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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
北海道
土方歳三の寸劇で保育士優勝北海道、箱館五稜郭祭
 戊辰戦争最後の舞台となった北海道函館市で19日、「箱館五稜郭祭」が始まった。戦死した新選組の土方歳三になりきって約3分の寸劇を披露するコンテストが開かれ、函館市の保育士金谷藍子さん(29)が優勝した。

 31回目の今年は、道外からも含め男女19人が出場。思い思いの演出で土方の最期を描き、約250人が詰め掛けた会場を沸かせた。

 金谷さんは今回が2度目の出場で、普段は劇団員としても活動しているという。「殺陣に力を入れた。戊辰戦争が始まって150年という区切りに自分が土方に関われて、うれしい」と笑顔を見せた。


福島
戊辰戦争の思い1冊に 会津若松市民有志が記念誌刊行
 会津若松市の市民の有志でつくる戊辰150年記念誌刊行委員会(岩沢信千代委員長)は、「戊辰150年記念『薫蕕(くんゆう)を選びて』」を刊行した。会津のみならず、全国各地の関係者が戊辰戦争に関連して文章を寄せた。岩沢委員長は「節目の年に、今を生きる人々の戊辰に対する思いを残し、伝えたかった」と話している。

 タイトルの「薫蕕を選びて」は、鶴ケ城籠城戦で負傷者の治療に当たったという医師古川春英の漢詩の中の言葉。「薫」は善行、「蕕」は悪行を象徴していて、善悪を選んで力を尽くすとの意味があり、「ならぬものはならぬ」の精神に通じるという。

 会津からは、間島勲会津史学会長、野口信一会津歴史工房主宰など郷土史家のほか、星野可月亭庭園美術館主、新城猪之吉末廣酒造社長なども筆を振るい、独自の視点で戊辰を論じる。西軍の主力を担った藩があった地域からの寄稿もあり、山口県萩市の「長州と会津の友好を考える会」代表の山本貞寿さん、鹿児島県日置市を拠点に活動する陶工、15代沈寿官さんが文章を寄せた。2000部発行し、会津若松市などの市町村や関係者に計約1500部を寄贈。約500部を、会津若松市の白虎隊記念館、栄町オサダ、渡辺宗太商店、アイミライで販売する。価格は1000円(税込み)。

 刊行委員会の岩沢委員長、岩沢孝副委員長は4日、市役所を訪れ、室井照平市長に同市に500部を寄贈したことを報告した。本田樹教育長が同席した。

岩国藩士福島で供養祭、戊辰戦争で散った7人…来月の命日
 明治新政府と旧幕府軍による戊辰ぼしん戦争(1868~69年)で戦死した岩国藩士7人の供養祭が命日の7月28日、墓がある福島県富岡町の龍台寺で営まれる。地元住民が墓を守ってきたが、福島第一原発事故の影響で町外に離散。山口県岩国市の「岩国吉川会」が「敵だった藩士に敬意を表してくれた、会津の人たちの思いを引き継ぎたい」と供養祭開催を決めた。

 同会などによると、戊辰戦争で岩国藩は官軍の一員として二つの小隊を東北に派遣。現在の富岡町がある地域で激戦が繰り広げられた1868年の「手岡原ちょうかはらの戦い」では、18~26歳の7人が討ち死にし、同寺に葬られた。

 7人はいずれも若く、直系の子孫がいなかったため、岩国から足を運ぶ人は少なかった。そのため、地元の有志が代々、墓地の清掃や法要を続けてくれていたという。

 しかし、東日本大震災での福島第一原発事故で、同町に避難指示が出され、有志らは町外に出た。同寺も建物が損傷したり、岩国藩士の墓石が倒れたりするなどの被害を受けた。

 昨年4月に避難指示が解除され、寺の再建は進むが、住職の矢内俊道さん(82)は「住民は町外の避難先から戻らず、墓は放置されたままだ」と嘆く。

 旧岩国藩主・吉川家を顕彰する岩国吉川会幹事長の西村栄時さん(77)は1999年に岩国市民に呼びかけて墓参したことがあり、矢内さんから墓の現状を聞いて、今回の供養祭を提案。現地に約30人で赴く予定という。

 西村さんは「異郷の地で散った七士の魂を弔い、福島の復興を願う機会にもしたい」と話している。

謎深き穏やかな剣士 家紋が縁 今も供養 新選組編(2) 山南敬助
 新選組結成時からの古参隊士で土方歳三とともに一時、副長を務めた仙台藩出身の山南敬助。あくが強く、荒くれ者のイメージが色濃い隊士の中にあって、屯所近くの住民と気さくに接するなど、穏やかで品性豊かな人物として今に伝わる。
 北辰一刀流の使い手で、1863(文久3)年10月、現在の大阪で起きた浪士による岩城升屋事件では愛刀「赤心沖光(せきしんおきみつ)」を折りながら奮闘。浪士撃退の功績で会津藩主松平容保公から金8両を賜るなど目覚ましい活躍を見せた。
 2004(平成16)年の大河ドラマ「新撰組!」で堺雅人さんが人情深く、心温かな山南役を演じ、知名度が高まった。

◆脱走の末◆
 山南を待っていたのは戦いによる死ではなく、切腹だった。
 山南は「江戸に行く」と書き残して屯所から姿を消し、京からわずか東に3キロほどの現在の大津市付近で捕縛された。隊からの脱走を企て、捕らえられた末に腹を切ったという。
 隊の規則で脱走は死罪に処される。そうした中で、局長の近藤勇の対応は謎を呼ぶ。放った追手は沖田総司ただ一人。剣の達人と知られた沖田だが、山南とは旧知の仲。状況次第では逃してもよい、とも受け取れる。
 脱走劇は何を意味していたのか。隊内での主導権争いに嫌気が差した、病気を苦にして隊を離れようとしたなど諸説あるが、活動の中核を担った山南の行動を巡る疑問は今なお残ったままだ。

◆享年33歳◆
 山南は1865(元治2)年2月23日、京都市中京区にある旧前川邸の一室で切腹して果てた。旧前川邸は、新選組が最初に置いた壬生(みぶ)の屯所の一つだった。
 「それまでの行動を考えると、隊を思った上での結果だったのではないか」。現在、旧前川邸を所有している田野十一士(ひとし)さん(63)=会社経営=は死に至った経緯に思いを巡らせる。
 新暦の命日に当たる3月20日に近い日曜日に「山南忌」を営む。「本懐は遂げられなかったかもしれないが、義と誠を貫こうとした精神は他の隊士と変わらなかったはず。こうした思いを参列者に伝えたい」。33年の生涯を閉じた室内で感慨深げな表情を浮かべる。
 山南の墓所は京都市下京区の光縁寺にある。当時の住職が山南と同じ家紋だった縁で亡きがらを引き取って供養した。中島隆憲住職(67)は「他の多くの隊士より早くこの世を去った。関心を持つ人が増えれば、山南がいかに優れた人物だったかが後世に残る」。多くの人が線香を手向ける墓所を見つめた。

( 2018/06/04 09:33 カテゴリー:主要 )

芸の世界で「義」貫く 戊辰150年 新選組編(3)慕う人々
 新選組副長などを務めた山南敬助を弔う今年の「山南忌」は3月11日、切腹した部屋が残る京都市中京区の旧前川邸で営まれた。多くの参列者が焼香の後、山南の墓がある近くの光縁寺を訪れた。その中で、ともに芸妓(げいぎ)の母・司太夫=だゆう=(56)、長女葵太夫(31)は静かに手を合わせた。
 「信義を貫いた山南の生き方がすてき」。母子ともに新選組のファンで会津びいき。会津藩士や新選組の隊士を顕彰する各地の行事に足を運んでいる。

◆太夫の親子
 司太夫は地元京都の出身。中学校を卒業後、芸妓の世界に進み、23歳から司太夫を名乗っている。芸妓には芸事はもちろん、高い教養が求められる。郷里の歴史を学ぶうちに幕末期の京と会津藩が切っても切れない関係だと知る。尊皇攘夷の機運が急速に広まる中、時流にあらがいながらも会津藩士や新選組の隊士が「義」を貫く姿に心を打たれた。
 会津藩や新選組の歴史を通じ、本県への関心を高めた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生後は相馬、南相馬両市や東北の被災地に通って慰霊の舞を奉納している。
 歴史に詳しい芸妓として講演依頼も舞い込む。一昨年は長州藩の志士として活躍した高杉晋作の没後150年を記念した山口県下関市での講演会に招かれた。自身が営む京都・祇園の飲食店で「薩長お断り」をうたっているほどの会津びいきにとって、高杉は“敵方”の中心人物。即座に断りの連絡を入れたが、熱意に押されて渋々承諾した。
 当日は意を決して壇上に『誠』としたためられた扇を広げ、「私は新選組や会津藩のファン。長州は敵だと思っている」と口上をぶった。隊士の斎藤一が会津に残って戦い続けたエピソードを語ったほか、新島八重、中野竹子ら会津女性の活躍にも触れた。参加者の反応は思いがけず上々だった。「敵地に乗り込む心境だった。思いを率直に語ったのが良かった」と振り返る。

◆追悼の舞
 葵太夫は11日に山南が好んだ舞「黒髪」を披露した。追悼の舞奉納は毎年のことだが、見守る司太夫の頬に一筋の涙が伝った。山南忌の3日前に母を亡くし、前日に葬儀を終えたばかりだった。「今年は(山南忌が)東日本大震災の日でもあったが、心動じることなく見事だった」とたたえた。
 「祖母は私が好きな道に進むのを応援してくれていた。つらく悲しかったが、私たちは芸妓。楽しみにしている人を裏切る訳にはいかない」と葵太夫はほほ笑む。新選組から学び取った「誠」と「義」を心の支えに母子は芸の道を歩む。

( 2018/06/05 09:54 カテゴリー:主要 )



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あたふたしているうちに月替わり。

北海道
新撰組ゆかりの地巡って 函館市内13カ所地図で紹介 JTB旅館ホテル連盟など企画
 箱館戦争150周年を記念し、函館市内の新撰組ゆかりの地の魅力をPRしようと、JTB協定旅館ホテル連盟と函館ホテル旅館協同組合は共同で専用マップを作成した。土方歳三が最期を迎えたとされる一本木関門(若松町)など、函館市内のゆかりの地13カ所を地図付きで紹介した。

 1万5千部を発行。5月から同連盟と組合の加盟店や、市内観光施設に置いた。箱館戦争で犠牲となった旧幕府軍人を弔うために建てられた新撰組巡礼の聖地の碧血碑(谷地頭町)なども掲載した。

宮城
<戊辰戦争150年>「白石会議」現代に再び 列藩同盟ゆかりの地で歴史の転換点議論
 白石市は6月2日、戊辰戦争150年を記念して、奥羽越列藩同盟の発端となる会合があった白石城で、「白石会議2018」と銘打ったイベントを開く。研究者や列藩同盟にゆかりのある宮城、福島、山形各県の自治体関係者らが歴史の転換点を語り合う。
 白石城本丸広場に特設ステージを設け、東大史料編纂所教授で歴史学者の本郷和人さん(57)が戊辰戦争と幕末をテーマに講演する。引き続き、列藩同盟ゆかりの白石市の副市長、二本松市の教育長、米沢市と白河市の学芸員らが歴史とまちづくりを議論する。
 東北放送ラジオの番組「それいけミミゾー」の公開生放送もあり、山田裕一市長が出演する。
 白石会議は1868(慶応4)年閏(うるう)4月11日、新政府から追討令を受けた会津藩を救済しようと、奥羽14藩が白石城に集結。翌5月の31藩による奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 市の記念事業「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」の一環。甲冑(かっちゅう)やこけし絵付けの体験、各地の物産や軽食が楽しめるブース、賞品がもらえるクイズ大会もある。連絡先は市教委生涯学習課0224(22)1343。

福島
戊辰戦争150年会津の義感じて 地元市などが番組制作
 福島県会津若松市などは、戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別番組「AIZU」を制作し、26日からBS4局で全国放映する。会津武士道の「義」をテーマに、大義▽道義▽信義▽忠義--の4編で構成。それぞれの視点でドキュメンタリー化した。

 戊辰戦争の歴史と会津の精神を広く発信しようと、市と関係団体で組織する市戊辰150周年記念事業実行委員会が制作した。

 番組は外国人を進行役に据えるなど、会津藩士の「義」にあふれた生きざまから見えるメッセージをグローバルな目線で描いた。会津松平家14代当主の松平保久さんや市民らが出演し、市内の名所やフィクション映像なども織り交ぜた。放映時間は各24分。

 大義編は26日午後1時からBS朝日で、道義編は27日午後4時半からBS日テレで、信義編は6月2日午後5時半からBSフジで、忠義編は同3日正午からBS-TBSで放映する。室井照平市長は「内容も難しくなく、会津の『義』を感じ取ってもらえると思う」と話した。

 6月26日午後6時半からは同市の会津稽古堂で一般公開も予定している。入場は無料で、先着200人。申し込みは市観光課(0242・39・1251)。【湯浅聖一】
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

大阪
大阪の適塾で特別展 明治維新150年、戦争と平和考える機会に
 国指定重要文化財の史跡「適塾」(大阪市中央区北浜3、TEL 06-6231-1970)で5月29日、特別展示「戊辰(ぼしん)戦争~西南戦争をめぐる適塾関係者たち-軍制と医療から」が始まった。主催は大阪大学適塾記念センター(豊中市)。

江戸末期の町屋の遺構でもある「適塾」

 適塾は、医師で蘭(らん)学者の緒方洪庵が江戸末期に開いた私塾。同建物では6月10日の洪庵の命日に合わせて毎年、ゆかりの品々や関係資料を一般公開している。

 明治維新150年となる今年は、戊辰戦争と西南戦争の2つの内戦にフォーカスし、近代軍制の確立に貢献した大村益次郎や、軍医の養成に携わった緒方惟準(これよし)など、適塾関係者の活動を紹介する。

 適塾を研究する大阪大学の松永和浩准教授によると、戊辰戦争での高松凌雲の救護活動、西南戦争での佐野常民の博愛社(日本赤十字社)の設立など、適塾は戦争犠牲者を救済する人材も供給していたという。松永さんは「今年は維新150年だが、歴史の暗部が顧みられることは少ない。今回の展示では戦争の暗部にも光を当てており、戦争と平和の意義について考える機会になれば」と話す。

 開館時間は10時~16時。月曜休館。入場料は、一般=260円、高校生・大学生=140円、中学生以下無料。6月10日まで。

高知
シンポジウム明治150年記念 学芸員ら戊辰戦争語る さまざまな視点から紹介 高知・歴博 /高知
 明治元(1868)年から今年で150年を記念したシンポジウムがこのほど、県立高知城歴史博物館(高知市追手筋2)であった。明治維新期の戊辰戦争ゆかりの地にある博物館や美術館の学芸員らが、さまざまな視点で発表した。

 館の企画展「明治元年の日本と土佐~戊辰戦争 それぞれの信義~」の関連行事として開催。鹿児島県や福島県の学芸員ら4人が登壇した。このうち福島県立博物館の主任学芸員、阿部綾子さんは、元会津藩士の渋谷源蔵(1839~1909年)が明治39(1906)年に残した記録「雪冤一弁(せつえんいちべん)」を紹介。その中に敵だった薩摩藩出身者らから聞いたことを記している点について「明治維新後も、(戊辰戦争時に)誰がどういう風に行動し、感じていたのか、直接インタビューして書いているのが面白い」と話した。【松原由佳】
米国旅行でホテルと機内の乾燥で喉をやられました。熱は今朝方収まりましたが、咳と痰が……明日以降仕事が入っているのでちときつい。

茨城
維新後の困窮如実 水戸藩士、幕末尊攘で脚光県立歴史館研究員 記述の手紙発見 耕雲斎の孫 援助にひれ伏す
幕末の尊王攘夷(じょうい)運動で脚光を浴びた水戸藩の武田金次郎ら上級藩士たちが、明治以降、経済的に困窮し不遇な晩年を送った実情を示す史料が見つかった。維新後、伯爵となった水戸藩出身の幕末志士、香川敬三が書き残した手紙類を、県立歴史館主任研究員の石井裕さん(41)が研究し、今春、「常陸大宮市史研究」で発表した。明治維新150年の今年、激動の時代に翻弄(ほんろう)された旧藩士たちの知られざる悲運が明らかになった。


水戸藩は幕末、尊王攘夷思想に連なる水戸学で吉田松陰ら多くの志士たちに多大な影響を与え、「維新の先駆け」となった。しかし、天狗党、諸生党による激しい藩内抗争で多数の人材を失い、明治維新に乗り遅れたといわれている。

石井さんは、皇學館大学(三重県)が管理する香川敬三の子孫の家に伝わる文書を研究。天狗党を率いた武田耕雲斎の孫、金次郎の晩年の困窮ぶりを、香川が知人に明かした手紙を発見した。

金次郎は天狗党の乱に参加後、王政復古によって朝廷から罪を許され、藩の実権を掌握。維新後、諸生党に対し激烈な報復を行い藩内は極度の混乱に陥った。廃藩置県後の晩年はあまり知られていなかった。

手紙は、1894(明治27)年12月23日付。金次郎が亡くなる約3カ月前の生活苦を生々しい描写で伝えている。手紙によると、香川が栃木県の塩原温泉に赴いた際、道端の粗末な小屋で暮らす、体が不自由な金次郎と出会った。物乞い同然の姿に驚き、香川が金銭を渡すと金次郎は喜んで受け取り、ひれ伏した。その様子に香川は何度も涙したとつづった。

香川は手紙で「自分は廃藩後、金次郎に数百円の援助を行った。旧藩主や旧重臣はどのような援助をしたのか。このまま『見せ物』のように放置した揚げ句、病死でもしたら水戸藩の恥である」とも記した。

金次郎はその後、水戸に連れ戻され、間もなく48歳で亡くなった。

別の手紙には、混迷する幕末の水戸藩を主導した鈴木重義、三木直ら尊王攘夷派の上級藩士に関する記述もあった。鈴木は晩年、経済的に困窮を極め香川や山口正定ら同藩出身の成功者に度々借金を申し出ていた。

三木は徳川光圀を養育した名門の末裔(まつえい)で、余生を神職として送ったが、最晩年は貧困にあえいだ。常磐神社宮司の座を目指したが、かなわなかった。

石井さんは「旧水戸藩士たちの晩年が経済的に苦しかったことがはっきりと分かる貴重な史料」と評価。幕末から明治にかけ、激動の時代を生きた旧藩士の栄枯盛衰に思いをはせ、「武田金次郎らは維新当初、いっときは勝ち組だった。全体を見たとき、果たして勝者と言えたのだろうか」と話した。 (勝村真悟)

千葉
戊辰戦争150年 市川・船橋の戦跡巡る 27日、参加者を募集 /千葉
 明治維新期の戊辰戦争から150年を迎えたのに合わせ、船橋、市川両市周辺が戦地となった「市川・船橋戦争」の戦跡やゆかりの地を巡る「戦跡巡礼まち歩き」が今月27日に開かれる。会津藩や岡山藩など各地から参戦した戦死者を弔うため、各地域の出身者の参加も募っている。

 「ふなばし街歩きネットワーク」など船橋、市川、鎌ケ谷3市のガイドボランティアたちが実行委を作り、企画した。

 市川・船橋戦争は1868年に起きた戊辰戦争の局地戦。江戸城の明け渡しに反発し、江戸から転戦した会津藩などの旧幕府軍が船橋大神宮(船橋市宮本)、中山法華経寺(市川市中山)などに本陣を構えた。福岡藩や岡山藩などの新政府軍と戦い、市川や船橋の村は戦火にさらされた。

 大神宮には焼けたケヤキの木とその脇から新たに育った若木が今も残り、ご神木となっている。藩士らの戦死者は諸説あるが30人を超えたという。

 まち歩きでは、午前10時から、船橋市の海神公民館で郷土史家の綿貫啓一氏が講演。午後1時に出発し、市川コースと鎌ケ谷コースに分かれて戦死者の墓地などを巡る。船橋コースのまち歩きは6月9日に開催する。

