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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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京都
幕末の豪農日記、初の一般公開 京都、新選組動向記載で注目
 幕末期の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川軍記が30年近く書き続けた日記が1日~12月2日、南区の国登録有形文化財の長谷川家住宅「長谷川 歴史・文化・交流の家」で公開されている。昨年、新選組の動向を記した新史料として注目された日記で、当時の農村の暮らしぶりも詳述されている。一般公開は初めて。

 日記は、軍記が当主となった1845年から死去した1871年までに書いた計27冊。冊子は縦12センチ、横34センチで1年ごとに記入されている。内容の一部を抜粋したパネルも展示する。

 軍記は農民だが、公家の家来を一時務めていた。日記には侍姿で夜明け前に公家屋敷に出勤したことや、公家と決裂して免職されたことなどが記され、当時の農民と公家の関係性もうかがえる。

 通説では、江戸時代に誕生日を祝う習慣は一般的にはなかったとされるが、毎年自分の誕生日を赤飯で祝ったとの記述もあった。当時、四条橋東詰にあった北座や南座まで芝居見物に出かけたことや、村で悪病よけの踊りが流行したことなども書き残している。

 禁門の変が起きた1864(元治元)年の日記には、東九条村に新選組と会津勢が下宿し洛中に攻め上る長州勢を警戒、撃退したことも記されており、昨年、新史料として注目された。展示では、当時の会津藩兵の軍勢行列図や、下宿の謝礼として会津藩から送られた花鳥図も紹介する。

 展示を監修した伊東宗裕佛教大非常勤講師は「当時の洛南の農村の様子や軍記の人柄も分かる貴重な史料」としている。

 開館は毎週土日・祝日午前10時~午後4時。11月23日休み。大人800円。9月9日、10月14日、11月11日に伊東氏が、10月20日には地元農家田中和久氏がそれぞれ講演する。問い合わせは同交流の家075(606)1956。

滋賀
幕末の倒幕運動「天狗党の乱」、地域有力者が情報収集 「和田峠の戦い」で偽情報も 滋賀・長浜で聞き書き資料発見
 幕末の元治元(1864)年、水戸藩浪士が起こした倒幕運動「天狗(てんぐ)党の乱」で、鎮圧に向かった幕府軍が敗れた和田峠の戦い(長野県)の様子を滋賀県長浜市高月町西野で庄屋を務めていた人物が県内の宿場町で聞き書きした資料が、同地区の子孫の家で見つかった。当時、天狗党は京都を目指して進軍中。県内の通過も予想されたことから、地域の有力者が積極的に情報収集していたことがうかがえるという。

 高月観音の里歴史民俗資料館(長浜市高月町渡岸寺)の西原雄大(たけひろ)学芸員が調査し、明らかになった。

 資料は「水戸藩浪士一条之聞取写(みとはんろうしいちじょうのききとりうつし)」(縦12・3センチ、横35・4センチ)。後書きに、天狗党が降伏する約2週間前の元治元年12月5日、村庄屋の野洌村右衛門(やすそんえもん)が、中山道柏原宿(米原市柏原)で聞いた-などと記されている。

 内容は天狗党の首謀者の名前や戦闘で使われた武具の絵、挙兵後の動き、和田峠の戦いなどを記録。ただ、和田峠の戦いでは「幕府軍が勝利し(天狗党の)600人中400人に戦闘をやめさせた」などと、史実に反する事柄が記されていた。

 西原学芸員は「戦闘中の混乱で誤って伝えられたのか、天狗党に加勢しようとする民衆を抑えるため、偽情報をつかまされた可能性も否定できない」としている。情報元は幕府の役人ではないかと推測する。

 天狗党は挙兵した筑波山(茨城県)から京都に向かう途中、敦賀(福井県)で幕府に降伏。関係者が処刑された。

 今回の資料は、同資料館で開催中の企画展「西野水道と西野のくらし-野洌家文書が語るもの-」で展示している。9月3日まで。問い合わせは同資料館(電)0749・85・2273。

