレモニーに参加した同市野田町の千葉由紀子さん(67)は、東日本大震災で自宅を流された姉が今も仮設住宅暮らしをしている。「4年たっても苦しんでいる人はいる。前に進めるきっかけになれば」と期待していた。【長谷川隆、中田博維】

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 官営八幡製鉄所旧本事務所(北九州市八幡東区)そばの眺望スペースでは、これまで禁止されていた写真撮影が6日から解禁された。見物客は赤れんがの建物を携帯電話のカメラに収めていた。

 1899年に建設された旧本事務所は製鉄所長官室や外国人顧問技師室があった。午前9時半の開場15分前に一番乗りした近くの看護師、武田英代さん(60)は「歴史を感じさせる建物ですごい。地元の誇りにしたい」と話した。

 三池炭鉱の地元、福岡県大牟田市では市立大正小学校の6年生が、朝のJR大牟田駅と西鉄大牟田駅で手作りの号外を配った。

 総合学習で学んだ内容を基に登録に合わせて2週間かけて作り、B4判の両面カラーで1000枚を印刷した。「やったぁ。世界遺産!」「私たちの大牟田が世界遺産に」などの大きな見出しに、宮原(みやのはら)坑などの挿絵も。児童の一人は「世界遺産を知ってもらうために絵も大きくした」と話していた。

 三池炭鉱の万田坑(熊本県荒尾市)近くの万田坑ステーションでは、記念セレモニーに観光客ら約100人が詰めかけた。

 万田坑の有料区域の入場券購入者には、世界文化遺産登録を記念した一日限りの入場証明書が配られた。「1号」を手にした地元の松藤ちずるさん(63)は亡くなった父親が炭坑マンだった。「登録は父ちゃんたちが頑張ったおかげ。証明書は宝物として額に入れて飾る」と笑顔だった。【宍戸護、井上和也、井川加菜美】
韮山反射炉 世界遺産 技術の礎 志継ぐ
 この時を待っていた-。「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産に登録された五日、構成施設の韮山反射炉がある静岡県伊豆の国市は、歓喜に包まれた。歴史問題をめぐる日韓協議の難航で審議の開始が見込みより遅れたことで、不安視しながら待ちわびた分、登録の瞬間、関係者は思いを爆発させた。価値を信じ、朗報を待ちわびた技術者らも、喜びをかみしめた。 (山田晃史、山下葉月、斉藤明彦)
 伊豆の国市四日町の韮山時代劇場では世界遺産委員会の審議を中継するパブリックビューイング(PV)が開かれた。市民ら四百人が集まり、大型スクリーンに注目し、通訳に耳を傾けた。概要を紹介するスライドで、韮山反射炉の写真が出ると、会場からは大きな拍手が。
 「承認されました」。午後十時四十分前、通訳が興奮気味に伝えると、市民らは立ち上がって拍手したり、「やったぞー」と叫んだりした。小野登志子市長ら二十人が壇上でくす玉を割ると、紙吹雪が舞い、会場は熱気に包まれた。
 小野市長は反射炉を造った江川坦庵(たんなん)の名前を叫び、「世界の宝になりました」と涙を流した。
 世界遺産登録を支援する市民でつくる韮山反射炉応援団の渡辺解太郎(かいたろう)理事長(77)は、登録がなかなか決まらなかった二日間に触れ「会員も目標の一万人以上が集まり、四年間の活動が実った」と話した。
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◆技術者、「鉄溶ける」証明
 静岡県伊豆の国市の韮山反射炉の傍らに、長さ三・五メートルの鉄製の大砲が備えつけられている。反射炉の価値がまだ広く知られていなかった一九九〇年代、近隣の清水町の木村鋳造所が幕末の大砲を復元し、寄贈した。開発部長の菅野利猛(かんのとしたけ)さん(60)は復元をきっかけに反射炉に興味を抱き、鉄鋼工学の専門家が主張した「韮山で鉄は溶けなかった」とする説を覆した。 (小佐野慧太)
 大砲の場所はかつて、コンクリート製の大砲のモニュメントがあった。「鉄の歴史を伝える場所にコンクリートはまずい」。反射炉を見学した鋳造所の来客が菅野さんに苦笑いした。鋳造所は創業七十周年事業で復元に取り組み、一九九八年に市提供の図面を頼りに鋳造所の炉で再現に成功した。だが、製法にこだわったわけでなかった。
 韮山反射炉の稼働は一八五七年の完成から七年間。江戸湾(東京湾)の品川台場などに設置する目的で鉄製と青銅製の大砲を製造したが、残っている実物は確認されていない。さらに、反射炉はアーチ状の天井に熱を反射させ、一点に集中させて高温を実現するが、韮山は構造上、溶解に必要な一六〇〇度の熱を出すのは不可能だった。このため、二〇〇〇年代まで「韮山で鉄は溶けなかった」説が支配的だった。
 「本当だろうか」。せっかく造った大砲を思うと、反発心がわいた。菅野さんは家族ぐるみで史料集めに奔走。鋳造所の炉を使って実験を始めた。結果、材料の銑鉄(せんてつ)に含まれる元素の割合次第で、韮山反射炉が出せる一二五〇度の熱で鉄が溶けることを実証した。
 〇六年に学術誌に投稿した論文の冒頭、菅野さんは「韮山反射炉は世界に唯一残された鉄を溶かせる反射炉で、世界遺産にも匹敵する」と記した。当時を振り返り、「まさか本当に登録されるとは」とほほえむ。
 菅野さんは一三年から年数回、反射炉で「こども鋳物教室」を開き、ものづくりの楽しさを伝えている。反射炉を眺めると、建造の中心人物だった韮山代官・江川坦庵の姿が心に浮かぶという。「技術者の一人として、彼らの志を子どもたちに伝えたい」と話した。
 <韮山反射炉> 1853(嘉永6)年のペリー来航を受け、江戸幕府が江戸湾の防備を固める目的でつくった、大砲を鋳造するための鉄や青銅を精錬した溶解炉。韮山代官の江川坦庵(たんなん、1801~55年)が海上砲台の品川台場築造とともに建造を進めた。54年に着工し、57年に完成。炉の天井がアーチ状になっており、熱を反射して一点に集中させる構造から反射炉と呼ばれる。炉は全部で四つあり、煙突を合わせた高さは15・7メートル。稼働は7年間だったが、実際に稼働したもので国内で唯一、完全な形で現存している。

「雨だけど、心は晴れ晴れ」 静岡の韮山、世界遺産登録で
「明治日本の産業革命遺産」を構成する韮山反射炉の地元、静岡県伊豆の国市では6日、世界遺産登録決定を記念するセレモニーが開かれ、小野登志子市長は「天気は雨だけど、心は晴れ晴れとしている」とあらためて喜びを語った。

 市役所玄関前で開かれたセレモニーには市議や職員ら約50人が参加。小野市長は「次世代に引き継ぐという大変な役目をもらった。一つになって前進していきましょう」と呼び掛けた。

 韮山反射炉では観光客の姿が見られ、ボランティアガイドの柴昭浩さん(73)は「今まで見に来ていたのは、歴史に興味のある人たちばかり。これからは分かりやすさを心掛けて案内したい」と話していた。〔共同〕