 企画した街歩きネットワークの石本拡子さんは「亡くなったのは若い藩士たち。船橋や市川でも戊辰戦争があったことを知ってほしい」と話している。

 参加費は弁当付きで1200円。申し込みはネットワーク(047・422・0596、メールcct@chiba-net.or.jp)。【小林多美子】

東京
新選組隊士800人参上…日野でまつり
 新選組副長・土方歳三が生まれ育った日野市で12、13日、「ひの新選組まつり」が行われた。13日の「隊士パレード」では、全国から新選組ファンら約800人が参加し、隊士に扮ふんしてゆかりの地を練り歩いた。

 土方の命日(5月11日)に合わせた恒例行事。メインの隊士パレードは、土方らが剣術の稽古に汗を流した日野宿本陣周辺で行われ、馬にまたがった土方と、局長・近藤勇役に続き、水色の隊服を着た参加者が続々と登場。沿道に詰めかけた人たちが、さかんにカメラのシャッターを切っていた。

 土方役を務めた大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)は「ずっと土方に憧れていた。夢の中にいるようで、感慨深かった」と目を潤ませていた。

ひの新選組まつりきょう 大阪の三宅さん、念願の土方役に /東京
 新選組副長を務めた土方歳三の出身地、日野市で13日に行われる「第21回ひの新選組まつり」のパレードの新選組幹部役を選ぶ「隊士コンテスト」が12日、同市の高幡不動尊で行われ、大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)が土方役に選ばれた。

 祭りは土方の命日の5月11日に合わせて開かれ、全国から約4万5000人が集まる。メインイベントは、新選組愛好家や市内の保育園児ら約800人が新選組の隊士に扮(ふん)して甲州街道を練り歩く「隊士パレード」。土方や局長の近藤勇ら幹部役はコンテストで選んでいる。2次審査では土方が亡くなる前日、函館の五稜郭で戦死した新選組の仲間に思い出を語りかけるセリフを再現して競った。

 三宅さんは8年ほど前からコンテストに参加。念願の土方役を初めて射止めた。「観客がほれぼれとするような土方を演じたい」と抱負を語った。【黒川将光】
〔都内版〕

われらが新選組 いざ参上! 日野で800人パレード 
白馬に乗り堂々と胸を張って進む土方歳三役の三宅さん=日野市で

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 日野市出身の新選組副長、土方歳三らの勇姿を再現する隊士パレードが十三日、同市のJR日野駅周辺で開かれた。市最大のイベント「ひの新選組まつり」のハイライトで、約八百人が隊士らになりきって旧甲州街道を進み、声援を浴びた。(栗原淳)

 五月十一日の土方の命日に合わせ、市民や団体でつくる実行委員会が毎年この時期に開いており、今年で二十一回目。

 局長の近藤勇や土方ら、パレードを率いる幹部は、前日の「隊士コンテスト」で選ばれた。コンテストには全国から応募があり、今年の主役・土方は、大阪府松原市の会社員三宅智美さん(31)が務めた。

 市内で剣道に励む子どもたちなどに先導され、羽織はかま姿の隊士が続々と登場。黒の上着を羽織った三宅さんは沿道からの「副長!」「歳三さんかっこいい!」との声に手を振ってほほ笑んだ。一行は時折立ち止まり、剣を抜いて「エイ、エイ、オー」と勝ちどきを上げて盛り上げた。

 三宅さんは、雨のためパレードが途中で中止になったのを残念がりながら「応援が温かかった」と目標の土方役を終えた感想を話した。

 今回初めて、市内の留学生ら十人による外国人隊士を試行的に編成。実行委員長の山口徹雄さん(54)は「近年は若者や海外の人にも新選組ファンが増えている。市民手作りの祭りを国内外に発信したい」と今後への意欲を示した。



ども、白牡丹です。5泊7日の米国出張から無事に戻ってきました。

福島
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

特別展村人が見た戊辰戦争 きょうから福島で /福島
 今年の戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別展「村人たちの戊辰戦争」が21日、福島市春日町の県歴史資料館で始まる。戦闘の発生を警戒して築かれた陣地や防塁の絵図など、当時の村人が戊辰戦争をどう捉えていたかを伝える史料42点が並ぶ。

 奥羽越列藩同盟が会津藩を支援したため、県内でも新政府軍との戦闘の機運が高まる中、山崎村や藤田村(ともに現在の国見町)に築かれた陣地や防塁を示す「山崎村絵図」からは、戦闘を恐れた村人の様子が伝わる。

 現在の伊達市梁川町に居住していた堀江家に伝わる文書は、戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いの様子を詳しく伝える。1868(慶応4)年に梁川町で販売されていた「中外新聞」も、旧幕府軍側の視点で戦闘の行方が記され、戦争が村人の大きな関心事だったことを示す。

 戊辰戦争を控えた66年に社会変革の「世直し」を求め、信夫郡と伊達郡の農民が起こした一揆の様子を伝える「信達騒動風説記」、この一揆の参加者が作成した連判状「慶応二年寅五月廻状」なども並ぶ。

 資料館の山田英明専門学芸員は「戦闘に加わらなかった村人に注目することで、戊辰戦争を立体的に見ることができる」と話す。

 8月19日まで。無料。6月中に一部史料を入れ替える。問い合わせは資料館(024・534・9193)。【岸慶太】

会津藩士の刀剣や銃器 会津若松・鶴ケ城で特集展第2期
 戊辰150年の節目に合わせて、刀剣や銃器など通し会津藩士らの戦いを振り返る鶴ケ城特集展示「武器と武具」は11日、会津若松市の鶴ケ城天守閣で始まった。

 幕末期の会津の刀匠が手掛けた名刀や、戊辰戦争で使用されたのと同型の武器などを公開している。7月17日まで。

 本年度行われている幕末と戊辰戦争に関する特集展示の第2期。会津武士にとって所有することがステータスシンボルになっていたという三善長道の名刀など約40点を展示している。

 戦闘によって胸の部分が大きくへこんだ甲冑(かっちゅう)やスペンサー銃なども並ぶ。

 若松城天守閣郷土博物館の湯田祥子学芸員は「実際の戦いの様子がどうだったか、展示を通して感じ取ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 時間は午前8時30分~午後5時(入場は同4時30分)。天守閣入場料は大人410円。

 問い合わせは会津若松観光ビューロー(電話0242・27・4005)へ。

東京
ひのたまで観光PRタッグ 多摩市・ラスカル 日野市・新選組
 観光イベントでの集客などにつなげようと、日野、多摩両市は「ひのたま」と名付けた連携事業をスタートさせた。京王線沿線の隣接する自治体同士が、地元ゆかりのキャラクターを相互にPRするなどして、観光振興効果を狙う。(栗原淳)

 「ひのたま」のシンボルとして、人気アニメ「あらいぐまラスカル」に登場する「ラスカル」が新選組の隊旗を掲げるイラストを作成した。アニメは多摩市にスタジオを構える日本アニメーションが制作。新選組副長の土方歳三を生んだ日野市は「新選組のふるさと」をアピールしている。

 四月に観光連携協議会が発足し、両市のほか、映画やドラマのロケを誘致する両市の二団体などが加わった。第一弾として、多摩市の多摩センター駅周辺で今月三~五日に開かれた「こどもまつり」で、土方歳三の写真を拡大プリントしたパネルを展示。新選組にふんしたパフォーマーによる寸劇なども披露された。

 同市の聖蹟桜ケ丘駅前では秋に「ラスカル子ども映画祭」があり、市経済観光課は「『ひのたま』を通じて日野市民にもラスカルを身近に感じてもらい、映画祭にも足を運んでもらえれば」と期待する。

 両市はラスカルや新選組を、地元を特徴づけるコンテンツと位置付け、内外にアピールする。日野市シティセールス推進課は「根強いファンが多い有力なコンテンツを協力して発信し、観光振興や新住民の獲得につなげたい」と話している。

新潟
戊辰戦争死者に鎮魂の祈りを 150周年記念、7月14日に合同慰霊祭 上越市に福島・白河市伝書 /新潟
キャラバン隊「釜子道中記」逆コースで届ける
 福島県白河市から上越市に7日、戊辰戦争150周年を記念して白河市で7月14日に開かれる合同慰霊祭への参加を促す「伝書」が徒歩で届けられた。白河に高田藩の飛び領があった縁で、代表者が7日間かけて350キロ歩いてきたという。【浅見茂晴】

 白河市は、白河戊辰150周年記念事業実行委員会を設置。関係する全国17市にキャラバン隊を仕立てて、合同慰霊祭への参加を呼びかけている。

 この日、キャラバン隊の一行は高田城三重櫓に入り、白河市長が上越市長に宛てた伝書を上越市の影山直志・自治・市民環境部長に手渡した。同実行委の人見光太郎会長は「白河は両軍の戦死者をまつってきた。どうか鎮魂の気持ちをささげに来てほしい」と述べた。

 歩いて伝書を運んだのは有賀一裕さん(36)。江戸時代、高田藩士が高田から飛び領の白河市東釜子までを歩いた旅行記「釜子道中記」にならい、道中記と逆のコースを踏破してきたという。有賀さんは「山越えは苦しかったが、先人が伝えた文化をつなげていきたい」と話した。

 戊辰戦争時、白河では明治新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が約100日間の激戦を繰り広げ、両軍合わせて約1000人の犠牲を出した。高田藩は新政府側に立ったが、混乱の中で連絡が届かず、飛び領にいた藩士は奥羽越列藩同盟側で戦い、27人が戦死した。白河市民は両軍の犠牲者を分け隔てなく弔い続けている。


京都
幕末・維新をゆく長谷川家住宅=京都市南区 会津軍の緊迫、日記や柱の傷に
 <ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>

 かつて京の都に入る南の玄関口だった東九条地区にある「長谷川家住宅」(京都市南区)は江戸時代の農家建築として国の登録有形文化財に指定されている。幕末には藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職にあった会津軍の部隊が宿泊し、挙兵した長州軍と戦った。座敷の柱には戦闘に赴く兵士の武具がこすれたとされる傷が残る。座敷に置かれたたんすなどの家具類は江戸や明治の良品。住宅に残る古文書が幕末を中心に地区の知られざる歴史を解き明かしつつある。【高村洋一】

 代々庄屋だったこの家は新築時の棟札から1742年に建てられたとされ、築270年を超える。一帯はかつての農村地帯で、築200年を超える農家が更に残っている。

 土蔵のたんすから9代当主の長谷川軍記が1822(文政5)年から1871(明治4)年までに書いた日記が見つかったのは3年前。中村武生・京都女子大非常勤講師らが解読している。長州軍が会津や薩摩などの幕府側に敗れた「蛤(はまぐり)御門の変(禁門の変)」が起きた1864(元治1)年の夏には京都御所を守る会津藩の軍勢が1カ月余り宿泊した。長州軍が布陣した伏見付近から大砲の音も聞こえた。

 蛤御門の変のあった旧暦7月19日には当時の東九条村で新選組が長州軍の部隊と戦った。「鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」と日記に書かれている。藩の屋敷があった伏見から京都御所に向かうのに長州勢が通ると想定し、住宅の南約500メートルの鴨川に架かる勧進橋(当時は銭取橋)で新選組が待ち構えていたという。

長谷川家住宅などに宿泊していた会津軍の隊列を描いた絵巻(複製)=京都市南区東九条東札辻町で、高村洋一撮影
 裕福だった長谷川家は歴代当主の多くが絵筆を握った。特に11代目の長谷川良雄(1884~1942)が描いた水彩画は鴨川周辺など、当時の京都の風景を伝える。収蔵作品のうち約15点が2階ギャラリーに展示されている。良雄の父清之進は会津軍の隊列を精密に描いた絵巻を残し、複製が展示されている。座敷のふすまには幕末から明治にかけての京都の文人、江馬天江(えまてんこう)の書や水墨画も見られる。

 住宅の保存にあたっている一般財団法人「長谷川歴史・文化・交流の家」代表理事の中川聡七郎さん(82)は良雄の娘婿。「戦後の農地改革で長谷川家は大半の土地を奪われ、生活の糧を失った。今はやっとの思いで歴史遺産を守っています」と話した。


長谷川家住宅(京都市南区東九条東札辻町)
長谷川家住宅
 毎週土・日曜の午前10時~午後4時開館(夏季と冬季に休館あり)。入館料一般600円、小学生300円。京都市営地下鉄烏丸線十条駅を東へ。竹田街道の1筋東を北へ約100メートル。12日午後2時、ソプラノコンサートを開く。入場料1000円。問い合わせは「長谷川歴史・文化・交流の家」(075・606・1956)または中川さん(090・9774・4858)。
山口
直木賞作家の古川薫氏死去…幕末維新の志士描く
 幕末維新の志士らを生き生きと描いた歴史小説で知られる作家の古川薫(ふるかわ・かおる)さんが5日、血管肉腫で死去した。92歳だった。

 告別式は7日午前11時、山口県下関市楠乃2の551の115下関典礼会館。喪主は長男、貴温(きみはる)氏。

 下関市生まれ。山口大教育学部を卒業し、中学教師を経て山口新聞に入社。記者や編集局長を務めた。その傍ら小説を執筆し、1965年、「走狗」が直木賞候補になった。70年に退社して専業作家となり、「塞翁さいおうの虹」「野山獄相聞抄」など幕末維新ものを中心に次々と同賞候補に挙がった。91年、山口県出身のオペラ歌手、藤原義江の生涯を描いた10回目の候補作「漂泊者のアリア」で直木賞を受賞。最多候補歴での受賞が話題になった。

コラム
一番好きな“土方歳三”キャラクターは? 3位「ゴールデンカムイ」、2位「銀魂」、1位は…
本日5月11日は新選組副長・土方歳三の命日です。1869年、戊辰戦争の五稜郭にて新政府軍の狙撃を受けて帰らぬ人となります。享年は34歳でした。

アニメでも土方歳三は人気キャラクターの一人です。さまざまなアニメに彼をモチーフとしたキャラクターが登場します。史実に忠実であったり、大胆なアレンジが加えられていたり…、そんな土方キャラの中で最も人気なのは何の作品なのでしょうか。

そこでアニメ!アニメ!では、「一番好きな“土方歳三”キャラクターは?」と題した読者アンケートを実施しました。5月6日(日)から5月8日(火)までのアンケート期間中に1756人から回答を得ました。
男女比は男性約15パーセント、女性約85パーセントと女性がメイン。年齢層は19歳以下が約38パーセント、20代が約32パーセントと若年層が多めでしたが、30代も約18パーセントと幅広い票が集まりました。

過去アンケート「いちばん好きな新撰組キャラは?」も要注目!
https://animeanime.jp/article/2018/02/27/36908.html

■トップは『薄桜鬼』 その生き様に絶賛の声!
1位は『薄桜鬼』。支持率は約33パーセントでした。『薄桜鬼』シリーズはオトメイトから発売された恋愛アドベンチャーゲームが原作。幕末時代を舞台に、主人公の雪村千鶴と新選組メンバーの交流を描いており、ゲーム、アニメ、ミュージカルなどマルチメディアで人気を博しています。

本作の土方歳三は「鬼の副長」の二つ名に相応しく、厳しい性格の持ち主。しかしそれも新選組を鍛えるためのことであり、実際は誰よりも隊員想いの人物です。ファンからは「生き様がカッコイイ!」といった声が多数寄せられました。中には『薄桜鬼』シリーズをキッカケに歴女になったという人もいるほど。「いちばん好きな新撰組キャラは?」のアンケートでも上位に輝いた人気キャラが、その強さを証明しました。

2位は『銀魂』。支持率は約32パーセントで、トップとの差はごくわずかでした。本作に登場するのは土方歳三ではなく、彼をモデルにした土方十四郎。クールでイケメンですが、あらゆる料理にマヨネーズをかけまくるという変わった味覚の持ち主。マヨラーというほかの土方キャラにはありえない設定のためか、「カッコ良くて面白い」といった投票が集まりました。

3位は『ゴールデンカムイ』。支持率は約6パーセントでした。本作は明治時代の北海道を舞台にした人気コミックが原作。主人公・杉元佐一がアイヌの少女・アシリパとともに隠された金塊を探すというストーリーです。この時代、史実ではすでに亡くなっていますが、『ゴールデンカムイ』では意外なかたちで姿を現わします……。TVアニメ放送中の話題作がトップ3に入りました。

今回のアンケートではアニメはもちろん、マンガ、ゲームと幅広い作品に票が集まっています。『薄桜鬼』シリーズのように舞台化、ミュージカル化された作品も多く、あらゆるメディアで土方歳三は人気であることが分かりました。命日を機に、それぞれの作品で描かれる土方たちを再確認したくなる結果でした。

■ランキングトップ10
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]

1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
次ページ:ランキング20位まで公開
■ランキングトップ20
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]
1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』シリーズ
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
11位 『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』
12位 『北走新選組』
13位 『龍が如く 維新!』
14位 『イケメン幕末 運命の恋』
14位 『銀河烈風バクシンガー』
14位 『艶が~る』
17位 『茜さすセカイでキミと詠う』
17位 『とってもひじかた君』
19位 『あさぎ色の伝説』
19位 『幕末恋華 新選組』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
 1位『薄桜鬼』2位『銀魂』は近年不動だと思いますが、3位に『ゴルカム』のジジイ土方がキタのは作品に勢いがあるからでしょうね。4位『ピスメ』土方を抜いた感があります。5位『幕ロ』土方がついたのはファンとして嬉しい限り、誠仮面という意外性のあるキャラのパワーも加わっているかしら(「私は誠仮面ではない」って主張してる誰かさんの声が聞こえてくる気が)。
 『ちるらん』『北走』の間に『修羅の刻』が来てるのも興味深いです。『バクシンガー』とか『とってもひじかた君』とか『あさぎ色の伝説』とか旧い作品のファンが根強くいることも、嬉しいですねぇ。
ここのところ暑すぎたり寒すぎたりしたりして天候不順ですが、今日は初夏らしく爽やかな天気ですね。土方さんが生まれた日は新暦に直すと6月ですが、梅雨の晴れ間のこんな天気だったのでしょうか。
 昨夜NHK『英雄たちの選択』で土方歳三さん回の再放送していました。磯田道史さんが監修してますし、函館の二股口でのロケにも〜さんが出演するので昨年末に放送されてから保存しているのですが、改めて拝見。先日日野宿本陣で久しぶりに解説に聞いたことも思い出していたのですが、土方歳三の洋式戦法での優れたセンスを語る時に豪農出身だったことよりも姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎の名主としての生活環境に触れていたことにもっと注目した方がいいと思いました。甲州街道の宿場町で、常時馬や人足(特に日野宿は多摩川の万願寺の渡しを管理している)を抱え、日銭を管理する名主だったことが、土方さんのマネジメントセンスの基礎となっていただろうと思うのです。

福島
<戊辰戦争150年>無念の最期に思い寄せて 犠牲となった女性たち慰霊 会津若松で碑前祭
 戊辰戦争で犠牲になった230人を超える会津藩の女性を追悼する「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、会津若松市北青木の善竜寺であった。
 顕彰活動を続ける嫋竹(なよたけ)会が主催し、会員や地域住民ら約200人が参列。吉田幸代会長(81)は「戊辰戦争150年の今年は碑建立から90年を迎える。先人に思いを寄せ、多くの人に関心を持ってほしい」と祭文をささげた。近く、参道周辺に新たな案内板を設置することも報告した。
 読経、焼香の後、市謹教小の児童が歌い継ぐ「なよたけの歌」を奉納。葵高の女子生徒15人が舞踏や剣舞を披露し、郷土のために命を落とした女性たちの霊を慰めた。
 戊辰戦争では会津藩士の妻や娘が犠牲になった。足手まといにならないようにと自ら命を絶った女性も少なくなかったという。
 碑は1928年建立。関係者が犠牲者を調べ、判明した233人の名前が刻まれた。「なよたけ」は一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子の辞世の句から取った。


