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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
久々に幕末ニュースです。

北海道
辞林「幕末の三筆・市河米庵と一族門流展」 札幌・小原道城書道美術館 /北海道
 「幕末の三筆」と称された市河米庵(1779~1858年)の作品を集めた特別展「幕末の三筆・市河米庵と一族門流展」が、小原道城書道美術館(札幌市中央区北2西2)で開かれている。
 市河米庵は江戸唐様書の大家。剛健な書風で知られ、大名らにも書を指導。特別展では米庵を中心に父で儒学者の市河寛斎ら一族の書画や門流の書など約40点を展示している。

東京
土方の逸話や人柄紹介…町田の小島さん出版
奉公で指導力養う 手紙に「モテた」…

土方歳三(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
土方歳三(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
「幕末群像伝 土方歳三」を出版した小島さん
「幕末群像伝 土方歳三」を出版した小島さん

 新選組の研究をライフワークとする町田市小野路町、小島資料館館長の小島政孝さん(67)が、新選組副長の土方歳三の生涯やエピソードを伝える「幕末群像伝 土方歳三」を出版した。小島さんは「テレビなどでのイメージとは異なる土方の人間性を読み取ってもらえればうれしい」と話している。

 小島さんは、旧小野路村の豪農だった小島家の24代当主。20代当主の漢学者、小島鹿之助は自宅の庭を剣術の出稽古に開放し、のちに新選組局長となる近藤勇や土方、沖田総司らが訪れた。小島家には、1836年(天保7年)から1921年(大正10年)まで4代にわたって書き継がれた「小島日記」などの史料が所蔵されており、新選組に関する貴重な記録にもなっている。

 小島さんは今回、小島日記などをもとに、土方の出生、多摩ゆかりの剣術・天然理心流入門などから、北海道・函館で戦死するまでの様々なエピソードをつづった。

 土方は11歳から24歳の頃まで商家に奉公に出ており、この経験が新選組での指導力に生かされたとみられるという。また、土方から鹿之助の母に風邪薬が送られてきた際には、用法を詳細に記した手紙が添えられていたことや、京都で土方が女性にもてたことを自慢げに記した自筆の手紙などからは、女性への優しさがうかがわれることも紹介している。

 四六判、64ページ。2000部発行。税込み800円。希望者には送料込み1000円で分ける。問い合わせは小島資料館(042・736・8777)。

 小島さんは、「幕末群像伝~多摩の豪農・小島家を巡る人々~」の執筆にも取り組んでいる。土方や近藤、土方の義兄・佐藤彦五郎ら33人を取り上げる予定で、来年には出版するという。

土方歳三

 1835年(天保6年)、石田村(現日野市)生まれ。新選組副長として、幕末の京都で治安維持にあたった。局長の近藤勇が新政府軍に捕縛された後も宇都宮、会津などを転戦。69年(明治2年)、函館五稜郭の戦いで戦死した。

2017年08月26日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

歳三の新たな一面を紹介 文化小島資料館で上梓
 小島資料館の館長・小島政孝氏(小島家24代当主)が「幕末群像伝〜土方歳三」を上梓した。小島家20代当主である小島鹿之助は近藤勇、土方歳三らと親交があり、書簡など様々な資料が現在も残っている。新撰組副長のとしての土方歳三のほか、幼少期のことや女性自慢など新たな一面を資料を読み解きながら記している。

 今回の冊子は町田ジャーナルで連載していたコラム「博愛堂清話」(1998年〜2011年)の中から土方歳三の部分を抜き出し、加筆したもの。

 特に新しい発見は、歳三の幼少期のこと。武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市)で生まれた歳三は、幼少期に長年にわたり奉公にでたことが石田村の「宗門人別帳」を調べることで分かった。11歳から24歳までと長く、小島氏は書籍の中で「小学5年から、大学院修士課程までを、奉公で過ごしたことになる。彼の人生35年間においても、この期間は、長く人格形成にもおいても重要な時期であった」と記した。人の使い方や指導者としての立場など、後の新撰組副長としての指導力に活かされたと、小島氏は語る。

 小島家当主4代前にあたる小島鹿之助は、近藤勇、土方歳三と親交が深く、年齢は鹿之助が、近藤より4歳年長だった。そして近藤より1歳年下の歳三。数多くの書簡の中には、歳三の女性自慢もあり、いかに京の街で女性にモテているかを報告してきた。小説やテレビ、映画で知っている歳三とは違った一面も紹介している。

 冊子は四六版で61ページ。定価740円(税別)。希望者は現金書留で〒195―0064町田市小野路町950番「小島資料館」宛。送料込で1000円同封のこと。ほか、町田駅前のぽっぽ町田でも販売している。

静岡
幕末の英雄「書」展示 静岡・駿府博物館、「三舟」など30点(2017/8/20 09:08)
 静岡市駿河区登呂の駿府博物館で19日、大政奉還から150周年を記念する企画展「幕末維新 英雄たちの書~徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、他~」(同館、静岡新聞社・静岡放送主催)が始まった。11月19日まで。
 同館の所蔵品から、幕末から明治にかけて活躍した人物の書を中心に30点を展示した。江戸城無血開城に尽力し、「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書や、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の書も並んでいる。江戸中期の駿府の城下町を描いた土佐光成の「駿府鳥瞰(ちょうかん)図」も特別展示されている。10月7日からの後期展は、一部展示品を入れ替える。
 入館料は高校生以上500円、中学生以下無料。8月26日午後2時からは、書家大谷青嵐さんのギャラリートークが開かれる。問い合わせは同館<電054(284)3216>へ。

京都
京都幕末祭龍馬の新史料紹介 対談や報告 3日・東山 /京都
幕末維新の歴史を振り返る「第5回京都幕末祭」(NPO法人京都龍馬会主催)の講演会が3日午後1時半、京都市東山区の京都国立博物館平成知新館である。幕末の志士、坂本龍馬の没後150年を記念し、新発見の手紙などの史料を読み解き、知られざる姿を探る。

宮川禎一・同博物館上席研究員と京都龍馬会の赤尾博章理事…
 以下は有料記事となります。

【京都ホテルオークラ】10月13日で「大政奉還」表明から150年 オリジナルカクテルシリーズ 第5弾
[オークラ ホテルズ & リゾーツ]
歴史的瞬間にスポットをあてた一杯が9、10月に登場!

京都ホテルオークラ(本社:京都市中京区 (株)京都ホテル、東証2部上場、代表取締役社長 福永法弘)では、「大政奉還」が表明された10月13日に合わせ、2017年9月1日(金)~10月31日(火)に「大政奉還」にちなんだオリジナルカクテルを販売いたします。


京都ホテルオークラ オリジナルカクテル「維新」(左)と「決断」(右)
2017年は徳川家15代将軍慶喜が二条城で朝廷に政権を返上する「大政奉還」を表明してから150周年にあたります。京都ホテルオークラでは、幕末期、ホテルと同じ場所に長州藩邸があったことにちなみ、長州藩の志士「桂小五郎」と「二条城」をメインテーマに1月からオリジナルカクテルの販売を続けてまいりました。
2ヶ月毎にサブテーマや素材を変えながらシリーズ展開してきたこのカクテルを通じ、新たなお客様とのコミュニケーションや出会いの機会も生まれ、好評をいただいております。

今回、徳川慶喜が二条城二の丸御殿大広間に諸藩の重臣を集め「大政奉還」を表明したという10月13日に合わせ、その歴史的瞬間にスポットをあてた一杯が登場いたします。「二条城」をはじめ、幕末・明治維新ゆかりの地が数多くある京都で、歴史を動かした人々に思いを馳せる一杯をお楽しみください。

◆大政奉還150周年 オリジナルカクテル(9・10月)概要
「決断」(写真右)
「大政奉還」が表明された「二条城」大広間の障壁画と、新たな時代への幕開けをイメージし、美しい黄金色に仕上げた一杯。柚子やお茶など日本の素材にこだわった豊かなボタニカルが特長の「季の美 京都ドライジン」をベースに、きりっとした味わいの中に京都の「特別牛乳」でまろやかさをプラスしております。

「維新」(写真左)
朝の光に照らされた草原を思わせる鮮やかな緑で「大政奉還」後に新政府樹立へと歩みだした桂小五郎らの旅立ちを表現した一杯。明治初期に日本へもたらされて以来、多くのリーダーや文人に愛されたスコッチウイスキー「オールドパー」がベースの柔らかな味わいの中に、柚子の香りを利かせ、爽やかな飲み口に仕上げております。

【 価 格 】各1,782円(税・サービス料込)
【販売店舗】 2階 バー「チッペンデール」、17階 トップラウンジ「オリゾンテ」
*「オリゾンテ」はラウンジタイムのみ
【販売期間】2017年9月1日(金)~10月31日(火)
*大政奉還150周年カクテルシリーズは2017年12月29日(金)まで販売


【京都ホテルオークラについて】
京都市の中心部に佇む、1888年創業の伝統あるホテル。京の風情とヨーロピアンテイストが調和した落ち着いた趣の館内には国内外の賓客を迎えてきた歴史が刻まれています。高さ約60メートルの最上階レストランフロアからの眺めは美しく、東山三十六峰や鴨川、古都の街並みが一望できます。

〒604-8558
京都市中京区河原町御池
TEL:075-211-5111(代表)
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前駅」直結。/JR京都駅より車で約15分。
webサイトURL:http://okura.kyotohotel.co.jp/

企業プレスリリース詳細へ (2017/09/01-17:41)



兵庫
知られざる開港前夜に焦点 神戸で「開国への潮流」展
「長崎海軍伝習所絵図」など当時の様子を伝える資料が並ぶ会場=神戸市立博物館
拡大
「長崎海軍伝習所絵図」など当時の様子を伝える資料が並ぶ会場=神戸市立博物館
 神戸開港150年目の企画展「開国への潮流-開港前夜の兵庫と神戸」(神戸新聞社など主催)が、神戸市立博物館(神戸市中央区京町)で開かれている。幕末の開港までの準備段階に焦点をあてた展示。その後、貿易拠点として発展していく神戸の礎を築いた先人たちの軌跡をたどることができる。(ライター・加藤紀子)

 兵庫(神戸)港が開港したのは1868年。江戸幕府が欧米諸国と結んだ通商条約で開港場に選ばれていたが、幕末の混乱で5年遅れての実現となった。その間に、将軍徳川家茂の上洛艦隊を受け入れる港として整備されるなど、急速に近代化が進んだ。

 学芸員の三好俊さんは「準備段階の歴史は、開港後に比べてあまり知られていない」と、展覧会の狙いを話す。今回は当時の史料およそ100点を通じて、外国人の来日に衝撃を受けながらも、積極的に変化に対応していった街の姿を紹介する。

 注目の展示品は、最近になって見つかった「レザノフ屏風(びょうぶ)」だろう。1804(文化元)年に長崎に来航し、幕府に通商開始を求めて滞在したロシア人・レザノフ。自身の肖像のほか、将軍への献上のために持ち込んだ品々が描かれている。当時の人たちの視点で紹介してあり、初めて接する異国文化への認識が分かる。

 「長崎海軍伝習所絵図」は、幕末の海事教育施設の考証復元図。大坂湾の海図作成を手掛けた人材を育成したことで知られ、ここで学んだ多くが明治時代に活躍する。絵図は、海洋国家として成長していく日本に欠かせなかった伝習所の訓練の様子を伝える。

 神戸市指定文化財の「和田岬石堡塔外冑壁(せきほとうがいちゅうへき)之図」は、昨年までの修理工事で分かった砲台の調査結果の資料も併せて展示する。中央に円柱形の石造砲塔を備えるなど、海外で使われていた構造を日本で初めて導入した砲台だが、建造にあたっては日本の伝統技術も貢献した。

 例えば、火薬庫に大砲の冷却水が流れ込まないように、和船の造船で培われた高度な防水技術が使われている。海外の新工法を積極的に取り入れる過程で、従来の技法も織り交ぜながら模索した跡がうかがえる。

 神戸の開港を伝えるイギリスの絵入新聞「イラストレイテッド・ロンドンニュース」は、銅版画で表現した神戸港の光景と合わせてセレモニーの様子を記事にする。神戸港が世界に向けてデビューしたことを報道したもので、新しい時代の幕開けを感じる。

 三好さんは「神戸港の発展には、開港準備に奔走し、模索した先人たちの努力があったことを感じてほしい」と話している。

 24日まで。月曜休館(ただし、18日は開館し19日休館)。一般800円、大学生600円、高校生450円、小・中学生300円。JR三ノ宮駅、阪神、阪急神戸三宮駅から徒歩10分。TEL078・391・0035

■インフォメーション

・記念シンポジウム「神戸開港と港の近代化」 3日午後1時から。当日正午から入場整理券配布。

・サタデー・トーク 学芸員による見どころ解説 毎週土曜午後2時から。

 いずれも聴講無料。観覧券必要。先着160人。

岡山
徳兵衛漂流記米大統領選の記述発見 幕末の備中 4年ごとに「王」選ぶ 津山郷土博所蔵 /岡山
 2015年に津山市で見つかり、19世紀半ばの米国の様子を伝える日本人船乗りの漂流記に、米大統領選に関する記述があることが分かった。4年ごとに「王」を選んでいるなどと記され、米大統領選を紹介した県内最古の史料である可能性が高い。幕末の県内の町民が、世襲制とは異なるトップがいると知っていたことを裏付ける貴重なものだ。【小林一彦】

 記述があったのは、備中(現在の県西部)出身の徳兵衛が米サンフランシスコなどを訪れた体験を記した「漂流記」。徳兵衛が帰国を果たした後の1855年、津山城下の西今町(現・津山市西今町)の商家だった野々口屋佐一郎が聞き書きした。160年後、津山郷土博物館の所蔵品から発見された。

 漂流記で徳兵衛は「アメリカニ国王なし弐(二)十四ヶ国主より四年〓(しめ)其内ノ賢者を見立して王とするよし承り候」と述べている。「弐十四ヶ国」は24州を指すとみられる。米大統領選は当時も今も州政府のトップから選ぶ方法ではなく、州の数も徳兵衛のサンフランシスコ滞在時は31州になっていたため正確性に欠けるが、漂流記後半の付記冒頭に記され、徳兵衛や佐一郎の関心の高さがうかがわれる。

 徳兵衛と同じ「栄力丸」で漂流した船乗りたちが帰郷後、出身地の藩関係者に聴取された記録として知られる史料でも、「入札」で「年季を限り国王に見立て」(姫路藩)、「一任四年限りに代り持に」(鳥取藩)などと、やはり任期を限って国の代表を交代させていると報告している。

 徳兵衛が米大統領選について知ったのは、米国から移送された中国・上海滞在時だった可能性が高い。徳兵衛らの帰国を支援した先輩漂流民の山本音吉は当時、上海の英国系商社員として働いていた。栄力丸の乗組員が音吉から海外事情を教えてもらったと述べている史料もある。

 国内では、佐一郎が聞き書きした55年の前年に日米和親条約が結ばれ、津山出身の蘭学者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)がペリー初来日時(53年)に持参した米国大統領国書の翻訳を手掛けるなどしている。米国への関心が国内で高まっていた時期で、徳兵衛のもたらした情報は多くの町民らに広がっていた可能性がある。

米サンフランシスコに滞在
 徳兵衛は1820年代初頭に現在の倉敷市玉島勇崎で生まれたとみられる。鎖国期の1850年に廻船(かいせん)「栄力丸」(乗組員17人)に乗船。江戸から上方方面に帰る途中、紀伊半島沖で嵐に遭遇し、かじや帆柱が破損するなどして約50日間太平洋を漂流した。

 米国商船に救助され、そのまま51~52年に米サンフランシスコに滞在。その後、中国に移送されて54年に長崎へ帰国。長崎奉行による取り調べを受けた後、翌年1月(旧暦)に当時兄が暮らしていた松山新町(現高梁市新町)に帰郷した。佐一郎による聞き書きは、その3カ月後だった。

高知
湿板写真や機材 維新映し出す・・・中岡慎太郎館
 江戸末期から明治期にかけて撮影されたガラス湿板写真などを展示する「幕末維新写真展」が、北川村の中岡慎太郎館で開かれている。同館は「写真を通じて当時の雰囲気を体感してもらえれば」としている。4日まで。

 維新期に活躍した武士らの写真や、当時のカメラ機材など約150点を展示。侍が刀を抜いて構える写真は初公開で、当時は抜刀行為が厳しく制限されていたため、非常に貴重だという。和装と洋装が入り交じった写真も初公開。坂本龍馬や中岡慎太郎ら幕末の志士のほか、町人や歌舞伎役者たちの姿も並ぶ。

 「日本写真の祖」とも評される上野彦馬や、明治天皇の「御真影」を初めて撮影した内田九一ら、当時の写真家が撮影した写真も。最初期の報道カメラマンと言われるフェリーチェ・ベアトが使っていたとされるカメラの現物も展示されている。このほか、当時の写真技法を記したテキストなどのマニュアル本や、被写体用の敷物を含めたカメラセット一式も紹介。同館の担当者は「写真の歴史を知る上で貴重な資料」としている。

 高校生以上500円、小中学生300円。問い合わせは、同館(0887・38・8600)。


佐賀
幕末の「精煉方」技術今に 副島硝子工業の「肥前びーどろ」 ガラスの美工芸の世界へ [佐賀県] 
 透き通る清涼感と、柔らかな手ざわりが魅力の「肥前びーどろ」。幕末佐賀藩の理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」にルーツを持ち、副島硝子(がらす)工業=佐賀市道祖元町=がその技術を今に伝えている。

 精煉方は1852年、多布施川のほとりに設置。佐賀藩は、佐野常民を主任に秀才たちを集め、洋書の翻訳を基礎に蒸気船や大砲製造を進めた。カメラや紙、薬剤と研究分野は幅広く、佐野常民記念館の諸田謙次郎館長(63)は「日本の近代化と物づくりの発祥の地、原点になった」と話す。

 飽くなき好奇心と研究熱を支えたのが、敷地内に置かれたガラス工場だった。昼夜煌々(こうこう)と火がともる熔解(ようかい)炉で実験用ビーカーやフラスコが作られ、火を操る術は肥前陶工たちの知恵があったともいう。

