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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日の本放送の直後に感想を書く時間が取れなかった(朝日新聞への投稿に忙しかったとも言う^_^;)ので、改めて録画を見て、感想。



 記事「『その歴』に土方さん再登場」にご投稿いただいた某ディレクターさんのお書き込み通り、再現VTRは2001年6月6日放送の「土方歳三、北の大地に散る」を使い、松平キャスターの函館レポートを新たに撮影して再構成し直したもの。蛇足ながら、2001年の放送時にはゲストに黒鉄ヒロシさんを招いた放送で、黒鉄さんが戦い続けた土方さんのことを「性分なんでしょうねぇ」とコメントしたことが印象的だった。



 今回の放映分でいえば、松平さんが二股口の戦場跡に分け入って塹壕跡を紹介したことが印象的。白牡丹、二度ほど二股口の入り口を訪問したが、積雪が深かったり、夏場は熊が出るということもあったり、塹壕跡まで登ったことがないのだ……18日間にわたって新政府軍(番組では「官軍」という呼称を使っていたが、白牡丹の主義で「新政府軍」と呼ぶ)を迎え撃った地は、本当に急斜面なんだなと思った。



 この番組の感想を書いたブログを積極的に徘徊してはいないけど、リンクしているブログの記事などを見て、『新選組!』でハマった視聴者と、それ以前に史実の土方さんファンで、2001年にこの番組が放映された時に感動した自分とは温度差があるんだなと何となく感じた。

 白牡丹個人についていえば、史実の土方さんにハマって(というか、惚れ込んで^_^;)一年ちょっとという時期だったから、NHKが史実の土方さんの軌跡をかなり忠実に再現した(土方さんの語録がどの時点のものであるかという点では、記録に残っているのとは若干前後しているのだけど、歴史ドキュメンタリーとしては許容範囲だと思った)番組のつくりに、制作陣には史実の土方歳三に惚れ込んだ方がいるに違いないと思ったくらい、よくできていた。

 そして、沖田さとしさん演じる洋装土方さんに、「写真のイメージにそっくり」と、沖田さんを起用した制作陣に、感謝したものだ。



 ……まぁ、ことほどさように、『新選組!』が新選組のファーストコンタクトだった視聴者と、それ以前の史実の土方歳三ファンだった私とのギャップは大きいわけで(^^ゞ。

 三谷脚本の『新選組!』の山本土方さんに魅了されている白牡丹なのだけど、史実の土方ファンの自分史において、史実をかなり忠実に再現してくれた『その歴』と、史実の土方さんのイメージを当時として最大限忠実に再現してくれた、沖田さとしさん演じる洋装土方さんについて、誰よあのおっさん、みたいな感想を眼にしたりすると、悲しくなってしまう。

 『新選組!』を見る前からの古参ファンであることを自慢するつもりはないし、白牡丹のサイトやブログには白牡丹よりもずっとずっと前から史実の土方さんのファンであった方々もいらっしゃるので、ほんの何年かの土方さん贔屓である自分などはまだまだ歴史の浅い土方ファンだとも自覚してるし。

 でも、心から思うことは、この番組を通じて、『新選組!』から入った方でも、史実の土方さんが箱館で戦死するまでの心の軌跡に触れられるこの番組を、稀少なものであることを知って欲しいこと。



 ……だってねぇ、最近だって『所さんとおすぎの偉大なるトホホ人物伝』みたいな番組で、史実を歪曲する描き方をした歴史バラエティ番組が放送されたばかりなんですよ。『トホホ人物伝』を見て凹んだ視聴者のひとりでも、この番組を見て、流山以降の史実の土方さんはトホホな人物ではなかったと心強く思う人がいるだけでも、意味があるわけで。

 『新選組!』山本土方さんのファンではあるのだけど、史実の土方さんにもっとも強い思い入れのある白牡丹としては、三谷脚本で山本耕史さん主演で続編が描かれることをすごく望んではいるのだけれど、一方で『新選組!』ファンにこの番組の価値をわかっていただきたいとも思うのです。
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 土方さん(史実)in会津の後編。



