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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
幕末史好きとしては見逃せないニュース。

松平容保「御宸翰」...明治天皇の手に 30日間保管、その後返却
 幕末に孝明天皇から会津藩主松平容保(かたもり)へと送られた御宸翰(ごしんかん)(天皇直筆の書)が1889(明治22)年、容保から明治天皇に提出されていたことが、宮内庁宮内公文書館の史料から明らかになった。朝敵ではなかった証しとなる御宸翰を、容保は亡くなるまで肌身離さず持ち歩いたと伝わる。専門家は「会津藩の歴史を語る上で重要な発見」と驚いている。
 宮内庁書陵部の白石烈(つよし)研究員(40)=いわき市出身=の調査で判明した。旧会津藩士秋月悌次郎が久邇宮(くにのみや)朝彦親王(幕末の会津藩協力者)家に宛てた89年12月付の手紙の写しによると、同年7月に宮内大臣土方久元から「宸翰を宮内省に提出して明治天皇のご覧に供するように」と口頭で命じられた。7月20日、容保が宮内大臣の自宅に宸翰を持参して提出。明治天皇の手元に約30日間置かれ、その後返却されたとある。明治天皇御手許(おてもと)書類(献上されて宮内省が管理していた史料)の目録写しにも、提出された宸翰の内容が記載されていた。
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秋の日は釣瓶落としといいますが、本当に昼が短くなりましたね。秋という季節は好きなんですが、日照時間が早く短くなるので体調を崩しがちなのが悩みの種です。

宮城
<戊辰戦争150年>東北の幕末史網羅 仙台市博物館で藩主建言書など230点展示
 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館、福島県立博物館の3館主催による共同企画の特別展「戊辰戦争150年」(河北新報社、NHK仙台放送局共催)が26日、仙台市博物館で始まった。12月9日まで。
 薩摩藩、長州藩中心の新政府軍から「朝敵」とされた会津藩や、会津藩を救おうとした東北、越後各藩の視点を軸に、全国から広く集めた古文書や絵図、旗、武器など約230点を展示。東北の幕末・維新史を網羅した内容となっている。
 当時の仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が新政府に会津追討を思いとどまるよう求めた建言書や、奥羽列藩同盟の盟約書の写し、新選組袖章、天皇の軍の証しとして新政府軍が掲げた錦旗などが並ぶ。
 列藩同盟が独自政権を構想し、元号を「大政元年」と改元したとする資料など珍しい品もある。既に終了した新潟、福島の両博物館での展示には出品していない仙台独自の資料が約100点含まれる。
 仙台市宮城野区の無職安久津知子さん(81)は「身近なのに学校の授業では教わらず、知らなかったことだらけ。何度でも足を運びたい」と話した。
 開館は午前9時~午後4時45分。月曜休館。一般・大学生1000円、高校生500円、小中学生400円。会期中の土日・祝日には新選組の衣装を無料で試着できる体験会もある。

福島
戊辰戦争戦死の「西軍藩士」慰霊 会津若松で墓前祭、80人参列
 戊辰戦争で戦死した土佐、薩摩、長州、大垣など各藩の藩士らが埋葬されている会津若松市の西軍墓地で23日、墓前祭が行われた。

 会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会(山田悦史会長)が毎年行っており、65回目。戊辰150年の節目とあって、例年以上に多くの参列者が訪れた。

 地元や西軍の関係者ら約80人が参列。神式と仏式で墓前祭が行われた。山田会長が祭文を読み上げ、会津吟詠会の詩吟奉納が行われた。地元の関係者や子孫、山口、佐賀両県の関係者らが玉串をささげ、焼香した。山田会長が謝辞を述べた。

 弟の土佐藩三番隊長小笠原謙吉と共に会津で戦死した牧野茂敬(迅衝隊軍監)の子孫という小笠原洋子さん(78)=神奈川県逗子市=は「こうしてお墓を守っていただいて、会津の方々の温かい気持ちをうれしく思います」と話した。

 同墓地には、西軍9藩の150柱(藩籍不明1柱を含む)が祭られている。

(文化の扉)戊辰戦争、無念の150年 「賊軍」とされた会津/列藩同盟、当初は「非戦」
 時代が明治に変わる150年前、東北地方などで大規模な内戦があった。戊辰戦争だ。江戸城の開城後も奥羽・北越などの諸藩は新政府を相手に団結し、戦った。敗戦で厳しい処分を受けた地域は、「賊軍」とされた無念を引きずってきた。

 戊辰戦争150年に合わせた「全殉難者慰霊祭」が6日、仙台市であった。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「本来は平和のための非戦同盟としての行動でありました」と述べた。

 奥羽と北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍を相手に現在の東北地方や新潟県の各地で戦い、敗れた。「非戦」とは、どういう意味か。

 「そもそも戦争をしたくて列藩同盟に加盟した藩は一つもないと思います。むしろ、巻き込まれたという認識でしょう」。そう語るのは、福島県立博物館の阿部綾子・主任学芸員だ。

 戦争のきっかけは1868年1月の鳥羽・伏見の戦いだ。旧幕府軍などは薩摩、長州藩中心の新政府軍に大敗。新政府は会津藩を「朝敵」とし、仙台藩に征討を命じた。

 仙台藩主の伊達慶邦(よしくに)は戦争回避に向けて動く。征討は、まだ幼かった明治天皇が判断したのかなどの疑問点を建白書にまとめた。だが京に届けられた時、すでに征討軍は出発していた。

 新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府が東北に入ると、会津藩謝罪の条件として要求したのは、藩主だった松平容保(かたもり)の首。会津藩にとって受け入れがたい内容だった。

 仙台藩と米沢藩は奥羽諸藩に会津救済を呼びかけ、賛同した藩の代表者が署名した。この時は、東北で戦火を交えないことをめざした盟約だった。

     *

 提出された嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督が却下したことで転機を迎える。

 仙台市博物館の水野沙織・学芸員は「嘆願書の署名の前に仙台、米沢、会津の3藩の会合で、もし謝罪が認められず、鎮撫軍が暴挙に出たときは一緒に戦うことを約束していた」。仙台藩士らが総督府下参謀を殺害したことも加わり、対決は不可避に。「情勢の変化によって目的が変わり、同盟を結成し、新政府軍と敵対することになった」

 5月、同盟は奥羽・北越の31藩に達した。だが、軍事同盟に変わり、各地の戦いで劣勢となる中、離脱する藩が相次ぐ。8月には会津・鶴ケ城下に新政府軍の侵攻を許す。9月に入ると、米沢、仙台両藩、そして会津藩などが降伏し、戦場は箱館へと移っていく。

     *

 新潟、福島両県と仙台市は今年、「戊辰戦争150年」展を企画した。会場には、一人の会津藩士が戦争から約40年後に書き記した書物「雪冤(せつえん)一弁」が展示されている。「雪冤」は「無実の罪をそそぐ」という意味だ。序文で、明治政府に媚(こ)びて真実を伝えない書物が流布していると執筆の動機を説明している。阿部さんは「会津藩が朝敵とされたことに対し、割り切れない思いが随所に表れている」。

 この藩士が憤るのは「会津藩こそ天皇に誠を尽くした」という思いがあるからだ。容保は京都守護職として、幕末の混乱した京で治安の維持に努めた。孝明天皇からは、忠誠を喜ぶ手紙が届けられたほどだ。

 だが、孝明天皇の死後、薩摩藩などは鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を掲げ、官軍と名乗ることに成功した。逆に会津藩が「賊軍」の汚名を着せられることになったのだ。

 敗れた藩は戦後、処分を受けるが、新政府側に回った秋田藩も領地が戦場となり、家に火を付けられるなどの被害に遭った。水野さんは「150年前に起きた戊辰戦争の歴史はそれぞれの地域で大きく違っていることを知って欲しい」。(高橋昌宏)

 ■双方が正義の下に スポーツキャスター・大林素子さん

 東京・多摩地方の出身なので新撰組の近藤勇や土方歳三はご当地ヒーローでした。バレーボールをやっている時は時間がなかったのですが、引退してからゆかりの地を巡り始めました。新撰組は松平容保の下で活動したので、会津にはプライベートの「取材」でよく通うようになりました。今年から福島県会津若松市の観光大使を務めています。

 忠誠心をもって最後まで戦ったのが、会津藩であり新撰組。目上の方を敬うなど「ならぬことはならぬ」の精神が今も残り、当時の空気感が残っています。その時代に行きたい私にとって、会津は最高の場所です。

 会津には友人が多くいます。あの節目を「維新」ではなく「戊辰」と言っていて、つらい歴史として記憶されています。互いに正義の下に行動しましたが、武士のプライドだけで戦った会津はすごいなと感じます。

 これからの世代には、今の平和が先人の歩みの上にあることを知って欲しい。そのためにも、戊辰戦争の歴史を風化、美化せずに伝えていくことが大事だなと考えています。

 <訪ねる> 「戊辰戦争150年」展は新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画。開国、鳥羽・伏見の戦いを経て、奥羽越列藩同盟の結成、降伏までを地域の資料を中心に東北・越後の視点からたどる。26日から仙台市で始まる。12月9日まで。月曜休館。


戊辰戦争「三春藩の選択」解説 歴史民俗資料館で企画展 /福島
 三春町歴史民俗資料館(三春町桜谷)で企画展「戊辰(ぼしん)・明治150年 三春藩の選択」が開かれている。「戊辰戦争の際、三春藩はなぜ奥羽越列藩同盟に加盟し、戦わずして新政府軍に恭順したのか」がテーマ。

 東北諸藩の力関係や地理的条件から会津や仙台などの大藩主導の同盟に加わり、城下を戦乱から守るためにも新…
 ここから先は毎日新聞の有料版にて。

京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
山形
「戊辰」150年の山形/上 悲劇の中老、吉田大八が「奨励」 侍窮乏、天童の駒生む 「コマノミクス」のもとに /山形
 「ギネス世界記録達成です!」--。将棋の同時対局数で世界最多を目指し、天童市で14日に開かれたイベント「二千局盤来」で記録達成が告げられると、参加者や関係者から拍手がわき起こった。

 天童が元気だ。一時、落ち込んでいた将棋駒産業が「ふるさと納税」を生かした振興策で復調し、近年の将棋ブームで追い風も吹く。天童商工会義所などは将棋駒を軸に「コマノミクス」と名付けた地域振興策を展開。縦横6マスの「66将棋」や将棋をモチーフにした新商品などが続々と登場している。この伝統産業は、1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争とも関わりがある。

 江戸時代末期、織田信長の次男・信雄を祖先に持つ織田家が天童を治めていた。天童郷土研究会長の湯村章男…
「戊辰」150年の山形/中 今なお息づく進取の気性 熱意「教育県」の礎に 明治以降、各界に人材輩出 /山形
 「隆盛の精神を残していただいて感謝している。庄内に来るたびに、固い絆に胸が熱くなる」--。西郷隆盛のひ孫、吉太郎さん(71)は9月30日、鶴岡市文化会館での講演で感謝の言葉を述べた。

 1868年に始まった戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍と戦った庄内藩に対し、降伏後のきわめて寛大な処分は西郷によるものとされる。以来、庄内藩士が西郷を訪ねるなど絆を深め、西郷の考えや思いを「南洲翁遺訓」にまとめて全国に広めた。庄内藩士が培った精神は脈々と受け継がれ、市教育委員会は2012年発行の冊子「親子で楽しむ庄内論語」を、市内の小学校で入学時に配布している。