 ガラス製造は日本では、弥生時代の勾玉(まがたま)製造などが確認されているが、本格的な国産が始まったのは17世紀前後から。出島での交易を通して製造技術が伝わったらしい。ポルトガル語がなまって「びーどろ」「ぎやまん」と呼ばれ珍重された。佐賀藩では武雄鍋島家が最初にガラス製造に着手し、精煉方での製造へとつながっていった。

 副島硝子工業の初代社長、副島源一郎さんは8歳で精煉方に弟子入り。孫にあたる副島太郎社長(69)は「祖父はまだ子どもだったので、佐野常民さんから文机(ふづくえ)や革帯(ベルト)をもらいかわいがられたそうです」と明かす。精煉方のガラス技術は明治に民営会社に受け継がれ、副島硝子工業は1903年に独立。ランプやビン類で近代化に貢献し、金魚鉢やハエ取り瓶などが広く普及した。

 昭和の高度成長期にはオートメーション工場の出現で経営難に直面する。太郎社長が営業担当として入社したばかりのころだった。「もう手作りはやめようとしていたら、職人さんが『30年ガラス一筋で、やっと作りたい物ができてきた。無念で仕方ない』と言うんです。そこで若造だった私にも物づくりへの羨望(せんぼう)が生まれた。『もうちょっと辛抱すれば、きっといい時代が来る』と、自分も工場に入って作り始めました」

 手作りガラスブームのあけぼのも見え始めていた。看板商品の「肥前びーどろ」は精煉方ゆかりのガラス棒を使う「ジャッパン吹き」で、型を使わない宙吹きで仕上げる。柔らかな曲線の酒器「肥前燗瓶(かんびん)」は佐賀の酒席に異国情緒を添え、用と美を兼ね備えた器たちは茶人にも愛された。

 近年では明るい色彩の虹色シリーズが人気で、「伝統を受け継ぎつつ、新しいガラスを作っていきたい」と太郎社長。アクセサリーや玉手箱なども企画中で、より工芸としてのガラスの美を生かしていきたいという。

 理化学研究から近代化の原動力に、そして日用品から工芸の世界へ。精煉方の物づくり精神は、今もガラスのきらめきの中に宿っている。

     ×

 9月10日まで、佐賀市川副町の佐野常民記念館で企画展「ガラスの世界~佐賀藩精煉方の歩みと佐野常民」が開催中。精煉方の歴史と副島硝子工業の製品約30点を展示。一般300円、小学生~高校生100円。9月4日は休館。同館=0952(34)9455。副島硝子工業=0952(24)4211。展示販売あり。

=2017/08/31付 西日本新聞朝刊=

未来のヒント、佐賀に30年から「幕末維新博覧会」
 明治維新150年を迎える平成30年、佐賀県が「肥前さが幕末維新博覧会」を開催する。武士道を説いた「葉隠」や、優れた人材を輩出した藩校などを取り上げ、先人の言行をダイナミックに体感できるテーマ館を設ける。最新映像を駆使し、過去の偉業から未来のヒントをつかむ展示を目指す。 (高瀬真由子)

 中核施設「幕末維新記念館」は、市中心部にある市村記念体育館内に整備する。

 幕末、肥前佐賀藩は蒸気船や鉄製大砲、反射炉などを、国内で初めて実用化した。こうしたイノベーション(技術革新)を、最新技術を駆使して伝える。

 このほか、周辺施設に2つのテーマ館を整備する。旧三省銀行が会場の「葉隠みらい館」では、映像で葉隠の文章を写し出す。

 葉隠は佐賀藩の武士、山本常朝が語った教訓など約1300項目を弟子が記録したもので、写本がひそかに藩内に伝わった。藩士に対する教材として、重視された。

 旧古賀家を会場とする「リアル弘道館」では、藩校を再現し、先人の学びの様子を伝える。

 維新後、明治政府で活躍した大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、佐野常民、島義勇らはいずれも弘道館で学んだ。

 150年前にタイムスリップしたような体験ができるよう、佐賀県は展示構成に知恵を絞っている。

 開催期間は、来年3月17日~平成31年1月14日。期間中、博物館など周辺施設でも特別展を検討する。特設レストランも企画し、県内の回遊性を高める。県の担当者は「歴史や文化を含め、佐賀全体を楽しんでほしい」と語った。

 維新を推進した「薩長土肥」のうち、肥前佐賀は注目される機会が少ない。県は博覧会を通じて、佐賀のアピールを図る。

「唐津八偉人」の志を未来へ 市が近代化貢献の8人選定 来年の維新150年に合わせ [佐賀県]
 唐津市は、来年の明治維新150年に合わせ、日本の近代化に貢献した人材を輩出した唐津藩の英語学校「耐恒寮(たいこうりょう)」出身の4人をはじめ、維新前後に活躍した人物計8人を「唐津八偉人」に選定した。先人の生き方や成し遂げた偉業を顕彰し、子どもたちに志をもって未来へと歩んでもらうのが目的。

 唐津出身者を対象に「耐恒寮」の他は「幕末」「石炭」「女性」「近代化」をキーワードにして決めた。八偉人をあしらったタペストリー(縦、横ともに2・4メートル)6枚を作って市中心街のビルなどの壁面に張り出したり、ポスター・チラシも制作したりする方針で、9月1日開会の定例市議会に提案する本年度一般会計補正予算案に243万円を盛り込む。小中学生向けに、八偉人の活躍を知ってもらうための教材作成も視野に入れている。

 八偉人は、小笠原長行(ながみち)▽大野右仲(すけなか)▽辰野金吾▽曽禰(そね)達蔵▽天野為之▽大島小太郎▽奥村五百子(いおこ)▽長谷川芳之助。

 小笠原長行は、幕末に唐津藩主だった長国の養嗣子。幕府に才覚が認められ、老中となって外交で手腕を振るった。戊辰戦争では、旧幕府軍に従って北海道・函館まで渡って忠誠を尽くした。大野は儒学者として藩に仕え、戊辰戦争では長行の側近として明治新政府軍に抗戦し、宮城県・仙台で新選組に入隊。指揮を執った土方歳三が狙撃で亡くなる最期を記した「函館戦記」で知られる。

 耐恒寮は1871(明治4)年、唐津藩知事だった長国が開いた。後に首相となる高橋是清を英語教師として招き、閉校後は薫陶を受けた生徒たちが上京。建築家となった辰野は日本の「表玄関」となる東京駅や日本銀行本店の設計を担う国家プロジェクトにかかわり、曽禰も建築家として、東京駅前にロンドンの銀行街をモデルにした「丸の内煉瓦(れんが)街」を手掛けた。天野も耐恒寮出身で、日本人による最初の経済原論を刊行、早稲田大の二代目学長に就任した。高橋から学んだ大島も唐津銀行を創設、鉄道や唐津港の整備にも力を尽くした。

 奥村は幕末の尊王攘夷(じょうい)、明治初期の自由民権運動で奔走して激動の時代を生き、戦没者遺族、傷病兵家族の支援組織として「愛国婦人会」を創設した。唐津藩士の家に生まれた長谷川は官費留学生として米国で鉱山学を学び、三菱に入社。炭鉱や鉱山の業務に携わった。三菱退社後は官営八幡製鉄所創設に関わった。

 欧米先進国に学び、近代国家へと大変革していった明治時代。けん引していった「唐津八偉人」について、峰達郎市長は「志を広く知ってもらい、唐津のプライドづくりをしたい」と話した。

=2017/08/31付 西日本新聞朝刊=
 大野右仲の資料、見たい……。

エンターテインメント
『風雲児たち』三谷幸喜脚本でドラマ化に大反響!「真田丸」キャスト・スタッフ再集結
 みなもと太郎のマンガ『風雲児たち』がNHKの正月時代劇としてドラマ化されることが分かった。この発表にファンからは「これは凄まじい驚きですよ!」「頬をつねりながらドラマ化の報せを読んでる」と大反響が起こっている。

 同作は、関ヶ原の戦いを機に始まる徳川幕府や江戸時代にスポットを当てた“大河歴史ギャグ”マンガ。今回のドラマ化では演出を大河ドラマ「真田丸」の吉川邦夫が手掛け、「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」と題して前野良沢と杉田玄白の“蘭学事始”を描く。

 脚本を担当するのは三谷幸喜で、「真田丸」以来1年ぶりにNHK時代劇の脚本を担当することに。三谷は同作について「僕はこの作品で、歴史の新しい見方を学びました。『風雲児たち』には、今の日本を築き上げた先人たちの感動的なエピソードがぎっしり詰まっています」とコメント。「今回、そのほんのちょっと一部分をドラマ化しました。歴史ファン、みなもとファンとしてこれ以上の喜びはありません」と喜びを語っている。

 脚本を三谷が務めるとあって、ファンは大興奮のようすで「スーパー楽しみなんですけど!」「三谷幸喜がみなもと作品の脚本を担当するとかヤバすぎるでしょwww」「どこまでギャグが盛り込まれてくるかな?」「これでまたしばらく生きていけるわ」といった声が続出。

 これまでに発表されている出演者にも注目が集まっており、前野良沢役に片岡愛之助、杉田玄白役に新納慎也、平賀源内役に山本耕史、田沼意次役に草刈正雄と「真田丸」キャストが集結。強力な体制でのドラマ化にファンからは「『真田丸』キャスト・スタッフの再結集なんて最高かよ」「草刈正雄が田沼意次役とかハンパない」「真田丸ファンは正月時代劇に集合だな」などの反応が溢れている。

 みなもとは「私のギャグスピリットを最も良くご理解されている三谷幸喜氏の手でNHKでドラマ化されることを、大変うれしく楽しみにしております」とドラマ化に期待を寄せるコメント。喜劇王・三谷幸喜が原作の持つ“ギャグ”要素をどのように活かしてくるのか、正月の放送が今から待ち遠しい。

■正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」
放送予定:2018年1月初旬
原作:みなもと太郎
演出:吉川邦夫
脚本:三谷幸喜
音楽:荻野清子
出演:片岡愛之助、新納慎也、山本耕史、草刈正雄 ほか
制作統括:陸田元一、中村高志
公式ページ:http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=11289
幕末の彰義隊を通して、青春の悲劇を活写した『合葬』
今年は時代劇映画がちょっとしたブームになっていて、『無限の住人』や『たたら侍』『花戦さ』『忍びの国』、そして現在『関ケ原』が大ヒット中です。

個人的には、こうしたブームの基を築いたのは松竹の『超高速!参勤交代』2部作(14&16)や『殿、利息でござる!』(16)などコメディ時代劇のクリーン・ヒットではないかと密かに思っている次第ですが、同時期に松竹(正式には松竹メディア事業部)では、規模こそ小さいまでも、珠玉の時代劇映画を配給していました。

今回はその映画、2015年度作品『合葬』をご紹介したいと思います。

上野戦争をクライマックスに
新政府軍に徹底抗戦を誓う若者たち

『合葬』は、江戸風俗研究家兼漫画家でもあった杉浦日向子が雑誌『ガロ』に発表し、1984年に第13回日本漫画家協会賞・優秀賞を受賞した同名漫画を原作にしたもの。

舞台は江戸時代末期、いわゆる幕末の時代に幕府側について、薩摩や長州の新政府軍を迎え討つことになった彰義隊の若者たちの悲劇を描いたものです。

もともと彰義隊は将軍・徳川慶喜の身辺警護や江戸の秩序守護を目的に組織されたものでしたが、大政奉還によってその存在意義がなくなり、しかし隊員らはそれを認めようとはせず、薩摩や長州を中心とする新政府軍への徹底抗戦を誓うのでした。

その隊員のひとり秋津極(柳楽優弥)は、友人・福原悌二郎(岡山天音)の妹で婚約者でもある砂世(門脇麦)に別離を言い渡します。

それは砂世の身を気遣ってのことでしたが、悌二郎には納得できません。

しかし極は己の信念を変えようとはせず、さらには養子縁組をした家から追い出された吉森柾之助(瀬戸康史)を彰義隊に引きずり込みます。

そんな彼の気概を、隊の穏健派で上役の森篤之進(オダギリジョー)が認め、やがては悌二郎も彰義隊に入隊することに。

まもなくして江戸城の無血開城が決定となり、彰義隊は江戸警護の任を解かれますが、血の気の多い強硬派の若者たちはその命に従おうとせず、新政府軍との衝突は時間の問題に……。

閉塞感漂う現代ともリンクする
戦いに身を投じる若者たちの姿

合葬 映画 BD DVD

(C)2015 杉浦日向子・MS.HS / 「合葬」製作委員会

慶応4年(1868年)3月に西郷隆盛と勝海舟の間で盟約が結ばれて江戸城無血開城がなされた後も、幕府軍と新政府軍とのさまざまな激戦が繰り広げられていった事実は、歴史好きのかたなら先刻ご承知かと思われますが、本作では同年5月に勃発した上野戦争をクライマックスに、戦いに身を投じていく若者たちの悲劇を青春群像劇として活写していきます。

脚本に『ジョゼと虎と魚たち』(03)や『天然コケッコー』(07)など青春映画の旗手・渡辺あやを迎えているのも、この作品が幕末バトル映画ではなく、あくまでも青春映画にしたいという製作サイドの意向が汲み取れます。

その渡辺あやと『カントリーガール』(10)でタッグを組んだ自主映画作家・小林達夫監督が本作で商業映画デビューを飾りましたが、激動の時代に翻弄されていく3人の若者たちをドライに見据えたキャメラアイは、どこかしら現代のきな臭くも閉塞感漂う現代とも巧みにリンクしているかのようです。

本作はモントリオール国際映画祭やミンスク国際映画祭にも出品され、単に日本のサムライ情緒だけではなく、その奥にある世界中どこでも普遍的な青春の慟哭といった要素が大いに評価されました。

ASA-CHANG&巡礼の無調の中から哀しい情感を漂わせる音楽や、カヒミカリィのナレーションも、ここでは大いに功を奏しています。

そして、やはり特筆すべきは、群像劇としてそれぞれの運命を健気に体現していく若手俳優たちの熱演でしょう。

華やかな体裁のものとは趣が異なる作品なので、見る前は地味な印象をもたらすかもしれませんが、いざ見始めると芳醇かつ悲愴極まる青春の慟哭に引き込まれること必至。

これはぜひ一見をお勧めしたい作品です。

そして小林監督の次回作が早く実現しますように!

[この映画を見れる動画配信サイトはこちら!](2017年9月1日現在配信中)
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)セットリスト発表!!
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)セットリストを発表!!
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きに注目!!


『幕末Rock』とは、2014年2月にゲームがリリースされるや大ヒットし、7月にTVアニメが放送され、“幕末”という時代設定のもと、志士(ロッカー)たちが音楽で新しい時代を創る、斬新で魅力的なキャラクターにあふれた大人気コンテンツです。
舞台版は、超歌劇(ウルトラミュージカル)と銘打ち、2014年12月に吉谷光太郎氏の脚本・演出で上演され、本格Rockの楽曲の数々と圧巻の雷舞(ライブ)演出を、若手実力派俳優たちがミュージカルで表現し、全公演満席で、立見もでるほどの注目作となりました。原作ゲーム、アニメの世界観をそのままに、劇中の演出シーンの一部として、観客が実際にペンライトを振りながら公演を楽しむという観客参加型のライブ要素を取り入れた演出が大好評をいただきました。
その後、2015年8月に超超歌劇(ちょう・ウルトラミュージカル)として、東京・大阪で再演し、全公演即SOLD OUT。千秋楽には全国でのライブビューイングも敢行。そして2016年8月、9月には新作で新キャラクターも登場した「黒船来航」を上演。そして、2017年3月には超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)を東京・大阪で開催することを発表、また公式Twitterでは、生誕祭企画など大きな盛り上がりをみせており、ロックの日に合わせ6月9日には公演日程を発表いたしました。
そしてこの度、雷舞(ライブ)にて歌われるセットリストを発表いたします!(一部未発表)
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きにぜひご注目ください!

