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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
京都
幕末の豪農日記、初の一般公開 京都、新選組動向記載で注目
 幕末期の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川軍記が30年近く書き続けた日記が1日~12月2日、南区の国登録有形文化財の長谷川家住宅「長谷川 歴史・文化・交流の家」で公開されている。昨年、新選組の動向を記した新史料として注目された日記で、当時の農村の暮らしぶりも詳述されている。一般公開は初めて。

 日記は、軍記が当主となった1845年から死去した1871年までに書いた計27冊。冊子は縦12センチ、横34センチで1年ごとに記入されている。内容の一部を抜粋したパネルも展示する。

 軍記は農民だが、公家の家来を一時務めていた。日記には侍姿で夜明け前に公家屋敷に出勤したことや、公家と決裂して免職されたことなどが記され、当時の農民と公家の関係性もうかがえる。

 通説では、江戸時代に誕生日を祝う習慣は一般的にはなかったとされるが、毎年自分の誕生日を赤飯で祝ったとの記述もあった。当時、四条橋東詰にあった北座や南座まで芝居見物に出かけたことや、村で悪病よけの踊りが流行したことなども書き残している。

 禁門の変が起きた1864(元治元)年の日記には、東九条村に新選組と会津勢が下宿し洛中に攻め上る長州勢を警戒、撃退したことも記されており、昨年、新史料として注目された。展示では、当時の会津藩兵の軍勢行列図や、下宿の謝礼として会津藩から送られた花鳥図も紹介する。

 展示を監修した伊東宗裕佛教大非常勤講師は「当時の洛南の農村の様子や軍記の人柄も分かる貴重な史料」としている。

 開館は毎週土日・祝日午前10時~午後4時。11月23日休み。大人800円。9月9日、10月14日、11月11日に伊東氏が、10月20日には地元農家田中和久氏がそれぞれ講演する。問い合わせは同交流の家075(606)1956。

滋賀
幕末の倒幕運動「天狗党の乱」、地域有力者が情報収集 「和田峠の戦い」で偽情報も 滋賀・長浜で聞き書き資料発見
 幕末の元治元(1864)年、水戸藩浪士が起こした倒幕運動「天狗(てんぐ)党の乱」で、鎮圧に向かった幕府軍が敗れた和田峠の戦い(長野県)の様子を滋賀県長浜市高月町西野で庄屋を務めていた人物が県内の宿場町で聞き書きした資料が、同地区の子孫の家で見つかった。当時、天狗党は京都を目指して進軍中。県内の通過も予想されたことから、地域の有力者が積極的に情報収集していたことがうかがえるという。

 高月観音の里歴史民俗資料館(長浜市高月町渡岸寺)の西原雄大(たけひろ)学芸員が調査し、明らかになった。

 資料は「水戸藩浪士一条之聞取写(みとはんろうしいちじょうのききとりうつし)」(縦12・3センチ、横35・4センチ)。後書きに、天狗党が降伏する約2週間前の元治元年12月5日、村庄屋の野洌村右衛門(やすそんえもん)が、中山道柏原宿(米原市柏原)で聞いた-などと記されている。

 内容は天狗党の首謀者の名前や戦闘で使われた武具の絵、挙兵後の動き、和田峠の戦いなどを記録。ただ、和田峠の戦いでは「幕府軍が勝利し(天狗党の)600人中400人に戦闘をやめさせた」などと、史実に反する事柄が記されていた。

 西原学芸員は「戦闘中の混乱で誤って伝えられたのか、天狗党に加勢しようとする民衆を抑えるため、偽情報をつかまされた可能性も否定できない」としている。情報元は幕府の役人ではないかと推測する。

 天狗党は挙兵した筑波山(茨城県)から京都に向かう途中、敦賀(福井県)で幕府に降伏。関係者が処刑された。

 今回の資料は、同資料館で開催中の企画展「西野水道と西野のくらし-野洌家文書が語るもの-」で展示している。9月3日まで。問い合わせは同資料館(電)0749・85・2273。

兵庫
仏皇帝の装束、あまり威厳感じず…幕末武士が日記に
 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料
 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も
 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく、受け取った日付を書き加えたものもある。当時は欧州と中国上海の間には定期郵便船が運航されたが、上海と日本の間は商船や軍艦が手紙を運んだとみられ、日本からドイツのベルリンまで最速2カ月半で届いたことや、郵便事故で4通は届かなかったことなど、幕末の郵便事情も知ることができる。

女性が男性に指図、驚き
 また、黒澤は日記の中で、パリで謁見(えっけん)したフランス皇帝ナポレオン3世の装束について「帝王と申しても、変わりし装束等これなき由(よし)」と記し、あまり威厳を感じなかったことを打ち明けていたほか、家族に宛てた手紙には、西洋では女性が男性の先に立ち、男性に指図することに驚いた、などと書いていた。冨川さんは「黒澤のような一般にはあまり知られていない人物の声を聞くことは、知られざる歴史を掘り起こすことにもつながる。今後も分析を進め、史料の全容を明らかにしていきたい」と語った。

 企画展は9月9日まで。問い合わせは生野書院(079・679・4336)へ。(渡義人)

     ◇

 〈文久遣欧使節〉 兵庫や新潟の開港延期交渉などのため、文久元(1861)年12月から約1年かけ、欧州6カ国を巡った総勢38人の幕府使節団。各国と開港延期で合意し、一定の成果をあげた。

愛媛
維新期に「戦わない」決断下した幕府方・松平定昭 松山で「幕末維新と松山藩」展
 明治150年を記念した特別企画展「幕末維新と松山藩-時代の激流、人々の決断-」が市立子規記念博物館(松山市道後公園)で開かれている。9月3日まで。

 松山藩は江戸幕府の親藩。幕末維新期は幕府方として行動し、新政府から「朝敵」とされた。21歳で老中に就任し、戊辰戦争で幕府軍に加わった同藩14代藩主、松平定昭は抗戦か降伏かの決断を迫られるなか、側近の筆頭家老、奥平弾正や大原観山(正岡子規の祖父)らが尽力し、降伏を決断した。

 展示は、幕末維新期の激流に向き合った藩士らの軌跡を追う展開で、観山の肖像画など初公開資料7点を含め96点を公開。定昭の抗戦の決心や、降伏への説得工作、土佐藩が松山城を開城した際の記録など、難局を乗り越えて新時代へ向かう姿が浮かび上がる構成となっている。

 同館の西松陽介学芸員は「戦わない英断を下したことで、次世代の偉人(秋山好古ら)が育ち、文化人が活躍する源流につながった」と話した。

 火曜日休館。問い合わせは同館(電)089・931・5566。

山口
幕末吉田松陰と弟子の往復書簡発見 徳川光圀の書勧める
 山口県萩市の松陰神社は28日、幕末の思想家・吉田松陰(1830~59年)が、松下村塾の教え子だった長州藩士、前原一誠(まえばらいっせい)(34~76年)とやり取りした往復書簡が見つかったと発表した。松陰は、中国の「四書」や徳川光圀らによる書物など読むべき書物を列挙して前原に伝えており、維新の志士たちを育てた松陰の指導者としての姿が浮かび上がる。

 書簡(縦16.7センチ、横52.3センチ)は2006年、前原の子孫が神社に寄贈した史料約2600点のうち、読書記録の冊子に挟まれていた。1857年に書かれたとみられ、学問の方法について教えを請う前原の手紙の裏面に、松陰が朱色の墨で返信をしたためた。

 四書の他に「国史略」「十八史略」など日中両国の歴史書など計11点を挙げ、前原の意思次第で議論に応じるとつづった。さらに儒学者の林羅山(はやしらざん)や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)ら8人を「心に刺さり、人を動かす言葉がある」と評価。徳川光圀、上杉鷹山(ようざん)ら江戸時代の「名君」6人の書物も読むことを勧めている。

 前原は松下村塾で洋学を学び、尊皇攘夷(じょうい)運動に加わった。維新後は政府の参議などを務めたが、木戸孝允らと対立し1870年に萩へ戻った。6年後、不平士族を率いて「萩の乱」を起こしたが、敗走して捕まり、萩で処刑された。

 書簡は来年4月8日まで同神社の特別展で展示される。【遠藤雅彦】




 私は『西郷どん』第一話で脱落しましたが、下記は必読です。

コラム
これだけはおさえておきたい、幕末についての新常識『西郷どん』をより楽しむために
町田 明広
大河ドラマなどでも人気の幕末維新。幕末というと、必ず持ち出されるのが「尊王攘夷」派vs.「公武合体」派の構図だが、じつは幕末研究ではそうした見方はされなくなっている。これだけは知っておきたい新常識を、大河ドラマ「西郷どん」放映後のTwitterで話題の町田明広神田外語大学准教授が紹介する。
〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立しない
2018年は明治維新150年であり、今年に限らず、ここ数年は「~から150年」という具合に、日本中の博物館で関連する企画展が目白押しであり、出版物も溢れかえっている。筆者も明治維新史を専門としているだけに、ありがたいことに講演や出版など、たくさんのお声掛けをいただいている。幕末史は、今も昔も人気が高い時代である。

ところで、2018年の大河ドラマは「西郷どん」である。この1月から3月まで、NHKカルチャーラジオ「西郷隆盛 その伝説と実像」を担当した。そのご縁もあり、また、ドラマで描かれる「伝説」が「実像」と見られてしまい、一人歩きしてしまうことを心配し、毎週ドラマ放映後、可能な限りtwitterでその回の時代背景などを発信しているが、一気にフォロワー数が飛躍的に増え、反応も想像をはるかに超えている。関心の高さに驚かされた。

京都御所。photo by iStock
その一方で、実証的な研究の深化にもかかわらず、なかなか世間では、その成果が浸透していないと感じている。『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)では、幕末史を分かりにくくしている要因として、歴史用語の使い方を指摘した。例えば、一般的に幕末の政争は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」と言われつづけている。そもそも、「尊王攘夷」は、後期水戸学を大成した藤田東湖(ふじたとうこ)が生み出した歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念を、合体させている。また、「公武合体」は、朝廷と幕府を融和して、国内を安定させようとする国体論である。つまり、〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立する概念ではないのだ。この時期、日本人であれば多かれ少なかれ全員が〈尊王〉であり、〈攘夷〉であり、〈公武合体〉であった。この件は、その後も機会があるごとに言いつづけているが、残念ながら浸透したとは言い難い。

「未来攘夷」と「即時攘夷」
『攘夷の幕末史』では、当時の政治的対立は何に起因していたのか、この複雑な幕末史を紐解くために、そして、その政争の本質を見抜くために、「攘夷」という歴史的用語を最重要キーワードとして取り上げた。なぜならば、幕末というのは、この攘夷によって衝き動かされ、形作られていたからだ。当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、安政5年(1858)に結ばれた通商条約の是非にあり、その対立する思想は、「大攘夷」と「小攘夷」であると論じた。その後、筆者なりに対外認識論の研究を深め、その成果をまとめたものが『グローバル幕末史』(草思社、2015年)であり、そこでは「未来攘夷」「即時攘夷」論を展開した。

「未来攘夷」「即時攘夷」論を基に、幕末史前半を概観して見よう。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかもしれない未曾有の危機を迎えた。しかし、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに欧米列強と接触するじゅうぶんな準備がなされていた。江戸幕府は中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。 

ペリー来航。photo by Getty Images
しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させるに値した。我が国の対外政策は、撫恤(ぶじゅつ)政策である薪水(しんすい)給与令に改められ、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとした。その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。

通商条約と孝明天皇
幕府は和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。岩瀬忠震(いわせただなり)ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。この積極的な開明路線は、老中阿部正弘(あべまさひろ)の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。この積極的な開明路線への転換には、幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であった。攘夷を声高に叫びつづけた徳川斉昭(とくがわなりあき)ですら強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。

通商条約は、鎖国から開国への対外方針の転換であると同時に、国体の転換を伴うものであった。問題は、国体の転換が自身の御代に起こることを痛烈に嫌い、勅許を許さない孝明天皇(こうめいてんのう)の存在であった。幕府は列強と朝廷の板挟みとなり、窮した挙げ句に通商条約を勅許なしで調印(1858)してしまった。我が国は通商条約を締結し、対外的には開国政策を取りながら、国内的には、国是は依然として「鎖国」(攘夷)のままであった。そこで幕府は、開明路線から「未来攘夷」へと舵を切った。今回の通商条約は一時的なもので、いずれ攘夷を実行すると宣言したのだ。朝廷に対する方便でもあったが、幕閣の意志はまちがいなく、武備充実後の攘夷実行にあった。

長州と薩摩
一方で、孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とする松下村塾グループに引っ張られた長州藩や、三条実美(さんじょうさねとみ)などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、「即時攘夷」を唱えて国政をリードした。富国強兵を図って、世界に雄飛しようとする長州藩の主張は、航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許がある通商条約しか容認しない立場であり、尊王をないがしろにした幕府のやり方には断固として抗する強烈な志向があった。

しかし、長州藩は下関戦争(1863〜64)によって、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも失脚してしまい、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。しかも、その1年後に通商条約は勅許されてしまい、理論的には我が国から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされた。

一方で、薩摩藩は島津斉彬(しまづなりあきら)による集成館事業や建艦などの富国強兵策が実行されていた。斉彬も、その路線を引き継いだ久光(ひさみつ)も、海洋国家特有の開明的な世界観を有しており、「未来攘夷」を志向して国政への参加を画策していた。通商条約の締結後は、小松帯刀(こまつたてわき)が中心となって、積極的に軍艦や武器の買い付けに奔走しており、幕府を軽んじて藩地における開港すら視野に入れ、さらなる富国強兵策を推進しようと企図していた。そんななかで起こった外国人殺傷事件の生麦事件(1862)は、まさに偶発的な事件であり、薩摩藩の世界観の変化によって生じた攘夷行動ではなかった。その後の薩英戦争(1863)も、イギリス側は戦闘に及ばないと確信していたほどで、事実、薩摩藩の「未来攘夷」志向はゆるぎのないものであった。しかし、イギリスの要求が誤伝されたため、戦闘に至ってしまうのだが、この衝突が転じて福となり、薩英両国は友好関係を築くことになる。こうした経緯を経て、幕末史は後半の元治慶応期を迎えることになったのだ。

小松帯刀。国立国会図書館蔵
岩瀬忠震という人物
ところで、『攘夷の幕末史』はたくさんの人物にスポットを当てたが、そのなかでも岩瀬忠震を世に送り出せたのではないかと自負している。もちろん、それまでも岩瀬伝はあったものの、かなり時間が経過しており、筆者が再発掘した金山であった。岩瀬は驚くほど開明的な政治家であり、かつ、ずば抜けて卓越した外交官であり、ハリスとの交渉を主導し、安政五ヶ国条約すべての調印に関わった。攘夷の思想を持ちながら、日本の植民地化を阻止し、将来の世界への飛躍を期して武備充実など富国強兵を図るため、あえて開国に踏み切った岩瀬の志を見誤ってはならない。

岩瀬は、「この調印の為に不測の禍(わざわい)を惹起して、あるいは徳川氏の安危に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、この場合に臨みては、社稷(しゃしょく)を重しとするの決心あらざるべからず」(福地桜痴『幕末政治家』)と述べている。岩瀬は、このなかで幕府よりも社稷(国家)が大切であるとの認識を示している。幕府よりも日本国家が重要であると言い放った彼を、後世の我々はきちんと顕彰し、偉大な日本人として記憶に止めるべきであろう。

『攘夷の幕末史』では、その他、坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤長次郎(こんどうちょうじろう)の攘夷思想についても未来攘夷の代表として言及した。しかし、彼らの活躍や政治的スタンスなど、じゅうぶんに論じきれたかは心もとない。両者については、年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)を手に取っていただき、ブラッシュアップされた新たな論考をご期待いただきたい。

大河ドラマ「西郷どん」も慶応期に突入し、いよいよ明治維新を迎える。『攘夷の幕末史』では、西郷隆盛には言及がほとんどできなかったが、その後、『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版、2017年)を執筆する機会をいただいた。史実とドラマの差異を発見するなど、存分に楽しんでいただけたら幸甚である。
 年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)、楽しみです。

幕末の志士たちは「テロリスト」だったそしてジェダイはダークサイドに落ちた
幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられている。『志士から英霊へ』を書いた東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅教授に聞いた。
幕末の志士は現在で言えばテロリスト
──「志士から英霊へ」と評価が変わったわけですか。

日本の過去の人物像や歴史的事件に関して、すばらしいもの、褒めたたえるべきものだけを並べればいい、先人たちがした失敗や、ほかの国にかけた迷惑を語るのは自虐的だとの主張がある。だがもちろん、明るい面と暗黒面をきれい事にしてまとめるのは、歴史認識として正しいあり方ではない。

むしろ逆だ。歴史に学ぶとは失敗に学ぶのであって、成功譚を褒めたたえても、それは歴史を学んだことにならない。中国では昔から「歴史を鏡にする」という表現がある。中国人が日本の要人に会うたびに使う言葉だ。同じ失敗をしないために歴史が存在するという考え方といっていい。

明治150年を語るのであればむしろ、その間に起きたことの負の側面を含めて語るべきなのだ。幕末維新の志士という言い方がされてプラスの評価ばかりが目立つが、彼らは暴力に訴えてでも世の中を変えるべき、自分たちの考えと違う政治を行っている政権担当者は殺して構わないという考えを持っていた。つまり現代社会においてはテロリストだ。

それを現在の日本国政府が、つまり世界中に蔓延するテロリズムと戦う姿勢を標榜する政府が、明治150年だからといって過去のそうしたテロリズムを礼賛するのは自己矛盾になる。

──この本は西郷隆盛と吉田松陰の「2人のジェダイ」についてから書き下ろされています。

実は私は「スター・ウォーズ世代」。『スター・ウォーズ』には、西欧にない考え方を映画の中に生かすためなのか、研究対象の中国思想の気(フォース=銀河をつかさどるエネルギー)という言葉が盛んに使われている。

ジェダイ(秩序と平和の守護者)はいわば志士だし、彼らが戦った相手、もしくは作り上げようとしたものがエンパイア。そして暴力やテロリズムに訴えるようになってしまい、ダークサイドに落ちたりもする。この4つのキーワードを遊びの精神から各章タイトルに割り振ってみた。

松蔭は独善的だった
──西郷については「敬天愛人」に絡む話が中心です。

西郷はあるときから敬天愛人を座右の銘にし、好んで揮毫したという。ただ、この言葉の由来について本人は語っていない。関連する記述は、死後に出版された聞き書き本『南洲翁遺訓』の中にある。1868年に教育者の中村正直が「敬天愛人説」という文章を書き、これが当時よく読まれ、西郷も知っていたはずだ。


小島毅(こじま つよし)/1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も多数。著書に『儒教が支えた明治維新』『増補 靖国史観』『朱子学と陽明学』『近代日本の陽明学』など(撮影:吉濱篤志)
──松陰もジェダイだった?

彼はむしろ偏った見方をする人だ。自分の信念を貫くために、それに従わない人たちを間違いと決め付ける。対話や議論を求めていくのではなく、書物や教えを通じて得たものに基づいて作り上げた自身の信念こそ正しいと突き進んでいく。

儒教の古典『孟子』の中にある言葉、至誠を根拠にして、誠を尽くせば皆わかってくれるはず、と独善的に事を運ぶ。思想史的に位置づけ直すと、兵学をあずかる形で養子に行ったことから、責任感を持って軍学を身に付け、その結果として、正真正銘のテロリストになっていった。

──教育者としての評価も。

玖村敏雄の著作『吉田松陰』が1936年に刊行され、その中で教育者として立派だったとの像が打ち出された。これが広く読者に浸透したようだ。戦前における尊皇派、天皇崇拝者としての松陰像が封印され、教育者、人格者としての松陰という像が作られて、今に引き継がれている。

──彼はダークサイドに落ちた?