 中山町立長崎小学校には10月5日、隆盛の弟・従道の玄孫・真悠子さん(23)の姿があった。同町は西郷…
「戊辰」150年の山形/下 岐路に立つ山形市中心市街地 重層性生かし活性化へ 三島通庸が築いた基本構造 /山形
 山形市霞城町で9月22日、山形城跡「霞城公園」内の国重要文化財「旧済生館本館」の建物見学会が開かれた。1878年に薩摩藩出身の初代県令、三島通庸が山形の近代化を図ろうと、病院として整備した擬洋風建築だ。見学会の講師を務めた歴史研究家、小形利彦さん(71)が「三島県令はこの建物を造るとき、(県内の)各郡で一番良い木を出させた。組み合わせてフロアにしたんですね」と解説すると、参加者から「ほぉー」と感嘆の声が上がった。

 幕末に小規模藩だった山形藩。戊辰(ぼしん)戦争当初は新政府軍に従っていたが、後に東北諸藩とともに新…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

福島
武器の差から見る「戊辰戦争」 西軍との圧倒的な戦力差あった
 二本松市戊辰150年事業の二本松戊辰戦争歴史シンポジウムは13日、同市で開かれた。「数学者が見た二本松戦争」の著者渡部由輝さんが基調講演し、兵器の性能を示す数字などを基に二本松における戊辰戦争の模様を解き明かした。

 渡部さんは「二本松戦争では、2時間ほどの戦いで二本松藩は500人の出兵のうち330人以上が戦死した。比べて西軍の戦死者は3000人のうち10人ほどだ」と悲惨な状況を示し、二本松軍と西軍との圧倒的な戦力差はいかんともしがたかったとした。

 武器性能の差を示す事例として渡部さんは、西軍の銃が飛距離で約2倍、1分間の発砲回数でも5倍以上上回っていたと指摘。大砲の砲弾も砲丸のような弾が飛ぶだけの二本松軍に比べ、西軍は着弾後数片に砕け、小銃弾が飛び出すなど殺傷能力が桁違いだったとも語った。

 二本松少年隊について、渡部さんは「主に砲兵隊に配属され、熱を持った砲筒を冷やすため水を掛けるなど補助的な役割を担っていた」と話し、当時使用の有煙火薬により大砲から上がった煙を西軍から狙い撃ちされ、死傷者が出たとした。

 引き続き、「白河・棚倉・三春における戊辰戦争―白河から二本松、それぞれの信義」と題したシンポジウムが行われ、白河市、三春町、二本松市の歴史、文化関係の業務に就く職員、調査審議機関関係者が白河、棚倉、三春、二本松各藩と戊辰戦争との関わりを史実に沿って述べ、討論した。
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)

大阪
【維新150年 大阪の痕跡を歩く】くじ引きで選ばれた切腹「堺事件」
 南海堺駅を下り、土居川沿いを堺旧港に向かって歩く。工場だった跡地にはホテルやマンションが建ち、水門の向こうに大浜公園と旧堺燈台(とうだい)が見える。堺魚市場近くの水辺の一角に、「堺事件」の顕彰碑(堺市堺区栄橋町)が建ち、碑文に「明治初年仏人撃攘(げきじょう)処」とある。

 阪堺妙国寺前駅から東に徒歩5分ほどの「妙国寺」(堺市堺区材木町東)。織田信長ゆかりの“夜泣きの蘇鉄(そてつ)”で知られる名刹(めいさつ)に2基の供養塔がある。土佐藩士11人と、藩士に殺害されたフランス兵11人。時代が大きく動いた混乱のなかの悲劇を今に伝えている。

 慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍が瓦解(がかい)し、江戸に潰走(かいそう)した。炎上した大坂城から白煙が漂っていた頃、新政府は“無政府状態”になった大坂に薩長芸3藩の藩兵を置く一方、堺には土佐藩の2個小隊73人が派遣され、治安維持を担った。

 事件は2月15日夕、勃発した。堺港に停泊していた仏軍艦から士官と水兵約30人が無許可で上陸。騒ぎながら市中を歩き回ったため、通報を受けた藩兵が急行した。無断上陸をとがめ、船に帰るよう命じたが、言葉が通じない。そのうち水兵1人が隊旗を奪って逃げたため藩兵が発砲。銃で反撃しながらボートで逃げる仏兵に一斉射撃したのだった。

 この衝突で仏兵11人が死亡したことを受け、仏公使ロッシュは在坂の各国公使とともに賠償金のほか、土佐藩士全員の処罰を要求。新政府は20人を切腹させることで決着を図ろうとしたが、これが第二の悲劇の始まりだった。

 土佐藩士は大坂・西長堀の藩邸で取り調べを受け、29人が発砲を認めた。切腹するのは20人で、くじ引きで決めることに。小隊長ら幹部4人が辞退したため、25人の中から16人が「切腹」のくじを引いた。


 2月23日午後4時、切腹は堺・妙国寺で行われた。境内(けいだい)に敷かれた2枚の畳に白布、赤毛氈(もうせん)がのべられ、三方(さんぽう)の上には短刀が置かれた。仏軍艦艦長らが立ち会う中で次々に切腹していく藩士たち。粛々と続き、やがて12番目の藩士が座についたとき、突然、艦長が中止を申し入れた。

 その理由をめぐり、さまざまな臆測を呼んだ。「ハラキリ」という凄惨(せいさん)な光景に仏側が堪えられなかったこと、暗くなり、不測の事態(帰途の報復)をおそれたこと、死者と処刑者が同数になったこと-。仏側の記録では「処刑によって犯罪者が英雄視されるのを許さなかった」ともある。

 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。

 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。
 では、薩長土の新政府はなぜ屈したのか。

 新政府は鳥羽伏見の戦いの直後、「外国事務局」を京に置いた。もはや“攘夷”ではなかったのだ。が、「開国」という旧幕府の外交政策を引き継ぐための体制がまだ十分にできていなかった。

 それに、当時は旧幕府側との最終決戦が迫っていた時期。外国、特に旧幕府とも近しいフランスと事を構えれば、新政府が崩壊する危険すらある。

 一方、世情はいまだ「攘夷論」が過熱していた。薩長土は攘夷を盾に幕府を倒したが、それは倒幕の口実にすぎなかった。新政府の旧幕府以上の「腰抜け」ぶりがバレれば、新たな反政府運動につながる恐れもあった。


 新政府はただ狼狽(ろうばい)するしかなかったのである。

   
× × ×

 大阪メトロ西長堀駅を出たところにある鰹座橋(かつおざばし)交差点。その南西側、現在の大阪市立中央図書館を含む広大な敷地に、土佐藩の藩邸と蔵屋敷があった。江戸時代から桜の名所として知られ、満開の頃には市民にも開放されたという。

 藩邸内の土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江)だけが今も鎮座する。20人の運命を分けたくじ引きはこの境内で行われたとされる。

 本殿の唐破風(からはふ)をはじめ、賽銭(さいせん)箱や灯籠など、至るところに三菱のシンボル「スリーダイヤ」の紋がある。明治初め、同藩の岩崎弥太郎が藩の借金とともに藩屋敷を払い下げられたのを機に起業したというグループ発祥の地でもある。(今村義明)

   


 ■慶応4年の攘夷事件 慶応4(1868)年1月11日、神戸で備前藩兵の隊列を横切ったフランス兵を槍で制止したことから仏、英、米の警備兵との銃撃戦に発展。2人が軽傷を負い、備前藩の責任者1人が切腹した。2月末、英公使パークスが明治天皇に謁見するため宿舎から御所に向かう途中、攘夷派浪士2人に襲われ、英兵9人が負傷。浪士1人が討たれ、1人は捕縛後処刑された。
いまだに『新選組!』の劇伴がドキュメンタリー(どちらかというと旅行とかグルメ番組が多いかも)で流れたりすると、心が2014年に引き戻されます。

福島
容保公の「宿札」初公開 若松 戊辰七回忌出席裏付け
 幕末の会津藩主松平容保公が一八七四(明治七)年に現在の会津美里町の関山宿に宿泊した際の「宿札」が十日、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で初公開された。容保公が戊辰戦争七回忌法要のため会津若松に赴き、その帰路に関山宿の有力者宅に泊まった際に掲げられたとみられる。
 市文化課によると文献で記録された容保公の七回忌法要出席が物品で裏付けられたのは初めてで「戊辰殉難者の追悼に関わる貴重な資料」としている。
 宿札は縦六十一センチ、幅一九・六センチ、厚さ一センチの木板。「芳山(容保公が藩主を辞してからの名)様 御寓」と記されている。
 記録では容保公は四月末に東京を出発し白河などで戦死者の墓参りをしながら五月初旬に会津若松に到着した。阿弥陀寺で営まれた七回忌法要などに出席し、帰路の六月初旬に関山宿に宿泊した。
 宿札は常設展展示替えに際し、所有者から借りて紹介している。常設展は戊辰戦争後に焦点を当てており、明治時代に活躍した会津の人物などを紹介している。来年一月二十日まで。観覧は午前九時から午後五時。無料。月曜日と年末年始は休館。問い合わせはまなべこ 電話0242(27)2705へ。

戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。

斎藤一ファンら焼香 阿弥陀寺会津新選組まつり
 第十五回会津新選組まつりは二十四日、会津若松市の阿弥陀寺で繰り広げられた。新選組幹部で戊辰戦争で戦った斎藤一の法要が墓前で営まれた。
 斎藤一や新選組のファンら約二百人が参列した。地元の七日町通りまちなみ協議会の渋川恵男会長があいさつし、会津新選組まつり実行委員会の佐藤功武委員長が「不屈の会津魂を後世に引き継ぐために力を尽くしたい」と祭文を読み上げた。
 斎藤一のひ孫に当たる藤田太郎さん(さいたま市)が「墓前祭が長く続いてほしいと願っている」と述べた。
 無外流居合道連盟宝祥会の会員が居合を奉納した後、参列者が次々と焼香した。


新選組赤べこ」参上!背中に『誠』の文字 会津若松で販売
背中に「誠」の文字が大きく書かれた羽織を着た「新選組赤べこ」が会津若松市七日町の七日町観光案内所で販売され、ファンの人気を集めている。

 新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)が京都の治安を守る京都守護職を務めた際、会津藩預かりとなり、戊辰戦争でも会津藩などと共に戦った。

 新選組赤べこは1体2200円(税込み)で、ゲームのキャラクターにちなんだバージョンもある。阿弥陀寺で新選組の一員、斎藤一をしのぶ墓前祭が行われた際も、大勢が購入したという。

 通常バージョンはインターネット販売も行っている。問い合わせは同案内所へ。



新潟
戊辰戦争150年 犠牲の藩士ら思う新発田 追善供養と講演会
 戊辰戦争から150年。新発田市では7日、犠牲となった藩士らの追善供養と講演が行われた。村上市でも城下を戦禍から守った家老の法要が営まれ、三条市では戦争中に自殺した勤王画家の作品展が開かれている。各地で市民らが、歴史に翻弄(ほんろう)された先人に思いをはせた。

