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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
ここのところ暑すぎたり寒すぎたりしたりして天候不順ですが、今日は初夏らしく爽やかな天気ですね。土方さんが生まれた日は新暦に直すと6月ですが、梅雨の晴れ間のこんな天気だったのでしょうか。
 昨夜NHK『英雄たちの選択』で土方歳三さん回の再放送していました。磯田道史さんが監修してますし、函館の二股口でのロケにも〜さんが出演するので昨年末に放送されてから保存しているのですが、改めて拝見。先日日野宿本陣で久しぶりに解説に聞いたことも思い出していたのですが、土方歳三の洋式戦法での優れたセンスを語る時に豪農出身だったことよりも姉のぶの嫁ぎ先である佐藤彦五郎の名主としての生活環境に触れていたことにもっと注目した方がいいと思いました。甲州街道の宿場町で、常時馬や人足(特に日野宿は多摩川の万願寺の渡しを管理している)を抱え、日銭を管理する名主だったことが、土方さんのマネジメントセンスの基礎となっていただろうと思うのです。

福島
<戊辰戦争150年>無念の最期に思い寄せて 犠牲となった女性たち慰霊 会津若松で碑前祭
 戊辰戦争で犠牲になった230人を超える会津藩の女性を追悼する「奈与竹之碑」の碑前祭が1日、会津若松市北青木の善竜寺であった。
 顕彰活動を続ける嫋竹(なよたけ)会が主催し、会員や地域住民ら約200人が参列。吉田幸代会長(81)は「戊辰戦争150年の今年は碑建立から90年を迎える。先人に思いを寄せ、多くの人に関心を持ってほしい」と祭文をささげた。近く、参道周辺に新たな案内板を設置することも報告した。
 読経、焼香の後、市謹教小の児童が歌い継ぐ「なよたけの歌」を奉納。葵高の女子生徒15人が舞踏や剣舞を披露し、郷土のために命を落とした女性たちの霊を慰めた。
 戊辰戦争では会津藩士の妻や娘が犠牲になった。足手まといにならないようにと自ら命を絶った女性も少なくなかったという。
 碑は1928年建立。関係者が犠牲者を調べ、判明した233人の名前が刻まれた。「なよたけ」は一族21人が自刃した会津藩家老西郷頼母の妻千恵子の辞世の句から取った。


愛知
尾張音楽史幕末~昭和を追体験 6週連続で講演付き演奏会 11日から一宮 /愛知
 芸どころと言われる尾張名古屋の音楽は、幕末から昭和にかけてどう変遷していったのか--。こんなユニークな視点の6週連続の講演付き演奏会「尾張音楽史」が、11日から一宮市木曽川町内割田の市木曽川文化会館(尾西信金ホール)で開かれる。【長倉正知】

 一宮市市民会館の自主企画で、愛知県立芸術大(長久手市)が協力した。同大芸術創造センター長の井上さつき教授(62)は「尾張というと音楽とは縁遠いイメージがあるが、全然違います」と話す。1回90分のうちテーマに沿った講演と、関連する生演奏が半々になるという。

 テーマは(1)11日「尾張の雅楽」(2)18日「唱歌のはじまり」(3)25日「和洋合奏の楽しみ」(4)6月1日「第三師団軍楽隊の活躍」(5)8日「戦前の名演奏家の時代」(6)15日「鈴木政吉と鈴木弦楽四重奏団」--。講師は(1)は寺内直子神戸大学教授、(4)は丹下聡子県立芸大非常勤講師で、それ以外は井上教授が務める。主に県立芸大の関係者が演奏する。

 「明治に西洋音楽が日本に入ってきて学校で唱歌を教えるようになったが、それを担ったのは雅楽の奏者でした。時系列に沿って西洋音楽がどう展開していくかを分かりやすく解説します」と井上教授。(1)の雅楽は真清田神社(一宮市)の真清伶人会が演奏する。(2)では尾張藩の楽人が作った唱歌や愛知県唱歌などを披露する。(3)では明治から大正にかけてバイオリンがブームになり、琴や尺八と合奏して楽しんだ状況を紹介。(4)と(5)で、名古屋の軍楽隊や、名古屋を訪れた世界的な名演奏家が音楽普及に果たした役割などを明らかにする。

