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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
やっと最高気温30度近い日が終わったようです。台風直後で暑さがぶり返したせいで、今年は秋が短く感じられますね。

秋田
<秋田戊辰戦争150年>仙台藩士の無念思う「賊軍」6人の墓を守る寺、宮城の子孫ら感謝し墓参
 秋田戊辰戦争で戦死した仙台藩士6人が大仙市板見内(いたみない)の霊仙寺に眠っている。寺は賊軍とみなされた6人を手厚く葬り、墓を1世紀半守ってきた。宮城県に住む子孫らは、寺に感謝しながら墓参を続ける。
 高さ約1メートルの墓は参道の傍らにある。刻字は薄れているが「仙臺藩」とあり、佐藤円太夫、佐々木文左衛門、高橋建治、菅野千代治、阿部勝之進、三浦養作と6人の名が彫られている。
 6人は佐沼(登米市)を治めた伊達氏一族の佐沼亘理家の家臣だった。秋田戊辰戦争の当時は20~40代で、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩(久保田藩)内に攻め込んだ。
 1868年旧暦8月23日、寺から北東約5キロの大仙市太田町国見の街道沿いで「国見の戦い」が起こった。六郷(秋田県美郷町)から北上した同盟軍と、角館(仙北市)から南下した新政府軍が激突。戦いで佐藤ら6人は亡くなり、同盟軍も退却を余儀なくされた。
 同盟軍は新政府軍から賊軍の汚名を着せられていたが、当時の住職は6人に戒名を授けた。寺の過去帳は「子孫が仏事で訪れた際は、丁寧に取り扱うこと」と後代へ書き残している。
 中村秀男住職(79)は「異郷の地で亡くなった6人は、さぞ無念だっただろう」と同情する。盆や彼岸には墓の周りを清め、供え物をして読経を欠かさない。
 登米市の千葉賢一さん(59)は、21歳で戦死した阿部勝之進の妹の子孫に当たる。2013年から毎年墓参りし、今年も8月上旬に親類と寺を訪ねた。「寺には150年間も弔ってもらっている。申し訳なく、本当にありがたい」と話す。

[秋田戊辰戦争]奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機に仙台、庄内、盛岡藩などの同盟軍と新政府軍との間で行われた戦争。秋田藩領などが戦場となった。仙台隊は湯沢、横手、大曲と進軍し、久保田、角館に迫ったが東北南部の戦況悪化により撤退した。
福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
絵画など関連資料展示 二本松で戊辰150年企画展
 戊辰百五十年特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」は六日、二本松市歴史資料館で始まった。十一月二十五日まで。
 二本松少年隊の隊士だった武谷剛介の脇差しや大壇口古戦場の戦場写真、肖像写真、絵画・書など、関連資料八十六点が並ぶ。
 初日は開場式が行われ、三保恵一市長があいさつ。本多勝実市議会議長らが祝辞を述べた。関係者がテープカットした。
 時間は午前九時から午後五時まで。入館は午後四時半まで。月曜休館。月曜が祝日の場合は翌日が休館になる。観覧料は一般が二百円、小中高生は百円。問い合わせは同資料館 電話0243(23)3910へ。
戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

新潟
戊辰戦争...会津藩に『愚直さ』あった 会津、越後、長州が語る
 戊辰戦争に関わりが深い会津、越後、長州の3地域によるフォーラムが6日、新潟市で開かれた。パネリスト3人がそれぞれの立場から歴史認識について意見を交わした。

 會津藩校日新館(会津若松市)の宗像精館長、東軍として戦った長岡藩士河井継之助を顕彰する河井継之助記念館(新潟県長岡市)の稲川明雄館長、西軍の主力となった長州藩があった山口県萩市の萩博物館、道迫(どうさこ)真吾主任学芸員がパネリストを務めた。

