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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
まだ超歌劇『幕末Rock!』雷舞のストリーミング配信が続いているため、毎日のように視聴しています。ちゃんと覚えていたはずなのに、歌詞が出て来なくなったのは大丈夫か自分(汗)。

高知
幕末の志士 武市半平太 田畑など売却を示す直筆証文発見
尊皇攘夷を唱えた幕末の志士、武市半平太が、後の「土佐勤王党」の一員となる志士などが通った剣術道場を開いたあと、田畑などを売ったことを示す直筆の証文が見つかりました。専門家は「資金を道場の運営などに充てたと見られ、当時の状況を物語る貴重な資料だ」と指摘しています。
武市半平太は、坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動を展開しました。

ゆかりの深い地元の豪農の子孫が所有する高知市の蔵を調べたところ、嘉永5年(1852年)に当時24歳だった武市半平太が、田畑や山林を売ったことを示す証文が見つかりました。

「考えるところがあって売ります」という内容が、丁寧な字で記され、高知県の佐川町立青山文庫の松岡司名誉館長が鑑定した結果、直筆で署名と黒い印章も本人の物と確認されました。

この時期は、岡田以蔵など後に土佐勤王党の一員となる志士も通った剣術道場などを建てた2年後にあたるということです。

松岡名誉館長は「売却で得た資金を道場の運営や生活に充てたと見られる。暮らしに関連する直筆の資料が見つかったのは初めてで、当時の状況を物語るとともに、きちょうめんな性格がにじみ出た資料だ」と話しています。

このほか本人が使ったと見られる刃渡り55センチの脇差しや明治以降に描かれた珍しい立ち姿の肖像画なども見つかり、松岡名誉館長は、「本人の息づかいが感じられる貴重な資料だ」と指摘しています。
武市半平太 新たな発見は8点
今回見つかったのは、武市半平太に関係する8点の資料です。

このうち直筆と確認された証文は、嘉永5年、1852年の年末、田畑や山林を地元の豪農に売った際のものです。署名や黒い印章の「黒印」が添えられ、「考えるところがあって、あなた様に売ります」という内容が書かれ、「八十文銭三貫八百目」を受け取ったと記されています。

また本人が使ったと見られる刀は、刃渡り55センチの脇差しです。切腹で生涯を閉じたあと、生活に困っていた妻から買い取ったという話が、代々伝えられてきたということです。
松岡名誉館長は、両家の関係の深さから武市の刀である可能性が高いと見ています。

珍しい立ち姿を描いた肖像画も見つかりました。明治から昭和のはじめにかけて活躍し、坂本龍馬の肖像画をかいたことでも知られる高知市出身の画家、公文菊僊が手がけたもので、縦1メートル15センチ、横40センチで、りんとしたはかま姿が描かれています。
立ち姿の肖像画は初めてだということで、松岡名誉館長は「これまで見たことのない剣士の姿を描いていて、価値の高い資料だ」と話しています。
武市半平太とは
土佐の幕末の志士、武市半平太は、天皇を中心とした新しい国をつくろうと坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動に力を注ぎました。剣術の腕前でも知られ、地元で立ち上げた道場には、後に土佐勤王党の一員となった岡田以蔵なども通ったということです。

尊皇攘夷の気運が、一時衰えた際藩内の主導権争いをめぐって切腹を命じられ、明治維新を目前にした慶応元年(1865年)5月11日、志半ばで37歳の生涯を閉じました。出身地の高知市仁井田には、墓と生家が残り、業績を紹介する瑞山記念館が建てられています。地元の人たちは、毎年の命日に慰霊祭を行っています。
武市半平太、田畑売る証文/剣術道場の運営資金か
坂本龍馬らが参加した土佐勤王党を結成した幕末の志士武市半平太(瑞山)が1852(嘉永5)年、田畑などを売ることを示した直筆とみられる証文が見つかったことが7日、分かった。高知市の歴史研究家松岡司さん(74)が筆跡などから鑑定した。半平太は当時、剣術道場を開いており、松岡さんは「運営資金に充てた可能性がある」とみている。

 証文によると、半平太は現在の高知市の生家近くにある豪農に田畑や山林を「思うところがあって」売り、資金を受け取ったとみられる。和紙に毛筆で書かれており、豪農の子孫が掛け軸にして保管していた。
広島
尾道文治謎の落語家 高まる再発見の機運 広島
 幕末から明治にかけ、「尾道文治」の名で知られた落語家、桂文治を再発見する取り組みが終焉(しゅうえん)の地となった広島県尾道市で進んでいる。怪談噺を得意とし、六代目桂文治(1843~1911年)と親しかったともいわれるが、その生涯は謎に包まれている。【渕脇直樹】

 「今夜はしっかり笑ってもらえれば、文治のためになる」。尾道市東土堂町の信行寺で11月26日に開かれた尾道文治をしのぶ落語会で、鶴山豊教住職は約80人の落語ファンに呼びかけた。寺には文治の墓があり、「丹頂文治藝姓桂 享年九十三才」と刻まれている。

 市史編さん委員会事務局の林良司さん(40)によると、尾道文治は現在の尾道市久保1丁目付近に居を構え…
 以下は有料記事です。

島根
浜田城跡に「葵の紋」入り鬼瓦としゃちほこ片発見
 島根県浜田市殿町の浜田城跡で、天守に使われていたとみられる徳川家の家紋「葵の紋」入りの鬼瓦と、しゃちほこの目玉周辺部が見つかった。浜田城は幕末の第2次長州征伐の際に藩主が「自焼退城」し、天守は残っていないため、遺物は往時の城のしつらえを伝える希少な史料。鬼瓦は、藩主が代わった際に瓦替えが行われたことも示している。市は2019年の浜田藩開府400年に向けた機運醸成に活用する考えで、17日に一般公開する。
【詳しくは本紙紙面をご覧ください】
福岡
平田家住宅座敷棟「慶応2年建設」墨書発見 小郡市指定有形文化財 /福岡
 小郡市の市指定有形文化財「平田家住宅」の座敷棟で、建設年代が1866(慶応2)年であることを示す墨書が見つかった。座敷棟は主屋と同じ1879(明治12)年の建設と推定されていたが、10年以上さかのぼることになった。市文化財課は「建設時期を具体的に示す貴重な発見だ」と評価している。

 墨書は座敷棟の玄関部分の壁板から発見さ…(以下、有料記事)
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業務繁忙期の山を抜けたので、幕末の話題をば。

京都
生き残り懸け将軍のカルテ入手 幕末の西本願寺
 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が24日に発表した江戸時代末期の資料には、同寺が、江戸幕府のトップシークレットを収集していたことを示す内容もあった。中には「将軍のカルテ」まである。情報を迅速に入手することにより激動の時代の中で生き残りを懸けようとする同寺の姿が浮かぶ。

 西本願寺には現在20万点の文書が残る。研究所が幕末以降の歴史をまとめる「本願寺史」の編さん作業中に文書を確認し、今回は7点を発表した。

 その中に、幕末の第2次長州征伐で大坂城に入った14代将軍家茂の病状を探る手紙や「容体書」(カルテ)があった。

 慶応2(1866)年7月4日、朝廷は漢方医の高階経由らを大坂城に派遣し診察させた。西本願寺には経由の息子経徳からの手紙が残り、経由に情報を送るよう依頼したことをうかがわせる。それに対して7日に京都へ帰った経由の返信(8日付)は「せがれ(経徳)へのお手紙の内容、委細承知」「極御内々」と同寺の求めに応じ、家茂の容体書を同封してあった。

 容体書は7月5日付。家茂は6月下旬から体のむくみや発熱、嘔吐(おうと)、食欲不振、尿が出ないなどの症状があり、このままだと脚気(かっけ)になる恐れがあり、心臓機能の低下となれば「計り知れない」と記されていた。

 この内容は、1934年に発行された「新聞薈叢」(岩波書店)に掲載された翻刻と同じだった。孝明天皇の側近朝彦親王の日記には、経徳が家茂の容体書を親王に持参したと書かれている。容体書は複数出回っていたとみられるが、研究所の大喜直彦上級研究員は「当時の資料が残っているのは珍しいのではないか」とみる。

 西本願寺が情報収集に奔走していたことを示す資料について、海原亮住友史料館主席研究員(日本近世史)は「西本願寺が積極的に働きかけて家茂の様子を尋ねており、想像力がかき立てられる。容体書が実は広く流布していたことと、その背景の一端を示しており、貴重な史料であることは疑いない」とする。

 今回の資料は、来年2月20日に下京区の西本願寺聞法会館で行われる研究所の公開講座で展示される。問い合わせは同派075(371)5181。
徳川慶喜への贈り物「内々に」 西本願寺、幕末に生き残り図る
 1867(慶応3)年、大政奉還後に大坂城へ移った徳川慶喜へご機嫌伺いの贈り物をする際、西本願寺(京都市下京区)が「他人に知られぬように送れ」などと大坂の出先機関に指示した書状が見つかり、24日、本願寺史料研究所が発表した。

 大喜直彦上級研究員は「元将軍側と、朝廷や倒幕派のどちらに付けば生き残れるかを推し量っていた証拠」としている。

 書状は、西本願寺から大坂の津村別院に宛てた命令書の下書き。大政奉還直後で「とりあえず、このような事態なので内々に」品物を贈るよう指示しており、同封する手紙には「親しく交際する趣意が見えないよう心配りを」と注文していた。
「とりあえずカステラ」慶喜との付き合い悩んだ西本願寺
 150年前の大政奉還(1867年)の後、将軍を辞職した徳川慶喜(よしのぶ)とどう付き合うかに悩む西本願寺の様子を示す書状など、幕末・明治維新期の史料7点が浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)の保管史料から新たに見つかった。研究所が24日、発表した。

 見つかった史料の一つは、西本願寺が大坂の津村御坊(現・本願寺津村別院、大阪市中央区)との往復書簡をまとめた「大坂諸記」。西本願寺から津村御坊に宛てた慶応3年12月14日(1868年1月)付の書状控えでは、それまで西本願寺と親交のあった慶喜らに「とりあえず」「内々に」見舞いの品を贈るよう命じ、見舞いの手紙は「従来のように親しく交際するような趣旨とならぬように」と注意を促している。

 大政奉還後、薩摩藩などの討幕派は新政府樹立を宣言。慶喜は京都・二条城から大坂城に下った。研究所によれば、西本願寺としては、慶喜と親しいと見られると立場を悪くする恐れがあった一方で、慶喜が勢力を回復する可能性もあり、友好的な関係を保つ必要もあった。「とりあえず」という表現には、元将軍となり立場が微妙になった慶喜を見る周囲の空気感が表れているという。

 慶喜や幕府関係者への贈り物として選んだのは、鴨(かも)や「カステイラ(カステラ)」。カステラは当時の贈答品として珍しく高級品というだけでなく、慶喜らの好みに西本願寺側が配慮した選択だった可能性があると研究所はみる。

 慶喜はその後、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸に逃れた。

 江戸の築地本願寺と西本願寺の往復書簡をまとめた「江戸諸記」も発見。米国東インド艦隊司令長官ペリーの来航と幕府の対応について、西本願寺が精度の高い情報を得ていたことがわかる。

 嘉永6(1853)年6月24日付の書状によれば、西本願寺はペリー来航直後の6月8日ごろから来航の情報を集め、異国船が米国の4隻で蒸気船があること、米国からの国書の日本語訳を幕府が儒者と蘭学者にさせることなどをつかんでいた。

 研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「激動の時代に懸命に対応しようとした西本願寺の姿勢や情報収集能力の高さが伝わってくる貴重な史料だ」と話している。(大村治郎)
京都・西本願寺で幕末の“機密情報”記す新史料
 京都の西本願寺は、所蔵する史料から幕末のペリー来航時の様子や将軍の容体など当時の機密情報を克明に記した文書が見つかったと発表しました。

 「黒船」を示す、「異国船」の文字。東京の築地本願寺と西本願寺との間でやり取りされた書簡で、アメリカの提督・ペリーが4隻の船で来航したことなどを正確に伝えています。こちらは14代将軍・徳川家茂が21歳で亡くなる直前に記された文書。当時最大級の機密事項だった家茂の容体について「血流が滞っている状態で皮膚の調子も悪い」と書かれています。

 「どう考えても普通の人が知らないような情報・知るはずがない情報をかなり早い段階で入手している。西本願寺自体がかなりのネットワークを張って情報収集していることがわかる」(本願寺史料研究所 大喜直彦上級研究員)

 今回見つかった新史料は来年2月に京都で公開されます。
西本願寺幕末のそんたく? 「慶喜と親密」伏せる文書
 浄土真宗本願寺派本山・西本願寺が、1867年の大政奉還の際、将軍・徳川慶喜への対応に苦慮したことを示す記録が京都市下京区の同寺で見つかった。本願寺史料研究所が24日に発表した。権力が移った朝廷側をおもんぱかり、慶喜と親密と見られないよう指示した記述などがあり、専門家は「当時の政治状況を生々しく伝える貴重な資料だ」としている。

 研究所が資料整理中に複数の文書を発見。慶喜に関する記述は、西本願寺から大坂の直属寺院「津村御坊」(…
以下、有料。

 幕末の西本願寺がかなり情報機関化していることをうかがわせる記事ですね。新選組が無理矢理押しかけて屯所にして親長州の動きを牽制しようとしたのも、家茂公の病状まで入手できる西本願寺の情報力ゆえでしょう。
 甘い物好きで知られたのは家茂公ですが、「豚一公」の別名が残る慶喜公もカステラや鴨を食されたとしたらなかなかの美食家。

薩摩藩の恐るべき軍事力 「鳥羽伏見」150年…初公開の不発弾から見える幕末の緊迫
 平成29年は大政奉還から150年、30年は新政府軍が倒幕を果たした鳥羽伏見の戦いから150年という節目の年が続く。これを受け、旧幕府軍の拠点・伏見奉行所に着弾した大砲の不発弾が今月、京都市考古資料館(上京区)で初めて公開された。オランダから伝わった大砲から発射されたとみられ、史実通り奉行所が大火災を起こしたことを物語る焼け土とともに出土した生々しい〝物証〟だ。そこで約260年続いた徳川幕府を破る歴史の大転換となった戦いの一端を、この砲弾からひもといてみた。(園田和洋)

薩摩藩が撃った?