4. その前日



 八月二十二日、土方さんは山口次郎(斎藤一)さんと共に会津若松にたどり着き、前藩主松平容保(引退して家督を譲っていた)と前桑名藩主松平定敬(領地を離れている間に桑名藩が西軍に帰順したために兄を頼って会津入りしていた)の兄弟に拝謁、滝沢本陣に出陣。新選組は天寧寺に泊まった。



 この日の昼過ぎ、戸の口に向かった先発隊から援軍要請が入り、守備兵力をほとんど持たない容保公は白虎隊に援軍を命じる。

 会津は四方を山に囲まれ、国境守備のために兵力を分散せざるを得なかった。石筵口を突破して怒濤のように攻め込んでくる西軍を止める兵力は会津若松に残されておらず、石筵口以外の地を守備していた主力を呼び戻すこともできなかった。



 情勢を見た容保公は弟の定敬公を米沢藩に向かわせる。奥羽越列藩同盟の中でも仙台と並ぶ雄藩である米沢に援軍を要請するためであったろう(あるいは、弟らの保護を託したのかも知れない)。その一行の中に土方さんの姿もあった。翌日に塩川村で会った大鳥さんの記録によれば、土方さんは同じく友藩である庄内藩に援軍を要請しに行くつもりだった。



5. 慶応四年八月二十三日、会津若松



 早暁から西軍が会津若松城下に怒濤のように殺到した。滝沢本陣を出て会津若松城に入った容保公も銃弾が飛び交う中の撤退で、危ういところだったらしい。ただちに城門が閉ざされ、城内に入れなかった藩士や旧幕軍兵士たちは城外で戦うしかなかった。



 非戦闘員であった藩士家族たちや町民たちにも悲惨な一日だった。国家老西郷頼母《たのも》の屋敷では、頼母が登城した後、屋敷に残った婦人や子供たち21名は、戦闘で足手まといになることを恐れて全員が自刃した。前日の夜に山中で迷い、ようやく飯盛山まで辿り着いた白虎隊士中二番隊の少年たちは市内が燃えているのを見て会津落城と見誤り、20名が自決した(うち、飯沼貞吉が蘇生して助け出される)。市街戦における戦死者が約460名、家屋千戸が焼失、藩士家族で殉難した者が230名余りとされる。



 入城できなかった新選組は、郊外の米沢口塩川村に転陣した。この日、同じく塩川にあった大鳥さんは米沢方面に向かう土方さんと顔を合わせた。大鳥さんによれば、土方さんは、これから庄内に行き援軍を頼んで来るので率いていた新選組・伝習隊を頼むと兵を託したという(文章の主語がわかりにくいので違う読み方もできるのだが、白牡丹はそのように解釈した)。



 松本良順先生たち医師団も、この時に土方さんに同行したと思われる……松本良順先生とその弟子たちは会津藩校日新館の建物を借りてボランティアで負傷者の治療に当たっていたのだが、西軍侵入時に城内に入れず、塩川村の旧幕軍に合流していたようだ。



6. 土方さん仙台へ、山口次郎らは会津に残留



 この後の土方さんの消息は九月初めに仙台に現れるまではっきりしていないが、八月二十五日に米沢城下に達していたようだ。時すでに遅く、米沢藩は西軍への恭順を決めていた。土方さんも米沢領内を通過して庄内藩に行くのは無理とあきらめ、白石を経由して仙台に向かう(おそらく良順先生たちご一行も一緒。定敬公らは白牡丹の調査不足ではっきりしないが、結局、仙台に来ている)。



 大鳥さんたち旧幕軍も仙台藩を頼って会津を離れることを決めたが、山口次郎はじめ十数名の新選組隊士たちは、「一たび会津へ来りたれば今落城せんとするを見て、志を捨て去るは誠の義にあらずと知る」と残留して会津支援を続ける(九月四日、高久村の戦闘で散り散りになるが、山口次郎ら少なくとも七名は生存。山口次郎は会津戦争を生き延び、会津藩士らと共に斗南に流され、会津藩士の娘高木時尾と結婚、容保公より「藤田五郎」の名を賜り、大正四年に七十一歳で没する)。



