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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
安倍政権が演出「祝明治150年」の陰で 「会津は戊辰を忘れない」論
 安倍晋三政権は今年、「明治維新150年」を唱え、祝賀ムードを全国に広めようとしている。しかし、旧薩摩、長州藩(鹿児島、山口県)を主力とする「西軍(官軍)」に敗れて「賊軍」の汚名を着せられた側では、「明治維新」ではなく「戊辰戦争150年」を掲げる自治体も少なくない。「祝いじゃない。悲しみのときだ」と。怒りの記憶と、忘却について考えた。【藤原章生】

 戊辰戦争で最大の犠牲者が出た会津藩の拠点、福島県会津若松市では、薩長が率いた明治政府、その流れをくむ地域や子孫への怒りが今もあるのか。

 会津藩が19世紀初頭に築いた藩校「日新館」(今は観光施設)の館長、宗像精(ただし)さん(85)を訪ねると、1935年版の歴史教科書「尋常小学国史」をまず読み上げてくれた。<会津藩主松平容保(かたもり)は、奥羽の諸藩と申し合はせ若松城にたてこもって官軍にてむかった>。戊辰戦争で最大の激戦となった会津戦争についての記述である。東北地方で仙台藩に次ぐ規模を誇り、城下で約4万人が暮らした会津藩は、女性らの自殺も含め数千人の死者を出したとされる。「小学6年向けの教科書だから賊軍や朝敵という言葉を使っていないけれども、官軍に『てむかった』とはっきり書いてある。賊軍、悪者ってことだ。薩長中心の官僚が演出した、こんな欺瞞(ぎまん)と歪曲(わいきょく)の歴史を会津の子供たちにも学ばせた。薩長憎しは簡単に消えるもんじゃない」

 宗像さんは、元会津藩士で東京帝大の総長まで上り詰めた山川健次郎監修の「会津戊辰戦史」(33年)を取り出し、「敵軍(西軍)の暴掠(ぼうりゃく)」の章を示す。「『敵は野蛮の甚しき行いのみ多かりし』とある。農工商民から金品、家財、娘らを奪い、薩摩の分、長州の分と山分けして分捕ったと書いてある。韓国の従軍慰安婦の問題があるでしょ。ああいう問題は、金では解決しないんだよ。前から友好を求めてきた山口県萩市に私も去年行ったけど、『仲良く』はできる、でも『仲直り』つまり歴史を水に流すなんてできないとはっきり言ってきた。ただ、長州、薩摩も悪い人ばかりじゃない。だから、子供のために歴史をもう一度検証し、『仲良く』はしていこうと」

 会津藩士らは藩を追われて散り散りになった。子孫にとって明治は悲劇の始まりだ。会津史を書き続ける作家、星亮一さん(82)は、長州勢が受け持った会津戦争の戦後処理が、会津人に積年の反中央感情を植えつけたと語る。「報復を企てる会津藩士を原野に飛ばして息の根を止めろと、長州の木戸孝允が強硬に言い、最終的には1万7000人が青森の下北半島に追いやられた。現地での差別、飢えによる塗炭の苦しみが、近代史上類をみない恨み、怒りを植えつけました」

 NHKの大河ドラマの時代考証などに当たってきた史跡研究専門の会津若松市職員、石田明夫さん(60)は「恨みの根は、明治以降、開発から取り残された点が大きい」と言う。「大きな藩があった地でありながら、戦前、会津には一校も大学ができなかった。道も鉄道も乏しい。だから旧会津藩地域の人口密度がいまも北海道より低い」

 福島県在住の星さんも明治期の「差別」に言及する。「官僚や軍部での出世差別も加わり、積年の理不尽に対する怒りが会津人に限らず、旧東軍の東北、越後の人々に広がった。だから、『明治150年』など認めない」。東京電力福島第1原発事故で出た汚染土の中間貯蔵施設建設を巡り、石原伸晃環境相(当時)が「最後は金目でしょ」と発言したことにも触れ、「政治家の暴言に東北の人が怒るのは、そのたびに怨念(おんねん)が顔を出すからです。安倍さんが明治150年と言う度に我々の心が無視されたと反発するのです」。

 天災の多さなどその風土から日本人は一般に憎しみ、怒りをためないと言われる。会津人は別格なのだろうか。しかし、現在も残る恨みや怒りは、幻想に過ぎないという意見もある。

 「会津という神話」を2010年に著した摂南大准教授、田中悟さん(47)は「会津人の恨みは戦後に強化された一種のファンタジーだ」と言う。「戊辰戦争から60年が過ぎた1928年、会津松平家の勢津子妃が昭和天皇の弟、秩父宮殿下と成婚し、会津は賊軍という汚名を返上しました。またその前の明治末期、若松市(現会津若松市)は陸軍連隊を誘致して軍都になっています。十五年戦争下では、会津精神、白虎隊(戊辰戦争時の青少年隊)の魂こそ日本人のかがみと称賛され、会津人は当時、いわば我が世の春の中にいた。それから戦後間もないころまで、薩長への恨みなるものはほとんど意識の外にあったはずです」

 白虎隊は日独伊三国同盟の下、独伊にたたえられ両国から記念碑を贈られている。そんな史実を示すと、宗像さんは語気を強めた。

 「お人よしの会津人が、薩長が築いた軍部にうまく使われたんですよ。会津人の一面だけを礼賛し利用されたんだが、白虎隊はもっと純でかたくなな思いで自刃した。それを日本精神などといわれるのは、はなはだ迷惑だ」

 郷土史を研究してきた会津若葉幼稚園長、中沢剛さん(84)も、恨みは戦時中に晴れたどころか深まったと言う。

 「会津若松の連隊は『白虎部隊』などと呼ばれ、満州事変、上海事変、のちには南京、ガダルカナル、インパールの最前線に立たされ何度もせん滅に近い状態に遭った。熊本の連隊と並び『強くて文句を言わない』とたたえられて激戦地に放り込まれ、会津、東北は多くの若い人材を失ったのです。若松の連隊も加担した南京事件もそうです。被害者数の議論はあるでしょうが、やられた方は絶対に忘れませんよ」


「ならぬことは ならぬものです」。会津藩士の子供たちがかつて唱えた言葉が大きく書かれていた=福島県会津若松市のJR会津若松駅前で、2018年2月14日、藤原章生撮影
失ったもの「考える機会に」
 「恨みを言い立ててきたのは、戦後の場合、観光という側面がなかったわけではない」と会津若松市の広告会社経営、庄司裕さん(71)は言う。星さんも「簡単に長州と和解などしたら、ふぬけの会津人と言われる、という意識がある。一種のブランドなんです。たとえば会津在住の高校生にさほど郷土意識はないんですが、東京に出ると『おまえ、会津か』と一目置かれる。すると、薩長を許さない会津人という旗を自ら揚げるようになる面もあります」。

