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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 おはようございます、白牡丹です。通常は記事を書かない時間帯ですが……いつもお世話になっている、かよこさんのブログにとても興味深い記事がアップされていましたのでご紹介します。

講演会レポご紹介
『両雄士傳』と『殉節両雄碑』  講師:小島政孝氏(小島資料館館長)

残念ながら私は行けませんでしたが、聴きに行かれた華乃子さんとレクイエムさんがレポをアップして下さいました。


かよこさん、ご紹介ありがとうございます。かよこさんの記事にリンク&トラックバックさせていただいた上で、華乃子さん・レクイエムさんの記事にもリンク&ご挨拶させていただきます。

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華乃子さんブログ「むつかしからぬ噺かな
講演:「両雄士傳」と「殉節両雄之碑」について
永倉新八が先導して板橋に建てた近藤さんのお墓の建立が
許可されるまでの話が凄かった。
逆賊とされた立場の死者の祭祀は禁止されてたそうですが、
太政官達第百八号というので、明治七年に規制解除。
にも関わらず、当時の東京府知事は許可していいか決められず
どんどん相談は上にあがって行き、ついには伊藤博文だの
大隈重信だの大久保利通だのの大臣クラスが議論して、
やっと許可になったんだそうな。
さすが近藤さんっ!

 戊辰戦争で「逆賊」とされた立場の人物たちの中でも近藤さんがトップクラスの重要人物だったということですね……改めて新選組が薩長土など討幕派にとってどんだけ脅威だったかということを感じます。

鹿之助さんが書いた「両雄士傳」も何度も色んな人に
校正されていった歴史があるんだそうです。
14バージョン目(?)まであるそうな。

ちなみに「両雄士傳」の正式名は
「新選隊近藤昌宜土方義豊傳」なんだそうな。

新選組ではなく新選隊の表記が多いみたい。
大河が組!じゃなくて隊!だったらややさみしい(T T)
でも両雄士傳は「選」の字で統一されてるそうですよん!


「新選隊」だったんですか……「馴染まないんだよなぁ」by総司。「隊長」という名称は、流山以降の土方さんに使われていたりするので(会津の斎藤さんにも使われてましたっけ?)馴染まないわけではないのですが。

講演会のさわりを教えてくださり、ありがとうございます。

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レクイエム0511さんのブログ「誠に生きる~第二章
『両雄士傳』と『殉節両雄碑』講演会 【その壱】
『両雄士傳』と『殉節両雄碑』講演会 【その弐】
『両雄士傳』と『殉節両雄碑』講演会 【その参】
『両雄士傳』と『殉節両雄碑』講演会 【その四】
とても詳しいご報告でありがたいです。中でも興味深かったのは、以下のところです。
近藤さんの法要について…

明治2年4月に近藤さんの一回忌を、小島家・橋本家でささやかにやった。

明治2年5月に近藤さんの三回忌を身内だけでひっそりとやった。

ここまではひっそりとしてますが(^_^;)

明治6年10月に近藤さんの七回忌を盛大にやった!!

この法要は、近藤さんだけではなく、小島家の祖父祖母父の法事も兼ねていて
なおかつ、土方さん近藤さん他何名かの法要も「付祭」という形で一緒にやったものだそうで、(「付祭」というのは、親しい人たちと合同法要をすることとのこと)
なんと、参加者199名とな!!

199名参加の法要って、マジすごいっす!!
かなりなもんだったろうなぁ~

で、この盛大な法要を明治6年にやったってのがポイント

明治7年に明治政府が出した
「戊辰戦争の際に旧幕府側だった者の罪を許し、死者の祭祀執行はおかまいなし」
って通達の前年っすよおおおおおお~~~~~~

このお許しが出る前の年に、大法要をやっちゃってます

豪毅ですなぁ……明治半ばになると五日市憲法をはじめとする民権運動を推進していった多摩の人々の気概の太さに通じるものがありますね。そして、近藤さん土方さんたちが多摩の人々にどれだけ愛されていたかを感じます。

貴重なお話、ありがとうございました。




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 今朝見つけたニュースです。

足守出身新撰組隊士の謎明らかに
東京の研究家が現地調査

 幕末・維新史の中で、今も歴史ファンの高い人気を誇る新撰組。その副長土方歳三(1835―69年)の側近で、戊辰(ぼしん)戦争最後の舞台・五稜郭(ごりょうかく)=北海道函館市=まで行動を共にした人物に、備中足守藩出身の安富才輔がいる。謎の多い人物の出自と最期が最近、明らかになってきた。

