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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 新選組検定を決めてブログ発見しました。横田淳さんは新選組の史跡研究でいくつか著作を読んでおり、蝦夷地で土方歳三が実際に歩んだ行軍ルートを研究しているも〜さんの案内で現地踏査もしていると聞いています。

週刊 新選組!!!
 大河ドラマ『新選組!』ファンには、じわーんと来るタイトルです

 土方歳三最期の一日から始まる連載記事、楽しみながら読ませていただきます。

第十三回 一本木関門跡

 次に函館を旅行する時には必ず訪れたい場所です。

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 史実の土方歳三ファンをわくわくさせるニュースが飛び込んできた。土方さんが辞世の和歌を詠んでいたかも知れないというのだ。

土方歳三辞世に新説「鉾とりて月見るごとに…」

 新撰組副長・土方歳三(1835~69)と最後まで行動を共にした隊士・島田魁
かい
(1828~1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌が、土方の辞世と考えられるとの説を、幕末研究で知られる霊山
りょうぜん
歴史館(京都市)の木村幸比古・学芸課長が打ち出した。

 「従来、辞世とされてきた歌は詠んだ日時の推定が難しいが、巻頭歌は間近に迫る死を覚悟した内容で、亡くなる前日に詠んだ可能性が高い」としている。

 歌は「鉾
ほこ
とりて月見るごとにおもふ哉
かな
あすはかばねの上に照
てる
かと(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)」。島田家に伝わる和歌集の冒頭に土方の名で記され、和歌集は26年前に同館に寄贈されていた。

 木村課長が今年、修復にあわせて、ほかに名のある30人を調査、大半が新撰組隊士や幕府側の藩士らで、戊辰
ぼしん
戦争(1868~69)で降伏し、長く生きたことがわかった。自然のはかなさを詠んだ歌が多く、維新後に隊士らが作り、島田がまとめたと判断した。

 土方は、旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争に加わり、新政府軍の総攻撃を受け、銃弾に倒れた。生き残った藩士らの証言などによると、その前夜、旧幕府軍幹部らが惜別の宴
うたげ
を開いていた。木村課長は「歌には悲壮な決意が示されており、土方が明日の死を予期しながらこの席で詠み、島田が大切に記録していたのでは」と話す。


 「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照るかと」……うぉぉぉぉ(;O;)! 歴史研究家でも和歌の専門家でもない素人の感想だけど、土方さんらしい一首だなぁと思う。

 ただ、歌の中で「あした」と詠んでいるのを死の前日に詠んだと解釈するのはどうかなぁ。文脈的にも前半が「月を見るたびに思う」と、日時場所を特定するものではないし。

 土方さん戦死当時は弁天台場にたてこもっていた島田魁さんが土方さんの辞世の一首をいつどうやって知り得たかは不明としても……土方さんの戒名を書き付けた紙を晩年までも懐に入れて土方さんを偲んだ魁さんが土方さんの辞世の一首を心に刻みつけていた可能性は高いよね。

 月といえば豊玉発句集「白牡丹 月夜月夜に 染めてほし」。月光に白く浮かび上がる牡丹に風流を感じていた多摩の青年が……月光に愛刀を透かし見ながら、明日は月光に我が屍をさらすかと思い、なお戦い続ける武士(もののふ)になったのですね。

 NETドラマ『新選組血風録』の主題歌「新選組の旗は行く」の三番「明日はこの身が散らば散れ 燃える命に悔いは無い 月の雄たけび血刀かざし 新選組の旗は行く」の歌詞も、月と白刃のイメージが重なります。また、同じくNETドラマ『燃えよ剣』の挿入歌「燃えよ我が命」の歌詞にも、二番「明日は屍をさらすとも 燃えよ我が剣我が祈り」、三番「星影冴えて月あかく 燃えよ我が剣我が命」というフレーズが、重なるんですよね。

 そして、「組!」「組!!」ファンとしても一言。山本耕史さん演じるところの洋装の土方歳三が、出撃の朝、かっちゃんのダンダラ羽織の袖を鉢巻きにして額に結ぶ場面が脳内にリピートされるのです。そして、照英さん演じるところの島田魁さんが、ぽろぽろ涙をこぼす場面も。

 「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照るかと」……土方さん、見事過ぎますぅぅぅ(;O;)!