 仙台で旧幕府の海軍奉行だった榎本武揚と合流した土方さんは、仙台藩の恭順を知り、また会津落城も間近であることを見て、徹底抗戦を貫くために仙台に集結した新選組ほか旧幕軍の兵士たちと共に蝦夷地の箱館を目指す。



7. 終わりに……「トホホ人物伝」、あれはひどい(怒)



 ある方のリクエストに応えて、急遽、手元資料をかき集めて整理した一文。正確さに務めたつもりだが、もし事実関係の誤りがあるようであったら、指摘していただきたい。



 史実の土方さんは、「トホホ人物伝」が描いたような、西軍の攻撃を前に援軍要請と称して少人数で逃げるような卑怯ものではない。ましてや、土方さんが会津を離れたために会津が陥落した訳でもない。当時の土方さんは旧幕軍の幹部であり、会津藩から見れば客将のひとりという位置づけで、戦局の中心にいられなかっただけである。



【出典】

『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)

『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)

『新選組』松浦玲(岩波新書)

『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)

『戊辰戦争』佐々木克(中公新書)
 拙ブログと交換日記を愛読している方から、直メールをいただいた。金曜日に放送された「所さんとおすぎのトホホ人物伝」における会津の土方さんの動向を白牡丹が「史実を歪曲している」と交換日記に怒りを込めて書いたら、会津における土方さんをよく知らないのでご教示くださいという依頼。リクエストをいただいたからには、それに応えたい。

 ……というわけで、白牡丹が知っている程度の内容だが、会津における土方さん(史実)の動向を、ご紹介したい。前後編になると思う。



1. 土方さん、宇都宮城奪還の戦いで負傷、会津に避難



 もっと遡りたい気持ちは山々だが、会津における土方さんを中心に書くという目的なので、会津入りのきっかけとなった土方さんの負傷から話を始める。



 慶応四年四月二十三日(新暦では5月15日)、西軍(白牡丹は会津降伏以降に「新政府軍」、それまでを「西軍」と書く習わしなのでご寛恕いただきたい)が奪還した宇都宮城を再奪還する戦で被弾、負傷する。負傷箇所は正確には不明で、足指、足の甲、などの説があり、左右どちらかも特定されていない。

 同じく負傷した旧幕軍幹部で会津藩出身の秋月登之助とともに、今市に後送される。その後、旧幕軍は劣勢となり、今市方面に退却。

 翌四月二十四日、土方さんは今市で、八王子千人同心の一員として日光に駐在していた親戚の土方勇太郎を呼び出し、四月十九日の宇都宮城攻撃の時に逃げ出そうとしたために斬った従兵を哀れみ、金子《きんす》を差し出して供養するように頼む。



 四月二十五日、板橋で近藤さんが処刑される。これについて土方さんが知ったのは、おそらく会津入りしてからだろう。



 四月二十六日、土方さん、会津西街道の会津入り口である田島陣屋入り、この地出身の秋月登之助と別れる。隊士である島田魁さんと中島登さんの記録によると、土方さんに付き添っていたのは島田・中島の他に、漢一郎・畠山二郎・沢忠助・松沢乙造と少人数だったようだ(後述する望月光蔵の記録では伝習第一大隊を率いていたかのように書いてある)。

 その日の夕刻、唐津藩主で幕府老中だった小笠原長行の家臣である大野右仲が清水屋に土方さんを訪問し、宇都宮戦争の様子を聞いたという。土方さんは宇都宮攻撃の先鋒軍参謀を務めており、旧幕臣においては重要人物のひとりであったことの証左といえよう。

 四月二十九日、土方さん、会津若松の七日町にある清水屋に投宿。おそらくは当日または数日のうちに、山口次郎こと斎藤一が率いていた新選組の先発隊(流山から会津に入ったらしい)と再会を祝ったことと思う。