正義のために戦っているつもりが、闇というものに引き寄せられていく。『スター・ウォーズ』でもよく描かれていると思う。単純な善悪二元論、勧善懲悪ではない。善の中にすむ悪の魅力、それこそが悪の魔力なのであり、最初から悪だとわかっていたら、力を持たない。日本語でいうところの「心の闇」。それを幕末の志士たちの生き方に重ね合わせると、彼らはなぜテロリストになってしまったのかがわかってくる。

自分たちの目指す正義が阻まれていると感じたときに、妨害するものを力ずくで排除しようとする。結局、自分たちが敵と考えていた人たちと同じ側に立ってしまう。他者を抑圧あるいは弾圧する。それがダークサイド。

尊皇攘夷のために暴力に頼った
──いわば絶対正義。

人を引き込む作用をする。『論語』にある身を殺してなすべきこと、殺身成仁に該当する。『太平記』の児島高徳の逸話に学び、太平記を翻案した『日本外史』を読むことでそうした知識を身に付けてあこがれたジェダイたちが、ダークサイドに落ちる入り口の尊王攘夷を目指す草莽(そうもう)の志士に育っていく。

──エンパイアの理念も背景に。

中国の宋学が、水戸学によって幕末期に影響を与えることにつながる。皇帝、日本の場合は天皇を頂点にいただく政治秩序をどう構想したか、それ以前とは違う形でどう作り上げたかという説話がエンパイアの理念だという位置づけになる。それこそがダークサイドに落ちていったジェダイたちが実現しようとしたことで、暴力革命、つまり尊王攘夷のために暴力に頼ることになる。


『志士から英霊へ: 尊王攘夷と中華思想』 (小島 毅 著/晶文社/2000円+税/256ページ)。
──水戸学はなぜ受け入れられたのですか。

思想内容の魅力はもちろんあるが、広めた人として頼山陽に加えて曲亭馬琴の役割が大きい。漢文で物を書く人ではなく、『南総里見八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月』が儒教道徳を教えている。ちなみに八犬伝の8つの数珠玉はすべて儒教の徳目だ。必ずしも水戸学と限定されないが、この手の本を通じて、小説を読むことができるような人たちに、儒教思想が取り込まれていく。かつて私は頼山陽を司馬遼太郎になぞらえたが、むしろ馬琴ではないかと最近考えを変えた。

──藤田東湖の役割は。

水戸学の中心人物。非業の死を遂げた人たちを英霊と呼び、靖国神社がこの言葉を取り入れた。反逆の罪に問われて死罪となった松陰は、明治になってよみがえり靖国神社に祭られ、西郷は逆臣として死んだので祭られていない。

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昨日は映画館割引の日だったので『銀魂2』二度目鑑賞。今年一番楽しめた映画なので多分7日の声出し鳴り物OKな鑑賞日にペンライト持っていくと思います。
 安倍首相は三度目の自民党総裁選に出馬するに当たって鹿児島を選び「薩長」政府を強調しましたが、引用した平野国臣の句はどう考えても薩摩批判。正しい歴史の知識を持たないまま国民に発信するのは恥ずかしいことだと思います。
 ちなみに戊辰戦争で負けた側に好きな人物が多い私は、戊辰戦争150年です。

秋田
戊辰戦争の供養塔除幕、平和を祈願 大仙市協和・萬松寺
 戊辰戦争(1868~69年)の戦没者を供養している秋田県大仙市協和境の萬松(ばんしょう)寺に、明治150年を記念した供養塔が建てられた。協和地域の住民でつくる交流団体「さどわら会」主催の慰霊祭で、同市と交流のある宮崎市の関係者を招いて除幕し、平和を祈願した。

 戊辰戦争では、新政府側についた秋田藩と、対立する奥羽越列藩同盟軍が戦闘を展開。秋田藩の援軍として現在の宮崎県から参戦した佐土原藩の藩士ら8人が、協和地域で亡くなった。

 協和町(現大仙市)と宮崎県佐土原町(現宮崎市)は、1992年に萬松寺で合同慰霊祭を行って以来、交流を続けている。明治150年の今年は境内に高さ1・8メートルの供養塔を建て、戸敷正宮崎市長の書いた文言を彫り込んだ。
 有料版だとさらに記事が読めそうです。

<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも

戊辰戦争で亡くなった佐土原藩士の慰霊碑=大仙市協和境の万松寺
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 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。


<戊辰戦争150年>秋田藩 指揮権なき戦い 大仙でシンポ、仙台・庄内の視点も紹介
 秋田藩領が戦場となった秋田戊辰戦争の実態を、秋田、仙台、庄内各藩の視点から研究者が議論するシンポジウム「戊辰戦争と人びと」が19日、大仙市の大曲市民会館であった。市主催で約200人が参加した。
 秋田戊辰戦争は奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機として1868年夏から約2カ月間、同盟軍と新政府軍が交戦した。仙台、庄内藩など同盟軍は久保田城に迫ったが、東北南部の戦況が悪化して兵を引き上げた。
 秋田県立博物館の畑中康博学芸員は「自領に敵を引き入れた防衛戦争だったのにもかかわらず、秋田藩の藩庁は軍事指揮権も前線の人事権も失っていた」と述べ、新政府軍に組み込まれた戦いの様子を示した。
 仙台藩の支藩一関藩は仙台藩の指揮を嫌い、庄内藩大隊の指揮下に入った。東北大大学院文学研究科の栗原伸一郎学術研究員は「仙台藩の指揮系統もかなり混乱があった」と指摘した。
 上山城郷土資料館(上山市)の長南伸治学芸員は明治20年代と大正時代に出版された戊辰戦争関係の文献を解説し「薩長や秋田の視点から描かれた史観に庄内の人々が動揺している姿がうかがえる」と語った。


山形
特別展激動の時代、米沢藩と戊辰戦争 来月15日から 上杉博物館 /山形
幕末から明治初期の激動期に米沢藩がどのような道を選んだのかを紹介する特別展「戊辰戦争と米沢」が9月15日から、米沢市丸の内の「伝国の杜 米沢市上杉博物館」で開かれる。

 同博物館によると、米沢藩は戊辰戦争の際、朝敵とされた会津藩を救うため、奥羽列藩同盟結成で主要な役割を果たし、越後を主戦場に各地で激戦を展開。降伏後は、新政府のもとで新たな体制を模索した。

 特別展では政治的な動向に加え、社会そのものを変えるきっかけとなった軍制改革や、戦場に赴いた兵士の行…
 以下、毎日新聞の有料版にて。

宮城
会津藩士への弔辞見つかる汚名返上の思い伝わる史料
 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。


福島
二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、身分区別なく慰霊
 二本松藩丹羽家の居城だった霞ケ城公園(二本松市)の丹羽霊祠(れいし)殿(通称・丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約100年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。霊牌は全て同じ形で約80柱あり、戊辰50年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。

 霊牌には武士や農兵の名前が記され、二本松市の担当者は「当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、等しく慰霊した。戊辰150年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料だ」とした。

 市によると、丹羽霊祠殿は戦時中に東京の丹羽家から現在の社殿に移った。丹羽家所有だったが昨年、市に寄贈された。

 市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。5段の棚に並べられ、数点が木箱に入ったまま見つかった。木箱表面には「戊辰殉難士五十年祭」と記されていた。

 霊牌の概要や保管経緯は不明だが、市の所蔵史料に同じ霊牌がある。「戊辰50年の慰霊祭でもらった」という二本松藩士の子孫から寄贈されたといわれている。

 約100年前に発行された「二本松藩史」では二本松藩戦死者は338人(現在は337人)で、内訳は藩士162人、下級兵と農兵ら176人。戊辰50年の慰霊祭で全員分を用意したが、4分の1程度が遺族の手に渡らず保管されていたとみられる。

 同藩史によると、霊牌に書かれていた名前の一人「丹羽舎人」は上級武士で、戊辰戦争では大目付軍監として白河口の戦いに出陣。旧暦の1868(慶応4)年6月12日に白河・追原方面での銃撃戦で戦死した。

 一方、他の一人の「傳作」(伝作)は下水原村(現・福島市南部)の農民。農兵か運輸方を担い、霞ケ城が落城する旧暦の7月29日に城下で戦死している。

 二本松市都市計画課二本松城跡整備係の佐藤真由美さん(48)は「農兵は武士とは違う扱いが一般的だっただけに、貴重な史料だと思う」とした。二本松藩主丹羽家の18代当主の丹羽長聰さん(74)=東京都=は霊牌が保管されていたことを知らなかったとし「戦死者を等しく慰霊した先人の行いが素晴らしい」とたたえた。

<戊辰戦争150年>東北の視点で経緯再考 福島県立博物館できょうから企画展
 福島県立博物館(会津若松市)で1日、企画展「戊辰戦争150年」が始まる。薩摩、長州両藩中心の新政府側から「朝敵」とされた会津藩と、会津救済に連携した東北、越後諸藩の視点から戊辰戦争を再考する。

 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館との共同企画。展示はペリー来航の「開国」に始まり、開戦、降伏、再起など7部構成となる。「官軍」の象徴として新政府側が掲げた「錦旗」、会津藩救済、戦争回避を図れず奥羽越列藩同盟として戦いを余儀なくされた経緯、関係者の苦悩を示す史料など約200点を展示する。
 3館独自の地域史料もそれぞれ紹介。先人がどのような思いを抱き、どう選択したのか地域ごとの視点にも光を当てる。
 展示では実在の会津藩士をモデルにしたキャラクター「源ちゃん」が、展示物の各所で解説する。
 10月14日までの期間中、記念講演会や学芸員の解説会もある。企画展は新潟が既に終了。仙台は10月26日~12月9日に開催する。
 開館は午前9時半~午後5時。観覧料は一般・大学生800円。高校生以下無料。月曜休館(祝日の場合は翌日)。連絡先は福島県立博物館0242(28)6000。

福島)戊辰戦争、会津農村の焼失1100軒 市町村史
 1868年の戊辰(ぼしん)戦争で西軍(新政府軍)が会津藩・鶴ケ城に迫る中、周辺の農村では約1100軒以上の家屋が戦闘に巻き込まれたり、兵士に火をつけられたりして焼失していた。歴史研究会「会津史談会」副会長の簗田直幸さん(65)が、会津地域の市町村史に書かれた被害をまとめた。簗田さんは「どんな時代でも戦争でひどい目に遭うのは民衆だ」と話し、実態把握の必要性を強調している。

 簗田さんは、民間団体「会津戊辰戦争百五十周年事業実行委員会」の幹事長。農村部の被害に関する統計資料が乏しいことから、自治体の記録に着目。市町村合併前の「町史」などに書かれた家屋の焼失に関する記述を集めた。

 西軍は、①二本松藩との境の母成(ぼなり)峠②南側の下野街道③西側の越後街道、などを経由し、現在の会津若松市に向かった。

 母成峠から西軍は猪苗代湖北側を進攻。経路の猪苗代町から磐梯町にかけての旧11村で410軒中176軒が焼失したとされる。

 下野街道を進んだ西軍は下郷町から会津美里町に入り、現在町庁舎がある高田地区が戦場になった。旧会津高田町史によると、300軒中246軒が焼けた。

 越後街道で会津藩など東軍(旧幕府側)は会津坂下町から代官所があった会津若松市神指町高久に退却し、この地域で300軒中249軒が焼失した。城の南側の「南青木組」(同市門田町など)でも、旧11村の合計として1069軒中453軒が焼けたとされる。

 同市河東町の「藤倉村」では、西軍から炊き出しなどを求められた後、9月2日、城に向けて進軍する際に火をかけられ、全村28軒が焼失したと伝えられる。

 簗田さんは「西軍によるものが多いが、中には、退却する東軍が家屋を敵に使わせないため、火を付けたこともあったと考えられる」と話す。

 農村部の被害とは別に、鶴ケ城の城下では武家屋敷以外に1300軒余りが焼けたと見られている。

 これらの調査結果は8月12日に会津若松市で開かれた同実行委主催のシンポジウムで報告された。

 簗田さんは「市町村史で明記されない例もある」と語り、被害の全容は不明だという。「なぜ会津を戦火で包むような軍事占領をしなければならなかったのか、被害を受けた人々に対して補償は行われたのか、本質的な問題は十分解明されていない」と指摘。「会津では『悲劇性』が注目されがちだが『150年』を機会に根本的な課題に着目すべきだ」と話している。(戸松康雄)


白虎隊、死の行軍をたどる 戊辰戦争150年
戦争
 1869(明治2)年、旧会津藩士によって初めて描かれた白虎隊自刃の図(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 自分がいつ、どう死ぬのか想像したことがあるだろうか。病気や事故、災害だけではない。殺される事態もないとはいえない。死が誰にでもいつか必ずやってくると知っていても、たいていの人は自分がどう死ぬのか分からないまま人生を送っている。

 今から150年前、会津藩(福島県)の組織した「白虎隊」という名の軍隊に所属する15~17歳の少年たちは、霧雨が降る山の中で、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自ら首に刃物を突き刺して死んでいった。

 なぜ、彼らはこうなってしまったのか。社会背景を調べ、彼らが行軍した実際の道筋をたどった。(福島支局 菓子翔太)

 白虎隊が自決する15年前の1853(嘉永6)年。当時は江戸幕府が日本を支配し、傘下の藩が各地を治めていた。この年に、アメリカの艦隊(黒船)が浦賀沖(神奈川県横須賀市)に来港する。それをきっかけに、海外との接触を制限する鎖国をしてきた日本が外交の門を開くと、今後の日本のあり方をめぐって国内で争いが激しくなった。

 天皇が住む京都には、テロなどを画策する長州藩(山口県)の藩士をはじめとする過激派が集まった。これらを取り締まるため、幕府の命令で、会津藩は京都の治安維持に当たる「京都守護職」を務める。その働きぶりは、当時の孝明天皇からも評価され、厚い信頼を得ていたという(孝明天皇は1867年1月=慶応2年12月=に崩御。後に明治天皇が即位する)。

 徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た建白書の写し。千葉県松戸市の女性宅から発見された=2011年10月、千葉県松戸市の戸定歴史館【時事通信社】

 ところが、1866年3月(慶応2年1月)、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩がともに「幕府を倒そう」と手を結んだことから、幕府打倒派(いわゆる「倒幕派」)の勢力が拡大。倒幕に向けて計画が進む中、幕府の第15代将軍徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)、先手を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った。

 これにより、幕府を倒すという名義を失ったかに見えた薩摩や長州などによる新政府は、天皇中心の政治に戻す「王政復古の大号令」を発令。さらに、これまで政権の中心にいた徳川家を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決めた。

 当然、会津藩などの旧幕府側は反発した。その上、新政府軍の西郷隆盛が浪士を集めて江戸で行ったゲリラ活動に我慢できず、旧幕府は江戸の薩摩藩邸に報復攻撃した。結果、日本の運命を変える「戊辰戦争」が始まってしまう。初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」は衝撃的な展開を迎えた。

 このとき、1868(慶応4)年1月。白虎隊が自刃するまで残り7カ月のことだった。

天皇に逆らった?

 靖国神社の祭神簿。右は鳥羽・伏見の戦いの殉難者を記入した第1号=1963年6月、東京・千代田区九段北【時事通信社】

 この戦いで、旧幕府軍の兵力は新政府軍の約3倍に上ったが、最新兵器を擁する新政府軍に劣勢を強いられた。その上、新政府軍は天皇を象徴する菊の紋が入った「錦の御旗」を掲げたことで、旧幕府軍は天皇に逆らう「賊軍」扱いを受けてしまう。ちなみに、戊辰戦争で国家のため命をささげた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えるという目的で明治天皇の意向により建てられた靖国神社(東京都千代田区)には、新政府側の人間は祭られているが、旧幕府側の会津藩などの人間は祭られていない。最近では、超党派の国会議員が「賊軍」とされた人々も祭るよう呼び掛ける動きがあった。

 話を戻す。「鳥羽・伏見の戦い」の最中、敗色の濃くなった徳川慶喜と会津藩主の松平容保らはひそかに大阪から江戸に逃走した。旧幕府軍もやむなく撤退し、戦いは大敗に終わる。

 戦いの後、「賊軍」となってしまった旧幕府側は多くの藩に見限られた。さらに、本拠地の江戸城を明け渡すところまで陥った。

 日新館前に立っている「什の掟」=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 会津藩も、新政府軍に恭順の意を示し、同じ東北地方の多くの藩もそれに協力した。だが、新政府が会津藩の恭順の意を受け入れることはなかった。東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟」として手を結び、新政府軍との戦争へ道を進んでいくことになる。

 後に自刃した白虎隊の少年たちは、この間どうしていたのか。会津藩士の子弟は、6~9歳の時に「ならぬことはならぬ」で有名な「什の掟」を学び、10歳になると「日新館」(地図)に入学する。NHK大河ドラマ「天地人」の歴史考証にも携わった歴史家の石田明夫さんによると、日新館はとても教育レベルの高い学校だったという。白虎隊士もその教育課程の最中にあった。

 日新館では、剣術や砲術、水泳の仕方、中国の古典、天文学など、まさに文武両道の授業をしている。その上、勉学にとどまらず、細かいところまで心得をたたき込まれた。抜粋して紹介するが、筆者には厳しくてとても全ては守れそうもない。今の時代に守れる子がいるのだろうかというものばかりだ。

厳しい心得の中身は
 白虎隊士が学んだ日新館を忠実に再現した施設。当時の講義の様子などを紹介している=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 六、父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、謹んでその用件を承り、そのことを怠らないでやりなさい(以下略)。

 十、他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んだりしてはいけません。

 十五、身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません(以下略)。

 十七、みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出掛けるのを楽しみにしたりしてはいけません(以下略)。 (日新館公式ホームページより引用)

 この心得を見ていて、目上の人に対する礼儀に関するものが多いと感じた。それほど、上の身分の人間に尽くす心が大事にされていたということなのだろうか。

 天文学を学ぶ、後の白虎隊士の像。奥には、天体の位置を調べるのに使う天球儀を使う少年の姿が見える。会津は天文学が盛んで、当時の藩校としては珍しく天文台もあった=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 少年たちは日新館で自刃の仕方も学んだ。なお、日新館は戊辰戦争時、臨時の野戦病院となったが、焼け落ちてしまった。

 そんな彼らが白虎隊士になったのは、新政府軍との戦争の足音が近づく中で、会津藩が軍制改革を行ったことによる。会津藩は、50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、そして、16~17歳の少年たちによる白虎隊を編成した。古代中国で信じられた四つの方位をつかさどる神にのっとったものだ。中には白虎隊に入りたくて、年齢を上にさば読みした隊士もいたという。

 白虎隊の構成は以下の通り。
  士中一番隊から二番隊 各50人前後
  寄合一番隊から二番隊 各50人前後
  足軽一番隊から二番隊 各50人前後

 総勢で約300人。予備隊で城の警備に当たる白虎隊には実際の戦闘に出る予定はなかった。このうち、日新館に学んでいた子どもたちが入ったのは「士中」の隊で、自刃したのは隊士の篠田儀三郎率いる十数人。白虎隊の中でも少数だった。

 白虎隊に編入された彼らは興奮していただろう。そんな彼らが死ぬまで、残り5カ月に迫っていた。


崩れ落ちる“同盟”
 白虎隊士が集まった旧滝沢本陣=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍はその後、東北地方の藩へ侵攻を進め、1868(慶応4)年5月1日(旧暦、以下同年の日付はすべて同じ)に白河小峰城(福島県白河市)、7月29日に長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島市)と攻め落としていった。二本松の戦いでは、出陣を志願した13~17歳までの少年たち14人も死んだとされている。「奥羽越列藩同盟」の中心だった仙台藩(仙台市に拠点)に至っては二本松城への援護を断り、会津藩を裏切ってしまった。

会津藩は、周りの藩からの援護を失った。

1868年8月20日。白虎隊士が自刃するまで、あと3日。

 新政府軍の猛攻は止まらず、会津までその手は伸びてきた。東側の藩境である母成峠(地図。会津藩の居城、鶴ケ城まで約30キロ)から攻めてきた新政府軍に対し、会津藩や新選組などが抗戦するも敗北。突破されてしまう。

 会津藩は追い詰められた。そして、ついに兵を総動員する。前線に出すはずではなかった白虎隊も戦場に送り込んだ。

早く戦場に

 ここから先は、当時の様子を記しながら、実際に白虎隊が進んだ道をたどる。現地には歴史家の石田明夫さんに同行してもらった。なお、紹介する場所は、森林の中でクマに遭遇する危険性もあるため、1人では行かないでほしい。

 白虎隊士が戦場に向かい歩いた道。今も当時の石畳が残されている=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 8月22日午後0時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残りあと24時間を切った。

 白虎隊の士中二番隊は、警護に当たっていた松平容保に従い鶴ケ城を出て「滝沢本陣」(地図)に到着した。出陣する彼らの中には、それまでの戦争で身内を殺された子どももいる。新政府軍に対して復讐(ふくしゅう)したいという気持ちを持っていただろう。そんな彼らを、親は「お国のために頑張ってきなさい」と送り出した。さみしい気持ちを持っていても、武士たる者はそうしたことを口にできなかった。