兵庫
仏皇帝の装束、あまり威厳感じず…幕末武士が日記に
 幕末に江戸幕府が初めて欧州に派遣し、兵庫の開港延期交渉などにあたらせた「文久遣欧使節」。その使節の一員だった兵庫県北部出身の武士たちが残した日記や手紙の内容が、近年の研究で明らかになりつつある。東京の品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史(とみかわたけし)さん(日本近世史)が8月26日、兵庫県朝来市で講演し、研究の最前線を語った。

極めてまれな現存史料
 講演会は、朝来市の生野書院で開催中の企画展「サムライが見たヨーロッパ」の関連イベント。企画展では、文久元(1861)年12月から約1年かけて欧州6カ国を巡った文久遣欧使節の全権大使を務め、朝来市を領地とした旗本の京極高朗(たかあき、1823~64)の従者、黒澤貞備(さだよ、1809~92)が残した日記などが紹介されている。

 品川歴史館には京極高朗の欧州派遣中に江戸で留守を任された京極家の家臣・永坂昇太夫(ながさかしょうだゆう、1817~89)家に伝わる多数の文書が寄託され、冨川さんが、永坂家文書に含まれていた訪欧中の黒澤と永坂が交わした往復書簡や京極の日記などを調査中だ。

 講演で冨川さんは、これらの史料について「使節団の首脳と家臣の史料が現存するだけでも極めてまれだが、比較、照合を通じて、彼らがどのように欧州に派遣され、何を見てきたかも知ることができる」と述べ、その価値を評価した。冨川さんによれば、日記の記載などから、京極家では計59通の手紙のやり取りが明らかになった。

英米の対立も
 日本から欧州へ出した手紙は現存しないが、訪欧中の黒澤から江戸の永坂らに書き送った15通の手紙が残る。主人である京極の体調などのほか、旅程の報告など実務的な内容が中心だった。セイロン(現スリランカ)寄港時の手紙には、南北戦争をめぐって英米両国が対立し、その余波を警戒して船中でも臨戦態勢をとったと記されていた。

 手紙の書かれた日付だけでなく、受け取った日付を書き加えたものもある。当時は欧州と中国上海の間には定期郵便船が運航されたが、上海と日本の間は商船や軍艦が手紙を運んだとみられ、日本からドイツのベルリンまで最速2カ月半で届いたことや、郵便事故で4通は届かなかったことなど、幕末の郵便事情も知ることができる。

女性が男性に指図、驚き
 また、黒澤は日記の中で、パリで謁見(えっけん)したフランス皇帝ナポレオン3世の装束について「帝王と申しても、変わりし装束等これなき由(よし)」と記し、あまり威厳を感じなかったことを打ち明けていたほか、家族に宛てた手紙には、西洋では女性が男性の先に立ち、男性に指図することに驚いた、などと書いていた。冨川さんは「黒澤のような一般にはあまり知られていない人物の声を聞くことは、知られざる歴史を掘り起こすことにもつながる。今後も分析を進め、史料の全容を明らかにしていきたい」と語った。

 企画展は9月9日まで。問い合わせは生野書院(079・679・4336)へ。(渡義人)

     ◇

 〈文久遣欧使節〉 兵庫や新潟の開港延期交渉などのため、文久元(1861)年12月から約1年かけ、欧州6カ国を巡った総勢38人の幕府使節団。各国と開港延期で合意し、一定の成果をあげた。

愛媛
維新期に「戦わない」決断下した幕府方・松平定昭 松山で「幕末維新と松山藩」展
 明治150年を記念した特別企画展「幕末維新と松山藩-時代の激流、人々の決断-」が市立子規記念博物館(松山市道後公園)で開かれている。9月3日まで。

 松山藩は江戸幕府の親藩。幕末維新期は幕府方として行動し、新政府から「朝敵」とされた。21歳で老中に就任し、戊辰戦争で幕府軍に加わった同藩14代藩主、松平定昭は抗戦か降伏かの決断を迫られるなか、側近の筆頭家老、奥平弾正や大原観山(正岡子規の祖父)らが尽力し、降伏を決断した。