★セットリスト★
☆楽曲は順不同で公開させていただいておりますので、ご了承ください。
☆???は日替わり楽曲となります。
☆今回の雷舞は「セットリストA」と「セットリストB」があり、楽曲が異なります。
☆公式サイトの公演日程に、「A」「B」を追記しております。

What's this?
Crash My Head
LAST SCREAM
REACTION
ハチノジディストーション
モット!!!
共鳴進歌
INTERSECT
GOD BREATH
グラデーション
不完全パズル
宙ノ翼
L or R
絶頂SPIRAL
MASTER COMMUNICATION
×××ing
???(日替わり)
[セットリストA]
非常幻想 -オーバーミラージュ-
Rolling Thunder
絶頂DAYBREAK
WHITE
[セットリストB]
黒曜蝶(ブラックバタフライ)
RIDE ON THE WAVE
五色繚乱
暁のFreebird

■公演日程:
【大阪公演】 2017年11月24日(金)~26日(日):大阪メルパルクホール
【東京公演】2017年11月29日(水)~12月3日(日):AiiA 2.5 Theater Tokyo

■スタッフ
原作:『幕末Rock』(マーベラス)
構成:吉谷光太郎 音楽制作:テレビ朝日ミュージック ステージング:MAMORU

■キャスト
坂本龍馬 役:良知真次 高杉晋作 役:糸川耀士郎 桂小五郎 役:三津谷亮 土方歳三 役:輝馬 沖田総司 役:佐々木喜英/お登勢 役:山岸拓生 勝海舟 役:岩﨑大/井伊直弼 役:吉岡佑 徳川慶喜 役:Kimeru/マシュー・カルブレイス・ペリー・ジュニア 役:兼崎健太郎

■主催/マーベラス テレビ朝日ミュージック NBCユニバーサル・エンターテイメント NAS
©2014 Marvelous Inc./幕末Rock製作委員会
©2014 Marvelous Inc./超歌劇『幕末Rock』製作委員会

■公式サイト:http://bakumatsu.marv.jp/stage/
■公式ブログ:http://www.marv.jp/message/bakumatsu.php
■公式twitter:https://twitter.com/bakumatsu69

■公演に関するお問い合わせ マーベラス ユーザーサポート
TEL:0120-577-405  (土日祝日 指定日除く 11:00~17:00)
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坂本龍馬の手紙、新たに6枚見つかる 寺田屋事件の詳細つづる
龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく

 坂本龍馬(1836~67)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかった。高知県が15日、明らかにした。龍馬が幕府側に襲撃された寺田屋事件や、幕府と長州の戦争を生々しく記述。文中には西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀、高杉晋作など維新の志士たちの名前も登場する。

 県によると、6枚の手紙はいずれも縦25センチで、幅は30センチ前後。龍馬が1866(慶応2)年の旧暦12月4日に記された。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は初めて原本が確認された。6枚は手紙全体の4割に相当する部分だという。

 手紙の1枚目は寺田屋事件について記述。66年に京都の寺田屋にいた龍馬が幕府側に襲撃された事件で、龍馬は負傷しながら薩摩藩邸に逃れたとされる。手紙には小松帯刀や西郷隆盛と語り合い、笑ったことなどが書かれている。

 手紙の3枚目は、寺田屋事件と同じ年にあった幕府と長州の戦争を描写している。高杉晋作が錦ののぼり旗を振って指示を出したり、味方に酒を振る舞って戦意高揚を図ったりする様子などが書かれている。

(朝日新聞デジタル 2017年06月15日 23時01分)

坂本龍馬直筆の手紙6枚発見 兄に寺田屋事件の話つづる
 高知県は16日、幕末の志士・坂本龍馬が兄らに宛てて記した直筆の手紙6枚が新たに見つかったと発表した。1866(慶応2)年、京都・伏見の旅館で幕府側に襲撃された寺田屋事件後の様子などを報告している。今後所有者から県が買い取り、来春から県立坂本龍馬記念館(高知市)で展示する予定。

 県によると、手紙は慶応2年12月4日の日付で龍馬の兄権平らに宛てており、1枚の大きさは縦25センチ、横24~34センチ。伏見の薩摩藩邸に逃れた寺田屋事件を振り返り、「うれしかったのは西郷隆盛が事件の一報を聞き、銃に弾を込めて私を伏見まで助けに来ようとしてくれたこと」などと記し、幕府が長州藩を攻撃した第1次長州征伐の様子などもつづる。末尾に「龍馬」の署名がある。手紙の内容は既に写本で知られ、今回発見された6枚は冒頭部分などがなく、全体の4割に当たる。文言は写本とほぼ一致している。

龍馬直筆、新たに6枚…「寺田屋」後を克明に
幕末の志士・坂本龍馬が、1866年(慶応2年)、家族宛てに書いた手紙の原本6枚が新たに見つかった。

 龍馬が襲撃された「寺田屋事件」後の経緯などを記したもので、現存する写しから文面は知られていたが、原本が確認されたのは初めて。

 高知県などによると、縦25センチ、横24~34センチの和紙6枚。現存する写しの4割程度の内容が記されている。「(兄の)坂本権平、家族一同」に宛てたもので、「十二月四日」の日付と龍馬の署名がある。県外の個人が所有しており、昨秋、県側に買い取りを打診。京都国立博物館の宮川禎一ていいち・列品管理室長らが筆跡などから本物と鑑定し、県は購入する方針を決めた。

 1866年1月の寺田屋事件では、伏見奉行所の役人が、伏見の旅館「寺田屋」で龍馬を襲撃。手紙には、手を負傷した龍馬が伏見の薩摩藩屋敷に逃れ、西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀たてわきらと「大笑」したなどと生々しくつづられている。
福島
松平容保の貴重な写真展示 会津若松で11日まで「戊辰と明治展」
 会津若松市で発見された、幕末の会津藩主・松平容保の明治初期の写真などが並ぶ「第3回戊辰と明治展」は9日、同市文化センターで始まった。市内外から来場者が訪れ、国内を二分した戊辰戦争での重要人物の貴重な一枚に見入っている。11日まで。入場無料。

 容保の写真は、写真を包んでいた紙に「明治七(1874)年四月に戴く」との書き付けがあり、撮影は74年4月より前とみられる。専門家は「身分の高く親しい旧会津藩士に贈った写真では」とみており、「撮影時期が推定でき、構図も珍しく貴重だ」としている。

 郡山市から訪れた夫婦は「戊辰戦争への興味がますます湧いてきた」と語った。

 同展は市民有志らでつくる会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)の主催。会場には写真や書の新史料のほか、幕末明治期の会津の史料やパネルなどが並ぶ。時間は午前9時~午後8時(最終日は午後3時)まで。

静岡
「ディアナ号」来館2万人 富士の歴史学習施設
富士市前田のふじのくに田子の浦みなと公園内に整備された歴史学習施設「ディアナ号」がこのほど、来館者数2万人を突破した。公園を管理する県田子の浦港管理事務所によると、4月1日のオープン以来、48日で大台を超えたという。
 施設は幕末の1854(安政元)年に同市沖で沈没したロシア軍艦を、実物の3分の1の大きさ(全長約25メートル、高さ約19メートル)で再現。地元住民が乗組員500人を救助した逸話を後世に伝えようと、1階の展示スペースは海底から引き揚げられたディアナ号の鎖の一部や当時の様子を紹介するパネルなどを展示している。2階は船のデッキを模していて、駿河湾や伊豆半島を一望できる。
 公園は富士山の撮影スポットとして人気が高く、施設もオープン当初から家族連れや観光客でにぎわった。特に5月の大型連休は6千人余りの来館者があり、短期間で2万人を達成したという。
 開館時間は午前9時~午後4時。月曜休館。
(2017/6/10 08:55)

京都
戊辰戦争中の目安箱訴状発見 京都で全国初
 戊辰戦争中、明治新政府の統治下に入った京都で全国に先駆け置かれた目安箱に、京都の人々が入れた訴状の原本34通が8日までに見つかった。国際日本文化研究センター(京都市西京区)の磯田道史准教授(日本史学)が市内の古書店を通じ入手した。同時期の目安箱の訴状が見つかるのは全国でも初。幕末から明治への大転換期に、小学校建設や、物価高騰による窮状を訴えた書面が含まれている。

 目安箱への訴えを指す「箱訴」や、1868(慶応4、明治元)年を意味する「戊辰歳」と墨書された冊子に、1通ごとに筆跡の異なる34通がとじられていた。王政復古の大号令や鳥羽伏見の戦い直後で、明治改元前の68年2月、明治新政府は徳川幕府にならって全国初の目安箱を京の三条大橋西詰に設置。その後、堀川竹屋町橋や京都府庁前にも置かれ、東京や大阪でも順次設置された。

 見つかった訴状は主に68年6~12月の日付で、「堀川目安箱」との受領印がある訴状もあった。蛤御門の変(64年)などで荒廃した京の復興を建言する訴状が多く、「上京三十七番組」の住人は連名で公営の長屋建設を求め、その家賃を基に小学校を運営したいと要望している。

 また、新政府が68年5月に出した国内初の紙幣・太政官札の発行に伴う物価高騰を受け「農民など零細な人が苦しんでいる」「天皇の威光が衰えるもとになる」と不満をしたためる書もあった。飢饉(ききん)に苦しむ浜松の人が助けを求める書状や、装甲車のような兵器を新政府に提案する絵入りの訴状もあった。

 磯田准教授は「京都の庶民が明治維新と聞いた直後に何を思ったのか、生の声が分かる大きな発見。御一新をおおむね好意的に受け止め、京都の近代化に向けた前向きな提言が多い。今後調査を進めたい」としている。

「これぞ暁斎」自由奔放に描く 京都で展覧会
 幕末明治期、自由奔放に絵筆を振るった絵師河鍋暁斎(きょうさい)(1831~89年)の傑作を集めた「ゴールドマンコレクション これぞ暁斎」展(京都新聞など主催)が10日、京都市下京区の美術館「えき」KYOTOで開幕する。報道内覧会が9日開かれ、おおらかな笑いと風刺にあふれる暁斎ワールドが公開された。

 暁斎は浮世絵師歌川国芳に入門、狩野派にも学び、才能を花開かせた。英国の画商イスラエル・ゴールドマン氏の世界的なコレクションからよりすぐった肉筆画、版画、絵日記など計約180点を展示する。

 暁斎の特徴は、強弱自在な筆の線と現代に通じる斬新な表現。鍾馗(しょうき)や達磨(だるま)のほか、得意としたカラスは当時から博覧会で外国人の人気を呼んだ。明治の役人や文明開化を動物たちにたとえて皮肉り、妖怪や鬼を劇画調に表し、薄明かりに浮かび上がる幽霊を情感たっぷりに描くなど、卓越した画力とユーモアがうかがえる。同展監修の及川茂・日本女子大名誉教授は「時代も国境も超えた絵師の魅力を楽しんでほしい」と話した。7月23日まで。有料。

徳島
幕末・牟岐沖漂着の異国船 英囚人強奪の海賊船か
 幕末の1829(文政12)年、牟岐沖に現れた黒船は、イギリスの囚人が強奪した海賊船である可能性が高いことが分かった。有名な異国船漂着事件でありながら、当時は英国艦船としか分からず、実態は謎だった。英国出身の英会話講師ニコラス・ラッセルさん(51)=兵庫県芦屋市在住=が、約2年かけて歴史書や当時の新聞を調査し突き止めた。

 事件は、徳島藩士浜口御牧(ぎょぼく)が30(文政13)年に著した挿絵付きの見聞記「異国船舶来話并(ならびに)図」(篠原家文書)に紹介されている。

 牟岐町の出羽島に別荘を所有するラッセルさんが、見聞記を解読した史料「異国船牟岐浦漂着」(徳島の古文書を読む会)を読み、2015年から調査を始めた。英紙タイムズの記事(1830年10月18日付)や、オーストラリアの歴史書「キプロス号を盗んだ男」などと照合。その結果、船は英国の囚人収容所があった豪タスマニア島で、護送中の囚人が反乱を起こして奪った「キプロス号」と分かった。

 船の大きさ、帆柱の高さ、乗員の服装と人数、漂着時期がほぼ同じだったほか、弾が撃ち込まれて開いた船の穴の位置が歴史書などと一致した。

 今回の発見は、英紙ガーディアンが5月28日付で報道。調査に協力した徳島県立文書館の徳野隆館長は「黒船がキプロス号だった可能性は非常に高い。異国船の実態をつかみ、幕末の空白を埋める成果」と評価した。駐大阪オーストラリア総領事デイビッド・ローソンさんも「キプロス号の可能性が高い」とコメントした。

 異国船問題に詳しい下関市立大の鴨頭(かもがしら)俊宏講師は「貿易船ではなく海賊船だった点で、想定を超える国際的な有事が発生する可能性があった」と話した。

 ラッセルさんは「歴史解明の面白さを味わった。オーストラリアにはキプロス号を題材にした歴史書2冊と、民謡がある。ただ、徳島には触れていない。今後も調査を重ねたい」と語った。

◆異国船牟岐浦漂着事件

 1829年12月20日午前9時ごろ、英国籍の黒船が日和佐沖に現れ、その後、牟岐沖に移動した。徳島藩士や多くの農民が沿岸を警備。23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従って発砲したところ、船は出港し、行方不明になった。
【写真説明】「異国船舶来話并図」に描かれた漂着船(県立文書館提供)

熊本
幕末の志士 宮部鼎蔵の被災した顕彰碑再建
 熊本地震で被災し、地元住民が修復していた御船町上野の宮部鼎蔵[ていぞう]顕彰碑の工事が完了。4日、鼎蔵と親交のあった吉田松陰の生誕地・山口県萩市の住民3人が駆けつけ、碑の再建を喜び合った。

 同町上野出身の鼎蔵は幕末の尊王攘夷[じょうい]派の志士。志を同じくする松陰とは、海防視察のため過酷な東北への旅を共にするなど親交が深かった。松陰は1859年の安政の大獄で処刑され、鼎蔵はその5年後、京都の池田屋で新撰組の襲撃を受け、自刃した。

 昨年4月の地震では、同町上野の記念公園「鼎春[ていしゅん]園」に建つ顕彰碑(高さ約5メートル)が傾いたほか、歌碑が倒れるなどの被害が出た。地元住民でつくる宮部兄弟顕彰会(北川内宗郎会長)はネットで募金を呼び掛け、110万円を調達。今回来熊した山本貞壽さん(78)ら萩市の住民有志からは、これまで計100万円の支援金が寄せられた。

 修復は1月下旬着工、3月25日完了。再建された顕彰碑を見上げた山本さんは「手助けしたい一心だった。松陰先生も涙を流して喜んでくれると思う」と目を潤ませた。顕彰会の北川内会長(80)は「萩市からの支援がなければこれほど早く再建できなかった。ありがたい」と話した。

 山本さんらは、新たに65万円の支援金を顕彰会に贈った。同会は周辺の案内板の整備や萩市との交流資金などに活用するという。(久保田尚之)

コラム
北斎や広重、幕末の横浜など、日本の貴重な浮世絵2500点が米議会図書館Webサイトで楽しめる
アメリカの議会図書館の印刷物・写真部門には日本の浮世絵と木版画が所蔵されており、デジタルコレクションのページから浮世絵や木版画のデータ約2500点がダウンロードできるようになっています。

ダウンロードできる浮世絵や木版画は江戸時代の「東海道五十三次」の図をはじめ、北斎や広重、国貞の作品や、幕末に横浜が開港されたのち、日本で広まっていった西洋文化の様子を描いたものです。

そのうち100点は「ワシントン・イブニング・スター」紙のオーナーで編集長だったクロスビー・スチュアート・ノエス氏がコレクションしていたものだそうです。

「富嶽三十六景」や「東海道五十三次」が閲覧できる

ダウンロードできる作品を見ると「東海道五十三次」や「富嶽三十六景」などよく知られている作品が所蔵されていることがわかります。

葛飾北斎による「東海道五十三次」シリーズの中でも有名な作品もあります。東京・小石川の茶屋から雪が降ったあとの富士山を眺める人たちを描いた「礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)」も閲覧できました。

日本人から見た西洋の人たち

横浜の様子を描いた木版画では、洋装で歩く外国人を描いたものや外国の子どもたちが遊ぶ図版、当時のアメリカ人の上官の顔を描いたものなどが見られます。

アメリカ人、イギリス人、フランス人と日本人が集まって何かを話している様子の絵も。
所蔵コレクションを閲覧・ダウンロードするには議会図書館のWeb「オンラインコレクション」から「Fine Prints:Japanese,pre-1915」を選択します(このリンクから直接アクセスできます)。

江戸時代の浮世絵や西洋文化が流れ込んだ日本の姿がわかる貴重な資料。200年も経つと、世界中の人たちが自由に見られるようになることを当時の浮世絵師は想像していたでしょうか。

出典元:Download 2,500 Beautiful Woodblock Prints and Drawings by Japanese Masters (1600-1915) - openculture(6/8)

エンターテインメント
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』 雷舞(ライブ)
[マーベラス]
第4弾公演日程発表!!

超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)公演日程発表!!
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きに注目!!

原作の『幕末Rock』は、2014年2月にゲームがリリースされるや大ヒットし、7月にTVアニメが放送され、“幕末”という時代設定のもと、志士(ロッカー)たちが音楽で新しい時代を創る、斬新で魅力的なキャラクターにあふれた大人気コンテンツ。
舞台版は、超歌劇(ウルトラミュージカル)と銘打ち2014年12月に、吉谷光太郎氏の脚本・演出で上演され、本格Rockの楽曲の数々と圧巻の雷舞(ライブ)演出を、若手実力派俳優たちがミュージカルで表現し、全公演満席で、立見もでるほどの注目作となりました。原作ゲーム、アニメの世界観をそのままに、劇中の演出シーンの一部として、観客が実際にペンライトを振りながら公演を楽しむという観客参加型のライブ要素を取り入れた演出が大好評をいただきました。
その後、2015年8月超超歌劇(ちょう・ウルトラミュージカル)として、東京・大阪で再演し、全公演即SOLD OUT。千秋楽には全国でのライブビューイングも敢行。そして2016年8月、9月には新作で新キャラクターも登場した「黒船来航」を上演。そして、2017年3月には超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)を東京・大阪で開催するこを発表、また公式Twitterでは、生誕祭企画など大きな盛り上がりをみせています。

そしてこの度、Rockの日(=6/9)に合わせて、公演日程を発表致します!!

