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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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昨日は映画館割引の日だったので『銀魂2』二度目鑑賞。今年一番楽しめた映画なので多分7日の声出し鳴り物OKな鑑賞日にペンライト持っていくと思います。
 安倍首相は三度目の自民党総裁選に出馬するに当たって鹿児島を選び「薩長」政府を強調しましたが、引用した平野国臣の句はどう考えても薩摩批判。正しい歴史の知識を持たないまま国民に発信するのは恥ずかしいことだと思います。
 ちなみに戊辰戦争で負けた側に好きな人物が多い私は、戊辰戦争150年です。

秋田
戊辰戦争の供養塔除幕、平和を祈願 大仙市協和・萬松寺
 戊辰戦争(1868~69年)の戦没者を供養している秋田県大仙市協和境の萬松(ばんしょう)寺に、明治150年を記念した供養塔が建てられた。協和地域の住民でつくる交流団体「さどわら会」主催の慰霊祭で、同市と交流のある宮崎市の関係者を招いて除幕し、平和を祈願した。

 戊辰戦争では、新政府側についた秋田藩と、対立する奥羽越列藩同盟軍が戦闘を展開。秋田藩の援軍として現在の宮崎県から参戦した佐土原藩の藩士ら8人が、協和地域で亡くなった。

 協和町(現大仙市)と宮崎県佐土原町(現宮崎市)は、1992年に萬松寺で合同慰霊祭を行って以来、交流を続けている。明治150年の今年は境内に高さ1・8メートルの供養塔を建て、戸敷正宮崎市長の書いた文言を彫り込んだ。
 有料版だとさらに記事が読めそうです。

<戊辰戦争150年>佐土原藩士を手厚く供養した縁 大仙と宮崎、深まる交流 相互訪問、記念酒造りも

戊辰戦争で亡くなった佐土原藩士の慰霊碑=大仙市協和境の万松寺
拡大写真
 秋田戊辰戦争の激戦地大仙市と、新政府軍側で参戦した佐土原藩があった宮崎市が交流を深めている。大仙市協和の境地区で戦死した佐土原藩士8人は現地の万松寺に一時葬られ、住民が手厚く供養した。150年前の悲劇を縁にして中学生や市民が相互訪問し、交流を記念した日本酒を造る事業も大仙市で進む。

 戊辰戦争から124年後の1992年、佐土原町(現宮崎市)の墓参団が万松寺を訪れたのをきっかけに交流が始まった。
 2001年に協和町(現大仙市)と佐土原町が有縁交流協定を締結した。市町村合併後は大仙市が人口約8万、宮崎市が約40万と都市の規模こそ異なるが、どちらも協定を引き継いだ。
 両市の物販施設では互いの特産品を販売。10年には佐土原藩士の慰霊碑が万松寺に建立された。今年は大仙市の事業として協和の酒米農家と酒造会社が記念酒を製造し、両市の交流を全国にアピールする予定だ。
 民間や中学生の交流も活発になり、協和には「さどわら会」、佐土原では「きょうわ会」と相手方の町の名を付けた有志団体がそれぞれの地で発足。大仙市の中学生が宮崎市を訪れてサーフィンを体験し、宮崎市の中学生は大仙市でスキーを楽しんだ。
 行政レベルでは、戸敷(とじき)正宮崎市長が今月19日に大仙市で開かれるシンポジウム「近代への道程 戊辰戦争と人びと」に出席。10月下旬には老松博行大仙市長が宮崎神宮大祭を視察する。
 老松大仙市長は「交流協定を友好協定に発展させたい」と意欲を示す。宮崎市佐土原総合支所の高橋通郎地域市民福祉課長も「8人の藩士を供養していただいた恩を忘れず、さまざまな交流を続けたい」と話す。

[佐土原藩]薩摩藩の支藩で藩主は島津氏。戊辰戦争時は2万7000石。宮崎市北部の旧佐土原町に藩庁を置いた。戊辰戦争では新政府軍に加わって伊勢、会津などを転戦。「境の戦い」では藩士約100人が庄内藩を中心とする奥羽越列藩同盟軍と交戦した。


<戊辰戦争150年>秋田藩 指揮権なき戦い 大仙でシンポ、仙台・庄内の視点も紹介
 秋田藩領が戦場となった秋田戊辰戦争の実態を、秋田、仙台、庄内各藩の視点から研究者が議論するシンポジウム「戊辰戦争と人びと」が19日、大仙市の大曲市民会館であった。市主催で約200人が参加した。
 秋田戊辰戦争は奥羽越列藩同盟からの秋田藩離脱を契機として1868年夏から約2カ月間、同盟軍と新政府軍が交戦した。仙台、庄内藩など同盟軍は久保田城に迫ったが、東北南部の戦況が悪化して兵を引き上げた。
 秋田県立博物館の畑中康博学芸員は「自領に敵を引き入れた防衛戦争だったのにもかかわらず、秋田藩の藩庁は軍事指揮権も前線の人事権も失っていた」と述べ、新政府軍に組み込まれた戦いの様子を示した。
 仙台藩の支藩一関藩は仙台藩の指揮を嫌い、庄内藩大隊の指揮下に入った。東北大大学院文学研究科の栗原伸一郎学術研究員は「仙台藩の指揮系統もかなり混乱があった」と指摘した。
 上山城郷土資料館(上山市)の長南伸治学芸員は明治20年代と大正時代に出版された戊辰戦争関係の文献を解説し「薩長や秋田の視点から描かれた史観に庄内の人々が動揺している姿がうかがえる」と語った。