 展示は、幕末維新期の激流に向き合った藩士らの軌跡を追う展開で、観山の肖像画など初公開資料7点を含め96点を公開。定昭の抗戦の決心や、降伏への説得工作、土佐藩が松山城を開城した際の記録など、難局を乗り越えて新時代へ向かう姿が浮かび上がる構成となっている。

 同館の西松陽介学芸員は「戦わない英断を下したことで、次世代の偉人(秋山好古ら)が育ち、文化人が活躍する源流につながった」と話した。

 火曜日休館。問い合わせは同館(電)089・931・5566。

山口
幕末吉田松陰と弟子の往復書簡発見 徳川光圀の書勧める
 山口県萩市の松陰神社は28日、幕末の思想家・吉田松陰(1830~59年)が、松下村塾の教え子だった長州藩士、前原一誠(まえばらいっせい)(34~76年)とやり取りした往復書簡が見つかったと発表した。松陰は、中国の「四書」や徳川光圀らによる書物など読むべき書物を列挙して前原に伝えており、維新の志士たちを育てた松陰の指導者としての姿が浮かび上がる。

 書簡(縦16.7センチ、横52.3センチ)は2006年、前原の子孫が神社に寄贈した史料約2600点のうち、読書記録の冊子に挟まれていた。1857年に書かれたとみられ、学問の方法について教えを請う前原の手紙の裏面に、松陰が朱色の墨で返信をしたためた。

 四書の他に「国史略」「十八史略」など日中両国の歴史書など計11点を挙げ、前原の意思次第で議論に応じるとつづった。さらに儒学者の林羅山(はやしらざん)や荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)ら8人を「心に刺さり、人を動かす言葉がある」と評価。徳川光圀、上杉鷹山(ようざん)ら江戸時代の「名君」6人の書物も読むことを勧めている。

 前原は松下村塾で洋学を学び、尊皇攘夷(じょうい)運動に加わった。維新後は政府の参議などを務めたが、木戸孝允らと対立し1870年に萩へ戻った。6年後、不平士族を率いて「萩の乱」を起こしたが、敗走して捕まり、萩で処刑された。

 書簡は来年4月8日まで同神社の特別展で展示される。【遠藤雅彦】




 私は『西郷どん』第一話で脱落しましたが、下記は必読です。

コラム
これだけはおさえておきたい、幕末についての新常識『西郷どん』をより楽しむために
町田 明広
大河ドラマなどでも人気の幕末維新。幕末というと、必ず持ち出されるのが「尊王攘夷」派vs.「公武合体」派の構図だが、じつは幕末研究ではそうした見方はされなくなっている。これだけは知っておきたい新常識を、大河ドラマ「西郷どん」放映後のTwitterで話題の町田明広神田外語大学准教授が紹介する。
〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立しない
2018年は明治維新150年であり、今年に限らず、ここ数年は「~から150年」という具合に、日本中の博物館で関連する企画展が目白押しであり、出版物も溢れかえっている。筆者も明治維新史を専門としているだけに、ありがたいことに講演や出版など、たくさんのお声掛けをいただいている。幕末史は、今も昔も人気が高い時代である。

ところで、2018年の大河ドラマは「西郷どん」である。この1月から3月まで、NHKカルチャーラジオ「西郷隆盛 その伝説と実像」を担当した。そのご縁もあり、また、ドラマで描かれる「伝説」が「実像」と見られてしまい、一人歩きしてしまうことを心配し、毎週ドラマ放映後、可能な限りtwitterでその回の時代背景などを発信しているが、一気にフォロワー数が飛躍的に増え、反応も想像をはるかに超えている。関心の高さに驚かされた。