 
 ブログ「土方歳三資料館日記」で、とても興味深い記事を読みました。

春の草五色までハ…ではなかったのです!!
「春の草 五色までハ 覚えけり」(豊玉)
という一句をご存知でしょうか?

(中略)

でも実はこれ、詠み間違いではないのかとご指摘を頂きました。
「草」ではなくて「鶯(うぐいす)」ではないのか…と。


 これは、とっても嬉しい驚きです。

 「春の草 五色までハ……」だと、諧謔味はあるけど、俳句というより川柳っぽいと思っていたので。とぼけたところも豊玉宗匠なりの味かなぁと解釈はしてましたが。

 「春の鶯 五色までハ……」だと、七色の声で歌う鶯も春先は修業中、五色までは何とか習得したよね、という、ちょっとしたしゃれっ気を感じます。そして、まだフルコーラスで歌いきれない鶯の若さに自分を重ねているような。

 ただ、「はるのうぐいす」だと極端に字余りでは(汗)。音読みで「はるのおう」だと五音に収まるかな……俳句の約束事を知らない素人のつぶやきです(^^ゞ。

 クリスマスイブにこんなエッセイが読めるなんて、眼福です♪

【幕末から学ぶ現在(いま)】(42)東大教授・山内昌之 土方歳三
■男の成熟と満足

 幕末の新選組の隊員でいちばん人気があるのは誰だろうか。少なくとも、近藤勇や沖田総司と並んで土方歳三は、3本の指に入るはずである。土方の魅力は、年輪を重ねるとともに人生の経験にも深みを増していったことだろう。

 ◆剣術使いから指揮官に

 武蔵多摩郡(現在の日野市)に生まれた豪農の家で売薬商人をしながら、京都で国事に奔走して新選組副長になり、最後は蝦夷(えぞ)地政府の陸軍奉行並に出世して戦死してしまった。おそらく土方を好きな人は、剣に生きた新選組のなかでも江戸、京都、奥州、箱館(はこだて)と各地を転戦して、一介の剣術使いから優秀な指揮官や政治家に成長していくあたりにロマンを感じるのであろう。若い政治家や官僚なら、自らの成熟の証しを土方の軌跡と重ねるかもしれない。

 しかし、京都時代の土方には、どうも陰惨なイメージがつきまとう。副長として局中法度(きょくちゅうはっと)に忠実のあまり隊の粛清をはかりすぎ、同志たちを切腹させたあたりは組織中核としての義務感とはいえ、やりきれない気分がする。

 また、元治元(1864)年の池田屋事件の発端となったのは、枡屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の自白を引き出したからだった。土方の牢問(ろうもん)(拷問)の手口は陰惨そのものである。

 ◆交友通じ武士の自覚

 しかし、年を重ねるほどに、土方は成熟した幕府軍事官僚としての風格を見せるようになった。一つは交友関係であろう。会津藩の預かりから出発した団体の幹部として、その公用方との折衝や、砲術家・林権助(ごんすけ)のように古武士然とした会津侍との交友は、土方にも武士とは何かという自覚をもたせた可能性が高い。

 箱館に移った頃(ころ)には、温和で慈愛に満ちた人物として部下にも敬愛されたという証言も残っている。死に場所と定めた地で期するものがあったのだろう。

 もっとも、土方の政治性は最初からかなりのものだった。池田屋事件の際も、最初出かけた四国屋には誰もおらず、すぐに池田屋に向かった。その周りを固めて、後から駆けつけた会津藩や桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を他人に譲らなかった。

 まるで戦国時代の一番槍のような気概で、新選組の印象を満天下に植え付けたのは、土方の機転であった。分党した伊東甲子太郎(かしたろう)の御陵衛士を陰謀によって壊滅させたのも土方の知恵であった。