 安富才輔(才介、才助とも)は天保10(1839)年の生まれ。元治元(64)年に新撰組に入り、勘定方を務めた。函館では土方側近として、土方が銃弾に倒れた際も同行。東京・日野の土方の実家に〈早き瀬に 力足らぬや 下り鮎〉の句を添えて戦死を告げる書簡を送付。新政府に降伏後の明治3(70)年、東京で暗殺された―。新撰組ファンらに知られる安富像だ。

 新撰組でも表舞台に登場せず、出身を熊本藩や鍋島藩とする史料も…。出自さえはっきりしない安富の謎を「彼がいなければ新撰組は戦うこともできなかった。縁の下の重要人物なのに」と追うのは、在野の幕末維新史研究家あさくらゆうさん(39)=東京都。

 調査は徹底した現地主義。まずは岡山県立記録資料館(岡山市南方)などで足守藩関連の史料を丹念に調査。今年春までに、足守藩でやはり勘定方を務めた正之進(1852年没)を父に持つこと、さらに暗殺はされず「新政府の命で足守へ護送された」ことを突き止めた。足守では謹慎状態のまま4年後、明治6(73)年に没したことも分かった。

 調査を裏付ける墓探しも着手。地元の協力もあって今年7月、田上寺(岡山市足守)の墓地の一隅で、覆いかぶさった竹やぶを払いながら「安富才助夫婦之墓」を確認した。

 あさくらさんは11月16日、日野市の講演会で研究成果を発表する。


 WEBニュース動画版もあります。上記記事のあさくらさんの写真以外には、ビジュアルはありませんが(汗)。

 記事中のあさくらさん講演会の案内は日野市観光協会のサイトにありました。
「土方歳三最後のメッセンジャー 安富才介」講演会
 ちなみに会場となっているのは元「幕末めし処 池田屋」、今は「幕末茶屋 池田屋」(飲食物持ち込み自由の有料休憩所)として営業しているのですね。
 土方歳三資料館ブログの記事を先に読んだ野間みつねさんからメールをいただき、早速飛んでいきました。

源三郎さんの埋葬地~壱
源三郎さんの埋葬地~弐
源三郎さんの埋葬地~参

 そうですか、140年ぶりに源さんが埋葬された場所が判明したと。何と嬉しいことでしょう。

 去年、関西を引き払う時に伏見と淀には寄ってきたのですが(拙ブログ記事「千両松 八番楳木戦場跡」参照)、妙教寺に入る道がわからず、結局行けず仕舞いでしたっけ……(苦笑)。

 井上源三郎資料館にお伺いして詳細を拝聴したいなぁと思います。もし、次に伏見・淀に行く機会がありましたら、(埋葬地は私有地なので直接お伺いできないとのことですので、近づける場所までということになりますが)妙教寺と一緒に回りたいものです。

 また、資料館ブログには第2回山南忌にご参席された時の報告記もありますので、一緒にご覧になることをお勧めします。
第二回山南忌のこと~その壱
第二回山南忌のこと~その弐

☆★☆★

3/13追記。記事に続きがありました。

源三郎さんの埋葬地~四
源三郎さんの埋葬地~五

関係者の方々のお気持ちが繋がっていった末の埋葬地判明であり、お参り旅行だったのだなぁと、一ファンとして心が温かくなる報告記でした。井上源さん、ご子孫や日野の人たちのご子孫と会えてよかったですね……(^^)。
 8月いっぱいで大河ドラマ『新選組!』関係の展示が終了するので、野間みつねさんと行ってきました。ふたりとも、今回が初めてです。

 もちろん、史実関係の史料も楽しみました。清河八郎がサイドビジネスに骨董の商いをしていた(爆)とか、佐藤彦五郎さんが近藤勇さんに書いた文久3年夏(確か8月の頃でした)の手紙の下書きに粕谷良循先生(土方さんの兄)が7月に京都から戻ってきたという記述があったこととか。お医者の家に養子に行った良循先生、子母澤寛の新選組三部作だったか、文久3年3月に上京して、壬生に客分として泊まったという話があったはずなんですが、同時代の記述でそれが確認できたのは初めてじゃないかと思います……何でそこに関心を示すかは、内緒なんですが(苦笑)。

 史実関係は写真撮影禁止でしたが、大河ドラマ関係の展示では特に表示がなかったので、写真撮影させていただきました。



 為ちゃんの「おほへ」が楽しかったです。5日分しか記述がないんですが(しかも、それが3回にわたってコピーされてます^_^;)、その中に、為ちゃんが土方さんが書き物をしている場面に遭遇して近づいたら叱られた、気むずかしい人だと思った(意訳)という記述がありました……きっと、第31話で出てきた、あのメモ帳に句を書き付けていたに違いありません(笑)。

