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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
今でも彼らの記録が新たに出てくるところが幕末の面白さ。

近藤勇、ドタバタ上洛だった? 岐阜・各務原市所蔵文書で判明
 幕末の京都を警護した新選組の前身「浪士組」が、江戸から上洛(じょうらく)する際、中山道鵜沼(うぬま)宿(岐阜県各務原市)で昼食代を少なく支払っていたことが分かった。市が所蔵する当時の文書に関連する記載があった。昼食の手配を担当していたのは、多摩出身で後の新選組局長・近藤勇(一八三四~六八年)。歴史的人物の失態のエピソードとして注目を集めそうだ。 (大山弘)

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 各務原市歴史民俗資料館の長谷健生学芸員が、鵜沼宿本陣の当主が残した「桜井家文書」から浪士組に関連した記述を確認した。

 江戸時代、団体客が宿場を訪れる際の予約や支払いは、本陣が一括して受け付けていた。桜井家文書には予約時の総人数と、宿場の各旅籠(はたご)に入る人数を記した割り振り、浪士組が去った後の会計報告が記されている。

 六三(文久三)年、京を目指した浪士組が、中山道五十二番目の宿の鵜沼宿に到着したのは二月十九日。浪士二百三十七人が数軒の旅籠に分かれて昼食を取った。ところが、浪士組は支払いの際、人数を二百二十五人と十二人も少なく申告した。

 料理の本来の代金は一人あたり百二十四文。だが、本陣は浪士組が利用した全ての旅籠に対し、一人あたり六文少ない百十八文を配分した。取りはぐれた十二人の代金の合計千四百八十八文を、全旅籠で少しずつ負担したとみられる。

近藤勇=国立国会図書館蔵

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 百二十四文の価値について、長谷さんは「江戸時代後期は一文が現在の二十~三十円に相当すると言われるが、幕末は貨幣価値の変動が大きく、一概には言えない」と話す。

 宿場内でのやりとりは不明だが、長谷さんは「近藤は本庄宿(埼玉県本庄市)でも、浪士の芹沢鴨(かも)の宿の予約を忘れ、激高した芹沢が路上でかがり火をたく騒動を引き起こすなど失態を犯していた。鵜沼宿でも、近藤が不手際をした可能性がある」とみる。

 浪士組は結成後、すぐに江戸を出発した。大名の参勤交代など大規模な旅行の際は、旅籠の予約を半年~一年前に済ませるのが通例だった。長谷さんは「近藤は先行きも分からず、混乱していたのかもしれない」とも推測している。

 鵜沼宿の歴史を研究する岐阜女子大の辻公子講師は「桜井家文書では、具体的なやりとりが分からないながらも、当時の慌ただしさを感じる要素が多い。他の宿場町にも、浪士組について多くの記録が残っている。詳しく調べれば、歴史の出来事を、これまでとは違う視点から再確認できるだろう」と指摘する。

 桜井家文書の浪士組について書かれた部分は、十七日~十二月十六日に各務原市歴史民俗資料館で開く企画展で紹介される。

<浪士組> 江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛に合わせ、幕府が将軍警護のために浪士らを集めて結成した武力組織。文久3(1863)年、東海道を上る将軍とは別ルートの中山道から京に向かった。京に入ってから組織は分裂し、芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らが壬生(みぶ)浪士組を結成。後に新選組を名乗る。

 道場主をやっていたとはいえ、金勘定はあまり得意でない印象が上書きされたエピソードでした。

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幕末の新選組隊士 伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
現在のかすみがうら市出身で、幕末に新選組隊士として活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835〜67年)の肉筆史料が3日までに、同市の歴史博物館に寄託された。幕府が長州征伐を進める中「長州藩の寛大処置を」と朝廷に訴える建言書の草稿で、所有者の水戸市の男性の「多くの人に見てもらえれば」という申し出を同館が受け入れた。甲子太郎の肉筆史料は珍しいといい、同館は調査を進めた上で近く一般公開する予定。

草稿は縦約16センチ、横約62センチの和紙に漢文で書かれ、巻物のように巻かれて箱に保管されている。67(慶応3)年8月、親しくしていた公卿(くぎょう)の柳原光愛(みつなる)に宛てた建言書の下書き。所有者の男性が昨年、京都府内の古書店で入手し、12月、同館に「甲子太郎の肉筆ではないか」と連絡。特定の文字の略し方や筆跡を鑑定した結果、1月末に真筆と判明した。

草稿は、尊皇攘夷(じょうい)を掲げた長州藩と幕府軍が京都で戦った蛤御門(はまぐりごもん)の変(64年)を受け、朝敵とされた長州征伐が行われる中、長州が朝廷の支持を受けて国家のために行動したと訴え、寛大な処置をするよう求めている。

文中に「非常寛大」「平常一和」といった言葉が並び、長州を許し、一丸となって国難を乗り切るべきと提言もしている。文末には甲子太郎のほか、新選組高台寺派の斉藤一と藤堂平介、甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎らの名前が記されている。

水戸藩学者の藤田東湖が墨の濃淡、文字の強弱を付けて文章を書く「東湖流」の影響が見られるという。

同館の千葉隆司学芸員は「文字を直したり書き加えたりした跡が見られる。建言書はこの後に清書して出されたようだ。清書された原本は見つかっておらず、本当に貴重な史料。散逸せず地元に戻ってきたことで研究も進む」と話した。

甲子太郎は志筑(しづく)藩(現かすみがうら市)に生まれ、13歳で水戸藩で剣術や水戸学を学んだ。江戸に出た後、64年に新選組の隊士募集に応じて合流。京都で活躍するが、長州藩とつながりがあったため、幕府に忠誠を尽くす隊長の近藤勇との間で確執が生まれ、暗殺された。生前、大政奉還後に国家政策の建白書を朝廷に提出したことでも知られる。

同館は3月4日まで、甲子太郎を紹介する企画展を開催している。(綿引正雄)
「近く一般公開」とのことで伊東甲子太郎展開催中に間に合うといいなぁ。
来年は明治維新150周年というキャンペーンが政府主導で行われるようですが、旧幕府側に思い入れのある私は戊辰戦争150周年と思っています。
 さて、そんな150年前の史実が、今でも新たに発見されるというワクワクなニュース。

新選組、野営でなく豪農に宿陣 禁門の変の新史料
 1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。

 禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。

 6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。

 禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。

 中村講師は「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。

新選組、京の南部で長州藩士迎撃…禁門の変
 幕末の政変で京を追われた長州藩の尊王攘夷派が権力奪還を狙い、御所を守る会津藩などと衝突した禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変、1864年)で、会津藩配下の新選組が長州藩士を京の南部で迎撃していたことなどが記された日記が、京都市内の旧家で見つかった。

 現在の京都市南区にあった東九条村の豪農、長谷川軍記(1822~71年)の日記で、2年前、軍記ら歴代当主が暮らした長谷川家住宅(国登録有形文化財)の土蔵で発見され、京都女子大の中村武生・非常勤講師(幕末政治史)が解読していた。通説では新選組は禁門の変の直前、鴨川の九条河原に野営していたとされるが、日記には新選組と会津藩の兵は河原近くの東九条村の農家に下宿、交代で警戒に当たり、御所で戦闘が勃発した後は、敗走する長州藩士を東九条村の新選組が鉄砲で迎え撃ったことなどが記されていた。

 中村氏は「東九条村でも衝突があったことは新発見。当時の状況が生々しく伝わる」としている。

新選組の動向、日記に=蛤御門の変「鉄砲打合」-京都
 幕末の1864年に京都で長州藩と薩摩・会津両藩が戦った「蛤御門の変(禁門の変)」の頃、新選組や会津藩士の動向を記録した豪農の日記が発見された。新選組の宿営地や出陣状況、当時の京都近郊の村の様子などが書かれている。国登録有形文化財の長谷川家住宅(京都市南区)を管理する財団が18日、発表した。
 日記は幕末の豪農、長谷川家当主が1871年に亡くなるまで27年間の出来事を記録している。2015年に発見され、京都女子大非常勤講師の中村武生氏が調査した。
 日記によると、元治元(1864)年6月、長州勢から御所を警護するため、京都の南の玄関口に当たる旧東九条村に展開した会津藩士と新選組が、長谷川家と村内の農家に1カ月ほど滞在した。
 日記には「会津様御下宿」「壬生浪士組御下宿」などと書かれ、村内の寺や農家が滞在先になったことや、混雑で村の行事が中止されたことが記録されている。蛤御門の変が起きた同年7月19日の項には「新選組立向ひ鉄砲打合」など、村内で長州勢と戦った様子も記されていた。(2017/07/18-21:08)

新選組「蛤御門の変」参戦の新史料 長州勢を鉄砲撃退
 幕末に起きた武力衝突「蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)」で新選組が戦闘に加わっていたことを示す日記が、京都市南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で見つかった。「池田屋事件の研究」などの著作がある中村武生・京都女子大非常勤講師(幕末政治史)が18日、発表した。都の入り口だった要の場所に布陣して長州藩と激突し、鉄砲で撃ち破ったことなどが生々しく記されていた。
 蛤御門の変では、長州軍が京都に出兵。新選組が従っていた京都守護職の松平容保(かたもり)の軍と戦って敗れ、朝敵となった。しかし、各地の浪士が集まった新選組が当時果たした役割や待遇は諸説あり、明確になっていなかった。
 日記は、当時の住宅の当主、長谷川軍記が文政5(1822)年~明治4(1871)年に見聞きした出来事をまとめたもの。2015年に土蔵のタンスの中から見つかった。

 蛤御門の変が起きた元治元年7月19日(1864年8月20日)には「新選組が立ち向かい鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」などと記載されていた。住宅は蛤御門から約5キロ南で都の南の入り口だった旧東九条村にある。

