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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
いまだに『新選組!』の劇伴がドキュメンタリー(どちらかというと旅行とかグルメ番組が多いかも)で流れたりすると、心が2014年に引き戻されます。

福島
容保公の「宿札」初公開 若松 戊辰七回忌出席裏付け
 幕末の会津藩主松平容保公が一八七四(明治七)年に現在の会津美里町の関山宿に宿泊した際の「宿札」が十日、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で初公開された。容保公が戊辰戦争七回忌法要のため会津若松に赴き、その帰路に関山宿の有力者宅に泊まった際に掲げられたとみられる。
 市文化課によると文献で記録された容保公の七回忌法要出席が物品で裏付けられたのは初めてで「戊辰殉難者の追悼に関わる貴重な資料」としている。
 宿札は縦六十一センチ、幅一九・六センチ、厚さ一センチの木板。「芳山(容保公が藩主を辞してからの名)様 御寓」と記されている。
 記録では容保公は四月末に東京を出発し白河などで戦死者の墓参りをしながら五月初旬に会津若松に到着した。阿弥陀寺で営まれた七回忌法要などに出席し、帰路の六月初旬に関山宿に宿泊した。
 宿札は常設展展示替えに際し、所有者から借りて紹介している。常設展は戊辰戦争後に焦点を当てており、明治時代に活躍した会津の人物などを紹介している。来年一月二十日まで。観覧は午前九時から午後五時。無料。月曜日と年末年始は休館。問い合わせはまなべこ 電話0242(27)2705へ。

戊辰の経緯を考察 猪苗代で歴史講演会
 福島民報社は七日、戊辰戦争から百五十年にちなむ歴史講演会を猪苗代町の野口英世至誠館で開いた。県内各地で開いている歴史出前講座の一環。猪苗代地方史研究会長の江花俊和氏、県立博物館学芸員の栗原祐斗氏が講師を務め、県内外から約八十人が訪れた。
 江花氏は会津戦争の緒戦として町内が舞台となった母成峠の戦いを解説した。新政府軍は早期決戦に向け、天然の要害である母成峠の守備が手薄と考えて進撃したと説明した。
 栗原氏は県立博物館で開催中の企画展の新資料に基づき戊辰戦争を振り返った。会津藩祖・保科正之公(土津様)に報告した文書である「土津神社告文(つげぶみ)」では、鳥羽・伏見の戦いは薩摩藩の発砲から戦端が開かれたとしており、会津藩から見た開戦の経緯などを紹介した。
 福島民報社は明治時代の紙面や戊辰戦争に関する資料を展示した。

■福島民報社歴史講演会 21日は郡山で
 幕末の郡山市について学ぶ福島民報社の歴史講演会は二十一日午後一時から郡山市の郡山女子大芸術館で開かれる。
 郷土史家の遠藤教之氏が「戊辰戦争百五十年 水戸藩御連枝・守山藩を尋ねて-勤皇家・遠藤無位を視座として」、郡山女子大短期大学部地域創成学科講師の佐藤愛未氏が「戊辰戦争と郡山」と題して語る。
 既に聴講を先着順で受け付けている。定員百五十人。聴講は無料。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数での申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を記し、はがき、ファクス、メールのいずれかで申し込む。はがきは郵便番号960-8602 福島市太田町一三ノ一七 福島民報社地域交流局 出前講座「郡山会場」係へ。ファクスは024(531)4117。メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jp
 問い合わせは電話024(531)4145。平日の午前十時から午後五時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。

斎藤一ファンら焼香 阿弥陀寺会津新選組まつり
 第十五回会津新選組まつりは二十四日、会津若松市の阿弥陀寺で繰り広げられた。新選組幹部で戊辰戦争で戦った斎藤一の法要が墓前で営まれた。
 斎藤一や新選組のファンら約二百人が参列した。地元の七日町通りまちなみ協議会の渋川恵男会長があいさつし、会津新選組まつり実行委員会の佐藤功武委員長が「不屈の会津魂を後世に引き継ぐために力を尽くしたい」と祭文を読み上げた。
 斎藤一のひ孫に当たる藤田太郎さん(さいたま市)が「墓前祭が長く続いてほしいと願っている」と述べた。
 無外流居合道連盟宝祥会の会員が居合を奉納した後、参列者が次々と焼香した。