 他にも爆笑ものの展示とか、野間みつねさんが「それはないだろー」と叫んだ展示とか、いろいろありましたが、それは後日、本宅にて紀行文としてアップします。
 史実の新選組ファンにとっては重要度の高いニュースなので速報で出します。



新選組隊士・島田魁の遺品 鹿野の井上さんが保存

 「新選組の隊士、島田魁(一八二八−一九〇〇年)が、新選組の同志や自分の殺した人たちを供養したと伝えられる釣り鐘形の鉄瓶が、鳥取市鹿野町に保存されていることが二十日までに分かった。島田の四男が戦時中に同町に疎開した際に持ってきたもので、池田屋事件や鳥羽・伏見の戦いなど数々の修羅場をくぐり抜けて生き残ったが、多数の人々を殺したことを悔やんだ島田の痛恨の心情がしのばれる」。



 うわ〜っ、島田さんが毎日撫でて供養したと伝わっている鉄瓶が、このタイミングで世に出てくるとは。まるで続編『新選組!!』の制作を待っていたようなタイミングだと感じてしまうのは、恥ずかしながら『新選組!』ファンの性《さが》でございます(汗)。



 しかも「『国家安康』の文字が鋳込んであり、京都の釜師・浄味の銘がある。京都の方広寺の釣り鐘を写したもので、島田が明治時代に京都で入手したとみられる」……この釣鐘って、徳川家康が豊臣家に言いがかりをつけた因縁の釣鐘ではなかったでしたっけ(汗)。島田さんがなぜ方広寺の釣鐘を模したものを選んだのか、不思議に思ったりして。



 作家の中村彰彦さんが語っている「絞殺した」人というのは、新選組隊士の小林啓之助のことですね。新選組が伏見奉行所に移って間もなく、薩摩の間者だという疑いで、島田さんが絞め殺したことになっています。中村さんの著書『いつの日か還る』で主人公として描かれる島田魁さんは、この事件をトラウマとして終生抱え込んでましたね……。



 鉄瓶は自分が手にかけた人々の供養に使われたと記事では書かれていますが、新選組関係の聞き書き本では、土方さんの供養のために念仏を唱えて撫でたという話もあったと思いますが……うろ覚えです(汗)。



 この鉄瓶は個人蔵ということになりますが、今後公開の予定はあるのかどうか等の情報は記事にありません。でも、見つかったというだけでも嬉しいではないですか。
 偶然見つけたブログの記事だけど、興味深いのでご紹介。



司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔14

司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔15



 記事の前半は司馬遼太郎さんの小説『新選組血風録』における芹沢鴨の紹介。これだけだったら拙ブログで取り上げる予定はなかったのだけど、後半は『常陸風土記』に始まる、当地の「鴨」にまつわる地名と伝承の紹介……これが、とても印象に残った。



 「天皇の威光にひれ伏すこの鴨にこそ、自分の身を犠牲にしても帝のために尽くそうとする高い志を見たに違いない。そしてこの鴨になぞらえ、名乗りを『鴨』としたものとわたしは推定するのである」



 去年、玉造に行った時、たまたま玉造観光協会の方に案内してもらったので、鴨宮という地名があることを教えていただき、「鴨」の名前は鴨宮に由来しているのではと教えていただいた。



 今回、この記事を読んで、尊皇攘夷というか勤皇思想の強い水戸で教育を受けた芹沢鴨が「鴨」の名に込めた思いの深さを感じた次第。なるほど、目からウロコでした。
 先週、本宅の第一掲示板にマリコさんからお知らせいただいたニュースがネットに掲載されたので、早速ご紹介。



加藤高明のおじ 新選組だった



 「旧佐屋町『現・愛西(あいさい)市』出身の元首相、加藤高明(1860〜1925)のおじに、新選組隊士がいたことが、蟹江町のガイドボランティア組織の調査などで分かった。」



 「この隊士は蟹江町出身の佐野七五三之助(しめのすけ)。1867(慶応3)年、新選組の全隊士が幕臣に取り立てられたことに尊皇派として反発。隊を離脱し、先に分裂した伊東甲子太郎の御陵衛士に合流しようとしたが断られ、進退窮まって京都守護職邸で同志3人とともに切腹した。」