愛知
尾張音楽史幕末~昭和を追体験 6週連続で講演付き演奏会 11日から一宮 /愛知
 芸どころと言われる尾張名古屋の音楽は、幕末から昭和にかけてどう変遷していったのか--。こんなユニークな視点の6週連続の講演付き演奏会「尾張音楽史」が、11日から一宮市木曽川町内割田の市木曽川文化会館(尾西信金ホール)で開かれる。【長倉正知】

 一宮市市民会館の自主企画で、愛知県立芸術大(長久手市)が協力した。同大芸術創造センター長の井上さつき教授(62)は「尾張というと音楽とは縁遠いイメージがあるが、全然違います」と話す。1回90分のうちテーマに沿った講演と、関連する生演奏が半々になるという。

 テーマは(1)11日「尾張の雅楽」(2)18日「唱歌のはじまり」(3)25日「和洋合奏の楽しみ」(4)6月1日「第三師団軍楽隊の活躍」(5)8日「戦前の名演奏家の時代」(6)15日「鈴木政吉と鈴木弦楽四重奏団」--。講師は(1)は寺内直子神戸大学教授、(4)は丹下聡子県立芸大非常勤講師で、それ以外は井上教授が務める。主に県立芸大の関係者が演奏する。

 「明治に西洋音楽が日本に入ってきて学校で唱歌を教えるようになったが、それを担ったのは雅楽の奏者でした。時系列に沿って西洋音楽がどう展開していくかを分かりやすく解説します」と井上教授。(1)の雅楽は真清田神社(一宮市)の真清伶人会が演奏する。(2)では尾張藩の楽人が作った唱歌や愛知県唱歌などを披露する。(3)では明治から大正にかけてバイオリンがブームになり、琴や尺八と合奏して楽しんだ状況を紹介。(4)と(5)で、名古屋の軍楽隊や、名古屋を訪れた世界的な名演奏家が音楽普及に果たした役割などを明らかにする。

 (6)は明治時代にバイオリン製造を手がけ「日本のバイオリン王」と呼ばれた名古屋の鈴木政吉と、その三男で音楽教育法「スズキメソード」の創始者、鎮一が弟たちと結成した鈴木クワルテットについて語る。海外で評価の高かった政吉のバイオリン(1929年製、県立芸大所蔵)も、いずれかの回で演奏に使う予定という。

 「音楽史というほど難しくないし、当時の人が楽しんだ音楽を追体験できる面白い企画」と井上教授は来場を呼び掛ける。企画を立案した同会館の大嶋英司館長(43)は「音楽を通して埋もれた文化を見直すことで、地域の発展につなげたい」と狙いを話す。

 「尾張音楽史」は毎回午後2時開演。料金は各回800円(全席自由)。一宮市民会館(0586・71・2021)や市木曽川文化会館(0586・86・7581)などでチケットを販売中。

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

幕末・維新をゆく妙国寺=堺市堺区 「堺事件」11人切腹の地
<ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>
 新政府軍と旧幕府軍がぶつかった戊辰戦争のさなか、堺で新政府の今後を左右しかねない事件が起きた。堺の警備を担った土佐藩士がフランス水兵を銃撃した責任を問われ、11人が切腹した「堺事件」。その現場は、室町時代に創建された名刹(めいさつ)、妙国寺だ。壮絶な死を遂げた土佐藩士の足跡を訪ねた。【谷田朋美】
 事件は1868年2月、鳥羽伏見の戦いの直後に起こった。堺を警備中の土佐藩士が、海岸の測量をしていたフランス海軍の水兵とトラブルになり、銃撃して11人の死者が出た。新政府は、「全員打ち首にせよ」とのフランス側の要求を受け入れて、発砲した藩士ら20人に切腹を命じた。

切腹した土佐藩士と、フランス水兵を慰霊する碑が境内に建つ。月命日には今も供養がある=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 妙国寺の門をくぐると、色鮮やかな本堂に迎えられた。第二次世界大戦で焼失し、敷地が縮小。切腹した場所は現在、住宅地となり、境内には慰霊碑が建つ。地元の市民らでつくる「堺事件を語り継ぐ会」事務局長の呉竹正さんは「切腹は上級武士だけの特権。屈辱的な要求の中で、新政府は切腹だけは譲らなかった」と話す。

 土佐藩士はなぜ、銃を持たないフランス水兵に発砲したのか。当時、堺は例外的に外国人の遊歩が認められていた。一説には、急きょ派遣された土佐藩士はそのことを知らされていなかったとも。通訳がおらず意思疎通できなかったことは事件を招いた一因だろう。しかし詳しい経緯は分かっていない。高知県立歴史民俗資料館学芸課長の野本亮さんは「資料がほとんど残っていない。意図的に処分された可能性はある」と話す。

 「開国する皇(みかど)の方針を妨げた」とされた土佐藩士。野本さんは「新政府の指導者らは攘夷から開国に急に方針転換した。下の者が簡単に思想を変えないことは分かっていた」と指摘する。発砲から切腹までわずか8日間。新政府が決着を急いだことがうかがえる。


切腹した11人と橋詰愛平の墓=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 ソテツの枯山水を右手に眺めながら、本堂の廊下を進むと、突き当たりに、戦火を免れた遺品約30点が並ぶ宝物資料館がある。まず目に入るのが、遺髪20人分の束だ。実際に切腹したのは11人。立ち合ったフランス側が途中で中止を申し入れたからだ。

 切腹の際、隊長の箕浦猪之吉が腰にあてて支えにしたという「三方」には、大量の血の痕が残っていた。切腹の際、飛び出した自分のはらわたをつかみ、居並ぶフランス水兵に向かって投げつけたという話は有名だ。

 妙国寺の向かいの宝珠学園幼稚園の敷地には11人の墓があり、特別に見学させてもらった。11基の墓のわきにもう1基、墓があった。「12番目に切腹する予定だった橋詰愛平の墓。自殺未遂した後、墓守に一生をささげた」と呉竹さん。橋詰ら生き残った9人は流罪となり、明治天皇の即位で恩赦に。精神を病むなど、多くは苦難の人生を歩んだという。


妙国寺(堺市堺区)  ※地図
 「潔く勇敢」「軍人の鏡」「平和に反する」……。彼らほど、時代に評価が左右されてきた維新の志士も珍しい。野本さんは「十分な検証がされてこなかった」として、妙国寺と連携し、遺品調査などを進めてきた。高知県立歴史民俗資料館では1~3月、堺事件を多角的に検証する企画展が開かれた。堺市でも呉竹さんらが「堺事件を語り継ぐ会」を結成した。明治維新150年を機に、堺事件に改めて向き合う機運が高まっている。
岡山
幕末の名刀近藤勇が愛した「乕徹」など9本披露 20日まで、県立博物館 /岡山
 今年が明治元年(1868年)からちょうど150年目であることにちなみ、新撰組・近藤勇の愛刀として知られる「乕徹(こてつ)」など、幕末から明治維新の時期に関わりの深い名刀が県立博物館(岡山市北区)で展示されている。20日まで。

 同館によると、幕末から明治維新の時期は、日本刀が実際に武器として使われており、江戸時代などに比べて実用性が重視された造りが特徴。今回は同館が保管・所蔵する9本がお目見えした。国の重要文化財の乕徹に加え、刀の名産地として知られた備前長船(現・瀬戸内市)の刀工たちの作品や名刀を擬人化したオンラインゲーム「刀剣乱舞」に登場する「加州清光」などを見ることができる。
 刀身だけでなく、鞘(さや)や柄、つばなどの凝った意匠に注目した展示や、レプリカで日本刀の重さを実感できるコーナーもある。

 大人250円ほか。月曜休館。12日午後2~3時に学芸員による展示解説もある。【林田奈々】

高知
幕末の軌跡、史料でたどる 高知県北川村の慎太郎館で企画展
 高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で、館所蔵の史料で幕末維新の転換点となった出来事を振り返る企画展「収蔵品でたどる幕末維新史」の第1部が開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で6月25日まで。

 第1部は、幕末の動乱が始まったペリー来航(1853年)から、三条実美ら急進的攘夷派の公家7人が京都を追われ、慎太郎脱藩の契機ともなった「八月十八日の政変」(1863年)までを史料46点でたどる。...
 以下、有料記事。



コラム
幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか?
河合 敦 歴史研究家
多摩大学客員教授
江戸幕府は、各藩の教育には口をはさまなかった。だから藩によって士風が大きく異なったことは、前回、薩摩藩と会津藩を例に詳しく述べた通りだ。

(前回の記事『江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」』はこちら)

今回は、その第二弾として、庄内藩(山形県鶴岡市)を取り上げたいと思う。

江戸時代のリベラル教育
庄内藩は、現在の山形県鶴岡市を本拠地とする東北地方の藩で、小説家、藤沢周平の作品にしばしば登場する「海坂藩」のモデルとしてご存知の読者もいるかもしれない。

厳しい封建制度が基本の江戸時代において、史実の庄内藩は、領民をかなり手厚く保護し、領民もこれに感謝の念を抱いていた。こうした庄内藩のユニークな風土は、その藩士教育の影響がきわめて強いと思われる。

前回紹介した二藩がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主の酒井忠徳の強い希望で創建されたが、次代(十代藩主)の酒井忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、ときには会議や裁判もおこなわせた。

その理由について忠器は、「藩政にかかわる施策や方法は、学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」と述べる。このように、政教一致という変わったスローガンをとなえたのだ。

さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置した。

なんともユニークな思考だが、致道館の教育も、他藩と違った特徴を持っていた。教育の柱を幕府が正学と認めた朱子学ではなく、徂徠学としたことである。

当時、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、朱子学以外の学問を異学として禁止していた。そのため諸藩もこれにならい、朱子学を中心に教育をおこなう藩校が激増する。そんな中、庄内藩はこの流れに逆らい、徂徠学を中核にすえたのである。

理由はいたって簡単で、藩の重臣に徂徠学を学んでいる者が多かったからだ。

徂徠学とは何か
徂徠学とは、荻生徂徠が十八世紀前半に提唱した学派で、古文辞学とも呼ばれる。その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、徂徠は将軍徳川吉宗にその著書『政談』を献上するなど、経世論(政治学)にも重点を置いていた。

文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。

初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)

と依頼したのである。

原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。

「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが致道館の方針だった。いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

こんなに自由だったとは
徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

館内での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたが、それはあくまで原則で、「格別の訳これある節は、祭酒、司業沙汰に及ぶべきこと」という但し書きが付けられており、校長や教頭に一言いえば、酒を飲んでも、煙草を吸っても大丈夫だったというのだから、驚くばかりだ。

しかも、こうした放任主義教育が、武士の質を低下させたかと言えば、決してそうはならなかった。むしろ、このようなユニークな致道館の教育を受けた庄内藩士は、それぞれの個性を存分に伸ばし、己の判断で行動できる役人として、藩に忠勤するようになった。

だがそんな庄内藩は、明治維新で図らずも朝敵になってしまう。
庄内藩がここまで強かったワケ
慶応三年(1867)末、西郷隆盛は徳川家を武力で倒すため、江戸に浪人たちを送り込んで、市中で乱暴狼藉を働かせて新政府に挙兵するよう徳川を挑発した。このとき江戸の治安を守っていた庄内藩は、それに乗って薩摩藩邸を焼き打ちしたのである。こうしたこともあって、戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

昨年から今年にかけて、新しい小中高の学習指導要領が発表された。学習指導要領は、各教科の目的、教えるべき内容などが記されている、いわば教育課程の大綱的基準である。

新しい学習指導要領が目指すものは「主体的・対話的で深い学び」の実現である。子供たちが自ら意欲をもって学習に取り組み、周囲の人々との対話や協力を重ねながら、自らの力で問題点を見いだして解決策を考えたり、自分の構想を効果的に説明したり、議論する力を身につけさせることである。

そうした人材を育てなければ、人口減少、グローバル化、人工知能の発展など、予測不可能な時代に対応できないと政府は判断しているのである。

けれど今述べたように、すでに同じような教育活動が、江戸時代の庄内藩で実施されていたのである。

歴史には叡智が詰まっている。私たちはもっと過去の日本を知り、そこから智慧を拾って、未来に向けた解決策を見いだすべきではないだろうか──。
福島
戊辰戦争「東軍」足跡たどる宿札 会津若松・歴史資料センター
 会津若松市の歴史資料センター「まなべこ」で、戊辰150年を記念した常設展「会津藩士の戊辰戦争」が、28日から始まる。長岡城の落城後、藩主の牧野忠訓(ただくに)が会津に逃れるためにたどった道のりを明らかにする「宿札」などを初公開。当時の様子を物語る資料を展示し、会津藩をはじめとした東軍の足跡をたどる。来年1月20日まで。

 27日に、内覧会が開かれた。宿札は大名などの宿舎に掲げられたもので、金山町の個人宅で所蔵していた宿札には、忠訓の宿舎であることを示す「牧野備前守様御宿」とあり、裏面には「慶応4(1868)年5月26日」と記されていた。忠訓が若松城下を目指す途中、金山町に宿泊していたことは文献などから分かっていたが、同市教委文化課の近藤真佐夫主査は「混乱のさなかで書かれた文字資料は誤っている場合もあり、裏付けとなる物証は貴重だ」と評価している。このほか、西軍が使用したアームストロング砲や山本八重も手にしたというスペンサー銃の模型も展示され、手に触れることもできる。

 入場無料。時間は午前9時~午後5時(入場は同4時30分まで)。毎週月曜日休館(月曜日が祝日の場合は翌平日)。

東京
東京都 品川にある、幕末に知られた土佐・長州の偉人のお墓を紹介
史跡巡りをしていると、思わぬところで有名人のお墓に出くわすことがあります。今回は都内品川にある、幕末に知られた土佐・長州藩士や大名の墓を紹介します。

板垣退助の墓
襲撃されたときに発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、元土佐藩士で自由民権運動の父、板垣退助。

彼の墓は京浜急行電鉄の「新馬場駅」からすぐ、品川(ほんせん)神社の裏手にあります。江戸時代は広く江戸を見渡せたという高台にあり、富士山を模した「富士塚」があり大変賑わいました。一見しただけではわかりにくいのですが、社殿の右手に小さな案内板が立っており、なかば訝しんで裏手に回ると、本当に板垣退助の墓があります。

仏教式の墓石ですが、周りには寺はありません。何故ぽつねんと墓だけがあるのかというと、元々は高源院という寺の敷地だったのですが、関東大震災後に世田谷区へ移転してしまったのだそうです。大正8年(1919年)に寺に葬られた板垣の墓は、そのまま残されました。

すぐ目の前は崖になっていて、眼下には民家の屋根が見えます。今は木々の葉陰に空が見える程度ですが、昔は見晴らしがよかったのだと思います。手前には佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もありました。

品川神社には、小さいながらも貴重なものばかり収蔵されている宝物殿があり、幕末三舟と言われた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の揮毫した掛け軸などもありますので、幕末の息吹を感じること間違いなしです。


山内容堂の墓
旧東海道の「品川宿」を出てすぐの鮫洲駅近くの小高い丘に、「山内豊信(容堂)墓」はあります。

山内容堂は土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と称された人物でしたが、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と西郷隆盛ら周囲の志士に揶揄されたように、心から倒幕に賛同していたわけではなかったようです。

明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての下々の者と馴染めず明治2年に辞職。隠居後は妾を十数人も囲い、酒と作詩に明け暮れる日々を送りましたが、長年の痛飲が祟り46歳の若さで脳溢血に倒れ亡くなりました。明治5年(1872年)のことです。

墓所は遺言により「大井村の下総山に葬れ」ということで、かつての土佐藩下屋敷である現・大井公園に葬られました。周りには寺社もなく、本当にお墓しかありません。敷地は幼稚園と隣接しており、墓の向こうには金網越しに遊具が見え、草も生い茂り、かつての名君の墓とはとても思えない雰囲気です。

酒豪ぶりで鯨酔公とあだ名されたほど大酒飲みだった容堂。同じ旧東海道沿いにある「品川利田神社」では、鯨碑があり、なんとなく鯨という言葉に因縁めいたものも感じます。

画像出典:ウィキペディア

伊藤博文の墓
説明不要とは思いますが、元長州藩士で初代内閣総理大臣になった人物。歴史上、吉田松陰の松下村塾の門下生としても知られており、安政4年(1857年)に17歳の時に入塾し、後々尊皇攘夷運動に身を投じました。

文久2年(1862年)には、高杉晋作らとともに、品川の御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに参加したほどの過激派でしたが、藩命でイギリスへ密航し現地の大学で学んだあとは、一転して開国派になります。

墓はJR西大井駅の北口から徒歩2分、西大井緑地公園のすぐ裏にあります。独立した神式の墓所で、鳥居があり、その奥には円墳の墓があります。右隣には梅子夫人の墓もあります。

別邸が現在の品川区大井三丁目付近にあったことから、国葬後、近い場所に墓所が造られたとのこと。ちなみに伊藤博文の別邸は、平成10年に解体されたのち一部が山口県萩市に移されています。

画像出典:筆者撮影、無料写真素材 写真AC

いかがでしたか?遠く長州・土佐から離れ、奇しくも品川に葬られることになったかつての名士たち。品川近辺に集中しているので、一日でお参りに行くことも出来ます。

志士とかつての名君がたどった数奇な人生の顛末に思いを馳せながら、お参りしてみてはいかがでしょうか。

GWは幕末の“物語グルメ”をご賞味あれ!
■ ドラマチックな出来事やエピソード込みで味わう

待ちに待ったゴールデンウィーク。今年の大型連休は、明治維新150周年の節目にちなんで、幕末維新のグルメ三昧はいかが? それもただのグルメじゃなくて、ドラマチックな出来事や人物のエピソード込みの“物語グルメ”を味わっちゃおう!

最初にご紹介するのは、壺屋総本店の最中。東京メトロ本郷3丁目駅の近くに店舗を構えるこちらは、江戸根元を掲げる和菓子の老舗で、寛永年間から江戸の人々に愛され続けてきた。この店とゆかりが深いのが、江戸城無血開城でおなじみの勝海舟だ。

慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに勝った後、薩長を軸とする倒幕勢は徳川慶喜と旧幕府軍を討伐するため、続々と江戸に迫ってきた。この時、勝海舟は無用の戦争を避けて江戸の町を救うべく、倒幕側の西郷隆盛と会談した。これが有名な無血開城の談判で、江戸は戦火から守られることになったが、もう一つ、勝が守ったものがある。それが壺屋なのだ。

明治維新を迎える直前のこの頃、江戸の大店はもちろん昔から徳川びいきで、「薩長の連中に江戸の粋がわかるか!」と廃業してしまうところが多かった。壺屋も暖簾を下ろそうと考えていたところ、この店をひいきにしていた勝海舟が「人々は壺屋の菓子を食べたいと言っているんだから、諦めずに続けるように」と店主を鼓舞。「神逸気旺」と書いた書を贈った。神力に頼らず、己れの気で乗り切れ、という意味だ。このおかげで壺屋は廃業することなく、今、名物の最中を味わえるのも、勝海舟のおかげなのだ。

お次は船橋屋のくず餅。JR亀戸駅から錦糸町方面へ徒歩10分、梅まつりと藤まつりで有名な亀戸天神に寄り添うようにしてこのお店がある。ゆかりの幕末の人物は、江戸城無血開城のもう一人の立役者・西郷隆盛だ。

西郷どんといえば上野の像や肖像画からもわかる通り、ちょっぴり、いや、でっぷり太めの体型でおなじみ。医者からもダイエットを薦められ、狩りや温泉を趣味としたのも体のことを考えていたから。その狩りの休憩に立ち寄ったといわれるのが船橋屋で、お気に入りはくず餅だった。

くず餅はたしかにカロリー低めだけど、当時も現行商品のように黒蜜をかけて食べていたのだとしたら、あまりダイエットにならないのでは……? まあ、心もでっかい西郷どんは、細かいことは気にせず、この甘さと食感に狩りの疲れを吹き飛ばしたのでしょう。

■ あの有名店にも有名な幕末“物語グルメ”あり!