山形
特別展激動の時代、米沢藩と戊辰戦争 来月15日から 上杉博物館 /山形
幕末から明治初期の激動期に米沢藩がどのような道を選んだのかを紹介する特別展「戊辰戦争と米沢」が9月15日から、米沢市丸の内の「伝国の杜 米沢市上杉博物館」で開かれる。

 同博物館によると、米沢藩は戊辰戦争の際、朝敵とされた会津藩を救うため、奥羽列藩同盟結成で主要な役割を果たし、越後を主戦場に各地で激戦を展開。降伏後は、新政府のもとで新たな体制を模索した。

 特別展では政治的な動向に加え、社会そのものを変えるきっかけとなった軍制改革や、戦場に赴いた兵士の行…
 以下、毎日新聞の有料版にて。

宮城
会津藩士への弔辞見つかる汚名返上の思い伝わる史料
 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。


福島
二本松藩戦死者の霊牌発見 戊辰戦争、身分区別なく慰霊
 二本松藩丹羽家の居城だった霞ケ城公園(二本松市)の丹羽霊祠(れいし)殿(通称・丹羽神社)から、戊辰戦争の二本松藩戦死者を弔う約100年前の霊牌(れいはい)が大量に見つかった。霊牌は全て同じ形で約80柱あり、戊辰50年の慰霊祭に合わせて作られたとみられる。

 霊牌には武士や農兵の名前が記され、二本松市の担当者は「当時の二本松藩関係者は戦死者を身分で区別せず、等しく慰霊した。戊辰150年の節目や先人の思いを考える上で貴重な史料だ」とした。

 市によると、丹羽霊祠殿は戦時中に東京の丹羽家から現在の社殿に移った。丹羽家所有だったが昨年、市に寄贈された。

 市が正式に調査した際、御霊舎(みたまや)の中に霊牌があったという。5段の棚に並べられ、数点が木箱に入ったまま見つかった。木箱表面には「戊辰殉難士五十年祭」と記されていた。

 霊牌の概要や保管経緯は不明だが、市の所蔵史料に同じ霊牌がある。「戊辰50年の慰霊祭でもらった」という二本松藩士の子孫から寄贈されたといわれている。

 約100年前に発行された「二本松藩史」では二本松藩戦死者は338人(現在は337人)で、内訳は藩士162人、下級兵と農兵ら176人。戊辰50年の慰霊祭で全員分を用意したが、4分の1程度が遺族の手に渡らず保管されていたとみられる。

 同藩史によると、霊牌に書かれていた名前の一人「丹羽舎人」は上級武士で、戊辰戦争では大目付軍監として白河口の戦いに出陣。旧暦の1868(慶応4)年6月12日に白河・追原方面での銃撃戦で戦死した。

 一方、他の一人の「傳作」(伝作)は下水原村(現・福島市南部)の農民。農兵か運輸方を担い、霞ケ城が落城する旧暦の7月29日に城下で戦死している。

 二本松市都市計画課二本松城跡整備係の佐藤真由美さん(48)は「農兵は武士とは違う扱いが一般的だっただけに、貴重な史料だと思う」とした。二本松藩主丹羽家の18代当主の丹羽長聰さん(74)=東京都=は霊牌が保管されていたことを知らなかったとし「戦死者を等しく慰霊した先人の行いが素晴らしい」とたたえた。

<戊辰戦争150年>東北の視点で経緯再考 福島県立博物館できょうから企画展
 福島県立博物館(会津若松市)で1日、企画展「戊辰戦争150年」が始まる。薩摩、長州両藩中心の新政府側から「朝敵」とされた会津藩と、会津救済に連携した東北、越後諸藩の視点から戊辰戦争を再考する。

 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館との共同企画。展示はペリー来航の「開国」に始まり、開戦、降伏、再起など7部構成となる。「官軍」の象徴として新政府側が掲げた「錦旗」、会津藩救済、戦争回避を図れず奥羽越列藩同盟として戦いを余儀なくされた経緯、関係者の苦悩を示す史料など約200点を展示する。
 3館独自の地域史料もそれぞれ紹介。先人がどのような思いを抱き、どう選択したのか地域ごとの視点にも光を当てる。
 展示では実在の会津藩士をモデルにしたキャラクター「源ちゃん」が、展示物の各所で解説する。
 10月14日までの期間中、記念講演会や学芸員の解説会もある。企画展は新潟が既に終了。仙台は10月26日~12月9日に開催する。
 開館は午前9時半~午後5時。観覧料は一般・大学生800円。高校生以下無料。月曜休館(祝日の場合は翌日)。連絡先は福島県立博物館0242(28)6000。

福島)戊辰戦争、会津農村の焼失1100軒 市町村史
 1868年の戊辰(ぼしん)戦争で西軍(新政府軍)が会津藩・鶴ケ城に迫る中、周辺の農村では約1100軒以上の家屋が戦闘に巻き込まれたり、兵士に火をつけられたりして焼失していた。歴史研究会「会津史談会」副会長の簗田直幸さん(65)が、会津地域の市町村史に書かれた被害をまとめた。簗田さんは「どんな時代でも戦争でひどい目に遭うのは民衆だ」と話し、実態把握の必要性を強調している。

 簗田さんは、民間団体「会津戊辰戦争百五十周年事業実行委員会」の幹事長。農村部の被害に関する統計資料が乏しいことから、自治体の記録に着目。市町村合併前の「町史」などに書かれた家屋の焼失に関する記述を集めた。