 また戦闘が始まる約1カ月前には、「会津様御下宿」「壬生浪士組御下宿」の文字と共に、具体的に泊まった農家などの名が記載されていた。壬生浪士組は新選組を指すとみられる。

 中村さんは「新選組が旧東九条村で長州勢と鉄砲を撃ち合い勝利した事実はこれまで知られていなかった。また、通説では鴨川の河原に野営したとされており、農家に泊まっていたことも当時の具体的な動向を知るうえで興味深い」としている。【宮川佐知子】


近年の新選組関係ニュースの中でもメガトン級ですね。特に三番組の長だった斎藤一、明治期に改名して藤田五郎は、本人と特定された肖像写真がなかった(西南戦争の集合写真で伝・藤田五郎はありましたが、このたび、否定されましたし)ので。

斎藤一の写真見つかる 新選組生き残り、53歳当時
 江戸時代末期に新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一について、明治30年の1897年に妻や息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かった。

 斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物とされており、これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しい。

 維新後に藤田五郎と名乗った斎藤を巡っては、西南戦争で政府側に従軍し、警視庁にも勤務したことなどを示す恩給関係の史料が国立公文書館に保管されていたことが昨年判明している。

 撮影当時、斎藤は53歳で、東京高等師範学校(現筑波大)に勤務。家紋が入った羽織はかま姿で脚の上に帽子を置いて、同じく着物姿の妻、トキヲと並んで手前のいすに座り、その後ろには軍服姿の長男の勉と着物姿の次男の剛が立っている。

 斎藤が住んでいた東京・本郷にある「写真師 中黒実」のスタジオで撮影したとみられ、卵白を原料に使った縦約14センチ、横約10センチの鶏卵紙にプリントされている。

 台紙の表には、毛筆で「明治卅年十一月十四日写之」「藤田勉卒業ニ付一家写真」と記載。勉は約2週間後に陸軍士官学校を卒業しており、家族の記念写真だったことをうかがわせている。

 写真は昨年秋、斎藤につながる家系を持つ関係者宅の蔵を整理した際に発見され、斎藤のひ孫に当たる男性(69)に贈られた。男性は「関東大震災や戦災も逃れて、よく残っていてくれた。威厳のある姿を一人でも多くの人に見てもらい、斎藤一という人物をよく知るきっかけになってほしい」と話している。〔共同〕

新選組幹部で明治維新後も生き残った斎藤一 謎多き人物の貴重な写真をフルスクリーンで
江戸時代末期に反幕派を取り締まった新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一(はじめ)。1897(明治30)年に妻や息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かりました。

 斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物。これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しいそうです。

 「産経フォト」では、斎藤の写真2枚と台紙を掲載しています。下記のリンクからフルスクリーンでご覧ください。

★斎藤一の写真見つかる 53歳当時、新選組生き残り
 江戸時代末期に反幕派を取り締まった新選組の幹部として活動し、明治維新後も生き残った斎藤一について、明治30年の1897年に妻や息子2人と共に撮影した写真が残されていたことが15日、歴史研究家のあさくらゆうさん(47)や子孫らへの取材で分かった。

 斎藤は残された史料や写真が非常に少なく謎が多い人物とされており、これほど鮮明な写真が見つかるのは珍しい。

 斎藤一の写真と共に残されていた台紙(提供写真)
 撮影当時、斎藤は53歳で、東京高等師範学校(現筑波大)に勤務。家紋が入った羽織はかま姿で脚の上に帽子を置いて、同じく着物姿の妻トキヲと並んで手前のいすに座り、その後ろには軍服姿の長男の勉と着物姿の次男の剛が立っている。

 斎藤が住んでいた東京・本郷にある「写真師 中黒実」のスタジオで撮影したとみられ、卵白を原料に使った縦約14センチ、横約10センチの鶏卵紙にプリントされている。

斎藤一の鮮明な写真見つかる「これが死線くぐった目だ」【新撰組幹部】
幕末に新撰組の幹部として活動した斎藤一(さいとう・はじめ)の鮮明な写真が、初めて発見された。2015年秋に斎藤の親族の蔵から出てきた2枚の写真を、次男の子孫である藤田家が7月15日に公表した。家族写真は明治30年(53歳当時)に撮影されたもので、単独の写真も同じ頃に撮られたものとみられる。

歴史研究家・あさくらゆうさんによると、これまで本人の写真は、次男の結婚式に出席した際の不鮮明なものしか見つかっていなかった。しかし、「斎藤一の写真」として、別人の写真がネット上に出回っており、真実の姿を世間に知らせるために藤田家が公表に踏み切ったという。

あさくらさんは、ハフポスト日本版の電話取材に対して「今回の写真を見て『なるほど』と納得した。息子の勉(つとむ)さんと比べて、キリっとした目つきで『これが死線をくぐって来た目だ』」と思った」とコメントしている。
■斎藤一とは?