 戊辰戦争に突入した理由について宗像氏は、会津藩には将軍家への忠義を尽くそうとする「愚直さ」があったとし、稲川氏はやむなく戦わざるを得なかった会津藩に対して同情する武士的な「教養」が長岡藩にあったと解説した。道迫氏は会津藩などに「武士の生きざまを貫き通す意味で敬意を表さざるを得ない」とした上で、当時の国際情勢を意識した長州藩は「変化に柔軟だった」と指摘した。

 また会津若松、萩両市の共通性として、先人の思いや伝統的な規範意識を子どもたちの教育に生かしていることが示された。

 道迫氏は「地元では歴史への関心が薄れている。しっかりと歴史に向き合うよう市民に伝えたい」、宗像氏は会津と長州の関係について「歴史は消すことはできない。仲良くはできても、仲直りはできない」としつつも「互いの立場を推し量ることが大切だ」と話した。
千葉
明治150年水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」の慰霊法要 子孫ら参列
 明治元年に千葉県匝瑳(そうさ)市内で起きた水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」で戦死した26人の藩士を慰霊する法要が27日、同市中台の「脱走塚(水戸藩士の墓)」で行われた。150年目の節目となった法要には、水戸市から藩士の子孫らが訪れ、供養碑の前で手を合わせた。

 幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。幕府崩壊後、朝敵とされた諸生党の藩士らは水戸を脱出。北越、会津と転戦したが敗走し、最後に戦った場所が下総の松山村(現在の匝瑳市)だった。

 匝瑳市教育委員会などによると、明治元年10月に起きたこの戦いで死亡した藩士らは地元の村民らに埋葬され、翌2年5月に供養塔が建てられた。当時、諸生党の藩士は水戸藩の脱走兵とみなされていたことから、この場所は脱走塚と呼ばれるようになった。脱走塚は昭和35年に匝瑳市の史跡に指定され、水戸市の子孫らとの交流も生まれた。

 今回の慰霊法要は、諸生党藩士の子孫や関係者らでつくる「水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会」などが主催。水戸市からは高橋靖市長や藩士の子孫らでつくる水戸殉難者恩光碑保存会の関係者など約50人が訪れた。長年、脱走塚を世話してきた匝瑳市中台区の住民らも参列し、計約130人が焼香をして冥福を祈った。

 実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争をして多大な迷惑をかけたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養してくださり、藩士の子孫として地元の皆さんのご厚意に心から感謝している」と追悼の辞を述べた。
福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)
大阪
西郷隆盛らの肉筆85点 大阪城天守閣で特別展開幕
 NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛や勝海舟の詩文をはじめ、明治維新で活躍した人物の書や書簡を集めた特別展「幕末・維新の人とことば」が6日、大阪市の大阪城天守閣で開幕した。榎本武揚(えのもと・たけあき)、吉田松陰、福沢諭吉らの肉筆85点が展示され、多くの来場者が見入っていた。

 西郷隆盛の詩文は七言絶句。「世上毀誉軽似塵 眼前百事偽耶真」(世上の悪評や称賛の軽さはまるで塵のようだ。目の前の出来事は偽りなのか、本当なのか)と維新後の世を嘆く。

 後半は、「追思孤島幽囚楽 不在今人在古人」(思い出すのは孤島で過ごした幽囚の頃の楽しみ。そこには今人はおらず、古人だけがいた)。徳之島などに流刑された幕末を振り返り、理想に燃え、新しい世を創るべく奔走した志士を「古人」と呼んで懐かしむ。

 勝海舟の詩文は、旧幕府軍の代表として新政府軍代表の西郷と交渉し、江戸無血開城を実現させた明治元年のもの。「壮士が死をかえりみずに決戦にのぞむことを誰が責められようか」と旧幕府兵に同情しつつ、「多くの人々を救って天皇に答えるのだ」と内戦を避けることこそ尊王の志だと自らに言い聞かせている。

 ほかに、戊辰戦争に敗れたが、後に政府に重用される旧幕府軍総裁の榎本武揚が、獄中で新政府軍を一刀両断した戯れ歌の書などが注目を集めていた。

 特別展は11月25日まで。入館料600円(中学生以下無料)。問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。

福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)




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