韮山反射炉 世界遺産審議250人見守る
 ドイツ・ボンで開催中の国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は3日、韮山反射炉を含む「明治日本の産業革命遺産」など世界遺産候補の審議を始めた。韮山反射炉の地元・伊豆の国市は同日夜、審議を生中継するパブリックビューイング(PV)を市内の「韮山時代劇場」で開き、集まった市民ら約250人は深夜まで、登録決定の瞬間を待ち続けた。

 世界遺産の新規案件の審議は現地の3日午前~5日夕、時差7時間の日本では3日夕~6日未明に行われる。「明治日本」の審議予定は全体の13番目で、順番通りだと4日の見通しだが、短い時間での審議が続けば3日の可能性もある。

 深夜、未明の登録決定に備え、市は3、4日ともにPV(20歳以上対象)を開くことにした。3日は午後8時に始まり、市民を始め、小野登志子市長や官民一体の「韮山反射炉応援団」、伊豆の国歴史ガイドの会などが生中継を見守った。

 会場には、祝いのくす玉が設置されるなど、登録決定に向け準備は完了。新規案件の審議が進む中、来場者は大型画面を見つめながら、明治日本の審議入りを心待ちにした。関係者は順番と時計を見比べ、「3日に決まるか、4日になるのか」などと気をもんでいた。

 坦庵の組織した、韮山笠に足袋、着物の農兵姿で来場した同市の農業辻村幸久さん(36)は「古里自慢が、世界遺産にあと一歩に迫った。どうか夢がかなってほしい」と興奮気味に話した。

 「韮山反射炉応援団」の渡辺解太郎・理事長(77)は「登録に向け、4年間できることはやってきた。今夜は歴史的瞬間に酔いたい」と画面を見つめていた。

 市は審議が4日になった場合、PVを午後4時から再開する。6件目の審議を終えた段階で、小野登志子市長は「伊豆の国の宝が世界の宝になる瞬間を早くみたい。今夜は長丁場になるが、登録を信じて審議を見守りたい」と話していた。

 登録が決定したら様々なイベントが行われる予定だ。登録が決定した日、または翌日の午後0時半から、県は県庁前でセレモニーを開き、くす玉割などを行う。6日には伊豆の国市の市庁舎に「世界文化遺産登録」の垂れ幕を下げる式典がある。また、県と伊豆の国市は「世界遺産登録感謝のつどい」を今月26日午後2時から、韮山時代劇場で共催する。小野市長が登録に向けて尽力した関係者に感謝状を贈る。夜には反射炉までの約2キロで提灯行列を行う。

世界の韮山へ盛り上がり 伊豆の国市
◆周辺清掃や祝賀準備

清掃で韮山古川もきれいになり、世界文化遺産登録を待つ韮山反射炉=伊豆の国市中で
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 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が二十八日、ドイツ西部のボンで始まり、七月三日深夜にも「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録の可否が決まる。構成施設の韮山反射炉がある伊豆の国市では、世界遺産登録を祝う準備が進んでいる。

 「三日か四日に登録が決まれば、大勢の観光客が来る。きれいにして、おもてなしをしたい」。韮山反射炉のそばを流れる韮山古川で二十五日、草刈りをした市建設業協会員の長谷川泰(ゆたか)さん(54)は汗をぬぐいながら語った。反射炉では鉄製大砲を鋳造するため、川の水を水車に引いて動力とし、砲身をくりぬいていた。韮山古川も世界遺産として保存する範囲に含まれている。登録が決まれば観光客が増えると見込み、協会から清掃活動を市に申し入れた。

 市は三日午後八時から、同市四日町の韮山時代劇場で、世界遺産委の審議の様子を映像で中継するパブリックビューイング(PV)を実施、小野登志子市長と公募した市民ら四百人で見守る。三日の審議で決まらない場合は、四日午後四時からPVを再開する。登録決定の翌日午後零時半からは、県庁で県と共催の祝賀会を開く。

 七月二十六日には韮山時代劇場で記念イベントを予定。太鼓の演奏といった伝統芸能の発表や、伊豆の国市商工会が認定する反射炉ブランドの地場商品の販売がある。感謝のつどいも開き、記念講演と、世界遺産登録の運動で功績のあった人や団体に感謝状を贈る。夕方からは、韮山反射炉まで二・五キロを練り歩くちょうちん行列をし、反射炉を市民が持つちょうちんの明かりで照らす。

(山田晃史)

世界文化遺産:日韓協力 伊豆の国市長「ホッと」 韮山反射炉、登録へ膨らむ期待 /静岡
 21日の日韓外相会談で、「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録に向け韓国政府が協力する方向に転じたことを受け、韮山反射炉を抱える伊豆の国市の小野登志子市長は、22日の定例記者会見で「ホッとした」と述べ、安堵(あんど)の表情を見せた。

 韮山反射炉を含む産業革命遺産は5月4日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)から、世界文化遺産への登録勧告を受けた。しかし韓国は登録を巡って、23施設のうち三池炭鉱(福岡県)など7施設について「戦時中、朝鮮人が強制徴用された」と問題視し、登録への影響が懸念されていた。

 小野市長はこの日、「勧告をいただき大変喜んでいた。韮山反射炉にも大変なお客さまがいらしてくださったが、その後、国際情勢に厳しいところがあって大変心配していた。今朝、報道を見て少しホッとしているところです」と心中を吐露。「確実に世界遺産への登録が決定するまではまだ何かあるのではという思いもあるが、日本政府の取り組みを見守っていきたい」と述べた。

 一方、韮山反射炉でボランティアガイドを務める「伊豆の国歴史ガイドの会」の小松逸夫会長(78)も、韓国の方向転換を歓迎。「今朝の新聞・テレビを見て、(登録は)間違いないと確信を持った。これで、自信を持って説明ができる」と声を弾ませた。

 この日も韮山反射炉で観光客の対応にあたっていた小松さん。「韓国が反対していたため、登録されなかったらどうしよう」という不安がガイドをしている最中でも胸をよぎる時もあったというが、「今日からは100%の自信を持ってガイドをすることができる」と目を輝かせた。

 ◇韮山古川で草刈り、来場者おもてなし 25日、市建設業協会

 世界文化遺産への登録の可否は28日からドイツ・ボンで始まる世界遺産委員会で決まる。25日には、同市建設業協会の会員約50人が、反射炉の環境を美化し来場者をもてなすため、近くを流れる韮山古川で雑草の草刈りをする。

 登録が決定した場合は、7月26日に韮山時代劇場(同市四日町)の日だまり広場で世界遺産登録記念イベントを開催。会場に設けたステージで太鼓の演奏や子どもたちによるチアダンスなどが行われる。記念イベント終了後の午後5時すぎから、市民が同時代劇場からちょうちんを手に反射炉までの約2キロの道のりを練り歩く。

 問い合わせは同市世界遺産推進課(055・948・1425)。【長谷川隆】



世界の韮山」誕生見守ろう 遺産登録審議を中継
◆伊豆の国で来月3日

7月上旬の世界文化遺産登録を待つ韮山反射炉=伊豆の国市中で
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 韮山反射炉(伊豆の国市)を含む「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録の可否を決める国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会に合わせ、伊豆の国市は七月三日、同市四日町の韮山時代劇場で、審議の様子を中継で視聴するパブリックビューイング(PV)を開く。登録決定の瞬間に喜びを分かち合う機会にしようと、二十二日まで参加者を募集している。