知恵蔵miniなどによると、斎藤一は1844年、江戸の幕臣の家に生まれたとされる。1863年、新撰組の前身である壬生浪士組の結成に合わせて入隊。新選組では、沖田総司、永倉新八と並ぶ「最強の剣士」の一人といわれた。

勤王派浪士を襲撃した池田屋事件などに参加し、また新撰組隊士の粛清にも多く関わったという。幕末の戊辰戦争では幕府軍側として戦い、会津藩が降伏した後に投降、妻の姓をとり藤田五郎と改名した。1874年、明治政府の警視庁に採用される。1877年の西南戦争では警部補の役職で奮戦。1915年、胃潰瘍により72歳で死去した。

NHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)では、斎藤をオダギリジョーが演じ、また人気マンガ『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚―』(集英社)では主人公のライバル役として描かれた。

「悪・即・斬」「はじめくん!」「スポックじゃない」 新選組・斎藤一の写真発見に『るろ剣』『薄桜鬼』ファンも歓喜!
 江戸時代末期、反幕府勢力を取り締まった新選組の隊士と知られる「斎藤一」の写真が見つかったことが、15日わかった。人気アニメのキャラクターとしても人気を博す斎藤一の歴史的発見に、アニメオタクからも歓喜の声が上がっている。

 新選組でも一、二を争う剣客であると言われる斎藤一。戊辰戦争では、前線で活躍し、明治維新後も警察庁抜刀隊の一員として西南戦争に参加。大正時代まで生きた新選組隊士とも知られるが、現代までに残された史料や写真はほとんどなく、謎の多い人物とされてきた。

 そんな斎藤一は、オダギリジョーが斎藤一を演じた2004年の大河ドラマ『新選組!』(NHK)をはじめ、多くの作品に登場。“二次元キャラ”化もしており、中でも「牙突」や「悪・即・斬」でおなじみの『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』、寡黙なイケメンに描かれた『薄桜鬼』シリーズが有名で、作品をきっかけに斎藤一を好きになったというファンも多い。

 だが、これまで実際の斎藤一の姿を確認できるものといえば、『スタートレック』シリーズのミスター・スポックを彷彿とさせる、とんがった耳が特徴の肖像画のみ。お世辞にも「かっこいい」とは言えない姿であった……【注:なお、この肖像画のモデルは本人ではなく、斎藤の長男がモデル】。

 その中で今回見つかった写真だが、1897年、斎藤一が53歳の時に妻子と共に撮影したというもの。写真の中の斎藤一は家紋が入ったはかま姿で、顔立ちは“あの肖像画”と比べると、かなり凛々しい。ネットでも「予想よりかっこいい」「絶対若い頃イケメン」「スポックじゃない!」と評する声が続々と上がっている。

 写真の発見を報じた「共同通信」によると、この写真は当時斎藤一が住んでいた東京・本郷の「写真師 中黒実」のスタジオで撮影したものとみられており、写真の台紙の裏には毛筆で「明治卅年十一月十四日写之」「藤田勉卒業ニ付一家写真」とあることから【注:斎藤一は藤田五郎に改名している】、その後、陸軍士官学校を卒業した長男・勉を祝う、家族写真だったことうかがわせているという。

 今回の発見には、歴史ファンだけでなく、「この人が牙突使ってたのか」「悪・即・斬感がすごい」「はじめくん!」「薄桜鬼ファン的にはテンション爆発せざるを得ない」と、アニメオタクも反応しており、改めて斎藤一の人気を感じるところ。

 なお、新選組の天才剣士と言われる沖田総司の肖像画も“残念”なほうの部類なのだが【注:肖像画のモデルは姉のミツが「似ている」と称した孫の要】、斎藤一の写真が発見されたことを受けて、「沖田も見つけてあげて」「沖田も早く写真が見つかるといいね……」といった声が上がっている。

あさくらゆうさんのブログ「無二無三」より。
皆さまへお知らせ
15日朝に報じられた記事につきまして、あまりの反響に予想を超え、驚いております。多くの関心をお持ちいただき、誠にありがとうございます。

 それに伴い、他報道、および出版社等より問い合わせを多くいただくに及び、所蔵者と相談し、以下のように決めたことをご報告申し上げます。

1.当面は報道機関にのみ写真についての取次対応を行う
2.出版社系(雑誌・書籍)については後日設置された対応先で対応を行う
3.暫定的な取次対応は私(あさくらゆう)がメールで受け付ける
4.あくまでも私は暫定的な対応のため、1の取次対応以外の問い合わせがあったとしても1の取次対応しか行わない

 今回、ある出版社から問い合わせがあり、また、所蔵者ではない関係者に当該出版社の出版物執筆者と関係する者から無断使用を告知される事象が発生されるに至り、その情報を聴き及んだ所蔵者からお怒りの言葉を賜っております。詳細は申し上げられませんが、そのため、画像使用について制限が課される可能性が出てまいりました。

 ともあれ、私の暫定取次はおそらく来月までに解消されるとは推測しておりますが、出版社各位におかれましてはそれまでお待ちいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。おそらく私、および設置先より告知されるかと存じます。恐れ入りますが、よろしくご配慮方、重ねてお願い申し上げます。