■公演日程:
【大阪公演】
★日時:2017年11月24日(金)~26日(日)
★会場:大阪メルパルクホール

【東京公演】
★日時:2017年11月29日(水)~12月3日(日)
★会場:AiiA 2.5 Theater Tokyo


■スタッフ
原作:『幕末Rock』(マーベラス)
構成:吉谷光太郎
音楽制作:テレビ朝日ミュージック
ステージング:MAMORU

■キャスト
坂本龍馬 役:良知真次 高杉晋作 役:糸川耀士郎 桂小五郎 役:三津谷亮 土方歳三 役:輝馬 沖田総司 役:佐々木喜英/お登勢 役:山岸拓生 勝海舟 役:岩崎大/井伊直弼 役:吉岡佑 徳川慶喜 役:Kimeru/マシュー・カルブレイス・ペリー・ジュニア 役:兼崎健太郎

■主催/マーベラス テレビ朝日ミュージック NBCユニバーサル・エンターテイメント NAS
(C)2014 Marvelous Inc./幕末Rock製作委員会
(C)2014 Marvelous Inc./超歌劇『幕末Rock』製作委員会

■公式サイト:http://bakumatsu.marv.jp/stage/
■公式ブログ:http://www.marv.jp/message/bakumatsu.php
■公式twitter:https://twitter.com/bakumatsu69
■公演に関するお問い合わせ マーベラス ユーザーサポート
TEL:0120-577-405  (土日祝日 指定日除く 11:00~17:00)

企業プレスリリース詳細へ (2017/06/10-10:22)
松平容保の「写真」発見! 幕末の会津藩主、明治初期に撮影
 幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)を明治初期に撮影した写真が8日までに、会津若松市内で見つかった。写真を包んでいた紙の書き付けに「明治七年四月に戴く」とあり、専門家は「撮影時期が推定できる点が貴重で珍しい」としている。

 戊辰戦争で会津藩が敗れた後、容保は東京などで謹慎。1869(明治2)年に会津藩再興が許され、現在の青森県に斗南藩が成立し、容保の嫡男・容大(かたはる)が斗南藩知事になった。容保は71年に斗南藩領に移るが、廃藩置県ですぐ東京に戻り、72年に蟄居(ちっきょ)が許され、しばらくは東京で暮らした。

 同市の歴史家・野口信一氏(67)によると、容保は74年4月27日、会津で行われる戊辰戦争戦死者を弔う七回忌に出席するため東京を出発。5月初めに会津入りし、約1カ月を過ごした。野口氏は写真について「容保が身分の高く親しい旧会津藩士に贈ったもの」とし、「もしかすると慰霊に旅立つ姿を写した写真かもしれない」と想像を膨らませた。

 写真は市内の収集家が入手したもので、74年時に容保から写真を贈られた人物は不明だ。このほか容大が12歳時に書いたという書「春濤(しゅんとう)」(春先、岸に打ち付ける穏やかな波の意味)、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の写真も見つかった。

 幕末期にもっとも近い容保様のお姿。。。(;o;)
東京
新選組結成前の名簿、東大で発見 妻子持つ浪士多く
 幕末の京都で新選組の前身となった浪士組235人分の出身地や年齢、家族構成が記された詳細な名簿が、東京大法学部に保存されていることが29日までに、歴史研究家への取材で分かった。妻子を持った40代以上の者も多く、中には60代の浪士も。動乱の時代に立身出世を夢見た新選組の原点が垣間見える。

 見つかったのは「浪士姓名簿」と題された冊子で、これまで一部の存在しか知られていなかった。幕府の呼び掛けで江戸に集まった者の身上書を基に、浪士組取締役だった旗本が一覧を記したものとみられる。

 後に新選組幹部となる沖田総司や永倉新八、藤堂平助が近藤勇の道場に同居し、山南敬助が門人の家に間借りしていたことが分かる。

 父母や妻子の記載がなく、独り身とみられるのは80人足らず。63歳が2人おり、「孫」「祖母、母、妻子六人」「父母、兄弟十人」など多くの家族を抱える者もいた。

 出身地は、武州(東京・埼玉)と上州(群馬)がそれぞれ50人以上を占め、甲州(山梨)や常州(茨城)などが続いた。

 浪士組は将軍警護の名目で京に入った後、結成の黒幕だった清河八郎の策略で反幕府勢力に転換。9割以上が江戸に帰ったが、反発した近藤勇ら22人が京に残り、後の新選組になった。

 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「これまであった名簿に比べて出身地や家族構成が詳細で、一番信頼度が高いのではないか」と話している。〔共同〕
 将軍家茂の上洛に際しての護衛で、3ヶ月程度で江戸に戻ってくるプロジェクトという位置づけだったため、浪士組は妻子持ちや60代もいれば、博徒ややくざ者もいる玉石混淆でした。

千葉
幕末の会津藩士弔う 富津の墓前 市長ら30人
 幕末に東京湾防備のため亡くなった会津藩士を弔おうと、房総半島会津藩士顕彰会は4日、藩士の墓がある富津市西川の正珊禅寺で慰霊祭を行った。同市の高橋恭市市長や会津若松市の斎藤勝副市長ら約30人が参 ・・・
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京都
【寺田屋事件】龍馬かくまった薩摩藩屋敷、絵図が見つかる
薩摩藩伏見屋敷の絵図発見 寺田屋事件で龍馬かくまう

 江戸時代、現在の京都市伏見区にあった薩摩藩伏見屋敷の絵図が見つかった。同区の神社・城南宮(じょうなんぐう)が3日、発表した。屋敷は、船宿・寺田屋で襲撃された坂本龍馬(1836~67)が避難したことで知られる。所在地は確認されていたが、図面が見つかったのは初めてという。専門家は「日本史に大きな影響を与えた舞台の詳細を示す貴重な発見」としている。

 城南宮などによると、絵図は縦99センチ、横128・2センチ。東側を下にして、「天明六年」(1786年)と書かれている。屋敷の建物の配置や間取りを示し、東側には川から上がるための板橋も描かれている。屋敷の規模は南北99メートル、東西64メートルで、敷地面積は4973平方メートルと推定されるという。城南宮が5月、京都市の古書店から購入した。

 薩摩藩と長州藩による「薩長同盟」を取り持った龍馬は1866年、寺田屋で幕府の奉行所の役人に襲撃され、深手を負いながらも寺田屋を脱出。北側の材木小屋に身を隠した後、薩摩藩に救出され、舟で伏見屋敷に運ばれたことが、龍馬の手紙や妻お龍(りょう)の証言などから明らかになっている。屋敷は68年の鳥羽伏見の戦いで会津藩に焼かれた。
(朝日新聞デジタル 2017年06月03日 20時46分)
龍馬をかくまったのはどこ? 薩摩藩伏見屋敷の絵図発見
 幕末の寺田屋事件(1866年)で坂本龍馬をかくまった時期の薩摩藩伏見屋敷を示す可能性が高い、江戸時代後期の絵図が初めて見つかり、京都市伏見区の城南宮が3日発表した。研究者らは「幕末史の重要な舞台を知る上で貴重な資料」と注目する。

 絵図は「伏見御屋鋪(おやしき)惣絵図」(縦99センチ、横1・2メートル)。城南宮の鳥羽重宏宮司が京都市内の古書店で入手した。「天明6(1786)年12月16日」「大工方 儀兵衛所持」などと記され、建物配置や間取りが詳しく描かれる。中央に藩主らが泊まる御殿、東側に留守居役の建物や長屋門が配され、改築か新築時の工事用図面とみられる。鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失するまで建て替えなどの記録はなく、龍馬時代の屋敷の可能性が高い。

 交通の要衝だった伏見には江戸時代、西国の諸藩が参勤交代の宿舎となる屋敷を設けていた。寺田屋事件では、薩長同盟を取り持った龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃。負傷した龍馬は舟でこの屋敷に運び込まれた。龍馬の処遇をめぐって薩摩藩は奉行所と対立し、倒幕の機運が高まったとされる。

 絵図に川の船着き場や橋も描かれており、屋敷跡に記念碑を立てたNPO法人京都歴史地理同考会の中村武生理事長は「川や屋敷の配置は他の古地図と矛盾しない」と分析する。絵図にはます目が刻まれており、敷地が約4900平方メートルと推計できるという。幕末史に詳しい京都国立博物館(東山区)の宮川禎一上席研究員は、「想像よりも敷地が広い印象を受けた。未解明な各藩の伏見屋敷研究の進展につながれば」と期待する。

 絵図は4日~7月2日、城南宮で公開。7月25日~9月3日、同博物館の特集陳列にも出展される。ともに有料。
徳島
幕末・牟岐沖漂着の異国船 英囚人強奪の海賊船か
 幕末の1829(文政12)年、牟岐沖に現れた黒船は、イギリスの囚人が強奪した海賊船である可能性が高いことが分かった。有名な異国船漂着事件でありながら、当時は英国艦船としか分からず、実態は謎だった。英国出身の英会話講師ニコラス・ラッセルさん(51)=兵庫県芦屋市在住=が、約2年かけて歴史書や当時の新聞を調査し突き止めた。

 事件は、徳島藩士浜口御牧(ぎょぼく)が30(文政13)年に著した挿絵付きの見聞記「異国船舶来話并(ならびに)図」(篠原家文書)に紹介されている。

 牟岐町の出羽島に別荘を所有するラッセルさんが、見聞記を解読した史料「異国船牟岐浦漂着」(徳島の古文書を読む会)を読み、2015年から調査を始めた。英紙タイムズの記事(1830年10月18日付)や、オーストラリアの歴史書「キプロス号を盗んだ男」などと照合。その結果、船は英国の囚人収容所があった豪タスマニア島で、護送中の囚人が反乱を起こして奪った「キプロス号」と分かった。

 船の大きさ、帆柱の高さ、乗員の服装と人数、漂着時期がほぼ同じだったほか、弾が撃ち込まれて開いた船の穴の位置が歴史書などと一致した。

 今回の発見は、英紙ガーディアンが5月28日付で報道。調査に協力した徳島県立文書館の徳野隆館長は「黒船がキプロス号だった可能性は非常に高い。異国船の実態をつかみ、幕末の空白を埋める成果」と評価した。駐大阪オーストラリア総領事デイビッド・ローソンさんも「キプロス号の可能性が高い」とコメントした。

 異国船問題に詳しい下関市立大の鴨頭(かもがしら)俊宏講師は「貿易船ではなく海賊船だった点で、想定を超える国際的な有事が発生する可能性があった」と話した。

 ラッセルさんは「歴史解明の面白さを味わった。オーストラリアにはキプロス号を題材にした歴史書2冊と、民謡がある。ただ、徳島には触れていない。今後も調査を重ねたい」と語った。

◆異国船牟岐浦漂着事件

 1829年12月20日午前9時ごろ、英国籍の黒船が日和佐沖に現れ、その後、牟岐沖に移動した。徳島藩士や多くの農民が沿岸を警備。23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従って発砲したところ、船は出港し、行方不明になった。
【写真説明】「異国船舶来話并図」に描かれた漂着船(県立文書館提供)

佐賀
幕末の佐賀城下写真発見 直茂250年祭写す
■鍋島報效会「藩の技術 先進性裏付け」

 幕末の1867(慶応3)年、佐賀藩祖・鍋島直茂の没後250年を記念して佐賀市の松原神社で催された祭りを撮影したとみられる4枚の写真が見つかった。三味線を演奏しながら参道を練り歩く行列や大きな屋根のついた山車(だし)、見物客など佐賀城下のにぎわいを捉えている。江戸時代に佐賀城下で撮られた屋外写真が確認されたのは初めて。写真を所蔵する公益財団法人鍋島報效会の富田絋次主任学芸員は「佐賀藩の科学技術力の先進性を裏付ける発見」と話す。

 鍋島家が2000年、鍋島報效会に1万点近くの写真を寄贈していた。報效会が今回、佐賀市松原の徴古館で開く企画展の準備をする中で江戸時代の写真を発見した。250年祭の様子を描いた版画「直茂公二百五十年祭礼図」(佐賀県立図書館所蔵)などと照合した結果、描かれた建物や鳥居、のぼり旗などの特徴が一致したことから、二つは同じ祭りと判断した。

 撮影者は不明。幕末期に西洋科学技術などを研究する佐賀藩精錬方で写真やカメラを研究していたことから、精錬方の技術者や鍋島家の周辺人物である可能性が高いという。佐賀藩の写真では藩士が藩主を写した鍋島直正の肖像写真(1859年)が知られている。

 確認された150年前の写真4枚は縦10・1~15・8センチ、横14・2~28・5センチ。29日開幕した企画展「藩祖鍋島直茂公と日峯社」で展示している。富田主任学芸員は「地元のお祭りを写真記録に残す例は珍しい。佐賀の基礎を築いた直茂公の功績をたたえる町民の熱気や、佐賀城下のにぎわいをリアルに感じられる貴重な資料」と評価した。企画展は7月29日まで。
熊本
幕末の志士 宮部鼎蔵の被災した顕彰碑再建2017年06月05日
熊本地震で被災し、地元住民が修復していた御船町上野の宮部鼎蔵[ていぞう]顕彰碑の工事が完了。4日、鼎蔵と親交のあった吉田松陰の生誕地・山口県萩市の住民3人が駆けつけ、碑の再建を喜び合った。

 同町上野出身の鼎蔵は幕末の尊王攘夷[じょうい]派の志士。志を同じくする松陰とは、海防視察のため過酷な東北への旅を共にするなど親交が深かった。松陰は1859年の安政の大獄で処刑され、鼎蔵はその5年後、京都の池田屋で新撰組の襲撃を受け、自刃した。

 昨年4月の地震では、同町上野の記念公園「鼎春[ていしゅん]園」に建つ顕彰碑(高さ約5メートル)が傾いたほか、歌碑が倒れるなどの被害が出た。地元住民でつくる宮部兄弟顕彰会(北川内宗郎会長)はネットで募金を呼び掛け、110万円を調達。今回来熊した山本貞壽さん(78)ら萩市の住民有志からは、これまで計100万円の支援金が寄せられた。

 修復は1月下旬着工、3月25日完了。再建された顕彰碑を見上げた山本さんは「手助けしたい一心だった。松陰先生も涙を流して喜んでくれると思う」と目を潤ませた。顕彰会の北川内会長(80)は「萩市からの支援がなければこれほど早く再建できなかった。ありがたい」と話した。

 山本さんらは、新たに65万円の支援金を顕彰会に贈った。同会は周辺の案内板の整備や萩市との交流資金などに活用するという。(久保田尚之)

コラム
(言葉の服)日本人のおしゃれ:上 土方歳三の「いき」 堀畑裕之
 日本人はどう洋服を着始めたのだろう? 幕末の写真を見ると着こなせている人はほとんどいない。そんな中で抜群におしゃれなのが、元新撰組副長の土方歳三だ。着こなしが自然体でダンディーな印象を受ける。上襟がベルベットのフロックコート、ベストに懐中時計、そして首元の白いスカーフはエレガントに巻かれている。ロングブーツも足を長く強調して、いま見てもかなりハイセンスだ。

 ただ気になる点もある。袖幅はダブついて袖丈も余っている。ズボンも腰回りが太すぎる。つまりこれはテーラーメイドの服ではなく、外国の古着だった可能性がある。それなのになぜこんなにも「いき」に見えるのだろう?

 この写真を撮ったのは、函館の五稜郭の戦いで亡くなる半年前だったらしい。つまり新撰組が鳥羽伏見で新政府の洋式軍隊に惨敗してから、わずか1年しか経っていない。だから洋服を仕立てる暇などなかっただろう。

 多摩の豪農の六男坊が、侍に憧れて京に上り、刀一つで幕臣にまで駆け上った。だが時代が変わったと見ると、洋服と散切り頭にさっと切り替える。それは洋式軍装の方が強かったからだ。この潔さに、土方歳三の近代的な合理主義を見る気がする。しかし同時に決して手放さなかった腰の刀が、最期は侍として散った彼の「意気地」をいっそう際立たせている。日本人と洋服の始まりを考える時、いつも思い出す鮮烈な1枚だ。

 (matohuデザイナー)
北海道
土方役の夫×新選組の妻 函館のコンテスト、東京の杉田さんV
【函館】箱館戦争で旧幕府軍に参加して戦死した新選組副長、土方歳三を演じる「土方歳三コンテスト全国大会」が20日、五稜郭タワー(函館市五稜郭町)で開かれた。函館をはじめ東京や名古屋から18~50歳の男女16人が出場し、昨年3位だった東京都三鷹市の自営業杉田晴信さん(29)が優勝した。

 コンテストは30回目で、20日開幕した箱館五稜郭祭の名物イベント。

 優勝した杉田さんは、新選組隊士に扮(ふん)した妻と迫真の殺陣を披露。「土方の部下を思う強い気持ちを表現した。妻と練習を積んだ結果が出てよかった」と笑顔で話した。
“鬼の副長”土方熱演、函館 戊辰戦争舞台の五稜郭
 北海道函館市で20日、戊辰戦争最後の舞台となった歴史を伝える「箱館五稜郭祭」が始まった。新選組の“鬼の副長”とうたわれ、戦死した土方歳三になりきって寸劇を演じる恒例のコンテストも開かれ、30回目の今年は東京・浅草で観光用人力車を引く杉田晴信さん(29)が優勝した。

 寸劇は、土方が故郷の東京・日野への手紙を仲間に託した後、新政府軍に包囲され、銃弾に倒れる設定。戦いの前に仲間がおでんを差し入れたり、死んだはずの新選組局長近藤勇が登場したりするユニークな演出もあり、会場は拍手と笑いに包まれた。

 コンテストには北海道や東京都日野市などから男女16人が参加した。

迫真の戦闘再現に声援 函館「五稜郭祭」最終日も盛況
 箱館戦争や五稜郭の歴史を伝える「第48回箱館五稜郭祭」(同祭協賛会主催)は21日、最終日を迎え、メインイベントの「維新行列」や吹奏楽パレードが行われた。

 吹奏楽パレード(同祭実行委、北海道新聞函館支社主催)には計約500人が参加。函館地区吹奏楽連盟に所属する市内の中高校生ら約320人などが、息の合った演奏で盛り上げた。

 維新行列では、市民ら約500人が旧幕府軍と新政府軍の人物などに扮(ふん)して、中島町から五稜郭公園まで約2キロを歩いた。本町での戦闘パフォーマンスでは、箱館戦争の様子を寸劇と殺陣で再現した。

福島
会津と越後の『絆』...北越戦争の砲弾 河井継之助記念館に寄託へ
 会津などが戦場になった戊辰戦争から来年で150年になるのを前に県内でも歴史を見直す動きが広がっている。須賀川市の歴史研究家松宮輝明さん(77)は所蔵する、戊辰戦争の局地戦の一つ「北越戦争」の際に使われた大砲の砲弾を新潟県長岡市の河井継之助記念館に寄託することを決めた。松宮さんは「戊辰戦争の節目に歴史を振り返るきっかけとしてもらえれば」と話している。

 松宮さんは会津藩や長岡藩とつながりがあったとされる松宮家の子孫。松宮さんによると、松宮家は北越戦争当時、越後・観音寺村(現在の新潟県弥彦村)に屋敷を構え、長岡藩と連携し、会津に向かって進攻する新政府軍を迎え撃つ役割を担ったという。

 同記念館に寄託するのは、松宮家が攻勢の新政府軍に押され、焼き払われた屋敷から見つかったとされる重さ約4.3キロの金属製の砲弾で、代々保管してきたものという。太平洋戦争の際にも松宮さんの祖母が国の金属供出に提供せず守り通したという。

 松宮家には砲弾に加え、会津藩主松平容保から贈られた、江戸時代の刀工会津兼定の造った刀も残っている。兼定は容保が新選組の土方歳三に贈った刀も造った名工とされる。刀の銘には刀工の名前のほか、当時の松宮家の当主・松宮直秀の名前も刻まれ、会津藩との関わりを示しているという。