 世界遺産委員会はドイツ西部のボンで開かれ、世界遺産の新規案件を七月三~五日に審議する。自然遺産、文化遺産、複合遺産の三種類あるが、例年、文化遺産から審議するため、市は日本時間の三日深夜に産業革命遺産の登録が決まると見込み、午後八時に開場する。

 ただ、委員国のうち韓国は、産業革命遺産を構成する七施設で朝鮮人の強制徴用があったとして登録に反対している。三日に決まらなかった場合は四日午後四時からPVを再開する。

 審議の日程が直前まで確定せず、深夜となる可能性があるため、参加は事前申込制。二十歳以上の二百五十人を募集している。参加費は無料。氏名、住所、年齢、電話番号を記入した往復はがきかメールで申し込む。問い合わせは、市世界遺産推進課=電055(948)1425=へ。
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江川坦庵ファンとしては、格別に嬉しく思います。
 伊豆の国市に統合されて韮山という地名が地図から消えてしまったので、韮山反射炉、できるだけ長く受け継がれて欲しいです。ちなみにシャトルバスがあるのですね、私が行った時は徒歩でした。。

「反射炉守れ」100年の遺訓 韮山、稼働停止後も住民奔走
 世界遺産への登録が勧告された「明治日本の産業革命遺産」の構成施設の一つ、韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)は、一八五七年の完成から百五十年以上たつ。二十世紀初頭に芽生えた地元住民らの保存の機運が脈々と引き継がれ、地震による崩壊の危機や建材の風化を乗り越えてきた。 (山田晃史、山下葉月)
 「反射炉は守らなければならない」。韮山反射炉近くの土産物店「蔵屋鳴沢」に伝わる教えだ。現在の女将(おかみ)稲村たみ子さん(86)は、二十一歳で嫁いでから六十年以上反射炉を見つめ続け、敷地内の清掃を欠かさなかった。
 「自分が見て育った反射炉は、北側の煙突の一部がない状態だった」。稲村さんの記憶に残るのは一九三〇年の北伊豆地震で、四つの煙突のうち二つの先端が崩れ落ちた姿だ。しばらく放置されたが、当時の韮山村が五七年、修理に着手して元の姿に戻し、れんがの耐震補強も完了。稲村さんは「ずいぶん新しくなった」と感心した。
 地元で最初に保存の機運が盛り上がったのは反射炉の建造を指揮した韮山代官・江川坦庵(たんなん)の没後五十年の一九〇五年ごろ。坦庵の五男の娘婿を中心に地元住民らが「韮山反射炉保勝会」を〇八年に設立。当時管理していた陸軍省に働き掛け、明治期の一回目の修理が実現した。学芸員の橋本敬之さん(62)は「放置されれば崩壊していたかもしれない。地域の有志の力によって今の姿がある」と評する。
 旧韮山町が一九八五~八九年に三回目の修理を行い、風化したれんがの一部を交換。いまも完成当時のれんがが八割残っている。
 反射炉の完成から廃炉までわずか七年。「産業施設は用がなくなれば取り壊すのが普通なのに、守った地元住民の活動は文化財保護の先駆けだ」。伊豆の国市民らでつくる韮山反射炉応援団の渡辺解太郎(かいたろう)理事長(77)は、先人の先見性をたたえた。応援団は活動を受け継ぎ、草むしりなど清掃活動に取り組んでいる。

世界遺産登録勧告から一夜明け 韮山反射炉にぎわう
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関による世界文化遺産への登録勧告から一夜明けた五日、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ、伊豆の国市の韮山反射炉は、昨年の大型連休中一日当たりの四倍となる観光客が押し寄せた。

 「イコモス登録勧告・韮山反射炉世界遺産へ!」。開館時間の午前九時、反射炉の管理事務所に祝賀ムードを演出する張り紙がされ、入場待ちの観光客が五十メートルほどの列を作った。時間がたつにつれ人数は増え、スマートフォンやカメラで記念撮影する人が敷地を埋め尽くした。

 家族七人で伊豆を旅行中、ニュースを知って急きょ立ち寄った東京都葛飾区の私立中一年の池永翔一君(12)は「江戸時代からきれいに残っているなんてすごい」と驚いていた。

 管理事務所によると、五日の入館者数は四千六百二十六人。昨年の大型連休で最も多かった五月三日の千二百三十八人の四倍近くに上り、最近二~三年の一日の最高人数二千六百人を大きく超えた。最寄り駅の伊豆箱根鉄道伊豆長岡駅と反射炉を結ぶ無料シャトルバスはどの便も満席。市職員も反射炉の駐車場に立ち、交通誘導に大忙しだった。伊豆の国歴史ガイドの会はガイドを通常の五人から八人に増やして対応した。

 一方、伊豆の国市の小野登志子市長は五日、臨時の記者会見を開いた。登録を正式決定するため六~七月にドイツで開かれるユネスコ世界遺産委員会への出席は「政府の要請があれば検討する」と述べ、当日は市内で現地中継のパブリックビューイングを開く方針を示した。

 会見後、反射炉の建造を指揮した韮山代官・江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)の墓前で勧告結果を報告。「ようやくうれしさがわき上がってきたが、保全への責任の重さを感じている」と語った。

◆先人の活動に感謝 住民ら保全継続に期待

世界文化遺産への登録が勧告され「文化財保護の活動をした先人に報いることができた」と話す韮山反射炉応援団の渡辺解太郎理事長=5日、伊豆の国市韮山金谷で
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 韮山反射炉は、国内で唯一現存する実用炉だ。一八五七年の完成後、地震による崩壊の危機もあったが、三回の大きな保存修理とともに、住民や自治体による保存運動が現在につながった。保存に関わる住民らは五日、先人の活動に「報いることができた」と安堵(あんど)し、世界遺産登録で保全が続くことを期待した。

 「反射炉は守らなければならない」。韮山反射炉近くの土産物店「蔵屋鳴沢」の女将(おかみ)稲村たみ子さん(86)が二十一歳で嫁入り以来、店に伝わる教えだ。六十年以上反射炉を見つめ続け、敷地内の清掃を欠かさなかった。

 「自分が見て育った反射炉は北側の煙突の一部がない状態だった」。稲村さんの記憶に残るのは一九三〇(昭和五)年の北伊豆地震で四つある煙突のうち二つの先端が崩れ落ちた姿だ。しばらく放置された後、当時の韮山村が五七年、修理に着手して元の姿に戻し、れんがの耐震補強も完了。稲村さんは「ずいぶん新しくなった」と感心した。

 地元で最初に保存の機運が盛り上がったのは、反射炉建造を指揮した江川坦庵の没後五十年の一九〇五年ごろ。坦庵の五男の娘婿ら地元住民が「韮山反射炉保勝会」を〇八年に設立。当時管理していた陸軍省に働き掛け、明治期の一回目の修理が実現した。

 江川家の資料を管理する江川文庫が保管する明治期の写真は、れんがから草木が生い茂った反射炉の修理前の姿を収めている。学芸員の橋本敬之さん(62)は「放置されれば崩壊していたかもしれない。地域の有志の力によって今の姿がある」と評価する。

 旧韮山町が一九八五~八九年に三回目の修理を行い、風化したれんがの一部を交換。いまも完成当初のれんがが八割残っている。

 「産業施設は用がなくなれば取り壊すのは普通なのに、それを守った地元住民の活動は文化財保護の先駆けだ」。伊豆の国市民らでつくる韮山反射炉応援団の渡辺解太郎(かいたろう)理事長(77)は、先人の先見性をたたえた。応援団は活動を受け継ぎ、反射炉の草むしりなど清掃活動に取り組んでいる。