あさくらゆう

謹告
本日、共同通信配信により拙名が掲載された記事が配信されました。

今回、写真を新聞記事化することは藤田家の要望でした。藤田家が違うと明言していた西南戦争の写真を駆逐するのがなによりも目的で、そうした意味で広く一般に本物の顔を知っていただきたかったと申されておりました(ちなみにもうひとつの肖像画は藤田實氏をモチーフとした想像画)。

 事の発端は先月にご子孫のひとりに相談を受けたことによります。それから日程を詰め、27日に子孫2名とお逢いいたしました。そこで現物を拝見し、藤田家特有の頭頂部に得心を得ました。

 ただし、写真師の「中黒實」をよく知らなかったため、日本カメラ博物館のAさまに相談し、写真の撮影年度等の目安をいただきました。

 それと、写真の保存について相談を受けました。現時点では申し上げることはできませんが、そう遠くないうちに広く一般の眼に触れる機会が出来ると思います。

 今回におかれましては公表できる内容がごく少なく申し訳ありませんが、少なくとも出所が戸籍上、藤田家から繋がる家より発見されており、トキヲさんの根拠は着ている着物の家紋が会津藩高木家の紋であることです(嫁いだ人は実家の紋を付けます)。

 とりあえず、本日の夕刊以降に紙媒体に掲載される予定で、写真現物におかれましても、見れる機会はあると思いますので、しばらく温かく見守っていただければ幸いです。
 ということで「藤田家が違うと明言していた西南戦争の写真」を駆逐するのが目的で、正しい「藤田五郎写真」が発表されたそうです。
あさくらゆうさんがやってくれました。

新選組の斎藤一、謎多き経歴に光 維新後の従軍など新史料
 西南戦争で右肋骨に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官――。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが5日、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。

 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の1893年1月19日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。

 これによると、斎藤は77年2月20日に内務省の警視局で警部補となり、同5月17日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。4日後の同5月21日に大分県の嵯峨へ着き、同7月12日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同8月15日で、戦闘終結後の同10月24日に臼杵で乗船。帰京後の79年10月8日に勲七等を与えられた。

 81年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年11月11日に巡査部長となり、翌年12月に月給が12円から15円へ昇給した。階級は85年7月3日に警部補、88年11月1日に警部へ上がり、92年12月14日に退職。当時48歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、16年間の勤務に対する恩給は年46円だった。

 これらは妻のトキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。

 恩給関係文書からは、斎藤がトキヲと結婚した年月日も新たに判明した。一般的にトキヲとは再婚だったと認識されているが、最初の婚姻だった可能性が高い。

 文書は文官扶助料の請求書をまとめた「大正五年恩給文官扶助料十五巻六十一」。妻トキヲも斎藤の死亡翌年の1916年に申請していた。

 これによると、明治維新後に「藤田五郎」と名乗った斎藤は、1874年3月17日にトキヲと結婚。戸籍はトキヲを「妻」とし、再婚を示す記載はなかった。〔共同〕

新選組 斎藤一に新史料 西南戦争従軍歴など国立公文書館に恩給関係文書
 西南戦争で右肋骨(ろっこつ)に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官-。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の一八九三年一月十九日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
 これによると、斎藤は七七年二月二十日に内務省の警視局で警部補となり、同五月十七日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。四日後の同五月二十一日に大分県の嵯峨へ着き、同七月十二日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同八月十五日で、戦闘終結後の同十月二十四日に臼杵で乗船。帰京後の七九年十月八日に勲七等を与えられた。
 八一年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年十一月十一日に巡査部長となり、翌年十二月に月給が十二円から十五円へ昇給した。階級は八五年七月三日に警部補、八八年十一月一日に警部へ上がり、九二年十二月十四日に退職。当時四十八歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、十六年間の勤務に対する恩給は年四十六円だった。
 これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
◆実像知る手掛かり
 歴史研究家のあさくらゆうさんの話 人気漫画やゲームのキャラクターにも描かれるなど、歴史に興味がある人以外にも斎藤一の人気が広がっているが、残されている史料は少なく、足跡には謎が多い。警視庁時代のこともスパイや暗殺者として書籍に書かれるなど、怪しいイメージがつきまとうが、見つかった史料は公文書で、実像を知る手掛かりになる記録が出てきた意義は大きい。
 <斎藤一> 1844~1915年。江戸生まれとされる。1863年に近藤勇らが京都で結成した壬生浪士組に入り、新選組となった後は最年少幹部で副長助勤に。沖田総司と並ぶ剣豪とされた。会津藩主松平容保が務めた京都守護職の下、反幕府派を襲撃した池田屋事件などのほか、新選組を離れた元隊士の暗殺にも関わったとされる。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽伏見の戦いを経験し、近藤が投降後も会津藩に合流し新政府軍に抵抗した。明治維新後は、松平家が斗南藩として再興した青森の五戸へ移り、後に上京した。