 日新館の宗像さんにその話をすると、「会津人の心はそんなもんじゃない」と言下に否定する。「被害をエスカレートさせて話すところはあるけど、私らは純で愚直なまでに先祖の教えに従い、歴史を忘れない。それが雪国の閉ざされた環境が育んだ会津人気質なんです」

 そんなに違うのか。私など曽祖父の時代など全く関知しないが、と素朴な疑問をぶつけると、庄司さんはこう答えた。

 「忘れるのは日本人の知恵であり、弱点です。例えば、唯一の被爆国である日本の政府が核廃絶について、まあいいかという態度をとるのはどうかと思う。忘れてはいけないことはある。150年を振り返るとき、日本人は何を忘れ、何を失ってきたのか、一人一人が考える機会になるよう会津人として願っています」

 日本の諸都市が見舞われた米軍による無差別空襲、そして広島、長崎。そんな被害のみならず加害行為も実は、多くの現代人がただ忘れたふりをしているだけではないのか。会津の地でそんな思いがわいてきた。
南会津 戦いの跡PR…戊辰150年
 戊辰ぼしん戦争(1868~69年)開戦から今年で150年になるのに合わせ、県南会津地方振興局が南会津地域の戊辰戦争ゆかりの地を紹介するパンフレットを作成した。歴史ファンを集めたセミナーも開催し、あまり知られていない南会津地域にある戊辰関係の史跡をアピールし、観光誘客を狙っている。

 南会津町や只見町などの南会津地域(会津地方南西部)は江戸時代の1643年、「南山御蔵入領みなみやまおくらいりりょう」と呼ばれる幕府の直轄地となった。その後、年貢が京都守護職になった会津藩主松平容保へ財政援助のため支給され、1863年に名称が「南山御役知みなみやまおんやくち」に変わった。

 戊辰戦争では、新政府軍が南山御役知に侵攻した。新政府軍側の死者を弔った墓所が南会津町田島地区や下郷町の大内宿近くに残るなど、戦いの跡が点在する。

 また、会津藩とともに戦った長岡藩(現在の新潟県)の家老・河井継之助が落城後に会津へ向かう途中、只見町で亡くなった。継之助は只見で「会津のために戦った英雄」とたたえられ、町内には「河井継之助記念館」がある。

 ただ、会津地方の戊辰戦争は会津若松市の鶴ヶ城や飯盛山などが主に取り上げられており、南会津での出来事はあまり知られていない。このため、同振興局では只見など5町村の教育委員会と協力し、古戦場や墓所などをまとめたパンフレット「知られざる南会津戊辰歴巡図」を昨年10月に計約1万部製作。観光情報サイト「おいでよ!南会津。」でも情報を掲載している。
「会津の偉人・先人50選」手ぬぐい作製 戊辰150年で若松商議所
 会津若松商工会議所醸造・食品製造部会(新城猪之吉部会長)は20日までに、戊辰150年に合わせて「会津の偉人・先人50選 手ぬぐい」を作製した。

 節目の年に合わせて会津の歴史をより深く知り、先人の苦労や知恵、心を学び現代に生かす温故知新の精神が重要との思いから、300本を作製した。

 会津を治めた戦国武将・葦名盛氏や、会津清酒や会津漆器などの殖産政策に努め、会津発展の礎を築いた会津領主・蒲生氏郷、戊辰戦争時の家老、会津藩士、世界的な医学者・野口英世ら50人の名前が並ぶ。

 会津の偉人・先人は約3千人いるとされるが、サイズの関係で同部会が50人を選んだ。同部会は「偉人・先人たちから学ぶことはたくさんある。思いを継承し、自身の成長と次世代へ伝えていく担い手のたすきとして活用してほしい」としている。
いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
 いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、市が後援する。今年が戊辰戦争や明治改元から150年に当たることに合わせ、幕末から明治にかけてのいわき地方の歴史的意義を確かめるとともに、先人の功績を学ぶ。
 講師は県文化振興財団歴史資料課副主幹の渡辺智裕さんと、いわき市文化財保護審議会委員の渡辺文久さん。
 演題は、渡辺智裕さんが「官修墓からみたいわきの戊辰戦争」、渡辺文久さんは「磐城の戊辰戦争-磐城平藩士16人の覚書から-」。
 福島民報社は明治時代を中心とした紙面をはじめ、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流室 出前講座係へ。
 ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。






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【東京】新選組の前身「浪士組」 幕臣記録の「名簿」紹介
 幕末の京都で徳川将軍の護衛に就き、新選組の前身となった「浪士組」隊士について幕臣が記録した文書を、歴史研究グループ「三十一人会」=会長・小島政孝さん(68)=の会誌が一挙紹介している。 (栗原淳)

 文書は「浪士姓名簿」。戦前に古書店の目録に掲載され、存在は知られていたが、世に出ることのない「幻の資料」とされていた。昨年一月、東京大法学部図書館が所蔵しているとの情報がネットに投稿されているのを、同会副会長あさくらゆうさん(48)=荒川区=が見つけ、同図書館で実物と確認した。

 同会によると、浪士組の隊士を知ることができる資料は、これまでも数点確認されているが、浪士姓名簿は名前だけでなく、家族構成や居住地まで記載した詳細さが特徴。隊士を募った江戸から京都まで一行を率いた幕臣による記録のため、内容の信頼性も高い。

名簿の文字の解読も手掛けた小島政孝さん=町田市で

 今の新書判より一回り大きいサイズで、百十九ページにわたり京都到着時の二百三十五人の名が並ぶ。近藤勇の項目は「三十歳」「父妻子三人」、居住地は「市ケ谷加賀屋敷山川磯太郎地借仕候(ちかりつかまつりそうろう)」と記載。のちに新選組幹部となった沖田総司や永倉新八らの項目は「近藤勇方ニ同居」と記している。

 あさくらさんは「近藤は主を務めた剣術道場『試衛館』のすぐ近くに住居があった。沖田らが住み込みの内弟子だったことは知られているが、当時の公的な記録にも近藤家の住人と登録されていた」と名簿を読み解く。

 小島さんは、旧小野路(おのじ)村(町田市小野路町)の名主を務めた小島家の二十四代当主。四代前の鹿之助は、近藤や沖田らを剣術稽古に招いたという。自宅に資料館を開き、新選組ゆかりの資料を公開している小島さんは「浪士姓名簿は、新選組隊士の江戸を出る直前の様子が分かる貴重な資料」と話した。