 西軍は、①二本松藩との境の母成(ぼなり)峠②南側の下野街道③西側の越後街道、などを経由し、現在の会津若松市に向かった。

 母成峠から西軍は猪苗代湖北側を進攻。経路の猪苗代町から磐梯町にかけての旧11村で410軒中176軒が焼失したとされる。

 下野街道を進んだ西軍は下郷町から会津美里町に入り、現在町庁舎がある高田地区が戦場になった。旧会津高田町史によると、300軒中246軒が焼けた。

 越後街道で会津藩など東軍(旧幕府側)は会津坂下町から代官所があった会津若松市神指町高久に退却し、この地域で300軒中249軒が焼失した。城の南側の「南青木組」(同市門田町など)でも、旧11村の合計として1069軒中453軒が焼けたとされる。

 同市河東町の「藤倉村」では、西軍から炊き出しなどを求められた後、9月2日、城に向けて進軍する際に火をかけられ、全村28軒が焼失したと伝えられる。

 簗田さんは「西軍によるものが多いが、中には、退却する東軍が家屋を敵に使わせないため、火を付けたこともあったと考えられる」と話す。

 農村部の被害とは別に、鶴ケ城の城下では武家屋敷以外に1300軒余りが焼けたと見られている。

 これらの調査結果は8月12日に会津若松市で開かれた同実行委主催のシンポジウムで報告された。

 簗田さんは「市町村史で明記されない例もある」と語り、被害の全容は不明だという。「なぜ会津を戦火で包むような軍事占領をしなければならなかったのか、被害を受けた人々に対して補償は行われたのか、本質的な問題は十分解明されていない」と指摘。「会津では『悲劇性』が注目されがちだが『150年』を機会に根本的な課題に着目すべきだ」と話している。(戸松康雄)


白虎隊、死の行軍をたどる 戊辰戦争150年
戦争
 1869(明治2)年、旧会津藩士によって初めて描かれた白虎隊自刃の図(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 自分がいつ、どう死ぬのか想像したことがあるだろうか。病気や事故、災害だけではない。殺される事態もないとはいえない。死が誰にでもいつか必ずやってくると知っていても、たいていの人は自分がどう死ぬのか分からないまま人生を送っている。

 今から150年前、会津藩(福島県)の組織した「白虎隊」という名の軍隊に所属する15~17歳の少年たちは、霧雨が降る山の中で、ふるさとが燃やされる光景を見ながら、自ら首に刃物を突き刺して死んでいった。

 なぜ、彼らはこうなってしまったのか。社会背景を調べ、彼らが行軍した実際の道筋をたどった。(福島支局 菓子翔太)

 白虎隊が自決する15年前の1853(嘉永6)年。当時は江戸幕府が日本を支配し、傘下の藩が各地を治めていた。この年に、アメリカの艦隊(黒船)が浦賀沖(神奈川県横須賀市)に来港する。それをきっかけに、海外との接触を制限する鎖国をしてきた日本が外交の門を開くと、今後の日本のあり方をめぐって国内で争いが激しくなった。

 天皇が住む京都には、テロなどを画策する長州藩(山口県)の藩士をはじめとする過激派が集まった。これらを取り締まるため、幕府の命令で、会津藩は京都の治安維持に当たる「京都守護職」を務める。その働きぶりは、当時の孝明天皇からも評価され、厚い信頼を得ていたという(孝明天皇は1867年1月=慶応2年12月=に崩御。後に明治天皇が即位する)。

 徳川慶喜が大政奉還を朝廷に申し出た建白書の写し。千葉県松戸市の女性宅から発見された=2011年10月、千葉県松戸市の戸定歴史館【時事通信社】

 ところが、1866年3月(慶応2年1月)、薩摩藩(鹿児島県)と長州藩がともに「幕府を倒そう」と手を結んだことから、幕府打倒派(いわゆる「倒幕派」)の勢力が拡大。倒幕に向けて計画が進む中、幕府の第15代将軍徳川慶喜は1867年11月(慶応3年10月)、先手を打ち、政権を朝廷に返す「大政奉還」を行った。

 これにより、幕府を倒すという名義を失ったかに見えた薩摩や長州などによる新政府は、天皇中心の政治に戻す「王政復古の大号令」を発令。さらに、これまで政権の中心にいた徳川家を排除するため、慶喜の官位剥奪と領地返上を決めた。

 当然、会津藩などの旧幕府側は反発した。その上、新政府軍の西郷隆盛が浪士を集めて江戸で行ったゲリラ活動に我慢できず、旧幕府は江戸の薩摩藩邸に報復攻撃した。結果、日本の運命を変える「戊辰戦争」が始まってしまう。初戦となる「鳥羽・伏見の戦い」は衝撃的な展開を迎えた。

 このとき、1868(慶応4)年1月。白虎隊が自刃するまで残り7カ月のことだった。

天皇に逆らった?

 靖国神社の祭神簿。右は鳥羽・伏見の戦いの殉難者を記入した第1号=1963年6月、東京・千代田区九段北【時事通信社】

 この戦いで、旧幕府軍の兵力は新政府軍の約3倍に上ったが、最新兵器を擁する新政府軍に劣勢を強いられた。その上、新政府軍は天皇を象徴する菊の紋が入った「錦の御旗」を掲げたことで、旧幕府軍は天皇に逆らう「賊軍」扱いを受けてしまう。ちなみに、戊辰戦争で国家のため命をささげた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えるという目的で明治天皇の意向により建てられた靖国神社(東京都千代田区)には、新政府側の人間は祭られているが、旧幕府側の会津藩などの人間は祭られていない。最近では、超党派の国会議員が「賊軍」とされた人々も祭るよう呼び掛ける動きがあった。

 話を戻す。「鳥羽・伏見の戦い」の最中、敗色の濃くなった徳川慶喜と会津藩主の松平容保らはひそかに大阪から江戸に逃走した。旧幕府軍もやむなく撤退し、戦いは大敗に終わる。