 掲載された写真の後列中央、西南戦争で出兵した時に撮影した藤田五郎とされる写真の肖像に雰囲気似てますね。
 再婚という記録がないとすると、時尾さんとが初婚ということになりますねー。
久々に新選組関連の史実が新たに出てきたようです。

新選組:待遇改善を直談判した土方歳三 西本願寺から文書
 浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、新選組が西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。本願寺史料研究所が2日発表した。駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、隊士の待遇改善を副長の土方歳三(ひじかた・としぞう)自らが寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。

 研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。

 新選組は1865(元治2)年3月、壬生(みぶ)寺周辺から西本願寺の北集会所に移り2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11日後の3月21日に「金五百両也」「新撰組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。同じ日に新選組が「相撲を開催するので見物に来ないか」と誘うなど気遣いも見せていた。ただ、当時このような借金は返されないことが多かったという。

 6月25日には土方が寺の担当者と面談し、「1人1畳くらいのスペースしかなく暑くてたまらず、隊士からも不満が出て抑えられない」とし、阿弥陀(あみだ)堂(本堂、現在は重文)を50畳ほど借りたいと要求。寺側は応じず、集会所の未使用部分に畳を敷き、壁を取り外して風通しを良くすることで対応した。その日のうちに土方から「無理な願いを早速聞いていただき、かたじけなく思う」とする礼状が届いていた。

 一方、寺側の警戒ぶりもうかがえる。新選組が来る前日の3月9日には、寺の各所に「隊士に不作法な態度は取るな」「隊士と出会っても直接に対応するな」と通達。また、寺のトップである門主の外出ルートが北集会所に近いため「(北集会所から離れた)車御門から輿(こし)を通過させる」としていた。

 同研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「西本願寺に駐屯していた頃は新選組の結束力が弱まり始める時期。土方が引き締めに必死になる様子が浮かぶ」と話している。

 研究所は今回の成果を受けた公開講座を11月11日に築地本願寺(東京都)、12月12日に聞法会館(京都市下京区)で開く。申し込み方法などは後日、本願寺史料研究所のホームページに掲載する。問い合わせは本願寺派(075・371・5181)。【花澤茂人】

 ◇「新選組」隊士たちの具体的な姿がきちんと裏付けられた

 「新選組」などの著書のある歴史家の松浦玲さん(日本近代史)の話 西本願寺側の当時の記録はこれまでほとんど知られていなかった。想像するしかなかった隊士たちの具体的な姿が時系列も含めきちんと裏付けられ、大変興味深い。

 ◇新選組の動き
1863年 2月 新選組の前身「浪士組」が京都に到着し、壬生寺の周辺を屯所とする

1864年 6月 池田屋事件。7月には禁門の変で薩摩、会津藩などとともに長州藩と戦う

1865年 3月 壬生寺周辺から屯所を南の西本願寺に移す

1867年 6月 西本願寺から現在のJR京都駅に近い不動堂村の新しい屯所へ移る

     10月 徳川慶喜が大政奉還

1868年 1月 鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍が薩摩、長州藩など新政府軍に敗れ、新選組も江戸へ敗走

      4月 近藤勇処刑

1869年 5月 函館・五稜郭の戦いで土方歳三戦死
 新選組が西本願寺に移転したのも、西本願寺の広い集会所に目をつけた新選組が押し借りしたという経緯なので、待遇改善を「要求」したというのはちょっと違和感ありますね。「もっとスペースを貸せ」と駄々をこねたということでしょうか。隊士たちを押さえられないと土方副長が言うのは、西本願寺に脅しをかけているように聞こえます(苦笑)。

 記事には「新選組の結束が弱まる時期」とありますが、隊士数的にも充実し、幕府に正式に取り立てられるまでになる西本願寺時代は新選組の全盛期じゃないかと思います……隊士の不行跡をめ
ぐって切腹などあったり、伊東甲子太郎ら御陵衛士派の分隊とか、後半はいろいろあるのですが。

 どんな交渉があったのか、さらに詳しいお話を伺いたいものです。
新選組の生き残り、斎藤一は油小路事変以降に山口次郎を名乗り、その後は何度か改名して斎藤一を名乗ることはなかったのが今までの説ですが……なんと、明治初期に斎藤一を名乗ったらしき形跡が出てきました。しかも、警視庁に奉職してからの職員名簿らしいです。

新選組・斎藤一「書記兼戸口取調掛」…名簿発見
 明治時代初期の警視庁第六方面第二署=現小松川署(江戸川区)=の名簿が見つかり、幕末の新選組隊士、斎藤一(はじめ)(1844~1915)とみられる名前が記されていることがわかった。

 剣豪でならした斎藤が明治維新後、警視庁に勤めたことは知られており、専門家は「斎藤の後半生を知る貴重な資料」とみている。

 斎藤は江戸で生まれ育ち、新選組では、局長の近藤勇、副長の土方歳三らに次ぐ存在だった。戊辰戦争では会津藩の指揮下で新政府軍と戦った。維新後、警視庁で諜報(ちょうほう)活動に従事し、西南戦争などに参加したことは伝承から知られていた。