(山田晃史、山下葉月)

「韮山反射炉サミットを」 世界遺産内定で伊豆の国市長が意向
 韮山反射炉(伊豆の国市中)など23の構成施設からなる「明治日本の産業革命遺産」が4日に世界文化遺産への「登録勧告」を受けて一夜明けた5日、同市の小野登志子市長は市役所で会見し、構成施設のある8県11市と施設の維持管理に向けて連携を進める考えを明らかにした。また、韮山反射炉の耐火レンガが生産された河津町など、反射炉に関わった市町と協力して「韮山反射炉サミットを開き、伊豆半島全体の観光に役立てたい」と述べた。

 「登録勧告が出ると確信していたので『やっぱり』という気持ちが強かった」。小野市長は会見で、4日に登録勧告の連絡を受けたときの気持ちをこう述べた。そして、「7月の世界遺産委員会で勧告通りに登録されるように全力で取り組む」と話した。川勝平太知事も「勧告通り世界遺産一覧表へ記載され、富士山に続く本県2つ目の世界遺産となるよう、万全を期す」とコメントした。

 増加が見込まれる観光客について、小野市長は「反射炉建設の実績を知ってもらうのが一番うれしい」とした上で、反射炉の成り立ちなどを説明するビジターセンターを平成28年度末までに完成させる計画を明らかにした。

 また、明治日本の産業革命遺産の構成施設が全国に広がることから「スタンプラリーを観光客向けにやってみてはどうか」との構想を披露。すでに世界文化遺産に登録されている「富士山と一緒に世界に発信したい」との考えも示した。

 来場者が殺到した反射炉をこの日訪れた、市内に住む県立韮山高2年の室伏勇飛(はやと)さん(16)は「『登録勧告』でどれだけにぎわっているかと思って来た。何度も来ているので身近過ぎて、登録勧告されるとは思っていなかった。本当に意外だ」と驚いていた。

韮山反射炉「うれしさより、安堵感」
■世界遺産登録勧告、関係者沸く

 韮山反射炉を含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が世界文化遺産へ――。国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関・国際記念物遺跡会議(イコモス)の登録勧告に、伊豆の国市関係者は喜びに沸いた。

 同市世界遺産推進課には4日午後8時半頃、国を経由して「吉報」が入った直後から、職員6人が電話対応などに追われた。男性職員(40)は「うれしさより、安堵あんど感の方が大きいです」と笑顔をみせた。

 反射炉の歴史などを観光客に案内してきた「伊豆の国歴史ガイドの会」の小松逸夫会長(78)は、「多くの人が訪れ、ゆっくりと案内ができなくならないか心配もある」としながら、「近代日本産業の礎になり、世界文化遺産に推薦された経緯をきちんと説明したい」と強調した。

 「待ちに待った知らせ」。同市観光協会の鴨下記久枝会長は、登録の見通しになったことを手放しで喜んだ。4日も約1200人の観光客が訪れたといい、「例年にないほど盛り上がっている」と話した。

 同市中の地元自治会「中区」の松井周治区長(65)は「伊豆の山々を背にそびえ立つ反射炉は、昔から全国に誇れる古里の自慢だった。今はうれしい気持ちでいっぱい」と声を弾ませた。

世界文化遺産:韮山反射炉…「技術立国・日本の礎」 静岡
◇登録勧告の「明治日本の産業革命遺産」の一つ

 「地域の財産を次世代へ引き継ぐのに強みが加わった」。世界遺産への登録の可否を調査する諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス、本部・パリ)から4日、「登録が適当」と国連教育科学文化機関(ユネスコ)に勧告された「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」(福岡、長崎、静岡など8県)。構成資産の一つ、韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)を築造した江川英龍(坦庵)の史料などを保存する江川文庫の橋本敬之学芸員(62)は笑顔で語った。江川家を研究し約30年。この日を待ち望んだ。「これで英龍の業績が世界に知られるようになれば」と期待する。

 韮山反射炉は、天井で熱を反射させて鉄を溶解し、大砲を鋳造する。江戸期には鉄製や銅製の大砲100門以上を作ったが、1864年に廃炉になった。実際に稼働した炉としては国内で唯一現存する。

 伊豆の国歴史ガイドの会の小松逸夫会長(78)は「案内した観光客に世界遺産登録への協力を呼びかけてきた。今後はお礼も込めてガイドしたい。反射炉は技術立国・日本の礎そのものだと伝えたい」と喜んだ。

 静岡県庁の富士山世界遺産課では、午後8時半に登録勧告が伝えられると、待ち構えた職員らに安堵(あんど)感が漂った。小坂寿男課長は「イコモスの現地調査では悪くない感触だった。6月の正式決定を目指して頑張りたい」と話した。

 川勝平太県知事は「大変喜ばしい。富士山に続く本県二つ目の世界遺産となるよう万全を期したい」とコメントした。【西嶋正信、石川宏】
江川文庫から楽しみにしていた本が出ました。

勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる巨人 江川英龍

韮山代官を代々世襲した江川家のなりたち、特に第36代江川太郎左衛門(英龍)の生涯と業績について紹介。

『風雲児たち』を読んでいる江川ファンには目新しさはないかも知れない(ということは、やはり、みやもと太郎が歴史をマンガ化する力量がすごいということなのだが)。が、改めて英龍が幕末まで生きていたら時代はどうなっていたかと思う。

 仲田正之氏は英龍をあくまでも攘夷思想だったと紹介していて(根拠は不明)ずっと疑問に思っていたのだが、本書ではアメリカはともかくロシアに対して開国すべきという建白を書いていたことに触れられている。早くから蘭学に触れていた人で、マリナー号事件の時も西洋側の外交スタンダードでも文句のつけようがない対応を取った。国防意識の強い人であったろうが攘夷的な発想は結びつかないと思う。

江川文庫に残された膨大な記録や史料の研究は端緒についたばかり。今後の解明が楽しみ。
 『11月9日~15日の幕末ニュース その1』にご紹介したニュースに、江川太郎左衛門の評伝が出版されたというものがありました。
 即、アマゾンで買っちゃいました……出版されたばかりなのに中古があったので、つい中古で^_^;。

 すぐに配送されてきたので、即読みました……盟友斎藤弥九郎先生の評伝を読みさしたままだというに(^^ゞ。

 坦庵先生こと第36代江川太郎左衛門英龍に関する本、あまり、ないんですよ。比較的に入手しやすい本でいうと、下記でしょうか。


 なので、今回の出版はとても嬉しいのです。腰帯の惹句が「幕末沸騰前夜、日本陸海軍の礎を築いた幕臣の軌跡」とあって、歴史的な功績を正しく表現していると思いますし。

 ただ、坦庵公の生涯に丸々一冊割いていることを期待して読み始めると、ちょっとがっかりするかも知れません。

 3分の1ぐらいは、保元・平治の乱をきっかけとする武家の台頭と鎌倉政権の成立にちょっと登場する江川家の話とか、源頼朝が住んでいた蛭が小島は韮山のすぐそばだとか、下克上の世を切り開いた(後)北条氏、織田・豊臣・徳川と天下の覇権争いが展開する中で滅亡した北条氏と江川家のつながりとか、徳川の世になぜ江川家が世襲代官として生き残ったのかとか、延々と江川家の解説が入ります。自分はそういうバックグラウンドにも興味があったので、OKでしたが。