 会誌「幕末史研究」四十四号で名簿の全ページの複写画像を掲載している。購入は、〒195 0064町田市小野路町九五〇「小島資料館」へ現金書留を送る。送料込み二千五百円。資料館は二月末まで休館。

いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
 いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、市が後援する。今年が戊辰戦争や明治改元から150年に当たることに合わせ、幕末から明治にかけてのいわき地方の歴史的意義を確かめるとともに、先人の功績を学ぶ。
 講師は県文化振興財団歴史資料課副主幹の渡辺智裕さんと、いわき市文化財保護審議会委員の渡辺文久さん。
 演題は、渡辺智裕さんが「官修墓からみたいわきの戊辰戦争」、渡辺文久さんは「磐城の戊辰戦争-磐城平藩士16人の覚書から-」。
 福島民報社は明治時代を中心とした紙面をはじめ、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流室 出前講座係へ。
 ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。

(2018/02/19 11:17)

会津乗合自動車が「ラッピングバス」 戊辰150年の機運盛り上げ
 会津乗合自動車は17日、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスを披露した。

 路線バスの中型車両1台にラッピングを施した。市戊辰150周年記念事業実行委員会が作製したPRポスターが基になっており、バスの前面に「『義』の想い つなげ未来へ―。戊辰150周年。」のキャッチフレーズを入れた。車体左側が黒、右側が赤をベースにした配色で「會津の想い、脈々と。」の文字も入れた。

 「次世代スマートバス停」の設置記念式典に合わせて披露し、佐藤俊材社長は「会津の歴史や文化、教育理念などを市民と再認識し、義の思いを将来につなげる一助にしたい」と話した。



歴史友の野間みつねさんと誘い合わせて、かすみがうら市郷土資料館に行ってきました。
 常磐線で土浦→関東バスで60分「田伏十字路」→徒歩3キロ、これを往復……とても一人旅では行く気持ちになれなかったところを二人でなら実現できる、そんなお馬鹿旅でした。土浦から、または田伏十字路のファミマからタクシー呼ぶというバックアッププランもあったのですが、天気もよく2月にしては暖かく、3キロなら行きだけでも歩こうかという話になり……まぁ往路はかなりの坂道を上ることにはなりましたが、二人であればそれも笑い話にできるというか。



「伊東甲子太郎と幕末の同志」展

激動生きた人徳者に光 幕末の志士、伊東甲子太郎展かすみがうら 新選組の弟子も紹介

 目玉は新着の伊東甲子太郎先生の真筆です。タイミング的に私たちが行く日に展示されるかどうかは不確定でしたが、無事に見ることができました。
幕末の新選組隊士・伊東甲子太郎の肉筆 水戸の男性、京都で入手市歴史博物館に寄託 建言書草稿 「長州藩の寛大処置を」
 柳原光愛と幕府老中の板倉勝静に宛てたもので、山稜衛士を名乗り、末尾に「元新選組」と記してありました。また、斎藤一、藤堂平助、三樹三郎など伊東先生の配下の主立った人の署名がありました。斎藤一が筆頭なのは「元新選組」を強調するためでしょうか。朝廷と幕府に対する建言書で長州に寛大な処分を求める内容で伊東の思想を知るためにも価値ある内容でした。伊東甲子太郎の真筆とわかっているのは新発見のこれを入れても三点だけなので貴重です。

 みつねさん、往復の下調べからチケット確保を全面的にしていただいた上(なにせ当方がすると抜け漏れや手落ちがあること確実・汗)での同道ありがとうございました。
東北の視点で『戊辰再考』 福島県立博物館、9~10月に企画展
 県立博物館(会津若松市)は9月1日~10月14日、戊辰戦争の意義について問い直す企画展「戊辰戦争150年」の開催を予定している。戊辰戦争関係資料を一堂に展示するほか、各地の地域資料を掘り下げて紹介し、東北の視点から戊辰戦争を再考する。

 15日に同館で開かれた同館運営協議会で報告された。展示構成は開国、京都の政局、鳥羽伏見の戦い、奥羽越列藩同盟結成、北越や東北での戦争、敗戦、戊辰戦争後の7分野。明治時代に教育者となった元会津藩士・渋谷源蔵が展示の案内役を務める設定にするという。

 幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保。勤王の会津藩がなぜ朝敵とされ、進展する局面でどう戦ったのか実像を明らかにする。さらに戊辰戦争後にも光を当て、苦難を乗り越えた人々の姿も紹介する。

 会期中、専門家による講演会や展示解説会を開催する予定。企画展は同館と新潟県立歴史博物館、仙台市博物館の共同主催のため3館を巡回する。新潟では7、8の両月、仙台では10~12月に開催する予定。このほか4月から戊辰戦争に関連したポイント展(特定の資料に注目した小規模展示)も開催予定。テーマは会津藩家老・西郷頼母、磐城の戦い、戦場のうわさ話、会津の戦い、若松城下の戦いなどを予定している。

伊賀、農民も情報収集? 幕末の旅日記を発見
 東京都渋谷区にあった伊賀(現・三重県伊賀市)の領地「隠田村おんでんむら」に暮らす農民が幕末、九州まで出掛けた旅日記が都内の古書店で見つかった。戦国時代に暗躍した伊賀忍者は、徳川幕府に「伊賀者」として仕え、江戸周辺の伊賀領を支配した。三重大学国際忍者研究センターの高尾善希准教授(忍者学)は「日記には旅先から手紙を送ったという記述もあり、伊賀者が情報収集させていた可能性がある」と話している。

 この旅日記を書いたのは農民の「坂野佐太郎」で、同センターが昨年12月に古書店で購入。江戸時代の崩し字で、坂野の本家が現在の津市にあるなどの事実関係に食い違いがなく、本物と判断した。日記によると、坂野は妻、お供と3人で、1848年(弘化5年)2月19日に隠田村を出発。3月25日に「お伊勢参り」、5月9日に福岡の太宰府天満宮、同15日に長崎の出島に寄り、同年(嘉永元年)7月18日に村に戻った。

旅日記について解説する高尾准教授
 旅の途中の4月2日、江戸方面の「御屋敷」に10通の手紙をまとめて送ったとの記述もある。江戸時代の伊賀者は、江戸の武家屋敷などで門番を務め、江戸周辺の伊賀領を支配して年貢の取り立てなどをする一方、幕府の命を受けての諜報ちょうほう活動は続けていた。高尾准教授は「農民が特段の理由もなく10通もの手紙を出すとは考えにくい。坂野が伊賀者に命じられて各地の探索や情報収集をしていたことも考えられる」と話す。