 前線に向かう途中、荷物を軽くしようと隊士たちが携帯品を預けた茶屋の跡地がある。石田さんとともにその跡地を訪れた。滝沢本陣から東へ自動車で走り続け、家々から離れて山の方へ。途中で墓が見えた。当時の戦争で亡くなった会津藩側の18人の墓(写真)だ。村人が自主的につくったという。戊辰戦争で亡くなった会津藩士の墓は会津の各地にある。

 車を降りると、あとは歩いた。山中、クマよけとして、木の棒で大木をカンカンたたきながら茶屋跡(地図)に向かった。現地には、彼らがたどった石畳が今も残されていた。石田さんによると、白虎隊士は「現地に早く行きたかった」という。


闇夜に浮かぶ死の恐怖

 会津藩が掘った陣地。高さ約80センチ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月22日午後4時ごろ。白虎隊士が自刃するまで残り約19時間。

 白虎隊は戸ノ口原(地図。鶴ケ城まで約7~8キロ)に到着した。この頃、城下への侵攻を防ぐために壊すつもりだった戸ノ口原近くの十六橋(地図。鶴ケ城まで約9キロ)を既に新政府軍は渡り、戸ノ口原で戦いが始まっていた。雨が降る中、会津藩は徹夜で陣地を築いた。これに白虎隊も参加した。

 当時造られた陣地の跡は今も残っている。茶屋の跡地を訪れた後、石田さんに連れられて見に行った。道から外れ、草木が生える小高い菰土山を登っていくと、山頂に段差が二つできていた。確かに分かりやすく土が盛られ、ここに陣地があったのだと認識できる。高さは約80センチ。石田さんによると、盛り土の上から銃を構え、下から来る敵を撃つためのものだという。

 8月22日午後10時。白虎隊士が自刃するまで残り約13時間。

 白虎隊は、この辺りで露営した。ドラマでは山林の中で露営しているような描写を見掛けるが、石田さんによると、実際には、はげ山だったという。

 白虎隊が一時過ごした菰土山。後に、ここから少し先にある姥山に移った=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 このとき、士中二番隊の日向内記隊長が会津藩の別隊に用があると告げて出掛けていく。2008年に見つかった白虎隊士飯沼貞吉(当時15)の「白虎隊顛末記」には、当時のことについて、以下のように書かれている。

 「(現代語訳)夜明けとなれば、討ち死にと覚悟した少年、三々五々、あちこちでだんらんし、無言の中でいとしい母や姉、妹に別れを告げ、空腹時の補給として与えられた食べ物を腰より取り出して食べ、ともに文武を学んだこれまでのことを話し合い、また、夜が明ければ人に遅れないようにしようと心中を話し、寝る間もなく話していると東の空がまさに明けようとしている。」―。

 当時の感覚を少しでもつかめないかと、石田さんと一緒に訪れたのとは別に、白虎隊が実際に露営していた夜(写真)に訪れてみた。暗闇の中で、死が常につきまとっていたのかと考えると、とても恐かった。現代人の中で、どれだけの人がこの恐怖に耐えられるだろう。

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友達の死

 白虎隊士らと新政府軍が戦った戸ノ口原の戦場=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月23日午前5時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り約6時間。

 夜が明けても日向隊長が戻って来なかったため、篠田儀三郎(当時17)は仲間に号令して前進した。そのうち銃声が近くに聞こえた。しかし、戸ノ口原には身を隠すような障壁が無い。篠田隊は溝に隠れた。新政府軍は、前日に布陣していた会津藩の別隊を打ち破り、銃を撃ちながら街道を進んで来ていた。

 このとき新政府軍が持っていた銃は、飛距離800~1200メートル。それに対し、篠田隊が持っていた銃の飛距離は200~300メートルしかなかった。というのも、白虎隊が持ってきた銃は、城に残っていた性能の良くないものだったからだ。そのため、新政府軍が100メートルほどに近づいてくるまで待ってから、篠田の「撃て」という号令で隊士たちは銃を撃った。銃身が熱くなり、手に持つことが出来なくなるほど発射したという。少年が放った銃弾に殺された兵士もいたのだろうか。

 戸ノ口原で亡くなった白虎隊士のものとみられる墓。山中にひっそりと立つ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 この戦いの地を訪れてみると、とても広い草原だった。標高が約1800メートルあり、「会津富士」とも呼ばれる磐梯山がよく見える。人が行き来する様子はほとんどなく静かだった。そのまま石田さんと歩き続けたところ、「白虎隊奮戦の地」と書かれた大きな碑が立っているのが見えた。付近には当時亡くなった会津藩士の墓(写真)もある。

 白虎隊士の飯沼貞吉が画家に当時の戦争の様子を描かせた絵(写真)がある。左側にいるのが白虎隊で、右側は新政府軍。銃弾を受けた兵士が倒れている様子や、指揮を執る篠田の姿も描かれている。

 戸ノ口原の戦いでは、白虎隊士も死んだ。伊東悌次郎(当時17)、池上新太郎(同16)、津田捨蔵(同16)の3人だ。津田の兄も近くで亡くなっている。白虎隊が露営した菰土山の近くに、彼らを埋葬したと思われる地蔵の絵が彫られた墓が立っている。他の墓の横にポツンと置いてあり、石田さんと一緒でなければ気づかないくらい小さなものだ。これも、地元の村人が立てたものだ。石田さんは、「子どもを見てかわいそうだなと思ってつくった。(遺体は)たぶんその辺に埋まっているでしょう」と話した。

 小さい頃から一緒に遊び、学んできた友達も死んでしまった。


死地へ

 敗走する白虎隊が新政府軍と銃撃戦を繰り広げた地=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍の猛攻に及ばず、会津藩は退却の命令を出した。死んだ3人の遺体は置いていくほかなく、霧雨の中、城を目指して篠田隊は来た道を逃げたが、そこには死体があちこちにあったという。地獄の光景だったろう。死体を見ながら、自分達もいつかこうなると考えたりしたのだろうか。彼らが憧れていた戦地の風景と実際の風景は違ったのだろうか。憎き敵から逃げる彼らは、どれほど心が引き裂かれていたのだろうか。

 1868(慶応4)年8月22日午前8時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り3時間。

 篠田率いる隊は2キロほど退却し、ようやく新政府軍から逃れることができた。ただ、このとき点呼すると、隊は16人ほどになっており、会津藩の別隊とも離れ離れになってしまっていた。隊士たちは残っていたおにぎりを分け合って食べた。

 8月22日午前9時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り2時間。

 隊士たちが鶴ケ城を目指して街道を進んでいると、多くの兵に遭遇した。敵か味方か分からず「合い言葉は?」と声を掛けると発砲された。場所は「馬頭観音石碑」のすぐ近く(地図)で、鶴ケ城までわずか約3キロ。新政府軍は城下深くまで入り込んでいたのだった。

 飯盛山では、実際に白虎隊士が通った洞門の出口を見ることができる=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(当時16)が腰の辺りを撃たれてしまう。周辺は遊び場で、どんな場所かを知っていた白虎隊士たちは用水路(写真)の方へ逃げた。永瀬の傷があったことから山頂を目指すのは諦め、用水路から洞門(写真)をくぐって、飯盛山の中腹へ進むことにした。

 今も残るこの洞門には水が流れている。「8月」は旧暦で、現代の暦では10月に当たる。秋の冷たい水に浸りながら、当時約140メートルあった暗い洞窟を少年たちは進んだ。石田さんは、このときの彼らは「お城やお殿様はどうか」と心配し、早く城に行きたい気持ちだったろうと推測する。

 8月22日午前10時。白虎隊士が自刃するまで、残り1時間。

 冷たい水と暗闇に耐え、洞門を出た隊士たちは厳島神社(写真)の前で一度休憩した。すると、大砲や鉄砲の音が聞こえた。鶴ケ城が心配だった彼らは、城下が見える所まで行こうと水路に沿って山を登っていった。そして彼らは自分たちの死地にたどり着く。


城が燃えていないのは知っていた

 飯盛山にある白虎隊士19人の墓。この奥にも、戦死した白虎隊士の墓が別にある=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 白虎隊の話を聞いたことがある人の中には、「お城が燃えていると勘違いして自殺した」と思っている人もいるだろう。会社の後輩にも聞いてもそうした答えだった。

 だが、飯沼貞吉が書き残した「顛末記」によると、実際は違うという。彼らは城が燃えていないことを知っていた。ならばなぜ、彼らは自ら死を選んだのか。

 彼らが自刃の地にたどり着いた時、燃えているのは城下で、城は燃えていないのが見えた。今後どうするのか、少年たちは話し合った。野村駒四郎(当時17)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。

 この議論を終わらせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君(藩主の松平容保)や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」-。

 石田さんによると、彼らは捕まったら殺されると思っていたという。この案に全員が納得した。

 1868(慶応4)年8月23日午前11時ごろ。

 飯盛山から見た城下の景色。遠く、木々が多く集まっているあたりに小さく鶴ケ城が見える=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 隊士たちは持っていた刀で自らを突き刺した。死ぬ間際、彼らの心中には何が浮かんでいたのだろう。筆者には想像することしかできない。

 石田さんと飯盛山を訪れると、中腹には彼らの墓が横にずらりと並べられていた。多くの観光客が訪れ、線香の煙と香りが漂う。彼らが知る由もない光景だ。

 墓から少し歩いた所にある自刃の地(地図)からは、町を眺めることができた。ここに置かれた白虎隊士の銅像(写真)が見ている方向に目を凝らすと、小さく鶴ケ城が見えた。

 「自分が高校生くらいの年で自刃できるかと考えると、なかなか信じられない」-。白虎隊士の話を石田さんに聞く中で、ふと口に出た。石田さんは「敵に捕まることは武士の恥。当時はそういう教育を受けていた」と語った。

 教育か-。今から70年以上前の日中戦争や太平洋戦争でも「戦陣訓」にまつわる同じような話があったことを聞いた。当時の感覚と今とでは全く違うことは分かるが、環境や教育次第で、人は死を自分から選んでしまうものなのだろうか。


その後も死は続く

 戦後に撮影された鶴ケ城。1874(明治7)年に石垣だけを残して取り壊された。現在の城は、1965年9月に建て直された(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 新政府軍が城下へ突入し、白虎隊士たちが日常生活を過ごしていた町は火に包まれた。会津藩は、藩士やその家族に城内に入るようお触れを出していたが、女性や高齢者、子どもたちの中には、足手まといになるまいと集団自殺した人もいた。会津藩の家老だった西郷頼母の一族は21人が自刃(写真)。2~9歳の3人の娘は頼母の妻・千重子が刀で刺し殺した。

 会津藩の籠城戦は約1カ月続いた。新政府軍に包囲され、鶴ケ城は砲撃を受け続けた。白虎隊の1人で、後に現在の東京大学の総長になる山川健次郎が編集した「会津戊辰戦史」には籠城戦について以下のような記述がある。

 「(現代語訳)戦いが激しくなると、病室は、きりをほとんど刺すことができないほど隙間なく、手が無くなったり足が砕けたりした者、全身の皮膚がただれた者で雑然として、苦しんでうめいていた。しかしながら、皆、悔しさやその姿から、敵と戦おうと思わない者はいない。しかし、西軍の砲撃はますます激烈となり、砲弾は病室または婦人室で破裂し、全身が粉々となり、肉片の塊が飛散して、四方の壁に血痕を残す者がいた。その悲惨な痛ましい光景は表現できないものだ」-。

 仲間とはぐれた白虎隊士の酒井峰治が愛犬のクマと再会した時の銅像。飯盛山中腹の「白虎隊記念館」の前に立っている=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 城内外では、銃やなぎなたを手に取った女性たちや、会津出身ではなかったものの上官とたもとを分かち会津に残った者らが老若男女を問わず、死に物狂いで戦い続けた。その日、もし自らが生き残っても、知人や家族が死んでいく日々が続いた。

 篠田儀三郎とともに敗走した白虎隊の中にも生き残った隊士がいた。飯沼貞吉は自決しようとするも、奇跡的に息を吹き返した。その後、戊辰戦争で敵方だった長州藩に拾われた。酒井峰治は戸ノ口原での戦いの後、仲間とはぐれたが、農民に拾われた。後に愛犬のクマと再会し、籠城戦に参加した。

 白虎隊士が自刃してから約1カ月後の9月22日、会津藩は白旗を揚げ、新政府軍に降伏した。

 会津戦争では、兵員のほか、巻き込まれた農民や婦女らも含めると数千人が犠牲になったとも伝えられている。飯盛山で自決した白虎隊士もその数千人の一部だった。

 この戦争を生き残った飯沼貞吉も酒井峰治も生前、白虎隊について多くを語らなかったという。

【会津若松】新選組隊士の鉢金や鎖かたびら展示 会津新選組記念館の特別展
 会津若松市七日町の会津新選組記念館(高橋一美館長)の戊辰戦争150年後期特別展「会津戦争と新選組」は28日から同館で開かれ、貴重な展示資料の数々が来館者を魅了している。11月末まで。

 同館は「骨董(こっとう) むかしや」の2階にあり、古式鉄砲研究家の高橋館長が長年にわたり収集した個人コレクションが展示されている。戊辰150年の節目に合わせ、前期、中期と開かれてきた特別展の最後となる今年3期目の特別展。

 今回は、会津戦争や、京都の治安維持を担う京都守護職を拝命した会津藩主松平容保(かたもり)のもと「会津藩御預」として活躍した新選組の関係資料を中心に展示した。

 「京都禁門(蛤御門)の変」や「徳川慶喜大坂脱出の図」「江戸無血開城の図」などの錦絵や新選組隊士が頭に巻いた鉢金、新選組筆頭局長芹沢鴨のものと伝わる鎖かたびらなどを展示している。

 また大河ドラマのロケでも使用されたゲベール銃、スナイドル銃、スペンサー銃なども並ぶ。放映中の大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使った銃なども展示されている。

 開館時間は午前10時から午後5時ごろまで。不定休。入場料は大人300円、小・中学生200円。問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

浜に眠る鳥取藩士 寄宿縁で慰霊継承
いわき市の北隣に位置する広野町も戦いの場になった。戦端は一八六八(慶応四)年七月に開かれた。東軍(旧幕府軍)が広野宿に置いた拠点を巡る攻防だった。
 東軍側の相馬中村藩と仙台藩、磐城平藩、西軍(新政府軍)勢の広島藩と鳥取(因州)藩などが今の二ツ沼総合公園周辺で激突。五日間に及ぶ戦いの末、西軍勢は広野宿を攻略した。
 いわき市久之浜町の外れにある龍光寺境内に鳥取藩士、近藤類蔵(るいぞう)が眠る。
 「歴史が紡いだ不思議な縁を大切にしていきたい」。近くに住む木村芳秀さん(81)は墓碑を前に感慨深げに語る。
 木村家は代々続く名家で、近藤の墓を守り継いでいる。今年も月遅れの盆の入りに当たる十三日に親族と連れだって線香を手向けた。
 墓碑には「因州砲隊長近藤類蔵孝敏墓」と刻まれ、墓が建てられた経緯が側面に記されている。鳥取藩が供養料を出し、奥羽追討参謀だった河田左久馬が建立したとある。
 遺体が龍光寺に葬られた詳しい経緯を知る人は既にいない。だが、木村さんは木村家が墓参を続けるようになったきっかけを伝え聞いている。

◆不思議な縁 

 鳥取藩は広野の戦いに備え、久之浜町で大須賀家という地元の旧家が営んでいた亀田屋に陣を張り、寄宿した。近藤は西軍勢の進撃を食い止めようとする東軍との激しい戦いで負傷し、亀田屋に運び込まれたが、三十七歳で亡くなった。当初は大須賀家が慰霊し、縁戚関係にあった木村家が引き継いだ。
 木村さん方では霊を祭る霊璽(れいじ)と慰霊行事で使った旗を大切に保管している。家屋は東日本大震災の津波で床上まで水に漬かったものの、霊璽と旗は難を逃れた。

◆役目 

 木村さんは戊辰戦争の記憶を次代に伝える活動に力を注いでいる。昨年まで会長を務めていた久之浜・大久地域づくり協議会は戊辰戦争開戦百五十年を記念し、今年秋にも白河、二本松、会津若松各市など県内の戊辰戦争ゆかりの地を研修で訪れる。十一月十八日には市地域防災交流センター「久之浜・大久ふれあい館」で記念講演会の開催を予定している。鳥取市歴史博物館の学芸員伊藤康晴さんが「因州兵の戊辰戦争と久之浜・大久」のテーマで久之浜・大久地区と戊辰戦争との関わりを語る。
 「この地が戊辰戦争に関わっていたと知る人は少なくなった。地域の歴史を理解すれば郷土愛を深められる。記憶を継いでいく役目をしっかりと果たしたい」。節目の年に思いを一層強くしている。

( 2018/08/20 08:28 カテゴリー:主要 )

新潟
企画展「戊辰戦争150年」 26日閉幕 県立歴史博物館 /新潟
 県立歴史博物館(長岡市関原町1)で開催されている企画展「戊辰戦争150年」が26日に閉幕する。同企画展は福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画展覧会。展示資料は各地域の戊辰戦争ゆかりの資料も展示するため、会場ごとに増減をしながら福島県会津若松市(9月1日~10月14日)、仙台市(10月26日~12月9日)それぞれの…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

神奈川
【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
 明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

高知
高知県北川村の中岡慎太郎館が企画展「四国の戊辰戦争」
 戊辰戦争(1868年1月~69年5月)と土佐藩の関わりを史料で読み解く企画展「四国の戊辰戦争」が、高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で8月27日まで。

山口
毛利敬親企画展名君、注目度上昇 激動の幕末生きた長州藩主、人物像に迫る 山口、防府 /山口
 明治維新150年の今年、幕末の長州藩主・毛利敬親(1819~71年)の人物像に迫る意欲的な企画展が県内各地で開催されている。並み居る志士たちの活躍を支え、尊皇攘夷(じょうい)や禁門の変、戊辰(ぼしん)戦争など激動の時代を生きた名君に改めて注目が集まっている。【坂野日向子、平塚裕介】

 山口市の市菜香亭(083・934・3312)では「藩主毛利敬親の真のキャラクターに迫る」が開催中だ。敬親は、家臣の意見に反対せず「そうせい」と応じたとして、別名「そうせい候」とも呼ばれた。

 展示では、そのようなイメージと異なるエピソードをかるた形式で紹介した。掛け軸一つ買うにも熟考して質…
 以下は毎日新聞の有料版にて。
ちょっと大きめのニュースなので久しぶりに単独記事で。

幕末徳川将軍家の銀印見つかる国家元首の意思示す
 江戸末期、徳川将軍家が外交文書に押印した銀印「経文緯武」が見つかったと、徳川記念財団(徳川恒孝理事長)が20日付で発表した。徳川14代目将軍家茂と15代目将軍慶喜が、日米修好通商条約の批准書などで対外的に「国家元首」として意思表示したことを示す貴重な資料だ。

 銀印は昨年、徳川宗家の蔵を調査する過程で見つかった。徳川家の家紋「三つ葉葵」のある黒塗りの箱に収められていた。縦、横ともに9.2センチ、高さは7.8センチで、重さは2.7キロ。幕府側から命じられた篆刻家の益田香遠らが制作した。「経文緯武」の言葉によって、文武両面の力を示そうとしたと考えられるという。

 1854年に日米和親条約を締結した幕府が、諸外国と交渉が本格化すると予想し、外交用としてこの銀印を作った。

 日米修好通商条約の批准書には「経文緯武」の朱色の印影に加えて「源家茂」(徳川家茂)の署名が残されている。他に日英、日仏の修好通商条約批准書や、文久遣欧使節の信任状などにも使われた。

 調査に当たった東京大史料編纂所の保谷徹所長は「国と国の付き合いの根幹となる資料が、時代の大きな変化をくぐり抜けて見つかった。実際に押された文書をさらに調べるきっかけになる」としている。

 銀印「経文緯武」は9月15日から新潟県長岡市の同県立歴史博物館で開かれる展示会「徳川の栄華」で公開される。

徳川家茂・慶喜の銀印を発見、条約批准書に押印
江戸幕府の第14代将軍徳川家茂、第15代慶喜が外国と結んだ条約の批准書に押した銀印「経文緯武けいぶんいぶ」が見つかった。将軍の署名とセットで用いられた、当時最高レベルの印章というべきもので、日本外交史における重要な資料だ。