2. 土方さんの「枕投げ事件」



 会津入りした直後の土方さんに関する数少ないエピソードとして、旧幕臣の望月光蔵が記録に残した「枕投げ事件」(爆)がある。枕を投げつけられた望月側からの証言なので正確性と客観性には多少の疑問は残るが、簡単にご紹介。



 望月さんが土方さんの部屋を訪ねると、土方さんは布団の中から「汝等吾にくみせよ」と言った。望月さんの記録では「その傲慢、人を易じる(注・「あなどる」の意)をにくむ」という高飛車な態度だったらしい。

 望月さんが、自分は文官なので文で会津に貢献したいと答えると、土方さんはその臆病を嘲笑して、会津まで来て何をためらっているのか、「吾れに従い戦闘を勤め習えよ」と言った。それに腹を立てた望月さん、宇都宮城を再度攻略できなかったのも臆病ではないか、と言い返したらしい。

 望月さんは、それを聞いた土方さんが「多言、我が病褥《びょうじょく》を犯す。聞くを要せず。去れ」と怒鳴ったと書き残しているが、後に家族に口頭で伝え残した話では、その時に枕(当時は箱枕です)を投げつけられたらしい。



 白牡丹は、その前後の状況から、負傷して動けないストレス、はかばかしくない戦況への苛立ちもあったことが加っての言動だと思う。が、武士の生まれではないけど性根は軍人の土方さんは、生まれながらの武士だけど文官という人物に対しては、このエピソードに限らず、言動がキツいのは確かだ。



3. 療養中の土方さん



 土方さんの怪我の具合はかなり重かったようで、直後に会津入りした松本良順先生の治療を受けて、その後は会津若松郊外の東山温泉に滞在していたらしい……本当に動向不明なのである。

 だが、史実の上では、東山温泉に滞在したという伝承だけで、どこの宿に逗留していたかという記録も、ほとんどない……最近、東山温泉の旅館不動滝・旗亭濫觴《らんしょう》が土方歳三が滞在した旅館だと名乗りを挙げているようだ。



 閏四月五日(新暦では5月26日)、山口次郎率いる新選組、白河方面への出陣を命じられる。以後、百人余りの部隊である新選組は会津藩の白河攻撃軍と共に西軍に奪還された白河城の再奪還をめざして何度か出陣している……が、七月まで何度か攻撃を試みたものの、結局、再奪還はできなかった。



 六月十五日(新暦では8月3日)、土方さんがようやく記録に登場する。上野の東照宮から会津に亡命してきた(後に奥州列藩同盟の盟主とされる)輪王寺宮公現親王の執頭、覚王寺義観に面会する。この直後、旧幕臣で奥州列藩同盟の幹部になっている竹中重固とも面会。



 記録にははっきり残っていないが、近藤勇さんの墓が会津若松城を見下ろす天寧寺の一角に建てられたのは、この頃。土方さんは、近藤勇さんの処刑を会津で聞き、容保公の許可を得て天寧寺の一角に墓を建立した(涙)。西軍に墓を荒らされることを恐れて戒名の「貫天院殿純忠誠義大居士」だけ刻み、俗名は刻まれていない。



 また、六月、福良に駐屯していた白虎隊士中二番隊を土方さんが慰問して大いに励ましたという逸話もあるようだが、白牡丹は土方さん本人でなく新選組の誰かが慰問したのが土方さんの話として伝わっているのではないかと考えている。



3. 土方さん、戦線復帰……そして、母成峠の敗戦



 七月初旬、土方さんは負傷が癒えたようで、白河城を囲んでいる新選組に合流したらしい。



 八月半ば、新選組は二本松方面出兵のために猪苗代城下に宿陣。八月十九日、母成峠出陣が決定され、伝習第一大隊・回天隊とともに守備につく。



 すでに二本松を攻め落としていた西軍が会津を攻めるにはいくつかのルートが考えられ、会津藩は勢至道口と中山口を中心に守備した。母成峠を要する石筵口は険路であり、会津藩は余り重視していなかったらしい。石筵口は旧幕軍約八百名が守備についたが、どうにも数が足りない状態だった。