 王政復古に続く鳥羽・伏見の戦いに敗れて、江戸に戻った土方らは、甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊と名乗って甲州の制圧に向かったが、失敗、やがて近藤勇は流山で新政府軍に出頭し、土方と袂(たもと)を分かったが、その地で処刑された。

 土方は、宇都宮、会津、仙台と転戦したが、まもなく榎本武揚(たけあき)の幕府海軍に合流して蝦夷地に渡ったのである。土方が鮮明に人びとの記憶に残るのは、五稜郭や福山(松前)城を陥落させた手並みが鮮やかだったからだ。

 ◆「選挙で要職」は本懐

 また、入(い)れ札(ふだ)(選挙)で陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねたのは、政治家・土方として本懐を遂げたというべきだろう。新政府軍の甲鉄艦を奪取しようとした宮古湾海戦にも参加したことは、土方伝説を後世強める一因になった。

 土方人気をつくったのは、壮絶な最期にもまして、洋装軍服に長靴のいで立ちで懐中時計の鎖をしのばせた写真のせいでもあろう。髪をオールバックに撫(な)で付け、微(かす)かに笑みを浮かべる姿は、近づいた死を予感する表情にもなっている。

 もともと色白で彫りの深い顔立ちの土方は、京都でも芸妓(げいぎ)や舞妓(まいこ)らからもてたらしい。土方は俳句などもたしなみ意外と洒落(しゃれ)っ気もあった。

 私事ながら、昨年夏に急死した荊妻(けいさい)と死の3日前に、旅行中の五稜郭の土方像前で最後の写真をとったことを鮮明に思い出す。土方の辞世は、「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」とも、「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」ともいわれる。

 今では別の感慨をもって、耳朶(じだ)に響くのが悲しくも切ないところである。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】土方歳三

 ひじかた・としぞう 天保6(1835)年生まれ。武蔵多摩郡の農家出身。近藤勇らとともに天然理心流の剣術を学ぶ。文久3(1863)年、将軍徳川家茂の上洛警護に参加。京都での新選組結成に加わり、副長として池田屋事件などで功績をあげる。慶応3年には幕臣に取り立てられる。明治元(1868)年の鳥羽・伏見の戦いでは、近藤勇に代わって隊を指揮するも敗れ、各地を転戦。翌2年5月11日、五稜郭で戦死。35歳だった。


 いつもは時事ネタを皮肉っぽく絡ませるエッセイですが……五稜郭タワーの土方さん像の前で奥様の写真撮影されたのが亡くなる三日前だったとは。奥様のご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)。





 「土方歳三資料館日記」にて、今年の和泉守兼定刀身展示日の詳細が案内されています。

次回開館日4月26日より5月17日まで、
土方歳三佩刀・和泉守兼定の刀身展示
を行います。

歳三さんの命日の前後のみ展示する
というご来館者とのお約束で、
この時期の限定展示はもう十数年前から続いています。

(中略)

~土方歳三資料館開館日~

*4月19日の第3日曜日は臨時休館します。
 ご注意下さい。

4月26日(日)  12~16時開館
5月
2日(土)・3日(日)・4日(月)・5日(火) 12~16時開館
9日(土)・10日(日) 9~16時開館 (ひの新選組まつり) 
11日(月) 9~16時開館 (土方歳三没後140年目命日)
17日(日) 12~16時開館