 戦いの後、「賊軍」となってしまった旧幕府側は多くの藩に見限られた。さらに、本拠地の江戸城を明け渡すところまで陥った。

 日新館前に立っている「什の掟」=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 会津藩も、新政府軍に恭順の意を示し、同じ東北地方の多くの藩もそれに協力した。だが、新政府が会津藩の恭順の意を受け入れることはなかった。東北地方の諸藩は「奥羽越列藩同盟」として手を結び、新政府軍との戦争へ道を進んでいくことになる。

 後に自刃した白虎隊の少年たちは、この間どうしていたのか。会津藩士の子弟は、6~9歳の時に「ならぬことはならぬ」で有名な「什の掟」を学び、10歳になると「日新館」(地図)に入学する。NHK大河ドラマ「天地人」の歴史考証にも携わった歴史家の石田明夫さんによると、日新館はとても教育レベルの高い学校だったという。白虎隊士もその教育課程の最中にあった。

 日新館では、剣術や砲術、水泳の仕方、中国の古典、天文学など、まさに文武両道の授業をしている。その上、勉学にとどまらず、細かいところまで心得をたたき込まれた。抜粋して紹介するが、筆者には厳しくてとても全ては守れそうもない。今の時代に守れる子がいるのだろうかというものばかりだ。

厳しい心得の中身は
 白虎隊士が学んだ日新館を忠実に再現した施設。当時の講義の様子などを紹介している=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 六、父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、謹んでその用件を承り、そのことを怠らないでやりなさい(以下略)。

 十、他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んだりしてはいけません。

 十五、身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません(以下略)。

 十七、みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出掛けるのを楽しみにしたりしてはいけません(以下略)。 (日新館公式ホームページより引用)

 この心得を見ていて、目上の人に対する礼儀に関するものが多いと感じた。それほど、上の身分の人間に尽くす心が大事にされていたということなのだろうか。

 天文学を学ぶ、後の白虎隊士の像。奥には、天体の位置を調べるのに使う天球儀を使う少年の姿が見える。会津は天文学が盛んで、当時の藩校としては珍しく天文台もあった=2018年8月、福島県会津若松市【時事通信社】

 少年たちは日新館で自刃の仕方も学んだ。なお、日新館は戊辰戦争時、臨時の野戦病院となったが、焼け落ちてしまった。

 そんな彼らが白虎隊士になったのは、新政府軍との戦争の足音が近づく中で、会津藩が軍制改革を行ったことによる。会津藩は、50歳以上の玄武隊、36~49歳の青龍隊、18~35歳の朱雀隊、そして、16~17歳の少年たちによる白虎隊を編成した。古代中国で信じられた四つの方位をつかさどる神にのっとったものだ。中には白虎隊に入りたくて、年齢を上にさば読みした隊士もいたという。

 白虎隊の構成は以下の通り。
  士中一番隊から二番隊 各50人前後
  寄合一番隊から二番隊 各50人前後
  足軽一番隊から二番隊 各50人前後

 総勢で約300人。予備隊で城の警備に当たる白虎隊には実際の戦闘に出る予定はなかった。このうち、日新館に学んでいた子どもたちが入ったのは「士中」の隊で、自刃したのは隊士の篠田儀三郎率いる十数人。白虎隊の中でも少数だった。

 白虎隊に編入された彼らは興奮していただろう。そんな彼らが死ぬまで、残り5カ月に迫っていた。


崩れ落ちる“同盟”
 白虎隊士が集まった旧滝沢本陣=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍はその後、東北地方の藩へ侵攻を進め、1868(慶応4)年5月1日(旧暦、以下同年の日付はすべて同じ)に白河小峰城(福島県白河市)、7月29日に長岡城(新潟県長岡市)、二本松城(福島県二本松市)、福島城(福島市)と攻め落としていった。二本松の戦いでは、出陣を志願した13~17歳までの少年たち14人も死んだとされている。「奥羽越列藩同盟」の中心だった仙台藩(仙台市に拠点)に至っては二本松城への援護を断り、会津藩を裏切ってしまった。

会津藩は、周りの藩からの援護を失った。

1868年8月20日。白虎隊士が自刃するまで、あと3日。

 新政府軍の猛攻は止まらず、会津までその手は伸びてきた。東側の藩境である母成峠(地図。会津藩の居城、鶴ケ城まで約30キロ)から攻めてきた新政府軍に対し、会津藩や新選組などが抗戦するも敗北。突破されてしまう。

 会津藩は追い詰められた。そして、ついに兵を総動員する。前線に出すはずではなかった白虎隊も戦場に送り込んだ。

早く戦場に

 ここから先は、当時の様子を記しながら、実際に白虎隊が進んだ道をたどる。現地には歴史家の石田明夫さんに同行してもらった。なお、紹介する場所は、森林の中でクマに遭遇する危険性もあるため、1人では行かないでほしい。

 白虎隊士が戦場に向かい歩いた道。今も当時の石畳が残されている=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 8月22日午後0時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残りあと24時間を切った。

 白虎隊の士中二番隊は、警護に当たっていた松平容保に従い鶴ケ城を出て「滝沢本陣」(地図)に到着した。出陣する彼らの中には、それまでの戦争で身内を殺された子どももいる。新政府軍に対して復讐(ふくしゅう)したいという気持ちを持っていただろう。そんな彼らを、親は「お国のために頑張ってきなさい」と送り出した。さみしい気持ちを持っていても、武士たる者はそうしたことを口にできなかった。

 前線に向かう途中、荷物を軽くしようと隊士たちが携帯品を預けた茶屋の跡地がある。石田さんとともにその跡地を訪れた。滝沢本陣から東へ自動車で走り続け、家々から離れて山の方へ。途中で墓が見えた。当時の戦争で亡くなった会津藩側の18人の墓(写真)だ。村人が自主的につくったという。戊辰戦争で亡くなった会津藩士の墓は会津の各地にある。