 追善供養が行われた宝光寺(新発田市諏訪町2)は、新発田藩主・溝口家の菩提寺。境内には、1894(明治27)年、藩時代の重臣ら有志が犠牲者を供養しようと建てた「戊辰殉難追悼之碑」がある。碑には藩士ら84人の名が刻まれている。

 7日は本堂で寺崎敬道住職らが読経し、参加した約70人が、戦争で亡くなった人たちに手を合わせた。その後、新発田古文書解読研修会の鈴木博さん(77)が講演した。

 鈴木さんは、新発田で最も激戦となった同市赤谷付近の「角石原の戦い」について「雨で視界が悪く、どちらの軍かも見分けが付かないような悲惨な戦いだった」と説明。犠牲者の名前や亡くなった場所の一覧を資料で示しながら、「今の新発田市周辺だけでなく、長岡城をめぐる攻防や庄内方面の戦いなど、さまざまな場所で犠牲になった」と語った。

 市内から訪れた70代の主婦は「地元のことでも知らないことが多い。あらためて勉強したい」と話した。



「高田の人々の恩情に感謝」 戊辰戦争150年で会津藩士の子孫らが金谷山に墓参
戊辰戦争150年に合わせて、新潟県上越市の金谷山にある会津墓地に2018年10月11日、福島県会津若松市から会津藩士の子孫らが訪れた。雨の中、戊辰戦争に敗れ高田藩に預けられたまま死亡した会津藩士68人の墓に手を合わせた=写真=。

会津墓参団

1869年(明治2年)、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍の会津藩士1742人が新政府軍の榊原家高田藩に預かりの身となった。当時、高田藩は財政がひっ迫していたが、藩士が謹慎した寺々に炊事場や浴場などを設け、生活用品一式を用意し、医師も付けるなどして厚遇した。しかし、藩士らは戦場での傷病や厳冬の長旅で体を壊し、約1年の謹慎中に68人が死亡。高田の人々は死亡した藩士を手厚く葬り、現在は地元住民や「旧高田藩和親会」が墓地を管理し守り続けている。

上越市の金谷山にある会津墓地
会津墓地

会津墓地を墓参したのは、会津若松市の歴史研究会「会津史談会」(成田勝義会長)の会員ら26人で、墓に眠る会津藩士の子孫も参加した。節目の年にあたり、長岡市や小千谷市など、戊辰戦争における会津藩ゆかりの本県の地を巡る現地研修会として訪れた。同会の墓参は2年ぶり。

会員らは墓に花と線香を手向けた後、読経の中、順に焼香し手を合わせた。井上昌成副会長(83)は「高田の人々の恩情に感謝する」などと追悼文を読み上げ、「150回忌に墓参でき感無量。会津の先人の苦労を偲んでお参りをさせてもらった。上越の皆さんとは今後も仲良くしていきたい」と語った。

一行は12日は、会津藩士が謹慎していた寺町の寺院や戊辰戦争の特別展が開催されている市立歴史博物館を訪問し、帰路につく予定。
 
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
やっと最高気温30度近い日が終わったようです。台風直後で暑さがぶり返したせいで、今年は秋が短く感じられますね。

秋田
<秋田戊辰戦争150年>仙台藩士の無念思う「賊軍」6人の墓を守る寺、宮城の子孫ら感謝し墓参
 秋田戊辰戦争で戦死した仙台藩士6人が大仙市板見内(いたみない)の霊仙寺に眠っている。寺は賊軍とみなされた6人を手厚く葬り、墓を1世紀半守ってきた。宮城県に住む子孫らは、寺に感謝しながら墓参を続ける。
 高さ約1メートルの墓は参道の傍らにある。刻字は薄れているが「仙臺藩」とあり、佐藤円太夫、佐々木文左衛門、高橋建治、菅野千代治、阿部勝之進、三浦養作と6人の名が彫られている。
 6人は佐沼(登米市)を治めた伊達氏一族の佐沼亘理家の家臣だった。秋田戊辰戦争の当時は20~40代で、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩(久保田藩)内に攻め込んだ。
 1868年旧暦8月23日、寺から北東約5キロの大仙市太田町国見の街道沿いで「国見の戦い」が起こった。六郷(秋田県美郷町)から北上した同盟軍と、角館(仙北市)から南下した新政府軍が激突。戦いで佐藤ら6人は亡くなり、同盟軍も退却を余儀なくされた。
 同盟軍は新政府軍から賊軍の汚名を着せられていたが、当時の住職は6人に戒名を授けた。寺の過去帳は「子孫が仏事で訪れた際は、丁寧に取り扱うこと」と後代へ書き残している。
 中村秀男住職(79)は「異郷の地で亡くなった6人は、さぞ無念だっただろう」と同情する。盆や彼岸には墓の周りを清め、供え物をして読経を欠かさない。
 登米市の千葉賢一さん(59)は、21歳で戦死した阿部勝之進の妹の子孫に当たる。2013年から毎年墓参りし、今年も8月上旬に親類と寺を訪ねた。「寺には150年間も弔ってもらっている。申し訳なく、本当にありがたい」と話す。

[秋田戊辰戦争]奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機に仙台、庄内、盛岡藩などの同盟軍と新政府軍との間で行われた戦争。秋田藩領などが戦場となった。仙台隊は湯沢、横手、大曲と進軍し、久保田、角館に迫ったが東北南部の戦況悪化により撤退した。
福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
絵画など関連資料展示 二本松で戊辰150年企画展
 戊辰百五十年特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」は六日、二本松市歴史資料館で始まった。十一月二十五日まで。
 二本松少年隊の隊士だった武谷剛介の脇差しや大壇口古戦場の戦場写真、肖像写真、絵画・書など、関連資料八十六点が並ぶ。
 初日は開場式が行われ、三保恵一市長があいさつ。本多勝実市議会議長らが祝辞を述べた。関係者がテープカットした。
 時間は午前九時から午後五時まで。入館は午後四時半まで。月曜休館。月曜が祝日の場合は翌日が休館になる。観覧料は一般が二百円、小中高生は百円。問い合わせは同資料館 電話0243(23)3910へ。
戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

新潟
戊辰戦争...会津藩に『愚直さ』あった 会津、越後、長州が語る
 戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

 會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

 戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。

 また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。

 道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。
千葉
明治150年水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」の慰霊法要 子孫ら参列
 明治元年に千葉県匝瑳(そうさ)市内で起きた水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」で戦死した26人の藩士を慰霊する法要が27日、同市中台の「脱走塚(水戸藩士の墓)」で行われた。150年目の節目となった法要には、水戸市から藩士の子孫らが訪れ、供養碑の前で手を合わせた。

 幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。幕府崩壊後、朝敵とされた諸生党の藩士らは水戸を脱出。北越、会津と転戦したが敗走し、最後に戦った場所が下総の松山村(現在の匝瑳市)だった。

 匝瑳市教育委員会などによると、明治元年10月に起きたこの戦いで死亡した藩士らは地元の村民らに埋葬され、翌2年5月に供養塔が建てられた。当時、諸生党の藩士は水戸藩の脱走兵とみなされていたことから、この場所は脱走塚と呼ばれるようになった。脱走塚は昭和35年に匝瑳市の史跡に指定され、水戸市の子孫らとの交流も生まれた。

 今回の慰霊法要は、諸生党藩士の子孫や関係者らでつくる「水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会」などが主催。水戸市からは高橋靖市長や藩士の子孫らでつくる水戸殉難者恩光碑保存会の関係者など約50人が訪れた。長年、脱走塚を世話してきた匝瑳市中台区の住民らも参列し、計約130人が焼香をして冥福を祈った。

 実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争をして多大な迷惑をかけたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養してくださり、藩士の子孫として地元の皆さんのご厚意に心から感謝している」と追悼の辞を述べた。
福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)
大阪
西郷隆盛らの肉筆85点 大阪城天守閣で特別展開幕
 NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛や勝海舟の詩文をはじめ、明治維新で活躍した人物の書や書簡を集めた特別展「幕末・維新の人とことば」が6日、大阪市の大阪城天守閣で開幕した。榎本武揚(えのもと・たけあき)、吉田松陰、福沢諭吉らの肉筆85点が展示され、多くの来場者が見入っていた。

 西郷隆盛の詩文は七言絶句。「世上毀誉軽似塵 眼前百事偽耶真」(世上の悪評や称賛の軽さはまるで塵のようだ。目の前の出来事は偽りなのか、本当なのか)と維新後の世を嘆く。

 後半は、「追思孤島幽囚楽 不在今人在古人」(思い出すのは孤島で過ごした幽囚の頃の楽しみ。そこには今人はおらず、古人だけがいた)。徳之島などに流刑された幕末を振り返り、理想に燃え、新しい世を創るべく奔走した志士を「古人」と呼んで懐かしむ。

 勝海舟の詩文は、旧幕府軍の代表として新政府軍代表の西郷と交渉し、江戸無血開城を実現させた明治元年のもの。「壮士が死をかえりみずに決戦にのぞむことを誰が責められようか」と旧幕府兵に同情しつつ、「多くの人々を救って天皇に答えるのだ」と内戦を避けることこそ尊王の志だと自らに言い聞かせている。

 ほかに、戊辰戦争に敗れたが、後に政府に重用される旧幕府軍総裁の榎本武揚が、獄中で新政府軍を一刀両断した戯れ歌の書などが注目を集めていた。

 特別展は11月25日まで。入館料600円(中学生以下無料)。問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。

福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)




山形
<戊辰戦争150年>動乱期の米沢を紹介 上杉博物館で特別展
 米沢市上杉博物館で、特別展「戊辰戦争と米沢」が開かれている。幕末から明治初期までの米沢藩の歩みを約100点の資料で紹介している。
 展示は時系列で、最初の資料は江戸から京都警衛に向かう米沢藩士約650人の行列を描いた「上杉斉憲上洛之図(うえすぎなりのりじょうらくのず)」(1863年)。これを契機に米沢藩は全国的な政局に深く関わっていった。
 上杉斉憲が朝廷から下賜(かし)された「牡丹菊常夏桔梗模様錦陣羽織(ぼたんきくとこなつききょうもようにしきじんばおり)」は色鮮やかさが際立ち、朝廷の期待が読み取れるという。当時普及し始めた大砲やその製造方法などを書き記した藩士の古文書は初公開で、いかに西洋の技術を取り入れていったかが分かる。
 戊辰戦争時、米沢藩が越後に進軍する際の本陣となった豪農・渡辺家の家相図など、国の重要文化財に指定されている貴重な資料も多数展示されている。
 前期は10月14日まで。後期は展示品を入れ替え、同20日から11月18日まで。ギャラリートークは10月6日と20日。「戊辰戦争の社会史-軍隊と民衆-」と題した講演会が同28日開かれる。連絡先は米沢市上杉博物館0238(26)8001。

福島
奥羽越列藩同盟...時を超え『援軍』 会津まつり・会津藩公行列
戊辰150年記念「会津まつり」のメイン行事「会津藩公行列」は23日、旧幕府軍(東軍)の中心だった会津藩があった会津若松市で行われ、戊辰戦争を再現する約550人がシンボルの鶴ケ城を発着に市街地を練り歩いた。大河ドラマ「八重の桜」で主人公・山本(新島)八重を演じた女優の綾瀬はるかさんが特別ゲストとして5年連続で参加し、八重の幼少期を演じた鈴木梨央(りお)さんも初参加した。