 切腹説以外に新選組による暗殺説もありますが……。



 「『新選組は明治政府の敵役。好意的に評価される現在とは全く違う。まして、三菱・岩崎家の婿になった加藤高明は、おじが隊士だったことを隠したかったのでしょう』と伊藤さんは推測する。」

 明治政府の顕官に新選組隊士の血縁がいたというのは驚きであると同時に、それをひた隠しにしなければならなかった一族の方々のご苦労も偲ばれる記事でした。
 昨年11/18記事「新選組関係の地域ニュース、まとめて」と2/25付記事「『新選組。永倉新八からの伝言』、放送予定」で紹介したテレビドキュメンタリー『新選組。永倉新八からの伝言』をやっと見ることができた。



 永倉新八のひ孫であるテレビディレクターの方が制作した番組だけに、真面目で、内容が濃かった。



 ドキュメンタリーは、37歳になったディレクターが、同年で新選組の顕彰碑を建てるために飛び回った永倉新八の人生や思いを理解しようとするプロセス……30代後半のその気持ち、わかるよなぁ。一通り仕事をしてみて改めて自分とは何者なのかを振り返りたくなる時期で、ディレクターの杉村さんはひいお爺さんの杉村義衛を通じて自分の立ち位置を確認しようとする。



 そして、浅田次郎、黒鉄ヒロシ、立川談志の各氏からの永倉新八評を聞きながら、後年には杉村義衛と名乗った永倉新八の軌跡を追っていく。京都の歴史家は、『浪士文久報国記事』のオリジナルを見せてくれる(散逸したと聞いているのですが、一巻目は歴史家の方が保存しているのだと知って、ちょっと嬉しかった)。



 「義衛」が「義を衛る《まもる》」という意味で、「衛」は「試衛館」から取ったのではないかという説、何だかすとんと胸に落ちた。「義を衛る」という名前は、いかにも曲がったことが嫌いそうな史実の永倉新八らしいと思う。それに、もし「衛」が「試衛館」から取った字ならば永倉新八っつぁんは青春時代のルーツを忘れずに後半生を生きたのだと思えるし。



 二度ほど繰り返し見て、暖かい気持ちになった。
 たまにしか記事検索していない北海道新聞(汗)にて、大河ドラマ『新選組!』の時代考証にも参加された大石学さんのインタビュー記事を発見。



「新選組」を書いた 大石学(おおいし・まなぶ)さん



 本については「史料検証のポイントは、近藤勇ら新選組草創期の中心メンバーが多摩と江戸の関係者であったのはなぜかという歴史的前提、政治的基盤、組織の近代性の三点」と紹介されている。発売されたのは去年だが、すでに、白牡丹が史実の新選組について調べる時の本のうちの一冊になっている。



 「新選組に、オタク的な関心はない。『むしろあまりのめりこまないようにしようと思ってきた。史料から何が言えるかが基本』と冷静な研究対象としての分析に徹する」と、学者さんらしいスタンス。「ブームをブームとして終わらせてはだめ」とのご発言に、大河ドラマを契機に歴史学的な新選組の評価検証がさらに進むことを期待する。
 日課の新選組関係ニュースを検索していたら、凄いニュースに出くわした。地方紙にも沢山掲載されたようだが、右代表で共同通信の記事をご紹介。



新選組隊士の日記発見 近藤勇らの名簿を記述



 「新選組隊士の山崎烝が慶応元(1865)年に書いたとみられる「取調日記」が見つかり、東京都日野市の市ふるさと博物館が12日、発表した」……どしー、よりによって謎の監察、山崎烝さんの「取調日記」ですか(^^ゞ。大河ドラマ『新選組!』で山崎烝を演じている桂吉弥さんがご自分のHPで山崎の視点で『新選組!』を語る記事を連載している最中にですか。



 こりゃ、泉下の山崎さんが、桂吉弥さんの熱演にエールを送ってるんじゃないかと思えるようなタイミングですね。



 そして、監察の山崎さんがつけた日記なら、新たな史実が見つかる可能性があるわけで……どきどきっ。



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追記。とわきちさんが、「取調日記」にメモされている期間の新選組におけるイベントを挙げてくれてらっしゃいます。



ぐあ!ススム日記発見の衝撃!



今まで史実的に空白の期間になっていたところの記録なので、新しい発見があるかも……。



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11/14追記。「日野市ふるさと博物館」のHPに日記の紹介記事が掲載されていました。



新選組隊士山? 丞(すすむ)「取調日記」の初公開 (11月13日から会期末12月12日までふるさと博物館で展示)
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