 砲弾は赤茶色のさびで全体が覆われているものの保存状態は比較的良好で、てっぺんには信管と思われる木製の栓が装着されているのが見て取れる。

 オランダから伝わった12ドイム臼砲(きゅうほう)の弾とみられる。臼(うす)のような形が名前の由来。ドイムは同国の長さの単位で、センチと同じ長さ。12は口径の大きさを示す。

 砲弾は直径11・8センチで口径とピッタリ。中空の半球を2個継ぎ合わせているので中は空洞だという。前田義明館長は「そこに火薬が詰められたはずで、まだ火薬は残っています」と説明する。

 この砲弾は平成元年、京都市伏見区内の市営住宅建設に伴い行われた発掘調査で見つかった。奉行所跡を示す石碑が立つ近くで、当時の奉行所西端の石垣あたりに該当するという。

 調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「普通なら地面にたたきつけられた瞬間に爆発を起こすはずなのに、地中に30センチほどめり込んだ状態で止まっていた。どうして爆発しなかったのかは分からない」と首をひねる。

 めり込み具合などから、奉行所の北東から飛んできたことも判明した。その先には薩摩藩ら新政府軍が本営を置いた御香宮(ごこうのみや)神社がある。このため、新政府軍が旧幕府軍の拠点をめがけて放った弾の一つの可能性が高い。

森から現れる砲弾

 鳥羽伏見の戦いは慶応4(1868)年1月3日に戦端が切られた。激しい攻防の末、新政府軍が放った大砲の弾が奉行所内の弾薬庫に着弾し大火災を起こしたと伝えられ、調査地一帯では火災を裏付ける焼け土が出土している。

 ただ、御香宮神社と伏見奉行所との間の距離は約300メートルで、大砲より銃を使った方が効果的な距離だ。実際、当時の記録をみると、臼砲の弾は御香宮神社からではなく、その先の高台から放たれたと書かれている。

 幕末史に詳しい霊山資料館(京都市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長は「神社のさらに北東の山側にある現在の龍雲寺が建つ付近から撃った可能性が高い」と推測する。

 龍雲寺は現在、御香宮神社から国道を挟んだ桃山丘陵地にあり、同神社から約300メートル離れている。ここからは奉行所の一帯が手に取るように見渡せたのだろう。しかも射程圏が700メートルという臼砲には絶好の距離。臼砲の仰角は45度に固定されていたため、ほどよい射撃場所があれば、奉行所を狙うぐらいなら相当な命中率が考えられる。

 特に薩摩藩は、文久3(1863)年に英国相手の戦いで惨敗を喫したことを教訓に、軍隊の近代化を唱えた第11代藩主の島津斉彬(1809-58年)が砲兵を鍛え上げており、練度が高かったという。

 木村副館長は「当時あの辺りは桃の木々でうっそうとしていたはず。奉行所側からみれば、木がおい茂る中から放物線を描いた砲弾が特有の音を立てて、次々と落ちてきたような感覚ではなかっただろうか」と旧幕府軍側の驚きぶりを想像する。

練度と物量が雌雄決す

 臼砲の弾道は高い弧を描くことから命中率は比較的低いが、壁を破壊する程度ならば問題なく、要塞攻略戦で多用された。日本では江戸時代初頭の島原の乱を機に導入され、試し撃ちをした記録も残る。幕末にはオランダから12ドイム、20ドイム型が輸入され、幕府のほか有力諸藩が所持していた。

 風雲急を告げる幕末は、輸入だけに頼っていては数が足りなかった。そこで鉄の精錬所を自前で建設していた有力藩のうち、薩摩藩や佐賀藩が大砲の国産化を始めた。木村副館長は「鳥羽伏見で使われたドイム砲は、薩摩藩が製造した可能性が高い。薩摩藩の高い生産能力と大砲を正確に撃つ技術力が、新政府軍を勝利に導いた要因の一つといえる」と評価する。

 京都市考古資料館では、同市上京区の同志社大今出川キャンパス内で行われた発掘調査で、幕末期の薩摩藩邸跡から出土したイギリス製エンフィールド銃の銃弾数発も同時に展示されていた。

 「最新式の銃を試し撃ちしたか、射撃訓練をしたものだろう」と前田館長。当時、欧米ではライフル銃が出始めていたが、この銃は旧式の先込め式で、「米の南北戦争が終わり銃が余ったため、日本に売られてきたのだろう」と話す。

 そして、この銃を薩摩藩に売りつけたのが、坂本龍馬もよく知るイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーだった。展示された銃弾のうち1点は御香宮神社から見つかったものなので、実戦配備されていたのかもしれない。

 木村副館長は「幕府との熾烈(しれつ)な戦いを予想し、薩摩藩は手に入る武器ならどんなものでもほしかったのだろう」と当時の緊迫する情勢に思いをめぐらせた。
 伏見の戦いにおける薩摩藩側の圧倒的な火力を推測させる砲弾ですね。

福島
「会津藩に正義あった」 義尽くし汚名、戊辰戦争を語り合う
 戊辰戦争をテーマにした歴史文化講演会「会津藩と徳川幕府」が23日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。「会津の視点から見た、明治維新を再考」をテーマに、徳川家や松平家の当主ら会津藩関係者が参加した討論では、義を尽くしながら汚名を着せられ、故郷を追われた敗者にも「正義」があったことを語り合った。

 来年の戊辰150年に合わせて開催。約500人が来場した。討論には、徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)徳川記念財団理事長、松平保久(もりひさ)松平家14代当主、会津会会長の柳沢秀夫NHK解説主幹、室井照平市長、近藤真佐夫市教委文化課主幹が登壇。漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長が司会を務めた。

 松平氏は「会津は『義』を大切にしていた。愚直さから京都守護職を引き受け、恭順の意思を示していたのに戦いに巻き込まれた」と指摘。柳沢氏は「義を貫いた会津の生きざまは誇りだ」と語った。

 討論に先立ち、徳川氏と漢字文化振興協会長の石川忠久氏が基調講演した。文化講演会は、漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年記念事業実行委員会の共催、会津若松ワシントンホテル、会津商工信用組合の協賛。

 『戊辰』見直す契機に

 基調講演では徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏、元二松学舎大学長・理事長で漢字文化振興協会長の石川忠久氏がそれぞれの立場から江戸時代の文化などを紹介した。

 徳川氏は「江戸時代に築かれた日本の基礎」を演題に、平和で豊かな江戸時代を解説、現代に江戸の精神を生かすべきだと提言。石川氏は「戊辰戦争の漢詩」と題し、会津藩主・松平容保(かたもり)や会津藩士らが詠んだ漢詩を紹介し、作者の気持ちを想像してほしいとした。

 会場には約500人の歴史ファンが詰め掛け、基調講演や討論に聞き入った。前会津若松商工会議所会頭の宮森泰弘さんは「会津にも江戸時代の文化が色濃く残る。来年の戊辰150年を会津の文化を見直すきっかけにしたい」と語る。

 冒頭、主催者代表の五阿弥宏安福島民友新聞社社長が「近代史では勝者の視点から歴史が語られるが、敗れた側に正義はなかったのか、改めて戊辰戦争と明治維新を考えてみたい」とあいさつした。
会津藩ゆかりの地で先人慰霊 新潟で会津若松市長ら献花
 来年の戊辰150年の節目を前に、会津若松市の室井照平市長と目黒章三郎市議会議長は24日までに、新潟県上越市にある会津藩士の墓地「会津墓地」を墓参し、新潟県内にある会津藩ゆかりの地を訪ねた。

 室井市長は「先人への慰霊、地元へのお礼ができた」と語った。

 戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部約1700人は越後高田藩(現在の上越市)で謹慎した。越後高田藩は財政窮乏の中でも待遇に手を尽くしたが67人が病没した。

 会津墓地は無縁仏が多いため地元住民が手入れを行っている。現地で生涯を過ごした会津藩士もおり、今も子孫が残っている。

 長岡藩(長岡市が本拠)周辺で起きた「北越戦争」。激戦だった小千谷市での「朝日山の攻防戦」で亡くなった会津藩士ら22人の慰霊碑が戦場近くの浦柄神社に整備されている。

 地元住民でつくる保存会が守っており、室井市長と目黒議長が碑前で献花した。

 この日は会津藩と関係が深い長岡藩の本拠だった長岡市の磯田達伸市長らも表敬訪問し、さらに親善交流を深めることで一致した。

静岡
悲しすぎる…ハリスを世話した幕末の下田芸者「唐人お吉」の波乱万丈な人生:前編
幕末という名の風雲は、その時代を生きた多くの人間を呑み込み、彼らの人生を変えました。時代が違えば名もなき寺子屋の先生で終わったような人物が攘夷志士になり、泰平の世であれば良い政治家だった人物が難局を乗り越えられずに暗殺や失脚に追い込まれました。下田の芸者、斎藤きちの場合もそうでした。彼女は幕末に生まれたがために時代の波に巻き込まれ、人々からこう呼ばれるようになります。「唐人お吉」と。

きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。



天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。安政元年、14歳になる頃には「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。

同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、彼女の怒涛の人生が幕を開きます。

同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。彼は立派な船大工になっており、自腹できちに急ごしらえの家を作り、お金も貸してくれたのです。きちは鶴松に救われ、なんとか生命を繋ぐ事ができました。

しかし不幸は続き、翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。

安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。

翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります・・・」と了承しました。

お吉自筆の給金請書 出典:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵

こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。

「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」

間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。(後編へ続く)

北海道
「咸臨丸」どこに 木古内沖 来年度は潜水も 東京海洋大とオランダ文化庁が調査
 【木古内】幕末に勝海舟らを乗せて日本船として初めて太平洋を横断し、1871年(明治4年)に渡島管内木古内町のサラキ岬沖で沈んだオランダ製軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の調査に、東京海洋大教授とオランダ文化庁の調査官が乗り出した。21日まで3日間、町内で聞き取りなどを行った。来年度以降、潜水による探索も行う。明治時代から謎とされていた詳しい沈没場所の解明につなげたい考えだ。

 調査を行うのは、東京海洋大の岩淵聡文教授(56)=人類学、考古学=と、オランダ文化庁から委託を受けた調査官のレオン・デルクセンさん(30)=同国在住=。オランダは世界各地のオランダ製の沈没船のリスト化と調査を進めており、咸臨丸については、沈没船などの「水中文化遺産」が専門の岩淵教授と共同調査を行うことになった。

 2人は19~21日に木古内町を訪問。ナマコ漁などの潜水漁師の間では、10年ほど前に約1キロ沖合で沈没船を見たとの情報もあるといい、漁業者らに沈没船を見たことがあるかどうか聞いたほか、海底の地形などについても聞き取った。19日には木古内町郷土資料館「いかりん館」(町鶴岡)で、町民有志の「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)メンバーらと面会し、情報提供などの協力を取り付けた。

 岩淵教授は「咸臨丸はオランダでも知名度が高いが、その歴史は不明点が多い。船体調査により沈没原因も分かるかもしれない」と期待する。

 来年度は専門ダイバーによる潜水調査を検討している。木造の沈没船を発見した場合は、船体の一部をサンプルとして採集した上で木の年代、産地を特定し、咸臨丸かどうかを確かめる。(木古内支局 高野渡)



坂本龍馬 幕末最大のミステリー 暗殺?今井信郎の百回忌
 幕末の志士、坂本龍馬の暗殺に関与したとされる今井信郎(のぶお)(1841~1918年)が来年で没後100年になるのを前に11日、今井が後半生を過ごし、かつて墓があった静岡県島田市阪本の種月院で百回忌法要が営まれた。