GWには普段にも増して多くの人で賑わう東京観光のメッカ、銀座。GINZA SIXができたこともあり、国内外の人々が訪れるその銀座の中心にも、幕末維新の人物ゆかりのスイーツがある。

銀座四丁目の交差点からほど近い、木村屋銀座本店のあんぱんだ。スーパーやコンビニでも見かけるキムラヤのパンでおなじみの、あのキムラヤの木村屋である。看板商品『酒種あんぱん』が大好物だったのが、剣の達人にして書の達人、さらに禅に深く傾倒した人格者、そして江戸城無血開城の影の功労者・山岡鉄舟だ。奇しくもまたも無血開城がらみの人物になってしまった。

木村屋の創業者・木村安兵衛は元武士で、剣術を通じて鉄舟と知り合い、親交を深めたという。明治維新を境にパン作りに励み、西洋風ではない、日本人の口に合うパンを試行錯誤する中、試作品を鉄舟に食べさせてみた。これに鉄舟大感激! その後ほぼ毎日食べるようになるほどの大好物になった。

それが酒種を生地に練り込んだオリジナルのあんぱんで、山岡鉄舟の薦めで明治天皇への献上品となり、御用達となり、現在まで続く人気商品になったのだ。

幕末の“物語グルメ”といえば、和菓子のとらやも忘れちゃいけない。この記事を執筆している現在、赤坂の本店はリニューアル中だがご安心。とらやは商品を国内外に展開しているので、お取り寄せは容易だ。

このとらやにまつわるエピソードを遺しているのは、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂。大の甘党で、ほぼすべての歯が虫歯だったというスイーツ・タイクーンが愛したのが、羊羹『夜の梅』である。家茂が数多くの菓子を注文していたことが、とらやの帳簿に記されていて、中でも『夜の梅』がお気に入り。幕府と朝廷が一致協力して国政にあたるべし、という公武一和の政策を進めたかった家茂は、奥さんの和宮の兄・孝明天皇にこの羊羹を贈っている。

『古今集』の一首「春の夜の 闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」に詠まれた梅に見立てたこの羊羹。時の将軍と天皇は、同じ味を楽しんで公武一和を成し遂げようとしただろうか。

■ まだまだあるよ! あの人物ゆかりの“物語グルメ”

東京メトロ押上駅から徒歩15分、桜の名所、長命寺の裏手の隅田川沿いに、桜餅の元祖、長命寺桜もちがある。こちらの『桜もち』に、かわいらしくてどこか切ないラブストーリーを与えたのが、徳川幕府のキレ者で老中首座の阿部正弘だった。

幕末の頃、このお店の看板娘・おとよはたいそうな美貌で知られ、ひと目見たさに客が行列をなしたというほど。歌川国貞の『江戸名所百人美女』のモデルにもなったおとよに、現代の総理大臣ともいうべき阿部正弘がひと目惚れしてしまった。母のために桜もちを買いに立ち寄った時、ズキュンと胸を射抜かれたのだ。その後も足しげく通いながら、しかしなかなか声をかけることができない阿部さん。権力にモノを言わせるタイプじゃないのだ。

そんな折、徳川御三卿の一人・田安慶頼もおとよを狙っているとの噂が耳に入り、ついに心を決めた阿部さんは、おとよの父に直談判。側室に迎え入れることができた。しかしその翌年、阿部正弘は病気で急死してしまう。幕府トップと看板娘の、ほんのわずかな時間のロマンスが、この桜もちの隠れた味わいなのだろう。

■ 幕末至高の食通&スター志士の“物語グルメ”

次にご紹介するのは、JR王子駅の近くにある扇屋の『厚焼き玉子』だ。幕末の頃は江戸近郊有数の避暑地として知られた王子権現で、茶店として営業していた扇屋(現在は店頭販売のみ)を、清河八郎がベタ褒めしている。

清河は新選組結成のきっかけを作った人物で、将軍・徳川家茂が上洛する際、その警護を目的に幕府に浪士組を作らせ、ここから新選組ができた。だが、清河本人は勤王家で攘夷主義者であり、京都に到着するや否や浪士組を丸ごと反幕府の組織にしようとする。この経緯から、新選組ファンには悪役のように映る人物である。

しかしそんな清河が、お母さんを連れて「日本“ほぼ”一周旅行」をしたことはあまり知られていない。ちょっと長くなるが、おもしろいのでご紹介しよう。嘉永7年(1854)11月、江戸で念願の私塾を開いたものの、すぐに火事で焼失してしまった悲しみを癒すため、そして母親孝行のため、清河は故郷の出羽庄内清川村から、日本“ほぼ”一周の旅に出た。越後を通って信濃の善光寺から名古屋、松坂に出てお伊勢詣りをし、大坂、京を見物して兵庫から備前岡山、四国に渡り、讃岐の金毘羅さんを参って、多度津から瀬戸内海を遊覧、安芸の宮島、岩国の錦帯橋を観光して帰路についた。この旅の途中、播磨では有馬温泉につかり京では天橋立を眺め、名古屋では七代目市川海老蔵の芝居を観覧し、江戸でも芝居三昧、グルメ三昧し、清川村に帰った。全旅程、お母さんを連れて。帰りの道中も日光や中禅寺湖を楽しみつつ……。

幕末の志士は現代人には想像もつかないほど、旅また旅の人生を送った者が多かったが、清河八郎はその中でもおそらく随一のトラベラーだ。この旅の前の嘉永3年には、九州限定旅をして諸国を遊歴済みで、同5年には蝦夷地にも行っているから、まあ日本全土コンプリートしたと言っていいだろう。ともあれこの母同伴の旅の様子を、自著『西遊草』に克明につづっている。文章がとても平易なのは、母が老後の楽しみに読めるようにとの気遣いだ。どこか怖さと暗さのある「策士」のイメージが強い清河だが、親想いのこんなハートフルな一面もあったのだ。

トラベラー清河は全国のうまいものを食べ歩いた、幕末屈指の食通でもあった。『西遊草』には各地のグルメ話も満載で、王子権現のくだりに「殊に海老やと扇やは別して美々敷」と絶賛されている。江戸の町は騒々しくて何事も手狭だが、扇屋では「滝の川」の水音を枕に酒と食を楽しみ、お湯も浴び、「悠然と八ツ頃まで休游いたし」た。くつろぎすぎて日が暮れてしまい、残りの遊覧予定が忙しくなってしまった、と。

扇屋は幕末の頃から西洋人や外国公使も利用し、維新後には洋館に建て替えられてさらに賑わったが、建物は惜しくも太平洋戦争で焼失してしまった。しかしその味は、今も玉子焼きに受け継がれている。

最後は幕末最大のスター志士・坂本龍馬の“物語グルメ”だ。京急線浦賀駅からバスで「紺屋町」まで行き、そこから徒歩数分、精栄軒本店にたどり着く。ここの看板商品が坂本龍馬のカステラだ!

龍馬が結成した海援隊の雑記帳『雄魂姓名録』に、彼らのカステラレシピが載っている。曰く「玉子百目、うとん七十目、さとふ百目。此ヲ合テヤク也」。精栄軒本店の『おりょうと竜馬の愛したかすていら』は、このレシピに則って作られている。また、ふた駅隣の京急大津駅からほど近い信楽寺に、龍馬の妻・おりょうさんが眠っていることにちなんで、この商品名がつけられた。黒糖を使った独特の風味が人気の商品で、観光客や信楽寺のおりょうさんの墓参りに来たファンの定番だ。

当通信社でも、以前の記事【幕末ミステリーリサーチ File3 東京都内の坂本龍馬を探せ! #04】で、晴野未子隊員が姓名録のレシピ通りにカステラを作っていた。↓その記事はこちら

https://news.walkerplus.com/article/139035/

以上、幕末の人物ゆかりのエピソードと出来事にまつわる、幕末“物語グルメ”をご紹介しました! ゴールデンウィークに各地を訪れて、その味と物語を楽しんでみてはいかがでしょうか!

■ 今週の『西郷どんナナメ斬りッ!』

NHK大河『西郷どん』をより楽しむために! 幕末維新が大好きな俳優や声優、歴ドルたちが、毎週オンエアの翌日に、がっちり考察や幕末ウンチク、妄想トークを繰り広げる動画です。今回は大河の第15回から、島津斉彬が3000人の兵を率いて京に向かおうとするキモのくだりについて、史実を基にガッチリ“反証”! 斉彬本人の言動を史・資料を駆使して探り、彼の真意に迫ります。大河ドラマの描き方とはまた違う、斉彬のスゴさを知ってください♪(東京ウォーカー・ボクらの維新通信社2018/ロバート・ウォーターマン(KUROFUNE-United))

茨城
野外劇幕末の那珂湊、飛田与七描く ひたちなかで8月11、12日 /茨城
 ひたちなか市民らで作る「那珂湊野外劇実行委員会」(磯崎満代表)は23日、幕末の那珂湊で、鉄製の洋式大砲を造るのに必要な反射炉の建設に当たった宮大工、飛田与七を描いた演劇「鎮魂と再生そして世界へ」を8月11、12日、同市湊中央1の湊公園で上演すると発表した。

 那珂湊の反射炉は、水戸藩九代目藩主、徳川斉昭の命で1854~57年に建設されたが、64年に藩内で起きた「天狗党の乱」で破壊された。

 磯崎代表は数年前、旧湊商業学校(同市)の英語教師・関一が戦前に書いた「水戸反射炉の最後」を、遺族が持つ資料から偶然発見。劇作家の錦織伊代さんがこれを基に脚本を作った。

 磯崎代表は「市民参加型の野外劇を通して街を盛り上げたい」と意気込む。

 両日とも午後7時から。入場無料。公募で集まった小学5年~74歳の市民らも出演する。実行委は、出演者を若干名追加募集するほか、上演当日の会場の案内・警備を行うボランティア、企業や個人からの協賛金も募っている。問い合わせは同実行委のメール(nakaminatoyagaigeki@gmail.com)へ。【吉田卓矢】

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
 幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

高知
「幕末維新写真展」始まる 織田信福原版も 高知市の自由民権館
 幕末、明治の息づかいを当時の写真から伝える「幕末維新写真展」が4月28日、高知市桟橋通4丁目の市立自由民権記念館で始まった。6月24日まで。

 「志国高知 幕末維新博」の特別巡回展。浜松市の湿板写真家、林道雄さん(36)所蔵の約170点を中心に、幕末から明治初期にかけて撮影された貴重なガラス湿板写真などが展示されている。

 今回は宿毛市出身の自由民権家、織田信福(のぶよし)(1860~1926年)が写ったガラス原版(縦9センチ、横7センチ)も展示されている。...
 以下は有料にて。

佐賀
佐賀)佐賀市内を散歩感覚で 肥前さが幕末維新博覧会
 「肥前さが幕末維新博覧会」が開催中の佐賀。佐賀市内中心部、県庁や佐賀城跡近くにある「幕末維新記念館」(市村記念体育館)は、16施設ある博覧会場のメインパビリオンとなっている。

 幕末維新期、戦いに消極的だった佐賀藩は、「薩長土肥」の薩長両藩に比べ地味とされてきた。しかし、実際は西洋の反射炉の築造、実用蒸気船の建造とも国内初だ。

 記念館では、その藩主鍋島直正の思い、そして当時に居合わせたようなタイムスリップ体験を、迫力あるアニメと音響で感じることができる。

 館を出て1キロほど歩くと、古民家などが集まる柳町に着く。大隈重信ら英傑が学んだ藩校・弘道館の一端に、ミニスクリーンなどを通じて触れられる「リアル弘道館」がある。古民家を改装した近くのカフェや、和紅茶専門店でひと休みも。

 記念館を中心に半径600メートル内の街中は散歩にぴったり。鍋島家伝来品を集めた「徴古館」(松原2丁目)には、直正が見たとされる蒸気車のひながたがある。「佐賀城本丸歴史館」は幕末期の佐賀城の本丸御殿を再現。木造建築物としては国内最大級だ。有田焼を通じたオランダとの交流を伝える「オランダハウス」(旧佐賀銀行呉服町支店)もある。

 維新博事務局の企画・広報担当マネジャー、久保緑さん(49)は「肩苦しく考えず、街歩きをしにきてもらえれば」と話している。(秦忠弘)
北海道
【五稜郭祭同日開催】北海道150周年に新選組子孫が函館に集結トークショー!『HAKODATE新選組ファンミーティング』
 一般社団法人 新文化経済振興機構
土方歳三最期の地で秘蔵エピソードを大公開!◆新選組ご子孫とオフ会◆道南いさりび鉄道車内トークショー◆天然理心流演舞披露◆五稜郭コスプレ開放など開催。五稜郭祭と両方楽しめる。新選組ファン函館に集合!

 一般社団法人新文化経済振興機構(札幌市中央区)は、五稜郭商店街振興組合との共同企画で、五稜郭祭と同日の2018年5月19日20日の2日間、2年ぶりに「HAKODATE新選組ファンミーティング」を開催する。19日はGスクエア(16:00~)、20日は道南いさりび鉄道でのトークショー(10:00~)を実施。土方歳三と最後まで一緒に戦った「明治新選組」と「京都新選組」の子孫が今やファンタジーのごとくアレンジされ続ける新選組と土方歳三について、子孫のみぞ知るエピソードトークを披露してもらう。チケットぴあにて前売り券発売中!

 [画像1: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-830755-15.jpg ]

 北海道命名150周年の今年、 五稜郭祭同日5月19日20日に函館戦争を戦った「土方歳三」「中島登」の明治新選組 、「近藤勇」「井上源三郎」の京都新選組、そして北海道で晩年を過ごした「永倉新八」のご子孫が一堂に揃うトークショー開催! 様々な証言と秘蔵品から土方歳三の人物像に迫る。コスプレ参加OK!夜はオフ会も開催!

 ◆北海道命名150周年の今年、「土方歳三」「新選組」を通じて、激動の幕末を北海道視点で検証したい。
◆必殺剣術と言われている天然理心流の型が見たい!
◆五稜郭祭もトークショーも観光も全部函館を楽しみたい!
◆箱館戦争での出来事を現地で説明を受けながら見たい!
◆新選組ご子孫と一緒に飲みたい!
などなどの欲求を叶えるべく、
通常なら実現困難な楽しいイベントを企画してみました。

 1.HAKODATE新選組ファンミーティングTRIBE集結トークショー
日時:5月19日土曜日16:00~
参加費:2,500円
場所:五稜郭商店街内Gスクエア
内容:土方歳三の人物像に迫るスペシャルトークショー&天然理心流演舞
出演:新選組TRIBE5名全員出演 解説 奥平理先生
MC:佐藤はるか(FMいるか)
チケット購入:
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1818227

 2.道南いさりび鉄道車内トークショー(五稜郭⇔木古内)
日時:5月20日日曜日 10:00五稜郭駅集合13:45五稜郭駅解散※予定
参加費:5,000円(往復道南いさりび鉄道運賃込み)
場所:五稜郭⇔木古内
内容:道南いさりび鉄道に乗車し車窓の風景より箱館戦争を検証する
木古内古戦場視察時間あり
出演:新選組TRIBE5名全員出演 解説 奥平理先生
MC:佐藤はるか(FMいるか)
チケット購入:
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1818387

 3.新選組子孫とオフ会
日時:5月19日19:00~
参加費:6,000円(お食事・飲み放題込み)
場所:五稜郭商店街特設会場
内容:新選組ご子孫と一緒にお酒を飲みましょう!
出演:新選組TRIBE5名全員出演
チケット購入:
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1818393

 4.五稜郭周辺コスプレ開放
日時:5月19日10:00~17:00 5月20日10:00~16:00
参加費:1,500円
場所:シダックス五稜郭店更衣室
コスプレ可能区域:五稜郭商店街・五稜郭公園・武家屋敷・五稜郭タワー・道南いさりび鉄道 他
チケット購入:
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=1818391
※武家屋敷や五稜郭タワーなど入場料が必要になる施設の入場料金は入っておりません。
※貸し切りではありません。一般の観光客もいらっしゃいますので通行の邪魔になりませんように撮影の際は配慮をお願いいたします。

 <出演>

 ◆新選組TRIBE◆
木村千恵さん(旧姓土方)
土方歳三の兄から数えて6代目子孫。歳三の生家で生まれ育つ。土方歳三資料館開館当初より運営に携わっている。館長土方愛の姉。

 [画像2: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-646585-17.jpg ]

 [画像3: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-791526-18.jpg ]

 ◆新選組TRIBE◆
宮川清蔵さん
新選組局長、近藤勇の兄の子孫。新選組の剣術である天然理心流継承者
[画像4: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-405610-13.jpg ]

 [画像5: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-486477-19.jpg ]

 ◆新選組TRIBE◆
井上雅雄さん
新選組六番組長、井上源三郎の兄の子孫。井上源三郎資料館の館長。天然理心流道場を持つ。
[画像6: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-521785-16.jpg ]

 [画像7: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-744691-5.jpg ]

 ◆新選組TRIBE◆
中島岳大(なかじまたかひろ)さん
新選組隊士の中島登 直系・5代目。各種講演会では4代目・大成を裏方としてサポートしていた。青山学院大学経営学部卒。会社員を経て、現在は東京・日蓮宗・妙建山本立寺の副住職。戦友姿絵を遺した登とは異なり、絵を描くことは非常に苦手であるが、奇しくも2月25日、登と同じ日に誕生している。
[画像8: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-261787-1.jpg ]

 [画像9: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-606805-4.jpg ]

 ◆新選組TRIBE◆
杉村和紀さん
新選組三番組組長、永倉新八ひ孫。「永倉新八のひ孫が作った本」著者。全国の新選組イベントに出演。

 [画像10: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-272760-11.jpg ]

 [画像11: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-619939-8.jpg ]

 ◆解説
奥平 理先生
函館工業高等専門学校准教授(都市地理学)
NHK「ブラタモリ」でも函館の案内人を務めた

 ◆特別出演
ヒジカタくん
新選組副長 土方歳三に憧れるあまり
魂が同化してしまった函館の観光ガイド

 [画像12: https://prtimes.jp/i/21259/8/resize/d21259-8-181383-9.jpg ]

 Twitter
@shinsengumi_fan

 トークショーなど
19日 http://twipla.jp/events/308449
20日 http://twipla.jp/events/308450

 コスプレイベント
19日 http://twipla.jp/events/308119
20日 http://twipla.jp/events/308120

 ※今までの実績
<第0回>
日時:2014年11月29日 小樽アニメパーティー内コーナー
場所:小樽梁川商店街特設会場
テーマ:アニメ・漫画で大人気!小樽で晩年を過ごした「新選組2番組隊長永倉新八」の真実の姿とは?
出演:杉村和紀さん 世界的コスプレイヤー麗華さん
参加者:100名

 <第一回>
日時:2016年9月23日 北の賑わいオプション企画
場所:称名寺
テーマ:土方最期の土地に子孫集結!新選組の真実を語る
出演:土方愛さん 宮川清蔵さん 井上雅雄さん 杉村和紀さん 奥平理さん ヒジカタくん
参加者:150名

 【お問合せ先】
会社名:一般社団法人新文化経済振興機構(担当堀口)
電話:011-621-9595
mail:shinbunka.japan@gmail.com
hp:http://shinbunka.com

福島
特別展村人が見た戊辰戦争 きょうから福島で /福島
 今年の戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別展「村人たちの戊辰戦争」が21日、福島市春日町の県歴史資料館で始まる。戦闘の発生を警戒して築かれた陣地や防塁の絵図など、当時の村人が戊辰戦争をどう捉えていたかを伝える史料42点が並ぶ。

 奥羽越列藩同盟が会津藩を支援したため、県内でも新政府軍との戦闘の機運が高まる中、山崎村や藤田村(ともに現在の国見町)に築かれた陣地や防塁を示す「山崎村絵図」からは、戦闘を恐れた村人の様子が伝わる。