 日記の内容は、三重大大学院が4月から開講する全国初の「忍者・忍術学」の授業で研究を進める予定だ。

海峡の裏町文化塾「長州の中の会津」披露 白虎隊の会・吉井さん講演 /山口
 あまり知られていない地元の歴史や文化について語り合う「海峡の裏町文化塾」が13日、下関市中之町の亀山儀式殿で開かれた。白虎隊の会下関支部の吉井克也支部長が「長州の中の会津」と題して講演し、約40人が聴き入った。

 戊辰(ぼしん)戦争で、白虎隊の隊士として自刃するが失敗して生き残った飯沼貞吉を、身寄りがないことから哀れに思った長州藩士の楢崎頼三が連れ帰り、美祢市の集落で養育した。白虎隊の会下関支部は、この史実を顕彰することや、会津と長州などのしがらみにとらわれず、幕末・明治維新を志を持って生き抜いた先人に学ぶことを目的に2010年10月に設立された。現在は40人の支部員がいる。

 13日の講演では吉井支部長は「長州と会津の関わりを知るには史実を理解する必要がある」として幕末から対立するようになった経緯や、戊辰戦争、新政府による会津藩に対する過酷な戦後処理などを紹介。そのうえで白虎隊士を慰霊している地として萩市の地蔵堂や下関市の万骨塔などを挙げた。また、昨年11月に福島県会津若松市の会津藩校日新館の宗像精(ただし)館長が萩市の松陰神社で講演したことを紹介し「宗像館長は『史実を認め合い、これから日本のためにがんばっていこう』と本当にいい話をしています。今年は明治維新150年であり、新たな会津と長州の出発点として歩み寄っていきたい」と語った。

 次回の裏町文化塾は4月10日、尺八演奏家の橋本邦洸(くにひろ)さんが「夢尺八と津軽三味線・心の響」と題して講演する予定だ。【反田昌平】
会津の歴史見つめ直す 若松司馬さんしのび献花祭
 会津に深い思いを寄せた作家の故司馬遼太郎氏をしのぶ献花祭は司馬氏の命日「菜の花忌」の12日、会津若松市で催され、参加者が司馬氏の好んだ菜の花を鶴ケ城三の丸の司馬遼太郎文学碑前などに手向けた。
 戊辰戦争150周年などを記念し、会津若松商工会議所が主催した。文学碑前では宮森泰弘同文学碑実行委員長と会津松平家14代当主の松平保久さん、渋川恵男会津若松商工会議所会頭らが献花した。
 市内の香寿庵でセレモニーを開き、約25人が出席した。宮森委員長が執筆50年となる司馬氏の小説「王城の護衛者」を挙げ、「(執筆当時の)歴史観に一石を投じた。戊辰戦争150年を機に歴史を見つめ直し、全国の人に会津の真の姿を知ってほしい」と述べた。菅家一郎、小熊慎司両衆院議員、室井照平市長があいさつした。宮森委員長と松平さんが献花した。
 文学碑は2013(平成25)年11月に建立され、幕末の会津藩主松平容保公の至誠を描いた「王城の護衛者」や随筆「歴史を紀行する」の一節が刻まれている。献花した菜の花は司馬氏の地元の大阪府東大阪自治協議会意岐部校区自治連合会の大西信弘会長から贈られた。

■松平家当主保久さん講演 容保公の文書紹介

 セレモニーでは松平さんが「鶴ケ城開城と容保公」と題して講話し、戊辰戦争の会津戦争終結時に容保公が記した降伏文書の内容などを紹介した。
 「晩年の容保公は戊辰戦争の責任を一身に受け止めていた。容保公の思いを未来永劫(えいごう)に持ち続けなければと改めて強く感じている」と語った。

戊辰降伏、容保の思い語る 松平家14代当主・保久さん講演
 会津若松市で12日行われた「戊辰150周年記念 司馬遼太郎顕彰事業 菜の花忌『献花祭り』」では、松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さんが「鶴ケ城開城と容保公」と題して講演、松平容保に秘められた会津藩への思い、生き様を語った。

 松平さんは戊辰戦争における鶴ケ城での籠城戦の末、容保が携えた降伏文書の一部を朗読し、「文書の内容は容保公の考えとは180度違う内容が書かれており、相手に差し出す容保公の悔しさは大変なものだったに違いない」と語った。

 さらに、容保が鶴ケ城で降伏し、東京などでの謹慎後、日光東照宮(栃木県)の宮司を務め、幕府に代わり日光東照宮の維持管理を行う「保晃会(ほこうかい)」の初代会長にも就いたことを紹介、「容保公は徳川家康を奉り、守っていく使命感を持っていたはずだ」と述べた。

仙台
闇に紛れ連戦連勝…戊辰戦争
ゲリラ部隊「からす組」隊長 細谷 十太夫
 戊辰戦争で新政府軍に敗走を強いられ、降伏に至った仙台藩。その中で、30余りの戦いに連戦連勝したゲリラ部隊があった。「からす組」と呼ばれ、高杉晋作の奇兵隊と同様に、隊員は侍ではなく、博徒や侠客きょうかく、猟師などの荒くれ者が集められた。

 隊長は下級武士の細谷十太夫。仙台藩の探索方(諜報ちょうほう員)として、戦争が勃発すると虫売りに身を変え、他藩に潜入して情勢を探ったと伝えられるが、謎の多い人物だ。

 1868年(慶応4年)5月1日、白河城の攻防戦で仙台藩が新政府軍に敗れると、十太夫は「衝撃隊」を結成。白河、二本松、駒ヶ嶺、旗巻峠など藩内外で新政府軍に対し、闇夜にヤリや刀でゲリラ攻撃を続けた。「からす組」の呼び名は、メンバーが黒装束を身にまとっていたことにちなむ。

 「細谷からすと十六ささげなけりゃ官軍高枕」と、市井では新政府軍を脅かす精鋭とうたわれた。隊旗にはカラスが描かれ、実際にカラスを連れて歩いたともいわれる。東北歴史博物館(多賀城市)には、十太夫がまとっていた陣羽織の複製が常設展示されている。


 戦後、十太夫は行方をくらまし、各地を転々とした。西南戦争には陸軍少尉として出征。その後は、現在の石巻市大街道周辺に士族を集めて移り、開墾に励んだ。北海道にも渡り、現在の幕別町に開拓民のため入植し、和人として初めて住んだ。日清戦争にも従軍した。

 晩年は仙台に戻り、仏門に入った。「寛政の3奇人」の一人と言われ、幕府に海防政策を説いた学者・林子平を慕い、その菩提ぼだい寺である仙台市青葉区の龍雲院の住職を務める。戦死した将兵の霊を弔いつつ、1907年に死没した。法名は「竜雲院八世鴉仙直英和尚」。「鴉からす」の一文字から、からす組がその人生を象徴するものだったことがうかがえる。死後、寺の境内には十太夫を模した「細谷地蔵」が立てられた。