京都御所。photo by iStock
その一方で、実証的な研究の深化にもかかわらず、なかなか世間では、その成果が浸透していないと感じている。『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)では、幕末史を分かりにくくしている要因として、歴史用語の使い方を指摘した。例えば、一般的に幕末の政争は、「尊王攘夷」vs.「公武合体」と言われつづけている。そもそも、「尊王攘夷」は、後期水戸学を大成した藤田東湖(ふじたとうこ)が生み出した歴史用語であるが、尊王は天皇(朝廷)を尊ぶという思想であり、攘夷は夷狄(外国)を打払うという対外政略である。その二つの異なる概念を、合体させている。また、「公武合体」は、朝廷と幕府を融和して、国内を安定させようとする国体論である。つまり、〈尊王〉〈攘夷〉〈公武合体〉は対立する概念ではないのだ。この時期、日本人であれば多かれ少なかれ全員が〈尊王〉であり、〈攘夷〉であり、〈公武合体〉であった。この件は、その後も機会があるごとに言いつづけているが、残念ながら浸透したとは言い難い。

「未来攘夷」と「即時攘夷」
『攘夷の幕末史』では、当時の政治的対立は何に起因していたのか、この複雑な幕末史を紐解くために、そして、その政争の本質を見抜くために、「攘夷」という歴史的用語を最重要キーワードとして取り上げた。なぜならば、幕末というのは、この攘夷によって衝き動かされ、形作られていたからだ。当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、安政5年(1858)に結ばれた通商条約の是非にあり、その対立する思想は、「大攘夷」と「小攘夷」であると論じた。その後、筆者なりに対外認識論の研究を深め、その成果をまとめたものが『グローバル幕末史』(草思社、2015年)であり、そこでは「未来攘夷」「即時攘夷」論を展開した。

「未来攘夷」「即時攘夷」論を基に、幕末史前半を概観して見よう。幕末の日本は、欧米列強によるウエスタンインパクトの波に飲み込まれ、植民地にされるかもしれない未曾有の危機を迎えた。しかし、ペリー来航(1853)を迎えたまさにその時、国中がパニックになり、なす術もなく植民地化の道を歩んだかというと、そんなことはなかった。それまでに、知らず知らずに欧米列強と接触するじゅうぶんな準備がなされていた。江戸幕府は中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、東アジア的華夷思想に基づく「日本型華夷帝国」を形成し、海禁の一形態である「鎖国」政策を採用した。その後、18世紀末からロシアが蝦夷地方に南下を始め、イギリスが日本各地に出没をしたことから、幕府は無二念打払令を出すに至った。 

ペリー来航。photo by Getty Images
しかし、アヘン戦争(1840〜42)での清の敗北は、日本中を震撼させるに値した。我が国の対外政策は、撫恤(ぶじゅつ)政策である薪水(しんすい)給与令に改められ、来るべき西洋との接触に備えた。つまり、国是である鎖国は破棄することなく、撫恤政策の枠内で、何とか穏便に欧米列強と交際しようとした。その一方で、後期水戸学の登場によって、尊王攘夷論が勃興し、ナショナリズムの全国への浸透がもたらされていた。しかし、アジアに進出を始めた欧米列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷実行の時期や策略をどうするのかが、日本にとって大きな課題となったのだ。

通商条約と孝明天皇
幕府は和親条約の締結(1854)によって、通商は回避して鎖国を守ることが叶ったものの、欧米列強に圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、通商条約の締結は免れないものと覚悟した。岩瀬忠震(いわせただなり)ら海防掛は、むしろ積極的に開国し、富国強兵を主目的とした貿易開始の方針を打ち出した。この積極的な開明路線は、老中阿部正弘(あべまさひろ)の支持するところとなり、鎖国から開国への対外方針の大転換が企図された。この積極的な開明路線への転換には、幕閣の世界観が欧米列強との頻繁な接触によってグローバル化したことと、軍事的には欧米列強に歯が立たないという現実的な判断が背景にあった。また、この志向性は多かれ少なかれ、当時の諸侯階級においては、共通の対外認識であった。攘夷を声高に叫びつづけた徳川斉昭(とくがわなりあき)ですら強硬な攘夷行動ではなく、言を左右にして問題を先送りする「ぶらかし」戦法を支持していた。