 5月は例年以上に開館日を増やしてくださっているそうで、本当にありがとうございます。

 そして、今年は土方さん没後140年。

なお、4月26日より一部展示替えを行います。
没後140年を記念して、
土方歳三の最期に関する展示を予定しています。


 この展示内容が何だか、とても気になります。詳細のご案内を楽しみにしています。



 今日の幕末ニュースから、土方さん関係の記事だけ独立させました(笑)。

 まずは栃木県から、土方さんが傷を癒したと口伝が残る川治温泉の話題です。

栃木
鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委:パック旅行に文化財・旧跡 /栃木
◇若手経営者ら開発中、まず旧藤原町で史実・口伝集め
 鬼怒川・川治温泉の旅館・ホテルの若手経営者や後継者らが温泉街活性化を目指して設立した「鬼怒川・川治温泉ブランド戦略委員会」(小野吉正会長)が、文化財・名所旧跡など「地元の良さ」を組み込んだ旅行商品の開発に乗り出した。メンバー17人がすでに、ふるさとの魅力を再発見するための視察を始めている。
 同委員会が商品化の検討にまず着手したのは、旧藤原町。同町は日光に隣接し、会津藩と宇都宮藩との境だったこともあり、珍しい道祖神や慈眼寺の木造十一面観音菩薩立像などがある。
 またイギリスの女性旅行家、イザベラ・バードが藤原を通り東北地方に向かったことが「日本奥地紀行」で紹介されているほか、新選組副長の土方歳三が宇都宮の戦いで負った傷を川治温泉で癒やしたと伝えられているなど口伝も多い。


 何と、川治温泉にも「土方歳三湯治」の口伝が残っているんですか(^^)。これは初耳。

 ちなみに検索してみたら、川治温泉の旅籠世話人ブログの下記記事がヒットしました。
幕末の川治温泉
 幕末の長州戦争から函館五稜郭の戦いを題材にした「野口武彦」著作の「幕末不戦派軍記」のなかで鬼怒川川治を含む藤原の戦いの中に新撰組の土方歳三が登場してますが、言い伝えでは宇都宮の戦いで足を負傷した歳三が日光から会津に行く途中川治温泉で数日間湯治をしたと言われております、その頃鬼怒川温泉付近は戦場でした。

 野口武彦『幕末不戦派軍記』はフィクションなので(苦笑)要注意ですが、口伝のお話は別でしょう。

 川治温泉の女将ブログにも以下の記事があります。
川治温泉の歴史
 風雲急を告げる幕末、新撰組を率いる近藤勇が官軍に捕らわれてから土方歳三は宇都宮城に入り官軍を迎え撃ったが流れ弾が左足を貫き仲間に担がれて日光に逃げましたがそこも危なくなり大笹を越え会津に向かう途中、川治の薬師の湯で傷を癒したと伝えられております。

 入湯逗留の記録がどこかに残っていたらいいなぁ……。

おまけ・東山温泉
 ちなみに、会津の東山温泉で土方さんが逗留した可能性が高いといわれているのは不動滝ですが、名称変更して「くつろぎ宿 新滝別館(不動滝)」となっている模様です。
 そして、新滝の温泉説明にはこんな案内文が。
 古くは川の脇の素朴な湯治場として会津藩士に親しまれました。
 戊辰戦争の折には療養中の土方歳三も訪れ、当時の岩風呂から川に飛び込んだという逸話が伝えられています。

 ひゃー、「岩風呂から川に飛び込む」土方歳三! 全国の女性ファンの熱意にガソリンをぶちまけるようなネタじゃありませんか(笑)……白牡丹も、今夜は簡単に寝付けそうにありません(爆)。

 ちなみに、こんなコラムがあります。
東山温泉 歴史秘話: 土方歳三が湯治をした浴場跡
東山温泉は1200年ほど前、僧侶の行基が発見したという、温泉地によくある伝説を持つが、歴史ファンにとっては、新選組副長・土方歳三が湯治に訪れたことで興味深い場所であろう。

慶応4年(1868)3月、下総流山で近藤勇と別れた土方歳三は、残った新選組隊士を率いて宇都宮での合戦に参加し、足を負傷してしまう。敗戦後は会津に向かい、4月下旬に若松城下へ到着。七日町の市街地にあった『清水屋旅館』(現在は大東銀行になっている)に投宿した。そこで医師の治療を受けるが、土方の足の傷は思いのほか深く、『天寧温泉』(現在の東山温泉)に通って療養につとめることとなった。

さて、その東山温泉には「土方が入ったとされる源泉地」が複数存在する。まず、現在の『旅館向瀧』の前身は【きつね湯】と称し、会津藩士の保養所だったという歴史を持つので、土方が藩の勧めによって、ここの敷地内で入湯した可能性がある。次に、これまた会津藩の共同湯があったとされる【瀧の湯】の場所には、現在『庄助の宿・瀧の湯』という旅館が建っている。『清水屋旅館』があった会津市街から東山温泉までは、徒歩で歩くとかなりの距離がある。足の傷のことを思えば、土方が訪れたのは市街地から最も近い位置にある【瀧の湯】だったとも考えられる。