 車を降りると、あとは歩いた。山中、クマよけとして、木の棒で大木をカンカンたたきながら茶屋跡(地図)に向かった。現地には、彼らがたどった石畳が今も残されていた。石田さんによると、白虎隊士は「現地に早く行きたかった」という。


闇夜に浮かぶ死の恐怖

 会津藩が掘った陣地。高さ約80センチ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月22日午後4時ごろ。白虎隊士が自刃するまで残り約19時間。

 白虎隊は戸ノ口原(地図。鶴ケ城まで約7~8キロ)に到着した。この頃、城下への侵攻を防ぐために壊すつもりだった戸ノ口原近くの十六橋(地図。鶴ケ城まで約9キロ)を既に新政府軍は渡り、戸ノ口原で戦いが始まっていた。雨が降る中、会津藩は徹夜で陣地を築いた。これに白虎隊も参加した。

 当時造られた陣地の跡は今も残っている。茶屋の跡地を訪れた後、石田さんに連れられて見に行った。道から外れ、草木が生える小高い菰土山を登っていくと、山頂に段差が二つできていた。確かに分かりやすく土が盛られ、ここに陣地があったのだと認識できる。高さは約80センチ。石田さんによると、盛り土の上から銃を構え、下から来る敵を撃つためのものだという。

 8月22日午後10時。白虎隊士が自刃するまで残り約13時間。

 白虎隊は、この辺りで露営した。ドラマでは山林の中で露営しているような描写を見掛けるが、石田さんによると、実際には、はげ山だったという。

 白虎隊が一時過ごした菰土山。後に、ここから少し先にある姥山に移った=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 このとき、士中二番隊の日向内記隊長が会津藩の別隊に用があると告げて出掛けていく。2008年に見つかった白虎隊士飯沼貞吉(当時15)の「白虎隊顛末記」には、当時のことについて、以下のように書かれている。

 「(現代語訳)夜明けとなれば、討ち死にと覚悟した少年、三々五々、あちこちでだんらんし、無言の中でいとしい母や姉、妹に別れを告げ、空腹時の補給として与えられた食べ物を腰より取り出して食べ、ともに文武を学んだこれまでのことを話し合い、また、夜が明ければ人に遅れないようにしようと心中を話し、寝る間もなく話していると東の空がまさに明けようとしている。」―。

 当時の感覚を少しでもつかめないかと、石田さんと一緒に訪れたのとは別に、白虎隊が実際に露営していた夜(写真)に訪れてみた。暗闇の中で、死が常につきまとっていたのかと考えると、とても恐かった。現代人の中で、どれだけの人がこの恐怖に耐えられるだろう。

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友達の死

 白虎隊士らと新政府軍が戦った戸ノ口原の戦場=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 1868(慶応4)年8月23日午前5時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り約6時間。

 夜が明けても日向隊長が戻って来なかったため、篠田儀三郎(当時17)は仲間に号令して前進した。そのうち銃声が近くに聞こえた。しかし、戸ノ口原には身を隠すような障壁が無い。篠田隊は溝に隠れた。新政府軍は、前日に布陣していた会津藩の別隊を打ち破り、銃を撃ちながら街道を進んで来ていた。

 このとき新政府軍が持っていた銃は、飛距離800~1200メートル。それに対し、篠田隊が持っていた銃の飛距離は200~300メートルしかなかった。というのも、白虎隊が持ってきた銃は、城に残っていた性能の良くないものだったからだ。そのため、新政府軍が100メートルほどに近づいてくるまで待ってから、篠田の「撃て」という号令で隊士たちは銃を撃った。銃身が熱くなり、手に持つことが出来なくなるほど発射したという。少年が放った銃弾に殺された兵士もいたのだろうか。

 戸ノ口原で亡くなった白虎隊士のものとみられる墓。山中にひっそりと立つ=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 この戦いの地を訪れてみると、とても広い草原だった。標高が約1800メートルあり、「会津富士」とも呼ばれる磐梯山がよく見える。人が行き来する様子はほとんどなく静かだった。そのまま石田さんと歩き続けたところ、「白虎隊奮戦の地」と書かれた大きな碑が立っているのが見えた。付近には当時亡くなった会津藩士の墓(写真)もある。

 白虎隊士の飯沼貞吉が画家に当時の戦争の様子を描かせた絵(写真)がある。左側にいるのが白虎隊で、右側は新政府軍。銃弾を受けた兵士が倒れている様子や、指揮を執る篠田の姿も描かれている。

 戸ノ口原の戦いでは、白虎隊士も死んだ。伊東悌次郎(当時17)、池上新太郎(同16)、津田捨蔵(同16)の3人だ。津田の兄も近くで亡くなっている。白虎隊が露営した菰土山の近くに、彼らを埋葬したと思われる地蔵の絵が彫られた墓が立っている。他の墓の横にポツンと置いてあり、石田さんと一緒でなければ気づかないくらい小さなものだ。これも、地元の村人が立てたものだ。石田さんは、「子どもを見てかわいそうだなと思ってつくった。(遺体は)たぶんその辺に埋まっているでしょう」と話した。

 小さい頃から一緒に遊び、学んできた友達も死んでしまった。


死地へ

 敗走する白虎隊が新政府軍と銃撃戦を繰り広げた地=2018年6月、福島県会津若松市【時事通信社】

 新政府軍の猛攻に及ばず、会津藩は退却の命令を出した。死んだ3人の遺体は置いていくほかなく、霧雨の中、城を目指して篠田隊は来た道を逃げたが、そこには死体があちこちにあったという。地獄の光景だったろう。死体を見ながら、自分達もいつかこうなると考えたりしたのだろうか。彼らが憧れていた戦地の風景と実際の風景は違ったのだろうか。憎き敵から逃げる彼らは、どれほど心が引き裂かれていたのだろうか。