 『風雲児たち』『風雲児たち幕末編』を読んでいる方には、バックグラウンドの解説も頭に入りやすいですね……みなもとキャラで浮かんでしまうのが欠点といえば欠点ですが(笑)。参考文献リストに入ってはいませんが、著者は読んでらっしゃるような気がします。当時の西洋列強と日本の関わりを描く時にベニョブスキー事件(「はんべんごろ」事件)から入っていくところなんか、ツボツボでした(^^)。

 坦庵先生に関するちょっとしたエピソードも紹介されており(自分は戦前に出版されていた本で読んでましたが)、多面的な人物像が紹介されているのもいいと思います……ただ、坦庵公といい斎藤弥九郎先生といい、食生活は質素だし睡眠時間は少ないし、冬でも薄着で火の気にもほとんど当たらず身体鍛錬しまくりだし、なかなか真似できませんわ^_^;。

 砲術師範の高島秋帆が投獄された事件に際して釈放されるまで支援を惜しまなかったとか、釈放後も師匠として手厚く迎えたとか、義に篤いところも魅力です。押しかけて勝手に弟子になった末に自分で卒業してしまった佐久間象山とは性格が合わなかった(笑)のも無理ありません。

 ペリーやプチャーチンと幕府の交渉過程がけっこう詳しいのも嬉しいです。川路聖謨とか、ジョン万次郎とか、坦庵公人脈の人物が具体的に紹介される点もいいです……が、やっぱり中島三郎助さんは直接の面識がないから出てこないのね、とか、桂小五郎もちょこっとだけだなぁ、とか、言い出すときりがないでしょう。

 『秋の金魚』の読者には、長くはないですが肥田浜五郎が紹介されているのが嬉しいかも……松岡磐吉は浜五郎に比べると、ここでも影が薄いです(苦笑)。

 ただ、ディープな坦庵公ファンだけに、ちょっと物足りない気がしました。坦庵先生と水戸藩徳川斉昭公との交流はよく出てくるのですが、その間を仲介しているはずの斎藤弥九郎先生が出てこないとか……。高野長英が逃亡の過程で相模に滞在して著作を残しているのだけど、おそらくは坦庵公の支援があったと思われる(確か、柏木総蔵の出身地の名主の別宅ではなかったかと)こととか、取り上げて欲しかったことは他にもいくつかあります。

☆★☆★

 以上、とりとめのない感想です。

 坦庵先生が亡くなった後、鳥羽伏見の戦いの直後、京都政権に恭順を申し入れた江川家の立場を決めたのは斎藤弥九郎・柏木総蔵・望月大象らだったとか、その辺りの話を掘り下げたいと思ってますので、まずは斎藤弥九郎先生の評伝に戻って読了しようと思います。

拙ブログ内 関連記事
『幕末之偉人江川坦庵』矢田七太郎 読書メモ  上記著作の参考文献リストには入ってませんが、本文にこの書からの引用があります。
『江川太郎左衛門』古見一夫 読書メモ  参考文献リストに入ってます。

☆★☆★

補足 『風雲児たち 幕末編』ファンの自分にツボった豆知識。ロシアのプチャーチン、実は蒸気船が苦手だった(笑)……帆船はいいけど蒸気船は苦手って、揺れには強いけどスピードには弱いってことでしょうかねぇ。






 活字出版ではあるが和綴じ(汗)。ネットにて購入。

 作中、「坦庵」が時々「垣庵」と思ってクスッと笑った後で、自分のATOKに誤って「担庵」と登録していたことが判明……うわああっ(滝汗)、本宅とブログの記事を一晩で修正した(^^ゞ。

 明治三十五年十二月二十二日印刷・明治三十五年十二月二十五日発行。発行所・國光社。
 著者の矢田七太郎について「在法科大學」とある。前書きによると、坦庵先生とは同郷で、坦庵先生のご子息英武氏が設立した韮山校の出身とか。ネットで軽く検索すると、外交官だったようだ。

 漢文調に慣れないとしんどい。「大小相去る事遠しと雖も、伊豆は実に東海道の伊太利半島にして総房はバルガン[注・原文は「バルカン」ではなかった]の地、参遠二州はスペーン[注・これも「スペイン」ではなかった]、ポルトガルに相当るものとなすも不可なきを見る」という下りに、明治末期のヨーロッパ情勢を思って「ほほー」と思った。しかも、全体は漢語調なのに、「導星」という言葉に「ガイディングスター」とか「栄誉」に「プライド」とかルビを振ってたり、欧米の政治家の名前が引用されていたり、すでに読了した青少年向きの昭和初期の本『江川太郎左衛門』とは趣が違う……(汗)。

 でも単なる偉人伝でなく面白いエピソードもある。奢侈取り締まりを厳しく行った(韮山で、ある女性が銀の簪を身につけていたら、問答無用で抜き取ったというエピソードあり)として、地元では「韮山様、お代官様」と聞けば泣く子も黙るとか、「韮山風が吹く」とおそれたとか(苦笑)。

 明治末期にあって、なぜ江川坦庵公が広く知られていないかについて、5点にまとめている。
一、彼れが幕府の士なりし事、換言すれば薩長其の他の雄藩の如く、順境者、勝利者たるの地位に立たずして、敗者逆境者の中に在りしこと
二、彼れの死の比較的早かりしこと
三、地位底く[注・原文ママ]、大政に参するも常に局面に立たずして後庭《バックグラウンド》に在りしこと
四、彼れの生涯に同情を催す可き劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事、即ち変化《バライエティー》に乏しかったこと
五、門下親友の明治に残りしも単に砲術なるものの師弟の関係にして威風を発揚するものなきこと

 昭和初期の修身教育向け読み物(『江川太郎左衛門』古見一夫)での評価よりは、馴染みやすい歴史観であるような(苦笑)。
 この5点に加えるとするならば、国のためになる意見ははっきり言うけど自己宣伝になるような主張をしない方だったことも、佐久間象山や勝海舟と比べたら明治以降に名前が残りにくい理由だったかも。地方代官の家系の出身としては幕政に重んじられて異例の出世に近い扱いではあったけど、西洋通を嫌う幕臣鳥居耀蔵の暗躍もあって逼塞する時期もあり、幕閣や雄藩藩主に影響力を持った時期が短すぎたのが残念……そういう意味では決して「劇曲的《ドラマチック》のペーヂ少なき事」とは、白牡丹は思わないが。
 いやむしろ、大河ドラマで一年かけて描いてくれないかなーと思える人物のひとりだ……タイトルは時代背景を込めて坦庵公の句作「里はまだ 夜深し富士の あさひ影」から『あさひ影』でいかがだろうか。地元韮山だけでなく、武蔵・相模・伊豆・東駿河・甲府の旧代官領全体でドラマ化運動を盛り上げてもらいたいなぁ(爆)。