 江戸幕府の治安維持を担う京都見廻組(みまわりぐみ)の一員だった今井は1867年、京都の近江屋で龍馬の暗殺に関与したとされる。だが、近江屋には行ったものの実際には手を下していないなどの諸説があり、龍馬暗殺は「幕末最大のミステリー」とも言われている。

 今井は戊辰戦争の後、新政府に捕らえられ禁錮刑になったが、恩赦を受けた。その後、知人を頼りに初倉村(現・島田市)に移り住んだ。村議や村長を務めたり、県立榛原高校(牧之原市)の前身となる学校の設立に尽力したりするなど地域の発展に貢献し、島田市で生涯を閉じた。

 かつて種月院にあった今井の墓は、子孫の移住に伴い東京都内に移されたが、境内には今井の碑が建てられており、市内には今井が過ごした屋敷跡も残されている。

 法要は地元住民や今井にゆかりのある人たち約100人が参列。ひ孫の今井晴彦さん(73)=東京都=も駆けつけ「1世紀がたつ今も、曽祖父の功績が語り継がれ、地域のためになるならうれしい」。法要を企画したNPO法人「初倉まほろばの会」の塚本昭一理事長(82)は「今井は経済、文化、教育など幅広く活躍した。地元の文化として伝えていきたい」と語った。【松岡大地】

第40回特別展『伊東甲子太郎と幕末の同志』のご案内 【歴史博物館】
歴史博物館では、『伊東甲子太郎と幕末の同志』と題し次のとおり新撰組に関する展示を行います。
今年は伊東甲子太郎没後150年ですので、ぜひ、この機会に足を運んでください。
『第40回特別展「伊東甲子太郎と幕末の同志」』の画像(新しいウインドウで開きます)

期間
平成29年11月11日(土曜日)~平成30年3月4日(日曜日)まで
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月28日(木曜日)~1月1日(月曜日)
※11月13日は、「茨城県民の日」のため臨時開館(入館料無料)
※平成30年1月3日は、「お城市」のため入館無料

入館料

一般:210円
小中学生:100円
記念講演会

日時
平成30年3月4日(日曜日)午後1時半~3時

場所
歴史博物館研修施設

講師
千葉隆司(歴史博物館学芸員)
ギャラリートーク

日時
平成30年3月4日(日曜日)1回目:午前10時半~/2回目:午後1時半~

内容
特別展示室にて、展示資料の解説を行います。

講師
千葉隆司(歴史博物館学芸員)
茨城県
第40回特別展『伊東甲子太郎と幕末の同志』のご案内 【歴史博物館】
歴史博物館では、『伊東甲子太郎と幕末の同志』と題し次のとおり新撰組に関する展示を行います。

今年は伊東甲子太郎没後150年ですので、ぜひ、この機会に足を運んでください。

『第40回特別展「伊東甲子太郎と幕末の同志」』の画像(新しいウインドウで開きます)

期間

平成29年11月11日(土曜日)~平成30年3月4日(日曜日)まで

休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、12月28日(木曜日)~1月1日(月曜日)

※11月13日は、「茨城県民の日」のため臨時開館(入館料無料)

※平成30年1月3日は、「お城市」のため入館無料

入館料

一般:210円
小中学生:100円
記念講演会

日時

平成30年3月4日(日曜日)午後1時半~3時

場所

歴史博物館研修施設

講師

千葉隆司(歴史博物館学芸員)

ギャラリートーク

日時

平成30年3月4日(日曜日)1回目:午前10時半~/2回目:午後1時半~

内容

特別展示室にて、展示資料の解説を行います。

講師

千葉隆司(歴史博物館学芸員)
 3月までならお互いに調整して行きたいですね、と、みつねさんとSNS上でつぶやき合っております。
歌舞伎&落語ブログと化しているので、たまには幕末のお話を。今日は史実ねた限定で。

坂本龍馬、桂小五郎に敗れる 「幻の剣術大会」新史料か
 坂本龍馬と桂小五郎が対決――。幕末志士の両者が1857年(安政4年)3月1日、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、前橋市の群馬県立文書館に保管されていることが30日、分かった。歴史研究家、あさくらゆうさん(48)が存在を確認した。

坂本龍馬が剣術大会で桂小五郎に敗れたことを記す史料(群馬県立文書館所蔵)=共同
 藩主、山内豊信(後の容堂)の上覧試合とされた大会を巡っては、これまでも複数の史料の存在が伝えられている。だが、開催された日が既に龍馬が江戸を去った後だったり、小五郎の名前が当時は使用していない「木戸準一」だったりするため、いずれも「偽書」というのが定説。山内家の日記などにも記録はなく、大会そのものが作り話とされている。

 文書館によると、今回の史料は前橋藩領だった上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務め、医院も営んだ「根井家」に伝わり、1994年に寄託された。

 折り畳んだ縦約16センチ、横約1メートルの和紙で、冒頭に「安政四三月朔日 松平土佐守様上屋敷ニ而御覧」と記載。龍馬らに加え、著名な剣客だった斎藤弥九郎(2代目)や石山孫六、海保帆平ら計43人が、一対一で戦った22試合の結果を毛筆で縦書きに記している。

 あさくらさんによると、この時期の龍馬は江戸遊学中で、土佐藩上屋敷近くにあった北辰一刀流の千葉道場(玄武館)で修行。小五郎も、盛んに対外試合をした神道無念流の斎藤道場(練兵館)で腕を磨いた。

 史料は各剣士の出身や流派も正確に記し、一部は別の史料に残る後日の足取りとも矛盾がない。大会には上州出身者も出場したため、試合結果の書き付けが根井家に残された可能性があるとみている。

 龍馬は今年で没後150年。あさくらさんは「この史料だけで断定はできないが、実際に大会があったのか、もう一度議論するきっかけになる。近年は龍馬の剣術が特に優れていたとする傾向もあるが、小五郎には負けたとある。イメージではなく、本当の姿はどうだったのか考えていくことが大切だ」と話す。〔共同〕
 あさくらゆうさん、またもお手柄。千葉道場の坂本龍馬と練兵館の桂小五郎が手合わせしたというのは史実だった。しかも練兵館の二代目斎藤弥九郎、江川英龍の大親友も史料に名前が見えるなんて嬉しい。

陸軍中将の書簡10通発見 日露の激戦を伝える
 日露戦争で陸軍中将として指揮を執った立見尚文(1845~1907年)が、戦地から同郷の豪商、諸戸清六(1846~1906年)に送った書簡計10通が見つかった。立見の出身地である三重県桑名市が発表した。激戦で知られる黒溝台会戦の様子などを伝えた貴重な史料だ。

 立見尚文が黒溝台会戦の様子をつづった手紙=共同
 桑名市博物館の杉本竜館長(43)によると、諸戸の子孫から寄贈を受けた史料の中に、便箋に書かれた手紙6通とはがき4通が含まれていた。うち9通は日露戦争中の04~05年、戦地から軍事郵便で出されていた。

 陣中見舞いへの返礼といった私的な内容が主だが「黒溝台附近に於る連日連夜の戦い中々激烈なり」「戦場へ遺棄したる死体約二千」などと激戦の様子が記されている。

 立見は幕末の戊辰戦争では「雷神隊」を率いて、新政府軍と対決。明治維新後は陸軍軍人となり、西南戦争、日清戦争にも参加した。日露戦争時は中将で、後に大将となった。

 杉本さんは「立見自らの手で戦場の生々しい様子を今に伝えており、貴重だ」としている。同博物館で開催中の企画展「幕末維新と桑名藩」で、26日まで一部が展示されている。〔共同〕
久々に幕末ニュースです。

北海道
辞林「幕末の三筆・市河米庵と一族門流展」 札幌・小原道城書道美術館 /北海道
 「幕末の三筆」と称された市河米庵(1779~1858年)の作品を集めた特別展「幕末の三筆・市河米庵と一族門流展」が、小原道城書道美術館(札幌市中央区北2西2)で開かれている。
 市河米庵は江戸唐様書の大家。剛健な書風で知られ、大名らにも書を指導。特別展では米庵を中心に父で儒学者の市河寛斎ら一族の書画や門流の書など約40点を展示している。

東京
土方の逸話や人柄紹介…町田の小島さん出版
奉公で指導力養う 手紙に「モテた」…

土方歳三(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
土方歳三(佐藤彦五郎新選組資料館蔵)
「幕末群像伝 土方歳三」を出版した小島さん
「幕末群像伝 土方歳三」を出版した小島さん

 新選組の研究をライフワークとする町田市小野路町、小島資料館館長の小島政孝さん(67)が、新選組副長の土方歳三の生涯やエピソードを伝える「幕末群像伝 土方歳三」を出版した。小島さんは「テレビなどでのイメージとは異なる土方の人間性を読み取ってもらえればうれしい」と話している。

 小島さんは、旧小野路村の豪農だった小島家の24代当主。20代当主の漢学者、小島鹿之助は自宅の庭を剣術の出稽古に開放し、のちに新選組局長となる近藤勇や土方、沖田総司らが訪れた。小島家には、1836年(天保7年)から1921年(大正10年)まで4代にわたって書き継がれた「小島日記」などの史料が所蔵されており、新選組に関する貴重な記録にもなっている。

 小島さんは今回、小島日記などをもとに、土方の出生、多摩ゆかりの剣術・天然理心流入門などから、北海道・函館で戦死するまでの様々なエピソードをつづった。

 土方は11歳から24歳の頃まで商家に奉公に出ており、この経験が新選組での指導力に生かされたとみられるという。また、土方から鹿之助の母に風邪薬が送られてきた際には、用法を詳細に記した手紙が添えられていたことや、京都で土方が女性にもてたことを自慢げに記した自筆の手紙などからは、女性への優しさがうかがわれることも紹介している。

 四六判、64ページ。2000部発行。税込み800円。希望者には送料込み1000円で分ける。問い合わせは小島資料館(042・736・8777)。

 小島さんは、「幕末群像伝~多摩の豪農・小島家を巡る人々~」の執筆にも取り組んでいる。土方や近藤、土方の義兄・佐藤彦五郎ら33人を取り上げる予定で、来年には出版するという。

土方歳三

 1835年(天保6年)、石田村(現日野市)生まれ。新選組副長として、幕末の京都で治安維持にあたった。局長の近藤勇が新政府軍に捕縛された後も宇都宮、会津などを転戦。69年(明治2年)、函館五稜郭の戦いで戦死した。

2017年08月26日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

歳三の新たな一面を紹介 文化小島資料館で上梓
 小島資料館の館長・小島政孝氏(小島家24代当主)が「幕末群像伝〜土方歳三」を上梓した。小島家20代当主である小島鹿之助は近藤勇、土方歳三らと親交があり、書簡など様々な資料が現在も残っている。新撰組副長のとしての土方歳三のほか、幼少期のことや女性自慢など新たな一面を資料を読み解きながら記している。

 今回の冊子は町田ジャーナルで連載していたコラム「博愛堂清話」(1998年〜2011年)の中から土方歳三の部分を抜き出し、加筆したもの。

 特に新しい発見は、歳三の幼少期のこと。武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市)で生まれた歳三は、幼少期に長年にわたり奉公にでたことが石田村の「宗門人別帳」を調べることで分かった。11歳から24歳までと長く、小島氏は書籍の中で「小学5年から、大学院修士課程までを、奉公で過ごしたことになる。彼の人生35年間においても、この期間は、長く人格形成にもおいても重要な時期であった」と記した。人の使い方や指導者としての立場など、後の新撰組副長としての指導力に活かされたと、小島氏は語る。

 小島家当主4代前にあたる小島鹿之助は、近藤勇、土方歳三と親交が深く、年齢は鹿之助が、近藤より4歳年長だった。そして近藤より1歳年下の歳三。数多くの書簡の中には、歳三の女性自慢もあり、いかに京の街で女性にモテているかを報告してきた。小説やテレビ、映画で知っている歳三とは違った一面も紹介している。

 冊子は四六版で61ページ。定価740円(税別)。希望者は現金書留で〒195―0064町田市小野路町950番「小島資料館」宛。送料込で1000円同封のこと。ほか、町田駅前のぽっぽ町田でも販売している。

静岡
幕末の英雄「書」展示 静岡・駿府博物館、「三舟」など30点(2017/8/20 09:08)
 静岡市駿河区登呂の駿府博物館で19日、大政奉還から150周年を記念する企画展「幕末維新 英雄たちの書~徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、他~」(同館、静岡新聞社・静岡放送主催)が始まった。11月19日まで。
 同館の所蔵品から、幕末から明治にかけて活躍した人物の書を中心に30点を展示した。江戸城無血開城に尽力し、「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の書や、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の書も並んでいる。江戸中期の駿府の城下町を描いた土佐光成の「駿府鳥瞰(ちょうかん)図」も特別展示されている。10月7日からの後期展は、一部展示品を入れ替える。
 入館料は高校生以上500円、中学生以下無料。8月26日午後2時からは、書家大谷青嵐さんのギャラリートークが開かれる。問い合わせは同館<電054(284)3216>へ。

京都
京都幕末祭龍馬の新史料紹介 対談や報告 3日・東山 /京都
幕末維新の歴史を振り返る「第5回京都幕末祭」(NPO法人京都龍馬会主催)の講演会が3日午後1時半、京都市東山区の京都国立博物館平成知新館である。幕末の志士、坂本龍馬の没後150年を記念し、新発見の手紙などの史料を読み解き、知られざる姿を探る。

宮川禎一・同博物館上席研究員と京都龍馬会の赤尾博章理事…
 以下は有料記事となります。

【京都ホテルオークラ】10月13日で「大政奉還」表明から150年 オリジナルカクテルシリーズ 第5弾
[オークラ ホテルズ & リゾーツ]
歴史的瞬間にスポットをあてた一杯が9、10月に登場!