 松宮さんは「守り続けてきた砲弾や刀は松宮家が戊辰戦争で長岡藩や会津藩とつながっていた証し。砲弾が展示されて脚光を浴び、多くの皆さんに見てもらうことで、賊軍の汚名を着せられたまま死んでいった先祖も喜んでくれるのでは」と展示開始を心待ちにしている。

「錦の御旗」霊山神社に 戊辰戦争で使用 岩倉具視 奉納か
 幕末の戊辰戦争で新政府軍が使った「錦の御旗(みはた)」二旗が伊達市霊山町の霊山神社に保存されている。
 錦の御旗は錦旗(きんき)とも呼ばれ、天皇を主君とする「官軍」であることを示す。長さは3.6メートル、横幅は60センチ。全体に草花の模様が描かれ、上部には天皇を示す「菊の御紋」が記されている。
 霊山神社によると、2つの錦旗は討幕派の公家として新政府の中枢を担った岩倉具視が奉納したという。岩倉具視の次男具定、三男具経が戊辰戦争時に掲げたと伝えられている。これまで神社の宝物として奉納文とともに保管していた。
 霊山神社は南北朝時代に霊山に陸奥国府を置いた武将、北畠顕家らをまつって明治14(1881)年に創建された。錦旗の奉納文は岩倉具視の名前で神社創建と同年に記されており、岩倉家と北畠家にゆかりがあることが示されている。足立正之宮司(71)は「北畠と岩倉の両家は村上源氏の流れを引く」と話す。
 佐土原藩(現宮崎市)に伝わる錦旗を収蔵している宮崎県総合博物館学芸課の佐藤省吾主査(47)は「全国的にも錦旗の現存数は数本程度。もし本物ならば、激戦だった戊辰戦争を研究する上で大変貴重な資料となる」との認識を示す。
 平成30年に北畠顕家生誕700年を迎える。伊達市は北畠顕家に関する展示会を企画中で、市教委の今野賀章文化財係長は「歴史を知ってもらうためにも今後、錦旗を展示する機会を設けたい」としている。

兵庫
日本の産業革命に尽力 大鳥圭介の功績を冊子に
兵庫県の上郡町郷土資料館(同町上郡)は、幕末から明治にかけて活躍した同町出身の大鳥圭介(1832~1911年)が、日本の産業革命に与えた影響をまとめた冊子を発行した。明治政府に登用され英国、米国で重工業を視察した後、日本の近代化を進め、人材育成に尽力した足跡を紹介。世界文化遺産にも登録された産業革命遺産群との関わりも記した。(敏蔭潤子)

 昨年11月に町内であったシンポジウム「日本の産業革命遺産と大鳥圭介」の内容を詳述。大鳥を研究する資源工学技術士の中川由香さん=東京都=らが英米視察の成果を語った。

 大鳥は、現在の上郡町岩木地区で生まれ、医学や蘭学を学んだ。幕臣として戦った戊辰戦争で敗れるが、明治政府に登用される。

 視察では、石油精製所や炭坑など100カ所以上の工場を見学。帰国後に炭鉱の掘削に必要な技術や道具、方法をまとめた「石炭編」、石油の掘削や精製方法を記した「山油編」などを発行した。

 東京大工学部の前身、工部大学校の校長に就任し、近代化を担う技術者を育成。八幡製鉄所で初代技術部長を務めた小花冬吉、琵琶湖疏水の開発を計画した田辺朔郎、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾らを輩出した。長崎造船局などの官営工場の設立に関わった。

 登録された世界文化遺産には、官営八幡製鉄所や三菱長崎造船所など8県の23件がある。冊子では、大鳥が育てた技術者や設立した官営工場、海外から持ち帰ったエネルギーに関する知識などが、これらの遺産と深く関わりがあることも説明した。

 A4判45ページ。シンポジウムの資料集付きで500円。同館TEL0791・52・3737


高知
映画化決定の「サムライせんせい」が高知幕末展とコラボ!等身大パネルも登場
 高知県立歴史民俗資料館では、「志士 幕末を駆ける―半平太らの遺したもの―」展が5月27日(土)から7月2日(日)まで開催される。この展覧会と漫画「サムライせんせい」のコラボレーションが決定した。
「志士 幕末を駆ける」展は、明治維新を見ることなく散っていった土佐藩郷士・武市半平太ら土佐勤王党の主要メンバーを取り上げ、様々な遺品からその実像に迫る内容。黒江S介の漫画「サムライせんせい」は、その武市半平太が平成の世にタイムスリップし、見慣れぬ文明に右往左往しながらも塾講師として活躍するという内容のコメディだ。2015年にはドラマ化され、市原隼人主演での映画化も決定し話題を呼んでいる。このコラボでは、作者の黒江S介による描き下ろし告知ビジュアルや、「サムライせんせい」等身大パネルが展示される。また、「サムライせんせい」スタンプラリーも開催される。

コラム
松平定知氏「日本の礎を築いたのは明治政府でなく徳川幕府」
【今回取り上げる書籍】『明治維新という過ち【改訂増補版】 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』/原田伊織・著/毎日ワンズ/本体1500円+税

【著者プロフィール】原田伊織(はらだ・いおり):1946年京都府生まれ。大阪外国語大学卒業。作家、クリエイティブディレクター。著書に『官賊と幕臣たち』(毎日ワンズ)、『三流の維新一流の江戸』(ダイヤモンド社)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など。

 来年、明治維新150年を迎えるにあたり、維新をあらためて検証する本が書店を賑わしている。そのほとんどが維新を批判し、江戸時代を評価しているのが特徴だ。その流れを作ったのが、ベストセラーになっている『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』だ。

 それ以外にも『官賊と幕臣たち 列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート』、『三流の維新一流の江戸 「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』、『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』、『徳川がつくった先進国日本』……といったタイトルが並ぶ。

 元NHKアナウンサーで歴史に詳しい松平定知氏はこの「維新批判・江戸評価」をどう考えるか。

(インタビュー・文 鈴木洋史)

──松平さんはNHK時代に「その時歴史が動いた」の司会を担当し、戦国武将や維新の志士についての著書もあります。

松平:長年、歴史を勉強してきて感じることのひとつは、古今東西、歴史は勝者の視点で語られる、ということです。その最たるものが明治維新ではないでしょうか。本書の著者の原田伊織さんもお書きになっているように、薩長は自分たちを官軍、幕府側を賊軍とし、維新後は江戸時代を全否定しました。

 しかし実は江戸時代にこそ世界に誇るべき社会が作られているのです。僕は久松松平(徳川家康の異父弟の家系)で、家康とは遠くでかすかに連なる者として、多少「江戸」に肩入れしているところはあるかもしれませんが(笑)。

 たとえば明治維新以降、徳川幕府の鎖国政策は間違いで、鎖国ゆえに日本の近代化が遅れたと批判されました。しかし、実際は「江戸四口」と言って、長崎でオランダに、薩摩で琉球に、対馬で朝鮮に、松前でアイヌにと、必要に応じて門戸を開いていたのです。それ以外は閉じていたわけですが、そのことで外国からの脅威にさらされることなく、内政に力を注ぐことができたのです。

──そのおかげで作られた江戸の先進的なシステムとは?

松平:ひとつは舟運です。特に、日本海、瀬戸内海を通って北海道や日本海側の港と大坂、江戸との間で交易する北前船が盛んで、日本経済を大きく発展させました。陸では東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道。17、18世紀にあれだけ街道が整備されていた国は世界でもほとんどないでしょう。加えて多くの宿場が設けられ、伝馬、駕籠、飛脚が置かれ、通信も発達しました。

 3つ目が新田開発。家康が江戸に入った頃、利根川は今のように太平洋ではなく東京湾に注ぎ、しょっちゅう氾濫を起こす暴れ川でした。そこで家康は、人工的に今のように流れを変え、堤防や農業用用水路を作りました。その「利根川東遷事業」によって水害が防がれ、北関東に新田が開発され、関東と東北との舟運が開かれました。

 もうひとつは下水道の整備。玉川上水など「江戸の六上水」が敷かれ、下水道と区別された。そのおかげもあって江戸の町の衛生が保たれたのです。同時期のパリやロンドンが糞尿まみれだったのとは大違いです。長屋ごとに井戸があり、そこで米や野菜を洗い、洗濯するためにおかみさんたちが集まり、井戸端会議という地域コミュニティが形成されました。

──もっとも重要なインフラが江戸時代に構築されたわけですね。

松平:おっしゃる通りです。そして、繰り返しますが、それが可能だったのは、鎖国政策によって、原田さんがおっしゃる「パックス・トクガワーナ」が270年間も続いたからです。

──江戸時代の識字率は同時期のイギリスなどに比べてはるかに高かったというデータがありますね。

松平:そうした教育水準の高さを背景に、人材面でも素晴らしい幕臣が輩出しました。たとえば岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順の「幕末の三傑」。岩瀬は日露和親条約、日米修好通商条約を締結し、水野は日蘭、日露、日英、日仏修好通商条約すべてで調印し、小栗は世界一周を経験し、軍事の要職を歴任し、海軍国日本を作るべしと提唱しました。

 後に日露戦争に勝ったとき、東郷平八郎はわざわざ小栗の孫たちを呼び、「日本が勝ったのはあなた方のお祖父様のおかげだ」と称えました。明治以降、日本が列強に伍していく土台を作ったのは、彼ら徳川の優秀な官僚だったのです。

──精神面についてはどうですか。

松平:著者の原田さんは司馬遼太郎さんに批判的で、〈「維新」至上主義の司馬史観の罪〉と書いていますが、その司馬さんにして、「賊軍」会津の人の品格、武勇、魂の高潔さ、どれもが素晴らしいとして、「封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高傑作」と絶賛しています。

 歴史に詳しい黒鉄ヒロシさんも以前、番組でご一緒したとき、新撰組の土方歳三について、時流に上手く乗ることをあえて拒否し、「賊軍」側について戦死していった「そこに武士の魂を見る」とおっしゃったのを思い出します。

──「賊軍」側に立つと、歴史が違って見えてくるわけですね。

松平:半藤一利さんが『幕末史』という本の冒頭で、「自分は戦前、官軍、賊軍という薩長史観を仕込まれた。しかし、賊軍であった父の出身地長岡では、官軍は正義でも何でもなく、無理やり喧嘩を仕掛け、強奪していった泥棒だと言われている」という意味のことを書いておられます。

 そのように立場が異なれば違う見方ができるのに、勝者の立場だけで見ると、敗者が築いてきた古い歴史は全て駄目で、勝者が築く新しい歴史だけが正しい、ということになってしまう。これは江戸と明治の関係だけではありません。時代がどんなに変わっても、いいものはいいんです。それをはっきり言える勇気を持つ人だけが歴史を語れるのだと思っています。

【PROFILE】1944年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。元NHKエグゼクティブアナウンサー。現京都造形芸術大学芸術学部教授。著書に『歴史を「本当に」動かした戦国武将』、『幕末維新を「本当に」動かした10人』(ともに小学館101新書)など。

※SAPIO2017年6月号
 個人的に原田伊織さんの本はあまり好きでない。実証的なアプローチから離れると、ドグマティックになるからだ。でも、ここで松平さんのコメントは冷静でバランスが取れていると思う。


気分は新選組隊士 日野で800人パレード
「ひの新選組まつり」のメインイベント、新選組隊士パレードが十四日、日野市のJR日野駅東側の甲州街道周辺で行われた。隊士や同時代の歴史上の人物らの衣装を身に着けた約八百人が練り歩き、沿道の声援に応えた。
 パレードでは、日野出身の新選組副長・土方歳三役を務めた岡安綾希子(あきこ)さん(35)=埼玉県久喜市=が馬上から「楽しんでるか!」「声が小さいぞ!」などと観客を鼓舞。声援が高まると笑顔を見せた。
 パレード終了後、岡安さんは「土方というヒーローで重圧があったが、皆で盛り上げてくれて心強かった。まつりがずっと続くようにと思っています」と話した。
 第二十回の節目を迎えた今年のまつりのパレードは、昨年までの近隣の小学校の児童だけでなく、市内全小学校から参加するなど裾野も広がった。日野駅のほか高幡不動尊の周辺でも各種イベントが開かれた。
 まつりは実行委員会(三浦盛良委員長)の主催で十三日から開催。土方の命日(五月十一日)に合わせて、毎年この時期に開いている。 (水谷孝司)

東京都日野市で「新選組まつり」参加者約400人が隊士パレード
 新選組ゆかりの地、東京都日野市で13日、14日の両日、恒例の「第20回ひの新選組まつり」が開かれました。メイン行事の新選組隊士パレードでは、公募で集まった参加者約400人が隊士に扮し、市内を練り歩きました。

隊士パレードの幹部役9人を決める隊士コンテスト。熱心なアピールで会場を沸かせた
 13日は、高幡不動尊で隊士パレードの幹部役9人を決める隊士コンテストが行われました。パレード参加者のなかから45人が立候補。1次審査の1分間PRでは、居合いを披露する人や役への思いを語る人など、それぞれ熱意を訴えました。恐竜時代にタイムスリップした沖田総士を演じた男性など、熱心なアピールで会場を沸かせました。
 
 2次審査に進んだ9人は、戊辰戦争での榎本武揚と土方の別れを描いた台本をもとに、土方役を演じました。審査の結果、土方歳三役に選ばれたのは、埼玉県久喜市の会社員・岡安綾希子(あきこ)さん(35)。元気で迫力ある声が特徴の岡安さんは、パレードへの意気込みについて「もう気合ですね。気合いれて、みんなが楽しく笑顔で帰れるように」と話していました。

土方歳三役に選ばれた岡安綾希子さん
 14日朝、新選組の衣装を身にまとったパレード参加者は高幡不動尊内に集結し、出陣式を挙行。土方役の岡安さんとともに威勢良く「エイエイオー」と勝どきの声をあげました。その後、一行は高幡不動尊を出発。市内を通る甲州街道などで隊士パレードを行いました。

 このほか、山車の曳行も行われ、見物客は、焼きそばや日野名物のカレーパンなどを販売する沿道の出店で好みの食べ物を買い求めたり、パレードの撮影に熱を入れたりするなど、思い思いに祭りを楽しんでいました。

 境内でパレードを見送った会社員・古井詩織さん(30)は、友人からこの祭りを知らされ、名古屋市港区から訪れました。歴史好きで、新選組のなかでは近藤のファンだという古井さんは、近藤役の参加者を見て「愛嬌があって良いですね。史実に合っているキャラクターだと思いました」と笑顔で話していました。

 日野市は、新選組の副長・土方歳三や6番隊隊長・井上源三郎の出身地。局長の近藤勇も含め、彼らが若き日に剣術の稽古で集った日野宿本陣など、新選組ゆかりの史跡もあります。この祭りは、こうした新選組の歴史をまちづくりに生かそうと、1998(平成10)年にはじまりました。毎年、土方歳三の命日の5月11日に合わせて、5月第2土曜日・日曜日に開かれています。

(取材・文:具志堅浩二)

新選組「私が土方だ」…日野でまつり
 新選組ゆかりの地・日野市で13日、「ひの新選組まつり」が始まった。同市出身の副長、土方歳三(1835~69年)の命日にあたる5月11日に近い土日に開かれており、今年で20回目。

 初日は、まつりの目玉「隊士パレード」を率いる土方や局長の近藤勇、各隊の隊長などを決める「隊士コンテスト」が、高幡不動尊金剛寺で開かれた。同寺は土方の菩提ぼだい寺で、全国から集まった48人が隊士になりきり、14日に行われるパレードの花形の座を競い合った。

 参加者たちは、おなじみのだんだら模様の羽織などに身を包み、「日野に来るたび隊士が好きになります」「永倉新八にあこがれて剣術を修業しました」などと“新選組愛”を熱く語り、鮮やかな剣舞などを披露。2次審査に進んだ9人は、死を目前にした土方の芝居を演じ、会場を沸かせた。

 審査の結果、今年の土方役は埼玉県久喜市の岡安綾希子さん(35)に決まった。岡安さんが「待たせたな、私が土方だ。あしたは盛り上がれるか」と呼びかけると、観客たちも一緒に勝ちどきを上げた。

 パレードは14日午後1時半にスタートし、JR日野駅近くのコースを練り歩く。
続きです。

北海道
5月11日に合わせ市内で慰霊 箱館戦争
 箱館戦争で新政府軍が旧幕府軍に対し総攻撃を行い、勝利を収めた1869(明治2)年5月11日に合わせ、函館市内では戦没者を慰霊する供養祭が開かれた。

参列者 手合わせ焼香 戦没者供養祭

 〇…五稜郭タワーで開かれた戦没者供養祭には、同社社員や観光業者、近隣住民ら約60人が参列し、箱館戦争に殉じた大勢の戦士たちの冥福を祈った。
 新選組副長だった土方歳三の命日に当たる旧暦の11日に合わせて毎年実施しており、今年で46回目。5月20、21日に開催される「第48回箱館五稜郭祭」の協賛行事。
 祭主の中野恒・同タワー社長が祭文を奏上。観音寺(富岡町)の中村裕康住職らが読経を上げたあと、参列者が焼香し手を合わせた。
 中野社長は「供養祭は毎年戦没者の冥福を祈るとともに、箱館五稜郭祭の成功も祈願している。今年も大勢のお客さまに楽しんでほしい」と話していた。

会津藩士しのぶ 福島県人会

 ○…函館福島県人会(小山直子会長、会員41人)は、函館市船見町の高龍寺を訪れ、境内の「傷心惨目の碑」で碑前祭を行った。箱館戦争で犠牲となった会津藩士をしのんだ。
 1869(明治2)年5月11日、新政府軍が箱館病院の分院だった高龍寺を襲撃し、傷病兵を殺害して寺に放火。碑は、この時命を落とした犠牲者を供養するため、旧会津藩士によって建てられた。
 1980年から続けられている碑前祭には、会員13人が参列。一人一人碑に向かって手を合わせ、母県へ思いを巡らせた。
 小山会長は「東日本大震災から6年が経ったが、避難先でのいじめや復興大臣の発言などが悲しい。福島県民や子どもたちの心の復興が必要なことを忘れないようにしたい」と話していた。