 一方西軍では、他のルートを攻略するよう幹部から進言されていたのを、板垣退助が会津の意表を突く攻撃ルートとして石筵口を選んだようだ。攻撃部隊は二千六百人。



 銃砲の装備の差も含めて圧倒的な兵力差があり、二十一日の半日で母成峠は西軍に制圧された。新選組では大下巌ら六名が戦死、幹部の山口次郎(斎藤一)が本隊とはぐれて「猿でないと登れないような」岩山を葛を縄代わりに頼りに登って逃走したとか、旧幕軍の司令官である大鳥圭介さんも本隊とはぐれて(爆)山中をさ迷ったとか、さんざんな敗戦である。

 撤退しながらその夜、土方さんは会津藩家老宛に、二十二日の朝までに西軍が猪苗代城まで押し寄せてくるので全軍を集めて防御するよう進言する手紙を書いた。が、予想以上に速い西軍の進軍に会津の城内は混乱したようで、援兵が出されぬまま、八月二十三日を迎えることになる。



☆★☆★



 できれば今日中に後編も書いてアップしたい。



【出典】

『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)

『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)

『新選組』松浦玲(岩波新書)

『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)
とても嬉しいニュースだったので、速報で行きます。



「その時歴史が動いた」

それからの新選組

土方歳三 箱館に死す(仮)

平成16年12月15日(水)21:15〜21:58 総合



「その歴」、土方さんが好きですね(笑)、嬉しいけど(*^^*)。



タイトルから見て、「土方歳三 北の大地に散る」(2001年6月6日放送。名作!)を単純に再放送するわけではなさそうです。



今年放送された「池田屋」の回のつくりから白牡丹が勝手に想像するに、「北の大地に散る」をベースに、新しく収録した場面を加えてのリメーク、という路線かも知れませんね。



大河の最終回が12月12日ですから、『新選組!』では描かれない、土方さんのその後を見せるNHKのサービスだと思いましょう(^^)。



山本耕史さんをゲストに呼ぶなんて贅沢を望んではいけないでしょうか、NHKさん。



個人的には、土方さんを取り巻く隊士たち(島田さんとか相馬さんとか野村さんとか)もフィーチャーして欲しいなぁ。



永倉新八っつぁんとか斎藤一さん(→山口次郎さん→一瀬伝八さん→藤田五郎さん)のその後も描くのは……無理でしょうか(苦笑)。



一方で、三谷さんご本人と山本耕史さんが乗り気みたいなんで、『新選組!』続編のリクエストをNHKにしようかなと思ってますが(笑)。
昨日のNHK『この人を見よ』、余りにも余りな番組で悔し涙が出るほど腹立たしかった。

ブログFool Proofさんでは番組構成の拙さ《まずさ》についてコメントされている。

NHKこの人を見よ

まったく同感。ゲストも余り意味がないと思うし、史実を中心にした番組なら司馬遼太郎の『燃えよ剣』の朗読(朗読者が洋装土方さんのコスプレをしているのもあざとい演出だ^_^;)も必要ないだろう。

しかし、史実の土方歳三さんファンの白牡丹には、それ以上に、史実・伝承が加工されてしまっていることに腹が立つ。

まず、奉公先のいとう松坂屋の件。17歳の時に女性問題で追い出されたのは二度目の奉公先で、いとう松坂屋ではなかった。いとう松坂屋は「番頭と喧嘩して飛び出して帰ってきた」と伝わっている。