 (6)は明治時代にバイオリン製造を手がけ「日本のバイオリン王」と呼ばれた名古屋の鈴木政吉と、その三男で音楽教育法「スズキメソード」の創始者、鎮一が弟たちと結成した鈴木クワルテットについて語る。海外で評価の高かった政吉のバイオリン(1929年製、県立芸大所蔵)も、いずれかの回で演奏に使う予定という。

 「音楽史というほど難しくないし、当時の人が楽しんだ音楽を追体験できる面白い企画」と井上教授は来場を呼び掛ける。企画を立案した同会館の大嶋英司館長(43)は「音楽を通して埋もれた文化を見直すことで、地域の発展につなげたい」と狙いを話す。

 「尾張音楽史」は毎回午後2時開演。料金は各回800円(全席自由)。一宮市民会館(0586・71・2021)や市木曽川文化会館(0586・86・7581)などでチケットを販売中。

大阪
展覧会浮世絵で描いた戦国 幕末から明治の59点 大阪城で /大阪
幕末から明治に変化した時代の人気絵師の作品を集めた展覧会「浮世絵師が描いた乱世」が、大阪市中央区の大阪城天守閣で開かれている。戦国武将らを描いた武者絵が庶民に喜ばれ、当時の社会観などを知ることができる貴重な資料という。5月6日まで。【山本夏美代】

 「幕末・明治維新150年」がテーマ。反骨精神を秘めた風刺画が得意で、豊臣びいきともいわれた歌川国芳や、その弟子で「最後の浮世絵師」といわれる月岡芳年らの59点が並ぶ。武者絵の実物と、見やすいように高さ約1メートルに拡大したものも展示。背景がうかがえる歴史エピソードも紹介している。

 武者絵は、江戸時代の歴史小説「軍記物」を題材に、多色刷りの木版画で出版された。色鮮やかで躍動感にあふれ、人間味ある表情が特徴となっている。

 風刺要素を含んだ作品も多く、歌川芳虎作の「水攻防戦之図」は「絵本太閤記」の挿絵とほぼ共通するが、外国船が江戸城を攻撃している図にも見立てられ、大評判だったという。

 また、織田信長の最期をダイナミックな構図で描いた作品や、幕府が武士名の表記を禁じたのに「おだ」を「おおた」、「のぶなが」を「はるなが」と記した作品など、絵師らの工夫も見られる。

 岡山県倉敷市の中瀬哲平さん(37)と千春さん(39)夫婦は「興味深い作品ばかりです」と見入っていた。

 入館は午前9時~午後5時半。入館料は大人600円、中学生以下無料。同館(06・6941・3044)。

幕末・維新をゆく妙国寺=堺市堺区 「堺事件」11人切腹の地
<ぐるっと兵庫・大阪・京都 ちょい旅>
 新政府軍と旧幕府軍がぶつかった戊辰戦争のさなか、堺で新政府の今後を左右しかねない事件が起きた。堺の警備を担った土佐藩士がフランス水兵を銃撃した責任を問われ、11人が切腹した「堺事件」。その現場は、室町時代に創建された名刹(めいさつ)、妙国寺だ。壮絶な死を遂げた土佐藩士の足跡を訪ねた。【谷田朋美】
 事件は1868年2月、鳥羽伏見の戦いの直後に起こった。堺を警備中の土佐藩士が、海岸の測量をしていたフランス海軍の水兵とトラブルになり、銃撃して11人の死者が出た。新政府は、「全員打ち首にせよ」とのフランス側の要求を受け入れて、発砲した藩士ら20人に切腹を命じた。

切腹した土佐藩士と、フランス水兵を慰霊する碑が境内に建つ。月命日には今も供養がある=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 妙国寺の門をくぐると、色鮮やかな本堂に迎えられた。第二次世界大戦で焼失し、敷地が縮小。切腹した場所は現在、住宅地となり、境内には慰霊碑が建つ。地元の市民らでつくる「堺事件を語り継ぐ会」事務局長の呉竹正さんは「切腹は上級武士だけの特権。屈辱的な要求の中で、新政府は切腹だけは譲らなかった」と話す。