 徳川宗家の歴史資料を保存・調査する徳川記念財団(東京)が明らかにした。印面は9・2センチ四方、印面からの高さは7・8センチで重さは2・7キロ。宗家の蔵を整理した際に、長持の中から、ほかの印章と一緒に見つかった。米国立公文書館が所蔵する日米修好通商条約の批准書(1859年)などの印影と一致し、1857年に幕府が印章を製作させた記録とも符合することから実物と判断された。

 この印影は家茂、慶喜の2代にかけて英国やフランス、デンマークと結んだ条約の批准書や、文久遣欧使節の信任状などで確認できる。東京大史料編纂へんさん所の保谷徹教授(幕末維新史)は、「重要な外交文書に限って用いられ、家茂から慶喜に引き継がれた国のしるしというべきもの」と評価している。新潟県立歴史博物館(長岡市)で開かれる「徳川の栄華」展で9月15~30日に公開される。


徳川埋蔵印、150年ぶり発見 通商条約批准書に押印
1858年に結ばれた日米修好通商条約などに江戸幕府14代将軍徳川家茂の署名と共に押された幕府の公印「経文緯武(けいぶんいぶ)」。この印章が約150年ぶりに、東京都内の徳川宗家の蔵で見つかった。幕府が開国をへて欧米との通商関係へと踏み込んだ歴史的な瞬間を刻んだ、その実物だ。

【写真】「経文緯武」の文字が刻まれた印章(徳川記念財団提供)

 印は縦9・2センチ、横9・2センチの銀製で重さは2・7キロ。所蔵する徳川記念財団(徳川恒孝〈つねなり〉理事長)によると、約1年半前、宗家の庭にあった蔵を取り壊した際に、蔵の一番奥から調度品を収める長持(ながもち)に入った状態で見つかった。

朝日新聞社
久しぶりに幕末ニュースを拾ってみます。

秋田
<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも
 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。

戊辰戦争が縁、佐賀の小学生が秋田市訪問 歴史学び墓参り
 戊辰戦争(1868~69年)で援軍を送った縁で秋田と交流のある佐賀県武雄市の小学生の訪問団が4日来県し、秋田市内に滞在している。5日は、新屋地区にある慰霊碑や藩士の墓に足を運んだほか、開催中の秋田竿燈まつりで妙技大会を見学した。

 武雄市と秋田市の交流は、1986年に新屋日吉地区で武雄領出身者を含む佐賀藩士の墓が見つかったのをきっかけに始まった。今年5月には明治維新150周年にちなみ、武雄市で25年ぶりに竿燈が披露された。

岩手
南部藩主席家老・楢山佐渡の最後の「料理」味わう 幕末に武士道貫いた遺徳しのぶ /岩手
 今年は明治に改元されて150年。日本が近代国家を形成する契機として、明治維新を取り上げるテレビ番組や関連書籍の刊行などが相次いでいる。一方、南部(盛岡)藩は戊辰(ぼしん)戦争で旧幕府側に付いて敗北。白石への転封のほか、長く「朝敵」「賊軍」の汚名を着せられた。首謀者として処刑された主席家老・楢山佐渡(1831~69年)はその象徴的な存在だが、武士道を貫いた生き方は今も多くの市民に親しまれている。その楢山が最後に食した料理を再現し、味わうイベントが20日、盛岡市本町通1の料亭「駒龍」で開かれ、参加者は楢山の人徳に思いをはせた。【佐藤慶】

 代々家老を務めた家系に生まれた楢山は23歳の若さで家老職に就き、藩政改革に奔走。戊辰戦争では、旧幕…
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山形
山形)「荘内大祭」開催 鶴岡で450人の大名行列
城下町・山形県鶴岡市の歴史を伝える「荘内大祭」が15日、市内中心部であり、総勢約450人の大名行列が練り歩いた。

 旧庄内藩主をまつる荘内神社の創建を記念して1877(明治10)年に始まった。大太鼓を先頭に奴(やっこ)振り、甲冑(かっちゅう)武者、女人列などが鶴岡公園を出発し、沿道に陣取った市民らの前をゆっくりと進んだ。

 今年は戊辰戦争から150年。「内地最後の激戦地」とされる関川(旧温海町)での戦いも甲冑劇で再現された。(佐藤孝則)

企画展戊辰戦争150年 絵図、洋式銃など 上山で /山形
戊辰(ぼしん)戦争150年にちなみ、上山市元城内の上山城郷土資料館で、企画展「戊辰戦争と上山」が開かれている。8月19日まで。

 戊辰戦争の戦場絵図や上山藩兵が用いた洋式銃、諸藩の武士たちの名刺、当時の軍服(復元)など計約50点を展示。同資料館は「最近新たに見つかった資料が展示の中心。復元された軍服…
 ここから先は毎日新聞の有料版にて。

福島
旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
 戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

戊辰戦争時の会津藩しのぶ 若松城天守閣郷土博物館の収蔵品展
 会津若松市の鶴ケ城天守閣にある若松城天守閣郷土博物館で二十一日、収蔵品展「白虎隊と会津藩士の戦い」が開幕した。
 白虎隊を中心に戊辰戦争時の会津藩ゆかりの品四十五点を展示している。白虎隊士が自刃する様子を描いた複数の絵図、白虎隊士西川勝太郎が自刃する際に使ったと伝わる刀、西軍(新政府軍)の城下進攻を受け急きょ結成された進撃隊の隊旗などを観覧できる。
 四月から展開している「全館幕末特集」の第三弾。九月十一日まで。観覧は午前八時半から午後五時(入場は午後四時半)まで。高校生以上四百十円(茶室麟閣との共通券は五百十円)、小中学生百五十円、未就学児無料。問い合わせは会津若松観光ビューロー 電話0242(27)4005へ。

「会津藩の功績」検証 徳川時代の意義...戊辰戦争で意見交わす
265年に及ぶ平和を築いた徳川時代の歴史的意義を考える「徳川みらい学会in会津」は27日、会津若松市で開かれた。「徳川幕府の始まりと終わり~会津藩の視点から」がテーマで、参加者が会津藩が果たした役割などを学んだ。

 徳川みらい学会(事務局・静岡商工会議所)の主催、会津若松商議所と会津方部商工観光団体協議会の共催。静岡県以外での開催は2016(平成28)年10月の会津若松市、京都市に次ぐ3回目。今回は戊辰150年の節目に合わせて会津若松商議所が誘致し、約350人が聴講した。

 同学会長で戦国時代史研究の第一人者・小和田哲男静岡大名誉教授(74)が「会津藩祖・保科正之」と題して講演。小和田氏は、初期の江戸幕府を支え、文治政治を確立した保科の生い立ちや会津藩主としての功績などを語った。

 作家・歴史評論家原田伊織氏(72)と本紙連載「維新再考」にも登場した社会思想史研究の森田健司大阪学院大教授(43)との対談は、「戊辰150年~会津藩が果たしたもの」がテーマ。原田氏は「戊辰戦争は政権奪取とは別の目的を持った報復戦争と考えられる。鳥羽・伏見の戦いで『朝敵』のレッテルを貼られた長州藩が自ら朝敵処分を解き、会津藩をターゲットにした」と語った。

<戊辰戦争150年>戦死の藩士に心寄せ いわきで追悼法会
 戊辰戦争で戦死した磐城平藩(いわき市)の藩士らの追悼法会が11日、平藩主だった安藤家の菩提寺(ぼだいじ)であるいわき市の良善寺で営まれた。戊辰150年を記念し、共に戦った泉、湯長谷の両隣藩の関係者も初めて参列した。
 平藩士の子孫らでつくる平安会が主催した。16代当主の安藤綾信さん(86)や、呼び掛けに応じた湯長谷藩藩主内藤家17代当主の内藤博さん(82)ら約70人が参列。本堂での法要後、境内にある藩士らの墓前で手を合わせた。
 平安会会長の松村耕三さん(70)は「戊辰戦争がなぜ起き、その後に東北に何が起きたかを考える必要がある。戊辰の記憶を末永く伝えていくことを誓う」と追悼の言葉を述べた。
 11日は新政府軍の攻撃で磐城平城が落城した日(旧暦7月13日)に当たる。平安会は毎年、追悼法会を営んでいる。

戊辰戦争150年「戊辰戦争 白河口の戦い ー激戦と慰霊ー」映像を公開、楽曲制作は野崎良太(Jazztronik)
福島県白河市による「戊辰戦争 白河口の戦い」紹介映像を制作・公開

福島県南端に位置する白河市。古来から「白河の関」が置かれた東北の玄関口。今から150年前、この地で東北戊辰戦争の激戦の一つ「白河口の戦い」があった。


 戊辰戦争・明治維新より150年を迎えた今年、平成30年(2018年)は全国各地で記念イベントや企画展等、関連行事が催されている。
 福島県白河市もこの節目に、白河における戊辰戦争紹介映像「戊辰戦争白河口の戦い-激戦と慰霊-」を制作・公開し、広く情報を発信することで観光誘客につなげる狙いだ。「白河口の戦い」は戊辰戦争において、会津戦争に至る東北各地の戦いの本格的な始まりとなった戦いで、東北戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。

 江戸時代、白河には白河藩が置かれたが、幕末の藩主・阿部正外が幕府老中として対応した外交問題で失脚し、慶応2年(1866年)白河藩は消滅、藩領は幕府領となった。
 その2年後の慶応4年、京都で旧幕府勢と薩摩・長州藩が激突、鳥羽伏見の戦いが起こり、1年4か月続く戊辰戦争が始まった。その後、幕府領から新政府領に変わった東北の入口・白河は、旧幕府兵と会津藩が占拠。白河は藩主不在だったにも関わらず、交通の要衝であるために意図せず戦争に巻き込まれていった。

 本映像では、進軍の様子を表したCGや、戦いの様子を描いたとされる『白河口合戦絵巻』(白河市歴史民俗資料館蔵)をもとに、戦いの様子を表現したアニメーションで当時の様子を分かりやすく映像化。幕末から戊辰戦争白河口の戦い、そして戦後には地元の人々が墓や供養碑を建て両軍の死者を弔い、今にいたるまで供養が続けられていることを紹介している。

 本映像は、Youtubeで公開し、白河市内では小峰城内にある資料館・白河集古苑や、白河駅併設の観光案内所・市民交流センター(マイタウン)のロビー等で放映、図書館の映像ブースでの視聴も実施する。日本語のほか、英語・中国語(簡体字)・韓国語字幕版も制作され、各言語も収録されたDVDは市内の小中学校等に配付される。

 本映像をご覧いただき戊辰戦争から150年を迎えた今年、ぜひ白河市を訪れていただきたい。


■楽曲制作:野崎良太(Jazztronik)
国内外にファンを有し、自身が率いるプロジェクト“Jazztronik”(ジャズトロニック)名義でオリコン・チャート・イン多数。今井美樹、椎名林檎、ゴスペラーズ、葉加瀬太郎、Mondo Grosso、m-flo、布袋寅泰、クリスタル・ケイ、山崎まさよし等をプロデュース&セッション。今年9月からは自身がサウンドプロデューサーを務める女優で歌手の柴咲コウのライブへの参加が決定している。

■ナレーション:堺正幸
元フジテレビアナウンサー。ニュースやスポーツ番組のアナウンサーを数多く務め、アナウンス室長を歴任。鉄道好きとしても知られ、JR東日本の「新幹線・在来線特急」車内アナウンスの声を担当し、東京から白河へ向かう東北新幹線車内アナウンスも務めることから、「白河へ誘う声」として本映像のナレーター起用に至った。

■戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー【本編】

https://youtu.be/MM2RTN8up_E
(13分36秒)

■戊辰戦争 白河口の戦いー激戦と慰霊ー【短編】

https://youtu.be/CnvdETZK9Ys
(3分05秒)

白河市役所公式ホームページ
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/

山川健次郎を語る 若松で孫やひ孫ら鼎談
 会津藩出身で東京帝国大総長などを務めた山川健次郎の孫服部艶子さん(91)=東京都=、ひ孫木下健さん(69)=長崎市=らが山川について語る鼎談(ていだん)が十八日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで催された。四歳の時に山川が亡くなるまで池袋の家で同居していた服部さんが山川の家庭人の側面を語った。
 服部さんによると、晩年の山川は夕方五時ごろから夕飯を食べ、晩酌の際は塩豆、サケのかす漬けなどをさかなにしていた。会津藩の子弟が学んだ什の掟(じゅうのおきて)にある「うそをつかない」ことには厳格だった。
 木下さんは山川と面識はないが、山川の娘である祖母から人となりを聞いていた。「健次郎はシンプルなものを曲げない生き方だった」とした。
 鼎談は山川健次郎顕彰会が戊辰百五十年に際し、山川の実像を記録に残そうと催した。顕彰会の森武久事務局長(74)が服部さん、木下さんと語り合いながら進めた。顕彰会の宗像精会長(85)と、服部さんの付き添いで山川のひ孫の青島温子さん(58)=東京都=が同席した。鼎談の内容は後日、冊子などにまとめ一般に公開する。

「会津武士」逆風に対処 子孫宅から手紙...藩復活時、台所事情示す
150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。

 文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。

 手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。

 会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。

 中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。

元会津藩家老・山川浩が元新選組・斎藤一に贈った「書」初公開
 会津若松市の白虎隊伝承史学館で6日から、元会津藩家老の山川浩が、共に東軍として戦った元新選組の斎藤一(藤田五郎)に贈ったとされる書が初公開される。

 書は斎藤の長男が生まれた1876(明治9)年、名付け親になった山川が「勉」の命名にちなんで和歌をしたためたもので、二人の深い結びつきを物語っている。

 斎藤は戊辰戦争で会津藩と戦いを共にし、戦後も元藩士らと交流を続けた。会津史学会の間島勲会長によると、山川は斎藤が結婚する際には仲人を務めたという。

 書は、所有していた東京都の斎藤の関係者から2004(平成16)年に、鈴木礼子館長の夫で前館長の滋雄さんに託された。

 滋雄さんは「大事な物だから外に出してはいけない」と秘蔵し続け、09年死去した。鈴木館長も書を守り続けていたが、今年が戊辰150年の節目となることから公開を決意したという。

 書の展示は11月30日まで。開館時間は午前8時~午後5時。入館料は大人300円、高校生200円、小・中学生150円。

展覧会福島の名刀、美と技 新選組・土方所用「越前康継」を県内初公開 会津若松の県立博物館 /福島
 刀剣の魅力を紹介した展覧会「美しき刃(やいば)たち-東京富士美術館コレクションと福島の名刀」が、会津若松市城東町の県立博物館で開かれている。戊辰(ぼしん)戦争150年に合わせて新選組副長・土方歳三の所用刀「越前康継(やすつぐ)」を県内初公開。美術品・伝統工芸品としての刀剣の美と技を伝えている。8月19日まで。

 越前康継は戊辰戦争時に土方が姉のぶの嫁ぎ先である東京・日野の佐藤家に贈った刀で、葵(あおい)のご紋…
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新潟
継之助を悼み只見で墓前祭 牧野家当主も参列
 長岡藩家老として戊辰戦争を戦い、逃れた只見で死去した河井継之助の没後百五十年墓前祭は命日の十六日、墓のある只見町の医王寺で行われた。長岡藩主だった牧野家の十七代当主忠昌氏(76)も参列し、継之助をしのんだ。
 地元の塩沢観光協会と塩沢区が毎年営み、今年は町内のほか新潟県などから約八十人が出席した。長岡城の攻防で継之助が和平交渉をした「小千谷談判」の舞台・慈眼寺(新潟県小千谷市)の船岡芳英住職が墓前で読経した。
 田村勝男塩沢観光協会長があいさつし、菅家三雄只見町長が「河井継之助総督の無念さ、武士としての潔さは心を打つ。総督の志を後世に伝え、越後との縁を深めたい」と追悼の言葉を述べた。忠昌氏らが焼香し、長岡市の前田剣豪会が剣舞を奉納した。
 二度目の墓前祭参列となった忠昌氏は「只見の方々に手厚くしていただき、とても感謝している」と語った。
 継之助は長岡城攻防戦で敗れ、現在の新潟、福島県境の峠道「八十里越」を通って只見にたどり着いたが、一八六八(慶応四)年八月十六日、戦傷がもとで只見の医師宅で死去した。

埼玉
「明治150年」で特別展=埼玉県和光市〔地域〕
 埼玉県和光市の税務大学校で、「明治150年」企画として、「明治維新と租税の近代化」をテーマとした特別展が開かれている。幕末の1858年に米国、英国などと結んだ不平等条約「安政5カ国条約」の実物をはじめ約30点の貴重な資料を展示し、明治期の歩みを税制を通じて振り返る。9月27日まで。
 税務大学校の税務情報センターは、10万点を超える税に関する歴史的資料を所蔵。特別展は、明治維新の税にクローズアップし、日本に関税自主権がなく、5カ国に領事裁判権を認めるなどの「安政5カ国条約」をはじめ、福沢諭吉が幕末から数回欧米を歴訪した西洋諸国の様子を紹介したベストセラー「西洋事情」の再販本(1890年)を展示。松方正義が発議し、編さんした税制の沿革史「大日本租税志」(1882年)には、班田収授法や太閤検地などの記録がある。
特別展示されている「安政5カ国条約」=2日午後、埼玉県和光市

 同大学校の松田淳主任教授は「歴史との関連で税に興味を持ってもらえればありがたい」と話している。
 開館時間は平日の午前9時半から午後4時半まで。入場無料。(2018/06/11-10:52)

神奈川
市歴博戊辰戦争時の横浜解説明治元年から150年の節目
 明治元年から150年の節目にあたる今年は、全国各地で「幕末維新」「文明開化」などを題材にした展覧会が行われている。横浜市歴史博物館=都筑区=では明治元年の戊辰戦争に着目し、企画展「戊辰の横浜 名もなき民の慶応四年」を9月9日まで開催している。

 戊辰戦争は薩摩藩や長州藩らを中核とした明治政府軍と旧幕府勢力などによる争いのこと。当時、横浜市域では戦闘はなかったものの、資料を調査したことで横浜が銃の貿易地であることや、明治政府軍が江戸を目指す通り道になっていたことが分かっている。

 企画展は戦争時の横浜市域の村々や人の姿を地元の資料など約120点からひも解く。資料として、村の人の日記を多く展示。明治政府軍からの要求やそれに反発する当時の村人の様子を感じることができる。

【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

横浜高島屋金の西郷隆盛像が登場 明治維新150年記念
 明治維新150年を記念し、横浜市の横浜高島屋に黄金の西郷隆盛像(約185センチ)が登場した。純金製ではないが、強化プラスチックの素材に10センチ四方の金箔(きんぱく)2500枚を貼り付けた。

 同店で6月5日まで開催の「大黄金展」に出品された。職人が手作業で金箔を施した像の価格は2700万円。高さ約…
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静岡
静岡市・望嶽亭藤屋 江戸無血開城の立役者を救った茶亭
 幕末の混乱を収め、明治新政府の樹立を決定づけた慶応4(1868)年の江戸城無血開城。新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の歴史的会談で実現したが、その偉業をお膳(ぜん)立てした一人の男がいた。山岡鉄舟。徳川15代将軍慶喜の命を受けて老獪(ろうかい)な西郷と事前交渉し、慶喜の安全を確保しつつ幕藩体制を終焉(しゅうえん)させる立役者となった幕臣だ。

 江戸城総攻撃に備えて江戸に向かっていた西郷は、同年3月9日、駿府(現・静岡市)の「松崎屋源兵衛宅」に滞在した。身の危険を顧みずそこに赴いた山岡は、西郷と直談判。江戸城明け渡しや慶喜の処遇といった重大案件について合意を取り付けた。その5日後、山岡が見守る中行われた西郷と勝との会談で、江戸城総攻撃は回避され「歴史上まれに見る無血革命」と語り継がれる江戸開城が実現した。

 近代日本の行く末を左右した会見から150年。舞台となった「松崎屋源兵衛宅」の跡地には現在、雑居ビルが建ち並び、当時の面影は全くない。買い物客でにぎわう通り沿いに、「西郷・山岡会見の史跡」と記された碑が据えられているのみだ。

 実はこの会見が成功した裏には、もう一人の陰の英雄がいた。東海道の難所として知られる薩●(さった)峠(静岡市清水区)にある茶亭「望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋」の当主、松永七郎平だ。

 西郷に面会すべく薩●峠越えを目指した山岡は3月7日夜、官軍に追われ、命からがら逃走していた。望嶽亭に逃げ込んだ山岡から事情を聴き、山岡が背負う密命の重さを理解した松永は、からくり屋敷のような茶亭の造りを生かして脱出に全面協力する。