 1868(慶応4)年8月22日午前8時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り3時間。

 篠田率いる隊は2キロほど退却し、ようやく新政府軍から逃れることができた。ただ、このとき点呼すると、隊は16人ほどになっており、会津藩の別隊とも離れ離れになってしまっていた。隊士たちは残っていたおにぎりを分け合って食べた。

 8月22日午前9時ごろ。白虎隊士が自刃するまで、残り2時間。

 隊士たちが鶴ケ城を目指して街道を進んでいると、多くの兵に遭遇した。敵か味方か分からず「合い言葉は?」と声を掛けると発砲された。場所は「馬頭観音石碑」のすぐ近く(地図)で、鶴ケ城までわずか約3キロ。新政府軍は城下深くまで入り込んでいたのだった。

 飯盛山では、実際に白虎隊士が通った洞門の出口を見ることができる=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(当時16)が腰の辺りを撃たれてしまう。周辺は遊び場で、どんな場所かを知っていた白虎隊士たちは用水路(写真)の方へ逃げた。永瀬の傷があったことから山頂を目指すのは諦め、用水路から洞門(写真)をくぐって、飯盛山の中腹へ進むことにした。

 今も残るこの洞門には水が流れている。「8月」は旧暦で、現代の暦では10月に当たる。秋の冷たい水に浸りながら、当時約140メートルあった暗い洞窟を少年たちは進んだ。石田さんは、このときの彼らは「お城やお殿様はどうか」と心配し、早く城に行きたい気持ちだったろうと推測する。

 8月22日午前10時。白虎隊士が自刃するまで、残り1時間。

 冷たい水と暗闇に耐え、洞門を出た隊士たちは厳島神社(写真)の前で一度休憩した。すると、大砲や鉄砲の音が聞こえた。鶴ケ城が心配だった彼らは、城下が見える所まで行こうと水路に沿って山を登っていった。そして彼らは自分たちの死地にたどり着く。


城が燃えていないのは知っていた

 飯盛山にある白虎隊士19人の墓。この奥にも、戦死した白虎隊士の墓が別にある=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 白虎隊の話を聞いたことがある人の中には、「お城が燃えていると勘違いして自殺した」と思っている人もいるだろう。会社の後輩にも聞いてもそうした答えだった。

 だが、飯沼貞吉が書き残した「顛末記」によると、実際は違うという。彼らは城が燃えていないことを知っていた。ならばなぜ、彼らは自ら死を選んだのか。

 彼らが自刃の地にたどり着いた時、燃えているのは城下で、城は燃えていないのが見えた。今後どうするのか、少年たちは話し合った。野村駒四郎(当時17)は「敵と戦おう」と提案。井深茂太郎(同16)は「蒲生氏郷(安土桃山時代の武将)が築いた名城だから落ちることはない。城に戻って戦おう」と話す。議論は1時間も続いた。

 この議論を終わらせたのは、小隊長の篠田だった。「誤って敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君(藩主の松平容保)や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」-。

 石田さんによると、彼らは捕まったら殺されると思っていたという。この案に全員が納得した。

 1868(慶応4)年8月23日午前11時ごろ。

 飯盛山から見た城下の景色。遠く、木々が多く集まっているあたりに小さく鶴ケ城が見える=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 隊士たちは持っていた刀で自らを突き刺した。死ぬ間際、彼らの心中には何が浮かんでいたのだろう。筆者には想像することしかできない。

 石田さんと飯盛山を訪れると、中腹には彼らの墓が横にずらりと並べられていた。多くの観光客が訪れ、線香の煙と香りが漂う。彼らが知る由もない光景だ。

 墓から少し歩いた所にある自刃の地(地図)からは、町を眺めることができた。ここに置かれた白虎隊士の銅像(写真)が見ている方向に目を凝らすと、小さく鶴ケ城が見えた。

 「自分が高校生くらいの年で自刃できるかと考えると、なかなか信じられない」-。白虎隊士の話を石田さんに聞く中で、ふと口に出た。石田さんは「敵に捕まることは武士の恥。当時はそういう教育を受けていた」と語った。

 教育か-。今から70年以上前の日中戦争や太平洋戦争でも「戦陣訓」にまつわる同じような話があったことを聞いた。当時の感覚と今とでは全く違うことは分かるが、環境や教育次第で、人は死を自分から選んでしまうものなのだろうか。


その後も死は続く

 戦後に撮影された鶴ケ城。1874(明治7)年に石垣だけを残して取り壊された。現在の城は、1965年9月に建て直された(福島県会津若松市提供)【時事通信社】

 新政府軍が城下へ突入し、白虎隊士たちが日常生活を過ごしていた町は火に包まれた。会津藩は、藩士やその家族に城内に入るようお触れを出していたが、女性や高齢者、子どもたちの中には、足手まといになるまいと集団自殺した人もいた。会津藩の家老だった西郷頼母の一族は21人が自刃(写真)。2~9歳の3人の娘は頼母の妻・千重子が刀で刺し殺した。

 会津藩の籠城戦は約1カ月続いた。新政府軍に包囲され、鶴ケ城は砲撃を受け続けた。白虎隊の1人で、後に現在の東京大学の総長になる山川健次郎が編集した「会津戊辰戦史」には籠城戦について以下のような記述がある。