それから、目が不自由な兄、為次郎さんの言葉。「俺がお前だったら畳の上では死なない」ではなく「俺が目明きだったら畳の上では死なない」が口癖だった。

以上は、土方歳三さんの縁戚、佐藤彦五郎さんのご子孫、佐藤あきら(「日」の下に「立」)氏の『聞き書き新選組』に書かれている。

なぜ史実(伝承ですが)にそんな加工をしなければならなかったのか、理解に苦しむし、意味がある加工だったとは思えない。

小説やドラマならフィクションが入ってもそれはそれでよいと思う白牡丹だが、史実をもとにしていると視聴者が思う番組で、いい加減なことをしてもらっては困る。

民放のしょーもないバラエティでやられても腹が立つが、視聴料を毎月払っているNHKでやられるとますます腹が立つ。

苦情メール、書こうかしらん^_^;。
土田歳子さんから、郵便局にて無料配布される『郵政トピックス』に土方さんの記事が掲載されていると教えてもらった。たまたま今日、郵便局に行ったのだが、置いてなかった……うーん、集配局でなかったせいかなー。

さらに歳子さんから、ウェブ版で紹介されたと情報提供があったので、やっとこちらで紹介できた次第。

歴史に刻まれたメッセージ 土方歳三が思い出の品を義兄に贈った時の添え状

上京して壬生浪士組を立ち上げ、禁門の変で「新選組」の名をもらった頃の土方さんの手紙。この「一 はちかね」以下の手紙は、複製も含め、白牡丹は何度も目にしている。故郷の義兄ほか後援者たちに、京都での自分の奮戦を伝える、短い文章。

「池田屋事件」で新選組の名が全国に響き渡る直前の、土方さんの手紙である。
『新選組と出会った人びと もうひとつの幕末維新史』伊東成郎(河出書房新社) リンク先はamazon.co.jp



まずは、今日読み終わった本から白牡丹が初めて知った土方さんのエピソードを紹介。



この本は、新選組の友軍・敵方・故郷の人々・女性たちなどを一章2-3ページにて紹介したもの。



中でも白牡丹の目を引いたのは、佐倉藩士・依田学海の章に紹介された、土方さんのエピソード。かつて五稜郭で降伏したという竹柴保次郎という人から、依田学海が聞いて記したらしい。



本の中では漢語の読み下し文になっているが、ここでは白牡丹が口語訳にした一部を紹介したい。



「官軍の用兵は神速で常に敵の背後に出るため、人々はこれを恐れたが、歳三ひとりは『背後に出られても恐れるに当たらない。前の敵を破って、振り返って相対すればよい。そうなれば背後でなく正面になる』と言った」



土方さんらしいなぁラブ



依田学海の章には、松本良順から聞いたという、新選組隊士の処断の場面についての記述も紹介されており、これも白牡丹は初見。処断された隊士(名前入り)については伊東氏が書かれているようにその人本人なのかは疑問が残るのだが……新選組マニアにも一読の価値はあると思う。
白牡丹のサイトと相互リンクさせていただいている新選組研究家の藤堂利寿さん(サイトは新選組研究最前線)が『知れば知るほど面白い人物歴史丸ごとガイド 土方歳三』を出版された。白牡丹はまだ読んでいる最中だが^_^;、明治になって日本にはじめて銀行を設立するなど実業界の発展に多大な貢献をした渋沢栄一と新選組副長・土方さんの接点について詳しく書かれている章がとても面白いので、かいつまんでご紹介したい。

渋沢栄一が土方さんと出会ったのは、慶応2年10月1日から8日の頃。当時、陸軍奉行支配調役だった渋沢栄一が、京都町奉行の依頼により、幕臣の大沢源治郎が不逞浪士と共謀して不穏な動きをしているという情報が入り、陸軍奉行の指示で捕縛する手はずになった(京都町奉行は幕臣に直接手出しができない)。大沢は武術を使うし同志がいるということで、新選組に協力を求め、土方さん率いる新選組の一部との捕縛活動になったようだ。藤堂さんの記述によると、渋沢さんは後年何度もこの時のことを語り、また記述に残した時は何度も訂正を入れていたようで、かなり正確に記憶を再現したらしい。

隊士5、6名を引き連れた土方さん、渋沢さんが泊まっていた大徳寺の近くにある寿司屋の二階で渋沢さんと打ち合わせる。

「(略)彼はなかなかの腕利き、かつ種々戒心あるよしも耳にいたしましたゆえ、腕に覚えのある者をすぐって同道いたしましたゆえ、はばかりながらご安心下されたい。只今しのびの者を彼の宿所、大徳寺へつかしてござれば、そのたちもどるまでに捕縛の手筈をお打ち合わせ申そうでござらんか」