 からす組の活躍は、映画や劇などにも幾たびか取り上げられ、作家・大佛次郎は小説「細谷十太夫―からす組」を残す。

 1991年には、十太夫を題材にしたドラマ「疾風からす組」がテレビ東京で放送され、主役の十太夫を俳優・風間杜夫が演じた。企画を担当したのは十太夫のひ孫・辰馬。その次男で、玄孫やしゃごにあたる伸之(46)は現在、同じテレビ東京のアニメ制作部のプロデューサーの職にある。

 「いつか、からす組の活躍を題材にアニメを制作してみたいですね」と伸之は語る。圧倒的優位にあった新政府軍に一矢を報いた先祖に再び光を当てる日も、そう遠くないのかもしれない。(敬称略)

茨城
<ひと物語 幕末~明治>日本の金融界の発展に貢献 川崎八右衛門(中)
 「海老沢地内には海士部(あまべ)神社や駒形神社など三つのお社がありますが、どの神社にも川崎家は寄付をしてます。とくに海士部神社の銅板屋根を修復したときには、多額の寄付をされるなど地元を大切にし、貢献してますね」

 茨城町で『水戸屋菓子店』を営む小山正浩さんはこのように言い、川崎八右衛門に感謝と誇りを持ち、彼の功績を讃(たた)えます。小山さんは海士部神社の氏子であり、祭礼のときにはお餅や農・海産物などの供物の調達を引き受けている地元の製菓店です。

 川崎は地元思いの人でした。これも成功の秘訣(ひけつ)だったかもしれません。

 涸沼のほとりにあった川崎家は北海道や東北から海路で運ばれた物資を、今度は陸路や水路で江戸に運搬する回船問屋でした。このため十代の青年時代から早くも金銭、利益、経営などに対する感覚を身につけ、起業家としての能力をやしなってゆきます。

 これが後に彼を三井、住友、三菱などと並ぶ、わが国屈指の八大財閥のひとつに数えられる「川崎財閥」をつくりあげるまでに成長させるのでした。

 けれど、川崎の私生活は質素でした。ともすると蓄財に励むような人は吝嗇(りんしょく)と思われがちですが、彼は、人には温厚で、華美な服装は求めず、食事もけっしてぜいたくではなく、質素倹約の人でした。その反面ビジネスには厳しく合理的であったといいます。

 この点を分家にあたる川崎正則さんにただしたところ、「墓地の近くに立っている招魂碑に書かれた通りの人でしたよ」と教えられたので早速参ったところ、このように刻まれており、なるほどと納得しました。

川崎八右衛門(常陽芸文から)

 「-川崎八右衛門の資性は俊邁(しゅんまい)、人には温厚、事に臨んではよく決断、独力経営。産業を殖(ふ)やし-」

 川崎財閥が所有する不動産の管理会社である川崎定徳株式会社(東京都中央区)は、先述した海士部神社の屋根改修のほか老朽化した拝殿、本殿の改修工事、参道の舗装化、境内をつつむ広大な山林を寄贈するなど、いまも故郷とのつながりを大切にしています。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「日に新なり 加倉井砂山物語」(堀口真一、崙書房出版)

 「川崎財閥を築いた川崎八右衛門」(常陽芸文1994年10月号)

幕末の紀州藩士・茂田一次郎の壮絶人生、わかやま歴史館で企画展示
 幕末に波瀾(はらん)万丈の人生を歩んだ紀州藩士、茂田一次郎について紹介する企画展示「紀州藩士 茂田一次郎、幕末を生きる。-龍馬のハッタリに敗れた男-」が10日、和歌山市一番丁のわかやま歴史館で始まった。3月21日まで。

 一次郎は、紀州藩の下級藩士の家に生まれたが、事務方としての能力や人脈を生かして重役の勘定奉行にまで出世した。しかし、慶応3(1867)年、坂本龍馬が乗る「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が瀬戸内海で衝突し、いろは丸が沈没する「いろは丸事件」が発生。紀州藩の現地責任者だった一次郎は、高額な賠償金を巡る交渉に失敗し、御役御免(免職)となった。

 企画展では、茂田家の系譜や一次郎が作成した親類書、一次郎が暮らしていたとされる屋敷の絵図などの史料を展示。同館の担当者は「下級藩士ながら、まるでジェットコースターのような壮絶な人生を歩んだ一次郎。ゆかりの史料から、その生き方を感じてもらえれば」と話している。

 一般100円。中学生以下無料。和歌山城天守閣の入場券でも入館できる。午前9時~午後5時半(入館は午後5時まで)。問い合わせは平日のみ、市和歌山城整備企画課(電)073・435・1044。



新選組の「脇役」に光 東京と茨城で展覧会
 幕末に京の治安維持を担った浪士組「新選組」の幹部で、近藤勇、土方歳三らと同じ道場の出身でありながら、地味な存在とみられがちな井上源三郎(1829~68)と、新選組から分派を試み、それが理由で殺された伊東甲子(かし)太郎(1835~67)。この2人を扱った展覧会が、ゆかりの東京都日野市と茨城県かすみがうら市で開催中だ。

 新選組揺籃(ようらん)の地とされる日野市で開かれているのが、「没後150年 新選組井上源三郎」展(同市立新選組のふるさと歴史館、18日まで)。

 井上は八王子千人同心の家に生まれたが、近藤たちと同じ天然理心流の道場に通っていたのが縁で京へのぼり、浪士組に参加する。新選組では六番隊長などを務めた。

 展示は井上の兄で、家督をついだ井上松五郎と源三郎2人の生涯を、松五郎の日記など約80点から追いかける。

 「描かれた井上源三郎」と題したコーナーが興味深い。「剣の弱い老人」という、多くの人が抱く現在の井上のイメージは、実は司馬遼太郎の著作などによって培われ、流布されたものとわかる。実際の井上は年は近藤と5歳違いで、剣も免許皆伝だった。

 一方、かすみがうら市では「没後150年記念 伊東甲子太郎と幕末の同志」展が開催中(同市歴史博物館、3月4日まで)。伊東は同市に領地を持つ交代寄合(よりあい)(旗本)の家臣の家に生まれ、のち、北辰(ほくしん)一刀流の道場を営む伊東精一郎の養子となる。新選組入隊は64年。特別待遇を受けるが、孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえじ)を務める高台寺党を設立。しかし、それもつかの間、新選組により暗殺された。

 展示は伊東の肖像画など約40点で構成。数えで33歳で死去した伊東の志が、門人で、のちに茨城の教育界を担った金沢鎗次郎(そうじろう)らに受け継がれ、花開いたことを伝える。