 名簿は霊山(りょうぜん)歴史館(京都市)が、明治期に警視庁に勤めた関係者の子孫から昨年末に入手した。縦24センチ、横16センチの冊子状で、同署員174人の名前を記載。斎藤は他の4人とともに「書記兼戸口取調掛」という役職の欄に記されていた。

 藤田五郎を名乗るまでに何があったのか、ますますミステリアスな斎藤一です。
 今日見つけた新選組関係のニュースです。

近藤勇の写真、撮影地は京都…敷物が決め手 江戸説覆す
 新撰組の局長・近藤勇(1834~68)の肖像として現存している写真が、新撰組の絶頂期の1865~67年に、京都の写真家によって撮影された可能性が高いことが、古写真研究家の森重和雄さん(東京都江東区)の調査でわかった。写っている敷物の模様が決め手となった。
 近藤の肖像写真としては、腕を組んだポーズと両腕を下ろした2種類がある。刀が置かれた位置や服装などから、同時期に撮影されたとみられ、いずれも近藤はチョウや階段状の模様がある敷物の上に座っていた。
 森重さんは、敷物の模様に着目。別の古写真を調べたところ、京都で写真館2店舗を経営する写真家の堀與(よ)兵衛(1826~80)が祇園支店で撮影したとされる写真3点に、同じ模様の敷物が写っていることを発見した。
 ほかの写真も調査したところ、同じ敷物の写真がさらに5点あり、墨書きなどによると撮影は65~67年に限られていた。
 これまでの説では、鳥羽伏見の戦い後の68年に、将軍の侍医・松本良順が頭取を務める江戸の医学所役宅で、写真家・内田九一が撮影したなどとされていた。
 近藤は67年6月に幕臣に起用されており、木村幸比古・霊山歴史館学芸課長は「新撰組の力が増した頃で、写真撮影もできたのだろう。武蔵の国の農家出身の近藤が幕臣となり、誇らしい気持ちで写真を撮ったのではないか」と話している。
(2009年7月2日 読売新聞)

 京都で撮影されたとのことですが、この時は一緒に撮影された人はいなかったんでしょうか(和装の土方さん写真がどこかに残されてないかと期待してしまう自分^_^;)。




 マニアックな新選組ファンとしては嬉しくもあり、微妙でもある、構成の仕方ですねぇ(汗)……前番組の『その時歴史が動いた』で何回か取り上げられた時には「おいおいっ(汗)」という取り上げられ方はほとんどなかったのに(嘆息)。

第6回放送予定 新選組 京都青春録
~素顔の沖田・土方・近藤~

 リンク先は次回放送以降バックナンバーに回るだろうと思いますが、飛び先URLは書き換えませんので、よろしくお願いします。
 この羽織がよく知られた新選組。生地の浅葱(あさぎ)色は、武士が切腹する時に着る裃(かみしも)の色。山形のダンダラ模様は、主君に忠義を果たした忠臣蔵の衣装を参考にしたと言われます。死を覚悟した、硬派な武士の魂の現れともいえるこの羽織ですが、実際に着ていたのは最初の1年程度でした・・・。
 今回は、幕末・新選組のヒーロー、近藤勇・土方歳三・沖田総司を主人公に、彼らが、ふるさと多摩から大都会・京都に上り、激動の時代に翻弄されることに一喜一憂しながら成長する青春秘話をお届けします。
 都で名を上げ、故郷の人々に認められようともがく土方。新選組有数の人気者ながら実像は謎に包まれている沖田。池田屋事件で大手柄をあげるも、自分の境遇が180度変わることに悩む生真面目な近藤。等身大の若者としての彼らの秘められた素顔を描きます。


☆★☆★

 全体には限られた時間で京都時代の近藤・土方・沖田の象徴的なエピソードを効率よく紹介し、再現ドラマもけっこう良くできているのですが……冒頭の土方さんの若い頃のエピソード紹介で引っかかってしまいました^_^;。

 17才で商家奉公で暇を出されたことは、土方家に伝承される話ですからいいのですが(最近発見された石田村の人別帳では、24才まで奉公していたとの記録があります)、番頭と喧嘩したというエピソードは11才で最初に奉公した「いとう松坂屋」での話では? たったこの程度といわれそうですが、2回の奉公のエピソードを放送時間の都合で1回にまとめてしまったという印象の処理の仕方が、この番組の史実の扱い方に疑義を持たせるようで……(涙)。

 「女中に手を出すとか、素行に問題があった」という解説は、2回目の奉公に関する伝承ではそのまんまなんで、文句のいいようがありませんが(爆)。

 せっかく、土方歳三資料館所蔵の鉢金とか、戯れ句「報国の 心忘るる 婦人かな」のエピソードとか(渡邉あゆみさんの「トシちゃん、調子に乗りすぎ!」というツッコミが妙にノリノリ^_^;)、土方さんの名前を削って書き換えてまで伝えた天然理心流の目録書とか、いい取り上げ方をしているのに……冒頭のこんなところで引っかかってしまう自分が、マニアック過ぎるんですかねぇ(苦笑)。