 望嶽亭には母屋から直接通じる蔵があり、蔵の床の隠し階段から浜辺に下りることができた。山岡はこの経路で脱出し、漁師に変装して舟で海道一の大親分とうたわれた清水次郎長の元へ送り届けられたと伝わる。現在松永の子孫が管理する望嶽亭には、当時の蔵や隠し階段が残り、山岡が置き去りにしたとされる銃も展示されている。

 山岡の功績を研究する「静岡・山岡鉄舟会」の若杉昌敬事務局長は、「明治維新は政治体制の大変革でありながら、血で血を洗うことなく話し合いで決着した。旧幕府側と新政府側の戦いが長期化すれば日本は欧米列強に支配されたかもしれないが、そうならなかったのは山岡と西郷の尽力があったから」と強調する。

 維新後の山岡は、静岡藩の要職を務め、清水(現・静岡市清水区)の鉄舟寺を復興するなど、現在の静岡市内に多くの足跡を残した。点在する史跡をたどれば、新しい日本を夢見て奔走した志士の熱い思いに触れられるかもしれない。(静岡支局 吉沢智美、写真も)

企画展三島の礎つくった偉人たち 幕末から明治の10人紹介 /静岡
「明治150年」を記念し三島・沼津・富士にある三つの市立博物館の共同企画展「近代三島をつくった人々」が、三島市一番町の市立公園楽寿園内の郷土資料館で開かれている。前期(政治・教育編)と後期(経済・文化編)の2部構成。前期は9月24日までで、幕末から明治にかけて三島の礎をつくった隠れた偉人約10人を約130点の資料で紹介している。

 会場には、戊辰戦争中に三島宿自衛兵を組織して宿場町内での衝突を回避した三島宿本陣当主、世古六太夫(…
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岐阜
凌霜隊、軍服姿の写真発見 新政府軍と戦った旧郡上藩士
 明治150年、幕末の実像が郡上によみがえる-。旧郡上藩の江戸藩邸にいた藩士でつくり、戊辰戦争(1868~69年)で新政府軍と戦った「凌霜隊」。戊辰開戦から150年の今年、副隊長・坂田林左衛門(りんざえもん)の軍服姿の写真が見つかった。隊員の軍服写真の発見は初めて。生き残った林左衛門の幽閉生活の様子を伝える資料も見つかり、同隊の新たな実像を浮かび上がらせている。

 見つかったのは、陣頭指揮に使う采配を手にする軍服姿の林左衛門の写真。隣に妻の姿があり、江戸を出発する直前に撮ったとみられる。長野県軽井沢町に住む子孫が保存していた。

 子孫から写真の分析を託された地域史家の高橋教雄さん(73)=郡上市八幡町=は「凌霜隊がどういう軍服だったのかが明らかになった貴重な1枚。采配を持っていることから、実質的に隊を指揮していたのは17歳の隊長ではなく(52歳の)林左衛門だったことが読み取れる」と話す。

 また、林左衛門の孫が同家に伝わる史実として書き残した「手記」も見つかった。郡上で幽閉生活を送る中で、若い元隊員が反乱を起こそうとしたときに林左衛門が説得したことなどが記されている。高橋さんによると、戦闘の手記は他の隊員が残したものもあるが、謹慎中の心境などを伝える隊員の資料は初めてという。

 一方、凌霜隊に光を当てようと、郡上八幡産業振興公社(郡上市八幡町)は「凌霜150」プロジェクトを企画。第1弾として、高橋さんが2015年に自費出版した本「郡上 凌霜隊」の再版に向けてクラウドファンディングによる出資を募っている。高橋さんが13~14年に岐阜新聞に寄稿した連載「郡上藩凌霜隊」をもとに執筆。今回の資料についても新たに加筆する。再版は千冊で目標金額は80万円。募集期間は9月28日まで。

 【凌霜隊(りょうそうたい)】 「凌霜」とは霜を凌(しの)いで咲く菊のような不撓(ふとう)不屈の精神を表す言葉。旧郡上藩青山家の家紋である青山葉菊に由来する。朝比奈茂吉を隊長に45人で構成。戊辰戦争で、脱藩し幕府軍として会津若松城で会津藩白虎隊と共に戦い、敗れた。生き残った隊員30余名は郡上に戻ったが、郡上藩は新政府側についており、幽閉された。後に赦免(しゃめん)されたが、多くは郡上を離れた。


三重
展示会桑名藩の戊辰戦争 藩士らの動向追う 市博物館 /三重
 戊辰(ぼしん)戦争と桑名藩との関わりを紹介する展示会が桑名市京町の市博物館で開かれている。旧幕府軍として新政府軍と戦った藩士らの動向を資料で追っている。8月26日まで。

 鳥羽伏見の戦い(1868年)に端を発する戊辰戦争から150年の節目になるのを記念して企画した。

 幕末、京都所司代に就いた桑名藩主、松平…
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京都
新選組の隊士しのぶ ゆかりの京都・壬生寺で供養祭 池田屋事件にちなみ開催
 幕末の京都で活躍した新選組の隊士らをしのぶ供養祭が16日、ゆかりが深い壬生寺(京都市中京区)で営まれ、局長・近藤勇の子孫や全国から集まったファンらが遺徳をしのんだ。

 新選組が倒幕派の志士を急襲した池田屋事件が元治元(1864)年の祇園祭宵山に起こったことにちなみ、昭和46年から毎年宵山に開催している。

 境内にある近藤像の前で、松浦俊海貫主(83)らが読経し、新選組を顕彰する京都新選組同好会のメンバーらが次々と焼香して手を合わせた。

 千葉県市原市の会社員、増田栄子さん(44)は「隊士の方々が長年にわたって、この寺で大事にされていると感じた。来られてよかった」と話していた。
桂小五郎しのぶ「松菊祭」霊山護国神社で歴史ファンら慰霊
 幕末の志士、桂小五郎(木戸孝允、1833~77年)の命日にあたる26日、桂の墓がある京都霊山護国神社(京都市東山区)で恒例の「松菊祭」が営まれ、全国から集まった歴史ファンら約40人が遺徳をしのんだ。

 松菊祭は桂の雅号「松菊」にちなむ命日祭で、今年は生誕185年にあたる。桂は明治10(1877)年に京都の自宅で病死し、同神社の境内に墓が建立された。

 祭りでは、宮司が祝詞を読み上げた後、参列者が玉串を奉納し、墓前で手を合わせた。名古屋市西区の会社員、鳥谷奈央さん(23)は「桂さんが大好きで、訪れるのは今年で3回目。参列できてうれしい」と話していた。

ブックレビュー
経済評論家・岡田晃氏の新刊「明治日本の産業革命遺産」発売
集英社は5月25日、岡田晃著の『明治日本の産業革命遺産』(税別1,900円)を発売する。

本著は、「日本の奇跡」と呼ばれている明治産業革命に製鉄、製鉄、造船、石炭産業が、発展していく様子を幕末の若きサムライたちや、現場で奮闘した無名の職人たちのドラマを描いている。


岡田晃著『明治日本の産業革命遺産』(税別1900円)
例えば、次のようなエピソードだ。製鉄の基礎を作ったのは、伊豆の反射炉の技術で佐賀藩と伊豆の代官だった江川英龍が協力して研究が始まり、最終的には釜石の洋式高炉に結実。それが現在の新日鉄住金に至るまでや、造船が薩摩藩士の五大友厚がトーマス・グラバーらと共に長崎の小菅修船場から始まり、現在の三菱重工長崎造船所へ発展していく――。日本が技術立国として世界に認められるまでに至った歴史、さらには日本経済の再生のためのヒントも盛り込まれている。

このほか、「明治日本の産業革命遺産」を撮影したカラー口絵や明治時代の貴重な写真や資料が多く掲載されている。なお、著者の岡田晃氏は、大阪経済大学客員教授。テレビコメンテーターとしても活躍している。




北海道
土方歳三の寸劇で保育士優勝北海道、箱館五稜郭祭
 戊辰戦争最後の舞台となった北海道函館市で19日、「箱館五稜郭祭」が始まった。戦死した新選組の土方歳三になりきって約3分の寸劇を披露するコンテストが開かれ、函館市の保育士金谷藍子さん(29)が優勝した。

 31回目の今年は、道外からも含め男女19人が出場。思い思いの演出で土方の最期を描き、約250人が詰め掛けた会場を沸かせた。

 金谷さんは今回が2度目の出場で、普段は劇団員としても活動しているという。「殺陣に力を入れた。戊辰戦争が始まって150年という区切りに自分が土方に関われて、うれしい」と笑顔を見せた。


福島
戊辰戦争の思い1冊に 会津若松市民有志が記念誌刊行
 会津若松市の市民の有志でつくる戊辰150年記念誌刊行委員会(岩沢信千代委員長)は、「戊辰150年記念『薫蕕(くんゆう)を選びて』」を刊行した。会津のみならず、全国各地の関係者が戊辰戦争に関連して文章を寄せた。岩沢委員長は「節目の年に、今を生きる人々の戊辰に対する思いを残し、伝えたかった」と話している。

 タイトルの「薫蕕を選びて」は、鶴ケ城籠城戦で負傷者の治療に当たったという医師古川春英の漢詩の中の言葉。「薫」は善行、「蕕」は悪行を象徴していて、善悪を選んで力を尽くすとの意味があり、「ならぬものはならぬ」の精神に通じるという。

 会津からは、間島勲会津史学会長、野口信一会津歴史工房主宰など郷土史家のほか、星野可月亭庭園美術館主、新城猪之吉末廣酒造社長なども筆を振るい、独自の視点で戊辰を論じる。西軍の主力を担った藩があった地域からの寄稿もあり、山口県萩市の「長州と会津の友好を考える会」代表の山本貞寿さん、鹿児島県日置市を拠点に活動する陶工、15代沈寿官さんが文章を寄せた。2000部発行し、会津若松市などの市町村や関係者に計約1500部を寄贈。約500部を、会津若松市の白虎隊記念館、栄町オサダ、渡辺宗太商店、アイミライで販売する。価格は1000円(税込み)。

 刊行委員会の岩沢委員長、岩沢孝副委員長は4日、市役所を訪れ、室井照平市長に同市に500部を寄贈したことを報告した。本田樹教育長が同席した。

岩国藩士福島で供養祭、戊辰戦争で散った7人…来月の命日
 明治新政府と旧幕府軍による戊辰ぼしん戦争(1868~69年)で戦死した岩国藩士7人の供養祭が命日の7月28日、墓がある福島県富岡町の龍台寺で営まれる。地元住民が墓を守ってきたが、福島第一原発事故の影響で町外に離散。山口県岩国市の「岩国吉川会」が「敵だった藩士に敬意を表してくれた、会津の人たちの思いを引き継ぎたい」と供養祭開催を決めた。

 同会などによると、戊辰戦争で岩国藩は官軍の一員として二つの小隊を東北に派遣。現在の富岡町がある地域で激戦が繰り広げられた1868年の「手岡原ちょうかはらの戦い」では、18~26歳の7人が討ち死にし、同寺に葬られた。

 7人はいずれも若く、直系の子孫がいなかったため、岩国から足を運ぶ人は少なかった。そのため、地元の有志が代々、墓地の清掃や法要を続けてくれていたという。

 しかし、東日本大震災での福島第一原発事故で、同町に避難指示が出され、有志らは町外に出た。同寺も建物が損傷したり、岩国藩士の墓石が倒れたりするなどの被害を受けた。

 昨年4月に避難指示が解除され、寺の再建は進むが、住職の矢内俊道さん(82)は「住民は町外の避難先から戻らず、墓は放置されたままだ」と嘆く。

 旧岩国藩主・吉川家を顕彰する岩国吉川会幹事長の西村栄時さん(77)は1999年に岩国市民に呼びかけて墓参したことがあり、矢内さんから墓の現状を聞いて、今回の供養祭を提案。現地に約30人で赴く予定という。

 西村さんは「異郷の地で散った七士の魂を弔い、福島の復興を願う機会にもしたい」と話している。

謎深き穏やかな剣士 家紋が縁 今も供養 新選組編(2) 山南敬助
 新選組結成時からの古参隊士で土方歳三とともに一時、副長を務めた仙台藩出身の山南敬助。あくが強く、荒くれ者のイメージが色濃い隊士の中にあって、屯所近くの住民と気さくに接するなど、穏やかで品性豊かな人物として今に伝わる。
 北辰一刀流の使い手で、1863(文久3)年10月、現在の大阪で起きた浪士による岩城升屋事件では愛刀「赤心沖光(せきしんおきみつ)」を折りながら奮闘。浪士撃退の功績で会津藩主松平容保公から金8両を賜るなど目覚ましい活躍を見せた。
 2004(平成16)年の大河ドラマ「新撰組!」で堺雅人さんが人情深く、心温かな山南役を演じ、知名度が高まった。

◆脱走の末◆
 山南を待っていたのは戦いによる死ではなく、切腹だった。
 山南は「江戸に行く」と書き残して屯所から姿を消し、京からわずか東に3キロほどの現在の大津市付近で捕縛された。隊からの脱走を企て、捕らえられた末に腹を切ったという。
 隊の規則で脱走は死罪に処される。そうした中で、局長の近藤勇の対応は謎を呼ぶ。放った追手は沖田総司ただ一人。剣の達人と知られた沖田だが、山南とは旧知の仲。状況次第では逃してもよい、とも受け取れる。
 脱走劇は何を意味していたのか。隊内での主導権争いに嫌気が差した、病気を苦にして隊を離れようとしたなど諸説あるが、活動の中核を担った山南の行動を巡る疑問は今なお残ったままだ。

◆享年33歳◆
 山南は1865(元治2)年2月23日、京都市中京区にある旧前川邸の一室で切腹して果てた。旧前川邸は、新選組が最初に置いた壬生(みぶ)の屯所の一つだった。
 「それまでの行動を考えると、隊を思った上での結果だったのではないか」。現在、旧前川邸を所有している田野十一士(ひとし)さん(63)=会社経営=は死に至った経緯に思いを巡らせる。
 新暦の命日に当たる3月20日に近い日曜日に「山南忌」を営む。「本懐は遂げられなかったかもしれないが、義と誠を貫こうとした精神は他の隊士と変わらなかったはず。こうした思いを参列者に伝えたい」。33年の生涯を閉じた室内で感慨深げな表情を浮かべる。
 山南の墓所は京都市下京区の光縁寺にある。当時の住職が山南と同じ家紋だった縁で亡きがらを引き取って供養した。中島隆憲住職(67)は「他の多くの隊士より早くこの世を去った。関心を持つ人が増えれば、山南がいかに優れた人物だったかが後世に残る」。多くの人が線香を手向ける墓所を見つめた。

( 2018/06/04 09:33 カテゴリー:主要 )

芸の世界で「義」貫く 戊辰150年 新選組編(3)慕う人々
 新選組副長などを務めた山南敬助を弔う今年の「山南忌」は3月11日、切腹した部屋が残る京都市中京区の旧前川邸で営まれた。多くの参列者が焼香の後、山南の墓がある近くの光縁寺を訪れた。その中で、ともに芸妓(げいぎ)の母・司太夫=だゆう=(56)、長女葵太夫(31)は静かに手を合わせた。
 「信義を貫いた山南の生き方がすてき」。母子ともに新選組のファンで会津びいき。会津藩士や新選組の隊士を顕彰する各地の行事に足を運んでいる。

◆太夫の親子
 司太夫は地元京都の出身。中学校を卒業後、芸妓の世界に進み、23歳から司太夫を名乗っている。芸妓には芸事はもちろん、高い教養が求められる。郷里の歴史を学ぶうちに幕末期の京と会津藩が切っても切れない関係だと知る。尊皇攘夷の機運が急速に広まる中、時流にあらがいながらも会津藩士や新選組の隊士が「義」を貫く姿に心を打たれた。
 会津藩や新選組の歴史を通じ、本県への関心を高めた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故発生後は相馬、南相馬両市や東北の被災地に通って慰霊の舞を奉納している。
 歴史に詳しい芸妓として講演依頼も舞い込む。一昨年は長州藩の志士として活躍した高杉晋作の没後150年を記念した山口県下関市での講演会に招かれた。自身が営む京都・祇園の飲食店で「薩長お断り」をうたっているほどの会津びいきにとって、高杉は“敵方”の中心人物。即座に断りの連絡を入れたが、熱意に押されて渋々承諾した。
 当日は意を決して壇上に『誠』としたためられた扇を広げ、「私は新選組や会津藩のファン。長州は敵だと思っている」と口上をぶった。隊士の斎藤一が会津に残って戦い続けたエピソードを語ったほか、新島八重、中野竹子ら会津女性の活躍にも触れた。参加者の反応は思いがけず上々だった。「敵地に乗り込む心境だった。思いを率直に語ったのが良かった」と振り返る。

◆追悼の舞
 葵太夫は11日に山南が好んだ舞「黒髪」を披露した。追悼の舞奉納は毎年のことだが、見守る司太夫の頬に一筋の涙が伝った。山南忌の3日前に母を亡くし、前日に葬儀を終えたばかりだった。「今年は(山南忌が)東日本大震災の日でもあったが、心動じることなく見事だった」とたたえた。
 「祖母は私が好きな道に進むのを応援してくれていた。つらく悲しかったが、私たちは芸妓。楽しみにしている人を裏切る訳にはいかない」と葵太夫はほほ笑む。新選組から学び取った「誠」と「義」を心の支えに母子は芸の道を歩む。

( 2018/06/05 09:54 カテゴリー:主要 )



あたふたしているうちに月替わり。

北海道
新撰組ゆかりの地巡って 函館市内13カ所地図で紹介 JTB旅館ホテル連盟など企画
 箱館戦争150周年を記念し、函館市内の新撰組ゆかりの地の魅力をPRしようと、JTB協定旅館ホテル連盟と函館ホテル旅館協同組合は共同で専用マップを作成した。土方歳三が最期を迎えたとされる一本木関門(若松町)など、函館市内のゆかりの地13カ所を地図付きで紹介した。

 1万5千部を発行。5月から同連盟と組合の加盟店や、市内観光施設に置いた。箱館戦争で犠牲となった旧幕府軍人を弔うために建てられた新撰組巡礼の聖地の碧血碑(谷地頭町)なども掲載した。

宮城
<戊辰戦争150年>「白石会議」現代に再び 列藩同盟ゆかりの地で歴史の転換点議論
 白石市は6月2日、戊辰戦争150年を記念して、奥羽越列藩同盟の発端となる会合があった白石城で、「白石会議2018」と銘打ったイベントを開く。研究者や列藩同盟にゆかりのある宮城、福島、山形各県の自治体関係者らが歴史の転換点を語り合う。
 白石城本丸広場に特設ステージを設け、東大史料編纂所教授で歴史学者の本郷和人さん(57)が戊辰戦争と幕末をテーマに講演する。引き続き、列藩同盟ゆかりの白石市の副市長、二本松市の教育長、米沢市と白河市の学芸員らが歴史とまちづくりを議論する。
 東北放送ラジオの番組「それいけミミゾー」の公開生放送もあり、山田裕一市長が出演する。
 白石会議は1868(慶応4)年閏(うるう)4月11日、新政府から追討令を受けた会津藩を救済しようと、奥羽14藩が白石城に集結。翌5月の31藩による奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 市の記念事業「しろいし慕心(ぼしん)プロジェクト」の一環。甲冑(かっちゅう)やこけし絵付けの体験、各地の物産や軽食が楽しめるブース、賞品がもらえるクイズ大会もある。連絡先は市教委生涯学習課0224(22)1343。

福島
戊辰戦争150年会津の義感じて 地元市などが番組制作
 福島県会津若松市などは、戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別番組「AIZU」を制作し、26日からBS4局で全国放映する。会津武士道の「義」をテーマに、大義▽道義▽信義▽忠義--の4編で構成。それぞれの視点でドキュメンタリー化した。

 戊辰戦争の歴史と会津の精神を広く発信しようと、市と関係団体で組織する市戊辰150周年記念事業実行委員会が制作した。

 番組は外国人を進行役に据えるなど、会津藩士の「義」にあふれた生きざまから見えるメッセージをグローバルな目線で描いた。会津松平家14代当主の松平保久さんや市民らが出演し、市内の名所やフィクション映像なども織り交ぜた。放映時間は各24分。