通商条約は、鎖国から開国への対外方針の転換であると同時に、国体の転換を伴うものであった。問題は、国体の転換が自身の御代に起こることを痛烈に嫌い、勅許を許さない孝明天皇(こうめいてんのう)の存在であった。幕府は列強と朝廷の板挟みとなり、窮した挙げ句に通商条約を勅許なしで調印(1858)してしまった。我が国は通商条約を締結し、対外的には開国政策を取りながら、国内的には、国是は依然として「鎖国」(攘夷)のままであった。そこで幕府は、開明路線から「未来攘夷」へと舵を切った。今回の通商条約は一時的なもので、いずれ攘夷を実行すると宣言したのだ。朝廷に対する方便でもあったが、幕閣の意志はまちがいなく、武備充実後の攘夷実行にあった。

長州と薩摩
一方で、孝明天皇が認めない通商条約を、どうしても許せない勢力が登場する。久坂玄瑞(くさかげんずい)を中心とする松下村塾グループに引っ張られた長州藩や、三条実美(さんじょうさねとみ)などの過激廷臣である。長州藩は、「未来攘夷」策である航海遠略策を捨て、「即時攘夷」を唱えて国政をリードした。富国強兵を図って、世界に雄飛しようとする長州藩の主張は、航海遠略策そのものであり、孝明天皇が承認した対等な立場での通商条約であれば、むしろ歓迎する姿勢を示した。しかし、あくまでも勅許がある通商条約しか容認しない立場であり、尊王をないがしろにした幕府のやり方には断固として抗する強烈な志向があった。

しかし、長州藩は下関戦争(1863〜64)によって、欧米列強の前に沈黙を余儀なくされた。また、八月十八日政変(1863)や禁門の変(1864)によって、国政でも失脚してしまい、引き続き起こった第一次長州征伐(1864)によって、「即時攘夷」を推進する一派は、ここに潰えた。しかも、その1年後に通商条約は勅許されてしまい、理論的には我が国から攘夷は消え失せてしまう。この間に、長州藩も「即時攘夷」から「未来攘夷」へと、世界観の転換を余儀なくされた。

一方で、薩摩藩は島津斉彬(しまづなりあきら)による集成館事業や建艦などの富国強兵策が実行されていた。斉彬も、その路線を引き継いだ久光(ひさみつ)も、海洋国家特有の開明的な世界観を有しており、「未来攘夷」を志向して国政への参加を画策していた。通商条約の締結後は、小松帯刀(こまつたてわき)が中心となって、積極的に軍艦や武器の買い付けに奔走しており、幕府を軽んじて藩地における開港すら視野に入れ、さらなる富国強兵策を推進しようと企図していた。そんななかで起こった外国人殺傷事件の生麦事件(1862)は、まさに偶発的な事件であり、薩摩藩の世界観の変化によって生じた攘夷行動ではなかった。その後の薩英戦争(1863)も、イギリス側は戦闘に及ばないと確信していたほどで、事実、薩摩藩の「未来攘夷」志向はゆるぎのないものであった。しかし、イギリスの要求が誤伝されたため、戦闘に至ってしまうのだが、この衝突が転じて福となり、薩英両国は友好関係を築くことになる。こうした経緯を経て、幕末史は後半の元治慶応期を迎えることになったのだ。

小松帯刀。国立国会図書館蔵
岩瀬忠震という人物
ところで、『攘夷の幕末史』はたくさんの人物にスポットを当てたが、そのなかでも岩瀬忠震を世に送り出せたのではないかと自負している。もちろん、それまでも岩瀬伝はあったものの、かなり時間が経過しており、筆者が再発掘した金山であった。岩瀬は驚くほど開明的な政治家であり、かつ、ずば抜けて卓越した外交官であり、ハリスとの交渉を主導し、安政五ヶ国条約すべての調印に関わった。攘夷の思想を持ちながら、日本の植民地化を阻止し、将来の世界への飛躍を期して武備充実など富国強兵を図るため、あえて開国に踏み切った岩瀬の志を見誤ってはならない。