 今年の行列は戊辰戦争時に会津、庄内両藩の救済を目的に結成された奥羽越列藩同盟に焦点を当てた点が特徴で、五芒星(ごぼうせい)の同盟旗を先頭に、ゆかりの仙台、米沢両藩、精鋭部隊「十六ささげ隊」が新政府軍を恐れさせた棚倉藩、長岡藩が援軍として駆け付けた。

 会津まつり最終日は24日午前10時から、中央通り出発で日新館童子行列・鼓笛隊パレードが行われる。

 「絆、若い世代にも」

 今年の藩公行列の焦点となった「奥羽越列藩同盟」。加盟した長岡藩(新潟県)の藩主牧野忠訓(ただくに)役として、牧野家第17代当主の忠昌さんの長男、忠慈(ただしげ)さん(28)が初参加し、りりしい騎馬姿を披露した。

 戊辰戦争で落城した同藩からは、藩主や藩士らが会津に逃れた。忠慈さんは今年、会津藩領で新政府軍と戦い、没した長岡藩士らを供養する慰霊祭などにも参加し、両地域の結び付きに理解を深めてきた。

 藩公行列では沿道から、「ありがとう」「長岡藩頑張れ」といった声を掛けられた。忠慈さんは「本当にうれしかった。歴史的な絆が若い世代にも伝わるようにしたい」と話した。

会津藩公行列綾瀬はるかさんも参加 戊辰150年
 戊辰戦争(1868~69年)の激戦地の一つとなった福島県会津若松市で23日、旧会津藩の歴代藩主などに扮した人々が市内を練り歩く恒例の「会津藩公行列」が行われた。今年は旧幕府軍の主力だった会津藩が新政府軍に敗れて150年になることから、会津藩と共に戦った「奥羽越列藩同盟」に加わった旧藩ゆかりの人々も参加し、祭りに花を添えた。

 参加者らは、会津藩が最後まで拠点とした鶴ケ城での先人感謝祭と出陣式の後、市内中心部を馬や徒歩でパレード。戊辰戦争前後の会津藩が中心となった2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主演した俳優、綾瀬はるかさんが5年連続で参加した。(共同)
<戊辰戦争150年>会津藩公行列 「同盟」集結 威風堂々
 会津若松市の会津まつりのメイン行事「会津藩公行列」が23日、市中心部であった。戊辰戦争150年の今年は会津藩救済のため結成された奥羽越列藩同盟の加盟藩を中心に編成。俳優の綾瀬はるかさんが5年連続、鈴木梨央さんが初の特別ゲストとして参加した。 歴代の会津藩主や白虎隊をはじめ仙台、米沢、棚倉、長岡(新潟県)の同盟諸藩、「会庄同盟」を結んだ庄内藩、会津藩と共に鶴ケ城に立てこもった凌霜隊の郡上藩(岐阜県)、会津藩再興の地・むつ市などの関係者総勢540人が城下町を練り歩いた。
 出陣式で、NHK大河ドラマ「八重の桜」で山本八重役の綾瀬さんは「お変わりありませんか」の意味の「みんなさすけねーがー」とあいさつ。八重の子ども時代を演じた鈴木さんも「お元気だったなし」とともに会津弁で呼び掛けた。約7キロの沿道には大勢の見物客が詰め掛け、先人への感謝を込めて声援を送った。
 会津まつりは最終日の24日、子どもたちによる日新館童子行列などがある。
戊辰150年に「第9」演奏会松江豊寿の故郷、会津で
 第1次大戦中に徳島県鳴門市の板東俘虜収容所長としてドイツ人捕虜に人道的に接し、ベートーベンの交響曲第9番が日本で初演されるきっかけをつくった松江豊寿(1872~1956年)の功績をたたえる「第9」演奏会が24日、松江の故郷、福島県会津若松市で開かれた。

 演奏会は戊辰戦争150年を記念する一連の行事に合わせて開催。会津市民オーケストラの演奏で、市民でつくる「会津第九の会」のメンバーら約300人が、終楽章の合唱「歓喜の歌」を高らかに歌い上げた。

 節目の年だけに、鳴門市をはじめ北海道、沖縄県など各地の愛好家が合唱に参加した。
いよいよ秋だなぁと思って気合いを入れて栗ご飯を炊いたのですが、昨日今日の暑さで糸を引いてしまいましたorz

福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
会津藩士の「義」継承 戊辰150年式典、記念宣言を発表
 戊辰戦争の激戦地となった会津若松市の戊辰150周年記念式典は22日、同市で行われ、旧幕府軍の主力として戦い抜いた先人らに出席者が敬意を表した。会津藩士らが命を懸けて貫いた「義」の思いは今に受け継がれ、会津の人々の奥底に生き続ける。出席者は、歴史や伝統に包まれた古里の誇りを再確認し、次世代に継承する決意を新たにした。

 会津若松市と市戊辰150周年記念事業実行委員会の主催。会津藩が鶴ケ城を開き、1カ月に及ぶ熾烈(しれつ)な籠城戦に終止符を打った1868(明治元)年9月22日(旧暦)に合わせて行われた。

 約1分間の黙とうで始まり、会場は約1700人の静かな祈りに包まれた。

 先人に対する感謝や平和への願いが盛り込まれた記念宣言が、23日の「会津まつり」会津藩公行列で若殿役を務める一箕中3年の田中麻登(まなと)さんによって発表された。

 宣言は戦争の悲惨さを伝える必要性を訴え、古里を守るために戦った人々と、戦後の苦難を乗り越え功績を残した人々の顕彰に努めると誓った。さらに、会津の精神文化に学ぶ人材の育成と伝統の継承を掲げた。

 小中学生を対象にした作文コンクールの最優秀賞作品も朗読された。謹教小6年の野中律さんは、明治時代に活躍した会津の女性たちの中に「世の中を見る正しい目と、決してゆるがない強い意志」を見て取り、北会津中3年の坂内愛莉さんは「会津の先人は今でも、私たちにたくさんのことを伝えようとしてくれている」と述べた。

 室井照平市長はあいさつで「会津の歴史や先人の活躍を将来を担う次の世代に語り継いでいくことが、私たちの責務ではないだろうか」と呼び掛けた。

 式典ではこのほか、先人の顕彰に尽力してきた14団体を表彰し、会津松平家第14代当主の松平保久(もりひさ)さんが「それからの会津―開城以降の会津人の歩み―」のテーマで基調講演。大河ドラマ「八重の桜」で主人公山本(新島)八重を演じた綾瀬はるかさんや会津会会長の柳沢秀夫さんらによるトークショーが行われた。

会津藩士・佐川官兵衛通じ交流 戊辰150年の節目に会津と熊本
 幕末の会津藩士で、西南戦争の際に熊本県で討ち死にした佐川官兵衛を顕彰している熊本佐川官兵衛顕彰会の興梠(こおろぎ)二雄(つぐお)会長ら10人が21日、会津を訪れた。一昨年の熊本地震で熊本の顕彰碑が壊れた際、会津佐川官兵衛顕彰会などの協力で新たな胸像が建立された経緯があり、戊辰150年の節目とお礼の意味を込めた。

 鶴ケ城三の丸跡地には、官兵衛が戦死した地から寄贈された石で2001(平成13)年に建立された顕彰碑がある。熊本県南阿蘇村にも顕彰碑や供養碑があったが、地震で多くが壊れ、約350万円をかけて新たな胸像を建立した。

 会津若松市で開かれた歓迎会には、会津顕彰会の会員ら約25人も参加。室井照平市長が「毎年碑前祭を開いていただいていることに感謝したい」と歓迎、会津顕彰会の会長を務める菅家一郎衆院議員もあいさつした。

 熊本顕彰会の興梠会長は「官兵衛は部下の規律を徹底し、住民からも慕われた。最後まで会津武士道を貫いた官兵衛を縁に末永く絆をつないでいきましょう」と謝辞を述べた。熊本顕彰会顧問で歴史作家の中村彰彦さんも熊本と会津の縁を紹介した。新井田万寿子市子ども会育成会連絡協議会長が熊本顕彰会の会員に記念品を贈った。

戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

迫力演武「會津鶴ケ城古武道祭」 新選組ゆかりの試衛館初参加
 会津若松市のシンボル・鶴ケ城をバックに各団体が武道や江戸時代から受け継がれる古武道の演武を披露する「會津鶴ケ城古武道祭」は17日、開かれた。戊辰150年に合わせ、会津藩と深い関わりがある新選組の局長・近藤勇などが習得したとされる「天然理心流」の道場「試衛館」(東京)も初参加した。

 同祭実行委員会の主催、市、市教委、福島民友新聞社などの後援。第1部は武道団体の演武で、各団体の会員らが合気道や空手などを披露した。

 第2部は古武道団体の演武で、なぎなたや居合道、杖道などが次々に披露された。初参加の試衛館は高鳥天真館主らが形を披露。防具を付けての実戦も行い、独特の寝技なども披露し迫力ある技を繰り出した。

千葉
戊辰戦争中に沈んだ米国蒸気船、着々と水中調査
 戊辰ぼしん戦争中の1869年、新政府軍の熊本藩士らとともに千葉県勝浦市沖で沈んだ米国蒸気船「ハーマン号」(全長71メートル)の水中調査が着々と進んでいる。5回目の調査を終えたチームは史跡指定や発掘調査を目指しており、地元でも「熊本や米国との交流拡大や、新たな観光資源につながる」と期待が高まっている。

 ハーマン号は、日本に開国を迫ったペリー提督の「サスケハナ号」に迫る当時最大級の蒸気外輪船。いわゆる黒船だ。榎本武揚ら旧幕府軍の討伐のために借り上げられ、熊本藩士ら350人と米国人船員約80人を乗せて函館・五稜郭に向かう途中の同年2月13日、暴風雨で座礁して沈没。地元住民が救助にあたったが、約230人が犠牲になった。

 この沈没船の水中調査を行っているのが、日本水中考古学調査会だ。米国で水中考古学を学んでいた井上たかひこさん(75)が1998年、地元漁協の協力を得て、沖合の水深約10メートルの海底に沈んでいる船を発見し、ハーマン号と特定。同会を設立して会長に就き、調査を続けてきた。

 今年7月下旬には、沈没から150年を前にした5回目の調査を実施。「マルチビーム測深」や「写真測量」といった技術を使い、沈没船や周囲の海底状況などがわかる精密な立体図を作成するためのデータを収集した。食器の破片とみられる磁器片も新たに見つかったという。

 井上さんは「精密な立体図を含む報告書をまとめ、県の史跡指定や、沈没船を引き揚げる発掘調査につなげたい」と意欲を燃やし、「発掘調査が進めば、外輪が付いた船の構造や積み荷などもわかってくる。『海から見た戊辰戦争』という新たな視点も生まれる」と指摘する。

 水中調査の進展に地元勝浦市でも期待の声が上がっており、市観光協会副会長で民宿組合長の江沢修さん(68)は「史跡指定となれば注目度はぐっと増し、新たな観光資源にもなる。熊本側との交流も進む」と胸を膨らませる。

 同市では毎年、犠牲者の慰霊祭が行われ、2012年からは米国大使館員も参加するようになった。これに尽力した同市の海事補佐人、大野幹雄さん(75)も「この地の人たちが乗組員の救助活動を必死で行った歴史に、光がさらに当てられれば。もっと多くの米国人にも知ってもらい、勝浦を訪れてほしい」と願う。