ふふふ、土方さん、のっけから「できる奴」をアピールっ(^^)。事前リサーチはばっちり、連れてきた部下も精鋭で、万全の構え。

渋沢さんは、手筈は無用で自分が陸軍奉行の命令を伝えるから共謀する不逞浪士が抵抗した時にだけ協力をお願いすると、一線を引く。しかし、土方さん、そこで粘る^_^;。

「いや、しかし大沢は自身もなかなか不敵な侍、事の破れとなれば自暴自棄となり、いかなる危害を貴殿のご身辺に加えましょうやもはかられません。こりゃまず拙者たちが踏み込んで、大沢を縛り上げて後、貴殿が申し聞けられた方が万全の策と存じるが」

さすが土方さん、用意周到ですね(^^)。しかし、渋沢さんは、嫌疑の段階でいきなり捕縛することはできない、武士の情にはずれたことはできないと返事。この発言に対して、どうやら反論した隊士があった模様。これを鎮めて、土方さん、語りに入る(笑)。

「(略)方々は渋沢氏のお言葉を何と聞かれた。こりゃ恥を知る武士としてごもっとものご説ではござらんか、土方は心服いたした。いや渋沢氏、ご胸中拙者は十分了解つかまつったによって、これらの人々に異存はもうさせません。ただ大沢の旅宿の玄関まではご同道を許されたい」

……いやー、うまいですね(笑)。ごもっともと同意しつつも、万一のことがあったらいけないから新選組を同道させた方がいいと交渉に入る。さらに、渋沢さんが使命感から言葉が過ぎたと謝ると、そつのない答え。

「何の何の、こちらこそ、とかくこの面々は腕をたのんで血気にまかせて角目立ち、組の頭立つ者に世話を焼かせます。若い者の常としてお聞き捨て下されい。しかしそこもとはご分別のほどを拝聴すれば老成な御人ではござるが、お身うけしたところではまだお若い、いくつになられますかな」
「当年、27才にあいなります」
「さらば拙者とは大分お下じゃ」

……ぷぷぷっ、土方さん、「拙者とは大分お下じゃ」って、数え32にしちゃ親父入ってるわ〜^_^;。でも、今の30代半ばに比べたら当時の30代半ばは人生50年と考えたら熟年になるのかな。土方さん、若い隊士たちをおさえつつも、陸軍奉行の代理として任務に当たる若い渋沢さんをヨイショしながら、抜かりなく任務を全うしようとする、できる男振りが素敵ですドキドキ大

大沢捕縛は意外に簡単だったようですが、土方さん、大沢捕縛の際の渋沢さんの口上に感心して出自を聞いたそうです。百姓の出だと聞くと、土方さん、とても感心して、以下の言葉を残したとか。

「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気のある人は理論を無視する。キミは両方いける」

土方さん、さすがっ拍手。人を見る目がありますね。

しかし、最初はしゃちこばった口上だったのが、打ち解けると「キミ」なんですかい^_^;。人の好き嫌いが激しいとも伝えられる土方さんですが、渋沢さんには好意を持ったようです。できる男はできる男を見抜くとでも言いましょうか。
ぱるぷんてさんのブログで、驚きのニュースが紹介された。白牡丹も早速トラックバックさせていただきたい。

読売オンライン

土方さんは「6人きょうだいの末っ子」が定説だったが、このほど、土方家の子孫が、早世した2男2女の存在を確認したそうだ。

10人きょうだいのうち、成人したのは、長男の為二郎さん、次男の喜六さん(長男が盲目のため土方家を継ぐ)、大作さん(後に医師の家に養子に入る)、のぷさん、歳三さんの5人であることには変わりはないのだが……ますます、末っ子に生まれ、生まれてきた時には父親が亡くなっていた歳三さんが、早世した兄弟姉妹の分も兄姉にかわいがられたであろうことを強く感じるのであった。
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