岩瀬は、「この調印の為に不測の禍(わざわい)を惹起して、あるいは徳川氏の安危に係わる程の大変にも至るべきが、甚だ口外し難き事なれども、国家の大政に預る重職は、この場合に臨みては、社稷(しゃしょく)を重しとするの決心あらざるべからず」(福地桜痴『幕末政治家』)と述べている。岩瀬は、このなかで幕府よりも社稷(国家)が大切であるとの認識を示している。幕府よりも日本国家が重要であると言い放った彼を、後世の我々はきちんと顕彰し、偉大な日本人として記憶に止めるべきであろう。

『攘夷の幕末史』では、その他、坂本龍馬(さかもとりょうま)や近藤長次郎(こんどうちょうじろう)の攘夷思想についても未来攘夷の代表として言及した。しかし、彼らの活躍や政治的スタンスなど、じゅうぶんに論じきれたかは心もとない。両者については、年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)を手に取っていただき、ブラッシュアップされた新たな論考をご期待いただきたい。

大河ドラマ「西郷どん」も慶応期に突入し、いよいよ明治維新を迎える。『攘夷の幕末史』では、西郷隆盛には言及がほとんどできなかったが、その後、『歴史再発見 西郷隆盛 その伝説と実像』(NHK出版、2017年)を執筆する機会をいただいた。史実とドラマの差異を発見するなど、存分に楽しんでいただけたら幸甚である。
 年内刊行予定の『検証 薩長同盟――偽りの薩長藩閥史観を撃つ』(人文書院)、楽しみです。

幕末の志士たちは「テロリスト」だったそしてジェダイはダークサイドに落ちた
幕末に尊王攘夷を掲げた志士たちの実像は、為政者や時代の空気によって書き換えられている。『志士から英霊へ』を書いた東京大学大学院人文社会系研究科の小島毅教授に聞いた。
幕末の志士は現在で言えばテロリスト
──「志士から英霊へ」と評価が変わったわけですか。

日本の過去の人物像や歴史的事件に関して、すばらしいもの、褒めたたえるべきものだけを並べればいい、先人たちがした失敗や、ほかの国にかけた迷惑を語るのは自虐的だとの主張がある。だがもちろん、明るい面と暗黒面をきれい事にしてまとめるのは、歴史認識として正しいあり方ではない。

むしろ逆だ。歴史に学ぶとは失敗に学ぶのであって、成功譚を褒めたたえても、それは歴史を学んだことにならない。中国では昔から「歴史を鏡にする」という表現がある。中国人が日本の要人に会うたびに使う言葉だ。同じ失敗をしないために歴史が存在するという考え方といっていい。

明治150年を語るのであればむしろ、その間に起きたことの負の側面を含めて語るべきなのだ。幕末維新の志士という言い方がされてプラスの評価ばかりが目立つが、彼らは暴力に訴えてでも世の中を変えるべき、自分たちの考えと違う政治を行っている政権担当者は殺して構わないという考えを持っていた。つまり現代社会においてはテロリストだ。

それを現在の日本国政府が、つまり世界中に蔓延するテロリズムと戦う姿勢を標榜する政府が、明治150年だからといって過去のそうしたテロリズムを礼賛するのは自己矛盾になる。

──この本は西郷隆盛と吉田松陰の「2人のジェダイ」についてから書き下ろされています。

実は私は「スター・ウォーズ世代」。『スター・ウォーズ』には、西欧にない考え方を映画の中に生かすためなのか、研究対象の中国思想の気(フォース=銀河をつかさどるエネルギー)という言葉が盛んに使われている。

ジェダイ(秩序と平和の守護者)はいわば志士だし、彼らが戦った相手、もしくは作り上げようとしたものがエンパイア。そして暴力やテロリズムに訴えるようになってしまい、ダークサイドに落ちたりもする。この4つのキーワードを遊びの精神から各章タイトルに割り振ってみた。

松蔭は独善的だった
──西郷については「敬天愛人」に絡む話が中心です。

西郷はあるときから敬天愛人を座右の銘にし、好んで揮毫したという。ただ、この言葉の由来について本人は語っていない。関連する記述は、死後に出版された聞き書き本『南洲翁遺訓』の中にある。1868年に教育者の中村正直が「敬天愛人説」という文章を書き、これが当時よく読まれ、西郷も知っていたはずだ。


小島毅(こじま つよし)/1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も多数。著書に『儒教が支えた明治維新』『増補 靖国史観』『朱子学と陽明学』『近代日本の陽明学』など(撮影:吉濱篤志)
──松陰もジェダイだった?