 慰霊祭を主催する「黒船『ハーマン号』を世に出す会」の会長を務める猿田寿男市長も「市としても史跡指定に向けて力を尽くしたい。さらなる日米親善にもつながる」と話している。

東京
明治期の浮世絵師に脚光 今に通じる動画的表現 月岡芳年“血みどろ絵”
 明治改元から150年。美術界では明治期に活躍した浮世絵師に関連し、展覧会や関連本の出版が相次いでいる。幕末から明治の激動の時代に生きた、知られざる優れた絵師の一端が見えてくる。(渋沢和彦)

 東京の練馬区立美術館で開催中の「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展。躍動的な武者絵や妖艶(ようえん)な美人画などとともに、刀で斬られ血が飛び散る刺激的な作品が並ぶ。“血みどろ絵”の絵師、月岡芳年(よしとし)の作品だ。

 天保10(1839)年、江戸に生まれ、明治25年数え54歳で死去した。12歳で歌川国芳に入門して幕末には武者絵などを描いていた。代表シリーズ「英名(えいめい)二十八衆句」は、歌舞伎や講談などの刃傷(にんじょう)沙汰を主題とした28図の血なまぐさい図。国芳門の兄弟子の落合芳幾(よしいく)(1833~1904年)とそれぞれ14図ずつ描いた競作だった。

 芳年は慶応4年、江戸・上野で起こった明治新政府軍と旧幕臣からなる彰義隊との戦いの地を、弟子を連れて取材。「魁題百撰相(かいだいひゃくせんそう)」で表現した。

 「実際に戦の跡地に出向き、しかばねを写生していた。だから芳年の絵は荒唐無稽ではなくリアリズムがあり作品の魅力」と同館の加藤陽介学芸員は解説する。

 関連本の出版も相次ぐ。芳年の血みどろ絵は「英名二十八衆句」「東錦浮世稿談(あずまにしきうきよこうだん)」「魁題百撰相」の3シリーズのみで、40年の画業全体から見ればほんの一部。8月刊行の『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』(中央公論美術出版)は、さまざまな資料を分析し、同時代の絵師とともに芳年の画業の全容を浮かび上がらせる。著者の大阪市立大の菅原真弓教授は「四半世紀前まで、幕末明治の浮世絵は、絵画作品として認識されておらず美術史研究の対象となりえなかった。物語のように見せる視線誘導が動画的であり、現代に受ける」と指摘する。続いて刊行された『鬼才 月岡芳年の世界 浮世絵スペクタクル』(平凡社)も美人画や歴史画を多数掲載し、芳年の異なる側面に光を当てる。

 同時期の浮世絵師の再評価も進む。兄弟子の落合芳幾についても8月、東京都内で80点以上の作品を紹介した初の本格的な展覧会が開催された。近代美術に詳しい帝京大の岡部昌幸教授は「明治の浮世絵は研究の宝庫。豊原(とよはら)国周(くにちか)や三代歌川広重、井上安治(やすじ)ら優れた絵師は多い。今後さらに光が当てられるでしょう」と話している。

 「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展は24日まで、一般1000円。10月28日から、高知県立美術館に巡回する。

 政治体制など社会が大きく変わった幕末から明治前半の美術に焦点を当てた展覧会「明治150年記念 真明解・明治美術 増殖する新(ニュー)メディア」展が、横浜の神奈川県立歴史博物館で開催されている。

 洋画、日本画、木版画、写真などを展示。明治美術の研究・調査を進めてきた同館所蔵品を中心に公開した。

 洋風建築が建ち始めた明治時代。街の風景や風俗を題材にした錦絵を多く描いたのが三代歌川広重だった。版元の大倉孫兵衛(1843~1921年)が制作を後押しし、米国で版画を販売。大倉が旧蔵した錦絵画帖が本展準備中に発見され、中には海外向けを意図して制作された美人画や花鳥画の大型錦絵も含まれる。

 英国人画家、チャールズ・ワーグマンから洋画の習得に励んだ五姓田義松(ごせだよしまつ)(1855~1915年)の油彩画や、渡欧して銅版画技術を身につけ美的な地図を制作した洋画家で版画家の岩橋教章(のりあき)(1835~83年)などの作品も、明治期の美術の多様さを再認識させる。

 30日まで、一般900円。(電)045・201・0926。

新潟
徳川の銀印、15日から公開=昨年発見、15代将軍ら使用-新潟
 江戸時代末期に徳川将軍家が外交文書に使った銀印「経文緯武(けいぶんいぶ)」が、新潟県立歴史博物館(長岡市)で15日から初めて一般公開される。銀印は昨年、徳川記念財団(東京都)が徳川宗家の蔵を整理した際に見つかったもので、幕府が1857年に作製を命じ、翌年結ばれた日米修好通商条約の批准書などに押印された。14代将軍家茂と15代将軍慶喜が使用したという。

将軍家光のかご、福井で発見=側近藩主に下賜

 同博物館では14日、銀印を公開する企画展の開場式と内覧会が開かれた。来賓として招かれた徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(78)は「歴史の積み重ねで現在がある。今の日本につながっているものを見ていただくのはとてもいいことだと思う」と話した。公開は30日まで。(2018/09/14-18:46)

福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

坂本龍馬直筆の花押が記された書簡=19日、福井市の福井県立歴史博物館

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)

西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。


福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)





やっと30度を超える暑い日が去ったかと思ったら、明日の予報は最高気温30度……暑さ寒さも彼岸まで、ですね。。

宮城
<戊辰戦争150年>激戦パネルでたどる 大砲など原寸大の模型も 白石で企画展
 戊辰戦争150年に合わせ、白石市に拠点を置いた奥羽越列藩同盟や東北諸藩が新政府軍と戦った経緯を振り返る「激戦記録パネル展」が、同市中町の寿丸屋敷で開かれている。20日まで。
 河北新報が1988年に連載した企画「戊辰の役百二十年」の記事や掲載写真、戊辰戦争にまつわる絵図などのパネル約50点が並ぶ。緒戦の鳥羽・伏見の戦いから、箱館戦争の終結までの流れを紹介。敗戦後に領地の白石を追われた片倉家臣が北海道に渡り、開拓に命を懸けた歩みをたどる。
 戦争で使われたモルチール砲やスペンサー騎兵銃、ゲベール銃を厚紙で再現した原寸大の模型もある。
 主催した白石まちづくり会社の袴田和由さん(71)は「賊軍の汚名を背負わされた片倉家臣は生活基盤を失い、新天地に懸けた。戦争が何を奪うかという現代にも通じるテーマを感じてほしい」と話す。
 午前10時~午後4時。入場無料。連絡先は同社0224(25)6054。
 白石は母方の祖母の出身地なんですよね。ネットで調べてみたら明治30年代に父親(私から見たら曾祖父)が村長になっていました。一度訪ねてみたいです。

福島
【戊辰150年】会津は見どころ満載(9月15日)
 会津若松市の戊辰百五十年関連の企画や行事が最盛期を迎えている。旧暦の九月は、会津で激しい戦いが繰り広げられ、鶴ケ城は開城された。新暦となっても初秋の九月は観光シーズンと重なり、県内外から多くの人が訪れている。戊辰戦争を新たな視点から捉え直す機会とするとともに、関係する地域が理解を深め合うきっかけをつくっていきたい。
 県立博物館は、福島、新潟、宮城三県の博物館共同企画展覧会「戊辰戦争一五〇年」を開催している。約二百点の展示品のうち、半数の約百点は福島独自の展示品だ。初公開の資料も数多く、興味深い展示となっている。
 必見の一つは、会津藩祖保科正之が眠る猪苗代町の土津[はにつ]神社を描いた「土津神社図屏風」で、戊辰前の様子を伝えている。土津神社は、新政府軍の進攻を前に、猪苗代城代が社殿に火を放って焼失した。焼失前の神社の絵図は数少なく、豊かな自然の中のたたずまいは会津の質実剛健さを感じさせる。県立博物館は数年前に個人から寄贈を受け、展覧会に備えてきた。
 ほかにも、会津籠城戦の女性の活躍を描いた絵詞や新政府軍の「錦の御旗」なども並ぶ。十月十四日までの期間中、視点を会津や東北、越後に置いた展示を多くの人に見て、感じてもらいたい。
 戊辰戦争後の歴史にスポットを当てた企画もある。六十年を経た一九二八(昭和三)年に会津藩主松平容保の孫勢津子さまが、昭和天皇の弟秩父宮雍仁[やすひと]親王に嫁いだ。今年は勢津子さまの生誕百十周年、成婚九十周年の年にも当たり、生誕日の九日には記念式典が催された。勢津子さまや外交官として活躍した父松平恒雄氏らの特別写真展も二十六日まで会津若松市の御薬園で開かれている。二十八日には勢津子さまのインタビューなどをまとめた映像の映写会も予定されている。
 「朝敵」とされた会津藩の汚名をそそぐ出来事として会津人の心に残っている。「あの時にやっと戊辰戦争が終わった」と話す会津人もいる。戊辰戦争そのものに焦点が当てられがちだが、その後の会津に思いを寄せる機会にもなるだろう。
 月末には、最大のイベント会津まつりが展開される。二十三日の会津藩公行列には、仙台、米沢、棚倉、長岡の各藩の行列も編成される。それぞれが、会津藩の救援を目的に結成された奥羽越列藩同盟に加盟した。華やかさを楽しみながら、ゆかりの地同士の絆を一層深める一歩となるよう期待する。(安斎康史)

神奈川
戊辰と明治の歴史観に意見 横浜で新聞各社シンポ
 ニュースパーク(日本新聞博物館)主催のシンポジウム「明治百五十年を報じる視点」は十五日、横浜市中区の同博物館で開かれた。福島民報社、南日本新聞社(本社・鹿児島市)、朝日新聞東京本社、読売新聞西部本社の代表者が近代日本の出発点となった明治時代の明と暗、戊辰戦争の歴史観などに意見を交わした。
 福島民報社の安田信二取締役論説委員長は福島県内で行われている多くの催しの冠に「明治百五十年」ではなく「戊辰百五十年」が掲げられていることを指摘した。その上で、戊辰戦争を題材にした福島民報社の連載企画を中心にした紙面、徳島新聞社と連携したベートーベンの交響曲第九番の日本初演百周年記念事業、戊辰戦争を地元の資料で読み解く歴史講座などの取り組みを紹介した。
 安田委員長は「これまで繰り返されてきた固定的な見方や歴史叙述をさまざまな資料に基づいて検証する必要性がある」と提起。江戸幕府から明治新政府への政権交代前後の動きや戊辰戦争の各地の戦闘にとどまらず、経済や外交、思想、文化、人々の暮らしなどの幅広い視点で時代を捉え直す大切さを訴えた。戊辰戦争を武士の戦いとしてだけでなく、戦場に駆り出された人々の様子や物資の徴発を含め、当時の世の中全体を多面的に見る重要性にも触れた。
 南日本新聞社の原田茂樹文化生活部長は、薩摩藩が明治維新や近代化政策を主導できた背景を説明した。読売新聞西部本社の丸茂克浩社会部次長は簡単には和解できなくても互いの立場を理解することは可能だとした。朝日新聞東京本社の宮代栄一文化くらし報道部編集委員は「歴史を虚心坦懐(たんかい)に見つめることが大事」と述べた。
 共同通信社の橋詰邦弘論説委員長がコーディネーターを務めた。討論会に先立ち、政治学者の姜尚中(かん・さんじゅん)東大名誉教授が「明治百五十年とそのレガシー」と題して講演した。