東山温泉で最も古い3つの源泉(猿の湯、こがの湯、不動湯)を所有する『不動滝旅館』では、土方が入ったとされる【猿の湯】(上写真)を公開している。この湯は、昔は浴場として利用されていたが、設備上の理由から現在は使用せず、保存公開するだけに留めているという。手を入れてみるとややぬるく、源泉の温度は38度だそうだ。『不動滝旅館』専務の佐藤功武さんによれば、「幕末当時に浴場があったのはここだけ」という。明治初期の頃の写真や絵図を見せてもらうと、それらしい建物の存在が確認できるのは確かにここだけだ。さらに、土方は治癒後のリハビリに【猿の湯】の前にある川で泳いだというが、昭和初期の頃まで実際に河原に下りて泳いだり、洗濯をする人々の姿が多く見られたらしい。川の流れは明治時代からずっと変わっていないから、充分に信憑性のある話といえる。

ただ、この頃の土方に関する記録はほとんど残っていないので、はたしてどれが正しいのかは今ひとつハッキリしない。しかし、彼が東山温泉を訪れた事だけは確かである。土方は会津に滞在中、近藤勇が板橋で処刑されたことを知り、温泉近くの『天寧寺』に墓を建てた。一説によると、この墓には近藤の遺髪か首が納められたという。そして8月に戦線へ復帰すると、すぐに新選組へ合流して薩長軍と交戦、援軍を求めて米沢・庄内へ向かい、やがて函館へと落ち延びていった。以後、二度と会津に戻ることはなかったが、東山温泉で過ごした数ヶ月は、彼にとって貴重な安らぎの時であったに違いない。(文・写真/上野哲弥)
 すでに読売新聞東京多摩版の記事には新たな記事が上書きされてしまいましたが、下記の記事が掲載されていたそうです。某巨大掲示板の某スレに転記されていたものをソースにしていますので、ソース元に確認した記事でないことをお断りした上で掲載します(ただし、記事にて紹介されている佐藤彦五郎資料館のサイトトップにその趣旨の発表がありますので、下記の引用内容がほぼ確実であろうと判断しております)。

土方歳三愛用の?横笛
日野 義兄子孫宅で発見

 幕末に活躍した新選組副長・土方歳三が愛用していたとみられる竹製の横笛が見つかっていたことが分かった。
 歳三の義兄・佐藤彦五郎の子孫で、「佐藤彦五郎新選組資料館」(日野市日野本町2)館長の佐藤福子さん(50)が、自宅の納戸から発見した。
 福子さんは「歳三には鬼の副長というイメージがあるが、笛を吹く意外な一面があったことを知ってもらえたら」と話している。

 彦五郎は、歳三の姉・ノブの夫で、後の新選組局長・近藤勇とともに天然理心流を学んだ。
 新選組が結成された後は、資金援助を続けていたことでも知られ、
佐藤家には今も、近藤勇の書いた掛け軸や沖田総司がしたためた手紙など、新選組ゆかりの品が数多く残されている。
 横笛は昨年10月、福子さんが納戸に保管されている古文書などの資料整理をしていた際、和だんすの中から見つけた。
 笛が出てきたのは初めてで、さらに今年1月には、横笛を持った福子さんの祖父・仁さんの写真が載った1951年の新聞記事も見つかった。
 その記事の写真説明には「土方愛用の笛を吹く子孫の佐藤仁氏」と記されており、福子さんは「歳三が使用していたものでは」と気付かされた。
 笛の長さは約40センチ。紙で作られたサヤと、笛を入れる絹製の袋も一緒に和紙に包まれていた。
 2日に古美術商の鑑定を受けたところ、漆の状態から江戸中期に作られた可能性が高いことも分かった。
 福子さんによると、彦五郎や歳三の兄・為二郎は浄瑠璃などをたしなんでいたといい、歳三も周囲の影響を受けて、笛に親しんでいたことが推測できるという。
 NHK大河ドラマ「新選組!」の時代考証を担当した歴史作家山村竜也さん(45)は、「歳三が笛を吹いていたという話は文献でも見たことはない。
しかし、佐藤家には歳三が笛を愛用していたと長く伝承されていたことが新聞記事からうかがえる。信頼性は高く、貴重な遺品だ」と話している。
 この笛は3日から、「佐藤彦五郎新選組資料館」で特別展示される。入館料は大人500円。小中学生300円。
 問い合わせは同資料館((電)042・581・0370)へ。
(2007年5月3日 読売新聞)