 井上や伊東に関わる資料は極めて少ないことから、2館ともかなり苦労しつつ展示をしている様がうかがえたが、これまで「脇役」的扱いだった2人にあえてスポットを当てた意図は評価すべきだ。(編集委員・宮代栄一)

【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
 戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」は5月末まで、会津若松市七日町の会津新選組記念館で開かれている。

 戊辰戦争開戦から上野の彰義隊の戦いまでの関連資料約300点が展示されている。

 初代会津藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」、錦絵版画「京都 禁門(蛤御門)の変」、新選組隊士が使ったとされる鉢金などが並ぶ。

 現在放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使用したスナイドル銃や台本ほか、薩摩藩大隊旗や新政府軍が江戸城に入城する様子を描いた江戸城無血開城・錦絵版画「西城奉還之図」なども展示され、来場者の目を引いている。

 時間は午前10時から午後5時ごろまで。入場料は大人300円、小・中学生200円、未就学児無料。不定休。

 問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
 新潟市中央区女池南の県立図書館ホールで24日午後1時半~3時、同館の青柳正俊副館長が「戊辰戦争と新潟開港」をテーマに講演する。先着180人で入場無料。同館が定期開催している「ふるさと講座」の一環。来年1月に150周年を迎える新潟港の開港は、戊辰戦争の戦局とともに諸外国の公使や交易商人の思惑が絡み合う中で実現したとされる。青柳氏は当時の状況を振り返りながら、最近になって確認された新事実を紹介する。

 申し込みは、同館の総合案内カウンターやホームページの「イベント申し込みフォーム」で。はがきやファクス(025・284・6832)でも受け付ける。問い合わせは同館業務2課(電)025・284・6001。
幻想的な光「会津絵ろうそくまつり」 戊辰150年で地上絵登場
 会津地方伝統の「絵ろうそく」を街中にともす冬の風物詩「第19回会津絵ろうそくまつり」が9日、会津若松市の鶴ケ城など各地で始まった。約1万本のろうそくが城下町を幻想的な光で包み込んでいる。10日まで。

 会津青年会議所(JC)や会津まつり協会などでつくる実行委の主催。今年は「和(なごみ)」がテーマで、メイン会場の一つの同城にはろうそくで作った戊辰150周年をPRする地上絵が登場。ろうそくで道を照らす「和小道」などもあり、ろうそくの温かなぬくもりを求める観光客らでにぎわっている。

 ろうそくは同城のほか、御薬園や東山温泉、芦ノ牧温泉、会津武家屋敷などでも点灯している。点灯時間は午後5時30分~同9時。
福島・只見に鶴ケ城の大雪像 戊辰戦争150年で
 福島県会津地方のシンボル、鶴ケ城の大雪像が9日、同県只見町に完成した。10、11両日の「只見ふるさとの雪まつり」の目玉で、高さは12メートル。17日夜まで展示される。

戊辰戦争150年の節目に完成した鶴ケ城の大雪像(9日、福島県只見町)

 会津藩など旧幕府軍が薩長両藩の主導する新政府軍に敗れた戊辰戦争の開戦から150年となることから、地元の職人らが製作。転戦中に町内で没した長岡藩家老、河井継之助の雪像もある。

 仕事のため鹿児島県から同町に移り住み、会津の女性と結婚した会社員、田代季生さん(65)は「すごい出来栄え。お城を大事にしている会津人の思いが伝わってくる」と感心していた。
会津、明治維新より「戊辰150年」 長州になお遺恨?
 今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。

 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。

 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。

 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

 遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。

 それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。

 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。

 「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。

■宗像精・会津藩校日新館館長「歴史を消すことはできない」

 ならぬことはならぬ――。宗像精さん(84)は会津藩校日新館の館長として全国の子どもたちに会津藩士の教えを伝え続けています。安倍首相が年始の演説で言及した元白虎隊士、山川健次郎を顕彰する会の会長も務める宗像さんに、戊辰戦争150年に寄せる思いを聞きました。

 ――2017年11月に旧長州藩の山口県萩市を訪れて講演したそうですね。


「虚言(うそ)をいう事はなりませぬ」など会津の教えを伝え続ける宗像精さん。
 「会津と長州は仲直りはできないが、仲良くはできると訴えた。戊辰戦争で薩長は目的のために手段を選ばず、権謀術数の限りを尽くした。官軍と賊軍という区分けもその中から生まれたこと。結果的に勝った薩長が官軍、負けた会津が賊軍となったが、長州も一時は賊軍だったし、会津が朝敵となったことはない。だから双方とも賊軍などと言ってはいけないのに、会津だけが長く賊軍の汚名を着せられた。そういう歴史の事実を消すことはできない。歴史をなかったことにして握手する仲直りはできない」

 ――それでも仲良くはできるというのはどうしてでしょうか。

 「心ない人間は会津にもいるし、長州にも立派な武士はいた。私が萩を訪れたのは会津人の思いを伝えるためと、山川健次郎の学業を助けた長州藩士の奥平謙輔と前原一誠の墓参りをして感謝するためだ。両氏の子孫は丁寧に出迎えてくれ、萩の人の誠実さと優しさを感じた。恨みつらみばかり言っても仕方ない。会津も長州も一緒に、世界のために貢献していかなければならないときだ。だから仲直りや和解などとは言わず、民間レベルで黙って仲良くしていけばいい」

 ――首相が演説で山川健次郎に言及したことをどう捉えましたか。

 「どういう意図なのかは分からないが、会津人の反響は大きい。150年の節目に際して、安倍首相に『会津は賊軍でなかった、朝敵でもなかった』とぜひ明言してもらいたい」

 ――故郷の歴史はどのように語り継いでいくべきでしょう。

 「私は歴史家ではないが、小学生時代に会津が賊軍だったと教える歴史の教科書を使わされた。親からは『会津は悪くない』と教えれたものだから、どうしても薩長憎しという感情が残った。戦後の教科書からはそのような記述は消えたが『勝てば官軍、負ければ賊軍』という歴史のとらえ方は今も残っている。会津は賊軍ではなかったし、朝敵でもなかった。その歴史的事実が確かめられるのを見届けてから、あの世に行きたい」

(高橋元気)

【会津若松】新選組の歴史物語る資料など300点 会津若松で戊辰150年特別展
 戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組~戊辰開戦から上野の戦いまで」は5月末まで、会津若松市七日町の会津新選組記念館で開かれている。

 戊辰戦争開戦から上野の彰義隊の戦いまでの関連資料約300点が展示されている。

 初代会津藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」、錦絵版画「京都 禁門(蛤御門)の変」、新選組隊士が使ったとされる鉢金などが並ぶ。