 土佐藩士はなぜ、銃を持たないフランス水兵に発砲したのか。当時、堺は例外的に外国人の遊歩が認められていた。一説には、急きょ派遣された土佐藩士はそのことを知らされていなかったとも。通訳がおらず意思疎通できなかったことは事件を招いた一因だろう。しかし詳しい経緯は分かっていない。高知県立歴史民俗資料館学芸課長の野本亮さんは「資料がほとんど残っていない。意図的に処分された可能性はある」と話す。

 「開国する皇(みかど)の方針を妨げた」とされた土佐藩士。野本さんは「新政府の指導者らは攘夷から開国に急に方針転換した。下の者が簡単に思想を変えないことは分かっていた」と指摘する。発砲から切腹までわずか8日間。新政府が決着を急いだことがうかがえる。


切腹した11人と橋詰愛平の墓=堺市堺区で、谷田朋美撮影
 ソテツの枯山水を右手に眺めながら、本堂の廊下を進むと、突き当たりに、戦火を免れた遺品約30点が並ぶ宝物資料館がある。まず目に入るのが、遺髪20人分の束だ。実際に切腹したのは11人。立ち合ったフランス側が途中で中止を申し入れたからだ。

 切腹の際、隊長の箕浦猪之吉が腰にあてて支えにしたという「三方」には、大量の血の痕が残っていた。切腹の際、飛び出した自分のはらわたをつかみ、居並ぶフランス水兵に向かって投げつけたという話は有名だ。

 妙国寺の向かいの宝珠学園幼稚園の敷地には11人の墓があり、特別に見学させてもらった。11基の墓のわきにもう1基、墓があった。「12番目に切腹する予定だった橋詰愛平の墓。自殺未遂した後、墓守に一生をささげた」と呉竹さん。橋詰ら生き残った9人は流罪となり、明治天皇の即位で恩赦に。精神を病むなど、多くは苦難の人生を歩んだという。


妙国寺(堺市堺区)  ※地図
 「潔く勇敢」「軍人の鏡」「平和に反する」……。彼らほど、時代に評価が左右されてきた維新の志士も珍しい。野本さんは「十分な検証がされてこなかった」として、妙国寺と連携し、遺品調査などを進めてきた。高知県立歴史民俗資料館では1~3月、堺事件を多角的に検証する企画展が開かれた。堺市でも呉竹さんらが「堺事件を語り継ぐ会」を結成した。明治維新150年を機に、堺事件に改めて向き合う機運が高まっている。
岡山
幕末の名刀近藤勇が愛した「乕徹」など9本披露 20日まで、県立博物館 /岡山
 今年が明治元年(1868年)からちょうど150年目であることにちなみ、新撰組・近藤勇の愛刀として知られる「乕徹(こてつ)」など、幕末から明治維新の時期に関わりの深い名刀が県立博物館(岡山市北区)で展示されている。20日まで。

 同館によると、幕末から明治維新の時期は、日本刀が実際に武器として使われており、江戸時代などに比べて実用性が重視された造りが特徴。今回は同館が保管・所蔵する9本がお目見えした。国の重要文化財の乕徹に加え、刀の名産地として知られた備前長船(現・瀬戸内市)の刀工たちの作品や名刀を擬人化したオンラインゲーム「刀剣乱舞」に登場する「加州清光」などを見ることができる。
 刀身だけでなく、鞘(さや)や柄、つばなどの凝った意匠に注目した展示や、レプリカで日本刀の重さを実感できるコーナーもある。

 大人250円ほか。月曜休館。12日午後2~3時に学芸員による展示解説もある。【林田奈々】

高知
幕末の軌跡、史料でたどる 高知県北川村の慎太郎館で企画展
 高知県安芸郡北川村柏木の中岡慎太郎館で、館所蔵の史料で幕末維新の転換点となった出来事を振り返る企画展「収蔵品でたどる幕末維新史」の第1部が開かれている。「志国高知 幕末維新博」の関連企画で6月25日まで。

 第1部は、幕末の動乱が始まったペリー来航(1853年)から、三条実美ら急進的攘夷派の公家7人が京都を追われ、慎太郎脱藩の契機ともなった「八月十八日の政変」(1863年)までを史料46点でたどる。...
 以下、有料記事。



