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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 土方さん(史実)in会津の後編。



4. その前日



 八月二十二日、土方さんは山口次郎(斎藤一)さんと共に会津若松にたどり着き、前藩主松平容保(引退して家督を譲っていた)と前桑名藩主松平定敬(領地を離れている間に桑名藩が西軍に帰順したために兄を頼って会津入りしていた)の兄弟に拝謁、滝沢本陣に出陣。新選組は天寧寺に泊まった。



 この日の昼過ぎ、戸の口に向かった先発隊から援軍要請が入り、守備兵力をほとんど持たない容保公は白虎隊に援軍を命じる。

 会津は四方を山に囲まれ、国境守備のために兵力を分散せざるを得なかった。石筵口を突破して怒濤のように攻め込んでくる西軍を止める兵力は会津若松に残されておらず、石筵口以外の地を守備していた主力を呼び戻すこともできなかった。



 情勢を見た容保公は弟の定敬公を米沢藩に向かわせる。奥羽越列藩同盟の中でも仙台と並ぶ雄藩である米沢に援軍を要請するためであったろう(あるいは、弟らの保護を託したのかも知れない)。その一行の中に土方さんの姿もあった。翌日に塩川村で会った大鳥さんの記録によれば、土方さんは同じく友藩である庄内藩に援軍を要請しに行くつもりだった。



5. 慶応四年八月二十三日、会津若松



 早暁から西軍が会津若松城下に怒濤のように殺到した。滝沢本陣を出て会津若松城に入った容保公も銃弾が飛び交う中の撤退で、危ういところだったらしい。ただちに城門が閉ざされ、城内に入れなかった藩士や旧幕軍兵士たちは城外で戦うしかなかった。



 非戦闘員であった藩士家族たちや町民たちにも悲惨な一日だった。国家老西郷頼母《たのも》の屋敷では、頼母が登城した後、屋敷に残った婦人や子供たち21名は、戦闘で足手まといになることを恐れて全員が自刃した。前日の夜に山中で迷い、ようやく飯盛山まで辿り着いた白虎隊士中二番隊の少年たちは市内が燃えているのを見て会津落城と見誤り、20名が自決した(うち、飯沼貞吉が蘇生して助け出される)。市街戦における戦死者が約460名、家屋千戸が焼失、藩士家族で殉難した者が230名余りとされる。



 入城できなかった新選組は、郊外の米沢口塩川村に転陣した。この日、同じく塩川にあった大鳥さんは米沢方面に向かう土方さんと顔を合わせた。大鳥さんによれば、土方さんは、これから庄内に行き援軍を頼んで来るので率いていた新選組・伝習隊を頼むと兵を託したという(文章の主語がわかりにくいので違う読み方もできるのだが、白牡丹はそのように解釈した)。



 松本良順先生たち医師団も、この時に土方さんに同行したと思われる……松本良順先生とその弟子たちは会津藩校日新館の建物を借りてボランティアで負傷者の治療に当たっていたのだが、西軍侵入時に城内に入れず、塩川村の旧幕軍に合流していたようだ。



6. 土方さん仙台へ、山口次郎らは会津に残留



 この後の土方さんの消息は九月初めに仙台に現れるまではっきりしていないが、八月二十五日に米沢城下に達していたようだ。時すでに遅く、米沢藩は西軍への恭順を決めていた。土方さんも米沢領内を通過して庄内藩に行くのは無理とあきらめ、白石を経由して仙台に向かう(おそらく良順先生たちご一行も一緒。定敬公らは白牡丹の調査不足ではっきりしないが、結局、仙台に来ている)。



 大鳥さんたち旧幕軍も仙台藩を頼って会津を離れることを決めたが、山口次郎はじめ十数名の新選組隊士たちは、「一たび会津へ来りたれば今落城せんとするを見て、志を捨て去るは誠の義にあらずと知る」と残留して会津支援を続ける(九月四日、高久村の戦闘で散り散りになるが、山口次郎ら少なくとも七名は生存。山口次郎は会津戦争を生き延び、会津藩士らと共に斗南に流され、会津藩士の娘高木時尾と結婚、容保公より「藤田五郎」の名を賜り、大正四年に七十一歳で没する)。



 仙台で旧幕府の海軍奉行だった榎本武揚と合流した土方さんは、仙台藩の恭順を知り、また会津落城も間近であることを見て、徹底抗戦を貫くために仙台に集結した新選組ほか旧幕軍の兵士たちと共に蝦夷地の箱館を目指す。



7. 終わりに……「トホホ人物伝」、あれはひどい(怒)



 ある方のリクエストに応えて、急遽、手元資料をかき集めて整理した一文。正確さに務めたつもりだが、もし事実関係の誤りがあるようであったら、指摘していただきたい。



 史実の土方さんは、「トホホ人物伝」が描いたような、西軍の攻撃を前に援軍要請と称して少人数で逃げるような卑怯ものではない。ましてや、土方さんが会津を離れたために会津が陥落した訳でもない。当時の土方さんは旧幕軍の幹部であり、会津藩から見れば客将のひとりという位置づけで、戦局の中心にいられなかっただけである。



【出典】

『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)

『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)

『新選組』松浦玲(岩波新書)

『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)

『戊辰戦争』佐々木克(中公新書)
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