( 2018/09/16 09:27 カテゴリー:主要 )

新潟
徳川の銀印、15日から公開=昨年発見、15代将軍ら使用-新潟
 江戸時代末期に徳川将軍家が外交文書に使った銀印「経文緯武(けいぶんいぶ)」が、新潟県立歴史博物館(長岡市)で15日から初めて一般公開される。銀印は昨年、徳川記念財団(東京都)が徳川宗家の蔵を整理した際に見つかったもので、幕府が1857年に作製を命じ、翌年結ばれた日米修好通商条約の批准書などに押印された。14代将軍家茂と15代将軍慶喜が使用したという。

将軍家光のかご、福井で発見=側近藩主に下賜

 同博物館では14日、銀印を公開する企画展の開場式と内覧会が開かれた。来賓として招かれた徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(78)は「歴史の積み重ねで現在がある。今の日本につながっているものを見ていただくのはとてもいいことだと思う」と話した。公開は30日まで。(2018/09/14-18:46)
この度の台風21号、また北海道地震により被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、亡くなった方々にお悔やみを申し上げます。私が関西に住んでいた兵庫県尼崎市も台風により各地で停電が発生し、今もまだ現場で必死の復旧作業が続いている由。

宮城
戊辰戦争から150年 仙台藩の戦い足跡たどる
 幕末から明治維新に向かう混乱期に繰り広げられた「戊辰戦争」から今年で150年。政府軍に刃向かった「賊軍」と扱われてきた仙台藩の動向をまとめた「仙台藩の戊辰戦争」が地元の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」から刊行されるなど、注目が集まっている。朝廷に敵対したとして“汚名”を着せられた仙台藩だが、改めてその足跡を見に行こう。

 戊辰戦争は慶応4(1868)年1月、京都市郊外での鳥羽・伏見の戦いに始まり明治2(1869)年5月の函館戦争(現在の北海道函館市)で終結する一連の内戦。新体制の確立を目指す新政府軍(薩摩、長州藩など)と、旧幕府軍(仙台、会津藩など東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成)が衝突した。戦いは新政府軍の勝利に終わった。

戦いに散った藩士

 仙台藩主、伊達家の霊廟(れいびょう)として知られる「瑞鳳殿(ずいほうでん)」(仙台市青葉区)の山道を行く。一角にひっそりとたたずむ「弔魂碑」があった。

 「仙台藩の戊辰戦争」の著者で郷土史家の木村紀夫さんは「初めて弔魂碑を訪れたときは雑草が生い茂り、国に殉じた藩士たちが仙台市民からも遠ざけられているようで気の毒に思った」と話す。

 碑は戦争で落命した仙台藩士など1260人と民間で犠牲になった多くの人々をまつっている。明治10(1877)年に伊達家と仙台藩士の子孫らの手で建立された。

 奥羽越列藩同盟の中で中心的な役割を果たした仙台藩。複雑な政治状況の中で翻弄され、多くの犠牲を払ったと同情的な見方をする意見も少なくない。

 同市観光課の担当者は「瑞鳳殿は伊達家の霊廟としてスポットを当てられることがほとんど。戊辰戦争150周年を機に弔魂碑を訪ねてほしい」と話す。

 その上で、「新政府軍と奥羽越列藩同盟という対立構図だけでなく当時の政治的状況にも思いをはせてほしい。歴史を再評価するためにも知識をつけるきっかけになってほしい」と碑の意義を強調した。

 仙台市博物館では10月26日~12月9日まで特別展「戊辰戦争150年」が開催される。


激動の人生歩んだ宮さま

 新政府軍の優勢で展開する戦い。同盟軍は後退を余儀なくされる。同盟の盟主と仰がれたのが輪王寺宮(りんのうじのみや)親王。明治天皇の叔父に当たる人物だ。親王は同盟の軍事総督を務めた。

 親王の仙台での暮らしぶりを知りたくなって、「仙岳院(せんがくいん)」に足を向けた。東照宮のほど近くにある寺院だ。江戸時代、承応3(1654)年に建立。以来、東照宮の別当寺として歴代藩主が東照宮を参拝する際などに身支度に立ち寄るなど藩にとって格式高い寺としてその任務をまっとうしてきたという。

 親王は仙岳院で戦局の悪化によって同盟が崩壊するまで約3カ月にわたり生活した。実際に親王が暮らした建物は現存していないが、そこで生活していたことを示す貴重なゆかりの品々を見ることができる。愛用の茶碗、硯(すずり)、印籠…。戊辰戦争後はドイツ留学、日清戦争出征、そして、台湾で死去…。激動の人生を歩んだ。

 住職の吉田真賢(しんげん)さん(58)は「時代に翻弄されたのが輪王寺宮。150年を迎え、改めてここで暮らしていた証しを見に来てほしい」と話した。

 節目の年に仙台藩の足跡をたどってみると、維新の英雄たちの陰に埋もれた歴史を掘り起こす機会になるかもしれない。
(東北総局 塔野岡剛、写真も)

 仙岳院 仙台市青葉区東照宮1の1の16。JR仙山線東照宮駅から徒歩5分。拝観は無料。(電)022・234・3986。

 瑞鳳殿 仙台市青葉区霊屋下23の2。地下鉄東西線「大町西公園」から徒歩15分、JR仙台駅西口バスプールから仙台市営バス「霊屋橋・瑞鳳殿入口」下車、徒歩10分。拝観料は一般550円。(電)022・262・6250。
福島
福島)世良修蔵ゆかりの長楽寺で戊辰戦争の展示会
戊辰戦争で新政府軍の拠点が置かれた福島市の長楽寺で、展示会「福島の戊辰戦争―幕末の動乱と福島藩」が開かれている。2日、多くの人が訪れて幕末の時代に思いをはせていた。

 長楽寺は会津藩を攻めるための奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府軍事局が置かれた場所で、開戦の一因となった仙台藩士らによる総督府下参謀・世良修蔵殺害事件に関する資料を保存している。展示会では、世良が薩摩藩士・大山格之助に宛てた密書と見られる書簡や、世良が持っていたとされるミニエー銃など約40点が公開されている。

 曽祖母の法事で長楽寺を訪れた郡山市立明健中3年の小松朋佳さん(14)は「教科書に載ってあることが詳しく書いてあっておもしろい」と話し、興味深そうに展示を眺めていた。長楽寺とともに展示会を主催した福島市・市史編纂(へんさん)室の柴田俊彰さんは「150年前の福島が歴史の流れの中で揺れ動きながら、どのように近代国家へと向かっていったかを感じてもらいたい」と話していた。

17日まで。6日午後1時半か…
 以降は朝日新聞有料版にて。

東京
コラム展「錦絵で見る戊辰戦争」
今年は、1868年に起こった戊辰戦争から150周年。そこで、明治大学博物館では、コラム展『錦絵で見る戊辰戦争』を開催します。 ※常設展示室 刑事部門内の小規模な展示です。また、期間中に展示替えを2回行います。全点入れ替えますので、お目当ての錦絵がある方は展示期間内にお越しください。ご来館お待ちしております。<第一弾:2018年8月29日(水)~10月9日(火)の展示>『山崎大合戦図』照皇斎貞広画※ポスターに使用している錦絵です。ぜひ、展示期間内に実物をご覧ください!『東台戦争落去之図』惺々暁斎画『会津戦争紀聞』真匠銀光画『諸国武者八景函館湾』一魁斎芳年画


神奈川
企画展戊辰戦争と横浜の関わりを多角的に 民衆資料や「開港都市の明治元年」 歴史博物館と開港資料館で同時開催 /神奈川
 明治維新150年を記念し、戊辰戦争(1868~69年)と横浜の関わりをテーマとする企画展「戊辰の横浜」が、横浜市歴史博物館(横浜市都筑区)と横浜開港資料館(同市中区)で同時開催されている。両館による連携企画で、新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争について、横浜との意外なつながりを多角的にひもとくことができる。

 横浜市歴史博物館は「名もなき民の慶応四年」と題し、戊辰戦争時の横浜を、民衆らが書き残した資料で明ら…
 以降は毎日新聞有料版にて。

佐賀
明治維新と唐津藩(6) 大野右仲新選組・土方の右腕
唐津市近代図書館美術ホールで開催している特別企画展「唐津藩と明治維新―小笠原長行と長国、維新と戦った男」は、九州で初めて本格的に新選組関係の資料を展示したこともあってか、多くの新選組ファン、特に10代から20代の若者たちの来場が見られます。

 企画展では箱館新選組に入隊した唐津藩士大野右仲(おおのうちゅう)にもスポットをあてています。一時期は新選組のトップの頭取として、五稜郭政府樹立後は陸軍奉行添役として、土方歳三付きの副官として共に戦い、土方の最後の命令や亡くなった状況を『函館戦記』に記した人物で、『函館戦記』の草稿や豊岡県時代に権参事を務めていた際の政令等の写しなどを展示しています。

 特にあまり知られていませんが、明治27(1894)年から明治29年にかけて、久敬社の幹事(監事。管理・運営責任者)を務め、寄宿する唐津出身の学生たちの育成に努めています。

 この時期に刊行された『久敬社誌』を見ると、右仲は学生たちにも非常に慕われ、久敬社で集会等が行われた際、右仲がたびたび講演を行っていましたが、ほとんどが戊辰戦争の話をしたと記されています。内容について記されていないのが残念ですが、明治20年代後半になっても、戊辰戦争は右仲にとって、さまざまな意味で一生大事にしたい事象だったと考えられます。

 また、右仲から『函館戦記』(原本)を借りて学生や久敬社役員たちが写した記録も残っており、『久敬社誌』を見ると、今まで知られていない唐津の後輩を育てる教育者としての右仲の姿が垣間見られます。

 写真がほとんど残っていない右仲ですが、久敬社の学生たちと一緒に写り、りりしい顔もはっきり分かる右仲と考えられる人物の写真も展示しています。期間は9月21日までです。


鹿児島
西郷直筆の書や刀展示、戊辰戦争の資料も…南九州
 鹿児島県南九州市立博物館「ミュージアム知覧」で、企画展「戊辰ぼしんの記録 西郷の記憶」が開かれている。明治維新150年にあたり、当時の人々が体験した戊辰戦争や西南戦争に焦点を当て、地元に残る資料約40点を展示している。24日まで。

 戊辰戦争関係では、従軍した人たちの日記を展示している。戦闘がないときは酒盛りや記念撮影、歌舞伎見物をするなど、比較的自由に行動していたことがわかる。また、西南戦争の官軍は「故郷へ帰れなかった」とされるが、官軍の人物を顕彰する武者行列が行われていたことを示す資料もある。

 西郷隆盛の自筆とされる書や刀のほか、西南戦争を伝える錦絵に描かれたひげ面の西郷や、狩猟が好きだった西郷が川辺地域を訪れていたことを示す調査結果も展示されている。

 同館は「戊辰戦争や西南戦争で地元の先祖が果たした役割や、地元に伝わる資料などを知ってほしい」としている。

 水曜休館。入館料は高校生以上300円、小中学生200円。企画展の展示品は撮影可。問い合わせは同館(0993・83・4433)へ。


京都
幕末の豪農日記、初の一般公開 京都、新選組動向記載で注目
 幕末期の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川軍記が30年近く書き続けた日記が1日~12月2日、南区の国登録有形文化財の長谷川家住宅「長谷川 歴史・文化・交流の家」で公開されている。昨年、新選組の動向を記した新史料として注目された日記で、当時の農村の暮らしぶりも詳述されている。一般公開は初めて。