 天保の改革を進めた幕府老中水野忠邦との関係についての記述が面白い。
「垣庵[注・原文ママ]が父祖よりの職を襲ひ、代官に任じられしは天保六年乙未五月四日にして、時に年三十五、代官見習(文政七年)となりしより七年、幕府に於ては家齊将軍(文恭公)猶職に在り、酷烈無比なる剛愎漢水野越州を推挙して所謂天保の改革を断行せし時代とす。此の有名なる改革家が、多大の抱負と過分の自信と、少しく之れに伴はざる手腕を以て、抜擢されて老中となり、鋭意改革に着手したるは其の前年天保五年なりとす。坦庵の如何によく越州と気脈相通じ、肝胆相照したるか、如何によく越州の旨を奉じて、有力なる翼賛者として、強固なる補助者として働きしかを知らんとする前に、少しく水野の人物及び其の改革に就いて知る要ありとす」
 ちなみに「天保六年五月四日」って、土方さんが生まれた日と伝承される天保6年5月5日の一日前じゃないですか……土方さんが生まれた日には、当地のお代官様は就任翌日だったと(笑)。
 天保の改革を実行した水野忠邦についての評言をさらに一部引用する。
「……要するに彼れの手段の苛酷に失して些の余裕を残さるる、執拗の極、偏急に近くして人を容るるの寛量に乏しき、人を識るの明なく部下に陰険姦驕の酷吏多き、余りに野猪的にして盲目《ブラインド》なる、改革家としては彼れは幾多の欠点ある可しと雖も(以下略)」
 うーむ、かなりボロカス(苦笑)。まぁ、「部下に陰険姦驕の酷吏多き」と「多い」と評価するのが正しいのかどうかは、まだわからんけど……鳥居耀蔵に追従する幕臣もいただろうからなぁ。

 そして、その鳥居耀蔵について。
「大目付鳥居耀蔵は、――当時幕吏中の醜汚、姦黠[注・「かんかつ」と読むらしい]、陰険、頑迷、固陋、猜疑等有らゆる不潔分子の完全なる代表者として、保守主義の自力なるチャンピオンとして、ティピカル俗吏として、姦悪の化身《インカネーション》として、造化が特別念入りに製造せしかと怪しまるる彼、林家に出て、林大学頭の次男なる関係を以て少なからぬ勢力を振るえる彼、此の種の人の特長として、深く西洋進歩の新事物を嫌ひて、理非を問はず西洋舶来の物を厭悪して、其の実自らの立脚地なる儒学が支那より伝来の思想なるを忘れたる彼、江川坦庵の人物の朝野の間に重きをなせるを嫉み、其の蘭学者と親しむを悪み、坦庵を陥れんが為めには、如何なる手段をも採るも敢て辞せざる彼、――」
 矢部定謙罷免(矢部は絶食して憤死)、蕃社の獄、高島秋帆投獄事件……まぁ無実の人に罪を着せて追放・投獄して政治的に葬り去ることを繰り返している政治家なので、水野忠邦以上にボロカスな評価になっても致し方ないかと(滝汗)。

 幕末の蘭学者に「下町派」と「山の手派」があったということ。医学医術に専心しようとするのを「下町派」、医学医術の枠を越えようとするのを「山の手派」と呼んだようだ。
「忠実に己れの本業をのみ勉むる下町派に対し、山の手派と云ふ、下町派中最も顕はれたるものを宇田川玄真[注・芝蘭堂四天王筆頭、大槻玄沢の実質的後継者]、杉田立卿[注・杉田玄白の実子、眼科医として若狭小浜家に仕える]、坪井信道、岡研海等とし、山ノ手派中には高野長英、小関三榮[注・小関三英]、鈴木春山[注・医師・兵学者。著「三兵活法」「海上攻守略説」「西洋兵制」など]等手耳を執る、此の山ノ手派ノ同志相謀りて、都下知名の実学者を集合し、当世の要務を議論する目的を以て一の協会を組織す、尚歯会と名づく、三州田原の藩士渡辺崋山も来りて輔く所あり、諸侯の策簡中其の議題の重要なるものあれば、此の会に於て對議し以て間者に答ふ、衆皆其の経世に補益あるに服し、政務を問ふもの益々多く、尚歯会は隠然国家の政務に参与し、人智を開発するに至れり」

☆★☆★

 坦庵公が、まだ微官であった鳥居耀蔵に初めて会った時の印象。
「坦庵の初めて鳥居耀蔵に面するや、私かに人に語りて曰く、彼れ一旦高官顕職に進むも、恐らくは終りをよくする能わざる可しと当時耀蔵未だ用ひられずして微官に居りし時なるを以て、人皆な終りを能くするとせざるとよりも、その顕位に登るや否やを疑ひしに、果して坦庵の言の如く、累進して勘定奉行となり、甲斐守に任じ、町奉行に転じ、一時権勢を極めしも、後ち譴を蒙り、改易預(改易は籍没、預けは諸侯に命じ其の國に禁錮せしむるを云ふ)となれり、人鑿識の高さに服す」
 鳥居耀蔵は坦庵公を見くびっていたようだけど、坦庵公は鋭い人物眼を持っていた、と。

☆★☆★

 文武両道にして和魂洋才、しかも驕らずおのれの高名を求めず、国の為に尽くした……この辺りが徳川幕府の臣であったにも関わらず、明治以降もの偉人として取り上げられた理由であるようだ。
「明治時代の理想的紳士は、人化して江川太郎左衛門となりより、吾人が今、日本固有の武士道の地に、泰西文明國の倫理思想を加味し、個人として、大夫として、人間として、吾人の脳裏に想像てふ書筆を以て、書き得可き最も完全なる人物を表はし出したりとせよ、則ち『江川坦庵』を想像し得たるなり」
「(中略)而も単に人物として、出処進退の巧妙なる、先見の明に富みて、鳥居一派の激しき嫉妬の熱点となりしも、遂に彼らの術中に陥らず、政略《ポリシー》ありて政略なきが如く、妙の極自然に帰して些かの剥痕を止めざる、体度の円満にして難点を見出しがたき、凡てこれ坦庵独壇の技量にして、他の起因す可からざる所なり」

 坦庵公自らの思いについて、引用。
「彼をして更に自ら語らしめん乎、曰く『窮居して辛苦に耐え、野処して飢寒に狎る、笑ふに堪へたり身を謀るの拙なる、何んぞ国難に報ずるを忘れん、寸心人の識らざるも自ら許して丹より赤しとなす』と、丹心人の知るなきも可、赤誠世の認むるなきも可、卑官微位に居りて、空しく双腕を撫して海外を望むも亦た可なり、唯恐る、国難に報ずるも忠誠足らず、国事に尽すも思慮至らずして、倦怠萌し易く、不平生じ来りて、寸志丹の如く赤からざらんを、首を巡らせば苦心三十年、策用ひられず、議容れられず、言聴かれず、経国の大計空しく胸中に葬り終りて、『纔か[注・わずか]に学剣に因りて虚名を得』るも、何の不平かあらん、唯憂ふる処は、當塗要路の有司が、覚醒の期の晩くして、國患の耳目の間に迫り来るを悟らざるに在り、況んや陥穽前後に横はり、讒誣雨と降り、迫害潮と寄するも、何の意に介する処ぞ、『憶ひ看れば紛々たる世の情態、不平は却て受恩の人に発す、怒るを休めよ鬼葵燕麦生じ、点頭沈黙して幽情のこころよき[注・ATOKに漢字が入っているのだけど変換できない……りっしんべんにはこがまえ、中に『夾』、読みは『こころよ・い』]を』