彼はむしろ偏った見方をする人だ。自分の信念を貫くために、それに従わない人たちを間違いと決め付ける。対話や議論を求めていくのではなく、書物や教えを通じて得たものに基づいて作り上げた自身の信念こそ正しいと突き進んでいく。

儒教の古典『孟子』の中にある言葉、至誠を根拠にして、誠を尽くせば皆わかってくれるはず、と独善的に事を運ぶ。思想史的に位置づけ直すと、兵学をあずかる形で養子に行ったことから、責任感を持って軍学を身に付け、その結果として、正真正銘のテロリストになっていった。

──教育者としての評価も。

玖村敏雄の著作『吉田松陰』が1936年に刊行され、その中で教育者として立派だったとの像が打ち出された。これが広く読者に浸透したようだ。戦前における尊皇派、天皇崇拝者としての松陰像が封印され、教育者、人格者としての松陰という像が作られて、今に引き継がれている。

──彼はダークサイドに落ちた?

正義のために戦っているつもりが、闇というものに引き寄せられていく。『スター・ウォーズ』でもよく描かれていると思う。単純な善悪二元論、勧善懲悪ではない。善の中にすむ悪の魅力、それこそが悪の魔力なのであり、最初から悪だとわかっていたら、力を持たない。日本語でいうところの「心の闇」。それを幕末の志士たちの生き方に重ね合わせると、彼らはなぜテロリストになってしまったのかがわかってくる。

自分たちの目指す正義が阻まれていると感じたときに、妨害するものを力ずくで排除しようとする。結局、自分たちが敵と考えていた人たちと同じ側に立ってしまう。他者を抑圧あるいは弾圧する。それがダークサイド。

尊皇攘夷のために暴力に頼った
──いわば絶対正義。

人を引き込む作用をする。『論語』にある身を殺してなすべきこと、殺身成仁に該当する。『太平記』の児島高徳の逸話に学び、太平記を翻案した『日本外史』を読むことでそうした知識を身に付けてあこがれたジェダイたちが、ダークサイドに落ちる入り口の尊王攘夷を目指す草莽(そうもう)の志士に育っていく。

──エンパイアの理念も背景に。

中国の宋学が、水戸学によって幕末期に影響を与えることにつながる。皇帝、日本の場合は天皇を頂点にいただく政治秩序をどう構想したか、それ以前とは違う形でどう作り上げたかという説話がエンパイアの理念だという位置づけになる。それこそがダークサイドに落ちていったジェダイたちが実現しようとしたことで、暴力革命、つまり尊王攘夷のために暴力に頼ることになる。


『志士から英霊へ: 尊王攘夷と中華思想』 (小島 毅 著/晶文社/2000円+税/256ページ)。
──水戸学はなぜ受け入れられたのですか。

思想内容の魅力はもちろんあるが、広めた人として頼山陽に加えて曲亭馬琴の役割が大きい。漢文で物を書く人ではなく、『南総里見八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月』が儒教道徳を教えている。ちなみに八犬伝の8つの数珠玉はすべて儒教の徳目だ。必ずしも水戸学と限定されないが、この手の本を通じて、小説を読むことができるような人たちに、儒教思想が取り込まれていく。かつて私は頼山陽を司馬遼太郎になぞらえたが、むしろ馬琴ではないかと最近考えを変えた。

──藤田東湖の役割は。

水戸学の中心人物。非業の死を遂げた人たちを英霊と呼び、靖国神社がこの言葉を取り入れた。反逆の罪に問われて死罪となった松陰は、明治になってよみがえり靖国神社に祭られ、西郷は逆臣として死んだので祭られていない。

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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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