 現在放送中のNHK大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使用したスナイドル銃や台本ほか、薩摩藩大隊旗や新政府軍が江戸城に入城する様子を描いた江戸城無血開城・錦絵版画「西城奉還之図」なども展示され、来場者の目を引いている。

 時間は午前10時から午後5時ごろまで。入場料は大人300円、小・中学生200円、未就学児無料。不定休。

 問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

戊辰戦争と新潟開港テーマに24日講演会
 新潟市中央区女池南の県立図書館ホールで24日午後1時半~3時、同館の青柳正俊副館長が「戊辰戦争と新潟開港」をテーマに講演する。先着180人で入場無料。同館が定期開催している「ふるさと講座」の一環。来年1月に150周年を迎える新潟港の開港は、戊辰戦争の戦局とともに諸外国の公使や交易商人の思惑が絡み合う中で実現したとされる。青柳氏は当時の状況を振り返りながら、最近になって確認された新事実を紹介する。

 申し込みは、同館の総合案内カウンターやホームページの「イベント申し込みフォーム」で。はがきやファクス(025・284・6832)でも受け付ける。問い合わせは同館業務2課(電)025・284・6001。
鳥羽伏見の戦い開戦150年 証言継承目指す 住民ら聞き取り調査 /京都
 戊辰(ぼしん)戦争の端緒となった1868年の鳥羽伏見の戦いから150年の節目を記念し、京都市伏見区の住民らが聞き取り調査などに取り組んでいる。開戦地に近い城南宮(伏見区)も挿絵入りの説明版を設置した。

 鳥羽伏見の戦いは、大政奉還から間もない慶応4年1月、薩摩、長州両藩を主力とする勢力と旧幕府軍が鳥羽や伏見、淀を主戦場に交戦した。伏見区に住む歴史愛好家の井口富夫さん(68)や長男の智史さん(32)らが地元住民や観光関係者らに呼びかけ、2016年に「鳥羽伏見の戦い150年プロジェクト会議」を結成。住民目線から戦いを伝える資料は少ないため、これまで60~90代の約40人にインタビューし、祖父母ら戦いを経験した人から聞いた話を中心にまとめた。

 当時の仕出し屋が薩摩藩と会津藩の兵士に芋や大根、ニンジンの入った雑炊、おにぎりの炊き出しをしたことや、町衆が戦災を逃れるため桓武天皇陵に逃げ込んだことなどのエピソードが集まった。富夫さんは「記憶が断片的であいまいに伝えられている部分もあるが、教科書には出てこない出来事を掘り起こしたい」と話す。3月まで調査を続け、結果を冊子にまとめる。

 また、学生時代から伏見を行き来をしてきた漫画家の越智常子さん(31)=大阪府枚方市=は、伏見の旧市街を題材に絵図にした。2月4日まで伏見区役所で展示している。焼け野原と化した町を描いた絵図では、月桂冠の前身の「笠置屋」に被災者が集まる様子などを描いた。鳥羽周辺を取り上げた絵図も制作中だ。

 薩摩藩が滞在したことで知られる城南宮は、入り口付近に説明板(縦1メートル、横2メートル)を設置した。薩摩兵が参道に大砲を据えて旧幕府軍を待ち受けたことや、戦いの後に明治天皇が城南宮に立ち寄ったことなど、城南宮にまつわる出来事を伝えている。権祢宜(ごんねぎ)の山本弘毅さんは「鳥羽伏見の戦いや明治維新への関心が高まってほしい」と話している。【宮川佐知子】

戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
 会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
 時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
 6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。

( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )
ロゴマークに「二本松少年隊」 二本松市、戊辰150年事業計画
 二本松市戊辰の役150年事業実行委員会(会長・三保恵一市長)は、記念事業のテーマを「信義―貫く想い、今」とし、二本松少年隊を象徴するロゴマークを作った。同市役所で31日に開いた会合で戊辰150年に向けた事業計画などを決めた。

 テーマとロゴマークでは、戊辰戦争で旧幕府軍の要衝として位置付けられ、奥羽越列藩同盟の義、隣藩会津への義を貫き戦火に巻き込まれた二本松藩を表現。武士道や、郷土のために戦い、若い命を散らした木村銃太郎隊長ら少年隊士の雄姿を描いた。

 本年度はテーマとロゴマークを活用したのぼり旗、PRポスター、マグネットステッカー、戊辰めぐりリーフレットを作製。二本松少年隊リーフレットは増刷し、英訳版などを作ってインバウンド(訪日外国人旅行者)に対応する。新年度には「二本松少年隊の灯・煌く霞ケ城(仮称)」「戊辰ゆかりの地めぐりウオーキング」の実施のほか、講演会の開催、会津まつりへの参加などを検討している。

 「二本松少年隊の灯~」は、長年にわたり二本松少年隊の顕彰事業に取り組んでいる、実行委メンバーの二本松青年会議所が提案。隊士らの命日に合わせ、供養塔がある大隣寺からの灯を市民が運び霞ケ城にともす計画。天守台には数多くのキャンドルを配置して「きらめく霞ケ城」を演出する見通し。
戊辰の歴史回顧 会津新選組記念館で特別展始まる
 会津新選組記念館の戊辰戦争150年前期特別展「会津・薩摩と新選組」は29日、会津若松市七日町の記念館で始まった。5月末まで。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争開戦前後から江戸城無血開城、上野の彰義隊の戦いまでを追う歴史資料約300点を展示している。会津藩家訓、会津藩校日新館の教科書、新選組の鉢金をはじめ、薩摩藩関係の西郷隆盛肖像、洋式陣笠などが紹介されている。NHK大河ドラマ「西郷どん」の台本や撮影スケジュール表なども並ぶ。
 時間は午前10時から午後5時まで。不定休。入館料は高校生以上300円、小中学生200円、未就学児は無料。問い合わせは電話0242(22)3049へ。
 6月以降は後期展として会津戦争に関連する資料などを展示する予定。

( 2018/01/30 10:38 カテゴリー:主要 )

安倍首相の施政方針演説に「白虎隊」の違和感明治維新を「1億総活躍社会」に結びつけるな
武田 鏡村 : 歴史家
1月22日、安倍晋三首相は施政方針演説の冒頭、会津藩(福島県)の白虎隊(びゃっこたい)出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)を引き合いに出し、「あらゆる日本人にチャンスをつくることで、少子高齢化も克服できる」と1億総活躍社会の実現に意欲を示した。
長州(山口県)出身の安倍首相からすればいわば「敵方」である会津出身者をなぜわざわざ施政方針冒頭で紹介したのか。『薩長史観の正体』の著者である武田鏡村氏に解説していただいた。
まったく「寛容」ではなかった明治新政府
安倍首相は1月22日の施政方針演説を、「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。しかし、明治政府は、国の未来のために、彼の能力を生かし、活躍のチャンスを開きました」と始めた。