 現在の伊達市梁川町に居住していた堀江家に伝わる文書は、戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いの様子を詳しく伝える。1868(慶応4)年に梁川町で販売されていた「中外新聞」も、旧幕府軍側の視点で戦闘の行方が記され、戦争が村人の大きな関心事だったことを示す。

 戊辰戦争を控えた66年に社会変革の「世直し」を求め、信夫郡と伊達郡の農民が起こした一揆の様子を伝える「信達騒動風説記」、この一揆の参加者が作成した連判状「慶応二年寅五月廻状」なども並ぶ。

 資料館の山田英明専門学芸員は「戦闘に加わらなかった村人に注目することで、戊辰戦争を立体的に見ることができる」と話す。

 8月19日まで。無料。6月中に一部史料を入れ替える。問い合わせは資料館(024・534・9193)。【岸慶太】

長州藩士・世良修蔵の冥福祈る 福島・長楽寺、戊辰の歴史再認識
 150年前の旧暦・慶応4年閏(うるう)4月20日未明、現在の福島市で起きた長州藩士・世良修蔵の暗殺事件。東北地方に戊辰戦争の戦火が拡大する契機として戊辰戦争の歴史に深く刻まれている中、世良が斬首された場所に近い長楽寺=同市舟場町=で20日、命日に合わせた法要が約50年ぶりに行われた。

 横暴な振る舞いで悪名高い世良だが、同寺は「戊辰150年の節目に死者を等しく慰霊しよう」と法要を行った。中野重孝住職(65)が読経し、檀家(だんか)や市民ら約40人が焼香した。中野住職は「戊辰の歴史を再確認し、平和について考えて」とあいさつした。

 世良関連の史料も公開された。元々は世良が宿泊していた福島城下の旅籠「金澤屋」を営んだ斎藤家が所有していたもので、世良の密書と伝わる書簡や斎藤家宛ての手紙など約20点が並んだ。斎藤家の親類で、同寺の檀家でもある同市の男性(92)は「150年の節目に歴史をみんなに知ってもらいたい」と語った。

<戊辰戦争150年>敵恨まず平和祈る 福島で半世紀ぶりに世良修蔵供養
 戊辰戦争のさなかに福島藩(福島市)で仙台藩士らに殺害された長州藩士で奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府下(しも)参謀の世良修蔵(1835~68年)の法要が20日、斬首場所に近い福島市の長楽寺で営まれた。殺害から150年の節目に合わせ、51年前の百回忌以来の開催となった。
 世良は戊辰戦争で会津討伐を主張。「奥羽皆敵」などと記した密書が仙台藩士らに見つかり、捕らえられて、1868年閏(うるう)4月20日に殺害された。
 法要では檀家(だんか)ら約30人が本堂で焼香し、ともに殺害された部下らも含めて供養した。密書や世良の供養を求める同じ下参謀だった薩摩藩の大山格之助の書簡など関連資料も展示された。
 中野重孝住職(65)は「(奥羽越列藩同盟の)敵だとしても、恨まず等しく供養して平和を願うのが大事。悲惨な歴史の上に今日があることを感じてほしい」と話した。
 世良の遠戚に依頼されて参加した山口県下関市の伊藤涌二さん(73)は「敵だった東北でここまで手厚く供養されているとは思わなかった」と感慨深そうに語った。

「新選組」滞在の蔵座敷...当時の姿再現 白河・旧脇本陣柳屋旅館
 白河市が修復を進めてきた同市の旧脇本陣柳屋旅館蔵座敷の工事が完了した。現地で14日、記念式典が行われた。

 江戸時代の1804年に建築された蔵座敷は、戊辰戦争の際に新選組が滞在したとの記録があり、明治天皇の東北・北海道巡幸でも使用された。老朽化と震災による補修が必要だったことから、建物の寄贈を受けた市が2015(平成27)年から、修復工事を進めてきた。

 修復は、明治天皇の休憩所・宿泊所となった1881(明治14)年当時の姿を再現。約99平方メートルの土蔵造りで和室や玉座の間、庭園などがあり、つるべ井戸も残されている。資材はできる限り再利用した。

 式では、鈴木和夫市長が「街中回遊の拠点にするとともに、市民の誇りと愛着を育みたい」とあいさつ。関係者によるテープカットで待望の完成を祝った。

 一般公開も同日から始まり、無料で見学できるほか、有料で貸館も行っている。月曜休館。

大阪
大阪で、幕末・明治の町人学者の展覧会
幕末・明治の大阪で活躍した博物学者・堀田龍之助(1819~1888)。彼の業績を振り返る展覧会が、4月25日より「大阪歴史博物館」(大阪市中央区)でおこなわれます。

『水族図譜』(第一冊)より「チタヒ」 堀田龍之助編・森関山筆 明治13年 和歌山市立博物館蔵画像一覧
堀田は大阪で商家を営みながら博物学の研鑽を重ねました。若い頃には和歌山の博物学者・畔田翠山と交流し、多くの知識を身につけています。また、京都の山本読書室(平安読書室)にも出入りしており、医師で博物学者の山本榕室と情報交換や写本のやり取りをしました。明治時代になると大阪に開設された博物場に勤め、明治期の博物館建設に大きな役割を果たした田中芳男らに協力して、畔田翠山の著作『水族志』の刊行にも尽力しています。

湖魚奇観(藤井重啓撰 湖魚図証ほか貼込屏風) 六曲一双 19世紀 大阪歴史博物館蔵(堀田コレクション)画像一覧
江戸時代の大阪には木村蒹葭堂や間重富などたくさんの町人学者が現れ、「懐徳堂」や「含翠堂」などの町人学校もあちこちに建てられました。彼らの活躍は現在の大阪文化のベースとなっていますが、堀田龍之助もそうした町人学者の1人として記憶されるべき存在です。

貝類標本 19世紀 大阪市立自然史博物館蔵画像一覧
本展では、堀田が所蔵していた博物学関係の資料(堀田コレクション)約100件を通して、大阪における博物学・博物館史の一端を振り返ります。畔田翠山の『水族志』に堀田が新たに彩色図を加えて編集した『水族図譜』、琵琶湖の魚や生き物とその説明が張られた屏風(湖魚奇観)、貝類の標本など貴重な品が多数含まれており、博物学に精通していない人でも十分楽しめます。料金は大人600円、期間は6月18日まで。

文/小吹隆文(美術ライター)

高知
龍馬記念館リニューアル1年ぶり、火縄銃で祝砲
 高知県立坂本龍馬記念館(高知市)がリニューアルされ、21日、約1年ぶりにオープンした。開館に先立ち、よろいやかぶとに身を包んだ鉄砲隊が火縄銃で祝砲を放ち、尾崎正直県知事らがテープカットを行った。

 既存の施設を改修し、本格的な博物館機能を備えた新館を建設するため、昨年4月1日から休館していた。

 高松清之館長は開館に当たり「龍馬が新しい国づくりを目指して奔走したように日夜尽力する」とあいさつした。

 記念館前や近くの桂浜では、昨年からスタートした県などの観光キャンペーン「志国高知 幕末維新博」の第2幕の開幕イベントも開催。

佐賀
武雄歴史物語 戊辰戦争、武雄と秋田むすぶ兵士ら取り持つ新たな交流
 昭和61(1986)年、秋田県秋田市新屋地区の丘陵地でのこと。当時、原野であった一帯の区画整備で、一画にある無縁仏となった墓石の移転が必要になりました。そのうちの3基は「佐賀藩兵卒兵蔵之墓」「佐賀官軍 平兵エ之墓」と「肥前武雄 馬渡栄助墓」で、いずれも慶応4(1868)年に始まる戊辰戦争の折、佐賀藩から出兵し戦没した兵士の墓でした。

 東北で唯一新政府軍に着き、周辺の旧幕府軍に包囲された秋田を救うため、はるか九州から出兵し戦って死んだ彼らの魂を慰めることはできないか。地元の人々により彼らの身元調査が始まり、武雄に馬渡栄助の子孫が判明しました。

 翌年1月、3基の墓石改葬のための発掘調査が氷点下7.8度という、いてつく寒さの中で行われ、遺骨のほか、刀などの副葬品が出土しました。彼らの犠牲により秋田城下が戦禍から免れたことに感謝を込め、遺骸の頭は遠く佐賀の方角に向けて葬られていたといいます。彼らが眠っていた同じ場所に、戊辰戦争から120年の昭和63(1988)年、2度目の戊辰の年に葉隠墓苑が造成され、武雄市長、佐賀市長らも出席して盛大な式典が挙行されました。

 平成5(1993)年、東北の祭りを代表する秋田の竿燈が、武雄市と佐賀市で演じられ、空前の人波で埋め尽くされました。百数十年の時を越えて、武雄の兵士らが取り持った佐賀と秋田の新たな交流の始まりでした。

 5月12日、「竿燈まつりin武雄」が開催されます。(武雄市図書館・歴史資料館 川副 義敦)
高知)戊辰戦争従軍の土佐藩士の書状 戦地伝える
高木智也2018年4月17日03時00分
 明治新政府と旧幕府勢力による戊辰(ぼしん)戦争(1868~69)に従軍した土佐藩の郷士が記した書状など42点が新たに見つかった。県立高知城歴史博物館が発表した。渡部淳館長は「戦地での兵士の気持ちや日常生活の様子をよく表す価値ある資料」と評価している。

 同館は2017年1月から明治維新期や戊辰戦争に関する資料の提供を呼びかけており、土佐藩の郷士・住江源馬(すみえげんま)(生没年不明)が家族に宛てた書状などが同館に寄せられたという。

 書状の中には、新政府軍と旧幕府軍による白河城(福島県)を巡る戦いで、戦地に魚を売る人が登場。多少腐っていたが、戦地での物珍しさから兵士たちは魚を買っていたことが記されている。

 戦地に赴く出陣では、板垣退助が土佐藩の兵士を前に軍令を読み上げる様子も記録されている。渡部館長は「土佐藩単独ではなく新政府軍の一員として参戦するので、土佐藩の兵士の気を引き締めたのでしょう」と解説する。

 書状は同館で開催中の明治150年特別企画展「明治元年の日本と土佐~戊辰戦争それぞれの信義~」で展示されている。5月28日まで。会期中無休。入場料700円で高校生以下無料。(高木智也)

非公開文化財特別公開戊辰戦争の展示充実 京都市内19カ所、27日から /京都
 普段は見られない仏像や建物の内部を見学できる「春期京都非公開文化財特別公開」が27日、京都市内の寺社など19カ所で始まる。明治維新から150年にあたる今年は、戊辰(ぼしん)戦争関連の展示を充実させる。

 仁和寺(右京区)は、戊辰戦争時に官軍が戦場で掲げたとされる「錦の御旗(みはた)」や、征討大将軍に命じられた親王が身につけた軍服などを紹介する。

 広く一般に公開するのが初となる妙教寺(伏見区)では、本堂の柱に残る砲弾の着弾痕が当時の生々しい記録として残る。行基上人が開いた法伝寺(同)周辺は戊辰戦争の激戦地で、敷地には戦死者を供養する石碑や戦死者の名簿がある。

 このほか、京都ゆかりの日本画家・木島桜谷(このしまおうこく)が住んでいた和洋館などからなる「桜谷文庫」(北区)も見どころ。桜谷の作品や下絵のほか、伊藤若冲(じゃくちゅう)の作品を展示。壬生(みぶ)寺では若冲が奉納した狂言面「僧」を公開する。

 5月6日まで。午前9時~午後4時。拝観料は1カ所につき大人800円、中高生400円(東寺の五重塔は一部拝観料が異なる)。問い合わせは京都古文化保存協会(075・754・0120)。【菅沼舞】

【群馬】幕末の人体骨格図など60点 渋川で北橘歴史資料館新収蔵品展
 渋川市北橘歴史資料館新収蔵品展が開かれている。近年寄贈を受けたものを中心に収蔵品の一部を公開するもの。幕末から明治時代にかけて当時の渋川村で医師をしていた都丸梁香(りょうこう)の医療関係資料約20点や川島村の文書約30点など60点あまりを展示している。

 都丸の資料は「人体骨格図」や「吸入器」など。人体骨格図は掛け軸で、担当者によると、都丸が書き写した図であることをうかがわせる書き込みがあり、同様に書き込まれた干支(えと)から描いたのが慶応2(1866)年とみられるという。吸入器は明治期に使われたもの。薬剤をアルコールランプで熱して霧状の蒸気にして吸い込み、風邪など病気の予防や症状緩和のために使われた。

 川島村文書は名主を務めた家に伝えられていたもので、江戸後期の名主文書や生糸業について書かれた文書など。

 川島村文書については28日午前10~11時に解説会がある。無料だが事前の申し込みが必要。定員30人で超えた場合は抽選。19日までに電話で同館=電0279(52)2102=に申し込む。

 新収蔵品展は6月24日まで。休館日は毎週月曜日と火曜日(祝日除く)、祝日の翌日(土曜日と日曜日を除く)。入館料は大人200円、高校生・大学生100円。 (竹島勇)
幕末・維新をゆく岩倉具視幽棲旧宅=京都市左京区 先祖ゆかりの地に逃れ
 <ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>

 幕末の都は騒々しかった。幕府を助けようという「佐幕」、倒そうとする「倒幕」、天皇と幕府とを一体化させることを目指す「公武合体」など、さまざまな思惑と人が入り乱れ、時代を動かした。【山口敬人】

 では、そうした「人」の中で地元出身者はとなると、はて? 例えば「維新の十傑」--。薩摩の西郷隆盛、大久保利通(としみち)、長州の木戸孝允(たかよし)ら、京にのぼってきた雄藩の志士の名がずらりと並ぶ。ここで異彩を放つのが岩倉具視(ともみ)(1825~83)。公家の出とあれば、生まれは京都。下級貴族でありながら明治新政府の中枢を占めるまでになった傑物の面影を求め、洛北を訪ねた。


岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区岩倉上蔵町)
 京都御所から8キロほど。ここまで来ると東西に山が迫ってくる。住宅と病院に囲まれ、息を潜めるように国指定史跡「岩倉具視幽棲(ゆうせい)旧宅」(京都市左京区岩倉上蔵町)が建っていた。

 幽棲とは「俗世を避けて隠れ住むこと。また、そのすまい」(広辞苑)。公武合体を図るため皇女和宮(かずのみや)と将軍徳川家茂(いえもち)との婚姻をまとめた具視。だが、それが原因で倒幕急進派からつけ狙われ、官職を辞し、先祖ゆかりの岩倉の地に逃れた。1862~67年の5年間のこと。

 幽棲旧宅では3年を過ごした。大工の住まいを買い取った瓦ぶきの付属屋と、増築したかやぶきの母屋「鄰雲軒(りんうんけん)」からなる。母屋は六畳二間。床の間のある東の六畳間で、具視が坂本龍馬や中岡慎太郎らと会っていたというのだから、歴史好きにはたまらない。

 実際にその部屋に上がって大正ガラスの障子戸ごしに南側の庭園を眺めるのもいい。具視お手植えの松の見事な枝ぶりに、150年の時の長さを知る。庭の一角には具視の遺髪を埋葬した塚もある。


「対岳文庫」の内部。重岡伸泰学芸員が岩倉具視の人物像を語ってくれた=京都市左京区岩倉上蔵町で、山口敬人撮影
 鄰雲軒と対をなすように、洋風の登録有形文化財「対岳(たいがく)文庫」が建つ。具視の遺品類を収蔵するために1928年に建設された。維新150年を記念し、波瀾(はらん)万丈の具視の人生を描いた一代絵巻全20巻から名場面をえりすぐって4月27日から5月6日まで公開される。

 さて、幽棲旧宅で会った重岡伸泰学芸員に具視の人物像を聞いてみた。返ってきたのは「目つきが鋭く、小さな声でぼそぼそ話すことで、うさんくさいとか陰謀家とかのイメージを持たれるが、本人はそうした評判も気にしていたようだ。自信満々の人ではなく、割合気の弱い人では」。

 そんな具視役を、NHKで放映中の大河ドラマ「西郷どん」では笑福亭鶴瓶さんが務める。笑顔の裏に闇を持つ人物の演技に定評がある鶴瓶さんだけに、重岡学芸員ら関係者は「期待半分、不安半分」とか。

岩倉具視幽棲旧宅
 開館は午前9時~午後5時、水曜休館(祝日の場合は翌平日が休館)。300円(中高生200円、小学生100円)。近くには、「床みどり」などで知られる実相院、具視がしばしば参拝したという石座神社などがある。075・781・7984。
【太宰府天満宮宝物殿】明治維新150年 太宰府幕末展
 幕末期、三条実美を中心とした尊王攘夷(じょうい)派の5人の公家である五卿が太宰府天満宮に約3年間滞留したことから、太宰府に多くの志士が訪れ、新時代を見据えて談議が重ねられた。本展では西郷隆盛、高杉晋作らの手紙や、五卿の太宰府での生活を詳細に伝える記録など、維新を見届けた太宰府にまつわる資料を展示する(会期中展示替えあり)。11月25日(日)まで。大人400円、高大生200円、小中学生100円。月曜(祝日は開館)、5月7日(月)~11日(金)、7月2日(月)~6日(金)休み(臨時休館あり)。

=2018/04/16付 西日本新聞夕刊=


幕末の古地図“完全描き起こし”、ウェブメルカトルで現代によみがえる「江戸切絵図」の街並みと距離感スマホアプリ「大江戸今昔めぐり」ができるまで
 古地図と現代地図を重ねて見比べながら、スマートフォン内蔵のGPSを使って現在地が分かる“古地図アプリ”は、幅広い層に人気を呼んでいる。2017年12月にリリースされた「大江戸今昔めぐり」も、このような古地図アプリの1つだが、これにはユニークな特徴がある。それは、スマートフォン上で古地図と現代地図とを見比べるときに、地図がぴったり重なり合う点だ。

 一般的な古地図アプリの多くは、昔に作られた古地図をそのままデジタル画像化して収録しているものが多い。当然ながら古地図は距離や方角が正確ではなく、ずれが生じるためにうまく現代図と重ならない。また、古地図に描かれている文字が読みにくいこともある。

 これに対して「大江戸今昔めぐり」に収録されている古地図は、江戸末期の古地図をそのまま使うのではなく、現代の地図をもとに江戸末期の古地図を“完全描き起こし”で再現したものを収録している。地図の透過度を変えることにより、古地図と現代地図で位置がずれることなく、今と昔を見比べられる。文字も旧字が新字体に直されているので読みやすい。


「大江戸今昔めぐり」

地図の透過度を変えられる
 「江戸切絵図」のような図式で描かれた幕末の古地図でありながら、現代のスマートフォン地図として距離や方角が正しく描かれている――この不思議なデザインの古地図アプリがどのようにして生まれたのか、話を聞いた。

※「大江戸今昔めぐり」は、株式会社ジェイアール東日本企画、株式会社JAFメディアワークス、有限会社菁映社、株式会社ビーマップ、株式会社フジテレビジョンの5社からなる「大江戸今昔めぐり製作委員会」からリリースされたアプリです。

江戸の“切絵図”を現代地図に復元、制作開始は今から30年前
 この完全描き起こしの復元地図を制作したのは、中川惠司氏。雑誌「プレジデント」の表紙イラストなどを手がけたイラストレーター/デザイナーだ。地図の専門家ではなかった中川氏が、あるきっかけで古地図の復元に取り組み始めたのは、今から約30年前のことである。


中川惠司氏

雑誌「プレジデント」の表紙絵などを手がけていた中川氏
 「最初のきっかけは、江戸時代の“切絵図”を現代地図に復元しようと思ったことです。切絵図というのは厳密な測量を行って作ったものではなく、イラストのようにいい加減なものですが、そういうものではなく、本来の地理的なデータに基づいた江戸を描こうと思ったのが出発点でした。」(中川氏)