福島
<秋月悌次郎>幕末の会津藩士しのび詩吟
 幕末の会津藩重臣、秋月悌次郎(1824~1900年)が戊辰戦争後に藩の行く末を思って漢詩を詠んだ福島県会津坂下町の束松(たばねまつ)峠で4月29日、悌次郎をしのぶイベントがあった。
 悌次郎は戊辰戦争後、猪苗代に謹慎したが、親交があった長州藩士奥平謙輔に会津藩の善処と優秀な少年の教育を頼むため、ひそかに越後に行った。帰り道に束松峠で焼け跡に立つ鶴ケ城を眺めながら「北越潜行の詩」を詠んだ。少年の1人が、後に東京帝大総長となる山川健次郎だった。
 2013年に会津若松市の秋月悌次郎顕彰会や住民組織「束松峠を護(まも)る会」などが実行委員会を立ち上げ、束松峠に漢詩の碑を建てた。
 イベントは、会津坂下町観光物産協会が来年の会津戦争終結150年のプレイベントとして実施した。約40人が参加し、顕彰会の桑原勇蔵副会長(78)が詩を解説。会津吟詠会の女性会員5人が詩吟を披露した。
 桑原さんは「悌次郎は政府軍と交渉し、一生懸命に敗戦処理に当たった。陰で働いた会津人のことを知ってほしい」と語った。
 悌次郎は戊辰戦争で会津藩の軍事奉行添役を務め、戦後に終身禁固刑を受けたが、特赦となり、教育者として活躍。熊本の第五高等中学で同僚だった文学者小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、悌次郎を「神のような人」と敬った。

戊辰戦争150年ロゴ決定=福島県会津若松市〔地域〕
 福島県会津若松市は、来年が戊辰戦争150周年になるため、その記念事業のロゴマークを決定した。今後、記念ポスターやチラシ、缶バッジなどで使用する予定。
 今年3月から4月上旬まで一般公募した104作品の中から選ばれたのは、東京都千代田区に住む須賀裕明さんのデザイン。「150」の中に会津藩を治めた松平家の家紋と戊辰戦争を戦った白虎隊にあやかって虎が入っている。マークの下部には「SAMURAI CITY AIZU」の文字を表示した。
 キャッチフレーズは、応募点数375の中から福島県本宮市在住の仁井田京子さんの「『義』の想い つなげ未来へ―。戊辰150周年」を選んだ。
 市では、市内外の約140団体で構成された戊辰戦争150周年記念事業委員会を立ち上げている。記念誌作成や特別番組の制作、記念展示事業などを行い、市文化の振興や観光誘客を狙う。 

<戊辰戦争>剣舞奉納 会津藩の女性を慰霊
 戊辰戦争(1868~69年)で犠牲になった会津藩の女性たちの霊を慰める「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、福島県会津若松市門田町の善竜寺であった。
 主催する嫋竹(なよたけ)会の会員ら約150人が参列。吉田幸代会長が「戊辰戦争で会津の全ての人々は大きな困難を被ったが、戦後、素晴らしい人材を輩出した。東日本大震災の爪痕で困難を極めている私たちも、強い精神力で頑張らないといけない」と祭文を読み上げた。
 読経、焼香の後、同市の謹教小合唱部の児童9人が学校で歌い継がれている「なよたけの歌」を奉納。葵高の舞踊部となぎなた部の生徒15人が剣舞を披露し、郷土のために戦った女性たちに祈りをささげた。
 戊辰戦争では会津藩士の妻や娘ら233人の女性が犠牲になった。戦争の足手まといになると考えて自刃した女性も少なくなかった。奈与竹之碑の名称は、一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子が詠んだ辞世の句から取られた。

観光の「列藩同盟」 来年の戊辰150年、本県誘客図る
 国内を二分し歴史の転換点となった「戊辰戦争」から来年で150年を迎える。激戦地となった福島県では会津若松市や白河市が記念事業に向け動きを本格化させている。
 一方、新政府軍として本県に入った薩摩、長州など諸藩のあった西日本では「維新150年」として各県が手を握り、一足先に事業を進めている。
 本県の魅力発信に向け「平成の奥羽越列藩同盟」のような広域観光が実現できるかが鍵を握りそうだ。
 県は6日までに、会津藩のおひざ元・会津若松、白河藩のあった白河、二本松少年隊の悲劇で知られる二本松の3市との情報交換会を初めて開き、3市連携の周遊ツアーの実施を確認した。
 県は「150年を契機に『サムライ』をテーマにした魅力発信を国内外にしていきたい」と昨年度まで展開した大型キャンペーン・ふくしまデスティネーションキャンペーンに代わる観光の軸として期待を寄せる。
 広域連携の中心となるのは会津若松市。同市は昨年10月、市内の約140団体で戊辰150年に向けた実行委員会を設立。同委副会長の渋川恵男さん(70)は県内外の列藩同盟ゆかりの自治体、会津藩士が移住した青森県むつ市など全国ゆかりの地との広域連携を通し「全国への発信力を強めて、注目を集めるようにしたい」と意気込む。
 白河市は歴史の発信を軸にした各種事業を計画。会津若松、二本松両市などとの連携に加え、新政府軍の長州藩ゆかりの山口県萩市に「白河踊り」が伝承されている経緯から、2018年に同市と盆踊り交流を進める。記念事業実行委員会会長の人見光太郎さん(74)は「市民と歴史を共有したい」と語る。
 戊辰戦争で落城まで奮闘した二本松藩の霞ケ城がある二本松市は18年に企画展や記念事業を計画中。新政府軍に降伏した三春藩の本拠・三春町も同年秋、同藩が戊辰戦争で直面した状況などを紹介する企画展を開く予定。
 県内には幕末に計10以上の藩があり、各地に戦場や史跡が点在するため、関連自治体と団体の取り組みや連携の動きが今後活発化しそうだ。

◆「平成の薩長土肥連合」西日本4県   

 新政府軍の中心の藩があった山口、鹿児島、高知、佐賀の4県は広域観光推進のため2015年に「平成の薩長土肥連合」を設立、既に共同キャンペーンを展開している。
 12年から事業を繰り広げる鹿児島市と同じく14年からの萩市は16年1月、薩長同盟150年を契機に盟約を結び、観光PRに取り組んでいる。
 薩摩藩の西郷隆盛の生涯を描く来年の大河ドラマ「西郷どん」の放映や、国の「明治150年」に向けた施策が追い風となり、勢いは増している。

栃木
真岡にも刀剣女子 「さむらい刀剣博物館」来館者が5倍超、8割女性
【真岡】足利市立美術館が今春実施した国重要文化財の刀「山姥(やまんば)切国広(ぎりくにひろ)」に人気ゲーム「刀剣乱舞」の女性ファンらが殺到した“刀剣女子ブーム”の中、大根田の「さむらい刀剣博物館」にも若い女性の来館者が急増している。ゲーム配信が始まった2015、16年の年間来館者は、それまでの5倍以上となる2千人超になったという。柳田律夫(やなぎだりつお)館長は(69)は「8割は女性」とかつてないブームに驚いている。
 同館は1994年、柳田館長が「刀剣の魅力を一般の人にも知ってもらいたい」と自費で設立。主に収集した刀剣約4千点を収蔵している。
 開館から数年の年間来館者は1千人前後で推移していたが、2012~14年は約400人ほどに低迷。そこにブームが起き、新選組の沖田総司(おきたそうじ)も所有したとされる「清光(きよみつ)」、「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」などが見られるスポットとして全国からファンが訪れるようになったという。
 このため同館は15年から、普段はガラス越しにしか見られない刀剣数本をケースから出し、スタッフの解説を受けながら実際に触れることができる特別展示の実施に踏み切った。
 午前9時~午後5時。月曜休館。

高知
「志国高知 幕末維新博」が無料アプリ「城巡り」と連動
 「志国高知 幕末維新博」をさまざまな視点から楽しんでもらおうと、志国高知幕末維新博推進協議会は無料ゲームアプリ「発見! ニッポン城巡り」と連動した企画を始めた。スタンプラリー形式のゲームを通じて、愛好者ら新たな客層を呼び込む狙いだ。...
 以降は有料版の記事にて。

佐賀
幕末の絵地図、謎多い山城跡も…武雄鍋島家資料
 佐賀県武雄市が所有する武雄鍋島家資料の中から、唐津藩一帯の様子が描かれた幕末の大型絵地図が見つかった。
 江戸時代以前の姿の記録が残っていない県史跡の山城跡・岸岳きしだけ城跡の姿も記されている。調査した佐賀大の宮武正登教授(日本中世史、城郭史)は「県内の今後の文化財調査で役立つ貴重な史料になる」と指摘している。
 市が9日、市歴史資料館で報道陣に公開した。宮武教授によると、「唐津之図」と名付けられた絵図は縦3・15メートル、横3・91メートル。唐津藩領内の主要道や河川、岸岳城跡を始めとする山城跡などが記載されている。図中に描かれている墓所の記述などから、幕末の1860年代に作製されたとみられている。
 作者は不明。幕末には、時代の変化に対応するために多くの藩が他藩の情報を集めたといい、佐賀鍋島家が実地調査して作った可能性があるという。ただ、宮武教授は「作製の理由は特定できない。これからの研究課題」と話している。
 標高300メートル超の岸岳城跡は唐津市南部にそびえる。戦国時代に肥前北部の代表的な領主となった波多氏が居城としていた。西九州最大級の山城とされ、城郭の全長は約1・3キロ。記録が乏しく謎が多かったが、絵図では「本丸」や「水ノ手矢倉」、地下通路にあたる「穴蔵」などの配列が詳細に記されている。
 武雄鍋島家資料は、江戸時代に佐賀藩主・鍋島家の重臣として武雄地方を治めた武雄鍋島家に伝わる約1万6000点の古文書、絵画などで構成。武雄市に寄贈されており、一部は国重要文化財に指定されている。
 唐津之図は資料の目録リストに入っていたが、詳しい内容はわかっていなかった。同市歴史資料館から「大きな絵図がある」と報告を受けた宮武教授が約4年前から調査を進めていた。
 一般公開については「展示設備を整え、実現する方向で検討したい」としている。(渡辺直樹)

幕末の蒸気車走った 佐野常民記念館、佐賀藩「精煉方」の技術再現 [佐賀県]
 佐賀藩の科学技術研究所「精煉方(せいれんかた)」が製作した「蒸気車ひな型(模型)」のレプリカの走行実演が5日まで、佐野常民記念館(佐賀市川副町早津江)で開かれている。訪れた人は、日本の近代化を支えた佐賀藩の歴史に思いをはせていた。
 記念館によると精煉方の主任だった佐野常民(1822~1902)は、発明家として知られる田中久重(1799~1881)らと1855年頃、模型ながら日本で初めて蒸気車を完成させ、藩主鍋島直正に走行する姿を披露した。レプリカは長さ約42センチで、久留米高専(福岡県久留米市)の教職員が製作。蒸気で車輪を動かす当時の仕組みをほぼ再現した。
 4日の実演では、一周約17メートルのレール上を蒸気車が勢いよく走行。訪れた人は「すごい」と歓声を上げていた。福岡県糸島市の中学2年生(13)は「160年も前にこんな技術力があったなんてすごい」と驚いていた。5日は午前11時と午後2時から走行実演がある。
=2017/05/05付 西日本新聞朝刊=

コラム
街にあふれる行商は、ネット通販より便利? 幕末から明治の買い物事情
森田健司 大阪学院大学経済学部教授(専攻:社会思想史・日本哲学)
 カタログやネット通販の普及も活況ですが、なくなりそうでなくならないのが移動販売です。個人店が営んでいたり、フランチャイズ展開がなされていたり、取扱い商品や形態はさまざまです。そんな移動販売の元祖といえば行商です。

 時代劇でよくみる棒の先についた桶に商品を入れて売り歩く江戸の行商から、明治中期頃は写真のようなより多くの商品を荷車に載せる行商スタイルへは、どのように発展していったのでしょうか? 当時の貴重な資料である彩色古写真から見える、行商人の商売の様子や庶民の暮らしについて、大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。

【連載】古写真で知る幕末・明治の日本
町に溢れていた行商人

 今の日本は、とにかく便利である。買い物をするにしても、そのほとんどをネットショッピングで済ませることさえできる。スマホやパソコンで画像を見て、欲しいものをクリックすれば、宅配業者が自宅の玄関まで商品を運んでくれるわけである。ものぐさにとって、極上のサービスだ。
 それに対して、江戸時代はどうだったのだろう。きっと、買い物は大変だったに違いない。このように考えてしまいがちだが、実はそうでもないのである。それどころか、もしかしたら今よりもっと「便利」と言ってもよいかも知れない。
 その秘密は、江戸時代に町に溢れていた行商人にある。彼らは魚や野菜などの生鮮食品から、重量のある什器に至るまで、様々な商品を取り扱う専門業者たちだった。だから、毎食の買い物はもちろん、日用品でも家財道具でも、自宅の目の前で購入することができたのである。商品を天秤棒で担ぎ、声を出して売り歩く彼らは、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれた。棒手振りは許可制で、幕府公認の仕事でもあった。
 この棒手振りたちは、明治に入っても元気に活動していた。ただし、少しずつ見た目が変わっていく。肩に天秤棒を担ぐものから、大きな二輪の荷車「大八車(だいはちぐるま)」に商品を載せるスタイルに移行したのである。大八車自体は江戸時代前期から存在したが、個人の行商人が普通に利用し始めたのは、明治の中期頃からと言われる。この背景には、人力車の普及によって道幅が広げられ、整備されたことがある。
 はじめに掲載した写真は、大八車を利用する行商人の姿を撮影したものである。驚くべきは、その商品の数である。まさに、店ごと移動している感がある。

日本文化に寄り添った素材=竹

 ところで、大八車を引っ張る行商人が扱っている商品は何だろうか。よくよく眺めてみると、笊(ざる)に籠、箒など、木で作られた大小様々な品が確認できる。
明治時代中期の「竹細工行商人」写真・商品部分のアップ(筆者所蔵)
 彼が運んでいる商品が木製であることは間違いないが、それらには、もう一つ指摘できそうな共通点がある。それは、木の中でも、「竹」を主たる材料としたものがほとんどであることだ。笊や籠をはじめ、これら商品のほとんどは、竹細工である。
 現代の日本では、竹細工の需要はそれほど多くない。しかし江戸から明治時代にかけて、家財道具の相当な割合は、竹で作られたものだった。これほど竹が多用されていた理由の一つは、大変軽量なことである。写真の行商人が、これほど多くの商品を持ち運びできているのも、竹製で軽いためだった。また、竹はただ軽いだけではなく、加工しやすい上に、強度が高い素材でもある。

 おそらく、外国人旅行客の目には珍しく映ったのだろう。行商人だけではなく、竹細工を作る職人の手彩色写真も、数多く残されている。それも載せておこう。


明治時代中期の「竹細工職人」写真(筆者所蔵)
 背中を向けている竹細工職人は、地面に座り込んで作業を行っている。彼の手には、驚くことに何も道具が持たれていない。そう、竹細工は基本的に、文字通りの「手作り」だった。この工房の外に置かれているのは、職人が手で編み上げた竹細工の籠だが、どれも溜息が出るほどに美麗な仕上がりである。
 湿気の多い日本という地に適応した竹細工が、各家庭の中で主役の座を追われ始めたのは、それほど昔の話ではない。第2次大戦後、それも昭和30年代以降のことだった。新しい素材であるプラスチックの実用化によって、竹細工は少しずつ姿を消していったのである。

売価は交渉次第

 話を行商人に戻そう。家のすぐ前まで商品を運んでくれる行商人たちは、確かに便利ではあった。しかし、今の売り買いと大きく違うこともある。それは、商品の「定価」が存在しなかったことである。実際の売価は、売り手と買い手の交渉にかかっていた。
 イギリスの旅行作家であるイザベラ・バードは、1878(明治11)年に初めて日本の地を踏んだ。彼女は、当時の鉢石宿(現在の栃木県日光市鉢石)における買い物の経験を、次のように記録している。
 「50銭という言い値があまりに法外だと思って店を出ると、後から女将がちょこちょこと追いかけてきて、20銭でいいですと言ったことがいくつかの店であった」
           ― 金坂清則訳、イザベラ・バード著『日本奥地紀行(1)』(平凡社)、187ページ
 江戸時代以来、日本の小売店では、商品の価格は基本的に掛値(かけね)で提示され、その後、客との交渉の中で売値が決まっていくシステムが採用されていた。つまり、同じ商品であっても、買う人間によって値段が違ったのである。これは、普通の店舗であっても、行商であっても同じである。
 今の日本では(一部地方の小売店を除いて)考えられない話だが、こういった商法は、海外ではまだまだ残っているところがある。特に、観光客が多い地域においては、少しでも多くの利益を得るため、値段を吹っかけてくることは少なくないようだ。
 いくら家の前まで運んでくれるとはいえ、売値が交渉によって決まるのが普通であった時代は、あまり羨ましいと思われないかもしれない。何事においても、今よりずっとコミュニケーション能力が必要とされたのが、江戸、および明治という時代だった。それを「人間らしい」と取るか、「煩わしい」と取るかは、その人の感性次第である。
(大阪学院大学経済学部教授 森田健司)
久しぶりの幕末ニュースです。

歴史
百五十回忌の近藤勇 首は「会津埋葬」最有力? 愛刀のメモ調査、歴史館も支持
 江戸末期に結成された新選組の局長、近藤勇。戊辰戦争で新政府軍に敗れて処刑された後、その首が葬られた場所は京都説が最有力だが、百五十回忌を迎える今年、一般の研究家の調査で福島・会津説が“急浮上”している。幕末史料を多数所蔵する京都の霊山(りょうぜん)歴史館もこの説を支持し、根拠となる近藤の刀を入手、展示している。

 「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此(こ)の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」

 近藤の愛刀とされる「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろうみなもとのすけよし)」の鞘(さや)に貼り付けられたメモ書きの文面の一部だ。内容は刀の来歴で、京都の三条河原にさらされた近藤の首を「下僕」が盗み出し、この刀とともに会津に持ち去って首を埋葬したというもの。寺社などから聞いた話といい、書いた主として「陸軍少将 若松市(現会津若松市)長 松江豊寿(とよひさ)」と署名されている。