 日記は、軍記が当主となった1845年から死去した1871年までに書いた計27冊。冊子は縦12センチ、横34センチで1年ごとに記入されている。内容の一部を抜粋したパネルも展示する。

 軍記は農民だが、公家の家来を一時務めていた。日記には侍姿で夜明け前に公家屋敷に出勤したことや、公家と決裂して免職されたことなどが記され、当時の農民と公家の関係性もうかがえる。

 通説では、江戸時代に誕生日を祝う習慣は一般的にはなかったとされるが、毎年自分の誕生日を赤飯で祝ったとの記述もあった。当時、四条橋東詰にあった北座や南座まで芝居見物に出かけたことや、村で悪病よけの踊りが流行したことなども書き残している。

 禁門の変が起きた1864(元治元)年の日記には、東九条村に新選組と会津勢が下宿し洛中に攻め上る長州勢を警戒、撃退したことも記されており、昨年、新史料として注目された。展示では、当時の会津藩兵の軍勢行列図や、下宿の謝礼として会津藩から送られた花鳥図も紹介する。

 展示を監修した伊東宗裕佛教大非常勤講師は「当時の洛南の農村の様子や軍記の人柄も分かる貴重な史料」としている。

 開館は毎週土日・祝日午前10時~午後4時。11月23日休み。大人800円。9月9日、10月14日、11月11日に伊東氏が、10月20日には地元農家田中和久氏がそれぞれ講演する。問い合わせは同交流の家075(606)1956。

滋賀
幕末の倒幕運動「天狗党の乱」、地域有力者が情報収集 「和田峠の戦い」で偽情報も 滋賀・長浜で聞き書き資料発見
 幕末の元治元(1864)年、水戸藩浪士が起こした倒幕運動「天狗(てんぐ)党の乱」で、鎮圧に向かった幕府軍が敗れた和田峠の戦い(長野県)の様子を滋賀県長浜市高月町西野で庄屋を務めていた人物が県内の宿場町で聞き書きした資料が、同地区の子孫の家で見つかった。当時、天狗党は京都を目指して進軍中。県内の通過も予想されたことから、地域の有力者が積極的に情報収集していたことがうかがえるという。

 高月観音の里歴史民俗資料館(長浜市高月町渡岸寺)の西原雄大(たけひろ)学芸員が調査し、明らかになった。

 資料は「水戸藩浪士一条之聞取写(みとはんろうしいちじょうのききとりうつし)」(縦12・3センチ、横35・4センチ)。後書きに、天狗党が降伏する約2週間前の元治元年12月5日、村庄屋の野洌村右衛門(やすそんえもん)が、中山道柏原宿(米原市柏原)で聞いた-などと記されている。

 内容は天狗党の首謀者の名前や戦闘で使われた武具の絵、挙兵後の動き、和田峠の戦いなどを記録。ただ、和田峠の戦いでは「幕府軍が勝利し(天狗党の)600人中400人に戦闘をやめさせた」などと、史実に反する事柄が記されていた。

 西原学芸員は「戦闘中の混乱で誤って伝えられたのか、天狗党に加勢しようとする民衆を抑えるため、偽情報をつかまされた可能性も否定できない」としている。情報元は幕府の役人ではないかと推測する。

 天狗党は挙兵した筑波山(茨城県)から京都に向かう途中、敦賀(福井県)で幕府に降伏。関係者が処刑された。

 今回の資料は、同資料館で開催中の企画展「西野水道と西野のくらし-野洌家文書が語るもの-」で展示している。9月3日まで。問い合わせは同資料館(電)0749・85・2273。

兵庫
仏皇帝の装束、あまり威厳感じず…幕末武士が日記に
 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料
 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も
 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく、受け取った日付を書き加えたものもある。当時は欧州と中国上海の間には定期郵便船が運航されたが、上海と日本の間は商船や軍艦が手紙を運んだとみられ、日本からドイツのベルリンまで最速2カ月半で届いたことや、郵便事故で4通は届かなかったことなど、幕末の郵便事情も知ることができる。

女性が男性に指図、驚き
 また、黒澤は日記の中で、パリで謁見(えっけん)したフランス皇帝ナポレオン3世の装束について「帝王と申しても、変わりし装束等これなき由(よし)」と記し、あまり威厳を感じなかったことを打ち明けていたほか、家族に宛てた手紙には、西洋では女性が男性の先に立ち、男性に指図することに驚いた、などと書いていた。冨川さんは「黒澤のような一般にはあまり知られていない人物の声を聞くことは、知られざる歴史を掘り起こすことにもつながる。今後も分析を進め、史料の全容を明らかにしていきたい」と語った。

 企画展は9月9日まで。問い合わせは生野書院(079・679・4336)へ。(渡義人)

     ◇

 〈文久遣欧使節〉 兵庫や新潟の開港延期交渉などのため、文久元(1861)年12月から約1年かけ、欧州6カ国を巡った総勢38人の幕府使節団。各国と開港延期で合意し、一定の成果をあげた。

愛媛
維新期に「戦わない」決断下した幕府方・松平定昭 松山で「幕末維新と松山藩」展
 明治150年を記念した特別企画展「幕末維新と松山藩-時代の激流、人々の決断-」が市立子規記念博物館(松山市道後公園)で開かれている。9月3日まで。

 松山藩は江戸幕府の親藩。幕末維新期は幕府方として行動し、新政府から「朝敵」とされた。21歳で老中に就任し、戊辰戦争で幕府軍に加わった同藩14代藩主、松平定昭は抗戦か降伏かの決断を迫られるなか、側近の筆頭家老、奥平弾正や大原観山(正岡子規の祖父)らが尽力し、降伏を決断した。

 展示は、幕末維新期の激流に向き合った藩士らの軌跡を追う展開で、観山の肖像画など初公開資料7点を含め96点を公開。定昭の抗戦の決心や、降伏への説得工作、土佐藩が松山城を開城した際の記録など、難局を乗り越えて新時代へ向かう姿が浮かび上がる構成となっている。

 同館の西松陽介学芸員は「戦わない英断を下したことで、次世代の偉人(秋山好古ら)が育ち、文化人が活躍する源流につながった」と話した。

 火曜日休館。問い合わせは同館(電)089・931・5566。

山口
幕末吉田松陰と弟子の往復書簡発見 徳川光圀の書勧める
 山口県萩市の松陰神社は28日、幕末の思想家・吉田松陰(1830~59年)が、松下村塾の教え子だった長州藩士、前原一誠(まえばらいっせい)(34~76年)とやり取りした往復書簡が見つかったと発表した。松陰は、中国の「四書」や徳川光圀らによる書物など読むべき書物を列挙して前原に伝えており、維新の志士たちを育てた松陰の指導者としての姿が浮かび上がる。

 書簡(縦16.7センチ、横52.3センチ)は2006年、前原の子孫が神社に寄贈した史料約2600点のうち、読書記録の冊子に挟まれていた。1857年に書かれたとみられ、学問の方法について教えを請う前原の手紙の裏面に、松陰が朱色の墨で返信をしたためた。

 四書の他に「国史略」「十八史略」など日中両国の歴史書など計11点を挙げ、前原の意思次第で議論に応じるとつづった。さらに儒学者の林羅山(はやしらざん)や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)ら8人を「心に刺さり、人を動かす言葉がある」と評価。徳川光圀、上杉鷹山(ようざん)ら江戸時代の「名君」6人の書物も読むことを勧めている。

 前原は松下村塾で洋学を学び、尊皇攘夷(じょうい)運動に加わった。維新後は政府の参議などを務めたが、木戸孝允らと対立し1870年に萩へ戻った。6年後、不平士族を率いて「萩の乱」を起こしたが、敗走して捕まり、萩で処刑された。

 書簡は来年4月8日まで同神社の特別展で展示される。【遠藤雅彦】




 私は『西郷どん』第一話で脱落しましたが、下記は必読です。

コラム
これだけはおさえておきたい、幕末についての新常識『西郷どん』をより楽しむために
町田 明広
大河ドラマなどでも人気の幕末維新。幕末というと、必ず持ち出されるのが「尊王攘夷」派vs.「公武合体」派の構図だが、じつは幕末研究ではそうした見方はされなくなっている。これだけは知っておきたい新常識を、大河ドラマ「西郷どん」放映後のTwitterで話題の町田明広神田外語大学准教授が紹介する。
〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立しない
2018年は明治維新150年であり、今年に限らず、ここ数年は「~から150年」という具合に、日本中の博物館で関連する企画展が目白押しであり、出版物も溢れかえっている。筆者も明治維新史を専門としているだけに、ありがたいことに講演や出版など、たくさんのお声掛けをいただいている。幕末史は、今も昔も人気が高い時代である。

ところで、2018年の大河ドラマは「西郷どん」である。この1月から3月まで、NHKカルチャーラジオ「西郷隆盛 その伝説と実像」を担当した。そのご縁もあり、また、ドラマで描かれる「伝説」が「実像」と見られてしまい、一人歩きしてしまうことを心配し、毎週ドラマ放映後、可能な限りtwitterでその回の時代背景などを発信しているが、一気にフォロワー数が飛躍的に増え、反応も想像をはるかに超えている。関心の高さに驚かされた。

京都御所。photo by iStock
その一方で、実証的な研究の深化にもかかわらず、なかなか世間では、その成果が浸透していないと感じている。『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)では、幕末史を分かりにくくしている要因として、歴史用語の使い方を指摘した。例えば、一般的に幕末の政争は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」と言われつづけている。そもそも、「尊王攘夷」は、後期水戸学を大成した藤田東湖(ふじたとうこ)が生み出した歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念を、合体させている。また、「公武合体」は、朝廷と幕府を融和して、国内を安定させようとする国体論である。つまり、〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立する概念ではないのだ。この時期、日本人であれば多かれ少なかれ全員が〈尊王〉であり、〈攘夷〉であり、〈公武合体〉であった。この件は、その後も機会があるごとに言いつづけているが、残念ながら浸透したとは言い難い。

「未来攘夷」と「即時攘夷」
『攘夷の幕末史』では、当時の政治的対立は何に起因していたのか、この複雑な幕末史を紐解くために、そして、その政争の本質を見抜くために、「攘夷」という歴史的用語を最重要キーワードとして取り上げた。なぜならば、幕末というのは、この攘夷によって衝き動かされ、形作られていたからだ。当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、安政5年(1858)に結ばれた通商条約の是非にあり、その対立する思想は、「大攘夷」と「小攘夷」であると論じた。その後、筆者なりに対外認識論の研究を深め、その成果をまとめたものが『グローバル幕末史』(草思社、2015年)であり、そこでは「未来攘夷」「即時攘夷」論を展開した。

「未来攘夷」「即時攘夷」論を基に、幕末史前半を概観して見よう。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかもしれない未曾有の危機を迎えた。しかし、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに欧米列強と接触するじゅうぶんな準備がなされていた。江戸幕府は中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。 