 故郷に向けて自分たちの命がけの仕事と活躍ぶりをアピールする土方さん、という取り上げ方は悪くないと思うのですが、鬼の副長っぷりというか敏腕ぶりもカバーして欲しかったかな……と、いろいろ期待してしまうところも、マニアックゆえですかね(苦笑)。禁門の変での御所警備の当時は、芹澤鴨さんらが幅を利かせていたので、近藤土方はそんなに目立ってなかったぞ、とツッコミ入れたくなるし……せっかく新選組研究家の菊地明さんが解説してくれているのになぁ(滝汗)。

 洋装写真をもとにCGでつくった京都時代の和装(想像図)、楽しめました。顔の輪郭とか肌も5才ぐらい若返らせる処理をしてみたら、さらに面白かったと思います(爆)。

 土方さんに関しては……『その時歴史が動いた』の関連回、特に「土方歳三 北の大地に死す」が期待値になってしまっているせいでしょうねぇ(苦笑)、ちょっとしたところにも引っかかってしまって、すみませんm(__)m。でも史実の土方さんが好きな自分としては、史実(として伝わっているところ……どの史料を採用するかとか、伝聞とか伝承の類をどう扱うかとか、素人ながらその辺りも気になるところがありますが)は加工して欲しくないのです。

☆★☆★

 沖田さんの剣の腕前に関する評判とか、人柄に関する伝聞とか、「沖田氏縁者」の墓の話とか、この辺りは全然引っかからずに楽しんで見られました。

 近藤さんに関連するエピソード。池田屋事件の直前に解散を考えていたとか、池田屋事件の前段(「もう見込み捜査以外の何ものでもありませんでした」by京都の歴史家・中村氏)とか、よかったです。さらに、池田屋に踏み込んだ近藤隊と後から援護した土方隊の再現ドラマの精度とかは、とてもよかったと思います……今回は、池田屋再現ドラマを特に褒めたいです(近藤隊・土方隊の図解アニメCGに笑えましたし……まるでマ○オ^_^;)。

 うーん、個別のエピソードの取り上げ方には不満はないのですが……京都時代の前半に関して取り上げる時、芹澤鴨さんらの存在が省略されてしまうと、やっぱり物足りないというか、綺麗過ぎるというか(汗)。

 限られた時間の範囲で、京都を去った近藤・土方・沖田のその後を明瞭簡潔に解説した上で、彼らの足跡を多摩の人々が大切に残してきた締め方はとてもよかったと思います……じーん。
 
☆★☆★

 再現ドラマ場面では、大河ドラマ『新選組!』のモブシーンがちょこちょこと入っているみたい。第1回の料亭「やなぎ」に駆けつける場面とか、日野宿名主・佐藤彦五郎さん宅の道場で門弟たちが木刀を振る場面とか。

 再現ドラマについていえば、「近藤勇、美形過ぎ!」(笑)……写真に残る近藤さんの姿より目がぱっちりしてます。土方さんを演じた役者さんは、眉と目のあたりがNHKドラマ『いのち燃ゆ』などに出演した石橋正次さんに似てます……写真に残る土方さんの雰囲気が何となく伝わる配役だったのはよかったと思います。沖田総司は、実物の写真が残ってないので、時代劇お約束の若手な美形による配役も、「実物に似ていない」とは言えないですよね(苦笑)。

 近藤たちが住み込んだ八木邸を紹介した時に「四十畳のところに二十人ぐらい、ひとり当たり二畳ぐらい」の「ひとり当たり二畳ぐらい」に吹き出してしまったのは、自分だけではないと思います。『新選組!』では前川邸も含めて隊士50人ほどを住まわせたと山南さんが想定して、河合さんに「まぁひとり当たり一畳とちょっと」と計算させてましたよね……ほろ苦・笑。

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 『ヒストリア』の今までの回の中では一番満足度が高かったのですが、やはり新選組ファンならではのこだわりというか期待度からすると、ちょっと惜しかったかな……でも録画は保存してリピ再生する予定(すでに、これを書きながら一回リピしてます^_^;)。





 ゴールデンウィーク中の遠征先を検討中にウェブを徘徊していたら、NHKの番組情報に行き着きました(汗)。

NHK歴史秘話ヒストリア 第6回放送予定 新選組、京都青春録
~沖田・土方・近藤の素顔~(仮)

平成21年5月13日(水)22:00~22:43 NHK総合


 「沖田・土方・近藤」という順番が通常と逆(普通は新選組の組織内序列の順に「近藤・土方・沖田」だよなぁ^_^;)なのが気になります。

 どんな視点で取り上げるんでしょう……今日の放送で次回予告(来週5月6日は放送休止)があるはずですので、そこでわかるのではないかと。





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