 新選組の刀剣を約50年研究している東京都品川区の焼き肉店経営、権東品(ごんとうしな)さん(65)は平成27年7月、前の刀の持ち主から依頼され、来歴の事実確認を始めた。松江は地元・会津出身の第9代若松市長。松江自筆の履歴書を入手し、メモの筆跡と比べたところ、特徴が酷似していたという。
 次に「下僕」とは誰か。会津藩の下で雑務に当たっていた上坂仙吉(こうさかせんきち)という侠客(きょうかく)がおり、同藩預かりの新選組とも関わりがあったといい、権さんは、雑務の礼に近藤から愛刀を贈られた上坂が生前の恩義から近藤の首を持ち去り、刀とともに会津へ運んだと考えた。

 上坂は通称「会津小鉄(あいづのこてつ)」として知られ、京都市の西雲(さいうん)院に墓がある。権さんが同院に手掛かりの有無の確認を依頼したところ、子分が書いた伝記「会津小鉄伝」が見つかり、「近藤勇の首級奪取、会津へ運ばす」との記述を発見した。橋本周現(しゅうげん)住職(61)は「本当なのかどうか。歴史のロマンですね」と語る。

 ほかにも元会津藩士らが会津・天寧(てんねい)寺に近藤の首塚が残っていることに言及したとの記録などもあり、公益財団法人が運営する霊山歴史館も調査を実施。木村幸比古(さちひこ)副館長(68)は「京都説は言い伝えられている場所周辺に墓らしきものがない」と指摘した上で、会津説について「一番有力になったのは明確」と話す。

近藤の愛刀とされる「阿州吉川六郎源祐芳」。鞘には来歴が書かれたメモが貼り付けられていた(霊山歴史館提供)

 幕末維新史に詳しい花園大学の松田隆行教授は「歴史学の観点では、近藤の首がどこにあるかは関心が薄く、民間の研究とは史料の評価も異なるので断定的なことは言えない」と冷静な見方だ。ただ、権さんは「日本人特有の『忠義』を表す一つのエピソード。研究家や歴史ファンらは確証高い説を望んでおり、その一角を提示できたのではないか」と話している。

 ■近藤勇 文久3(1863)年に京都で結成された浪士隊に土方歳三、沖田総司らと参加。同隊の一部が京都の治安維持を担う新選組となり、後に近藤が局長に。幕臣として参加した慶応4(1868)年の戊辰戦争で新政府軍に敗北し、東京・板橋で斬首された。首の埋葬地は最有力の京都説、会津説のほか、愛知説、山形説などもある。

徳川埋蔵金:発掘SPで幕末の新資料発見 “黒幕”英国の関与示す 小栗忠順の“新証拠”も
 27年間にわたって「徳川埋蔵金」の謎を追い続けている歴史バラエティーの最新版「林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 3000億円埋蔵金大発掘 最終決戦スペシャル」(TBS系)が6日午後6時55分(一部地域午後7時)から、3時間スペシャルで放送される。今回は、舞台となる“幕末の謎”に焦点を当て、英国と薩摩藩、徳川の関係を示す新資料を英ケンブリッジ大学で発見、埋蔵金の“証拠”につながる古文書の記述も新たに紹介される。成田雅仁プロデューサーに見どころを聞いた。
 「徳川埋蔵金」は1990年、TBSのバラエティー番組で、コピーライターの糸井重里さんを中心に、群馬県の赤城山中で発掘に挑戦。以来、断続的にスペシャル番組が放送されてきた。昨年12月に予備校講師の林修さんをMCとして8年ぶりに新シリーズが放送され、最新機器を駆使した発掘調査では、巨大な長方形の“影”を確認したながら、発掘には至らなかった。
 新シリーズから番組を担当する成田プロデューサーは「協力プロデューサーの那須田淳さんはじめ、発掘の現場スタッフは番組スタートからのベテランぞろいで、みなすごい知識を持っている。少しでも追いつこうと50冊以上の専門書を読みあさりました」と語る。新シリーズのポイントについて「MCの林先生は、みんなの知らないことを分かりやすく解説させたら日本一だと思う。歴史学者の磯田道史さんも明治維新の“敗者”である徳川の歴史の解明に全面協力してくれています」という。
 徳川幕府の大政奉還から150年を機に、今回は“幕末の謎”を追うため、埋蔵金の首謀者とされる幕臣・小栗忠順(おぐり・ただまさ)と対抗した倒幕側の動きを、舞台となった京都を中心に探る。さらに幕府と薩摩、長州藩の黒幕とされる英仏の関係を調査。その過程で、英ケンブリッジ大に残る、英国が薩摩藩と幕府の双方に資金を支援していたことを示すという文書を発見。また、番組収録後に磯田さんが古書店で見つけた古文書の中に、当時勘定奉行だった小栗が横浜での生糸貿易の関税を樽に詰めて送っていたという記述を発見。埋蔵金の資金ではないか、という新事実も紹介される。
 発掘では、番組の大ファンというタレントの佐々木健介、北斗晶夫妻が、現場での作業にも参加。留学を控える長男・健之介さんも出発日をずらして加わるという熱の入れようだった。前回、存在を確認しながら現場の安全のために掘り進めなかった“巨大な影”に迫っていく。
 成田プロデューサーは「埋蔵金を追う過程で、歴史に埋もれた事実が次々と発掘されてくる。今回は、埋蔵金の実行者とされる林鶴梁(はやし・かくりょう)も登場します。林先生の解説で誰にでも見やすい構成にしているので、歴史のロマンにワクワクしてほしい」と話している。

東京
本日5月11日は土方歳三の命日 / 土方歳三資料館では愛刀「和泉守兼定」が期間限定公開中
江戸時代の末期、約260年の歴史と新しい時代の潮流が混ざり合う激動の日本において、時代の波に翻弄された男たち・新選組。田舎のゴロツキから当時の首都「京都」の守護職にまで成り上がった彼らのストーリーと、悲しい最期にロマンを馳せる人は少なくないだろう。

本日2017年5月11日は、そんな新選組の鬼の副長・土方歳三の148年目の命日だ。よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ──。

・新選組に見る破滅的な美
土方歳三と言えば、新選組において1、2を争う有名人。局長の近藤勇の死後も、その意志を貫き瓦解する新選組と心中した姿には、破滅的な美しさがあると言っても過言ではないだろう。

思えば、肺炎で病死したと言われる沖田総司、正義の味方のつもりが悪者の親玉となってしまった近藤勇にも、それぞれに破滅に向かう悲しさや美しさがあって、そこが日本人の琴線に触れるのかもしれない。

・愛刀「和泉守兼定」が期間限定公開中
それはともかく、東京都日野市にある「土方歳三資料館」では、毎年、命日に合わせ愛刀「和泉守兼定」の刀身が期間限定で公開されている。2017年は4月2日から5月21日までの公開となっており、開館日は残り13日、14日、21日の3日間。新選組のファンは、訪れてみるのも良いのではないだろうか。

参照元:土方歳三記念館、wikimedia
執筆:中澤星児

▼今朝、歳三さん時代からのザクロの木の花が咲きました
土方歳三資料館 @toshizoofficial
本日は歳三さんの148年目命日です✨土方家過去帳には「歳進院殿誠山義豊大居士 行年三拾五才 明治二巳年五月十一日 箱館一本木関門に戦死す 俗名土方歳三 土方義諄の末子幼年より剣術を学び近藤勇と共に京師へ至り終に箱館に戦死す」✨今朝、歳三さん時代からのザクロの木の花が咲きました

▼これは妖刀・村正
▼『徳川に祟る』という伝説を持つ村正は幕末志士の間でげんかつぎで使われていたという

カテゴリー 知識, 国内 (命日 • 和泉守兼定 • 土方歳三 • 土方歳三記念館 • 幕末 • 新選組 • 期間限定)

日野で「新選組まつり」 土方歳三の命日に合わせ隊士集結
 日野市内の各所を会場に5月13日・14日、新選組をテーマとした恒例イベント「ひの新選組まつり」が行われる。

 今年で20回目を迎える同祭り。毎年、新選組の副長で、武蔵国多摩郡石田村(現在の日野市石田)で生まれた土方歳三の命日である5月11日に合わせて開催。土方の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市高幡)などを会場に、さまざまなイベントを繰り広げる。

 今回は日野市立第1小学校(日野本町2)に新たなイベントスペース「日野宿だんだら村(新選組日野宿屯所)」を展開。スポンジ製の刀で相手の腕に付いた玉を落とす「新選組チャンバラ合戦」の会場となるほか、市内の飲食店などが出店する「新選組ひのうまいもんストリート」、アロマやブレスレット作りなどを体験できる「だんだら市」なども開催。ステージも設け、さまざまな催しも行う。

 メインイベントともいえる土方歳三や近藤勇、沖田総司など新選組各組の組長などをコンテストで選び、各組の隊士と共に練り歩くパレードのほか、新選組に関わる市町村の連携を目的とした「全国新選組サミット」、土方や近藤の位牌を拝観できる「高幡不動尊新選組隊士慰霊祭」、今回で5回目となる「土方歳三の恋人・高幡不動きものクイーンコンテスト」なども行う。

 開催に伴い、14日は甲州街道・川崎街道入り口~日野駅前東交差点の区間が車両全面通行止めになる。通行止めは10時~16時。

ひの新選組まつり土方役に岡安さん 隊士に扮し甲州街道行進 日野できょう /東京
 新選組の副長を務めた土方歳三の出身地、日野市で14日行われる「第20回ひの新選組まつり」のパレードの幹部役を選ぶ「隊士コンテスト」が13日、同市の高幡不動尊であり、埼玉県久喜市の会社員、岡安綾希子(あきこ)さん(35)が土方役に選ばれた。

 この祭りは土方の命日の5月11日に合わせて、毎年この時期に開かれ、市内外から4万5000人以上が集まる日野市最大の祭り。メインイベント…
 以降は有料版の記事でご参照ください。

日野で新選組まつり 「隊士パレード」配役決定
 「新選組」ゆかりの地の日野市で十三日、恒例の「ひの新選組まつり」が始まった。十四日にJR日野駅周辺などを練り歩くメイン行事「隊士パレード」の配役を決めるコンテストが高幡不動尊金剛寺であり、隊士ファンらが思い思いのパフォーマンスで会場を沸かせた。 (水谷孝司)
 約五十人のコンテストの参加者が、衣装やせりふ回しなどまで隊士になりきり、居合の型や演舞、自作の歌などを披露した。雨で屋外のイベントが中止されたり、場所が変更されたりしたが、コンテスト会場の五重塔内のホールは熱気に包まれた。
 審査の結果、日野市出身の「副長・土方歳三」役に埼玉県久喜市の岡安綾希子(あきこ)さん(35)、「局長・近藤勇」役に杉並区の安田友亮(ゆうすけ)さん(35)などが選ばれた。安田さんは昨年のパレードでも「土方」役で参加した。
 これに先立つ「高幡不動きものコンテスト」では、パレードに土方の恋人「お琴」役で参加するきものクイーンに八王子市の工藤麗加さん(25)が決まった。
 ひの新選組まつりは、五月十一日の土方の命日に合わせて毎年この時期に開かれ、今年は二十回の節目となった。十四日は午前十時~午後四時、パレードなどの会場となる川崎街道入り口から日野駅までの甲州街道は車両通行止めになる。

「屯所」で豚肉と芋…新選組まつりに創作料理
 幕末に活躍した新選組の隊士にふんした人々でにぎわう「ひの新選組まつり」が13、14日、東京都日野市内で開かれる。
 節目の20回目を迎えた今回は、新選組にちなんだ創作料理が登場するなど、全国から集まる新選組ファンのおもてなしに工夫を凝らした。
 ひの新選組まつりは、同市に生まれ、新選組副長だった土方歳三の命日(5月11日)の近くに毎年開催されている。JR日野駅周辺や、土方の菩提ぼだい寺・高幡不動尊などが会場となり、メインイベントの「隊士パレード」をはじめ、様々な行事が楽しめる。
 今年は、日野駅周辺の飲食店12店舗が、新選組にちなんだ「屯所とんしょ料理」を提供する。屯は豚、所は薯しょ(芋)を意味し、隊士が休憩する「屯所」とかけて、豚肉と芋類を使った創作料理が各500円(税込み)で味わえる。
 料理を注文すると、新選組がモチーフとなった人気ゲーム「薄桜鬼はくおうき」のキャラクターが描かれた特製コースターがもらえるといい、ファンには注目のアイテムだ。日野市の担当者は「新選組ゆかりの地として、多くの人々をおもてなしするとともに、街おこしにつなげたい」と語る。
 まつり期間中、飲食店が屯所料理を提供するのは13日のみ。14日は、市立日野第一小学校に開設する交流スペース「日野宿だんだら村」で、豚肉と芋を使った特製の弁当が味わえるという。屯所料理や弁当は、なくなり次第終了。
 14日は午前10時~午後4時、日野駅周辺で交通規制が実施され、午後1時半からは隊士パレードが行われる。会場周辺は幕末を再現したかのような独特の雰囲気と、多くの新選組ファンの熱気に包まれそうだ。

品川ゆかり 幕末、明治の偉人 区がリーフレットで紹介
 坂本龍馬ら幕末、明治維新期に活躍した人物の足跡を紹介するリーフレット「品川ゆかりの幕末・明治の偉人たち」を品川区が作製し、観光客らの人気になっている。
 A4判カラー3枚つづり。12人の人物像のほか、山内豊信(容堂)、伊藤博文、板垣退助らの墓などを記した地図を掲載。東大井に土佐藩の下屋敷があった関係でペリー来航時に江戸警護に当たった龍馬の像や、高杉晋作らによる英国公使館焼き打ち事件の舞台、御殿山の場所も分かる。
 区立品川歴史館の資料を基に、郷土史家の坂本道夫さんと区観光ガイドの渡辺瑞枝さんが執筆した。編集した、しながわ観光協会の大嶋秩佐さんは「品川には幕末、維新期の歴史舞台が詰まっている」と話す。
 区役所や区内の図書館、観光案内所などで無料配布している。問い合わせは同協会=電03(5743)7642=へ。 (梅村武史)

散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要
 幕末、無血開城後の江戸で徹底抗戦を叫び、新政府軍の猛攻撃に半日で敗れた彰義隊(しょうぎたい)。上野公園(東京都台東区)にある墓を、生き残った隊士の子孫が守り続け、十五日に百五十回忌の法要を迎える。墓の由来を知る人も少なくなる中で、大きな歴史の転換期にはかなく散った若者たちに思いをはせてくれるよう、子孫の一人は願っている。 (神谷円香)
 上野公園のシンボル、西郷隆盛像の裏手にある、樹木に囲まれた墓石。彰義隊の文字や隊士の名前はない。生き残った隊士小川興郷(おきさと)が建てた。「戦死之墓」の文字は、興郷と交流のあった剣術家山岡鉄舟の筆による。
 「子どもの頃は夜が怖くてね」。興郷の孫、東京学芸大名誉教授の小川潔さん(70)は、墓の隣にある家で生まれ育った。小川家は代々、墓守として十四年前までここに住んでいた。
 興郷は最後の将軍徳川慶喜が出た一橋家の家臣で、彰義隊結成の中心人物の一人だった。無残な死に方をした仲間への責任から、隊士の遺体が埋葬された上野に墓を建てようと奔走し、一八七四(明治七)年、新政府から許可を得た。
 だが「賊軍」への冷たい視線が苦境を招く。寄付が集まることを見越し七五年に銅製の墓を建てたものの支援は得られず、墓を借金のかたに取られてしまう。墓が荒れ放題になるのを案じた日蓮宗の支援で九年後、現在の墓を再建。興郷は墓の隣に家を構えた。以来、小川家が墓守をしてきた。戦後にできた都市公園法を機に、曖昧な土地の所有権をはっきりさせることが必要になり、都から立ち退きを求められたこともある。住むことは認められたが、土地は都の所有となった。
 潔さんは三十五歳で家を出た。公園の自然を愛し、大学でタンポポを研究しながら、近代史も独自に学んだ。二〇〇三年、墓守を継いだ長兄の彰さんが体調不良で転居し、家はなくなった。自宅内の資料室に展示していた隊士の遺品や資料は、地元台東区に寄贈。一部は潔さんが保管する。
 彰義隊は小説やドラマでさまざまに描かれる。幕府への忠義を貫いた英雄、あるいは動乱に乗じて一旗揚げようとした「烏合(うごう)の衆」とも見なされる。
 潔さんはどちらにもくみしない。「事実だけを知ってほしい。一方的な評価ではなく、一人一人の隊士や関わった人のことを伝えたい。行動を美化も、否定もしたくない」。ただ、新政府軍の指導者だった西郷の像が、墓に背を向けているのには複雑な感情を抱く。
 隊士の子孫という人からは今も問い合わせを受ける。「記録は残しておく必要がある」と、墓と小川家の歴史を書き残す作業を進めている。
<彰義隊> 徳川慶喜の生家、一橋家の家臣らで1868(慶応4)年2月に結成。慶喜の護衛や江戸の警備を掲げ、隊士は2000人を超えたともいわれる。同年5月15日の上野戦争では1000人前後が戦った。最新鋭の大砲を備えた新政府軍の圧倒的な軍勢を相手に、半日で敗戦。戦場の寛永寺はほぼ焼失し、隊士の遺体は野ざらしにされた。後に266体が埋葬され、その場所に墓が建てられた。

福島
「奥羽越列藩同盟」ゆかり自治体連携へ 若松・戊辰150周年実行委
 来年の戊辰150周年に向け、会津若松市戊辰150周年記念事業実行委員会は、戊辰戦争時に新政府軍に対抗するため東北と越後の諸藩で結成された「奥羽越列藩同盟」にゆかりのある自治体関係者を参集した広域連携事業を展開する。実行委が同市で開いた総会で決めた。
 広域連携事業では、今年11月上旬に講演会を中心としたシンポジウムを開く。さらに今夏に開設する予定の特設ホームページで全国のゆかりの地を紹介する。
 このほか戊辰150周年PRの顔となる「ミスター新選組コンテスト」を開き、新選組の近藤勇や土方歳三、斎藤一などを決める。
 来年度は記念式典を行うほか、同市内を周遊するクイズラリー「戊辰ミステリー宝探し」も実施する。
 また、戊辰150周年記念宣言を策定して多言語で世界に発信していく。室井照平市長は「会津の精神文化を正しく伝え、先人の活躍を顕彰し、次代に引き継いでいく」と語った。