ペリー来航。photo by Getty Images
しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させるに値した。我が国の対外政策は、撫恤(ぶじゅつ)政策である薪水(しんすい)給与令に改められ、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとした。その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。

通商条約と孝明天皇
幕府は和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。岩瀬忠震(いわせただなり)ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。この積極的な開明路線は、老中阿部正弘(あべまさひろ)の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。この積極的な開明路線への転換には、幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であった。攘夷を声高に叫びつづけた徳川斉昭(とくがわなりあき)ですら強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。

通商条約は、鎖国から開国への対外方針の転換であると同時に、国体の転換を伴うものであった。問題は、国体の転換が自身の御代に起こることを痛烈に嫌い、勅許を許さない孝明天皇(こうめいてんのう)の存在であった。幕府は列強と朝廷の板挟みとなり、窮した挙げ句に通商条約を勅許なしで調印(1858)してしまった。我が国は通商条約を締結し、対外的には開国政策を取りながら、国内的には、国是は依然として「鎖国」(攘夷)のままであった。そこで幕府は、開明路線から「未来攘夷」へと舵を切った。今回の通商条約は一時的なもので、いずれ攘夷を実行すると宣言したのだ。朝廷に対する方便でもあったが、幕閣の意志はまちがいなく、武備充実後の攘夷実行にあった。

長州と薩摩
一方で、孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とする松下村塾グループに引っ張られた長州藩や、三条実美(さんじょうさねとみ)などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、「即時攘夷」を唱えて国政をリードした。富国強兵を図って、世界に雄飛しようとする長州藩の主張は、航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許がある通商条約しか容認しない立場であり、尊王をないがしろにした幕府のやり方には断固として抗する強烈な志向があった。

しかし、長州藩は下関戦争(1863〜64)によって、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも失脚してしまい、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。しかも、その1年後に通商条約は勅許されてしまい、理論的には我が国から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされた。

一方で、薩摩藩は島津斉彬(しまづなりあきら)による集成館事業や建艦などの富国強兵策が実行されていた。斉彬も、その路線を引き継いだ久光(ひさみつ)も、海洋国家特有の開明的な世界観を有しており、「未来攘夷」を志向して国政への参加を画策していた。通商条約の締結後は、小松帯刀(こまつたてわき)が中心となって、積極的に軍艦や武器の買い付けに奔走しており、幕府を軽んじて藩地における開港すら視野に入れ、さらなる富国強兵策を推進しようと企図していた。そんななかで起こった外国人殺傷事件の生麦事件(1862)は、まさに偶発的な事件であり、薩摩藩の世界観の変化によって生じた攘夷行動ではなかった。その後の薩英戦争(1863)も、イギリス側は戦闘に及ばないと確信していたほどで、事実、薩摩藩の「未来攘夷」志向はゆるぎのないものであった。しかし、イギリスの要求が誤伝されたため、戦闘に至ってしまうのだが、この衝突が転じて福となり、薩英両国は友好関係を築くことになる。こうした経緯を経て、幕末史は後半の元治慶応期を迎えることになったのだ。

小松帯刀。国立国会図書館蔵
岩瀬忠震という人物
ところで、『攘夷の幕末史』はたくさんの人物にスポットを当てたが、そのなかでも岩瀬忠震を世に送り出せたのではないかと自負している。もちろん、それまでも岩瀬伝はあったものの、かなり時間が経過しており、筆者が再発掘した金山であった。岩瀬は驚くほど開明的な政治家であり、かつ、ずば抜けて卓越した外交官であり、ハリスとの交渉を主導し、安政五ヶ国条約すべての調印に関わった。攘夷の思想を持ちながら、日本の植民地化を阻止し、将来の世界への飛躍を期して武備充実など富国強兵を図るため、あえて開国に踏み切った岩瀬の志を見誤ってはならない。

岩瀬は、「この調印の為に不測の禍(わざわい)を惹起して、あるいは徳川氏の安危に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、この場合に臨みては、社稷(しゃしょく)を重しとするの決心あらざるべからず」(福地桜痴『幕末政治家』)と述べている。岩瀬は、このなかで幕府よりも社稷(国家)が大切であるとの認識を示している。幕府よりも日本国家が重要であると言い放った彼を、後世の我々はきちんと顕彰し、偉大な日本人として記憶に止めるべきであろう。

『攘夷の幕末史』では、その他、坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤長次郎(こんどうちょうじろう)の攘夷思想についても未来攘夷の代表として言及した。しかし、彼らの活躍や政治的スタンスなど、じゅうぶんに論じきれたかは心もとない。両者については、年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)を手に取っていただき、ブラッシュアップされた新たな論考をご期待いただきたい。

大河ドラマ「西郷どん」も慶応期に突入し、いよいよ明治維新を迎える。『攘夷の幕末史』では、西郷隆盛には言及がほとんどできなかったが、その後、『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版、2017年)を執筆する機会をいただいた。史実とドラマの差異を発見するなど、存分に楽しんでいただけたら幸甚である。
 年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)、楽しみです。

幕末の志士たちは「テロリスト」だったそしてジェダイはダークサイドに落ちた
幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられている。『志士から英霊へ』を書いた東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅教授に聞いた。
幕末の志士は現在で言えばテロリスト
──「志士から英霊へ」と評価が変わったわけですか。

日本の過去の人物像や歴史的事件に関して、すばらしいもの、褒めたたえるべきものだけを並べればいい、先人たちがした失敗や、ほかの国にかけた迷惑を語るのは自虐的だとの主張がある。だがもちろん、明るい面と暗黒面をきれい事にしてまとめるのは、歴史認識として正しいあり方ではない。

むしろ逆だ。歴史に学ぶとは失敗に学ぶのであって、成功譚を褒めたたえても、それは歴史を学んだことにならない。中国では昔から「歴史を鏡にする」という表現がある。中国人が日本の要人に会うたびに使う言葉だ。同じ失敗をしないために歴史が存在するという考え方といっていい。

明治150年を語るのであればむしろ、その間に起きたことの負の側面を含めて語るべきなのだ。幕末維新の志士という言い方がされてプラスの評価ばかりが目立つが、彼らは暴力に訴えてでも世の中を変えるべき、自分たちの考えと違う政治を行っている政権担当者は殺して構わないという考えを持っていた。つまり現代社会においてはテロリストだ。

それを現在の日本国政府が、つまり世界中に蔓延するテロリズムと戦う姿勢を標榜する政府が、明治150年だからといって過去のそうしたテロリズムを礼賛するのは自己矛盾になる。

──この本は西郷隆盛と吉田松陰の「2人のジェダイ」についてから書き下ろされています。

実は私は「スター・ウォーズ世代」。『スター・ウォーズ』には、西欧にない考え方を映画の中に生かすためなのか、研究対象の中国思想の気(フォース=銀河をつかさどるエネルギー)という言葉が盛んに使われている。

ジェダイ(秩序と平和の守護者)はいわば志士だし、彼らが戦った相手、もしくは作り上げようとしたものがエンパイア。そして暴力やテロリズムに訴えるようになってしまい、ダークサイドに落ちたりもする。この4つのキーワードを遊びの精神から各章タイトルに割り振ってみた。

松蔭は独善的だった
──西郷については「敬天愛人」に絡む話が中心です。

西郷はあるときから敬天愛人を座右の銘にし、好んで揮毫したという。ただ、この言葉の由来について本人は語っていない。関連する記述は、死後に出版された聞き書き本『南洲翁遺訓』の中にある。1868年に教育者の中村正直が「敬天愛人説」という文章を書き、これが当時よく読まれ、西郷も知っていたはずだ。


小島毅(こじま つよし)/1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も多数。著書に『儒教が支えた明治維新』『増補 靖国史観』『朱子学と陽明学』『近代日本の陽明学』など(撮影:吉濱篤志)
──松陰もジェダイだった?

彼はむしろ偏った見方をする人だ。自分の信念を貫くために、それに従わない人たちを間違いと決め付ける。対話や議論を求めていくのではなく、書物や教えを通じて得たものに基づいて作り上げた自身の信念こそ正しいと突き進んでいく。

儒教の古典『孟子』の中にある言葉、至誠を根拠にして、誠を尽くせば皆わかってくれるはず、と独善的に事を運ぶ。思想史的に位置づけ直すと、兵学をあずかる形で養子に行ったことから、責任感を持って軍学を身に付け、その結果として、正真正銘のテロリストになっていった。

──教育者としての評価も。

玖村敏雄の著作『吉田松陰』が1936年に刊行され、その中で教育者として立派だったとの像が打ち出された。これが広く読者に浸透したようだ。戦前における尊皇派、天皇崇拝者としての松陰像が封印され、教育者、人格者としての松陰という像が作られて、今に引き継がれている。

──彼はダークサイドに落ちた?

正義のために戦っているつもりが、闇というものに引き寄せられていく。『スター・ウォーズ』でもよく描かれていると思う。単純な善悪二元論、勧善懲悪ではない。善の中にすむ悪の魅力、それこそが悪の魔力なのであり、最初から悪だとわかっていたら、力を持たない。日本語でいうところの「心の闇」。それを幕末の志士たちの生き方に重ね合わせると、彼らはなぜテロリストになってしまったのかがわかってくる。

自分たちの目指す正義が阻まれていると感じたときに、妨害するものを力ずくで排除しようとする。結局、自分たちが敵と考えていた人たちと同じ側に立ってしまう。他者を抑圧あるいは弾圧する。それがダークサイド。

尊皇攘夷のために暴力に頼った
──いわば絶対正義。

人を引き込む作用をする。『論語』にある身を殺してなすべきこと、殺身成仁に該当する。『太平記』の児島高徳の逸話に学び、太平記を翻案した『日本外史』を読むことでそうした知識を身に付けてあこがれたジェダイたちが、ダークサイドに落ちる入り口の尊王攘夷を目指す草莽(そうもう)の志士に育っていく。

──エンパイアの理念も背景に。

中国の宋学が、水戸学によって幕末期に影響を与えることにつながる。皇帝、日本の場合は天皇を頂点にいただく政治秩序をどう構想したか、それ以前とは違う形でどう作り上げたかという説話がエンパイアの理念だという位置づけになる。それこそがダークサイドに落ちていったジェダイたちが実現しようとしたことで、暴力革命、つまり尊王攘夷のために暴力に頼ることになる。


『志士から英霊へ: 尊王攘夷と中華思想』 (小島 毅 著/晶文社/2000円+税/256ページ)。
──水戸学はなぜ受け入れられたのですか。

思想内容の魅力はもちろんあるが、広めた人として頼山陽に加えて曲亭馬琴の役割が大きい。漢文で物を書く人ではなく、『南総里見八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月』が儒教道徳を教えている。ちなみに八犬伝の8つの数珠玉はすべて儒教の徳目だ。必ずしも水戸学と限定されないが、この手の本を通じて、小説を読むことができるような人たちに、儒教思想が取り込まれていく。かつて私は頼山陽を司馬遼太郎になぞらえたが、むしろ馬琴ではないかと最近考えを変えた。

──藤田東湖の役割は。

水戸学の中心人物。非業の死を遂げた人たちを英霊と呼び、靖国神社がこの言葉を取り入れた。反逆の罪に問われて死罪となった松陰は、明治になってよみがえり靖国神社に祭られ、西郷は逆臣として死んだので祭られていない。

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