 大義編は26日午後1時からBS朝日で、道義編は27日午後4時半からBS日テレで、信義編は6月2日午後5時半からBSフジで、忠義編は同3日正午からBS-TBSで放映する。室井照平市長は「内容も難しくなく、会津の『義』を感じ取ってもらえると思う」と話した。

 6月26日午後6時半からは同市の会津稽古堂で一般公開も予定している。入場は無料で、先着200人。申し込みは市観光課(0242・39・1251)。【湯浅聖一】
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

大阪
大阪の適塾で特別展 明治維新150年、戦争と平和考える機会に
 国指定重要文化財の史跡「適塾」(大阪市中央区北浜3、TEL 06-6231-1970)で5月29日、特別展示「戊辰(ぼしん)戦争~西南戦争をめぐる適塾関係者たち-軍制と医療から」が始まった。主催は大阪大学適塾記念センター(豊中市)。

江戸末期の町屋の遺構でもある「適塾」

 適塾は、医師で蘭(らん)学者の緒方洪庵が江戸末期に開いた私塾。同建物では6月10日の洪庵の命日に合わせて毎年、ゆかりの品々や関係資料を一般公開している。

 明治維新150年となる今年は、戊辰戦争と西南戦争の2つの内戦にフォーカスし、近代軍制の確立に貢献した大村益次郎や、軍医の養成に携わった緒方惟準(これよし)など、適塾関係者の活動を紹介する。

 適塾を研究する大阪大学の松永和浩准教授によると、戊辰戦争での高松凌雲の救護活動、西南戦争での佐野常民の博愛社(日本赤十字社)の設立など、適塾は戦争犠牲者を救済する人材も供給していたという。松永さんは「今年は維新150年だが、歴史の暗部が顧みられることは少ない。今回の展示では戦争の暗部にも光を当てており、戦争と平和の意義について考える機会になれば」と話す。

 開館時間は10時~16時。月曜休館。入場料は、一般=260円、高校生・大学生=140円、中学生以下無料。6月10日まで。

高知
シンポジウム明治150年記念 学芸員ら戊辰戦争語る さまざまな視点から紹介 高知・歴博 /高知
 明治元(1868)年から今年で150年を記念したシンポジウムがこのほど、県立高知城歴史博物館(高知市追手筋2)であった。明治維新期の戊辰戦争ゆかりの地にある博物館や美術館の学芸員らが、さまざまな視点で発表した。

 館の企画展「明治元年の日本と土佐~戊辰戦争 それぞれの信義~」の関連行事として開催。鹿児島県や福島県の学芸員ら4人が登壇した。このうち福島県立博物館の主任学芸員、阿部綾子さんは、元会津藩士の渋谷源蔵(1839~1909年)が明治39(1906)年に残した記録「雪冤一弁(せつえんいちべん)」を紹介。その中に敵だった薩摩藩出身者らから聞いたことを記している点について「明治維新後も、(戊辰戦争時に)誰がどういう風に行動し、感じていたのか、直接インタビューして書いているのが面白い」と話した。【松原由佳】
米国旅行でホテルと機内の乾燥で喉をやられました。熱は今朝方収まりましたが、咳と痰が……明日以降仕事が入っているのでちときつい。

茨城
維新後の困窮如実 水戸藩士、幕末尊攘で脚光県立歴史館研究員 記述の手紙発見 耕雲斎の孫 援助にひれ伏す
幕末の尊王攘夷(じょうい)運動で脚光を浴びた水戸藩の武田金次郎ら上級藩士たちが、明治以降、経済的に困窮し不遇な晩年を送った実情を示す史料が見つかった。維新後、伯爵となった水戸藩出身の幕末志士、香川敬三が書き残した手紙類を、県立歴史館主任研究員の石井裕さん(41)が研究し、今春、「常陸大宮市史研究」で発表した。明治維新150年の今年、激動の時代に翻弄(ほんろう)された旧藩士たちの知られざる悲運が明らかになった。


水戸藩は幕末、尊王攘夷思想に連なる水戸学で吉田松陰ら多くの志士たちに多大な影響を与え、「維新の先駆け」となった。しかし、天狗党、諸生党による激しい藩内抗争で多数の人材を失い、明治維新に乗り遅れたといわれている。

石井さんは、皇學館大学(三重県)が管理する香川敬三の子孫の家に伝わる文書を研究。天狗党を率いた武田耕雲斎の孫、金次郎の晩年の困窮ぶりを、香川が知人に明かした手紙を発見した。

金次郎は天狗党の乱に参加後、王政復古によって朝廷から罪を許され、藩の実権を掌握。維新後、諸生党に対し激烈な報復を行い藩内は極度の混乱に陥った。廃藩置県後の晩年はあまり知られていなかった。

手紙は、1894(明治27)年12月23日付。金次郎が亡くなる約3カ月前の生活苦を生々しい描写で伝えている。手紙によると、香川が栃木県の塩原温泉に赴いた際、道端の粗末な小屋で暮らす、体が不自由な金次郎と出会った。物乞い同然の姿に驚き、香川が金銭を渡すと金次郎は喜んで受け取り、ひれ伏した。その様子に香川は何度も涙したとつづった。

香川は手紙で「自分は廃藩後、金次郎に数百円の援助を行った。旧藩主や旧重臣はどのような援助をしたのか。このまま『見せ物』のように放置した揚げ句、病死でもしたら水戸藩の恥である」とも記した。

金次郎はその後、水戸に連れ戻され、間もなく48歳で亡くなった。

別の手紙には、混迷する幕末の水戸藩を主導した鈴木重義、三木直ら尊王攘夷派の上級藩士に関する記述もあった。鈴木は晩年、経済的に困窮を極め香川や山口正定ら同藩出身の成功者に度々借金を申し出ていた。

三木は徳川光圀を養育した名門の末裔(まつえい)で、余生を神職として送ったが、最晩年は貧困にあえいだ。常磐神社宮司の座を目指したが、かなわなかった。

石井さんは「旧水戸藩士たちの晩年が経済的に苦しかったことがはっきりと分かる貴重な史料」と評価。幕末から明治にかけ、激動の時代を生きた旧藩士の栄枯盛衰に思いをはせ、「武田金次郎らは維新当初、いっときは勝ち組だった。全体を見たとき、果たして勝者と言えたのだろうか」と話した。 (勝村真悟)

千葉
戊辰戦争150年 市川・船橋の戦跡巡る 27日、参加者を募集 /千葉
 明治維新期の戊辰戦争から150年を迎えたのに合わせ、船橋、市川両市周辺が戦地となった「市川・船橋戦争」の戦跡やゆかりの地を巡る「戦跡巡礼まち歩き」が今月27日に開かれる。会津藩や岡山藩など各地から参戦した戦死者を弔うため、各地域の出身者の参加も募っている。

 「ふなばし街歩きネットワーク」など船橋、市川、鎌ケ谷3市のガイドボランティアたちが実行委を作り、企画した。

 市川・船橋戦争は1868年に起きた戊辰戦争の局地戦。江戸城の明け渡しに反発し、江戸から転戦した会津藩などの旧幕府軍が船橋大神宮(船橋市宮本)、中山法華経寺(市川市中山)などに本陣を構えた。福岡藩や岡山藩などの新政府軍と戦い、市川や船橋の村は戦火にさらされた。

 大神宮には焼けたケヤキの木とその脇から新たに育った若木が今も残り、ご神木となっている。藩士らの戦死者は諸説あるが30人を超えたという。

 まち歩きでは、午前10時から、船橋市の海神公民館で郷土史家の綿貫啓一氏が講演。午後1時に出発し、市川コースと鎌ケ谷コースに分かれて戦死者の墓地などを巡る。船橋コースのまち歩きは6月9日に開催する。

 企画した街歩きネットワークの石本拡子さんは「亡くなったのは若い藩士たち。船橋や市川でも戊辰戦争があったことを知ってほしい」と話している。

 参加費は弁当付きで1200円。申し込みはネットワーク(047・422・0596、メールcct@chiba-net.or.jp)。【小林多美子】

東京
新選組隊士800人参上…日野でまつり
 新選組副長・土方歳三が生まれ育った日野市で12、13日、「ひの新選組まつり」が行われた。13日の「隊士パレード」では、全国から新選組ファンら約800人が参加し、隊士に扮ふんしてゆかりの地を練り歩いた。

 土方の命日(5月11日)に合わせた恒例行事。メインの隊士パレードは、土方らが剣術の稽古に汗を流した日野宿本陣周辺で行われ、馬にまたがった土方と、局長・近藤勇役に続き、水色の隊服を着た参加者が続々と登場。沿道に詰めかけた人たちが、さかんにカメラのシャッターを切っていた。

 土方役を務めた大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)は「ずっと土方に憧れていた。夢の中にいるようで、感慨深かった」と目を潤ませていた。

ひの新選組まつりきょう 大阪の三宅さん、念願の土方役に /東京
 新選組副長を務めた土方歳三の出身地、日野市で13日に行われる「第21回ひの新選組まつり」のパレードの新選組幹部役を選ぶ「隊士コンテスト」が12日、同市の高幡不動尊で行われ、大阪府松原市の会社員、三宅智美さん(31)が土方役に選ばれた。

 祭りは土方の命日の5月11日に合わせて開かれ、全国から約4万5000人が集まる。メインイベントは、新選組愛好家や市内の保育園児ら約800人が新選組の隊士に扮(ふん)して甲州街道を練り歩く「隊士パレード」。土方や局長の近藤勇ら幹部役はコンテストで選んでいる。2次審査では土方が亡くなる前日、函館の五稜郭で戦死した新選組の仲間に思い出を語りかけるセリフを再現して競った。

 三宅さんは8年ほど前からコンテストに参加。念願の土方役を初めて射止めた。「観客がほれぼれとするような土方を演じたい」と抱負を語った。【黒川将光】
〔都内版〕

われらが新選組 いざ参上! 日野で800人パレード 
白馬に乗り堂々と胸を張って進む土方歳三役の三宅さん=日野市で

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 日野市出身の新選組副長、土方歳三らの勇姿を再現する隊士パレードが十三日、同市のJR日野駅周辺で開かれた。市最大のイベント「ひの新選組まつり」のハイライトで、約八百人が隊士らになりきって旧甲州街道を進み、声援を浴びた。(栗原淳)

 五月十一日の土方の命日に合わせ、市民や団体でつくる実行委員会が毎年この時期に開いており、今年で二十一回目。

 局長の近藤勇や土方ら、パレードを率いる幹部は、前日の「隊士コンテスト」で選ばれた。コンテストには全国から応募があり、今年の主役・土方は、大阪府松原市の会社員三宅智美さん(31)が務めた。

 市内で剣道に励む子どもたちなどに先導され、羽織はかま姿の隊士が続々と登場。黒の上着を羽織った三宅さんは沿道からの「副長!」「歳三さんかっこいい!」との声に手を振ってほほ笑んだ。一行は時折立ち止まり、剣を抜いて「エイ、エイ、オー」と勝ちどきを上げて盛り上げた。

 三宅さんは、雨のためパレードが途中で中止になったのを残念がりながら「応援が温かかった」と目標の土方役を終えた感想を話した。

 今回初めて、市内の留学生ら十人による外国人隊士を試行的に編成。実行委員長の山口徹雄さん(54)は「近年は若者や海外の人にも新選組ファンが増えている。市民手作りの祭りを国内外に発信したい」と今後への意欲を示した。



ども、白牡丹です。5泊7日の米国出張から無事に戻ってきました。

福島
戊辰戦争鶴ケ城天守閣など150年記念切手 会津地方で
11日から98郵便局で販売 1000シート限定
 日本郵便東北支社(仙台市)は戊辰(ぼしん)戦争150年を記念したオリジナルフレーム切手を製作し、11日から会津地方の98郵便局で販売する。戊辰戦争に関心を持ってもらい、地元を盛りあげようと企画した。

 図柄は福島県会津若松市の戊辰150年のロゴマークと市が所蔵する史料画像で構成。戊辰戦争の際に砲撃を受けた鶴ケ城天守閣の写真や、会津藩主で京都守護職時代の松平容保(かたもり)を描いた錦絵などをあしらっている。1シートは82円切手10枚で1300円(税込み)。1000シート限定で、うち40シートは15日から日本郵便のネットショップでも扱う。

 発売に先駆けて10日、日本郵便から同市の室井照平市長への贈呈式が市役所であった。室井市長は「どの切手も往時をしのぶ図柄で、いい記念になる」と感謝した。【湯浅聖一】

特別展村人が見た戊辰戦争 きょうから福島で /福島
 今年の戊辰(ぼしん)戦争150年を記念した特別展「村人たちの戊辰戦争」が21日、福島市春日町の県歴史資料館で始まる。戦闘の発生を警戒して築かれた陣地や防塁の絵図など、当時の村人が戊辰戦争をどう捉えていたかを伝える史料42点が並ぶ。

 奥羽越列藩同盟が会津藩を支援したため、県内でも新政府軍との戦闘の機運が高まる中、山崎村や藤田村(ともに現在の国見町)に築かれた陣地や防塁を示す「山崎村絵図」からは、戦闘を恐れた村人の様子が伝わる。

 現在の伊達市梁川町に居住していた堀江家に伝わる文書は、戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いの様子を詳しく伝える。1868(慶応4)年に梁川町で販売されていた「中外新聞」も、旧幕府軍側の視点で戦闘の行方が記され、戦争が村人の大きな関心事だったことを示す。

 戊辰戦争を控えた66年に社会変革の「世直し」を求め、信夫郡と伊達郡の農民が起こした一揆の様子を伝える「信達騒動風説記」、この一揆の参加者が作成した連判状「慶応二年寅五月廻状」なども並ぶ。

 資料館の山田英明専門学芸員は「戦闘に加わらなかった村人に注目することで、戊辰戦争を立体的に見ることができる」と話す。

 8月19日まで。無料。6月中に一部史料を入れ替える。問い合わせは資料館(024・534・9193)。【岸慶太】

会津藩士の刀剣や銃器 会津若松・鶴ケ城で特集展第2期
 戊辰150年の節目に合わせて、刀剣や銃器など通し会津藩士らの戦いを振り返る鶴ケ城特集展示「武器と武具」は11日、会津若松市の鶴ケ城天守閣で始まった。

 幕末期の会津の刀匠が手掛けた名刀や、戊辰戦争で使用されたのと同型の武器などを公開している。7月17日まで。

 本年度行われている幕末と戊辰戦争に関する特集展示の第2期。会津武士にとって所有することがステータスシンボルになっていたという三善長道の名刀など約40点を展示している。

 戦闘によって胸の部分が大きくへこんだ甲冑(かっちゅう)やスペンサー銃なども並ぶ。

 若松城天守閣郷土博物館の湯田祥子学芸員は「実際の戦いの様子がどうだったか、展示を通して感じ取ってほしい」と来場を呼び掛けている。

 時間は午前8時30分~午後5時(入場は同4時30分)。天守閣入場料は大人410円。

 問い合わせは会津若松観光ビューロー(電話0242・27・4005)へ。

東京
ひのたまで観光PRタッグ 多摩市・ラスカル 日野市・新選組
 観光イベントでの集客などにつなげようと、日野、多摩両市は「ひのたま」と名付けた連携事業をスタートさせた。京王線沿線の隣接する自治体同士が、地元ゆかりのキャラクターを相互にPRするなどして、観光振興効果を狙う。(栗原淳)

 「ひのたま」のシンボルとして、人気アニメ「あらいぐまラスカル」に登場する「ラスカル」が新選組の隊旗を掲げるイラストを作成した。アニメは多摩市にスタジオを構える日本アニメーションが制作。新選組副長の土方歳三を生んだ日野市は「新選組のふるさと」をアピールしている。

 四月に観光連携協議会が発足し、両市のほか、映画やドラマのロケを誘致する両市の二団体などが加わった。第一弾として、多摩市の多摩センター駅周辺で今月三~五日に開かれた「こどもまつり」で、土方歳三の写真を拡大プリントしたパネルを展示。新選組にふんしたパフォーマーによる寸劇なども披露された。

 同市の聖蹟桜ケ丘駅前では秋に「ラスカル子ども映画祭」があり、市経済観光課は「『ひのたま』を通じて日野市民にもラスカルを身近に感じてもらい、映画祭にも足を運んでもらえれば」と期待する。

 両市はラスカルや新選組を、地元を特徴づけるコンテンツと位置付け、内外にアピールする。日野市シティセールス推進課は「根強いファンが多い有力なコンテンツを協力して発信し、観光振興や新住民の獲得につなげたい」と話している。

新潟
戊辰戦争死者に鎮魂の祈りを 150周年記念、7月14日に合同慰霊祭 上越市に福島・白河市伝書 /新潟
キャラバン隊「釜子道中記」逆コースで届ける
 福島県白河市から上越市に7日、戊辰戦争150周年を記念して白河市で7月14日に開かれる合同慰霊祭への参加を促す「伝書」が徒歩で届けられた。白河に高田藩の飛び領があった縁で、代表者が7日間かけて350キロ歩いてきたという。【浅見茂晴】

 白河市は、白河戊辰150周年記念事業実行委員会を設置。関係する全国17市にキャラバン隊を仕立てて、合同慰霊祭への参加を呼びかけている。

 この日、キャラバン隊の一行は高田城三重櫓に入り、白河市長が上越市長に宛てた伝書を上越市の影山直志・自治・市民環境部長に手渡した。同実行委の人見光太郎会長は「白河は両軍の戦死者をまつってきた。どうか鎮魂の気持ちをささげに来てほしい」と述べた。

 歩いて伝書を運んだのは有賀一裕さん(36)。江戸時代、高田藩士が高田から飛び領の白河市東釜子までを歩いた旅行記「釜子道中記」にならい、道中記と逆のコースを踏破してきたという。有賀さんは「山越えは苦しかったが、先人が伝えた文化をつなげていきたい」と話した。

 戊辰戦争時、白河では明治新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が約100日間の激戦を繰り広げ、両軍合わせて約1000人の犠牲を出した。高田藩は新政府側に立ったが、混乱の中で連絡が届かず、飛び領にいた藩士は奥羽越列藩同盟側で戦い、27人が戦死した。白河市民は両軍の犠牲者を分け隔てなく弔い続けている。


京都
幕末・維新をゆく長谷川家住宅=京都市南区 会津軍の緊迫、日記や柱の傷に
 <ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>

 かつて京の都に入る南の玄関口だった東九条地区にある「長谷川家住宅」(京都市南区)は江戸時代の農家建築として国の登録有形文化財に指定されている。幕末には藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職にあった会津軍の部隊が宿泊し、挙兵した長州軍と戦った。座敷の柱には戦闘に赴く兵士の武具がこすれたとされる傷が残る。座敷に置かれたたんすなどの家具類は江戸や明治の良品。住宅に残る古文書が幕末を中心に地区の知られざる歴史を解き明かしつつある。【高村洋一】

 代々庄屋だったこの家は新築時の棟札から1742年に建てられたとされ、築270年を超える。一帯はかつての農村地帯で、築200年を超える農家が更に残っている。

 土蔵のたんすから9代当主の長谷川軍記が1822(文政5)年から1871(明治4)年までに書いた日記が見つかったのは3年前。中村武生・京都女子大非常勤講師らが解読している。長州軍が会津や薩摩などの幕府側に敗れた「蛤(はまぐり)御門の変(禁門の変)」が起きた1864(元治1)年の夏には京都御所を守る会津藩の軍勢が1カ月余り宿泊した。長州軍が布陣した伏見付近から大砲の音も聞こえた。

 蛤御門の変のあった旧暦7月19日には当時の東九条村で新選組が長州軍の部隊と戦った。「鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」と日記に書かれている。藩の屋敷があった伏見から京都御所に向かうのに長州勢が通ると想定し、住宅の南約500メートルの鴨川に架かる勧進橋(当時は銭取橋)で新選組が待ち構えていたという。

長谷川家住宅などに宿泊していた会津軍の隊列を描いた絵巻(複製)=京都市南区東九条東札辻町で、高村洋一撮影
 裕福だった長谷川家は歴代当主の多くが絵筆を握った。特に11代目の長谷川良雄(1884~1942)が描いた水彩画は鴨川周辺など、当時の京都の風景を伝える。収蔵作品のうち約15点が2階ギャラリーに展示されている。良雄の父清之進は会津軍の隊列を精密に描いた絵巻を残し、複製が展示されている。座敷のふすまには幕末から明治にかけての京都の文人、江馬天江(えまてんこう)の書や水墨画も見られる。