 このような考えに基づいて制作を進め、1994年に株式会社朝日新聞出版から刊行されたのが「復元・江戸情報地図」だ。A3という大きな判型で制作されたこの地図帳は、縮尺6500分の1という大縮尺で、江戸の町部だけでなく農村部も含めて、精密に描かれている。

 「大江戸今昔めぐり」に収録されている古地図は、中川氏が制作した「復元・江戸情報地図」の原画をデジタル化したものだ。


「復元・江戸情報地図」

6500分の1の大縮尺で江戸の地図を楽しめる
ベースにしたのは、明治初期~中期に作られた“比較的正確な地図”
 江戸切絵図をもとに、現代の街の区割りや道路と重なり合う地図を、広範囲にわたり新しく描き起こすという前例のない仕事に取り組んだ中川氏は、どのようにしてこの地図を制作したのだろうか。

 まず中川氏は、現代の地図から一足飛びに江戸の切絵図と結び付けようとすると違いが大きすぎるため、明治初期から中期にかけて作られた東京の地図を土台にすることにした。使用したのは、「東京五千分ノ一」(参謀本部陸軍部測量局、1883年)や、「東京実測全図五千分ノ一」(内務省地理局測量課、1885年)、「東京近傍二万分ノ一」(帝国陸地測量部、1880年)、「東京近傍一万分ノ一」(帝国陸地測量部、1909年)など。


ベースとなった明治初期の地図
 すなわち、東京の“比較的正確な地図”としては時代的に最も江戸の状態に近い明治初期~中期の地図の道や街の区割りをベースに、そこに江戸時代の資料をもとにして施設名や武家屋敷の名前などを落とし込んでいくことにしたのだ。

 ――と、簡単に説明したものの、これは実際にやってみると途方もなく手間のかかる作業である。まず、現代地図(国土地理院の2万5000分の1地形図)と照らし合わせながら明治時代の地図の道筋や街の区割りを復元するという最初のステップだけでも一苦労だった。

 「江戸切絵図ほどではありませんが、明治の地図も、現代の地図のように空撮をもとにしたものではないので、あまり正確ではありません。都市部はまだしも、農地となると道のカーブの曲がり具合が現代と重ならない部分が多いし、あぜ道ばかりなので、どの道が現代の道路になったのかを判断しにくい。また、等高線と境界線の見分けが付かないことも多い。このような場合は周囲の状況を見ながらラインを修正し、当時の状況を推測しながら整合性を付けていきました。」(中川氏)

 ときには文献を調べて道路の線を1本引くだけで数日かかることもあったという。このような気の遠くなるような作業を続けてこられたのは、なんとかして江戸時代の地図を現代によみがえらせたいと思う中川氏の熱意があったからだ。


農村部の地図
 「とにかく分からないことだらけでしたが、間違った地図は作りたくありませんでした。正確性に欠ける明治初期~中期の地図をベースに作ったという限界はあるし、細かい部分は整合性を付けようがありませんが、“大筋においては正しい”というものにしたいと思って作りました。例えば、江戸時代は村と村とで厳密な境界線を設定する必要がなかったため、文献を調べても『○○村はこの辺りにある』としか書かれていません。さらに、明治維新後の廃仏毀釈によって寺院が縮小したり、敷地の一部が学校などになったりすることもあり、位置が大幅に変わってしまったりすることも多い。そのような変遷を1つ1つ調べていくのはとても大変でした。」(中川氏)


現在の地図と明治の地図を重ねながら整合性を検討
文献資料をもとに寺社などの名称を特定、大名のプロフィールも記載
 道路や街の区割、建物の位置などを明治の地図をもとに推測した上で、次に中川氏が行ったのが、施設名や武家屋敷の名称を入れる作業である。「大江戸今昔めぐり」アプリを見ると、市街地の地図では役職名や氏名、字(あざ)、出身地などが細かく記載されており、まるで現代の住宅地図のようだ。記載する文字についても、旧字ではなく新字体を使用しているため、誰でも簡単に読み取ることができる。さらに、中川氏の計算に基づく“石高”も記されている。


大名の名前や石高などが細かく記載されている

農村部の地図。寺社名まで細かく記載されている。
 「大名の名前や役職名、石高については、全二十数巻に及ぶ『江戸城下変遷絵図集』(原書房、1987年)をもとにしました。この資料には、文政から天保にかけての市街地の区割りが載っていて、切絵図に書かれている人物が、それぞれどのような身分の人なのかというデータも掲載されています。もちろんこの資料も、道路の距離や区画の広さはかなりいい加減ですが、屋敷の配置などはしっかりと残っているので、江戸の中心部についてはこの資料がとても参考になりました。」(中川氏)


「江戸城下変遷絵図集」
 一方、農村部については明治の地図と照らし合わせながら、神社や寺院の記号がある場合はその名称などについて調べた。

 「農村部については、とにかく手がかりは村名しかありません。例えば稲荷神社であれば、全国の稲荷神社だけを集めたリストなどを見て、『○○郡○○村のこの辺りに神社があった』という文献を探します。神社だけでなく、お寺についても日本全国の寺を集めた文献があるので、その資料の中から目的の村を探し当てることで、初めて地図の上に寺社名を記すことができるわけです。1つの寺を調べるために国会図書館に行って、丸一日かけたこともありました。目当ての寺社を文献の中に見つけることができたときは『やった!』と声が出てしまうほどうれしかった。とにかく何を調べるにしても手間と時間がかかるので、本気で取り組んだら一生仕事だと言えますし、本当にこの古地図作りは面白かったですね。」(中川氏)

 寺社について参考にした文献は、「日本寺社大観」(名著刊行会、1970年)や、「寺社書上」(寺社奉行編、文政12年)など。このほか、江戸・東京に関する資料として、「角川 日本地名大辞典 東京都」(角川書店、1978年)や「江戸幕府・旗本人名事典」(原書房、1990年)、「江戸名所図会」(角川書店、1965年)、「江戸学事典」(弘文堂、1984年)など、挙げればきりがない。

 さらに、「豊島区史地図編」(豊島区史編纂委員会編、1974年)や、「地図で見る新宿区の移り変わり」(東京都新宿区教育委員会編、1982~1985年)、「墨田の地図」(墨田区立緑図書館、1979~1986年)、「港区の歴史」(名著出版、1979年)など、地域の文献も細かく調べている。


書棚に大量の資料が並ぶ中川氏の仕事部屋
 これまでの地図制作について振り返ると、道路の位置や区割を検証するよりも、どこに何の施設があったのかという、施設名称を書き入れていく作業のほうが大変だったという。

 このように、気の遠くなるような文献調査を経て長い年月をかけて中川氏が描き起こした「復元・江戸情報地図」の原画は、畳3畳ほどの大きさになった。


「復元・江戸情報地図」に書き込まれた修正情報
歪みを補正、図法をウェブメルカトルに、POI情報も追加
 「大江戸今昔めぐり」で古地図と現代地図とをきれいに重ね合わせて見比べられるのは、このようにして制作された「復元・江戸情報地図」の原画を使用しているからなのだが、実はこれをデジタル化したのは「大江戸今昔めぐり」アプリが最初ではない。「江戸東京重ね地図」というWindows用ソフトが2002年に発売されている。同ソフトでは、「大江戸今昔めぐり」アプリと同様に、幕末の江戸の地図と現代の東京の地図を重ねて、地図の透過度を調節しながら見比べられる。その後、これに明治の地図を加えた「江戸明治東京重ね地図」も発売された。

 「江戸東京重ね地図」および「江戸明治東京重ね地図」も一応、現代の地図が重なるように、区画の長さや施設の位置などがある程度、正確に制作されていたものの、ベースにした現代の地図があまり正確なものではなかったため、位置情報の精度は低いものだった。


Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」
 これに対して今回リリースしたアプリ「大江戸今昔めぐり」では、地図の歪みの補正など改良が加えられている。具体的には、Google マップ上で位置情報が合致するように、図法をウェブメルカトルに変換するとともに、きちんとした経緯度情報を持たせている。地図データの整備を担当した有限会社菁映社の取締役社長・籏禮直喜氏によると、これはかなり手間のかかる作業だったという。

 「『江戸東京重ね地図』のときに整備した江戸地図は、25年以上前の紙媒体の現代地図をもとに作られたので、国土地理院の地形図やGoogle マップなどの正確な地図に合わせようとしても難しいのです。そこで、いくつかのブロックをIllustratorでつなぎ合わせて1枚の大きなデータにした上で、歪みを補正していきました。また、『江戸東京重ね地図』のブロック分けは地図帳の各ページに合わせたものでしたが、今回は全体を国土地理院の地図をベースに分割し直したので、この作業にも多くの時間を費やしました。」(籏禮氏)


Illustrator上で1枚の大きな地図を作成

開発中の様子
 このほか、それぞれの屋敷の坪数の情報など新しい情報が加えられた。アプリの制作担当者であり、大江戸今昔めぐり製作委員会メンバーである株式会社ビーマップの開元聡氏(事業推進本部・ナビゲーション事業部)によると、POI情報の解説もこだわったという。

 「例えば寺社については、都内の寺社情報を集めたサイト『猫の足あと』というサイトのデータを収録しており、寺社名だけでなく宗派なども記載しています。さらに、『江戸名所百景』の情報や画像なども収録しています。」(開元氏)


区画ごとに坪数が記載されている

寺社情報サイト「猫の足あと」のデータを収録

「江戸名所百景」の情報を収録
最新アップデートで、地図の掲載範囲を東京23区に拡大
 さらに、今年2月末に行われたアップデートにより、掲載エリアも現在の23区内全域に広げた。Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」や、リリース当初の「大江戸今昔めぐり」では、カバーエリアは東京の中心部の「御府内」と言われる範囲だけだったが、アップデート後は掲載範囲が大幅に広がることになる。なお、今回のアップデートで追加した御府内の外の地図については、中川氏に改めて原画制作を依頼したという。

 「菁映社が国土地理院の地形図と明治の地図を同じ範囲に切り分けてプリントし、中川さんが作業する下図として用意しました。この下図に中川さんが手書きで情報を書き込み、その後、菁映社がデジタル化しました。さらに、一部のエリアについては同時進行で菁映社で地図を整備した部分があり、こちらについては中川さんの監修を受けています。」(籏禮氏)


Windows用ソフト「江戸東京重ね地図」の掲載エリア。赤線(朱引き)で囲まれた「御府内」と言われるエリアに近い範囲に限られていた

「大江戸今昔めぐり」アップデート後のカバーエリア
 「復元・江戸情報地図」が刊行されてからすでに20年以上が過ぎたいま、最新のスマホアプリとしてよみがえった中川氏の復元地図。しかも、新たに掲載範囲を大きく広げたというのは驚きだ。

 「江戸時代の地図と現代の地図を重ねて見比べることができるので、これを見ると、はるか自分たちの先祖の生活が見えてとても面白い。このアプリを通して東京の変遷を知ることで、こんなに面白い街はなかなかないということを知っていただけるとうれしい。」(中川氏)

 なお、今回のアップデートにともなって、「大江戸今昔めぐり」に収録されている地図データは、APIの形式でも提供されることになった。このAPIを利用すれば、他のアプリからも中川氏による復元地図を利用できるようになる。また、開元氏によると、自治体の郷土資料館など、一部エリアをオフラインデータとしてライセンス提供することも検討しているという。中川氏のライフワークである江戸の復元地図が今後、アプリやAPIの形態でどのように広がっていくのか楽しみだ。


透過度を変えて現代地図と比較できる古地図をAPIで提供することも検討

中川氏の復元地図作成はこれからも続く
本連載「地図とデザイン」では、INTERNET Watchの長寿連載「趣味のインターネット地図ウォッチ」からの派生シリーズとして、地図の図式や表現、地図のグラフィックデザイン/UIデザイン、デジタルによる新たな地図デザインの可能性……等々、「地図とデザイン」をテーマにした記事を不定期掲載でお届けしています。

片岡 義明

フリーランスライター。ITの中でも特に地図や位置情報に関することを中心テーマとして取り組んでおり、インターネットの地図サイトから測位システム、ナビゲーションデバイス、法人向け地図ソリューション、紙地図、オープンデータなど幅広い地図・位置情報関連トピックを追っている。測量士。インプレスR&Dから書籍「こんなにスゴイ!地図作りの現場」、共著書「位置情報ビッグデータ」「アイデアソンとハッカソンで未来をつくろう」が発売。
先週外出した時に転んで左手の平に大きな青あざをつくってしまいました。まだ握力が戻っておらず、右手首骨折から回復したばかりの右手よりも握力が落ちている状態。またペットボトルで飲み物を購入した時は店員さんに開けてもらう日々に戻りました、くすん。まぁ骨や腱に異常はなさそうなので、一週間もすれば軽くなると思います。

「戊辰」事業4月1日から本格化 式典やクイズラリー
 戊辰150年の記念事業は4月1日から会津若松市内で本格化する。市戊辰150周年記念事業実行委員会は同日、鶴ケ城天守閣前でオープニングセレモニーを催すほか、クイズラリーなどをスタートし、市を挙げて観光誘客に取り組む。
 セレモニーでは実行委員会長の室井照平市長らがテープカットし記念事業の幕開けを宣言する。クイズラリーは県立博物館、白虎隊記念館などの観光名所10カ所を巡ると、正解数に応じて抽選で温泉宿泊券などが当たる。
 さらに、スマートフォンなどで利用できるアプリケーション(アプリ)「AR幕末の会津若松」の機能を拡充する。現実の風景に架空の物体を重ねて映し出す拡張現実(AR)を活用し、幕末に京都守護職を務めた会津藩主松平容保公らを模したアニメキャラクターが音声と文章で観光地を紹介する。各キャラクターと記念撮影ができる場所を5カ所から18カ所に増やし、動画撮影にも対応する。
 鶴ケ城天守閣では幕末の息吹を伝える収蔵品展が始まる。会津若松観光ビューローの主催。「松平容保と京都守護職」と題し、京都での動乱を巡る資料を展示する。
 5月19日は会津大で奥羽越列藩同盟と会津をテーマにした歴史シンポジウムを催す。歴史コメンテーターや仙台、米沢、長岡、鶴岡の歴史関係者らを招く予定だ。7月28、29の両日には白虎隊士飯沼貞吉に焦点を当てた「オペラ白虎」を上演する。会津まつりが開幕する9月22日は記念式典を実施する。

(2018/03/30 12:19)

「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
佐倉藩・二大噺~<義民>佐倉惣五郎と幕末の老中・堀田正睦~謎多き「直訴の農民」と開国にほんろうされた幕閣
高崎 哲郎
<義民>の実像
私は柏市に移り住んで以降、千葉県が生んだ古今の歴史上の人物に関心を持ち、その生き様を確認する旅を続けている。<義民>佐倉惣五郎はその中の一人であった。成田市、佐倉市などのゆかりの地を訪ね文献にもあたってきた。藩主堀田氏(佐倉藩)の圧政に抗議し将軍に直訴して妻子もろとも処刑にされ怨霊となった惣五郎。正義・人道のために一身をささげる<義民>の姿が歌舞伎・講談・浪曲の一大ヒットとなり民衆のヒーローとなった惣五郎。だが史実となると、確認できる文献は少なく、存在否定説も含めて諸説紛々としているのだ。将軍への直訴や処刑後怨霊になったとの説話は、実は惣五郎の死後ほぼ2世紀も経った江戸後期に創作されたものなのである。そこで『佐倉惣五郎』(児玉幸多)や「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)などを参考にして<義民>の実像と虚像に迫ってみたい。

佐倉惣五郎(生年不明 ― 承応2年8月3日・西暦1653年9月24日没)は、佐倉城下の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現成田市台方)の名主だったようである。姓は木内氏、俗称は宗吾や惣吾とされる。堀田氏時代の公津村名寄帳(なよせちょう、土地台帳)によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認されている。

惣五郎の処刑後半世紀ほど経った正徳5年(1715)に編まれた「総葉概録」(堀田氏の後を受けた佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、(1)堀田藩主時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと(2)「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと(3)藩主堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟(たた)りとみなされたこと(4)祟りをおさめるため「惣五宮」という祠(ほこら)が藩によって建てられたことが記されている。が、惣五郎が農民の窮状を憂えて将軍に直訴したことを裏付ける史料は確認されていない。

惣五郎の直訴・処刑の背景についても、藩による過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの説が挙げられている。承応2年(1653)に行われた公津村の分村(台方村など5カ村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加が確認されており、惣五郎が抗議に立ち上がったとの推論もある。名主惣五郎を中心とした反藩主闘争があったことは否定しえないようである。

歌舞伎の大当たり、<義民>像の定着
惣五郎の義民伝承は、江戸時代後期以後成立した「地蔵堂通夜物語」や「堀田騒動記」などの実録本、講談「佐倉義民伝」にうかがえる。これらの作品は虚構であるため矛盾が目立ち、時代や事実に反する記述も少なくない。共通する点は(1)藩主・堀田正信が新たに重税を取り立てたことから、領民の暮らしは極度に困窮した(2)領内の名主らは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた(3)やむなく、惣五郎がひとりで将軍に駕籠訴を行った。「地蔵堂通夜物語」では承応2年(1653)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴したとしている。「堀田騒動記」では正保元年(1644)とされており、将軍は三代徳川家光にあたる。(4)直訴の結果、訴えは聞き届けられ佐倉藩の領民は救われた。だが惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男の子ども4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、同寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、それが寺地内にある「宗吾様御廟」であるという。

延享3年(1746)、新たな佐倉藩主として堀田正亮(まさすけ)が入封した(惣五郎が訴え出た正信の弟である正盛の子孫)。宝暦2年(1752)、正亮は惣五郎親子の百回忌の年であるとして、将門山(現千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀る「口の明神」を造営し、「涼風道閑居士」の法号を与えて以後春秋に盛大な祭典を行うようになった。寛政3年(1791)には藩主堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り石塔一基を寄進した。藩主堀田家が惣五郎を公認したことで、江戸後期以降<義民>惣五郎の姿が明確化される。東勝寺は明治期に惣五郎の霊(本尊)を祀る宗吾霊堂を建てた。

実録本「地蔵堂通夜物語」や「佐倉義民伝」を素材とした最初の脚本化は、幕末の天保4年(1851)三世瀬川如皐による歌舞伎狂言「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」(中村座初演)である。作品では舞台を室町時代に設定し、主人公の名を「浅倉当吾」としている。この作は歌舞伎史上はじめて農民一揆を扱った戯曲で、大当たりをとり以後<義民物>と呼ばれる出し物の嚆矢(こうし)となった。明治後期以後は役名を実名どおりにして上演され、演題も「佐倉義民伝」で定着することになった。 芝居や講談などに取り上げられたことで、惣五郎は一躍<義民>として全国に知られるようになった。人気演目となったのである。明治以降、社会運動家や思想家は社会改革運動の先駆者として惣五郎を称揚した。思想家福澤諭吉もその一人で「古来唯一の忠臣義士」として賞賛している。自由民権運動家たちも惣五郎に民権運動の先覚者の姿を見たのであった。
改革を進める開明的藩主
「海闊(ひろ)く天高し其(そ)れ器宇」
幕末の老中・佐倉藩主堀田正睦の書である。世界の大勢に通じ西洋文明の導入を説いた正睦の気迫がうかがえる。江戸幕府親藩・佐倉藩の領主であった堀田家は最初の領主になった正信系を「前の堀田」と呼び、江戸中期以降の正俊系を「後の堀田」と呼んだ。正睦は「後の堀田」系である。正睦は文化7年(1810)に生まれた。父は、正俊から数えて7代目の藩主正時である。正睦は16歳で藩主になった。藩内には、佐倉藩親戚筋の下野国(現栃木県)佐野藩主正敦の子を推す意見もあった。正睦の賢明さを知る上級藩士らは若い藩主を歓迎し藩内にしこりは残らなかった。