これだけ聞くと、長州と薩摩(鹿児島県)が中心となってつくられた明治新政府は、たいへん寛容で、すばらしい人材登用策を実行したと思われるのではないだろうか。敵方であった会津藩士を許し、平等に活躍のチャンスを与えたのだと……。

しかし、史実はまったく逆である。後に述べるように山川健次郎は例外中の例外であり、ほとんどの会津藩士とその家族たちは極めて重い懲罰を課された。

そしてそれを主導したのは、長州の木戸孝允(桂小五郎)だった。

会津藩は、戊辰戦争で降伏した翌年の明治2年(1869)9月、没収された23万石の代わりに3万石を与えられ、本州北端の下北半島に追いやられた。辺境の地に封じ込めることを強硬に主張したのが木戸孝允である。

木戸は、幕末京都での経緯からか、病的なほどに会津藩士を恐れ忌み嫌い、根絶やしさえも考えていたようである。会津藩側も皆殺しにされることを覚悟していたようで、会津人の血を絶やさぬよう、降伏後の謹慎中、最も優秀な2人の若者を逃がした。このうちの1人が山川健次郎なのである。

一方、会津藩士とその家族たち1万7000人は、下北半島に斗南藩3万石が与えられて移り住んだ。

だが、その地は、寒冷不毛で、実質7000石あるかないかと危ぶまれた。木戸は何が何でも生死にかかわる懲罰を会津藩士に下したかったようである。

薩長閥の中で会津出身者として異端視されながら陸軍大将にまで登りつめた柴五郎は、少年期に斗南藩で悲惨な生活を体験した1人である。

柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、それでは足りない。救米に山菜を加えたり、海藻を煮たりするだけでは飽きたらず、馬に食べさせる雑穀など、食べられるものは何でも口にした。

塩漬けにした野良犬を20日も食べ続けたこともあった。最初はのどを通らなかったが、父親から、「武士は戦場では何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長(さっちょう:薩摩と長州)の下郎(げろう)どもに笑われるぞ」と言われて我慢して口にした。

住まいの小屋には畳はなく、板敷きに藁(わら)を積んで筵(むしろ)を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹きつける寒風で炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で藁にもぐって寝るが、少年・五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるかわからない病状になった。

こうした困窮の生活で病気になって亡くなる人も少なくなかった。藩の権大参事の山川浩(山川健次郎の兄)は、明治政府や会津の旧庁に救済を願い出たが、はかばかしい結果ではない。「これが天子さまの寛典なのか」といった憤激の声が洩れる。廃藩置県で斗南藩は消滅し、やがて旧会津藩士とその家族は四散していく。

「寛容」とは正反対の、明治政府による「会津処分」であった。

「賊軍」出身者に対する差別
『薩長史観の正体』で詳述したように、武力によって強引に推し進めて勝ち取った明治維新は、薩長側の暴力と強奪、人身毀損の数々の凶行で成り立つものであった。

そうして誕生した明治新政府も、「薩長政府」といわれるように、薩摩と長州の出身者に牛耳られた。当初は、薩摩のほうが力をもっていたが、「西郷どん」の西南戦争で薩摩が賊軍となると、長州のほうが優勢になっていく。長州出身の伊藤博文が初代首相になって以来、長きにわたり首相はほとんど長州と薩摩の出身者で占められている。

ちなみに明治維新150年目の今年、首相は長州出身の安倍晋三だが、50年目は寺内正毅、100年目は佐藤栄作と、節目の年は、すべて長州出身の首相で占められている。

一方、会津など「賊軍」出身者は、政官界で差別され、立身出世の道を閉ざされた。長州陸軍、薩摩海軍といわれるように軍部でも薩長閥は強く、賊軍藩出身者は出世などで差をつけられた。この辺は半藤一利氏と保阪正康氏の対談集『賊軍の昭和史』に詳しいが、賊軍差別の傾向は昭和の時代にまで続いたという。

安倍首相は、施政方針演説での冒頭の言葉の後、山川健次郎が東京帝国大学の総長に登用されたことなどにふれ、「身分、生まれ、貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代~」と、人材活用の面でも優れた時代だと位置づけている。だが、以上のように明治は、「1億総活躍社会」のお手本にするような立派なものではけっしてなかったのである。

にもかかわらず、安倍首相、おそらくは周辺の人たちは、なぜ白虎隊出身の山川健次郎のことをことさら引き合いに出して、強引に明治時代を賛美するようなことを言うのか。

その背景には、今年、「明治維新150年」を迎え、その記念事業に政府が前のめりなことがあるのではないだろうか。

政府は記念事業にたいへん積極的で、内閣官房に「明治150年」関連施策推進室が設けられた。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。昨年8月には、明治維新150年のロゴを決定したと政府は発表した(選考会座長:佐藤可士和)。安倍首相も、今年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛している。


『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)
だが一方で最近は、逆に、明治維新のありように異議を申し立てる書籍が相次いで刊行されている。書店の歴史コーナーでは『明治維新という過ち』『明治維新という幻想』『偽りの明治維新』『明治維新という名の洗脳』『明治維新の正体』『東北を置き去りにした明治維新』といった明治維新に批判的なタイトルが目立つ。

薩摩と長州がつくりあげた歴史観――薩長史観に疑問を投げかける声が大きくなっているのだ(参考:なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)。1月9日のテレビ朝日「グッド!モーニング」“池上彰のニュース大辞典”でも、薩長史観に異議を唱える本がよく売れていると報道されていた。

このような状況下では、政府もさぞや「明治維新150年記念事業」をやりにくかろう。

「薩長史観」に異をとなえた山川健次郎
そこで、会津藩の白虎隊出身でありながら、会津藩士・秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔に預けられ、後に国費留学生に選ばれて東京帝大総長にまで登りつめた山川健次郎のことを、ことさらに引き合いに出したのではないだろうか。

そして、人材登用にも公平な、すばらしい「明治」と美しく飾り立てようとするのではないか。

確かに長州藩士でありながら彼を預かった奥平のことは高く評価すべきだろう。だが、こうしたことはごくごくまれな例外であり、会津藩やその他賊軍とされた側には多くの血涙史があったことを忘れてはいけない。

山川自身も、後に兄・浩が残した『京都守護職始末』を完成させ、天皇に忠義を尽くした幕末会津藩の立場を明らかにした。薩長史観に異論を唱える嚆矢(こうし)となったのである。

明治維新とそれに続く明治は、安倍首相が施政方針演説で述べたような美談だけで済ませられるものではないのだ。
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