 住宅の保存にあたっている一般財団法人「長谷川歴史・文化・交流の家」代表理事の中川聡七郎さん(82)は良雄の娘婿。「戦後の農地改革で長谷川家は大半の土地を奪われ、生活の糧を失った。今はやっとの思いで歴史遺産を守っています」と話した。


長谷川家住宅(京都市南区東九条東札辻町)
長谷川家住宅
 毎週土・日曜の午前10時~午後4時開館(夏季と冬季に休館あり)。入館料一般600円、小学生300円。京都市営地下鉄烏丸線十条駅を東へ。竹田街道の1筋東を北へ約100メートル。12日午後2時、ソプラノコンサートを開く。入場料1000円。問い合わせは「長谷川歴史・文化・交流の家」(075・606・1956)または中川さん(090・9774・4858)。
山口
直木賞作家の古川薫氏死去…幕末維新の志士描く
 幕末維新の志士らを生き生きと描いた歴史小説で知られる作家の古川薫(ふるかわ・かおる)さんが5日、血管肉腫で死去した。92歳だった。

 告別式は7日午前11時、山口県下関市楠乃2の551の115下関典礼会館。喪主は長男、貴温(きみはる)氏。

 下関市生まれ。山口大教育学部を卒業し、中学教師を経て山口新聞に入社。記者や編集局長を務めた。その傍ら小説を執筆し、1965年、「走狗」が直木賞候補になった。70年に退社して専業作家となり、「塞翁さいおうの虹」「野山獄相聞抄」など幕末維新ものを中心に次々と同賞候補に挙がった。91年、山口県出身のオペラ歌手、藤原義江の生涯を描いた10回目の候補作「漂泊者のアリア」で直木賞を受賞。最多候補歴での受賞が話題になった。

コラム
一番好きな“土方歳三”キャラクターは? 3位「ゴールデンカムイ」、2位「銀魂」、1位は…
本日5月11日は新選組副長・土方歳三の命日です。1869年、戊辰戦争の五稜郭にて新政府軍の狙撃を受けて帰らぬ人となります。享年は34歳でした。

アニメでも土方歳三は人気キャラクターの一人です。さまざまなアニメに彼をモチーフとしたキャラクターが登場します。史実に忠実であったり、大胆なアレンジが加えられていたり…、そんな土方キャラの中で最も人気なのは何の作品なのでしょうか。

そこでアニメ!アニメ!では、「一番好きな“土方歳三”キャラクターは?」と題した読者アンケートを実施しました。5月6日(日)から5月8日(火)までのアンケート期間中に1756人から回答を得ました。
男女比は男性約15パーセント、女性約85パーセントと女性がメイン。年齢層は19歳以下が約38パーセント、20代が約32パーセントと若年層が多めでしたが、30代も約18パーセントと幅広い票が集まりました。

過去アンケート「いちばん好きな新撰組キャラは?」も要注目!
https://animeanime.jp/article/2018/02/27/36908.html

■トップは『薄桜鬼』 その生き様に絶賛の声!
1位は『薄桜鬼』。支持率は約33パーセントでした。『薄桜鬼』シリーズはオトメイトから発売された恋愛アドベンチャーゲームが原作。幕末時代を舞台に、主人公の雪村千鶴と新選組メンバーの交流を描いており、ゲーム、アニメ、ミュージカルなどマルチメディアで人気を博しています。

本作の土方歳三は「鬼の副長」の二つ名に相応しく、厳しい性格の持ち主。しかしそれも新選組を鍛えるためのことであり、実際は誰よりも隊員想いの人物です。ファンからは「生き様がカッコイイ!」といった声が多数寄せられました。中には『薄桜鬼』シリーズをキッカケに歴女になったという人もいるほど。「いちばん好きな新撰組キャラは?」のアンケートでも上位に輝いた人気キャラが、その強さを証明しました。

2位は『銀魂』。支持率は約32パーセントで、トップとの差はごくわずかでした。本作に登場するのは土方歳三ではなく、彼をモデルにした土方十四郎。クールでイケメンですが、あらゆる料理にマヨネーズをかけまくるという変わった味覚の持ち主。マヨラーというほかの土方キャラにはありえない設定のためか、「カッコ良くて面白い」といった投票が集まりました。

3位は『ゴールデンカムイ』。支持率は約6パーセントでした。本作は明治時代の北海道を舞台にした人気コミックが原作。主人公・杉元佐一がアイヌの少女・アシリパとともに隠された金塊を探すというストーリーです。この時代、史実ではすでに亡くなっていますが、『ゴールデンカムイ』では意外なかたちで姿を現わします……。TVアニメ放送中の話題作がトップ3に入りました。

今回のアンケートではアニメはもちろん、マンガ、ゲームと幅広い作品に票が集まっています。『薄桜鬼』シリーズのように舞台化、ミュージカル化された作品も多く、あらゆるメディアで土方歳三は人気であることが分かりました。命日を機に、それぞれの作品で描かれる土方たちを再確認したくなる結果でした。

■ランキングトップ10
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]

1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
次ページ:ランキング20位まで公開
■ランキングトップ20
[一番好きな“土方歳三”キャラクターは?]
1位 『薄桜鬼 ~新選組奇譚~』
2位 『銀魂』
3位 『ゴールデンカムイ』
4位 『新撰組異聞PEACE MAKER』シリーズ
5位 『Fate/Grand Order』
5位 『幕末Rock』
7位 『DRIFTERS』
8位 『刀剣乱舞-ONLINE-』
9位 『風光る』
10位 『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
11位 『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』
12位 『北走新選組』
13位 『龍が如く 維新!』
14位 『イケメン幕末 運命の恋』
14位 『銀河烈風バクシンガー』
14位 『艶が~る』
17位 『茜さすセカイでキミと詠う』
17位 『とってもひじかた君』
19位 『あさぎ色の伝説』
19位 『幕末恋華 新選組』
※原作表記

(回答期間:2018年5月6日(日)~5月8日(火))
 1位『薄桜鬼』2位『銀魂』は近年不動だと思いますが、3位に『ゴルカム』のジジイ土方がキタのは作品に勢いがあるからでしょうね。4位『ピスメ』土方を抜いた感があります。5位『幕ロ』土方がついたのはファンとして嬉しい限り、誠仮面という意外性のあるキャラのパワーも加わっているかしら(「私は誠仮面ではない」って主張してる誰かさんの声が聞こえてくる気が)。
 『ちるらん』『北走』の間に『修羅の刻』が来てるのも興味深いです。『バクシンガー』とか『とってもひじかた君』とか『あさぎ色の伝説』とか旧い作品のファンが根強くいることも、嬉しいですねぇ。
ここのところ暑すぎたり寒すぎたりしたりして天候不順ですが、今日は初夏らしく爽やかな天気ですね。土方さんが生まれた日は新暦に直すと6月ですが、梅雨の晴れ間のこんな天気だったのでしょうか。
 昨夜NHK『英雄たちの選択』で土方歳三さん回の再放送していました。磯田道史さんが監修してますし、函館の二股口でのロケにも〜さんが出演するので昨年末に放送されてから保存しているのですが、改めて拝見。先日日野宿本陣で久しぶりに解説に聞いたことも思い出していたのですが、土方歳三の洋式戦法での優れたセンスを語る時に豪農出身だったことよりも姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎の名主としての生活環境に触れていたことにもっと注目した方がいいと思いました。甲州街道の宿場町で、常時馬や人足(特に日野宿は多摩川の万願寺の渡しを管理している)を抱え、日銭を管理する名主だったことが、土方さんのマネジメントセンスの基礎となっていただろうと思うのです。

福島
<戊辰戦争150年>無念の最期に思い寄せて 犠牲となった女性たち慰霊 会津若松で碑前祭
 戊辰戦争で犠牲になった230人を超える会津藩の女性を追悼する「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、会津若松市北青木の善竜寺であった。
 顕彰活動を続ける嫋竹(なよたけ)会が主催し、会員や地域住民ら約200人が参列。吉田幸代会長(81)は「戊辰戦争150年の今年は碑建立から90年を迎える。先人に思いを寄せ、多くの人に関心を持ってほしい」と祭文をささげた。近く、参道周辺に新たな案内板を設置することも報告した。
 読経、焼香の後、市謹教小の児童が歌い継ぐ「なよたけの歌」を奉納。葵高の女子生徒15人が舞踏や剣舞を披露し、郷土のために命を落とした女性たちの霊を慰めた。
 戊辰戦争では会津藩士の妻や娘が犠牲になった。足手まといにならないようにと自ら命を絶った女性も少なくなかったという。
 碑は1928年建立。関係者が犠牲者を調べ、判明した233人の名前が刻まれた。「なよたけ」は一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子の辞世の句から取った。


愛知
尾張音楽史幕末~昭和を追体験 6週連続で講演付き演奏会 11日から一宮 /愛知
 芸どころと言われる尾張名古屋の音楽は、幕末から昭和にかけてどう変遷していったのか--。こんなユニークな視点の6週連続の講演付き演奏会「尾張音楽史」が、11日から一宮市木曽川町内割田の市木曽川文化会館(尾西信金ホール)で開かれる。【長倉正知】

 一宮市市民会館の自主企画で、愛知県立芸術大(長久手市)が協力した。同大芸術創造センター長の井上さつき教授(62)は「尾張というと音楽とは縁遠いイメージがあるが、全然違います」と話す。1回90分のうちテーマに沿った講演と、関連する生演奏が半々になるという。

 テーマは(1)11日「尾張の雅楽」(2)18日「唱歌のはじまり」(3)25日「和洋合奏の楽しみ」(4)6月1日「第三師団軍楽隊の活躍」(5)8日「戦前の名演奏家の時代」(6)15日「鈴木政吉と鈴木弦楽四重奏団」--。講師は(1)は寺内直子神戸大学教授、(4)は丹下聡子県立芸大非常勤講師で、それ以外は井上教授が務める。主に県立芸大の関係者が演奏する。

 「明治に西洋音楽が日本に入ってきて学校で唱歌を教えるようになったが、それを担ったのは雅楽の奏者でした。時系列に沿って西洋音楽がどう展開していくかを分かりやすく解説します」と井上教授。(1)の雅楽は真清田神社(一宮市)の真清伶人会が演奏する。(2)では尾張藩の楽人が作った唱歌や愛知県唱歌などを披露する。(3)では明治から大正にかけてバイオリンがブームになり、琴や尺八と合奏して楽しんだ状況を紹介。(4)と(5)で、名古屋の軍楽隊や、名古屋を訪れた世界的な名演奏家が音楽普及に果たした役割などを明らかにする。

 (6)は明治時代にバイオリン製造を手がけ「日本のバイオリン王」と呼ばれた名古屋の鈴木政吉と、その三男で音楽教育法「スズキメソード」の創始者、鎮一が弟たちと結成した鈴木クワルテットについて語る。海外で評価の高かった政吉のバイオリン(1929年製、県立芸大所蔵)も、いずれかの回で演奏に使う予定という。

 「音楽史というほど難しくないし、当時の人が楽しんだ音楽を追体験できる面白い企画」と井上教授は来場を呼び掛ける。企画を立案した同会館の大嶋英司館長(43)は「音楽を通して埋もれた文化を見直すことで、地域の発展につなげたい」と狙いを話す。

 「尾張音楽史」は毎回午後2時開演。料金は各回800円(全席自由)。一宮市民会館(0586・71・2021)や市木曽川文化会館(0586・86・7581)などでチケットを販売中。

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

幕末・維新をゆく妙国寺=堺市堺区 「堺事件」11人切腹の地
<ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>
 新政府軍と旧幕府軍がぶつかった戊辰戦争のさなか、堺で新政府の今後を左右しかねない事件が起きた。堺の警備を担った土佐藩士がフランス水兵を銃撃した責任を問われ、11人が切腹した「堺事件」。その現場は、室町時代に創建された名刹(めいさつ)、妙国寺だ。壮絶な死を遂げた土佐藩士の足跡を訪ねた。【谷田朋美】
 事件は1868年2月、鳥羽伏見の戦いの直後に起こった。堺を警備中の土佐藩士が、海岸の測量をしていたフランス海軍の水兵とトラブルになり、銃撃して11人の死者が出た。新政府は、「全員打ち首にせよ」とのフランス側の要求を受け入れて、発砲した藩士ら20人に切腹を命じた。

切腹した土佐藩士と、フランス水兵を慰霊する碑が境内に建つ。月命日には今も供養がある=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 妙国寺の門をくぐると、色鮮やかな本堂に迎えられた。第二次世界大戦で焼失し、敷地が縮小。切腹した場所は現在、住宅地となり、境内には慰霊碑が建つ。地元の市民らでつくる「堺事件を語り継ぐ会」事務局長の呉竹正さんは「切腹は上級武士だけの特権。屈辱的な要求の中で、新政府は切腹だけは譲らなかった」と話す。

 土佐藩士はなぜ、銃を持たないフランス水兵に発砲したのか。当時、堺は例外的に外国人の遊歩が認められていた。一説には、急きょ派遣された土佐藩士はそのことを知らされていなかったとも。通訳がおらず意思疎通できなかったことは事件を招いた一因だろう。しかし詳しい経緯は分かっていない。高知県立歴史民俗資料館学芸課長の野本亮さんは「資料がほとんど残っていない。意図的に処分された可能性はある」と話す。

 「開国する皇(みかど)の方針を妨げた」とされた土佐藩士。野本さんは「新政府の指導者らは攘夷から開国に急に方針転換した。下の者が簡単に思想を変えないことは分かっていた」と指摘する。発砲から切腹までわずか8日間。新政府が決着を急いだことがうかがえる。


切腹した11人と橋詰愛平の墓=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 ソテツの枯山水を右手に眺めながら、本堂の廊下を進むと、突き当たりに、戦火を免れた遺品約30点が並ぶ宝物資料館がある。まず目に入るのが、遺髪20人分の束だ。実際に切腹したのは11人。立ち合ったフランス側が途中で中止を申し入れたからだ。

 切腹の際、隊長の箕浦猪之吉が腰にあてて支えにしたという「三方」には、大量の血の痕が残っていた。切腹の際、飛び出した自分のはらわたをつかみ、居並ぶフランス水兵に向かって投げつけたという話は有名だ。

 妙国寺の向かいの宝珠学園幼稚園の敷地には11人の墓があり、特別に見学させてもらった。11基の墓のわきにもう1基、墓があった。「12番目に切腹する予定だった橋詰愛平の墓。自殺未遂した後、墓守に一生をささげた」と呉竹さん。橋詰ら生き残った9人は流罪となり、明治天皇の即位で恩赦に。精神を病むなど、多くは苦難の人生を歩んだという。


妙国寺(堺市堺区)  ※地図
 「潔く勇敢」「軍人の鏡」「平和に反する」……。彼らほど、時代に評価が左右されてきた維新の志士も珍しい。野本さんは「十分な検証がされてこなかった」として、妙国寺と連携し、遺品調査などを進めてきた。高知県立歴史民俗資料館では1~3月、堺事件を多角的に検証する企画展が開かれた。堺市でも呉竹さんらが「堺事件を語り継ぐ会」を結成した。明治維新150年を機に、堺事件に改めて向き合う機運が高まっている。
岡山
幕末の名刀近藤勇が愛した「乕徹」など9本披露 20日まで、県立博物館 /岡山
 今年が明治元年(1868年)からちょうど150年目であることにちなみ、新撰組・近藤勇の愛刀として知られる「乕徹(こてつ)」など、幕末から明治維新の時期に関わりの深い名刀が県立博物館(岡山市北区)で展示されている。20日まで。

 同館によると、幕末から明治維新の時期は、日本刀が実際に武器として使われており、江戸時代などに比べて実用性が重視された造りが特徴。今回は同館が保管・所蔵する9本がお目見えした。国の重要文化財の乕徹に加え、刀の名産地として知られた備前長船(現・瀬戸内市)の刀工たちの作品や名刀を擬人化したオンラインゲーム「刀剣乱舞」に登場する「加州清光」などを見ることができる。
 刀身だけでなく、鞘(さや)や柄、つばなどの凝った意匠に注目した展示や、レプリカで日本刀の重さを実感できるコーナーもある。

 大人250円ほか。月曜休館。12日午後2~3時に学芸員による展示解説もある。【林田奈々】

高知
幕末の軌跡、史料でたどる 高知県北川村の慎太郎館で企画展
 高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で、館所蔵の史料で幕末維新の転換点となった出来事を振り返る企画展「収蔵品でたどる幕末維新史」の第1部が開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で6月25日まで。

 第1部は、幕末の動乱が始まったペリー来航(1853年)から、三条実美ら急進的攘夷派の公家7人が京都を追われ、慎太郎脱藩の契機ともなった「八月十八日の政変」(1863年)までを史料46点でたどる。...
 以下、有料記事。



コラム
幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか?
河合 敦 歴史研究家
多摩大学客員教授
江戸幕府は、各藩の教育には口をはさまなかった。だから藩によって士風が大きく異なったことは、前回、薩摩藩と会津藩を例に詳しく述べた通りだ。

(前回の記事『江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」』はこちら)

今回は、その第二弾として、庄内藩(山形県鶴岡市)を取り上げたいと思う。

江戸時代のリベラル教育
庄内藩は、現在の山形県鶴岡市を本拠地とする東北地方の藩で、小説家、藤沢周平の作品にしばしば登場する「海坂藩」のモデルとしてご存知の読者もいるかもしれない。

厳しい封建制度が基本の江戸時代において、史実の庄内藩は、領民をかなり手厚く保護し、領民もこれに感謝の念を抱いていた。こうした庄内藩のユニークな風土は、その藩士教育の影響がきわめて強いと思われる。

前回紹介した二藩がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主の酒井忠徳の強い希望で創建されたが、次代(十代藩主)の酒井忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、ときには会議や裁判もおこなわせた。

その理由について忠器は、「藩政にかかわる施策や方法は、学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」と述べる。このように、政教一致という変わったスローガンをとなえたのだ。

さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置した。

なんともユニークな思考だが、致道館の教育も、他藩と違った特徴を持っていた。教育の柱を幕府が正学と認めた朱子学ではなく、徂徠学としたことである。

当時、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、朱子学以外の学問を異学として禁止していた。そのため諸藩もこれにならい、朱子学を中心に教育をおこなう藩校が激増する。そんな中、庄内藩はこの流れに逆らい、徂徠学を中核にすえたのである。

理由はいたって簡単で、藩の重臣に徂徠学を学んでいる者が多かったからだ。

徂徠学とは何か
徂徠学とは、荻生徂徠が十八世紀前半に提唱した学派で、古文辞学とも呼ばれる。その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、徂徠は将軍徳川吉宗にその著書『政談』を献上するなど、経世論(政治学)にも重点を置いていた。

文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。

初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)

と依頼したのである。

原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。

「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが致道館の方針だった。いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

こんなに自由だったとは
徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

館内での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたが、それはあくまで原則で、「格別の訳これある節は、祭酒、司業沙汰に及ぶべきこと」という但し書きが付けられており、校長や教頭に一言いえば、酒を飲んでも、煙草を吸っても大丈夫だったというのだから、驚くばかりだ。

しかも、こうした放任主義教育が、武士の質を低下させたかと言えば、決してそうはならなかった。むしろ、このようなユニークな致道館の教育を受けた庄内藩士は、それぞれの個性を存分に伸ばし、己の判断で行動できる役人として、藩に忠勤するようになった。

だがそんな庄内藩は、明治維新で図らずも朝敵になってしまう。
庄内藩がここまで強かったワケ
慶応三年(1867)末、西郷隆盛は徳川家を武力で倒すため、江戸に浪人たちを送り込んで、市中で乱暴狼藉を働かせて新政府に挙兵するよう徳川を挑発した。このとき江戸の治安を守っていた庄内藩は、それに乗って薩摩藩邸を焼き打ちしたのである。こうしたこともあって、戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

昨年から今年にかけて、新しい小中高の学習指導要領が発表された。学習指導要領は、各教科の目的、教えるべき内容などが記されている、いわば教育課程の大綱的基準である。

新しい学習指導要領が目指すものは「主体的・対話的で深い学び」の実現である。子供たちが自ら意欲をもって学習に取り組み、周囲の人々との対話や協力を重ねながら、自らの力で問題点を見いだして解決策を考えたり、自分の構想を効果的に説明したり、議論する力を身につけさせることである。