京都ホテルオークラ(本社:京都市中京区 (株)京都ホテル、東証2部上場、代表取締役社長 福永法弘)では、「大政奉還」が表明された10月13日に合わせ、2017年9月1日(金)~10月31日(火)に「大政奉還」にちなんだオリジナルカクテルを販売いたします。


京都ホテルオークラ オリジナルカクテル「維新」(左)と「決断」(右)
2017年は徳川家15代将軍慶喜が二条城で朝廷に政権を返上する「大政奉還」を表明してから150周年にあたります。京都ホテルオークラでは、幕末期、ホテルと同じ場所に長州藩邸があったことにちなみ、長州藩の志士「桂小五郎」と「二条城」をメインテーマに1月からオリジナルカクテルの販売を続けてまいりました。
2ヶ月毎にサブテーマや素材を変えながらシリーズ展開してきたこのカクテルを通じ、新たなお客様とのコミュニケーションや出会いの機会も生まれ、好評をいただいております。

今回、徳川慶喜が二条城二の丸御殿大広間に諸藩の重臣を集め「大政奉還」を表明したという10月13日に合わせ、その歴史的瞬間にスポットをあてた一杯が登場いたします。「二条城」をはじめ、幕末・明治維新ゆかりの地が数多くある京都で、歴史を動かした人々に思いを馳せる一杯をお楽しみください。

◆大政奉還150周年 オリジナルカクテル(9・10月)概要
「決断」(写真右)
「大政奉還」が表明された「二条城」大広間の障壁画と、新たな時代への幕開けをイメージし、美しい黄金色に仕上げた一杯。柚子やお茶など日本の素材にこだわった豊かなボタニカルが特長の「季の美 京都ドライジン」をベースに、きりっとした味わいの中に京都の「特別牛乳」でまろやかさをプラスしております。

「維新」(写真左)
朝の光に照らされた草原を思わせる鮮やかな緑で「大政奉還」後に新政府樹立へと歩みだした桂小五郎らの旅立ちを表現した一杯。明治初期に日本へもたらされて以来、多くのリーダーや文人に愛されたスコッチウイスキー「オールドパー」がベースの柔らかな味わいの中に、柚子の香りを利かせ、爽やかな飲み口に仕上げております。

【 価 格 】各1,782円(税・サービス料込)
【販売店舗】 2階 バー「チッペンデール」、17階 トップラウンジ「オリゾンテ」
*「オリゾンテ」はラウンジタイムのみ
【販売期間】2017年9月1日(金)~10月31日(火)
*大政奉還150周年カクテルシリーズは2017年12月29日(金)まで販売


【京都ホテルオークラについて】
京都市の中心部に佇む、1888年創業の伝統あるホテル。京の風情とヨーロピアンテイストが調和した落ち着いた趣の館内には国内外の賓客を迎えてきた歴史が刻まれています。高さ約60メートルの最上階レストランフロアからの眺めは美しく、東山三十六峰や鴨川、古都の街並みが一望できます。

〒604-8558
京都市中京区河原町御池
TEL:075-211-5111(代表)
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前駅」直結。/JR京都駅より車で約15分。
webサイトURL:http://okura.kyotohotel.co.jp/

企業プレスリリース詳細へ (2017/09/01-17:41)



兵庫
知られざる開港前夜に焦点 神戸で「開国への潮流」展
「長崎海軍伝習所絵図」など当時の様子を伝える資料が並ぶ会場=神戸市立博物館
拡大
「長崎海軍伝習所絵図」など当時の様子を伝える資料が並ぶ会場=神戸市立博物館
 神戸開港150年目の企画展「開国への潮流-開港前夜の兵庫と神戸」(神戸新聞社など主催)が、神戸市立博物館(神戸市中央区京町)で開かれている。幕末の開港までの準備段階に焦点をあてた展示。その後、貿易拠点として発展していく神戸の礎を築いた先人たちの軌跡をたどることができる。(ライター・加藤紀子)

 兵庫(神戸)港が開港したのは1868年。江戸幕府が欧米諸国と結んだ通商条約で開港場に選ばれていたが、幕末の混乱で5年遅れての実現となった。その間に、将軍徳川家茂の上洛艦隊を受け入れる港として整備されるなど、急速に近代化が進んだ。

 学芸員の三好俊さんは「準備段階の歴史は、開港後に比べてあまり知られていない」と、展覧会の狙いを話す。今回は当時の史料およそ100点を通じて、外国人の来日に衝撃を受けながらも、積極的に変化に対応していった街の姿を紹介する。

 注目の展示品は、最近になって見つかった「レザノフ屏風(びょうぶ)」だろう。1804(文化元)年に長崎に来航し、幕府に通商開始を求めて滞在したロシア人・レザノフ。自身の肖像のほか、将軍への献上のために持ち込んだ品々が描かれている。当時の人たちの視点で紹介してあり、初めて接する異国文化への認識が分かる。

 「長崎海軍伝習所絵図」は、幕末の海事教育施設の考証復元図。大坂湾の海図作成を手掛けた人材を育成したことで知られ、ここで学んだ多くが明治時代に活躍する。絵図は、海洋国家として成長していく日本に欠かせなかった伝習所の訓練の様子を伝える。

 神戸市指定文化財の「和田岬石堡塔外冑壁(せきほとうがいちゅうへき)之図」は、昨年までの修理工事で分かった砲台の調査結果の資料も併せて展示する。中央に円柱形の石造砲塔を備えるなど、海外で使われていた構造を日本で初めて導入した砲台だが、建造にあたっては日本の伝統技術も貢献した。

 例えば、火薬庫に大砲の冷却水が流れ込まないように、和船の造船で培われた高度な防水技術が使われている。海外の新工法を積極的に取り入れる過程で、従来の技法も織り交ぜながら模索した跡がうかがえる。

 神戸の開港を伝えるイギリスの絵入新聞「イラストレイテッド・ロンドンニュース」は、銅版画で表現した神戸港の光景と合わせてセレモニーの様子を記事にする。神戸港が世界に向けてデビューしたことを報道したもので、新しい時代の幕開けを感じる。

 三好さんは「神戸港の発展には、開港準備に奔走し、模索した先人たちの努力があったことを感じてほしい」と話している。

 24日まで。月曜休館(ただし、18日は開館し19日休館)。一般800円、大学生600円、高校生450円、小・中学生300円。JR三ノ宮駅、阪神、阪急神戸三宮駅から徒歩10分。TEL078・391・0035

■インフォメーション

・記念シンポジウム「神戸開港と港の近代化」 3日午後1時から。当日正午から入場整理券配布。

・サタデー・トーク 学芸員による見どころ解説 毎週土曜午後2時から。

 いずれも聴講無料。観覧券必要。先着160人。

岡山
徳兵衛漂流記米大統領選の記述発見 幕末の備中 4年ごとに「王」選ぶ 津山郷土博所蔵 /岡山
 2015年に津山市で見つかり、19世紀半ばの米国の様子を伝える日本人船乗りの漂流記に、米大統領選に関する記述があることが分かった。4年ごとに「王」を選んでいるなどと記され、米大統領選を紹介した県内最古の史料である可能性が高い。幕末の県内の町民が、世襲制とは異なるトップがいると知っていたことを裏付ける貴重なものだ。【小林一彦】

 記述があったのは、備中(現在の県西部)出身の徳兵衛が米サンフランシスコなどを訪れた体験を記した「漂流記」。徳兵衛が帰国を果たした後の1855年、津山城下の西今町(現・津山市西今町)の商家だった野々口屋佐一郎が聞き書きした。160年後、津山郷土博物館の所蔵品から発見された。

 漂流記で徳兵衛は「アメリカニ国王なし弐(二)十四ヶ国主より四年〓(しめ)其内ノ賢者を見立して王とするよし承り候」と述べている。「弐十四ヶ国」は24州を指すとみられる。米大統領選は当時も今も州政府のトップから選ぶ方法ではなく、州の数も徳兵衛のサンフランシスコ滞在時は31州になっていたため正確性に欠けるが、漂流記後半の付記冒頭に記され、徳兵衛や佐一郎の関心の高さがうかがわれる。

 徳兵衛と同じ「栄力丸」で漂流した船乗りたちが帰郷後、出身地の藩関係者に聴取された記録として知られる史料でも、「入札」で「年季を限り国王に見立て」(姫路藩)、「一任四年限りに代り持に」(鳥取藩)などと、やはり任期を限って国の代表を交代させていると報告している。

 徳兵衛が米大統領選について知ったのは、米国から移送された中国・上海滞在時だった可能性が高い。徳兵衛らの帰国を支援した先輩漂流民の山本音吉は当時、上海の英国系商社員として働いていた。栄力丸の乗組員が音吉から海外事情を教えてもらったと述べている史料もある。

 国内では、佐一郎が聞き書きした55年の前年に日米和親条約が結ばれ、津山出身の蘭学者、箕作阮甫(みつくりげんぽ)がペリー初来日時(53年)に持参した米国大統領国書の翻訳を手掛けるなどしている。米国への関心が国内で高まっていた時期で、徳兵衛のもたらした情報は多くの町民らに広がっていた可能性がある。

米サンフランシスコに滞在
 徳兵衛は1820年代初頭に現在の倉敷市玉島勇崎で生まれたとみられる。鎖国期の1850年に廻船(かいせん)「栄力丸」(乗組員17人)に乗船。江戸から上方方面に帰る途中、紀伊半島沖で嵐に遭遇し、かじや帆柱が破損するなどして約50日間太平洋を漂流した。

 米国商船に救助され、そのまま51~52年に米サンフランシスコに滞在。その後、中国に移送されて54年に長崎へ帰国。長崎奉行による取り調べを受けた後、翌年1月(旧暦)に当時兄が暮らしていた松山新町(現高梁市新町)に帰郷した。佐一郎による聞き書きは、その3カ月後だった。

高知
湿板写真や機材 維新映し出す・・・中岡慎太郎館
 江戸末期から明治期にかけて撮影されたガラス湿板写真などを展示する「幕末維新写真展」が、北川村の中岡慎太郎館で開かれている。同館は「写真を通じて当時の雰囲気を体感してもらえれば」としている。4日まで。

 維新期に活躍した武士らの写真や、当時のカメラ機材など約150点を展示。侍が刀を抜いて構える写真は初公開で、当時は抜刀行為が厳しく制限されていたため、非常に貴重だという。和装と洋装が入り交じった写真も初公開。坂本龍馬や中岡慎太郎ら幕末の志士のほか、町人や歌舞伎役者たちの姿も並ぶ。

 「日本写真の祖」とも評される上野彦馬や、明治天皇の「御真影」を初めて撮影した内田九一ら、当時の写真家が撮影した写真も。最初期の報道カメラマンと言われるフェリーチェ・ベアトが使っていたとされるカメラの現物も展示されている。このほか、当時の写真技法を記したテキストなどのマニュアル本や、被写体用の敷物を含めたカメラセット一式も紹介。同館の担当者は「写真の歴史を知る上で貴重な資料」としている。

 高校生以上500円、小中学生300円。問い合わせは、同館(0887・38・8600)。


佐賀
幕末の「精煉方」技術今に 副島硝子工業の「肥前びーどろ」 ガラスの美工芸の世界へ [佐賀県] 
 透き通る清涼感と、柔らかな手ざわりが魅力の「肥前びーどろ」。幕末佐賀藩の理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」にルーツを持ち、副島硝子(がらす)工業=佐賀市道祖元町=がその技術を今に伝えている。

 精煉方は1852年、多布施川のほとりに設置。佐賀藩は、佐野常民を主任に秀才たちを集め、洋書の翻訳を基礎に蒸気船や大砲製造を進めた。カメラや紙、薬剤と研究分野は幅広く、佐野常民記念館の諸田謙次郎館長(63)は「日本の近代化と物づくりの発祥の地、原点になった」と話す。