江戸時代も後期に入ると、各藩とも財政に苦しむようになった。佐倉藩も例外ではなかった。窮乏にあえぐ藩士の中には武芸を怠り、風紀の乱れた生活を送る者も出てきた。一方、藩の財政を握る上級藩士の中にはぜいたくな暮らしをする者もいて、藩内の秩序は乱れていた。正睦は藩政立て直しに立ち上がり、佐倉藩独自の天保改革を実施した。この改革は倹約一辺倒ではなく、学問・武術を高めることも目的としていた。庶民の生活の苦しさをしのぐため藩から一時金の貸し出しを行った。その一方で、学問・武芸を修めなかった者が家を継ぐ時には家禄を割り引くという厳しい措置をとった。その結果、武士たちは文武に励むようになった。

正睦は改革の一環として高等教育充実させた。佐倉藩藩校は寛政4年(1792)の「佐倉学問所」に始まる。その後「温故堂」と改称された。儒教中心の小規模なものにすぎなかった。正睦は兵学・医学・洋学(蘭学・英学)をはじめ様々な武芸を学べる先進的学校として「成徳書院」を天保6年(1835)開校した。成徳書院の充実により佐倉は「南関東の学都」と呼ばれるようになった。江戸の著名な蘭学医・佐藤泰然は正睦の招きで佐倉に移り、医学教授とともに病院を開いた。佐倉順天堂の始まりである。特筆すべき医学上の成果として、天然痘で亡くなる患者を救う種痘の実施がある。近代的な予防医学の先駆けである。

貧しい農家で生まれた子を間引して人手を減らさせてはならないと、正睦自らが書いて農村に示した「子育教諭直書(こそだてきょうゆじきしょ)」には、貧困にあえいでも嬰児を殺すことは神や仏が深く憎むことであり、天罰を受けることは必定であると諭した。人口を増やす政策の一環として「陰徳講」という制度を作り、藩や裕福層の者が子育てのための補助金を出すようにさせた。正睦は、学問を愛し、西洋文化を積極的に取り入れる藩主であった。鎖国の幕末にあっては数少ない開明的名君である。
反対派を抑え、開国を目指した老中
正睦が最初に幕府の役職に就いたのが、文政12年(1829)で20歳の時であった。この時の奏者番(大名らを将軍に取り次ぐ役)からその後寺社奉行に昇進し、大坂城代から西の丸老中へと着実に幕府内で出世していった。天保12年(1841)、6人の老中の1人となる。幕政の中心にあった老中水野忠邦が正睦の佐倉藩での改革の成功やそれまでの幕府内での仕事ぶりを評価して登用した。水野の後を受けた老中は阿部正弘(福山藩主)であった。嘉永6年(1853)、提督ペリーが率いる東インド艦隊が浦賀(現神奈川県横須賀市)沖に現われ幕府に開国を迫った。アメリカ側の要求を断れば、戦争を仕掛けられる心配があり、戦争となれば敗北することも見えていた。

長く鎖国を続けてきた日本では開国反対が多数派であった。だが正睦は、日本が欧米列強に比べて軍事力で劣っていることを指摘し、開国した上で外国との貿易も行った方がよいとの意見を出した。幕府は最終決断をまとめきれず、朝廷にも事の次第を報告した。幕府の無力を示す結果となった。結局翌年、幕府は下田(現静岡県下田)、箱館(現北海道函館)の港を開く日米和親条約を締結することになった。

安政2年(1855)、正睦は阿部正弘から推されて再度老中となった。正睦は先進的な考え方の持ち主であり、性格は「善良無我」と評される温和な人柄であった。「内憂外患」の時世を乗り切れるのは正睦しかいないと期待されての再任であった。正睦は46歳で、当時では隠居してもおかしくない年齢であった。政治の表舞台に登場した。事態は、日米修好通商条約を要求するアメリカの初代駐日総領事ハリスの強硬な姿勢でますます困難になって行った。正睦は開国した上で富国強兵を推進する考えであったが、国内では世界情勢を知らずに鎖国・攘夷を叫ぶ声が強かった。

条約問題とともに、国内では病弱な13代将軍家定の跡継ぎを巡って意見が二つに分かれた。一人は紀州(現和歌山県)藩主徳川慶福(よしとみ、後の家茂)、もう一人は水戸(現茨城県)藩主・徳川斉昭の子で一橋家を継いだ一橋慶喜であった。血筋から言えば慶福が将軍に近かったが、10歳代前半なので政権を担うのは無理とされた。正睦は成人に達し聡明と評判の高い慶喜を推した。

外交・将軍の跡継ぎという2つの難題を抱え、正睦はまず条約を結ぶことに全力を注いだ。国内の強い反対を抑えるために朝廷の許しを得ようとして京都まで足を運んだ。朝廷の理解を得られず江戸に帰らざるを得なかった。その後、朝廷の許可なく条約を調印した責任を取る形で正睦は老中を辞めさせられた。

その直前に、大老となった井伊直弼は将軍の跡継ぎを慶福(14代家茂)に決めた。実権を握った井伊直弼は反対派の弾圧に乗り出し、50人以上の志士らを処刑した。安政の大獄である。正睦は将軍の跡継ぎ問題で対立したことから佐倉での隠居を命じられた。直弼は2年後に桜田門外で水戸藩浪士らに暗殺された。正睦は病気がちとなり元治元年(1864)、55歳で他界した。墓は佐倉市最上町の甚大寺にある。

参考文献:「佐倉惣五郎」(児玉幸多)、「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)、「堀田正睦と幕末の政局」(佐倉城研究会)、筑波大学附属図書館資料

(つづく)
<戊辰戦争150年>慰霊祭開催など事業計画を決定 仙台藩志会総会
 仙台藩士の子孫らでつくる仙台藩志会は8日、仙台市青葉区のホテルで本年度の総会を開いた。約100人が出席し、10月に戊辰戦争150年を記念して戦没者慰霊祭を開催するなど事業計画を決めた。
 戊辰戦争関連として、会津若松市で9月に開かれる会津まつりのメイン行事「藩公行列」に、奥羽越列藩同盟の参加藩である仙台を代表して藩志会が初めて加わることを報告した。
 4代藩主伊達綱村の300回忌に合わせた講演会を6月に開く方針も示した。
 伊達宗行会長は「戊辰150年、綱村公300回忌という二つの節目の年にどう行動するか、よく議論しよう」とあいさつ。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「仙台の発展のために心血を注いだ先人に感謝する1年としたい」と述べた。
<戊辰戦争150年>会津出身・陸軍大将が極貧しのいだ食を再現
 戊辰戦争に敗れ会津から青森県の下北半島に移住させられ、後に陸軍大将になった柴(しば)五郎(1860~1945年)の下北での極貧時代の食卓を再現するイベントが8日、むつ市であった。
 約25人が参加。料理研究家の坂本謙二さんが「ある明治人の記録」(中公新書)に書かれた「オシメ」というおかゆのような食べ物を再現した。
 ワラビとゼンマイを数センチほどに切り、コンブのような海藻のツルアラメを砕いてどろどろになるまで火を通し、交ぜ合わせて作った。参加者らは「思ったよりはいける」「毎日は食べられない」などと感想を述べ、当時の暮らしに思いをはせた。
 参加した大平小5年の井本結月さん(10)は「微妙な味だった。よく食べられたものだと感心した」と話した。
 イベントは、戊辰戦争から150年の節目に合わせ、市の任意団体「ディスカバリーむつプロジェクト」が主催した。
武家装束で和歌 戊辰戦争敵味方の子孫初の顔合わせ 鹿児島
 曲がりくねった水流沿いに並び、和歌を詠む「曲水の宴」が8日、鹿児島市の仙巌(せんがん)園であった。明治維新150年に当たる今年は、戊辰戦争で敵味方に分かれた薩摩藩島津家と徳川本家、会津藩松平家、庄内藩酒井家(山形県)の子孫が初めて一堂に会し、武家装束で和歌をしたためた。
 島津家32代嫡男の島津忠裕さん(45)、徳川家18代嫡男の徳川家広さん(53)、会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)、庄内酒井家18代嫡男の酒井忠順さん(43)ら8人が参加した。和歌のテーマは「語(かたる、ご)」。島津さんは「新しき御世を開きし御祖らの 語るを聞きて未来を築かむ」、松平さんは「150年義の勲しを語り来て 明き未来を祈るこの春」と詠んだ。
 大勢の観光客や市民らが訪れ、雅楽が鳴り響く優雅な雰囲気に魅了されていた。(南日本新聞社提供)
戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。
福島)戊辰150年 長岡と会津若松の図書館が連携企画
戊辰(ぼしん)戦争で越後・長岡藩は、侵攻する新政府軍(西軍)に対し、軍事総督河井継之助(つぎのすけ)を中心に奮闘。長岡城落城後、藩士や家族は会津藩領に逃れ、一部は鶴ケ城の攻防戦に加わった。それから150年。両藩の城下町、新潟県長岡市と福島県会津若松市の市立図書館で、「河井継之助がつなぐ長岡と会津若松」と題した共同企画展が始まった。相互に関連図書を紹介し、観光情報をPRしようという取り組みだ。

 4月1日から始まった長岡市立中央図書館の展示では、企画名が大きく書かれたパネルの下で、星亮一著「会津藩斗南へ」、野口信一著「会津えりすぐりの歴史」など約90冊が紹介され、貸し出しに供されている。書棚の脇に会津若松市の観光案内や「戊辰150周年記念事業」のパンフレットが置かれていた。

 会津図書館の展示は3月31日に始まった。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長の数々の著作のほか、救援米を学校建設に充てた「米百俵」で知られる長岡藩士小林虎三郎や、長岡出身の山本五十六・連合艦隊司令長官関連の書籍など100冊余りが並ぶ。

 書籍に加えて、会津で亡くなった長岡藩士を悼む本光寺の「殉節の碑」や、長岡で重傷を負い、福島県只見町で没した河井継之助の遺骨が一時埋葬された建福寺など、会津若松市内の関連スポットを示す写真や地図も掲げられた。

 今回の企画は、会津図書館が長岡市立中央図書館に呼びかけて実現した。

 会津図書館では一昨年、戊辰戦争後に元藩士らが移住した北海道余市町と、同様の共同企画を初めて実施。昨年は初代藩主保科正之が若き日々を過ごした長野県伊那市と行った。

 「戊辰150周年の記念の年は、ゆかりのある長岡市と一緒にやりたいと考えた」と司書の成田陽子さん。会津若松市の室井照平市長は昨年11月、長岡市を訪問し、磯田達伸市長との会談で交流の促進を確認していた。

 長岡市立中央図書館にとって、このような共同企画は初めてだったが、「先人たちの歩みに思いを巡らす良い機会」(山田あゆみ館長)と快諾。それぞれの所蔵図書から展示する本を選び、観光パンフレットなど配布資料を相互に送って準備を進めた。

 展示期間は長岡市立中央図書館が5月30日まで、会津図書館が5月29日まで。会津図書館の成田さんは「この展示をきっかけに、多くの人に長岡市に行っていただければ、と思っている」と話していた。(戸松康雄)
戊辰150年 激動期の相馬題材に歴史講演会 4月28日相馬
 相馬地方の幕末と戊辰戦争をテーマにした歴史講演会は4月28日午後1時から相馬市民会館で開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、相馬郷土研究会が共催し、市教委が後援する。戊辰戦争や明治改元から150年の節目に合わせ、地元の研究者が当時の資料を読み解きながら、激動期の様子を説明する。
 講師は相馬郷土研究会代表で南相馬市文化財保護審議会委員の藤原一良氏と、相馬美術倶楽部会長の斎藤重信氏が務める。
 藤原氏は「中村藩の幕末と戊辰戦争をふりかえる」、斎藤氏は「明治戊辰軍功賞について」の演題を予定している。
 福島民報社は明治時代の紙面、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流局 出前講座係へ。ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、申し込みの先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
(2018/04/06 11:01)
<仙台市博物館>戊辰戦争の資料展示 設備改修終え3ヵ月ぶり再開
 老朽設備改修のため休館していた仙台市博物館(青葉区)が、3カ月ぶりに再開した。館蔵品約1000点による「旬の常設展2018春」で、幕末の仙台藩の動向を伝える「戊辰戦争150年」コーナーが設けられている。
 戊辰戦争関連資料は14点。1853年のペリー来航を報じる瓦版をはじめ、外国への対応策を尋ねる幕府に対し「武備が整うまで2、3年は穏便な措置」を具申する仙台藩主伊達慶邦の意見書控えなどが並ぶ。
 諸藩に先駆けて建造した洋式軍艦「開成丸」の威容を伝える版画や模型、西洋銃術の導入を図る慶邦の申渡書もある。
 同館は10月から特別展「戊辰戦争150年」を開催する。担当者は「今回の常設展は開国を巡って藩内の対立が激化する以前の資料を集めた。季節ごとに展示を入れ替えるので、ぜひ順にたどって見学してほしい」と呼び掛ける。
 旬の常設展は6月10日まで。入場料は一般460円、高校生230円、小中学生110円。連絡先は同館022(225)3074。
戊辰150年ラッピングバス、白河で運行開始、機運盛り上げ
 白河市は3日までに、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスの運行を開始した。

 市がジェイアールバス関東などに運営を委託する市循環バスの中型車両など計6台にラッピングを施し、「甦る『仁』のこころ 白河戊辰戦争」のキャッチフレーズのほか、陣羽織と西軍が恐れたとされ、遊撃を得意とする「十六ささげ隊」のロゴマークを入れた。

 記念式典が同市のJR白河駅前で行われた。鈴木和夫市長や白河戊辰戦争150周年記念事業実行委員会の人見光太郎会長らがテープカットに臨んだ。  鈴木市長は「白河には戊辰戦争の足跡が残っている。歴史的意義を多くの人に知ってほしい」と述べた。



「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
幕末の漢文聖書に感動 出版元の香港関係者が来日 京都・円光寺
 京都市左京区の真宗大谷派・円光寺で約160年前の漢文の聖書「代表訳本」が見つかったことを受け、香港から出版元の関係者が同寺を訪れた。歴史的にも貴重とされる聖書を感動した様子で確認していた。

 来日したのは、香港の中学校、香港英華書院の鄭鈞傑校長ら4人。同校では、1860年代まで、宣教師の養成やキリスト教の普及のため、学内の印刷所で漢文の聖書などの出版物を発行していた。

 聖書は昨年6月に円光寺で見つかった。幕末に12代住職で同派の学僧だった樋口龍温(1800~85年)が、キリスト教研究のために入手したとみられる。旧約、新約が合冊され、旧約部分は初版本にあたり、世界的にも貴重な一冊だという。表紙には、出版年の1855年を指す清時代の元号「感豊五年」や「香港英華書院印刷」の印字がある。

 報道で発見を知った香港英華書院が訪問を希望し実現。3月末に訪れた鄭校長らは、目の前で木箱から出された聖書が披露されると、真剣な表情でページをめくりながら内容を確認したり写真に収めたりしていた。

 同校の資料館に保管されている聖書十数点は重版のものばかり。鄭校長は「初版の代表訳本を目にしたのは初めて。非常に感動している。(当校が)西洋以外に日本とも文化交流を深めていたのだと知り、うれしい」と話した。
幕末製造の洋式銃など40丁見つかる 堺の鍛治屋敷から
 全長2メートル超の火縄銃や西洋の技術を模索して製造した洋式銃など計40丁が、堺市に現存する鉄砲鍛冶(かじ)屋敷から見つかった。うち7丁は江戸末期の製造と特定された。鉄砲専門家らは、外国船来航に備えて堺の鉄砲生産が幕末にも増えたとする資料を裏付けるとともに、激動の時代の息づかいを感じられる貴重な資料としている。

 この建物は鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、市の指定文化財。井上家は江戸前期に堺に定着し、主屋も江戸時代初めに建てられた。明治末ごろまで鉄砲を生産していた。

 2014年に屋敷の蔵などから大量の古文書が見つかり、市と関西大が共同研究を開始。ペリー来航直後の1855年に海岸防備のため大筒を幕府側に上納した記録など、鉄砲づくりが江戸中期以降衰退したという通説を覆す記述も見つかった。さらにその過程で40丁の銃を確認。年代の特定を進め、府教委へ古式銃の登録をしてきた。

 26丁は火縄銃。「摂刕住(せっしゅうじゅう)井上関右衛門作」という銘文と花押(サイン)のある全長2メートル超のものや、乗馬で使う馬上筒(全長48センチ)も複数確認された。洋式銃は、弾を装塡(そうてん)する際レバーを引くボルトアクション式(141センチ)など14丁。

 40丁のうち製造年代が特定されたのは7丁で、いずれも幕末のもの。上下2連ピストル(29センチ)は、西洋の近代技術を基に幕末の1863年ごろ製造されたことがわかった。これらの銃は、屋敷から見つかった記録を裏付けるとともに、幕末に鉄砲鍛冶も敏感に時代に反応していたことをうかがわせるという。

 屋敷には16代目の井上修一さん(74)が暮らしていたが、3月に主屋と座敷棟、23丁の銃を堺市に寄贈した。市は銃を博物館で保管し、年代の特定など研究をさらに進める。井上さんは「鉄砲は関右衛門が気持ちをこめてつくったもの。屋敷とともに、個人で持ち続けるよりも市に保存継承してもらい、市民の財産として使ってほしい」と話している。(村上潤治)

     ◇

 古式銃研究家の沢田平・堺鉄砲研究会長の話 太平洋戦争で軍刀にするため火縄銃などの古式銃はスクラップにされて日本刀と比べ残っている数は極端に少ない。鉄砲鍛冶の歴史が終わり、100年以上経つ中で40丁の古式銃が1カ所で見つかるのは極めて珍しい。日本の火縄銃は世界で最も完成度が高い。技術の結晶として残った古式銃を堺市は早く展示してほしい。

     ◇

 〈堺と鉄砲〉 鉄砲は1543年に種子島に伝来したとされ、金属加工の伝統があった堺は生産現場として発展。ピーク時には約140人の職人がいた。堺の銃は1575年の長篠の戦いで使われ、大坂の陣で徳川方に供給された功績から江戸幕府が一定数を堺に注文した。国友(滋賀県長浜市)や根来(和歌山県岩出市)も生産地として知られる。
幕末明治の写真をデジタル再生 文書資料補う鮮明さ ガラスネガから270点
 昔も今も、歴史学で重視されるのは文書資料だ。しかし近世末期以降は、写真も重要な資料になり得る。そのことを改めて感じさせる大著が刊行された。『高精細画像で甦る 150年前の幕末・明治初期日本 ブルガー&モーザーのガラス原板写真コレクション』(洋泉社)だ。

 東京大史料編纂所の「古写真研究プロジェクト」(代表・保谷徹同所所長)による成果だ。1869(明治2)年に来日した2人のオーストリア人写真家が、維新期の日本で撮影、収集した写真とガラス原板ネガコレクションを調査した。2010年から7回、オーストリアで撮影した。江戸・東京や横浜と京都など。本書はその一部、270点を紹介している。

 「当時の世界最高レベル」(保谷所長)という8000万画素デジタルカメラ技術で撮影、拡大した。江戸は日本橋や江戸城、神田や深川、浅草、王子など。鮮明な写りならではの発見が多々ありそうだ。たとえば1871年末から翌年初めごろ、愛宕山で撮影した写真。眼下には元大名屋敷が整然と並んでいる。しかしよく見ると、屋根瓦があちこちではがれている。

 また文書資料では詳細が分からないことも伝えている。たとえば1872年、新橋-横浜間の鉄道が開業した年の横浜駅だ。その一枚は、駅構内や真新しげな蒸気機関車と客車、周囲の街並みなどを鮮やかに収めている。駅や列車の構造を知る手がかりになる。

 ひときわ驚かされる一枚は「英国士官・殺人犯の獄門首」だ。1864(元治元)年、英国陸軍の少佐と中尉が鎌倉・鶴岡八幡宮の参道入り口付近で、浪人2人に襲われ殺された(鎌倉事件)。浪人は後に捕まり、斬首される。写真はその一人。英国側の強い主張により、横浜・吉田橋のたもとに首がさらされた。顔には少年の面影が残る。正視しにくいが、歴史的事件を記録した貴重なものでもある。