コラム
幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか?
河合 敦 歴史研究家
多摩大学客員教授
江戸幕府は、各藩の教育には口をはさまなかった。だから藩によって士風が大きく異なったことは、前回、薩摩藩と会津藩を例に詳しく述べた通りだ。

(前回の記事『江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」』はこちら)

今回は、その第二弾として、庄内藩(山形県鶴岡市)を取り上げたいと思う。

江戸時代のリベラル教育
庄内藩は、現在の山形県鶴岡市を本拠地とする東北地方の藩で、小説家、藤沢周平の作品にしばしば登場する「海坂藩」のモデルとしてご存知の読者もいるかもしれない。

厳しい封建制度が基本の江戸時代において、史実の庄内藩は、領民をかなり手厚く保護し、領民もこれに感謝の念を抱いていた。こうした庄内藩のユニークな風土は、その藩士教育の影響がきわめて強いと思われる。

前回紹介した二藩がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主の酒井忠徳の強い希望で創建されたが、次代(十代藩主)の酒井忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、ときには会議や裁判もおこなわせた。

その理由について忠器は、「藩政にかかわる施策や方法は、学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」と述べる。このように、政教一致という変わったスローガンをとなえたのだ。

さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置した。

なんともユニークな思考だが、致道館の教育も、他藩と違った特徴を持っていた。教育の柱を幕府が正学と認めた朱子学ではなく、徂徠学としたことである。

当時、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、朱子学以外の学問を異学として禁止していた。そのため諸藩もこれにならい、朱子学を中心に教育をおこなう藩校が激増する。そんな中、庄内藩はこの流れに逆らい、徂徠学を中核にすえたのである。

理由はいたって簡単で、藩の重臣に徂徠学を学んでいる者が多かったからだ。

徂徠学とは何か
徂徠学とは、荻生徂徠が十八世紀前半に提唱した学派で、古文辞学とも呼ばれる。その特徴は、中国の古典や聖賢の文に直接ふれ、聖人の道を明らかにしようとしたところで、徂徠は将軍徳川吉宗にその著書『政談』を献上するなど、経世論(政治学)にも重点を置いていた。

文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。ただ、面白いのは、その目標を達成するためにとられた教育方法だった。

初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)

と依頼したのである。

原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。

「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが致道館の方針だった。いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

こんなに自由だったとは
徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

館内での碁や将棋、飲酒、喫煙、楽器演奏などは禁じられたが、それはあくまで原則で、「格別の訳これある節は、祭酒、司業沙汰に及ぶべきこと」という但し書きが付けられており、校長や教頭に一言いえば、酒を飲んでも、煙草を吸っても大丈夫だったというのだから、驚くばかりだ。

しかも、こうした放任主義教育が、武士の質を低下させたかと言えば、決してそうはならなかった。むしろ、このようなユニークな致道館の教育を受けた庄内藩士は、それぞれの個性を存分に伸ばし、己の判断で行動できる役人として、藩に忠勤するようになった。

だがそんな庄内藩は、明治維新で図らずも朝敵になってしまう。
庄内藩がここまで強かったワケ
慶応三年(1867)末、西郷隆盛は徳川家を武力で倒すため、江戸に浪人たちを送り込んで、市中で乱暴狼藉を働かせて新政府に挙兵するよう徳川を挑発した。このとき江戸の治安を守っていた庄内藩は、それに乗って薩摩藩邸を焼き打ちしたのである。こうしたこともあって、戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

昨年から今年にかけて、新しい小中高の学習指導要領が発表された。学習指導要領は、各教科の目的、教えるべき内容などが記されている、いわば教育課程の大綱的基準である。

新しい学習指導要領が目指すものは「主体的・対話的で深い学び」の実現である。子供たちが自ら意欲をもって学習に取り組み、周囲の人々との対話や協力を重ねながら、自らの力で問題点を見いだして解決策を考えたり、自分の構想を効果的に説明したり、議論する力を身につけさせることである。

そうした人材を育てなければ、人口減少、グローバル化、人工知能の発展など、予測不可能な時代に対応できないと政府は判断しているのである。

けれど今述べたように、すでに同じような教育活動が、江戸時代の庄内藩で実施されていたのである。

歴史には叡智が詰まっている。私たちはもっと過去の日本を知り、そこから智慧を拾って、未来に向けた解決策を見いだすべきではないだろうか──。
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