新選組赤べこ」参上!背中に『誠』の文字 会津若松で販売
背中に「誠」の文字が大きく書かれた羽織を着た「新選組赤べこ」が会津若松市七日町の七日町観光案内所で販売され、ファンの人気を集めている。

 新選組は会津藩主・松平容保(かたもり)が京都の治安を守る京都守護職を務めた際、会津藩預かりとなり、戊辰戦争でも会津藩などと共に戦った。

 新選組赤べこは1体2200円(税込み)で、ゲームのキャラクターにちなんだバージョンもある。阿弥陀寺で新選組の一員、斎藤一をしのぶ墓前祭が行われた際も、大勢が購入したという。

 通常バージョンはインターネット販売も行っている。問い合わせは同案内所へ。



新潟
戊辰戦争150年 犠牲の藩士ら思う新発田 追善供養と講演会
 戊辰戦争から150年。新発田市では7日、犠牲となった藩士らの追善供養と講演が行われた。村上市でも城下を戦禍から守った家老の法要が営まれ、三条市では戦争中に自殺した勤王画家の作品展が開かれている。各地で市民らが、歴史に翻弄(ほんろう)された先人に思いをはせた。

 追善供養が行われた宝光寺(新発田市諏訪町2)は、新発田藩主・溝口家の菩提寺。境内には、1894(明治27)年、藩時代の重臣ら有志が犠牲者を供養しようと建てた「戊辰殉難追悼之碑」がある。碑には藩士ら84人の名が刻まれている。

 7日は本堂で寺崎敬道住職らが読経し、参加した約70人が、戦争で亡くなった人たちに手を合わせた。その後、新発田古文書解読研修会の鈴木博さん(77)が講演した。

 鈴木さんは、新発田で最も激戦となった同市赤谷付近の「角石原の戦い」について「雨で視界が悪く、どちらの軍かも見分けが付かないような悲惨な戦いだった」と説明。犠牲者の名前や亡くなった場所の一覧を資料で示しながら、「今の新発田市周辺だけでなく、長岡城をめぐる攻防や庄内方面の戦いなど、さまざまな場所で犠牲になった」と語った。

 市内から訪れた70代の主婦は「地元のことでも知らないことが多い。あらためて勉強したい」と話した。



「高田の人々の恩情に感謝」 戊辰戦争150年で会津藩士の子孫らが金谷山に墓参
戊辰戦争150年に合わせて、新潟県上越市の金谷山にある会津墓地に2018年10月11日、福島県会津若松市から会津藩士の子孫らが訪れた。雨の中、戊辰戦争に敗れ高田藩に預けられたまま死亡した会津藩士68人の墓に手を合わせた=写真=。

会津墓参団

1869年(明治2年)、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍の会津藩士1742人が新政府軍の榊原家高田藩に預かりの身となった。当時、高田藩は財政がひっ迫していたが、藩士が謹慎した寺々に炊事場や浴場などを設け、生活用品一式を用意し、医師も付けるなどして厚遇した。しかし、藩士らは戦場での傷病や厳冬の長旅で体を壊し、約1年の謹慎中に68人が死亡。高田の人々は死亡した藩士を手厚く葬り、現在は地元住民や「旧高田藩和親会」が墓地を管理し守り続けている。

上越市の金谷山にある会津墓地
会津墓地

会津墓地を墓参したのは、会津若松市の歴史研究会「会津史談会」(成田勝義会長)の会員ら26人で、墓に眠る会津藩士の子孫も参加した。節目の年にあたり、長岡市や小千谷市など、戊辰戦争における会津藩ゆかりの本県の地を巡る現地研修会として訪れた。同会の墓参は2年ぶり。

会員らは墓に花と線香を手向けた後、読経の中、順に焼香し手を合わせた。井上昌成副会長(83)は「高田の人々の恩情に感謝する」などと追悼文を読み上げ、「150回忌に墓参でき感無量。会津の先人の苦労を偲んでお参りをさせてもらった。上越の皆さんとは今後も仲良くしていきたい」と語った。

一行は12日は、会津藩士が謹慎していた寺町の寺院や戊辰戦争の特別展が開催されている市立歴史博物館を訪問し、帰路につく予定。
 
京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
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