 飽くなき好奇心と研究熱を支えたのが、敷地内に置かれたガラス工場だった。昼夜煌々(こうこう)と火がともる熔解(ようかい)炉で実験用ビーカーやフラスコが作られ、火を操る術は肥前陶工たちの知恵があったともいう。

 ガラス製造は日本では、弥生時代の勾玉(まがたま)製造などが確認されているが、本格的な国産が始まったのは17世紀前後から。出島での交易を通して製造技術が伝わったらしい。ポルトガル語がなまって「びーどろ」「ぎやまん」と呼ばれ珍重された。佐賀藩では武雄鍋島家が最初にガラス製造に着手し、精煉方での製造へとつながっていった。

 副島硝子工業の初代社長、副島源一郎さんは8歳で精煉方に弟子入り。孫にあたる副島太郎社長(69)は「祖父はまだ子どもだったので、佐野常民さんから文机(ふづくえ)や革帯(ベルト)をもらいかわいがられたそうです」と明かす。精煉方のガラス技術は明治に民営会社に受け継がれ、副島硝子工業は1903年に独立。ランプやビン類で近代化に貢献し、金魚鉢やハエ取り瓶などが広く普及した。

 昭和の高度成長期にはオートメーション工場の出現で経営難に直面する。太郎社長が営業担当として入社したばかりのころだった。「もう手作りはやめようとしていたら、職人さんが『30年ガラス一筋で、やっと作りたい物ができてきた。無念で仕方ない』と言うんです。そこで若造だった私にも物づくりへの羨望(せんぼう)が生まれた。『もうちょっと辛抱すれば、きっといい時代が来る』と、自分も工場に入って作り始めました」

 手作りガラスブームのあけぼのも見え始めていた。看板商品の「肥前びーどろ」は精煉方ゆかりのガラス棒を使う「ジャッパン吹き」で、型を使わない宙吹きで仕上げる。柔らかな曲線の酒器「肥前燗瓶(かんびん)」は佐賀の酒席に異国情緒を添え、用と美を兼ね備えた器たちは茶人にも愛された。

 近年では明るい色彩の虹色シリーズが人気で、「伝統を受け継ぎつつ、新しいガラスを作っていきたい」と太郎社長。アクセサリーや玉手箱なども企画中で、より工芸としてのガラスの美を生かしていきたいという。

 理化学研究から近代化の原動力に、そして日用品から工芸の世界へ。精煉方の物づくり精神は、今もガラスのきらめきの中に宿っている。

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 9月10日まで、佐賀市川副町の佐野常民記念館で企画展「ガラスの世界~佐賀藩精煉方の歩みと佐野常民」が開催中。精煉方の歴史と副島硝子工業の製品約30点を展示。一般300円、小学生~高校生100円。9月4日は休館。同館=0952(34)9455。副島硝子工業=0952(24)4211。展示販売あり。

=2017/08/31付 西日本新聞朝刊=

未来のヒント、佐賀に30年から「幕末維新博覧会」
 明治維新150年を迎える平成30年、佐賀県が「肥前さが幕末維新博覧会」を開催する。武士道を説いた「葉隠」や、優れた人材を輩出した藩校などを取り上げ、先人の言行をダイナミックに体感できるテーマ館を設ける。最新映像を駆使し、過去の偉業から未来のヒントをつかむ展示を目指す。 (高瀬真由子)

 中核施設「幕末維新記念館」は、市中心部にある市村記念体育館内に整備する。

 幕末、肥前佐賀藩は蒸気船や鉄製大砲、反射炉などを、国内で初めて実用化した。こうしたイノベーション(技術革新)を、最新技術を駆使して伝える。

 このほか、周辺施設に2つのテーマ館を整備する。旧三省銀行が会場の「葉隠みらい館」では、映像で葉隠の文章を写し出す。

 葉隠は佐賀藩の武士、山本常朝が語った教訓など約1300項目を弟子が記録したもので、写本がひそかに藩内に伝わった。藩士に対する教材として、重視された。

 旧古賀家を会場とする「リアル弘道館」では、藩校を再現し、先人の学びの様子を伝える。

 維新後、明治政府で活躍した大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、佐野常民、島義勇らはいずれも弘道館で学んだ。

 150年前にタイムスリップしたような体験ができるよう、佐賀県は展示構成に知恵を絞っている。

 開催期間は、来年3月17日~平成31年1月14日。期間中、博物館など周辺施設でも特別展を検討する。特設レストランも企画し、県内の回遊性を高める。県の担当者は「歴史や文化を含め、佐賀全体を楽しんでほしい」と語った。

 維新を推進した「薩長土肥」のうち、肥前佐賀は注目される機会が少ない。県は博覧会を通じて、佐賀のアピールを図る。

「唐津八偉人」の志を未来へ 市が近代化貢献の8人選定 来年の維新150年に合わせ [佐賀県]
 唐津市は、来年の明治維新150年に合わせ、日本の近代化に貢献した人材を輩出した唐津藩の英語学校「耐恒寮(たいこうりょう)」出身の4人をはじめ、維新前後に活躍した人物計8人を「唐津八偉人」に選定した。先人の生き方や成し遂げた偉業を顕彰し、子どもたちに志をもって未来へと歩んでもらうのが目的。

 唐津出身者を対象に「耐恒寮」の他は「幕末」「石炭」「女性」「近代化」をキーワードにして決めた。八偉人をあしらったタペストリー(縦、横ともに2・4メートル)6枚を作って市中心街のビルなどの壁面に張り出したり、ポスター・チラシも制作したりする方針で、9月1日開会の定例市議会に提案する本年度一般会計補正予算案に243万円を盛り込む。小中学生向けに、八偉人の活躍を知ってもらうための教材作成も視野に入れている。

 八偉人は、小笠原長行(ながみち)▽大野右仲(すけなか)▽辰野金吾▽曽禰(そね)達蔵▽天野為之▽大島小太郎▽奥村五百子(いおこ)▽長谷川芳之助。

 小笠原長行は、幕末に唐津藩主だった長国の養嗣子。幕府に才覚が認められ、老中となって外交で手腕を振るった。戊辰戦争では、旧幕府軍に従って北海道・函館まで渡って忠誠を尽くした。大野は儒学者として藩に仕え、戊辰戦争では長行の側近として明治新政府軍に抗戦し、宮城県・仙台で新選組に入隊。指揮を執った土方歳三が狙撃で亡くなる最期を記した「函館戦記」で知られる。

 耐恒寮は1871(明治4)年、唐津藩知事だった長国が開いた。後に首相となる高橋是清を英語教師として招き、閉校後は薫陶を受けた生徒たちが上京。建築家となった辰野は日本の「表玄関」となる東京駅や日本銀行本店の設計を担う国家プロジェクトにかかわり、曽禰も建築家として、東京駅前にロンドンの銀行街をモデルにした「丸の内煉瓦(れんが)街」を手掛けた。天野も耐恒寮出身で、日本人による最初の経済原論を刊行、早稲田大の二代目学長に就任した。高橋から学んだ大島も唐津銀行を創設、鉄道や唐津港の整備にも力を尽くした。

 奥村は幕末の尊王攘夷(じょうい)、明治初期の自由民権運動で奔走して激動の時代を生き、戦没者遺族、傷病兵家族の支援組織として「愛国婦人会」を創設した。唐津藩士の家に生まれた長谷川は官費留学生として米国で鉱山学を学び、三菱に入社。炭鉱や鉱山の業務に携わった。三菱退社後は官営八幡製鉄所創設に関わった。

 欧米先進国に学び、近代国家へと大変革していった明治時代。けん引していった「唐津八偉人」について、峰達郎市長は「志を広く知ってもらい、唐津のプライドづくりをしたい」と話した。

=2017/08/31付 西日本新聞朝刊=
 大野右仲の資料、見たい……。

エンターテインメント
『風雲児たち』三谷幸喜脚本でドラマ化に大反響!「真田丸」キャスト・スタッフ再集結
 みなもと太郎のマンガ『風雲児たち』がNHKの正月時代劇としてドラマ化されることが分かった。この発表にファンからは「これは凄まじい驚きですよ!」「頬をつねりながらドラマ化の報せを読んでる」と大反響が起こっている。

 同作は、関ヶ原の戦いを機に始まる徳川幕府や江戸時代にスポットを当てた“大河歴史ギャグ”マンガ。今回のドラマ化では演出を大河ドラマ「真田丸」の吉川邦夫が手掛け、「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」と題して前野良沢と杉田玄白の“蘭学事始”を描く。

 脚本を担当するのは三谷幸喜で、「真田丸」以来1年ぶりにNHK時代劇の脚本を担当することに。三谷は同作について「僕はこの作品で、歴史の新しい見方を学びました。『風雲児たち』には、今の日本を築き上げた先人たちの感動的なエピソードがぎっしり詰まっています」とコメント。「今回、そのほんのちょっと一部分をドラマ化しました。歴史ファン、みなもとファンとしてこれ以上の喜びはありません」と喜びを語っている。

 脚本を三谷が務めるとあって、ファンは大興奮のようすで「スーパー楽しみなんですけど!」「三谷幸喜がみなもと作品の脚本を担当するとかヤバすぎるでしょwww」「どこまでギャグが盛り込まれてくるかな?」「これでまたしばらく生きていけるわ」といった声が続出。

 これまでに発表されている出演者にも注目が集まっており、前野良沢役に片岡愛之助、杉田玄白役に新納慎也、平賀源内役に山本耕史、田沼意次役に草刈正雄と「真田丸」キャストが集結。強力な体制でのドラマ化にファンからは「『真田丸』キャスト・スタッフの再結集なんて最高かよ」「草刈正雄が田沼意次役とかハンパない」「真田丸ファンは正月時代劇に集合だな」などの反応が溢れている。

 みなもとは「私のギャグスピリットを最も良くご理解されている三谷幸喜氏の手でNHKでドラマ化されることを、大変うれしく楽しみにしております」とドラマ化に期待を寄せるコメント。喜劇王・三谷幸喜が原作の持つ“ギャグ”要素をどのように活かしてくるのか、正月の放送が今から待ち遠しい。

■正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」
放送予定:2018年1月初旬
原作:みなもと太郎
演出:吉川邦夫
脚本:三谷幸喜
音楽:荻野清子
出演:片岡愛之助、新納慎也、山本耕史、草刈正雄 ほか
制作統括:陸田元一、中村高志
公式ページ:http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=11289
幕末の彰義隊を通して、青春の悲劇を活写した『合葬』
今年は時代劇映画がちょっとしたブームになっていて、『無限の住人』や『たたら侍』『花戦さ』『忍びの国』、そして現在『関ケ原』が大ヒット中です。

個人的には、こうしたブームの基を築いたのは松竹の『超高速!参勤交代』2部作(14&16)や『殿、利息でござる!』(16)などコメディ時代劇のクリーン・ヒットではないかと密かに思っている次第ですが、同時期に松竹(正式には松竹メディア事業部)では、規模こそ小さいまでも、珠玉の時代劇映画を配給していました。

今回はその映画、2015年度作品『合葬』をご紹介したいと思います。

上野戦争をクライマックスに
新政府軍に徹底抗戦を誓う若者たち

『合葬』は、江戸風俗研究家兼漫画家でもあった杉浦日向子が雑誌『ガロ』に発表し、1984年に第13回日本漫画家協会賞・優秀賞を受賞した同名漫画を原作にしたもの。

舞台は江戸時代末期、いわゆる幕末の時代に幕府側について、薩摩や長州の新政府軍を迎え討つことになった彰義隊の若者たちの悲劇を描いたものです。

もともと彰義隊は将軍・徳川慶喜の身辺警護や江戸の秩序守護を目的に組織されたものでしたが、大政奉還によってその存在意義がなくなり、しかし隊員らはそれを認めようとはせず、薩摩や長州を中心とする新政府軍への徹底抗戦を誓うのでした。

その隊員のひとり秋津極(柳楽優弥)は、友人・福原悌二郎(岡山天音)の妹で婚約者でもある砂世(門脇麦)に別離を言い渡します。

それは砂世の身を気遣ってのことでしたが、悌二郎には納得できません。

しかし極は己の信念を変えようとはせず、さらには養子縁組をした家から追い出された吉森柾之助(瀬戸康史)を彰義隊に引きずり込みます。

そんな彼の気概を、隊の穏健派で上役の森篤之進(オダギリジョー)が認め、やがては悌二郎も彰義隊に入隊することに。

まもなくして江戸城の無血開城が決定となり、彰義隊は江戸警護の任を解かれますが、血の気の多い強硬派の若者たちはその命に従おうとせず、新政府軍との衝突は時間の問題に……。

閉塞感漂う現代ともリンクする
戦いに身を投じる若者たちの姿

合葬 映画 BD DVD

(C)2015 杉浦日向子・MS.HS / 「合葬」製作委員会

慶応4年(1868年)3月に西郷隆盛と勝海舟の間で盟約が結ばれて江戸城無血開城がなされた後も、幕府軍と新政府軍とのさまざまな激戦が繰り広げられていった事実は、歴史好きのかたなら先刻ご承知かと思われますが、本作では同年5月に勃発した上野戦争をクライマックスに、戦いに身を投じていく若者たちの悲劇を青春群像劇として活写していきます。

脚本に『ジョゼと虎と魚たち』(03)や『天然コケッコー』(07)など青春映画の旗手・渡辺あやを迎えているのも、この作品が幕末バトル映画ではなく、あくまでも青春映画にしたいという製作サイドの意向が汲み取れます。

その渡辺あやと『カントリーガール』(10)でタッグを組んだ自主映画作家・小林達夫監督が本作で商業映画デビューを飾りましたが、激動の時代に翻弄されていく3人の若者たちをドライに見据えたキャメラアイは、どこかしら現代のきな臭くも閉塞感漂う現代とも巧みにリンクしているかのようです。

本作はモントリオール国際映画祭やミンスク国際映画祭にも出品され、単に日本のサムライ情緒だけではなく、その奥にある世界中どこでも普遍的な青春の慟哭といった要素が大いに評価されました。

ASA-CHANG&巡礼の無調の中から哀しい情感を漂わせる音楽や、カヒミカリィのナレーションも、ここでは大いに功を奏しています。

そして、やはり特筆すべきは、群像劇としてそれぞれの運命を健気に体現していく若手俳優たちの熱演でしょう。

華やかな体裁のものとは趣が異なる作品なので、見る前は地味な印象をもたらすかもしれませんが、いざ見始めると芳醇かつ悲愴極まる青春の慟哭に引き込まれること必至。

これはぜひ一見をお勧めしたい作品です。

そして小林監督の次回作が早く実現しますように!