 「(現代語訳)戦いが激しくなると、病室は、きりをほとんど刺すことができないほど隙間なく、手が無くなったり足が砕けたりした者、全身の皮膚がただれた者で雑然として、苦しんでうめいていた。しかしながら、皆、悔しさやその姿から、敵と戦おうと思わない者はいない。しかし、西軍の砲撃はますます激烈となり、砲弾は病室または婦人室で破裂し、全身が粉々となり、肉片の塊が飛散して、四方の壁に血痕を残す者がいた。その悲惨な痛ましい光景は表現できないものだ」-。

 仲間とはぐれた白虎隊士の酒井峰治が愛犬のクマと再会した時の銅像。飯盛山中腹の「白虎隊記念館」の前に立っている=2018年5月、福島県会津若松市【時事通信社】

 城内外では、銃やなぎなたを手に取った女性たちや、会津出身ではなかったものの上官とたもとを分かち会津に残った者らが老若男女を問わず、死に物狂いで戦い続けた。その日、もし自らが生き残っても、知人や家族が死んでいく日々が続いた。

 篠田儀三郎とともに敗走した白虎隊の中にも生き残った隊士がいた。飯沼貞吉は自決しようとするも、奇跡的に息を吹き返した。その後、戊辰戦争で敵方だった長州藩に拾われた。酒井峰治は戸ノ口原での戦いの後、仲間とはぐれたが、農民に拾われた。後に愛犬のクマと再会し、籠城戦に参加した。

 白虎隊士が自刃してから約1カ月後の9月22日、会津藩は白旗を揚げ、新政府軍に降伏した。

 会津戦争では、兵員のほか、巻き込まれた農民や婦女らも含めると数千人が犠牲になったとも伝えられている。飯盛山で自決した白虎隊士もその数千人の一部だった。

 この戦争を生き残った飯沼貞吉も酒井峰治も生前、白虎隊について多くを語らなかったという。

【会津若松】新選組隊士の鉢金や鎖かたびら展示 会津新選組記念館の特別展
 会津若松市七日町の会津新選組記念館(高橋一美館長)の戊辰戦争150年後期特別展「会津戦争と新選組」は28日から同館で開かれ、貴重な展示資料の数々が来館者を魅了している。11月末まで。

 同館は「骨董(こっとう) むかしや」の2階にあり、古式鉄砲研究家の高橋館長が長年にわたり収集した個人コレクションが展示されている。戊辰150年の節目に合わせ、前期、中期と開かれてきた特別展の最後となる今年3期目の特別展。

 今回は、会津戦争や、京都の治安維持を担う京都守護職を拝命した会津藩主松平容保(かたもり)のもと「会津藩御預」として活躍した新選組の関係資料を中心に展示した。

 「京都禁門(蛤御門)の変」や「徳川慶喜大坂脱出の図」「江戸無血開城の図」などの錦絵や新選組隊士が頭に巻いた鉢金、新選組筆頭局長芹沢鴨のものと伝わる鎖かたびらなどを展示している。

 また大河ドラマのロケでも使用されたゲベール銃、スナイドル銃、スペンサー銃なども並ぶ。放映中の大河ドラマ「西郷どん」の撮影で使った銃なども展示されている。

 開館時間は午前10時から午後5時ごろまで。不定休。入場料は大人300円、小・中学生200円。問い合わせは同館(電話0242・22・3049)へ。

旧会津藩主・松平容保「助命」に領民奔走 新たな史料など紹介
戊辰150年を機に「戊辰と明治」について考えるシンポジウムが12日、会津若松市で開かれた。西軍側の史料で「開城後、領民は旧会津藩主松平容保(かたもり)に背を向けて冷ややかだった」とされてきたことを覆す内容の史料が紹介され、来場者が熱心に耳を傾けた。

 シンポジウムは同市の郷土史家ら有志による会津戊辰戦争150周年事業実行委員会(阿部隆一会長)の主催。パネル討論では戊辰戦争後の1868(明治元)年11月に会津から上京した10人の村の世話役「肝煎(きもいり)」が手分けをして阿波徳島、肥後熊本、長州、久留米、土佐各藩などに藩主の助命嘆願をするため奔走した史料などが紹介された。

 進行役を務めた会津幕末史研究会の簗田直幸さんは「領民は平和を願っていた。望んでいない戊辰戦争に巻き込まれ、兵火で村落が焼失したが、藩主を冷ややかな目で見るようなことはなかったはず」と述べた。

 助言者の落合弘樹明治大文学部教授(明治維新史学会理事)は「明治政府が政府に都合のいい声だけを拾い集めて歴史をつくり上げた点は否定できない。肝煎が命懸けで藩主の助命嘆願をしていたとすれば、会津の歴史を考える上で非常に興味深い」と語った。

 老幼婦女子の戦闘にも目を向け、会津の歴史研究をさらに発展させる必要性なども指摘された。

 パネル討論に先立って、歴史研究会の大塚セイ子さんが「戊辰戦争後の塩川の役割」、熱海史談会の佐藤秀雄さんが「石筵(いしむしろ)村のできごとについて」をテーマにそれぞれ語った。また、簗田さんが「兵火による村落の焼失について」と題して発表し、幕末史を見直す会の鈴木ひろみさんが「籠城を戦い抜いた婦女子の心の支え」を題に、照姫についての研究成果を発表した。