そうした人材を育てなければ、人口減少、グローバル化、人工知能の発展など、予測不可能な時代に対応できないと政府は判断しているのである。

けれど今述べたように、すでに同じような教育活動が、江戸時代の庄内藩で実施されていたのである。

歴史には叡智が詰まっている。私たちはもっと過去の日本を知り、そこから智慧を拾って、未来に向けた解決策を見いだすべきではないだろうか──。
福島
戊辰戦争「東軍」足跡たどる宿札 会津若松・歴史資料センター
 会津若松市の歴史資料センター「まなべこ」で、戊辰150年を記念した常設展「会津藩士の戊辰戦争」が、28日から始まる。長岡城の落城後、藩主の牧野忠訓(ただくに)が会津に逃れるためにたどった道のりを明らかにする「宿札」などを初公開。当時の様子を物語る資料を展示し、会津藩をはじめとした東軍の足跡をたどる。来年1月20日まで。

 27日に、内覧会が開かれた。宿札は大名などの宿舎に掲げられたもので、金山町の個人宅で所蔵していた宿札には、忠訓の宿舎であることを示す「牧野備前守様御宿」とあり、裏面には「慶応4(1868)年5月26日」と記されていた。忠訓が若松城下を目指す途中、金山町に宿泊していたことは文献などから分かっていたが、同市教委文化課の近藤真佐夫主査は「混乱のさなかで書かれた文字資料は誤っている場合もあり、裏付けとなる物証は貴重だ」と評価している。このほか、西軍が使用したアームストロング砲や山本八重も手にしたというスペンサー銃の模型も展示され、手に触れることもできる。

 入場無料。時間は午前9時~午後5時(入場は同4時30分まで)。毎週月曜日休館(月曜日が祝日の場合は翌平日)。

東京
東京都 品川にある、幕末に知られた土佐・長州の偉人のお墓を紹介
史跡巡りをしていると、思わぬところで有名人のお墓に出くわすことがあります。今回は都内品川にある、幕末に知られた土佐・長州藩士や大名の墓を紹介します。

板垣退助の墓
襲撃されたときに発した「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、元土佐藩士で自由民権運動の父、板垣退助。

彼の墓は京浜急行電鉄の「新馬場駅」からすぐ、品川(ほんせん)神社の裏手にあります。江戸時代は広く江戸を見渡せたという高台にあり、富士山を模した「富士塚」があり大変賑わいました。一見しただけではわかりにくいのですが、社殿の右手に小さな案内板が立っており、なかば訝しんで裏手に回ると、本当に板垣退助の墓があります。

仏教式の墓石ですが、周りには寺はありません。何故ぽつねんと墓だけがあるのかというと、元々は高源院という寺の敷地だったのですが、関東大震災後に世田谷区へ移転してしまったのだそうです。大正8年(1919年)に寺に葬られた板垣の墓は、そのまま残されました。

すぐ目の前は崖になっていて、眼下には民家の屋根が見えます。今は木々の葉陰に空が見える程度ですが、昔は見晴らしがよかったのだと思います。手前には佐藤栄作の揮毫した「自由は死なず」の石碑もありました。

品川神社には、小さいながらも貴重なものばかり収蔵されている宝物殿があり、幕末三舟と言われた勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の揮毫した掛け軸などもありますので、幕末の息吹を感じること間違いなしです。


山内容堂の墓
旧東海道の「品川宿」を出てすぐの鮫洲駅近くの小高い丘に、「山内豊信(容堂)墓」はあります。

山内容堂は土佐藩15代藩主。幕末の四賢侯と称された人物でしたが、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と西郷隆盛ら周囲の志士に揶揄されたように、心から倒幕に賛同していたわけではなかったようです。

明治維新後は内国事務総裁に就任しましたが、かつての下々の者と馴染めず明治2年に辞職。隠居後は妾を十数人も囲い、酒と作詩に明け暮れる日々を送りましたが、長年の痛飲が祟り46歳の若さで脳溢血に倒れ亡くなりました。明治5年(1872年)のことです。

墓所は遺言により「大井村の下総山に葬れ」ということで、かつての土佐藩下屋敷である現・大井公園に葬られました。周りには寺社もなく、本当にお墓しかありません。敷地は幼稚園と隣接しており、墓の向こうには金網越しに遊具が見え、草も生い茂り、かつての名君の墓とはとても思えない雰囲気です。

酒豪ぶりで鯨酔公とあだ名されたほど大酒飲みだった容堂。同じ旧東海道沿いにある「品川利田神社」では、鯨碑があり、なんとなく鯨という言葉に因縁めいたものも感じます。

画像出典:ウィキペディア

伊藤博文の墓
説明不要とは思いますが、元長州藩士で初代内閣総理大臣になった人物。歴史上、吉田松陰の松下村塾の門下生としても知られており、安政4年(1857年)に17歳の時に入塾し、後々尊皇攘夷運動に身を投じました。

文久2年(1862年)には、高杉晋作らとともに、品川の御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに参加したほどの過激派でしたが、藩命でイギリスへ密航し現地の大学で学んだあとは、一転して開国派になります。

墓はJR西大井駅の北口から徒歩2分、西大井緑地公園のすぐ裏にあります。独立した神式の墓所で、鳥居があり、その奥には円墳の墓があります。右隣には梅子夫人の墓もあります。

別邸が現在の品川区大井三丁目付近にあったことから、国葬後、近い場所に墓所が造られたとのこと。ちなみに伊藤博文の別邸は、平成10年に解体されたのち一部が山口県萩市に移されています。

画像出典:筆者撮影、無料写真素材 写真AC

いかがでしたか?遠く長州・土佐から離れ、奇しくも品川に葬られることになったかつての名士たち。品川近辺に集中しているので、一日でお参りに行くことも出来ます。

志士とかつての名君がたどった数奇な人生の顛末に思いを馳せながら、お参りしてみてはいかがでしょうか。

GWは幕末の“物語グルメ”をご賞味あれ!
■ ドラマチックな出来事やエピソード込みで味わう

待ちに待ったゴールデンウィーク。今年の大型連休は、明治維新150周年の節目にちなんで、幕末維新のグルメ三昧はいかが? それもただのグルメじゃなくて、ドラマチックな出来事や人物のエピソード込みの“物語グルメ”を味わっちゃおう!

最初にご紹介するのは、壺屋総本店の最中。東京メトロ本郷3丁目駅の近くに店舗を構えるこちらは、江戸根元を掲げる和菓子の老舗で、寛永年間から江戸の人々に愛され続けてきた。この店とゆかりが深いのが、江戸城無血開城でおなじみの勝海舟だ。

慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いに勝った後、薩長を軸とする倒幕勢は徳川慶喜と旧幕府軍を討伐するため、続々と江戸に迫ってきた。この時、勝海舟は無用の戦争を避けて江戸の町を救うべく、倒幕側の西郷隆盛と会談した。これが有名な無血開城の談判で、江戸は戦火から守られることになったが、もう一つ、勝が守ったものがある。それが壺屋なのだ。

明治維新を迎える直前のこの頃、江戸の大店はもちろん昔から徳川びいきで、「薩長の連中に江戸の粋がわかるか!」と廃業してしまうところが多かった。壺屋も暖簾を下ろそうと考えていたところ、この店をひいきにしていた勝海舟が「人々は壺屋の菓子を食べたいと言っているんだから、諦めずに続けるように」と店主を鼓舞。「神逸気旺」と書いた書を贈った。神力に頼らず、己れの気で乗り切れ、という意味だ。このおかげで壺屋は廃業することなく、今、名物の最中を味わえるのも、勝海舟のおかげなのだ。

お次は船橋屋のくず餅。JR亀戸駅から錦糸町方面へ徒歩10分、梅まつりと藤まつりで有名な亀戸天神に寄り添うようにしてこのお店がある。ゆかりの幕末の人物は、江戸城無血開城のもう一人の立役者・西郷隆盛だ。

西郷どんといえば上野の像や肖像画からもわかる通り、ちょっぴり、いや、でっぷり太めの体型でおなじみ。医者からもダイエットを薦められ、狩りや温泉を趣味としたのも体のことを考えていたから。その狩りの休憩に立ち寄ったといわれるのが船橋屋で、お気に入りはくず餅だった。

くず餅はたしかにカロリー低めだけど、当時も現行商品のように黒蜜をかけて食べていたのだとしたら、あまりダイエットにならないのでは……? まあ、心もでっかい西郷どんは、細かいことは気にせず、この甘さと食感に狩りの疲れを吹き飛ばしたのでしょう。

■ あの有名店にも有名な幕末“物語グルメ”あり!

GWには普段にも増して多くの人で賑わう東京観光のメッカ、銀座。GINZA SIXができたこともあり、国内外の人々が訪れるその銀座の中心にも、幕末維新の人物ゆかりのスイーツがある。

銀座四丁目の交差点からほど近い、木村屋銀座本店のあんぱんだ。スーパーやコンビニでも見かけるキムラヤのパンでおなじみの、あのキムラヤの木村屋である。看板商品『酒種あんぱん』が大好物だったのが、剣の達人にして書の達人、さらに禅に深く傾倒した人格者、そして江戸城無血開城の影の功労者・山岡鉄舟だ。奇しくもまたも無血開城がらみの人物になってしまった。

木村屋の創業者・木村安兵衛は元武士で、剣術を通じて鉄舟と知り合い、親交を深めたという。明治維新を境にパン作りに励み、西洋風ではない、日本人の口に合うパンを試行錯誤する中、試作品を鉄舟に食べさせてみた。これに鉄舟大感激! その後ほぼ毎日食べるようになるほどの大好物になった。

それが酒種を生地に練り込んだオリジナルのあんぱんで、山岡鉄舟の薦めで明治天皇への献上品となり、御用達となり、現在まで続く人気商品になったのだ。

幕末の“物語グルメ”といえば、和菓子のとらやも忘れちゃいけない。この記事を執筆している現在、赤坂の本店はリニューアル中だがご安心。とらやは商品を国内外に展開しているので、お取り寄せは容易だ。

このとらやにまつわるエピソードを遺しているのは、江戸幕府の14代将軍・徳川家茂。大の甘党で、ほぼすべての歯が虫歯だったというスイーツ・タイクーンが愛したのが、羊羹『夜の梅』である。家茂が数多くの菓子を注文していたことが、とらやの帳簿に記されていて、中でも『夜の梅』がお気に入り。幕府と朝廷が一致協力して国政にあたるべし、という公武一和の政策を進めたかった家茂は、奥さんの和宮の兄・孝明天皇にこの羊羹を贈っている。

『古今集』の一首「春の夜の 闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」に詠まれた梅に見立てたこの羊羹。時の将軍と天皇は、同じ味を楽しんで公武一和を成し遂げようとしただろうか。

■ まだまだあるよ! あの人物ゆかりの“物語グルメ”

東京メトロ押上駅から徒歩15分、桜の名所、長命寺の裏手の隅田川沿いに、桜餅の元祖、長命寺桜もちがある。こちらの『桜もち』に、かわいらしくてどこか切ないラブストーリーを与えたのが、徳川幕府のキレ者で老中首座の阿部正弘だった。

幕末の頃、このお店の看板娘・おとよはたいそうな美貌で知られ、ひと目見たさに客が行列をなしたというほど。歌川国貞の『江戸名所百人美女』のモデルにもなったおとよに、現代の総理大臣ともいうべき阿部正弘がひと目惚れしてしまった。母のために桜もちを買いに立ち寄った時、ズキュンと胸を射抜かれたのだ。その後も足しげく通いながら、しかしなかなか声をかけることができない阿部さん。権力にモノを言わせるタイプじゃないのだ。

そんな折、徳川御三卿の一人・田安慶頼もおとよを狙っているとの噂が耳に入り、ついに心を決めた阿部さんは、おとよの父に直談判。側室に迎え入れることができた。しかしその翌年、阿部正弘は病気で急死してしまう。幕府トップと看板娘の、ほんのわずかな時間のロマンスが、この桜もちの隠れた味わいなのだろう。

■ 幕末至高の食通&スター志士の“物語グルメ”

次にご紹介するのは、JR王子駅の近くにある扇屋の『厚焼き玉子』だ。幕末の頃は江戸近郊有数の避暑地として知られた王子権現で、茶店として営業していた扇屋(現在は店頭販売のみ)を、清河八郎がベタ褒めしている。

清河は新選組結成のきっかけを作った人物で、将軍・徳川家茂が上洛する際、その警護を目的に幕府に浪士組を作らせ、ここから新選組ができた。だが、清河本人は勤王家で攘夷主義者であり、京都に到着するや否や浪士組を丸ごと反幕府の組織にしようとする。この経緯から、新選組ファンには悪役のように映る人物である。

しかしそんな清河が、お母さんを連れて「日本“ほぼ”一周旅行」をしたことはあまり知られていない。ちょっと長くなるが、おもしろいのでご紹介しよう。嘉永7年(1854)11月、江戸で念願の私塾を開いたものの、すぐに火事で焼失してしまった悲しみを癒すため、そして母親孝行のため、清河は故郷の出羽庄内清川村から、日本“ほぼ”一周の旅に出た。越後を通って信濃の善光寺から名古屋、松坂に出てお伊勢詣りをし、大坂、京を見物して兵庫から備前岡山、四国に渡り、讃岐の金毘羅さんを参って、多度津から瀬戸内海を遊覧、安芸の宮島、岩国の錦帯橋を観光して帰路についた。この旅の途中、播磨では有馬温泉につかり京では天橋立を眺め、名古屋では七代目市川海老蔵の芝居を観覧し、江戸でも芝居三昧、グルメ三昧し、清川村に帰った。全旅程、お母さんを連れて。帰りの道中も日光や中禅寺湖を楽しみつつ……。

幕末の志士は現代人には想像もつかないほど、旅また旅の人生を送った者が多かったが、清河八郎はその中でもおそらく随一のトラベラーだ。この旅の前の嘉永3年には、九州限定旅をして諸国を遊歴済みで、同5年には蝦夷地にも行っているから、まあ日本全土コンプリートしたと言っていいだろう。ともあれこの母同伴の旅の様子を、自著『西遊草』に克明につづっている。文章がとても平易なのは、母が老後の楽しみに読めるようにとの気遣いだ。どこか怖さと暗さのある「策士」のイメージが強い清河だが、親想いのこんなハートフルな一面もあったのだ。

トラベラー清河は全国のうまいものを食べ歩いた、幕末屈指の食通でもあった。『西遊草』には各地のグルメ話も満載で、王子権現のくだりに「殊に海老やと扇やは別して美々敷」と絶賛されている。江戸の町は騒々しくて何事も手狭だが、扇屋では「滝の川」の水音を枕に酒と食を楽しみ、お湯も浴び、「悠然と八ツ頃まで休游いたし」た。くつろぎすぎて日が暮れてしまい、残りの遊覧予定が忙しくなってしまった、と。

扇屋は幕末の頃から西洋人や外国公使も利用し、維新後には洋館に建て替えられてさらに賑わったが、建物は惜しくも太平洋戦争で焼失してしまった。しかしその味は、今も玉子焼きに受け継がれている。

最後は幕末最大のスター志士・坂本龍馬の“物語グルメ”だ。京急線浦賀駅からバスで「紺屋町」まで行き、そこから徒歩数分、精栄軒本店にたどり着く。ここの看板商品が坂本龍馬のカステラだ!

龍馬が結成した海援隊の雑記帳『雄魂姓名録』に、彼らのカステラレシピが載っている。曰く「玉子百目、うとん七十目、さとふ百目。此ヲ合テヤク也」。精栄軒本店の『おりょうと竜馬の愛したかすていら』は、このレシピに則って作られている。また、ふた駅隣の京急大津駅からほど近い信楽寺に、龍馬の妻・おりょうさんが眠っていることにちなんで、この商品名がつけられた。黒糖を使った独特の風味が人気の商品で、観光客や信楽寺のおりょうさんの墓参りに来たファンの定番だ。

当通信社でも、以前の記事【幕末ミステリーリサーチ File3 東京都内の坂本龍馬を探せ! #04】で、晴野未子隊員が姓名録のレシピ通りにカステラを作っていた。↓その記事はこちら

https://news.walkerplus.com/article/139035/

以上、幕末の人物ゆかりのエピソードと出来事にまつわる、幕末“物語グルメ”をご紹介しました! ゴールデンウィークに各地を訪れて、その味と物語を楽しんでみてはいかがでしょうか!

■ 今週の『西郷どんナナメ斬りッ!』

NHK大河『西郷どん』をより楽しむために! 幕末維新が大好きな俳優や声優、歴ドルたちが、毎週オンエアの翌日に、がっちり考察や幕末ウンチク、妄想トークを繰り広げる動画です。今回は大河の第15回から、島津斉彬が3000人の兵を率いて京に向かおうとするキモのくだりについて、史実を基にガッチリ“反証”! 斉彬本人の言動を史・資料を駆使して探り、彼の真意に迫ります。大河ドラマの描き方とはまた違う、斉彬のスゴさを知ってください♪(東京ウォーカー・ボクらの維新通信社2018/ロバート・ウォーターマン(KUROFUNE-United))

茨城
野外劇幕末の那珂湊、飛田与七描く ひたちなかで8月11、12日 /茨城
 ひたちなか市民らで作る「那珂湊野外劇実行委員会」(磯崎満代表)は23日、幕末の那珂湊で、鉄製の洋式大砲を造るのに必要な反射炉の建設に当たった宮大工、飛田与七を描いた演劇「鎮魂と再生そして世界へ」を8月11、12日、同市湊中央1の湊公園で上演すると発表した。

 那珂湊の反射炉は、水戸藩九代目藩主、徳川斉昭の命で1854~57年に建設されたが、64年に藩内で起きた「天狗党の乱」で破壊された。

 磯崎代表は数年前、旧湊商業学校(同市)の英語教師・関一が戦前に書いた「水戸反射炉の最後」を、遺族が持つ資料から偶然発見。劇作家の錦織伊代さんがこれを基に脚本を作った。

 磯崎代表は「市民参加型の野外劇を通して街を盛り上げたい」と意気込む。

 両日とも午後7時から。入場無料。公募で集まった小学5年~74歳の市民らも出演する。実行委は、出演者を若干名追加募集するほか、上演当日の会場の案内・警備を行うボランティア、企業や個人からの協賛金も募っている。問い合わせは同実行委のメール(nakaminatoyagaigeki@gmail.com)へ。【吉田卓矢】

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
 幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

高知
「幕末維新写真展」始まる 織田信福原版も 高知市の自由民権館
 幕末、明治の息づかいを当時の写真から伝える「幕末維新写真展」が4月28日、高知市桟橋通4丁目の市立自由民権記念館で始まった。6月24日まで。

 「志国高知 幕末維新博」の特別巡回展。浜松市の湿板写真家、林道雄さん(36)所蔵の約170点を中心に、幕末から明治初期にかけて撮影された貴重なガラス湿板写真などが展示されている。

 今回は宿毛市出身の自由民権家、織田信福(のぶよし)(1860~1926年)が写ったガラス原版(縦9センチ、横7センチ)も展示されている。...
 以下は有料にて。

佐賀
佐賀)佐賀市内を散歩感覚で 肥前さが幕末維新博覧会
 「肥前さが幕末維新博覧会」が開催中の佐賀。佐賀市内中心部、県庁や佐賀城跡近くにある「幕末維新記念館」(市村記念体育館)は、16施設ある博覧会場のメインパビリオンとなっている。

 幕末維新期、戦いに消極的だった佐賀藩は、「薩長土肥」の薩長両藩に比べ地味とされてきた。しかし、実際は西洋の反射炉の築造、実用蒸気船の建造とも国内初だ。

 記念館では、その藩主鍋島直正の思い、そして当時に居合わせたようなタイムスリップ体験を、迫力あるアニメと音響で感じることができる。

 館を出て1キロほど歩くと、古民家などが集まる柳町に着く。大隈重信ら英傑が学んだ藩校・弘道館の一端に、ミニスクリーンなどを通じて触れられる「リアル弘道館」がある。古民家を改装した近くのカフェや、和紅茶専門店でひと休みも。

 記念館を中心に半径600メートル内の街中は散歩にぴったり。鍋島家伝来品を集めた「徴古館」(松原2丁目)には、直正が見たとされる蒸気車のひながたがある。「佐賀城本丸歴史館」は幕末期の佐賀城の本丸御殿を再現。木造建築物としては国内最大級だ。有田焼を通じたオランダとの交流を伝える「オランダハウス」(旧佐賀銀行呉服町支店)もある。

 維新博事務局の企画・広報担当マネジャー、久保緑さん(49)は「肩苦しく考えず、街歩きをしにきてもらえれば」と話している。(秦忠弘)
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