 さらに1872年ごろの外国人居留地の写真には、外国語の看板が多数確認でき、興味深い。ちょんまげ姿の人々やその生業の様子も分かる。またこのころ、新政府は神仏分離を進めていた。神社と一緒にあった仏像や仏塔が壊されたり、他の場所に移されたりした。しかし写真は分離が完全に進む前、神仏習合の状況も記録しており、興味深い。同じ国際港でありながら同時代の横浜に比べて情報が少ないという、長崎を撮影した写真群も貴重だ。

 風俗史や建築史など、読み手の関心と知識によって多くの情報を読み取ることができる。またさまざまな研究に貢献するだろう。【栗原俊雄】
外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治
150年前の幕末・維新期に来日し、「激動の時代の目撃者」となった外国人少年写真家がいた。東京大学史料編纂所の古写真研究プロジェクトチームが少年の祖国・オーストリアで、少年が撮影・収集した多数のガラス原板を確認。8000万画素のデジタルカメラで原板を撮影し、拡大したところ、驚くほど鮮明な当時の日本が写り込んでいた。少年の足跡をたどるとともに、成果を写真史料集『高精細画像で 甦 よみがえ る 150年前の幕末・明治初期日本』(洋泉社)にまとめたプロジェクトチーム代表の保谷徹所長(幕末維新史)に現地調査の経緯などについて聞いた。
16歳で来日したオーストリア人少年
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)

 江戸から明治に変わって間もない1869年(明治2年)10月2日、横浜港に到着したオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦フリードリヒ大公号に一人の少年が乗船していた。日本と修好通商条約を結ぶため派遣された使節団(東アジア遠征隊)に随行していた写真家ヴィルヘルム・ブルガーの助手で、ミヒャエル・モーザーという16歳のオーストリア人少年だった。

 ミヒャエル・モーザーの名は、横浜で創刊された日本初の写真入り英字紙『ファー・イースト』で写真家として活動していた人物であることは知られていた。が、つい最近まで生没年すらわからない「謎の人物」だった。写真技術の高さから、大人の写真家だと思われていたが、実際には10代の少年だったことが判明し、研究者を驚かせた。ミヒャエル少年は、使節団が条約締結を終えて帰国した後も、ただ一人、日本に残った。16歳から23歳まで、7年余りを明治初期の日本に滞在したミヒャエル・モーザーとは、いったい、どんな人生をたどった人物だったのだろうか。
偶然だった師・ブルガーとの出会い
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
 ミヒャエル・モーザーは1853年、現在のオーストリア中部・シュタイアーマルク州アルトアウスゼーで生まれた。師となるヴィルヘルム・ブルガーとの出会いはまったくの偶然からだった。モーザーとブルガーの二つのガラス原板コレクションを集成した写真史料集に掲載された「解説」(ペーター・パンツァー、宮田奈奈の両氏執筆)によれば、次のような経緯だった。

 大都市・ウィーンから遠く離れた避暑地・アルトアウスゼーをブルガーが撮影で訪れた際、カメラの暗箱を修理する必要に迫られた。そのとき修理したのがミヒャエルの父、ヨアヒムだった。修理が完璧だったため、お礼としてブルガーは彼の子どもたちの写真を撮影することにした。大きなレンズのついたカメラが置かれると、子どもたちはおびえて逃げてしまったが、一人だけその場に残った子どもがいた。それがミヒャエルだった。カメラに興味を持ったミヒャエルに「お前も写真家になりたいか?」と尋ねると、小さなミヒャエルが「なりたい!」と答え、ブルガーのもとで助手を務めることになった、という。
英字紙『ファー・イースト』の写真家に
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
 ミヒャエルがウィーンのブルガーのもとで働き始めてから1年たった頃、外国へ行くチャンスがめぐってきた。オーストリア・ハンガリー帝国は日本と清(現在の中国)、シャム(同タイ)のアジア三国と修好通商条約を締結することを決定し、使節団を派遣した。この時、随行する写真家として選ばれたのがブルガーだった。

 助手としてブルガーに同行した15歳のミヒャエルは、1868年10月、アドリア海に面した港町トリエステからフリードリヒ大公号で出航。南アフリカの喜望峰を回り、約1年かけて日本に到着した。この航海の途中、ミヒャエルは50日間も船酔いに苦しんだという。日本にとどまったのは、日本が気に入ったことに加え、船酔いが大の苦手だったことも理由の一つだったという。

 ミヒャエルは横浜の飲み屋で給仕として働いたりした後、知り合ったフランス人と一緒に写真スタジオを開いた。しかし、台風のため、写真スタジオが全壊。来日した翌年の70年、英国人ジョン・レディ・ブラックと出会い、創刊したばかりの英字紙『ファー・イースト』で写真家として働くようになった。ブラックがミヒャエルを雇わなければ、激動期の日本を記録した数々の貴重な写真は残されていなかったかもしれない。ちなみに、ブラックの長男ヘンリーは、明治時代に活躍した異色の落語家、快楽亭ブラックである。

 ミヒャエルは、73年に故国・オーストリアで開かれたウィーン万博で日本事務局の通訳を務めるため『ファー・イースト』を辞めた。ウィーンから戻った後は、内務省勧業寮の工業試験場で写真技術を教える教師となった。『ファー・イースト』で写真家として活動したのは、17歳から19歳までの間だった。76年、22歳のとき、フィラデルフィア万博の通訳として日本を離れた後、米国で病気になり、3か月間入院。健康を回復するため、そのままオーストリアに帰国し、再び日本に戻ることはなかった。
子ども部屋に放置されていたガラス原板
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
 ミヒャエル・モーザーのガラス原板コレクションが見つかったのは、2008年。師・ブルガーのガラス原板コレクションを1973年に発見していた日本研究者のペーター・パンツァー・ボン大学名誉教授が、探し求めていた弟子・ミヒャエル・モーザーのガラス原板も見つけた。

 東大への留学経験もあるパンツァー氏から連絡を受けた東大史料編纂所のプロジェクトチームは、2010年から17年まで計7回にわたって現地調査を実施。12年の第4回調査から、8000万画素の高精細なデジタルカメラを使用し、ガラス原板(ネガ)の撮影を行った。通常、報道用に使用するカメラが2400万~3000万画素程度であり、8000万画素はその約2.5~3倍に相当する。当時、世界一の高解像度を誇るカメラだった。

 保谷所長らが現地調査を始めたとき、ミヒャエル・モーザーのガラス原板は木箱などに収められたまま、アルトアウスゼーの生家にあった子ども部屋に放置されていたという。「日本関係の原板は全部で136点出てきました。子ども部屋に放って置かれていたにもかかわらず、比較的状態も良かった。150年の間、奇跡的に残っていました」と振り返る。コレクションには自身が撮影した東京や横浜などの風景写真の原板のほか、日本人写真家の内田九く一いちや下岡蓮れん杖じょうらが撮った肖像写真のガラス原板も含まれていた。

 写真フィルムがなかった当時、ガラス板に感光剤を塗り、それが乾く前に像をガラスに写しとる「コロジオン湿板写真」という技法が使われていた。プロジェクトチームは原板(縦約16センチ×横約21センチ)を1枚1枚、デジタルカメラで撮影し、反転加工したうえ、コンピューター画面で自由に拡大できるようにした。原板には高精細な画像情報が封じ込められており、デジタル画像を拡大することによって、細部まで観察できるようになった。

 たとえば、「芝切きり通とおし」の写真。原板を焼き付けたプリント写真にはドイツ語で「江戸の風景」とだけキャプションが付けられていたが、デジタル処理で拡大すると、写真中央左側にある建物入り口の「町名札」に「西久保広町」(現在の港区虎ノ門3丁目)と書かれていることがわかり、撮影地が「芝切通」であることが判明した。また、「横浜元町・居留地」の本村通りをズームアップすると、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋などの看板がひしめく様子が見え、西洋近代の文物が流れ込む開港場の活況が確認できた。「ガラス原板には、リアルな幕末・維新期の日本の姿が写り込んでいます。高精細な写真画像は、歴史的な変化を具体的なイメージとして再認識させてくれる。当時の写真画像はきわめて説得力があり、迫力ある史料になっている」と、保谷所長はその意義を強調する。
写真台紙の裏に富士山と鳥居の絵
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
 原板撮影には苦労もあった。カメラそのものがとてもデリケートで、性能が高いだけに、ほんのちょっとのところでピントがずれてしまったりした、という。撮影を担当した東大史料編纂所技術専門職員の高山さやかさんは「カメラが気まぐれで、なだめすかさないと動いてくれないときもあった」と振り返る。

 幕末・維新期に来日した外国人写真家として最も有名なのは、愛宕山から見た江戸のパノラマ写真などを撮った英国人フェリーチェ・ベアトだが、ミヒャエル・モーザーの残した写真の意義はどこにあるのか。「写真は『ファー・イースト』に在籍していた1871年(明治4年)と72年(同5年)のものが中心です。風景写真などには高解像度の画像があるので、遠景を拡大すると、遠く離れた場所の細部までがよく見える。江戸から明治へ、大きく時代が変わっていく様子を克明にとらえた写真として、きわめて貴重な史料になっている」と指摘する。また、収集したガラス原板の中には、1863年以前の江戸を写した現存最古とみられるネガも含まれている。

 原板は撮影が終了した後、日本から持参した中性紙の専用ボックスに納め、保存措置をとった。コレクションは現在、バートアウスゼー市のカンマーホフ博物館に永久寄託されている。

 ミヒャエル・モーザーの後半生は、波乱に満ちた前半生とは対照的に、きわめて穏やかだったようだ。ミヒャエルの孫、アルフレッド・モーザー氏が書いた『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』(宮田奈奈訳、洋泉社)によれば、米国からオーストリアに戻った後、アルトアウスゼーの両親の家に写真スタジオを構え、その後、27歳で、隣町のバートアウスゼーに写真館を設立。35歳で結婚した後、絵を背景に撮影する「アトリエ写真」で有名な写真家として活躍し、1912年11月24日、卒中発作のため59歳で亡くなった。

 再び日本を訪れることはなかったが、多感な少年期を過ごした日本での日々を終生、忘れることはなかっただろう。写真館で使っていた写真台紙が、今も残されている。その台紙の裏には富士山と鳥居の絵が描かれ、「MICHAEL MOSER, Photographer, TOKIO,JAPAN」と記されている。

幕末藩主も乗った?木製の三輪車、2年かけ完成
 幕末から明治期に活躍した福井藩主の松平春嶽が初めて乗ったとされる木製の三輪車「ビラスビイデ独行車」が復元された。

 福井県が、藩士の日記や1850年代の車輪を参考にして2年がかりで完成させた。県庁1階ホールで13日まで公開している。

 3月24日にあった福井城山里口御門の完成式典でお披露目された。全長1・7メートルで、前輪直径40センチ、後輪は同1メートル。ケヤキなどを使い、ペダルや車輪の外周は鉄製。ペダルを前後に踏み込んで回す仕組みで、ブレーキはない。

 復元の基になったのは春嶽に仕えていた藩士が書き留めた「御用日記」。1862年に江戸の藩邸で、家臣の佐々木長淳が組み立て、春嶽が乗ったという記述があった。「ビラスビイデ」は速い乗り物を意味する。

 県はこの史実を伝え、県民の自転車利用の機運を高めようと2016年度から復元に着手。坂井市のみくに龍翔館所蔵の1850年代の車輪などを参考に、専門家の協力を得て、設計を行って仕上げた。事業費は約240万円。

 県庁ホールでの公開後は、県の博物館などで巡回展示する予定。

 県交通まちづくり課は「福井と自転車の歴史的な関係をアピールする中で、より多くの人に自転車に興味を持ってもらいたい」と話している。

いざ出陣『戊辰観光』開戦 鶴ケ城で幕末特集「会津の義感じて」
 日本の歴史の転換点となった「戊辰戦争」から150年の節目を迎える中、激戦地の本県では記念事業が本格化している。戊辰戦争とゆかりの深い会津若松市や白河市は1日、「戊辰」の観光客を呼び込む新たな動きを始めた。150年前の4月は会津に向けて進攻する新政府軍が本県へと迫る時期。春の観光シーズンの到来に合わせ、観光を舞台にした"開戦ムード"が一層高まってきた。

 会津若松市の鶴ケ城天守閣前で行われた本年度事業のオープニングセレモニーでは、記念事業実行委員会長の室井照平市長が「官民連携して記念事業を盛り上げる。多くの方に会津の義を感じてほしい」とあいさつした。

 鶴ケ城を管理する会津若松観光ビューローは本年度、天守閣の展示を「幕末特集」として全館で展開する。

 各期でテーマを変え、戊辰戦争の伏線となった藩主松平容保(かたもり)の京都守護職時代を含め、会津ならではの一級資料を展示する。1日からは第1弾の「松平容保と京都守護職」(5月7日まで)が始まり、セレモニー後に内覧が行われた。

 京都御所の蛤(はまぐり)御門付近で繰り広げられた「禁門の変」を描いた「蛤御門合戦図屏風(びょうぶ)」や、新選組副長土方歳三も愛刀とした「和泉守兼定」などの日本刀、会津藩家老の書など、貴重な資料が展示されている。

 「八・一八の政変」での容保の働きに感激した孝明天皇が容保に贈った御宸翰(ごしんかん)や一緒に贈られた自作の和歌は同展のみの展示で、来場者の注目を集めている。

 若松市内10施設巡る「クイズラリー」始まる

 会津若松市では市内10施設を巡り、クイズに答えて応募すると温泉宿泊券などが抽選で当たる「戊辰ミステリークイズラリー」が1日から始まった。

 各施設や観光案内所で台紙を入手し、各施設を巡りクイズに挑戦する。7月31日までが前期、後期は8月1日~11月9日。全問正解で温泉宿泊券(各期5人)、6問正解で会津産品セット(同15人)、3問正解で会津WAONカード1000円分(同150人)が当たる。

 初日の1日も鶴ケ城では来場者が戊辰戦争にちなんだクイズに答えていた。出題施設次の通り。

 鶴ケ城天守閣、まなべこ、県立博物館、御薬園、会津武家屋敷、白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館、旧滝沢本陣、會津藩校日新館、会津新選組記念館

剣豪・森要蔵しのび80年ぶり法要へ 戊辰・戸の内の戦いで散る
 戊辰戦争の白河口の戦いの一つ、戸の内の戦い(西郷村下羽太地区)で散った剣豪・森要蔵が眠る西郷村の大龍寺で6月30日、80年ぶりとなる法要が行われる。森は千葉周作を開祖とする北辰一刀流の使い手で、千葉道場四天王の一人と称され、熊本藩生まれながら幕府側で最期を迎えた。森の生きざまなどを後世に伝えようと、戊辰150年に合わせて、同村商工会と地元有志が法要を行い、老朽化した墓も修繕する。

 「森は最後の出撃を前に(世話になった礼として)寝泊まりしていた民家に(武士の魂の)小刀を託した」「西軍が押し入った民家に赤子がいて、西軍が殺そうとしたが、会津藩が助けた」。戸の内の戦いに関する資料はあまり村に残っておらず、商工会の大高紀元会長(70)は戦禍を生き延びた住民から伝え聞いた話を披露した。

 「森要蔵は最後の武士。その存在は村にとって財産であり、法要を地域の歴史を再確認する機会にしたい」。大高会長は、森の墓を戊辰戦争の象徴の一つと位置付けており、寄付を募るなどして法要までに再整備する考えだ。70周忌法要には大高会長の祖父も参加したといい、80年ぶりの法要を通して、大高会長は歴史の保存と、いまだ解明されていない戊辰戦争の調査の進展に期待を寄せる。

 森は講談社の創設者野間清治の祖父としても知られている。70周忌法要では清冶が感謝の言葉をつづった手紙4通を同寺に送っており、手紙は今でも寺に保管されている。

 大高会長と内藤信光住職(68)は「講談社の関係者も呼ぶ予定だ。150周年の節目に東西両軍関係なく、国を思い散った先人に村一体となって手を合わせたい」と話した。

戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導
◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。
 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。
 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。
 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。
 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。
 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。
 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。
 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。
 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>
 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。
 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。


[但木土佐]1817~69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。

[藤原相之助]1867~1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

激戦の舞台たどる 新年度、戊辰150周年事業
 会津美里町は2018(平成30)年度、戊辰戦争150周年を記念した各種事業を行う。講演会やパネル展、史跡を巡るツアーなどを繰り広げる。28日までに概要が固まった。
 会津美里町には、下郷町の大内宿から町内の関山宿(現関山地区)などを通って会津盆地に入る下野街道が通り、参勤交代などにも使われていた。関山宿付近は戦火で民家がほぼ全焼するなど、旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となった歴史がある。さらに高田地区などでも戦いが行われたことを示す史料もある。
 5月13日にオープニング事業として歴史講演会を開く。町文化財保護審議会の笹川寿夫会長を講師に、若松城下へ迫ろうとする新政府軍と、防ごうとする旧幕府軍の攻防などについて、史料や町内各所に残る石碑などについて紹介する。
 5月27日に本郷地区で開かれる向羽黒山城跡ふれあい茶会では、城跡の麓にある向羽黒山ギャラリーで戦時品やパネルの展示を行う。
 7月下旬か8月に、町内の関山地区、下野街道など戊辰戦争に関わる場所、史跡を巡るツアーを行う。9月には京都を訪れ、京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡る予定。

【会津美里町の戊辰戦争150周年事業の主な内容】
(かっこ内は開催場所)
・5月13日 歴史講演会(本郷体育館)
・5月27日 向羽黒山城跡ふれあい茶会で、戦時品やパネルを展示(向羽黒山ギャラリー)
・7月下旬か8月 関山地区、下野街道などを巡るツアー(町内)
・9月 京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡るツアー(京都など)

<奥州の義 戊辰150年>(1)プロローグ 画期的瞬間、東北が一つに
白河以北一山百文。東北を軽視するこの言葉が、いつから使われだしたか定かではない。しかし世の人の心に深く刻まれた契機は、はっきりしている。
 今から150年前、幕末から明治へと時代が転換する中で起きた戊辰戦争で、東北の諸藩が明治新政府にひざを屈したことだ。

 西国の薩長土肥を中心に成立した明治新政府は、幕末の動乱期に対立した会津、庄内両藩を討ち滅ぼそうと「朝敵」と位置付けた。東北自らの手で両藩を攻めろと命令した。
 朝廷、幕府双方に忠誠が厚く、京都、江戸の治安維持に尽力してきた会津、庄内を討つ必要がどこにあるのか。納得できない仙台、米沢など東北諸藩は擁護へと立ち上がる。
 新政府と両藩の和平を取り持つため大同団結しようと、東北と北越の31藩が奥羽越列藩同盟を結成。それは東北全域が一つになった画期的な瞬間でもあった。
 しかし平和解決を求める嘆願は新政府に一蹴され、「会津、庄内に味方する者は全て敵」と、東北の地は戦火に巻き込まれていく。そして敗れて「賊軍」のいわれなき汚名を背負い、その後も負け組の意識が付いて回ることとなる。

 今年、日本各地で維新を記念する行事が開催されている。「近代化の幕開けとなった大業」「明治の精神に学ぼう」。そんな称賛の言葉が飛び交う。
 待ってほしい。勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。
 維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい。戦雲を追って。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[戊辰戦争]1868(慶応4)年1月から翌年5月にかけて、明治新政府と旧幕府側の諸藩との間で起きた内戦。鳥羽・伏見の戦いから上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、箱館(函館)五稜郭の戦いまでを指す。開戦年のえとが戊辰に当たるため、この呼称が付いた。薩摩、長州藩などが中心の新政府は、前年に大政奉還した前将軍の徳川慶喜や会津、庄内両藩を朝敵として追討軍を進め、両藩を擁護する東北・北越諸藩が抗戦した。戦後、敗れた東北諸藩には減封や未開拓地への移住など厳しい処分が課せられた。




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