 笛が江戸中期の制作だったということ以外は、笛を歳三さんが愛用していたかどうかは佐藤家の伝承によるものですので「土方歳三愛用?」という疑問符付きですね……ただ、天然理心流の剣術修行の傍ら、米庵流の書を習いに通ったり、俳句を詠んだり、多摩の郷士階級の教育を受けている土方さんですから、横笛を吹く趣味もあるかも……(*^。^*)。歳三ファンには、イマジネーションが広がるニュースですね。

 なお、同資料館では5月20日まで「越前康継」も展示されているそうですので、5月12日・13日の日野新選組まつりや5月13日の歳三忌など、この時期に日野方面にお出かけになる方は、立ち寄られては。
 12月21日(水)『その時歴史が動いた』はアンコール放送で「それからの新選組〜土方歳三、北の大地に死す」が再放送されます。



NHK『その時歴史が動いた』これからのラインナップ

それからの新選組

〜土方歳三、箱館に死す〜

平成17年12月21日(水)21:15〜21:58 総合



 去年の放送時の情報はこちらです。

■今回の番組は、以前放送したものの再放送か?

平成13年6月6日に放送されました「土方歳三 北の大地に散る〜戊辰戦争、最後の激戦〜」のVTR部分をほぼそのままに、スタジオトーク部分を函館リポートに作り替えて、制作いたしました。今年、大河ドラマで新選組が取り上げられたこともあって、視聴者の皆様から再放送希望が多数寄せられており、これにお応えするものです。ただし3年半前の番組のため、当時のままの再放送ではスタジオセットやテーマ音楽等が現在のものと異なり、視聴者の方々が違和感を感じられる可能性もあるため、新たに手を加えさせていただきました。

 去年の放送直後に函館に旅行して、番組で松平キャスターが立っていた弁天台場の石が残った漁港の岸壁までキトラさんに案内していただいたのでした……あれから1年、『新選組!!〜土方歳三最期の一日〜』放送直前のアンコール放送に感慨ひとしおです。
 時々覗いているサイト会津東山温泉 -不動滝/濫觴-「猿の湯宿ブログ」で、驚きの記事を発見。



土方歳三戦傷湯治の猿湯

 「東山温泉の発祥となった猿湯は平成四年に発見された古文書や慶応四年当時の羽黒山東光寺の住職の日記などから土方歳三が戦傷湯治をしたとのお墨付きをいただくに至りました」……ほぉほぉ、土方さんが東山温泉の猿湯に滞在していたという推定がかなり確実になったとな。これは、史実の土方さんファンには非常に興味深い情報です。



 もっとも、白牡丹の関心は、慶応四年四月後半に宇都宮で負傷してから慶応四年七月初旬に戦線復帰するまでの土方さんが本当に引きこもって療養だけに専念していたのか、という観点でして(^^ゞ。これは、猿湯に滞在していたことが裏付けられたとしても、それだけでは結論できない疑問です。