[この映画を見れる動画配信サイトはこちら!](2017年9月1日現在配信中)
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)セットリスト発表!!
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』絶叫!熱狂!雷舞(クライマックスライブ)セットリストを発表!!
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きに注目!!


『幕末Rock』とは、2014年2月にゲームがリリースされるや大ヒットし、7月にTVアニメが放送され、“幕末”という時代設定のもと、志士(ロッカー)たちが音楽で新しい時代を創る、斬新で魅力的なキャラクターにあふれた大人気コンテンツです。
舞台版は、超歌劇(ウルトラミュージカル)と銘打ち、2014年12月に吉谷光太郎氏の脚本・演出で上演され、本格Rockの楽曲の数々と圧巻の雷舞(ライブ)演出を、若手実力派俳優たちがミュージカルで表現し、全公演満席で、立見もでるほどの注目作となりました。原作ゲーム、アニメの世界観をそのままに、劇中の演出シーンの一部として、観客が実際にペンライトを振りながら公演を楽しむという観客参加型のライブ要素を取り入れた演出が大好評をいただきました。
その後、2015年8月に超超歌劇(ちょう・ウルトラミュージカル)として、東京・大阪で再演し、全公演即SOLD OUT。千秋楽には全国でのライブビューイングも敢行。そして2016年8月、9月には新作で新キャラクターも登場した「黒船来航」を上演。そして、2017年3月には超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)を東京・大阪で開催することを発表、また公式Twitterでは、生誕祭企画など大きな盛り上がりをみせており、ロックの日に合わせ6月9日には公演日程を発表いたしました。
そしてこの度、雷舞(ライブ)にて歌われるセットリストを発表いたします!(一部未発表)
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きにぜひご注目ください!

★セットリスト★
☆楽曲は順不同で公開させていただいておりますので、ご了承ください。
☆???は日替わり楽曲となります。
☆今回の雷舞は「セットリストA」と「セットリストB」があり、楽曲が異なります。
☆公式サイトの公演日程に、「A」「B」を追記しております。

What's this?
Crash My Head
LAST SCREAM
REACTION
ハチノジディストーション
モット!!!
共鳴進歌
INTERSECT
GOD BREATH
グラデーション
不完全パズル
宙ノ翼
L or R
絶頂SPIRAL
MASTER COMMUNICATION
×××ing
???(日替わり)
[セットリストA]
非常幻想 -オーバーミラージュ-
Rolling Thunder
絶頂DAYBREAK
WHITE
[セットリストB]
黒曜蝶(ブラックバタフライ)
RIDE ON THE WAVE
五色繚乱
暁のFreebird

■公演日程:
【大阪公演】 2017年11月24日(金)~26日(日):大阪メルパルクホール
【東京公演】2017年11月29日(水)~12月3日(日):AiiA 2.5 Theater Tokyo

■スタッフ
原作:『幕末Rock』(マーベラス)
構成:吉谷光太郎 音楽制作:テレビ朝日ミュージック ステージング:MAMORU

■キャスト
坂本龍馬 役:良知真次 高杉晋作 役:糸川耀士郎 桂小五郎 役:三津谷亮 土方歳三 役:輝馬 沖田総司 役:佐々木喜英/お登勢 役:山岸拓生 勝海舟 役:岩﨑大/井伊直弼 役:吉岡佑 徳川慶喜 役:Kimeru/マシュー・カルブレイス・ペリー・ジュニア 役:兼崎健太郎

■主催/マーベラス テレビ朝日ミュージック NBCユニバーサル・エンターテイメント NAS
©2014 Marvelous Inc./幕末Rock製作委員会
©2014 Marvelous Inc./超歌劇『幕末Rock』製作委員会

■公式サイト:http://bakumatsu.marv.jp/stage/
■公式ブログ:http://www.marv.jp/message/bakumatsu.php
■公式twitter:https://twitter.com/bakumatsu69

■公演に関するお問い合わせ マーベラス ユーザーサポート
TEL:0120-577-405  (土日祝日 指定日除く 11:00~17:00)
坂本龍馬の手紙、新たに6枚見つかる 寺田屋事件の詳細つづる
龍馬の手紙、新たに6枚発見 寺田屋事件を生々しく

 坂本龍馬(1836~67)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかった。高知県が15日、明らかにした。龍馬が幕府側に襲撃された寺田屋事件や、幕府と長州の戦争を生々しく記述。文中には西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀、高杉晋作など維新の志士たちの名前も登場する。

 県によると、6枚の手紙はいずれも縦25センチで、幅は30センチ前後。龍馬が1866(慶応2)年の旧暦12月4日に記された。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は初めて原本が確認された。6枚は手紙全体の4割に相当する部分だという。

 手紙の1枚目は寺田屋事件について記述。66年に京都の寺田屋にいた龍馬が幕府側に襲撃された事件で、龍馬は負傷しながら薩摩藩邸に逃れたとされる。手紙には小松帯刀や西郷隆盛と語り合い、笑ったことなどが書かれている。

 手紙の3枚目は、寺田屋事件と同じ年にあった幕府と長州の戦争を描写している。高杉晋作が錦ののぼり旗を振って指示を出したり、味方に酒を振る舞って戦意高揚を図ったりする様子などが書かれている。

(朝日新聞デジタル 2017年06月15日 23時01分)

坂本龍馬直筆の手紙6枚発見 兄に寺田屋事件の話つづる
 高知県は16日、幕末の志士・坂本龍馬が兄らに宛てて記した直筆の手紙6枚が新たに見つかったと発表した。1866(慶応2)年、京都・伏見の旅館で幕府側に襲撃された寺田屋事件後の様子などを報告している。今後所有者から県が買い取り、来春から県立坂本龍馬記念館(高知市)で展示する予定。

 県によると、手紙は慶応2年12月4日の日付で龍馬の兄権平らに宛てており、1枚の大きさは縦25センチ、横24~34センチ。伏見の薩摩藩邸に逃れた寺田屋事件を振り返り、「うれしかったのは西郷隆盛が事件の一報を聞き、銃に弾を込めて私を伏見まで助けに来ようとしてくれたこと」などと記し、幕府が長州藩を攻撃した第1次長州征伐の様子などもつづる。末尾に「龍馬」の署名がある。手紙の内容は既に写本で知られ、今回発見された6枚は冒頭部分などがなく、全体の4割に当たる。文言は写本とほぼ一致している。

龍馬直筆、新たに6枚…「寺田屋」後を克明に
幕末の志士・坂本龍馬が、1866年(慶応2年)、家族宛てに書いた手紙の原本6枚が新たに見つかった。

 龍馬が襲撃された「寺田屋事件」後の経緯などを記したもので、現存する写しから文面は知られていたが、原本が確認されたのは初めて。

 高知県などによると、縦25センチ、横24~34センチの和紙6枚。現存する写しの4割程度の内容が記されている。「(兄の)坂本権平、家族一同」に宛てたもので、「十二月四日」の日付と龍馬の署名がある。県外の個人が所有しており、昨秋、県側に買い取りを打診。京都国立博物館の宮川禎一ていいち・列品管理室長らが筆跡などから本物と鑑定し、県は購入する方針を決めた。

 1866年1月の寺田屋事件では、伏見奉行所の役人が、伏見の旅館「寺田屋」で龍馬を襲撃。手紙には、手を負傷した龍馬が伏見の薩摩藩屋敷に逃れ、西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀たてわきらと「大笑」したなどと生々しくつづられている。
福島
松平容保の貴重な写真展示 会津若松で11日まで「戊辰と明治展」
 会津若松市で発見された、幕末の会津藩主・松平容保の明治初期の写真などが並ぶ「第3回戊辰と明治展」は9日、同市文化センターで始まった。市内外から来場者が訪れ、国内を二分した戊辰戦争での重要人物の貴重な一枚に見入っている。11日まで。入場無料。

 容保の写真は、写真を包んでいた紙に「明治七(1874)年四月に戴く」との書き付けがあり、撮影は74年4月より前とみられる。専門家は「身分の高く親しい旧会津藩士に贈った写真では」とみており、「撮影時期が推定でき、構図も珍しく貴重だ」としている。

 郡山市から訪れた夫婦は「戊辰戦争への興味がますます湧いてきた」と語った。

 同展は市民有志らでつくる会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(会長・阿部隆一歴史春秋出版社長)の主催。会場には写真や書の新史料のほか、幕末明治期の会津の史料やパネルなどが並ぶ。時間は午前9時~午後8時(最終日は午後3時)まで。

静岡
「ディアナ号」来館2万人 富士の歴史学習施設
富士市前田のふじのくに田子の浦みなと公園内に整備された歴史学習施設「ディアナ号」がこのほど、来館者数2万人を突破した。公園を管理する県田子の浦港管理事務所によると、4月1日のオープン以来、48日で大台を超えたという。
 施設は幕末の1854(安政元)年に同市沖で沈没したロシア軍艦を、実物の3分の1の大きさ(全長約25メートル、高さ約19メートル)で再現。地元住民が乗組員500人を救助した逸話を後世に伝えようと、1階の展示スペースは海底から引き揚げられたディアナ号の鎖の一部や当時の様子を紹介するパネルなどを展示している。2階は船のデッキを模していて、駿河湾や伊豆半島を一望できる。
 公園は富士山の撮影スポットとして人気が高く、施設もオープン当初から家族連れや観光客でにぎわった。特に5月の大型連休は6千人余りの来館者があり、短期間で2万人を達成したという。
 開館時間は午前9時~午後4時。月曜休館。
(2017/6/10 08:55)

京都
戊辰戦争中の目安箱訴状発見 京都で全国初
 戊辰戦争中、明治新政府の統治下に入った京都で全国に先駆け置かれた目安箱に、京都の人々が入れた訴状の原本34通が8日までに見つかった。国際日本文化研究センター(京都市西京区)の磯田道史准教授(日本史学)が市内の古書店を通じ入手した。同時期の目安箱の訴状が見つかるのは全国でも初。幕末から明治への大転換期に、小学校建設や、物価高騰による窮状を訴えた書面が含まれている。

 目安箱への訴えを指す「箱訴」や、1868(慶応4、明治元)年を意味する「戊辰歳」と墨書された冊子に、1通ごとに筆跡の異なる34通がとじられていた。王政復古の大号令や鳥羽伏見の戦い直後で、明治改元前の68年2月、明治新政府は徳川幕府にならって全国初の目安箱を京の三条大橋西詰に設置。その後、堀川竹屋町橋や京都府庁前にも置かれ、東京や大阪でも順次設置された。

 見つかった訴状は主に68年6~12月の日付で、「堀川目安箱」との受領印がある訴状もあった。蛤御門の変(64年)などで荒廃した京の復興を建言する訴状が多く、「上京三十七番組」の住人は連名で公営の長屋建設を求め、その家賃を基に小学校を運営したいと要望している。

 また、新政府が68年5月に出した国内初の紙幣・太政官札の発行に伴う物価高騰を受け「農民など零細な人が苦しんでいる」「天皇の威光が衰えるもとになる」と不満をしたためる書もあった。飢饉(ききん)に苦しむ浜松の人が助けを求める書状や、装甲車のような兵器を新政府に提案する絵入りの訴状もあった。