 坦庵公のキーワードのひとつでもある「丹心」を調べていたら、とても素敵な言葉に出会った。
へきけつ-たんしん 【碧血丹心】 このうえない真心の意。また、このうえない忠誠心のこと。▽「碧」は青の意。「丹心」は真心。赤心。
 箱館戦争で戦死した旧幕府側兵士たちの鎮魂碑にも使われている「碧血」と「丹心」が一語となって存在しているとは。しかも「丹心」は「赤誠」にも通じる言葉だ。
 碧血丹心、心にしみいる言葉だなぁ……座右の銘にしたい一言。




 坦庵公こと第36代江川太郎左衛門英龍についてざっとおさらいすべく、ネットで入手した昭和5年発行・昭和6年第4版の『江川太郎左衛門』古見一夫(國民文學社)をざっと読みながらメモを取っています。

 著者は伊豆出身、教育畑で仕事をしながら江川太郎左衛門の事績を20年調べていて、東京高等高等師範学校教授川島次郎氏のすすめで最初はこの本を自費出版したようです。

 本書は、教育勅語奉戴四十周年記念(汗)事業として雑誌『國民文學』によって発行されることになった、という経緯らしい。もともとは近代の偉人シリーズとして第一弾が乃木大将、第二弾が渡辺崋山、第三弾が江川太郎左衛門、と企画されていたところ、出版社が倒産(汗)。多数の名士らの資金援助を受けて自費出版したもののようだ。初版千部、再版千部、で自分が入手したのは第4版。

 明治維新以降、近代化・軍備増強をすすめてきた近代日本において、乃木大将と並んで渡辺崋山や江川坦庵公が評価されていた、というのが21世紀初頭の日本に生きる自分には、まず驚きです。しかも教育勅語にもとづく青少年の修身のテキストとして、幕末の幕府役人であった江川英龍が評価されていたというのもちょっとした驚きです……敗戦以降の近代史観において余り大きく取り上げられないのは、その反動なんだろうなーと思います(戦前の修身の教育を全肯定する立場ではありません。念のため)。

 しかし、そういう時代背景で出版された江川英龍伝を読み始めて、目からウロコの一言。「我が陸海軍の基礎を据えた偉人」……その一言が聞きたかったのです、はい。西洋砲術を高島秋帆から学んで広めたとか、マリナー号事件で活躍したとか、お台場をつくったとか、反射炉をつくったとか、具体的な事績をまとめた一言をなかなか目にすることができないのはなぜかということがずっと気になってました。

 以下、具体的な事績を同書からメモ書きしながらコメント。

・砲術教練の創始……高島流砲術を習い、通称韮山塾・江川塾にて幕臣および諸藩の門人に広める。門人に佐久間象山、橋本左内、木戸孝允、黒田清隆、大山厳、杉孫七郎ら。
・農兵隊の創設……幕府の許可が下りた時には病没していたので、実行したのは子息の英敏・英武ら。同書では「これが他日全国皆兵主義の徴兵制度となった」と。
・軍隊衛生の「確立」……「確立」とまで言い切れるかは疑問だが、関連する洋書大槻俊斎に翻訳させ『銃創瑣言』と題して出版(序文を添える)。
・韮山に反射炉を築いて大砲を鋳造……坦庵公病没後に竣工
・ドンドル銃・ガラナイト弾その他の兵器を発明
・江戸湾防衛のためお台場の築造……十一基を建設する計画が幕府の予算不足のため、中断
・沈没したロシア船「ディアナ号」の代船として西洋式スクーナー船を築造……築造に関わった技術者の中から明治海軍の技術者を輩出
・糧食としてパンを導入

・地方代官として善政を敷き「世直し江川大明神」と称えられる……特に幕末、甲州一揆直後の甲斐国地域を管轄下に加えられ、よく治めた
・管轄下に入った伊豆七島と八丈島を巡見し行政を見直した
・天然痘予防のために種痘を励行
・西洋通の学者・蘭医・幕臣などによる「尚歯会」を支援……メンバーに高野長英・渡辺崋山・小関三英・鈴木春山・川路聖謨ら。開明派を嫌う鳥居耀蔵が引き起こした蕃社の獄で弾圧を受ける
・管轄地の豪農が天保の飢饉もあり経営難に陥った時には二宮尊徳に助力を仰ぎ、経営を立ち直らせた
・西洋式砲術の師である高島秋帆が鳥居耀蔵の讒言により投獄された時には放免を求めて諸方面に働きかける、釈放後は砲術師範として厚遇
・安政の大地震で被害を受けた伊豆半島(特に下田方面は津波被害が甚大だった)など管轄地での救民活動

 ……これらの実績に加え、倹約の励行とか婦徳教育の強調とか「忍」「敬慎第一実用専務」がモットーとか、確かに修身の教科書好みの人ではあるのだけど(苦笑)。

 作中、佐久間象山について「無類の尊大漢」と書かれているのが笑えた。

 蕃社の獄の際に高野長英を一時匿ったことについては書かれてなかった、なぁ。

 口伝の域は出ていないが、いろいろなエピソードがあって面白かった。

☆★☆★

2月5日追記。

ドンドル銃……従来の火縄銃や火打銃と違って、引き金で雷管を打つ形式の銃
ガラナイト弾……grenade、炸裂弾のこと。





 
 芝新銭座は、坦庵先生こと江川太郎左衛門英龍が亡くなった直後、坦庵公の功績を認めて幕府が韮山代官家に提供した土地で、江川塾が砲術や兵学の練習場にしたところです。

財団法人 東日本鉄道文化財団アーカイブス 第6回企画展示 江戸 汐留らいふ
「芝新銭座」

新銭座とは保科家の南に位置した町屋の町名のことである。名前からも分かるように銭貨を製造する銭座があり、1636(寛永13)年に設置されたが、開設していたのは数年だったようである。その後に新銭座町という町屋となった。
新銭座町のさらに南には森家と関家の江戸屋敷があった。幕末に、森家の屋敷の一部が上地となり、その場所に関家の屋敷が移転した。また、関家の屋敷があった場所には江川太郎左衛門という伊豆韮山(にらやま)の代官の屋敷と大砲や銃器などを扱う、現在の陸軍に当たる組織の練習場を造った。


重要文化財 江川邸 砲術と韮山塾
安政2年5月、坦庵の後を継いだ江川英敏ひでとしに対して、幕府から芝新銭座しばしんせんざに八千数百坪の土地が下賜され、そこに大小砲専門の演習場と付属の建物が設置されました。芝新銭座大小砲習練場がそれです。この習練場では、幕府の徒組かちぐみが入門して西洋砲術を学んだのをはじめとして、数多くの幕臣が伝授を受けており、諸藩士の入門者と合わせると、その人数は三千人以上にのぼります。その中には、井上いのうえ馨かおる・ 黒田くろだ清隆きよたか・大山おおやま巖いわおなど、明治維新で名をなした西南諸藩の人材も含まれていました。
 坦庵亡き後、入門者の指導に当たったのは、韮山塾時代に伝授を受けた友平ともひら栄さかえ(壬生みぶ藩士)や岩倉鉄太郎(川越藩士)らと、韮山代官所の手代として共に砲術を学んだ岩嶋源八郎・長澤鋼吉などでした。習練場には理論を学ぶための学塾も併設されており、そこでは後に幕府の歩兵奉行となる大鳥おおとり圭介けいすけらが招かれ、語学を講義していました。また、築地に設けられた軍艦操練所との交流も盛んで、榎本えのもと武揚たけあきや福地ふくち源一郎げんいちろう(桜痴おうち、後の東京日日とうきょうにちにち新聞主筆)、福沢諭吉らもしばしば訪れたと伝えられています。