☆★☆★



 追記。史実とは関係ないですが、自動車に「会津」ナンバーができたようで。

18のご当地ナンバー発表・奄美と富士山が落選

仙台ナンバー実現 会津など17地域も 来年度から

 蛇足な感想としては「仙台」ナンバーも今までなかったのかという驚き……戊辰戦争で敗れた藩には、自動車ナンバーが与えられなかったのか(違うと思うけど^_^;)。


 昨日の本放送の直後に感想を書く時間が取れなかった(朝日新聞への投稿に忙しかったとも言う^_^;)ので、改めて録画を見て、感想。



 記事「『その歴』に土方さん再登場」にご投稿いただいた某ディレクターさんのお書き込み通り、再現VTRは2001年6月6日放送の「土方歳三、北の大地に散る」を使い、松平キャスターの函館レポートを新たに撮影して再構成し直したもの。蛇足ながら、2001年の放送時にはゲストに黒鉄ヒロシさんを招いた放送で、黒鉄さんが戦い続けた土方さんのことを「性分なんでしょうねぇ」とコメントしたことが印象的だった。



 今回の放映分でいえば、松平さんが二股口の戦場跡に分け入って塹壕跡を紹介したことが印象的。白牡丹、二度ほど二股口の入り口を訪問したが、積雪が深かったり、夏場は熊が出るということもあったり、塹壕跡まで登ったことがないのだ……18日間にわたって新政府軍(番組では「官軍」という呼称を使っていたが、白牡丹の主義で「新政府軍」と呼ぶ)を迎え撃った地は、本当に急斜面なんだなと思った。



 この番組の感想を書いたブログを積極的に徘徊してはいないけど、リンクしているブログの記事などを見て、『新選組!』でハマった視聴者と、それ以前に史実の土方さんファンで、2001年にこの番組が放映された時に感動した自分とは温度差があるんだなと何となく感じた。

 白牡丹個人についていえば、史実の土方さんにハマって(というか、惚れ込んで^_^;)一年ちょっとという時期だったから、NHKが史実の土方さんの軌跡をかなり忠実に再現した(土方さんの語録がどの時点のものであるかという点では、記録に残っているのとは若干前後しているのだけど、歴史ドキュメンタリーとしては許容範囲だと思った)番組のつくりに、制作陣には史実の土方歳三に惚れ込んだ方がいるに違いないと思ったくらい、よくできていた。

 そして、沖田さとしさん演じる洋装土方さんに、「写真のイメージにそっくり」と、沖田さんを起用した制作陣に、感謝したものだ。



 ……まぁ、ことほどさように、『新選組!』が新選組のファーストコンタクトだった視聴者と、それ以前の史実の土方歳三ファンだった私とのギャップは大きいわけで(^^ゞ。

 三谷脚本の『新選組!』の山本土方さんに魅了されている白牡丹なのだけど、史実の土方ファンの自分史において、史実をかなり忠実に再現してくれた『その歴』と、史実の土方さんのイメージを当時として最大限忠実に再現してくれた、沖田さとしさん演じる洋装土方さんについて、誰よあのおっさん、みたいな感想を眼にしたりすると、悲しくなってしまう。

 『新選組!』を見る前からの古参ファンであることを自慢するつもりはないし、白牡丹のサイトやブログには白牡丹よりもずっとずっと前から史実の土方さんのファンであった方々もいらっしゃるので、ほんの何年かの土方さん贔屓である自分などはまだまだ歴史の浅い土方ファンだとも自覚してるし。

 でも、心から思うことは、この番組を通じて、『新選組!』から入った方でも、史実の土方さんが箱館で戦死するまでの心の軌跡に触れられるこの番組を、稀少なものであることを知って欲しいこと。



 ……だってねぇ、最近だって『所さんとおすぎの偉大なるトホホ人物伝』みたいな番組で、史実を歪曲する描き方をした歴史バラエティ番組が放送されたばかりなんですよ。『トホホ人物伝』を見て凹んだ視聴者のひとりでも、この番組を見て、流山以降の史実の土方さんはトホホな人物ではなかったと心強く思う人がいるだけでも、意味があるわけで。

 『新選組!』山本土方さんのファンではあるのだけど、史実の土方さんにもっとも強い思い入れのある白牡丹としては、三谷脚本で山本耕史さん主演で続編が描かれることをすごく望んではいるのだけれど、一方で『新選組!』ファンにこの番組の価値をわかっていただきたいとも思うのです。
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