 磯田准教授は「京都の庶民が明治維新と聞いた直後に何を思ったのか、生の声が分かる大きな発見。御一新をおおむね好意的に受け止め、京都の近代化に向けた前向きな提言が多い。今後調査を進めたい」としている。

「これぞ暁斎」自由奔放に描く 京都で展覧会
 幕末明治期、自由奔放に絵筆を振るった絵師河鍋暁斎(きょうさい)(1831~89年)の傑作を集めた「ゴールドマンコレクション これぞ暁斎」展(京都新聞など主催)が10日、京都市下京区の美術館「えき」KYOTOで開幕する。報道内覧会が9日開かれ、おおらかな笑いと風刺にあふれる暁斎ワールドが公開された。

 暁斎は浮世絵師歌川国芳に入門、狩野派にも学び、才能を花開かせた。英国の画商イスラエル・ゴールドマン氏の世界的なコレクションからよりすぐった肉筆画、版画、絵日記など計約180点を展示する。

 暁斎の特徴は、強弱自在な筆の線と現代に通じる斬新な表現。鍾馗(しょうき)や達磨(だるま)のほか、得意としたカラスは当時から博覧会で外国人の人気を呼んだ。明治の役人や文明開化を動物たちにたとえて皮肉り、妖怪や鬼を劇画調に表し、薄明かりに浮かび上がる幽霊を情感たっぷりに描くなど、卓越した画力とユーモアがうかがえる。同展監修の及川茂・日本女子大名誉教授は「時代も国境も超えた絵師の魅力を楽しんでほしい」と話した。7月23日まで。有料。

徳島
幕末・牟岐沖漂着の異国船 英囚人強奪の海賊船か
 幕末の1829(文政12)年、牟岐沖に現れた黒船は、イギリスの囚人が強奪した海賊船である可能性が高いことが分かった。有名な異国船漂着事件でありながら、当時は英国艦船としか分からず、実態は謎だった。英国出身の英会話講師ニコラス・ラッセルさん(51)=兵庫県芦屋市在住=が、約2年かけて歴史書や当時の新聞を調査し突き止めた。

 事件は、徳島藩士浜口御牧(ぎょぼく)が30(文政13)年に著した挿絵付きの見聞記「異国船舶来話并(ならびに)図」(篠原家文書)に紹介されている。

 牟岐町の出羽島に別荘を所有するラッセルさんが、見聞記を解読した史料「異国船牟岐浦漂着」(徳島の古文書を読む会)を読み、2015年から調査を始めた。英紙タイムズの記事(1830年10月18日付)や、オーストラリアの歴史書「キプロス号を盗んだ男」などと照合。その結果、船は英国の囚人収容所があった豪タスマニア島で、護送中の囚人が反乱を起こして奪った「キプロス号」と分かった。

 船の大きさ、帆柱の高さ、乗員の服装と人数、漂着時期がほぼ同じだったほか、弾が撃ち込まれて開いた船の穴の位置が歴史書などと一致した。

 今回の発見は、英紙ガーディアンが5月28日付で報道。調査に協力した徳島県立文書館の徳野隆館長は「黒船がキプロス号だった可能性は非常に高い。異国船の実態をつかみ、幕末の空白を埋める成果」と評価した。駐大阪オーストラリア総領事デイビッド・ローソンさんも「キプロス号の可能性が高い」とコメントした。

 異国船問題に詳しい下関市立大の鴨頭(かもがしら)俊宏講師は「貿易船ではなく海賊船だった点で、想定を超える国際的な有事が発生する可能性があった」と話した。

 ラッセルさんは「歴史解明の面白さを味わった。オーストラリアにはキプロス号を題材にした歴史書2冊と、民謡がある。ただ、徳島には触れていない。今後も調査を重ねたい」と語った。

◆異国船牟岐浦漂着事件

 1829年12月20日午前9時ごろ、英国籍の黒船が日和佐沖に現れ、その後、牟岐沖に移動した。徳島藩士や多くの農民が沿岸を警備。23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従って発砲したところ、船は出港し、行方不明になった。
【写真説明】「異国船舶来話并図」に描かれた漂着船(県立文書館提供)

熊本
幕末の志士 宮部鼎蔵の被災した顕彰碑再建
 熊本地震で被災し、地元住民が修復していた御船町上野の宮部鼎蔵[ていぞう]顕彰碑の工事が完了。4日、鼎蔵と親交のあった吉田松陰の生誕地・山口県萩市の住民3人が駆けつけ、碑の再建を喜び合った。

 同町上野出身の鼎蔵は幕末の尊王攘夷[じょうい]派の志士。志を同じくする松陰とは、海防視察のため過酷な東北への旅を共にするなど親交が深かった。松陰は1859年の安政の大獄で処刑され、鼎蔵はその5年後、京都の池田屋で新撰組の襲撃を受け、自刃した。

 昨年4月の地震では、同町上野の記念公園「鼎春[ていしゅん]園」に建つ顕彰碑(高さ約5メートル)が傾いたほか、歌碑が倒れるなどの被害が出た。地元住民でつくる宮部兄弟顕彰会(北川内宗郎会長)はネットで募金を呼び掛け、110万円を調達。今回来熊した山本貞壽さん(78)ら萩市の住民有志からは、これまで計100万円の支援金が寄せられた。

 修復は1月下旬着工、3月25日完了。再建された顕彰碑を見上げた山本さんは「手助けしたい一心だった。松陰先生も涙を流して喜んでくれると思う」と目を潤ませた。顕彰会の北川内会長(80)は「萩市からの支援がなければこれほど早く再建できなかった。ありがたい」と話した。

 山本さんらは、新たに65万円の支援金を顕彰会に贈った。同会は周辺の案内板の整備や萩市との交流資金などに活用するという。(久保田尚之)

コラム
北斎や広重、幕末の横浜など、日本の貴重な浮世絵2500点が米議会図書館Webサイトで楽しめる
アメリカの議会図書館の印刷物・写真部門には日本の浮世絵と木版画が所蔵されており、デジタルコレクションのページから浮世絵や木版画のデータ約2500点がダウンロードできるようになっています。

ダウンロードできる浮世絵や木版画は江戸時代の「東海道五十三次」の図をはじめ、北斎や広重、国貞の作品や、幕末に横浜が開港されたのち、日本で広まっていった西洋文化の様子を描いたものです。

そのうち100点は「ワシントン・イブニング・スター」紙のオーナーで編集長だったクロスビー・スチュアート・ノエス氏がコレクションしていたものだそうです。

「富嶽三十六景」や「東海道五十三次」が閲覧できる

ダウンロードできる作品を見ると「東海道五十三次」や「富嶽三十六景」などよく知られている作品が所蔵されていることがわかります。

葛飾北斎による「東海道五十三次」シリーズの中でも有名な作品もあります。東京・小石川の茶屋から雪が降ったあとの富士山を眺める人たちを描いた「礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)」も閲覧できました。

日本人から見た西洋の人たち

横浜の様子を描いた木版画では、洋装で歩く外国人を描いたものや外国の子どもたちが遊ぶ図版、当時のアメリカ人の上官の顔を描いたものなどが見られます。

アメリカ人、イギリス人、フランス人と日本人が集まって何かを話している様子の絵も。
所蔵コレクションを閲覧・ダウンロードするには議会図書館のWeb「オンラインコレクション」から「Fine Prints:Japanese,pre-1915」を選択します(このリンクから直接アクセスできます)。

江戸時代の浮世絵や西洋文化が流れ込んだ日本の姿がわかる貴重な資料。200年も経つと、世界中の人たちが自由に見られるようになることを当時の浮世絵師は想像していたでしょうか。

出典元:Download 2,500 Beautiful Woodblock Prints and Drawings by Japanese Masters (1600-1915) - openculture(6/8)

エンターテインメント
超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』 雷舞(ライブ)
[マーベラス]
第4弾公演日程発表!!

超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)公演日程発表!!
新たなる、超歌劇(ウルトラミュージカル) 『幕末Rock』の動きに注目!!

原作の『幕末Rock』は、2014年2月にゲームがリリースされるや大ヒットし、7月にTVアニメが放送され、“幕末”という時代設定のもと、志士(ロッカー)たちが音楽で新しい時代を創る、斬新で魅力的なキャラクターにあふれた大人気コンテンツ。
舞台版は、超歌劇(ウルトラミュージカル)と銘打ち2014年12月に、吉谷光太郎氏の脚本・演出で上演され、本格Rockの楽曲の数々と圧巻の雷舞(ライブ)演出を、若手実力派俳優たちがミュージカルで表現し、全公演満席で、立見もでるほどの注目作となりました。原作ゲーム、アニメの世界観をそのままに、劇中の演出シーンの一部として、観客が実際にペンライトを振りながら公演を楽しむという観客参加型のライブ要素を取り入れた演出が大好評をいただきました。
その後、2015年8月超超歌劇(ちょう・ウルトラミュージカル)として、東京・大阪で再演し、全公演即SOLD OUT。千秋楽には全国でのライブビューイングも敢行。そして2016年8月、9月には新作で新キャラクターも登場した「黒船来航」を上演。そして、2017年3月には超歌劇(ウルトラミュージカル)『幕末Rock』待望の雷舞(ライブ)を東京・大阪で開催するこを発表、また公式Twitterでは、生誕祭企画など大きな盛り上がりをみせています。

そしてこの度、Rockの日(=6/9)に合わせて、公演日程を発表致します!!

■公演日程:
【大阪公演】
★日時:2017年11月24日(金)~26日(日)
★会場:大阪メルパルクホール

【東京公演】
★日時:2017年11月29日(水)~12月3日(日)
★会場:AiiA 2.5 Theater Tokyo


■スタッフ
原作:『幕末Rock』(マーベラス)
構成:吉谷光太郎
音楽制作:テレビ朝日ミュージック
ステージング:MAMORU

■キャスト
坂本龍馬 役:良知真次 高杉晋作 役:糸川耀士郎 桂小五郎 役:三津谷亮 土方歳三 役:輝馬 沖田総司 役:佐々木喜英/お登勢 役:山岸拓生 勝海舟 役:岩崎大/井伊直弼 役:吉岡佑 徳川慶喜 役:Kimeru/マシュー・カルブレイス・ペリー・ジュニア 役:兼崎健太郎

■主催/マーベラス テレビ朝日ミュージック NBCユニバーサル・エンターテイメント NAS
(C)2014 Marvelous Inc./幕末Rock製作委員会
(C)2014 Marvelous Inc./超歌劇『幕末Rock』製作委員会

■公式サイト:http://bakumatsu.marv.jp/stage/
■公式ブログ:http://www.marv.jp/message/bakumatsu.php
■公式twitter:https://twitter.com/bakumatsu69
■公演に関するお問い合わせ マーベラス ユーザーサポート
TEL:0120-577-405  (土日祝日 指定日除く 11:00~17:00)

企業プレスリリース詳細へ (2017/06/10-10:22)
松平容保の「写真」発見! 幕末の会津藩主、明治初期に撮影
 幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)を明治初期に撮影した写真が8日までに、会津若松市内で見つかった。写真を包んでいた紙の書き付けに「明治七年四月に戴く」とあり、専門家は「撮影時期が推定できる点が貴重で珍しい」としている。

 戊辰戦争で会津藩が敗れた後、容保は東京などで謹慎。1869(明治2)年に会津藩再興が許され、現在の青森県に斗南藩が成立し、容保の嫡男・容大(かたはる)が斗南藩知事になった。容保は71年に斗南藩領に移るが、廃藩置県ですぐ東京に戻り、72年に蟄居(ちっきょ)が許され、しばらくは東京で暮らした。

 同市の歴史家・野口信一氏(67)によると、容保は74年4月27日、会津で行われる戊辰戦争戦死者を弔う七回忌に出席するため東京を出発。5月初めに会津入りし、約1カ月を過ごした。野口氏は写真について「容保が身分の高く親しい旧会津藩士に贈ったもの」とし、「もしかすると慰霊に旅立つ姿を写した写真かもしれない」と想像を膨らませた。

 写真は市内の収集家が入手したもので、74年時に容保から写真を贈られた人物は不明だ。このほか容大が12歳時に書いたという書「春濤(しゅんとう)」(春先、岸に打ち付ける穏やかな波の意味)、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の写真も見つかった。

 幕末期にもっとも近い容保様のお姿。。。(;o;)
東京
新選組結成前の名簿、東大で発見 妻子持つ浪士多く
 幕末の京都で新選組の前身となった浪士組235人分の出身地や年齢、家族構成が記された詳細な名簿が、東京大法学部に保存されていることが29日までに、歴史研究家への取材で分かった。妻子を持った40代以上の者も多く、中には60代の浪士も。動乱の時代に立身出世を夢見た新選組の原点が垣間見える。