<新撰組>「局長」50回目の慰霊
 幕末に活躍した新選組で局長を務めた近藤勇を慰霊する墓前祭が、近藤の墓がある会津若松市の天寧寺で開かれ、新選組ファンら約20人が参列した。
 墓前祭は近藤の命日に当たる4月25日に執り行われた。会津若松ライオンズクラブが毎年の命日に開き、今回で50回目。同クラブの宮沢吉英第1副会長は「クラブが存続する限り墓前祭を続けていきたい」とあいさつ。読経の後、一人一人が焼香した。
 近藤の兄の子孫である宮川清蔵さん(78)、清志さん(41)=茨城県牛久市=親子も参列。清志さんは「50年も墓前祭を開いていただき、縁者としてありがたく思う。会津の人との絆を感じる」と話した。
 新選組は京都守護職を務めた会津藩主松平容保の配下で、京都の警備に当たった。組のリーダーだった近藤は戊辰戦争の時、江戸で処刑されたが、天寧寺には会津に逃れた副長の土方歳三が建てたと伝わる近藤の墓がある。葬られているのは、遺髪という説や首という説がある。

北海道
【ボクらの維新通信社 連載】なりきりコンテストに迫力のパレード!
■ 戊辰戦争最後の地・五稜郭で開催される 見どころ盛りだくさんのお祭り!
【写真を見る】開城セレモニー。礼砲を担当する額兵隊に扮するのは、函館駐屯地の陸上自衛隊。さすがのリアリティと迫力! 
連載第3回は、土方歳三や榎本武揚、中島三郎助父子、大鳥圭介など戊辰戦争を旧幕府方として戦ったスターが勢ぞろいの五稜郭で、毎年行なわれている有数のお祭りをご紹介!
徳川海軍の気鋭・榎本武揚、伝習隊を育てた男・大鳥圭介、新選組の鬼の副長・土方歳三、額兵隊隊長・星恂太郎など、旧幕諸将と東北諸藩の雄が戊辰戦争を最後まで戦い抜いた地・箱館。現在の函館市では、毎年『箱館五稜郭祭』が開催されています。戊辰戦争で命を落とした旧幕府方の人々を慰霊し、その志と歴史を後世に伝えるため、昭和45年(1970)から始まったこのお祭り。今年は5/20(土)、21(日)に開催予定です。初日の碑前祭では、例年、中島三郎助父子最後之地碑、碧血碑、土方歳三最期之地碑、箱館戦争供養塔を回り、諸将と兵士を弔います。榎本武揚に扮した実行委員の献花や、自衛隊による礼砲、そしてこのお祭りの名物、土方歳三コンテストが開催されるのも初日です。女性も参加どころか優勝することもあるこのコンテストでは、土方になりきった参加者がパフォーマンスを披露してしのぎを削ります。 2日目は、そのコンテスト優勝者も加わる維新パレードに大注目! 旧幕軍や新選組、新政府軍に扮した参加者や、黒船を模した山車が堂々行進する様は一見の価値アリ。アクションパートでは、迫真の殺陣に砲声まで上がる派手なパフォーマンスも。パレードは明治2年(1869)5月の五稜郭明け渡しを再現した、五稜郭公園の開城セレモニーで大団円。規模もにぎやかさも全国有数のこのお祭りは、旧幕府や土方ファンはもちろん、幕末好き全員にオススメです。【東京ウォーカー編集部】

三重
幕末の藤堂藩の活躍知って 市郷土資料館で企画展
 名張藤堂家邸(同市丸之内)に残る古文書などから幕末の藤堂藩の活躍を紹介する企画展「大政奉還150年 名張藤堂家資料から見る幕末の藤堂藩」が名張市安部田の郷土資料館で開かれている。【天誅組の変を描いた絵図を見ながら藤堂藩の活躍を紹介する山口さん=名張市安部田で】
 大政奉還から150年の節目にあわせ、幕末の動乱期の歴史的な出来事に藤堂藩や伊賀地域の人々が関わっているのを知ってもらおうと企画した。
 会場には土佐藩が幕府に大政奉還するよう求めた建白書の写しなどの古文書8点と、家臣宅に残されていた洋式銃「エンフィールド銃」、生き人形師安本亀八が天誅組の変を描いた「和州騒動絵図」の拡大写真も並べた。
 解説パネルでは、天誅組(1863年)の変から戊辰戦争終結(1869年)までの藤堂藩の活躍や、鉄砲隊などで活躍した半農半士の「無足人」と呼ばれる人々について紹介した。新政府軍と旧幕府軍が争った鳥羽伏見の戦い(1868年)では、当初幕府軍側だった藤堂藩が官軍となった新政府軍に翻り鉄砲隊が攻撃したことで旧幕府軍総崩れの要因を作ったことなども解説している。
 資料館職員の山口浩司さんは「展示をきっかけに現地に足を運ぶなど興味を持ってもえたら」と話している。
 企画展は5月28日までの午前9時30分から午後4時30分。月・木休館。
 問い合わせは同館(0595・64・7890)へ。

高知
知っちゅう?高知城歴博「幕末・維新の言葉」展 人情味と愛らしい一面 /高知
 土佐藩十五代藩主の山内豊信(とよしげ)(容堂、1827~72年)は「幕末の四賢候(しけんこう)」に数えられる偉人だが、土佐勤王党を弾圧した歴史などから、坂本龍馬らと比べ「非情な権力者」のイメージが強い。そんな殿様を題材にした「幕末・維新の言葉 山内容堂の主張」展が県立高知城歴史博物館(高知市追手筋)で開かれている。史料からは意外な一面も垣間見え、渡部淳館長は「愉快な男」とさえ語る。その実像に迫った。【岩間理紀】
 以下は有料版記事にて。

神奈川
三宝寺幕末期の住職・弁玉を学ぶ 文化命日ちなみ講演会
 幕末から明治初年にかけて浄土宗三宝寺(樋口芳宏住職)=台町7の1=の第21世住職だった大熊弁玉の命日にちなみ、同寺で4月29日、第2回「ゆらむろ忌」講演会が催された。
 弁玉は雅号を「由良牟呂」といい、長歌集『由良牟呂集』(1879年刊)を残し翌年63歳で他界。その作品は新体詩の先駆けと位置づけられ、変貌する横浜の歴史文学として高く評価された。しかし、時代遅れとなっていた万葉古語を用いていたため、その後語り継がれることはなかった。 
 横浜大空襲で焼けた際、弁玉に関する多くの資料も焼失した。同寺は郷土史家らに協力をあおぎ、収集作業を進め、2014年には弁玉の史料を展示するコーナーを開設。これをきっかけに、シンポジウム開催の機運が高まった。
 同講演会には、区内外から180人が参加。歴史研究家などを講師に招き、激しく変わる世の中の動きや世相、文明開化の事物などを庶民の視点で詠い続けた弁玉の業績を学んだ。2回目の開催にあたり樋口住職は「弁玉を知ってもらうため、ゆらむろ忌を継続していきたい」とあいさつした。
ついに教科書から「鎖国」の記述がなくりました。
小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
「鎖国」が消える――。

 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王うまやどのおう」に変える。

 文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。

 「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。
 記事の以降は有料版にて。

福島
古書店で『山川健次郎の新資料』発見! 未確認の講演録収録
 東京帝国大総長を務めた会津藩出身の白虎隊士、山川健次郎(1854~1931年)の死後に近親者らがまとめた遺稿の新資料が14日までに、発見された。戦前に刊行されたものなど種類の違う3点の遺稿資料が確認されており、今回が4点目になる。未確認の「白虎隊」に関する講演録が収録されており、研究者は「白虎隊顕彰に積極的だった山川の活動の一端が垣間見える」と評価する。

 小宮京青山学院大准教授(日本現代史)、中沢俊輔秋田大准教授(日本政治外交史)が昨年12月、古書店で見つけた。新資料は「山川博士遺稿」と題が付けられた上・下巻の2冊で、合わせて約500ページある。書店などに流通させない私家版で、山川の死後においらが編さんした。内容は山川の講演録や新聞への寄稿などで、多くがすでに確認されている遺稿資料3点と重複していた。

 新発見資料に、これまでの遺稿資料では未確認の記事や講演録が5編収録されていた。内容は〈1〉白虎隊について〈2〉戊辰戦争の会津藩の火薬庫爆破の伝承〈3〉会津の刀工(三善長道)〈4〉門司駅員自殺問題(明治44年に起きた駅員自殺への所感)〈5〉畏敬する四偉人(明治期の陸軍大将・乃木希典ら)。白虎隊については1928(昭和3)年、兵庫県の赤穂中(現赤穂高)で行った講演録だった。遺稿に白虎隊に関する講演録が収録されるのは、この新資料が唯一という。

 山川は晩年、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た「会津戊辰戦史」(山川の死後の1933年出版)の編さんを進めた。確認される遺稿資料の中には、会津藩や戊辰戦争関連の記事が多数含まれており、中沢准教授は「編さん過程の作業原稿とみられるものもあり、山川が熱心に戊辰戦争の調査をしていたことを裏付けるもの」とみている。

長岡藩・河井継之助に焦点 福島・只見、戊辰戦争150周年
 2018年の戊辰戦争150周年に向け、只見町などは新年度から、同町にゆかりのある幕末の長岡藩(新潟県長岡市)家老を務めた河井継之助らに焦点を当てた記念事業を展開する。

 河井継之助は、戊辰戦争で長岡から会津藩に向かう途中、同町塩沢地区で命を落とした。同町の医王寺に墓があるなどゆかりが深い。

 戊辰戦争150周年を契機に、町などは河井継之助を中心とした同町の歴史について町民に改めて理解を深めてもらい、観光振興にもつなげようと記念事業を行う。

 町や会津只見史談会、町観光まちづくり協会、会津ただみ振興公社などの関係機関は3日、戊辰戦争150周年に向けた実行委員会を設立した。

 町役場で第1回会議を行い、新年度は町内の幕末維新に関する史跡などに案内標柱を設置するほか、ガイドブックを作成するなどの記念事業案を了承。18年度は同町と長岡市の史跡を巡るツアーやシンポジウムの開催に向けて今後、具体的な内容を詰めていく方針を確認した。

宮城
<東北の本棚>仙台藩玉虫の夢と挫折
竜は動かず/上田秀人 著

 「竜」とは、幕末の仙台藩の例え。大藩でありながら、戊辰戦争では大きな働きはできなかった。なぜか? 悲運の最期を遂げた仙台藩士、玉虫左太夫の生涯を追った600ページ超の本作を読み、仙台藩の負の遺産を見た思いだ。
 左太夫は藩鷹匠頭の子として生まれ、俊才と言われた。末子の七男であり、才能を開花させる場がない。だが、江戸へ出て学び、やがて幕府外国奉行に見いだされ、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節の一員として渡米する。
 米国では驚きの連続だった。水夫と士官は役目上のことであって、仕事を離れると友人と同じだった。航海中、水夫が病死すると、葬儀に艦長が出て哀悼の意を表した。ワシントンで大統領に会う。「入れ札(選挙)で選ばれている」。当時の日本では考えられぬ制度だった。
 幕末の動乱は、仙台藩に及んだ。帰国した左太夫は会津藩救済に動き、奥羽越列藩同盟成立の実務を仕切った。しかし作戦会議で、戦略を披露しようにも「分をわきまえよ」と藩幹部に制せられる。身分が低いことから重臣たちの恨みを買い、米国帰りが、煙たがられた。
 江戸時代は、全体が身分制社会であった。中でも仙台藩は、特殊な身分制度を取っていたことを指摘しておく。藩祖伊達政宗は攻略した敵の将兵を次々と自らの陣営に迎え入れた。膨張する家臣団を維持するため、藩は伊達氏の血縁、有力家臣を一門、一家、一族などに分けた厳しい家格制度を敷いた。血筋による序列が何百年と、幕末までも続いた。
 共和制の米国を見た左太夫の描いた夢は、公論に基づく新しい国づくりであったはずだ。しかし藩内の派閥抗争に巻き込まれ、ついには反佐幕派に処刑される。享年47歳。厳しい家格制度の前に、左太夫の夢は葬り去られた。
 著者は1959年大阪府生まれ。時代小説で活躍、著書に「孤闘 立花宗茂」など。
 講談社03(5395)5817=上・下各1728円。

佐賀
庄屋「峯家」文書を公開 朝鮮通信使、桜田門外の変など
 江戸時代から明治にかけて唐津市相知町で庄屋を続けた峯家に残る「峯家文書」から32点を厳選した資料展が、相知図書館で開かれている。朝鮮通信使の絵図や赤穂浪士の足跡を記した書冊など、村里の庄屋の旺盛な好奇心がうかがえる。

 17世紀後半から約200年にわたって収集した峯家文書は約5千点で、市指定文化財になっている。多くは行政関係の文書だが、その中から面白く貴重な資料を選んでおり、ほとんどが初公開という。

 江戸時代に12回来ている朝鮮通信使の絵図は、1811年の最後のもので、朝鮮国の服装や行列の様子が分かる。ベトナムや西洋、インドの男女を描いた絵や黒船図もあり、江戸時代の人々の海外への関心ぶりが垣間見える。赤穂浪士の討ち入り、大老井伊直弼(なおすけ)が殺害された桜田門外の変を記したものもある。

 こうした資料は、峯家が18世紀中頃から開いた私塾「希賢堂」の教材にも使われていたと考えられる。

 虹の松原一揆の指導者冨田才治の漢詩もある。一揆以降、関係が発覚するのを恐れて才治の手紙などが処分される中、唯一残った直筆の書。才治が希賢堂を開いた峯復斎に送ったもので、「私の先生になって」と懇願している。

 昨年の企画展で好評だった新撰組土方歳三の最期を記した「大野右仲(すけなか)君(ぎみ)日記抄」も公開。大野は唐津藩士で後に東松浦郡長になり、初代相知町長の峯〓(きとう)に与えたものと考えられる。

〓は火ヘンに卒

 相知市民センター総務教育課で文化財を担当する黒田裕一係長(49)は「庄屋として教養をつけるものだけでなく、江戸や京都の情報を収集しようとしていたことがうかがえる。粋な趣味、教養深さを楽しんでほしい」と語る。

 3月31日までで月曜、祝日、第1水曜は休館日。入館無料。

インタビュー
大久保利通の曽孫「大久保家と西郷家は婚姻関係が結ばれ、実は親戚です」
 大政奉還から150年を記念して、幕末から明治維新という激動の時代を生きた英雄の子孫たちが先祖の知られざる素顔、偉業を語り尽くす。今回は、大久保利通の曽孫・大久保利ひろさんだ。

*  *  *
 大久保利通は私の曽祖父にあたります。2017年は「大政奉還150年」ということですが、私たち大久保家にとっては翌18年の江戸時代を経ての「明治維新150年」ですね。

 薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、西郷隆盛と共に成長し、幕末をくぐり抜けて明治維新を推進していきますが、盟友であった西郷とは征韓論で対立、敗れた西郷は政治の中枢から辞し、このとき二人は決別したとされています。その後、西南戦争では西郷は政府軍の前に敗北を知り、自害してしまいます。利通は西郷が挙兵するはずがないと最後まで信じていましたが、挙兵を知ったときは西郷を説得できなかったと悔やみ、それと同時に永遠の別れを覚悟していたと思います。利通が暗殺される直前に西郷からの手紙を読んでいたとも言われていますしね。ただ、西郷は大久保なら自分ができなかったこと、やり残したことを必ずやってくれるはずだと願っていたと思いますね。また利通は「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」と言っていたぐらいです。西郷と利通は本来はクルマの両輪のような関係だったのです。

 余談ですが、利通のことでよく聞かれるのは大久保家と西郷家との関係です。利通の妹の孫のところに、西郷家からお嫁さんをもらい、大久保家と西郷家は親戚関係になっています。

 岩倉使節団の副使としてアメリカやイギリス、ドイツ、フランスなどを訪れますが、身長が178センチと当時としては長身だったこともあり、なじみやすかったようです。フランスでは家具のカタログを手に入れましたが、よほど興味があったのでしょう、帰国後に机を作らせています。その他にフランス製の陶器の灰皿やガラスの洗面器なども購入していますが、いわゆる「西洋かぶれ」ではなく、実用を重視して自分に合ったもの、使い心地のよいものを取り入れていたにすぎません。手紙は最後まで筆で書いています。ただ利通が使っていた硯や印鑑は大きな体に似合わず小ぶり、本当に小さなもので驚きました。
 利通は家族、特に子どもに対してはとてもやさしくふれあいを喜び、子煩悩で可愛がってくれた、と祖父・利武が話してくれたことがあります。

 利通は使節団で欧米諸国を訪れて海外の諸事情を間近に見て、国力増強の必要性を強く感じました。そのためには産業に力を入れようと西南戦争の最中に第1回内国勧業博覧会を開催します。また農業の発展も急がなくてはと思っていた矢先、福島県で始まっていた開拓事業を知った利通は、この事業成功に腐心し、郡山市で国直轄の農業水利事業第1号、安積開拓を推進します。そのさなか利通は暗殺されますが、利通の遺志を受け継ぎ、工事の開始から3年後の明治15(1882)年に完成します。夢がかなったと言ってよいのではないでしょうか。

 明治維新において、自分の役目を果たすために仕事に真摯に取り組み、そしてやり遂げた。道を拓き、その道を次の世代に託して旅立った、そう思っています。次男の牧野伸顕、跡を継いだ三男で祖父の利武、学者であった父・利謙は、それぞれ違った形でしたが、利通の子孫としての役目を果たしたと思います。私の役目と言えば、まだ手元に残っていた資料を千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へ寄贈したことでしょうか。それをきっかけにすでに納めてあったものを含めて15年に「大久保利通とその時代」展を開催していただきましたが、常に側にいる、つまり利通との距離感など考えたことはありません。(本誌・鮎川哲也、太田サトル、松岡かすみ)

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