浜に眠る鳥取藩士 寄宿縁で慰霊継承
いわき市の北隣に位置する広野町も戦いの場になった。戦端は一八六八(慶応四)年七月に開かれた。東軍(旧幕府軍)が広野宿に置いた拠点を巡る攻防だった。
 東軍側の相馬中村藩と仙台藩、磐城平藩、西軍(新政府軍)勢の広島藩と鳥取(因州)藩などが今の二ツ沼総合公園周辺で激突。五日間に及ぶ戦いの末、西軍勢は広野宿を攻略した。
 いわき市久之浜町の外れにある龍光寺境内に鳥取藩士、近藤類蔵(るいぞう)が眠る。
 「歴史が紡いだ不思議な縁を大切にしていきたい」。近くに住む木村芳秀さん(81)は墓碑を前に感慨深げに語る。
 木村家は代々続く名家で、近藤の墓を守り継いでいる。今年も月遅れの盆の入りに当たる十三日に親族と連れだって線香を手向けた。
 墓碑には「因州砲隊長近藤類蔵孝敏墓」と刻まれ、墓が建てられた経緯が側面に記されている。鳥取藩が供養料を出し、奥羽追討参謀だった河田左久馬が建立したとある。
 遺体が龍光寺に葬られた詳しい経緯を知る人は既にいない。だが、木村さんは木村家が墓参を続けるようになったきっかけを伝え聞いている。

◆不思議な縁 

 鳥取藩は広野の戦いに備え、久之浜町で大須賀家という地元の旧家が営んでいた亀田屋に陣を張り、寄宿した。近藤は西軍勢の進撃を食い止めようとする東軍との激しい戦いで負傷し、亀田屋に運び込まれたが、三十七歳で亡くなった。当初は大須賀家が慰霊し、縁戚関係にあった木村家が引き継いだ。
 木村さん方では霊を祭る霊璽(れいじ)と慰霊行事で使った旗を大切に保管している。家屋は東日本大震災の津波で床上まで水に漬かったものの、霊璽と旗は難を逃れた。

◆役目 

 木村さんは戊辰戦争の記憶を次代に伝える活動に力を注いでいる。昨年まで会長を務めていた久之浜・大久地域づくり協議会は戊辰戦争開戦百五十年を記念し、今年秋にも白河、二本松、会津若松各市など県内の戊辰戦争ゆかりの地を研修で訪れる。十一月十八日には市地域防災交流センター「久之浜・大久ふれあい館」で記念講演会の開催を予定している。鳥取市歴史博物館の学芸員伊藤康晴さんが「因州兵の戊辰戦争と久之浜・大久」のテーマで久之浜・大久地区と戊辰戦争との関わりを語る。
 「この地が戊辰戦争に関わっていたと知る人は少なくなった。地域の歴史を理解すれば郷土愛を深められる。記憶を継いでいく役目をしっかりと果たしたい」。節目の年に思いを一層強くしている。

( 2018/08/20 08:28 カテゴリー:主要 )

新潟
企画展「戊辰戦争150年」 26日閉幕 県立歴史博物館 /新潟
 県立歴史博物館(長岡市関原町1)で開催されている企画展「戊辰戦争150年」が26日に閉幕する。同企画展は福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画展覧会。展示資料は各地域の戊辰戦争ゆかりの資料も展示するため、会場ごとに増減をしながら福島県会津若松市(9月1日~10月14日)、仙台市(10月26日~12月9日)それぞれの…
 以下は毎日新聞の有料版にて。

神奈川
【神奈川】戊辰戦争 その時、横浜では 開港資料館などで企画展
 明治維新(一八六八年)から百五十年を機に、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争(六八~六九年)時の横浜を紹介する企画展「戊辰の横浜」が横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている。十月二十八日まで。

 同館によると、英国やフランスなどの外国軍が駐留していた横浜・関内地区では戦闘が発生しないまま、新政府軍に接収された。同展では、現在の京急線日ノ出町駅近くにあった横浜病院で重傷の新政府軍兵士を治療した記録や、接収前に旧幕府軍が横浜港で銃器や蒸気船を購入したことを示す文書など計百点を紹介している。

 吉崎雅規・調査研究員は「横浜港では六七年に十万丁以上の小銃が輸入され、(新政府軍の)薩摩、長州両藩が武器を輸入していた長崎港の一・五倍あった。横浜も戊辰戦争と無関係ではなかった」と解説する。

 同市都筑区の市歴史博物館でも、同名の企画展が九月九日まで開かれている。横浜北部の村などにあった自主防衛組織「農兵隊」が、新政府軍に銃器を強制回収された記録など百二十点を展示している。

 開港資料館の入場料は大人二百円、小中学生百円。歴史博物館は大人五百円、大学・高校生二百円、小中学生百円。両館とも原則月曜休館。問い合わせは開港資料館=電045(201)2100=へ。 (志村彰太)

高知
高知県北川村の中岡慎太郎館が企画展「四国の戊辰戦争」
 戊辰戦争(1868年1月~69年5月)と土佐藩の関わりを史料で読み解く企画展「四国の戊辰戦争」が、高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で8月27日まで。

山口
毛利敬親企画展名君、注目度上昇 激動の幕末生きた長州藩主、人物像に迫る 山口、防府 /山口
 明治維新150年の今年、幕末の長州藩主・毛利敬親(1819~71年)の人物像に迫る意欲的な企画展が県内各地で開催されている。並み居る志士たちの活躍を支え、尊皇攘夷(じょうい)や禁門の変、戊辰(ぼしん)戦争など激動の時代を生きた名君に改めて注目が集まっている。【坂野日向子、平塚裕介】

 山口市の市菜香亭(083・934・3312)では「藩主毛利敬親の真のキャラクターに迫る」が開催中だ。敬親は、家臣の意見に反対せず「そうせい」と応じたとして、別名「そうせい候」とも呼ばれた。

 展示では、そのようなイメージと異なるエピソードをかるた形式で紹介した。掛け軸一つ買うにも熟考して質…
 以下は毎日新聞の有料版にて。
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