 見つかったのは「浪士姓名簿」と題された冊子で、これまで一部の存在しか知られていなかった。幕府の呼び掛けで江戸に集まった者の身上書を基に、浪士組取締役だった旗本が一覧を記したものとみられる。

 後に新選組幹部となる沖田総司や永倉新八、藤堂平助が近藤勇の道場に同居し、山南敬助が門人の家に間借りしていたことが分かる。

 父母や妻子の記載がなく、独り身とみられるのは80人足らず。63歳が2人おり、「孫」「祖母、母、妻子六人」「父母、兄弟十人」など多くの家族を抱える者もいた。

 出身地は、武州(東京・埼玉)と上州(群馬)がそれぞれ50人以上を占め、甲州(山梨)や常州(茨城)などが続いた。

 浪士組は将軍警護の名目で京に入った後、結成の黒幕だった清河八郎の策略で反幕府勢力に転換。9割以上が江戸に帰ったが、反発した近藤勇ら22人が京に残り、後の新選組になった。

 新選組研究の第一人者として知られる菊地明さんは「これまであった名簿に比べて出身地や家族構成が詳細で、一番信頼度が高いのではないか」と話している。〔共同〕
 将軍家茂の上洛に際しての護衛で、3ヶ月程度で江戸に戻ってくるプロジェクトという位置づけだったため、浪士組は妻子持ちや60代もいれば、博徒ややくざ者もいる玉石混淆でした。

千葉
幕末の会津藩士弔う 富津の墓前 市長ら30人
 幕末に東京湾防備のため亡くなった会津藩士を弔おうと、房総半島会津藩士顕彰会は4日、藩士の墓がある富津市西川の正珊禅寺で慰霊祭を行った。同市の高橋恭市市長や会津若松市の斎藤勝副市長ら約30人が参 ・・・
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京都
【寺田屋事件】龍馬かくまった薩摩藩屋敷、絵図が見つかる
薩摩藩伏見屋敷の絵図発見 寺田屋事件で龍馬かくまう

 江戸時代、現在の京都市伏見区にあった薩摩藩伏見屋敷の絵図が見つかった。同区の神社・城南宮(じょうなんぐう)が3日、発表した。屋敷は、船宿・寺田屋で襲撃された坂本龍馬(1836~67)が避難したことで知られる。所在地は確認されていたが、図面が見つかったのは初めてという。専門家は「日本史に大きな影響を与えた舞台の詳細を示す貴重な発見」としている。

 城南宮などによると、絵図は縦99センチ、横128・2センチ。東側を下にして、「天明六年」(1786年)と書かれている。屋敷の建物の配置や間取りを示し、東側には川から上がるための板橋も描かれている。屋敷の規模は南北99メートル、東西64メートルで、敷地面積は4973平方メートルと推定されるという。城南宮が5月、京都市の古書店から購入した。

 薩摩藩と長州藩による「薩長同盟」を取り持った龍馬は1866年、寺田屋で幕府の奉行所の役人に襲撃され、深手を負いながらも寺田屋を脱出。北側の材木小屋に身を隠した後、薩摩藩に救出され、舟で伏見屋敷に運ばれたことが、龍馬の手紙や妻お龍(りょう)の証言などから明らかになっている。屋敷は68年の鳥羽伏見の戦いで会津藩に焼かれた。
(朝日新聞デジタル 2017年06月03日 20時46分)
龍馬をかくまったのはどこ? 薩摩藩伏見屋敷の絵図発見
 幕末の寺田屋事件(1866年)で坂本龍馬をかくまった時期の薩摩藩伏見屋敷を示す可能性が高い、江戸時代後期の絵図が初めて見つかり、京都市伏見区の城南宮が3日発表した。研究者らは「幕末史の重要な舞台を知る上で貴重な資料」と注目する。

 絵図は「伏見御屋鋪(おやしき)惣絵図」(縦99センチ、横1・2メートル)。城南宮の鳥羽重宏宮司が京都市内の古書店で入手した。「天明6(1786)年12月16日」「大工方 儀兵衛所持」などと記され、建物配置や間取りが詳しく描かれる。中央に藩主らが泊まる御殿、東側に留守居役の建物や長屋門が配され、改築か新築時の工事用図面とみられる。鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失するまで建て替えなどの記録はなく、龍馬時代の屋敷の可能性が高い。

 交通の要衝だった伏見には江戸時代、西国の諸藩が参勤交代の宿舎となる屋敷を設けていた。寺田屋事件では、薩長同盟を取り持った龍馬を伏見奉行所の役人が襲撃。負傷した龍馬は舟でこの屋敷に運び込まれた。龍馬の処遇をめぐって薩摩藩は奉行所と対立し、倒幕の機運が高まったとされる。

 絵図に川の船着き場や橋も描かれており、屋敷跡に記念碑を立てたNPO法人京都歴史地理同考会の中村武生理事長は「川や屋敷の配置は他の古地図と矛盾しない」と分析する。絵図にはます目が刻まれており、敷地が約4900平方メートルと推計できるという。幕末史に詳しい京都国立博物館(東山区)の宮川禎一上席研究員は、「想像よりも敷地が広い印象を受けた。未解明な各藩の伏見屋敷研究の進展につながれば」と期待する。

 絵図は4日~7月2日、城南宮で公開。7月25日~9月3日、同博物館の特集陳列にも出展される。ともに有料。
徳島
幕末・牟岐沖漂着の異国船 英囚人強奪の海賊船か
 幕末の1829(文政12)年、牟岐沖に現れた黒船は、イギリスの囚人が強奪した海賊船である可能性が高いことが分かった。有名な異国船漂着事件でありながら、当時は英国艦船としか分からず、実態は謎だった。英国出身の英会話講師ニコラス・ラッセルさん(51)=兵庫県芦屋市在住=が、約2年かけて歴史書や当時の新聞を調査し突き止めた。

 事件は、徳島藩士浜口御牧(ぎょぼく)が30(文政13)年に著した挿絵付きの見聞記「異国船舶来話并(ならびに)図」(篠原家文書)に紹介されている。

 牟岐町の出羽島に別荘を所有するラッセルさんが、見聞記を解読した史料「異国船牟岐浦漂着」(徳島の古文書を読む会)を読み、2015年から調査を始めた。英紙タイムズの記事(1830年10月18日付)や、オーストラリアの歴史書「キプロス号を盗んだ男」などと照合。その結果、船は英国の囚人収容所があった豪タスマニア島で、護送中の囚人が反乱を起こして奪った「キプロス号」と分かった。

 船の大きさ、帆柱の高さ、乗員の服装と人数、漂着時期がほぼ同じだったほか、弾が撃ち込まれて開いた船の穴の位置が歴史書などと一致した。

 今回の発見は、英紙ガーディアンが5月28日付で報道。調査に協力した徳島県立文書館の徳野隆館長は「黒船がキプロス号だった可能性は非常に高い。異国船の実態をつかみ、幕末の空白を埋める成果」と評価した。駐大阪オーストラリア総領事デイビッド・ローソンさんも「キプロス号の可能性が高い」とコメントした。

 異国船問題に詳しい下関市立大の鴨頭(かもがしら)俊宏講師は「貿易船ではなく海賊船だった点で、想定を超える国際的な有事が発生する可能性があった」と話した。

 ラッセルさんは「歴史解明の面白さを味わった。オーストラリアにはキプロス号を題材にした歴史書2冊と、民謡がある。ただ、徳島には触れていない。今後も調査を重ねたい」と語った。

◆異国船牟岐浦漂着事件

 1829年12月20日午前9時ごろ、英国籍の黒船が日和佐沖に現れ、その後、牟岐沖に移動した。徳島藩士や多くの農民が沿岸を警備。23日、徳島藩は幕府の異国船打払令に従って発砲したところ、船は出港し、行方不明になった。
【写真説明】「異国船舶来話并図」に描かれた漂着船(県立文書館提供)

佐賀
幕末の佐賀城下写真発見 直茂250年祭写す
■鍋島報效会「藩の技術 先進性裏付け」

 幕末の1867(慶応3)年、佐賀藩祖・鍋島直茂の没後250年を記念して佐賀市の松原神社で催された祭りを撮影したとみられる4枚の写真が見つかった。三味線を演奏しながら参道を練り歩く行列や大きな屋根のついた山車(だし)、見物客など佐賀城下のにぎわいを捉えている。江戸時代に佐賀城下で撮られた屋外写真が確認されたのは初めて。写真を所蔵する公益財団法人鍋島報效会の富田絋次主任学芸員は「佐賀藩の科学技術力の先進性を裏付ける発見」と話す。

 鍋島家が2000年、鍋島報效会に1万点近くの写真を寄贈していた。報效会が今回、佐賀市松原の徴古館で開く企画展の準備をする中で江戸時代の写真を発見した。250年祭の様子を描いた版画「直茂公二百五十年祭礼図」(佐賀県立図書館所蔵)などと照合した結果、描かれた建物や鳥居、のぼり旗などの特徴が一致したことから、二つは同じ祭りと判断した。

 撮影者は不明。幕末期に西洋科学技術などを研究する佐賀藩精錬方で写真やカメラを研究していたことから、精錬方の技術者や鍋島家の周辺人物である可能性が高いという。佐賀藩の写真では藩士が藩主を写した鍋島直正の肖像写真(1859年)が知られている。

 確認された150年前の写真4枚は縦10・1~15・8センチ、横14・2~28・5センチ。29日開幕した企画展「藩祖鍋島直茂公と日峯社」で展示している。富田主任学芸員は「地元のお祭りを写真記録に残す例は珍しい。佐賀の基礎を築いた直茂公の功績をたたえる町民の熱気や、佐賀城下のにぎわいをリアルに感じられる貴重な資料」と評価した。企画展は7月29日まで。
熊本
幕末の志士 宮部鼎蔵の被災した顕彰碑再建2017年06月05日
熊本地震で被災し、地元住民が修復していた御船町上野の宮部鼎蔵[ていぞう]顕彰碑の工事が完了。4日、鼎蔵と親交のあった吉田松陰の生誕地・山口県萩市の住民3人が駆けつけ、碑の再建を喜び合った。

 同町上野出身の鼎蔵は幕末の尊王攘夷[じょうい]派の志士。志を同じくする松陰とは、海防視察のため過酷な東北への旅を共にするなど親交が深かった。松陰は1859年の安政の大獄で処刑され、鼎蔵はその5年後、京都の池田屋で新撰組の襲撃を受け、自刃した。

 昨年4月の地震では、同町上野の記念公園「鼎春[ていしゅん]園」に建つ顕彰碑(高さ約5メートル)が傾いたほか、歌碑が倒れるなどの被害が出た。地元住民でつくる宮部兄弟顕彰会(北川内宗郎会長)はネットで募金を呼び掛け、110万円を調達。今回来熊した山本貞壽さん(78)ら萩市の住民有志からは、これまで計100万円の支援金が寄せられた。

 修復は1月下旬着工、3月25日完了。再建された顕彰碑を見上げた山本さんは「手助けしたい一心だった。松陰先生も涙を流して喜んでくれると思う」と目を潤ませた。顕彰会の北川内会長(80)は「萩市からの支援がなければこれほど早く再建できなかった。ありがたい」と話した。

 山本さんらは、新たに65万円の支援金を顕彰会に贈った。同会は周辺の案内板の整備や萩市との交流資金などに活用するという。(久保田尚之)

コラム
(言葉の服)日本人のおしゃれ:上 土方歳三の「いき」 堀畑裕之
 日本人はどう洋服を着始めたのだろう? 幕末の写真を見ると着こなせている人はほとんどいない。そんな中で抜群におしゃれなのが、元新撰組副長の土方歳三だ。着こなしが自然体でダンディーな印象を受ける。上襟がベルベットのフロックコート、ベストに懐中時計、そして首元の白いスカーフはエレガントに巻かれている。ロングブーツも足を長く強調して、いま見てもかなりハイセンスだ。

 ただ気になる点もある。袖幅はダブついて袖丈も余っている。ズボンも腰回りが太すぎる。つまりこれはテーラーメイドの服ではなく、外国の古着だった可能性がある。それなのになぜこんなにも「いき」に見えるのだろう?

 この写真を撮ったのは、函館の五稜郭の戦いで亡くなる半年前だったらしい。つまり新撰組が鳥羽伏見で新政府の洋式軍隊に惨敗してから、わずか1年しか経っていない。だから洋服を仕立てる暇などなかっただろう。

 多摩の豪農の六男坊が、侍に憧れて京に上り、刀一つで幕臣にまで駆け上った。だが時代が変わったと見ると、洋服と散切り頭にさっと切り替える。それは洋式軍装の方が強かったからだ。この潔さに、土方歳三の近代的な合理主義を見る気がする。しかし同時に決して手放さなかった腰の刀が、最期は侍として散った彼の「意気地」をいっそう際立たせている。日本人と洋服の始まりを考える時、いつも思い出す鮮烈な1枚だ。

 (matohuデザイナー)
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