 江戸東京重ね地図で現在の浜松町一丁目と狙いを定め、今日汐留に行く用事のついでに訪ねてみました。浜離宮の南端側と高速道路を挟んで斜向かいの辺り、というと、港区イタリア公園の辺りでしょうか。



 特に江川塾跡地という手がかりを示すものも碑もありません。

 公園からJR山手線・京浜東北線のガードをくぐって西側に出ると、福沢諭吉が慶應義塾を開いた跡に近藤真琴が蘭学塾を開いた辺り(同じく芝新銭座町)になり、こちらにはがあるそうです。奇しくも、幕末の江川塾がそうであったように、明治期の海軍で活躍する人物を育てた攻玉社です。
 降ったり止んだりの天気でしたが、韮山に行ってきました。3度めの訪問になります。目的は6月21日のブログ記事で紹介した資料展を見てくることでした。

代官江川英龍の交流関係を紹介 伊豆の国で資料展
 幕末の韮山代官江川英龍の人物像に迫る資料展「幕末日本の群像―江川英龍をめぐる人々」が9月2日まで伊豆の国市の韮山郷土史料館で開かれている。
 英龍と交流のあった人々の書状や英龍直筆の書画を中心に江川家・江川文庫所蔵の45点を展示した。蘭学者佐久間象山が西洋砲術を習うため弟子入りした際に記した宣誓書や老中阿部正弘が英龍あてに記した書状のほか、カノン砲の射撃演習記録など英龍の幅広い人間関係と功績を示す貴重な資料が並んでいる。
 初公開の書画もあり、同館の工藤雄一郎さんは「幕末という激流に翻弄(ほんろう)されながらも、英龍がいかに多大な人物に影響を及ぼし慕われていたか知ってほしい」と来場を呼び掛けている。入館料200円(小中学生100円)。問い合わせは同館[電・ファクス055(949)4127]へ。


 さすが坦庵先生こと江川英龍様、幕府関係、江川塾関係、文人・蘭学者関係、剣術関係(岡田十松門下で、練兵館を開いた斎藤弥九郎を後援)、などと関係者のリストが凄いです。江川塾だけでも、戊辰戦争で敵味方に分かれて戦った陸海軍関係者が何人いることか……。

 ただ、私の目は「英龍亡き後の入塾」と注意書きされた江川塾門人のリストに、「藤堂平助 新選組隊士」とあったところに釘付けになってしまいました。江川邸に置かれている4巻の門下生リスト(あいうえお順に整理されています)には名前が入っていなかったのですが、韮山郷土資料館は江川家から提供された文書や品物を多く展示しているところでもあるので、江川家の資料から名前を見つけてきたのだと思います。

 藤堂平助が江川塾に入っていたとは初耳です。藤堂平助が池田屋事件に参加した後に単独で江戸に下って隊士募集の活動をしていた時期があり、その時に新選組隊士として江川塾で洋式砲術を習ったのではないかと思うのですが……資料館の方に時期を特定できる資料があるのか聞き忘れてしまいました(涙)。

 江川塾で講師をしていた大鳥圭介と遭遇する可能性があったかどうかも気になるところです(本宅にエッセイをアップする時までに調べておかないと……^_^;)。



 こちらは韮山資料館お隣の江川邸。大河ドラマ『篤姫』で、篤姫の実家としてロケに使われたので、見覚えがあるという方もいるかと思います。

☆★☆★

7/1追記。本宅にて記事をアップしました。
その74 三度目の韮山訪問で新選組に繋がった?
2008年6月26日 小雨降る中、てくてく7キロ
 仕事でお台場のホテルに泊まった。

 『風雲児たち 幕末編』第3巻のあの場面を何度も思い出して、にやにやしてしまう。
老中阿部正弘「場所はフジテレビのあるお台場にしようっ」
江川太郎左衛門英龍「これから築く砲台島をお台場というのですッ フジテレビが引っ越してくるのは百五十年も後ですっ」
阿部「読者に場所がわかっていいじゃないかっ」

 で、その、第三台場である。既に三度目の訪問になるけど(汗)。



 件のフジテレビ(笑)の方角を向くと、自由の女神像がある。ペリーの再来航の折に江戸湾防衛のために半年の突貫工事で台場建設に当たった江川様は、150年後、その台場の近くにアメリカのシンボル「自由の女神像」が建っているのをどのような思いで見られるかしら……(苦笑)。

 まぁ、もっとも、若い頃から蘭学を学んでて、アメリカの民主主義に感銘を受け、韮山の自宅の書斎を「民々亭」と名付ける江川様であるから、お台場の近くに自由の女神像が建っているのを、「ま、よいではないか」と思ってらっしゃるかも知れない(^^)。
 科学誌『ニュートン』2007年5月号に、江川坦庵先生の生涯が6ページにわたって紹介されています。

「学問の歩きオロジー 幕末のミケランジェロ――江川太郎左衛門」
 彼は幕末に西洋の技術を導入し、鎖国の窓を開けようとした偉人のひとりです。剣の道、書画にもすぐれていたほか、このお台場のような建設のような土木建築から、大砲をつくるための反射炉の建設など、技術開発にもすぐれた才能を発揮しました。
 このおどろくべき多芸多才の行政官、政治家、科学技術者を私は日本のミケランジェロのような人物だと考えています。


 ……なんでミケランジェロ? ミケランジェロが多芸な芸術家だったというのはわかるけど、行政官であり、剣術にも優れ、書画もこなし、科学技術にも明るい坦庵先生のイメージは、どっちかといえばダヴィンチの方が近いと思うんだけど……(苦笑)。

 まぁそれはおいといて、坦庵先生の生涯が簡単に紹介されています。6ページ使っても、坦庵先生の人脈の広さは十分に描けてませんなぁ……関係者でフィーチャーされているのは、高島秋帆、ジョン万次郎、斎藤弥九郎ぐらいで、他に名前が挙げられているのは川治聖謨、渡辺崋山、プチャーチンといったところで終わってますから。

 自分にとって目新しい話は、当時のイギリス駐日大使のオールコックが富士山登山の帰りに韮山に立ち寄って記した一文です。「だがこれらのよく耕作された谷間を横切ってひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、過酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象をいだかざるをえなかった」。

 先の記事で紹介した『江戸の遺伝子』にも取り上げられていることですが、私たちは同時代のロンドンやパリといったヨーロッパの大都会で庶民がどんな暮らしをしていたか、また田舎ではどうだったか、ということも理解した上で、江戸時代を見ることが必要だと思います。

 あと、福澤諭吉が少年時代に坦庵先生のことを聞き及んで、冬でも単に袷一枚で火鉢も使わなかったことを真似ようとしたということが『福翁自伝』に書かれていると、紹介されています。

 科学誌に紹介されるなら、お台場や反射炉のことだけでなく『風雲児たち』にちょっと書かれた爆裂砲弾の火薬の研究とかについてももっと掘り下げてもらいたかったなぁと思う自分は、マニアックでしょうか(苦笑)。
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白牡丹
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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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