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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
秋の日は釣瓶落としといいますが、本当に昼が短くなりましたね。秋という季節は好きなんですが、日照時間が早く短くなるので体調を崩しがちなのが悩みの種です。

宮城
<戊辰戦争150年>東北の幕末史網羅 仙台市博物館で藩主建言書など230点展示
 仙台市博物館、新潟県立歴史博物館、福島県立博物館の3館主催による共同企画の特別展「戊辰戦争150年」(河北新報社、NHK仙台放送局共催)が26日、仙台市博物館で始まった。12月9日まで。
 薩摩藩、長州藩中心の新政府軍から「朝敵」とされた会津藩や、会津藩を救おうとした東北、越後各藩の視点を軸に、全国から広く集めた古文書や絵図、旗、武器など約230点を展示。東北の幕末・維新史を網羅した内容となっている。
 当時の仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が新政府に会津追討を思いとどまるよう求めた建言書や、奥羽列藩同盟の盟約書の写し、新選組袖章、天皇の軍の証しとして新政府軍が掲げた錦旗などが並ぶ。
 列藩同盟が独自政権を構想し、元号を「大政元年」と改元したとする資料など珍しい品もある。既に終了した新潟、福島の両博物館での展示には出品していない仙台独自の資料が約100点含まれる。
 仙台市宮城野区の無職安久津知子さん(81)は「身近なのに学校の授業では教わらず、知らなかったことだらけ。何度でも足を運びたい」と話した。
 開館は午前9時~午後4時45分。月曜休館。一般・大学生1000円、高校生500円、小中学生400円。会期中の土日・祝日には新選組の衣装を無料で試着できる体験会もある。

福島
戊辰戦争戦死の「西軍藩士」慰霊 会津若松で墓前祭、80人参列
 戊辰戦争で戦死した土佐、薩摩、長州、大垣など各藩の藩士らが埋葬されている会津若松市の西軍墓地で23日、墓前祭が行われた。

 会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会(山田悦史会長)が毎年行っており、65回目。戊辰150年の節目とあって、例年以上に多くの参列者が訪れた。

 地元や西軍の関係者ら約80人が参列。神式と仏式で墓前祭が行われた。山田会長が祭文を読み上げ、会津吟詠会の詩吟奉納が行われた。地元の関係者や子孫、山口、佐賀両県の関係者らが玉串をささげ、焼香した。山田会長が謝辞を述べた。

 弟の土佐藩三番隊長小笠原謙吉と共に会津で戦死した牧野茂敬(迅衝隊軍監)の子孫という小笠原洋子さん(78)=神奈川県逗子市=は「こうしてお墓を守っていただいて、会津の方々の温かい気持ちをうれしく思います」と話した。

 同墓地には、西軍9藩の150柱(藩籍不明1柱を含む)が祭られている。

(文化の扉)戊辰戦争、無念の150年 「賊軍」とされた会津/列藩同盟、当初は「非戦」
 時代が明治に変わる150年前、東北地方などで大規模な内戦があった。戊辰戦争だ。江戸城の開城後も奥羽・北越などの諸藩は新政府を相手に団結し、戦った。敗戦で厳しい処分を受けた地域は、「賊軍」とされた無念を引きずってきた。

 戊辰戦争150年に合わせた「全殉難者慰霊祭」が6日、仙台市であった。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「本来は平和のための非戦同盟としての行動でありました」と述べた。

 奥羽と北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍を相手に現在の東北地方や新潟県の各地で戦い、敗れた。「非戦」とは、どういう意味か。

 「そもそも戦争をしたくて列藩同盟に加盟した藩は一つもないと思います。むしろ、巻き込まれたという認識でしょう」。そう語るのは、福島県立博物館の阿部綾子・主任学芸員だ。

 戦争のきっかけは1868年1月の鳥羽・伏見の戦いだ。旧幕府軍などは薩摩、長州藩中心の新政府軍に大敗。新政府は会津藩を「朝敵」とし、仙台藩に征討を命じた。

 仙台藩主の伊達慶邦(よしくに)は戦争回避に向けて動く。征討は、まだ幼かった明治天皇が判断したのかなどの疑問点を建白書にまとめた。だが京に届けられた時、すでに征討軍は出発していた。

 新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府が東北に入ると、会津藩謝罪の条件として要求したのは、藩主だった松平容保(かたもり)の首。会津藩にとって受け入れがたい内容だった。

 仙台藩と米沢藩は奥羽諸藩に会津救済を呼びかけ、賛同した藩の代表者が署名した。この時は、東北で戦火を交えないことをめざした盟約だった。

     *

 提出された嘆願書を、新政府の奥羽鎮撫総督が却下したことで転機を迎える。

 仙台市博物館の水野沙織・学芸員は「嘆願書の署名の前に仙台、米沢、会津の3藩の会合で、もし謝罪が認められず、鎮撫軍が暴挙に出たときは一緒に戦うことを約束していた」。仙台藩士らが総督府下参謀を殺害したことも加わり、対決は不可避に。「情勢の変化によって目的が変わり、同盟を結成し、新政府軍と敵対することになった」

 5月、同盟は奥羽・北越の31藩に達した。だが、軍事同盟に変わり、各地の戦いで劣勢となる中、離脱する藩が相次ぐ。8月には会津・鶴ケ城下に新政府軍の侵攻を許す。9月に入ると、米沢、仙台両藩、そして会津藩などが降伏し、戦場は箱館へと移っていく。

     *

 新潟、福島両県と仙台市は今年、「戊辰戦争150年」展を企画した。会場には、一人の会津藩士が戦争から約40年後に書き記した書物「雪冤(せつえん)一弁」が展示されている。「雪冤」は「無実の罪をそそぐ」という意味だ。序文で、明治政府に媚(こ)びて真実を伝えない書物が流布していると執筆の動機を説明している。阿部さんは「会津藩が朝敵とされたことに対し、割り切れない思いが随所に表れている」。

 この藩士が憤るのは「会津藩こそ天皇に誠を尽くした」という思いがあるからだ。容保は京都守護職として、幕末の混乱した京で治安の維持に努めた。孝明天皇からは、忠誠を喜ぶ手紙が届けられたほどだ。

 だが、孝明天皇の死後、薩摩藩などは鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗を掲げ、官軍と名乗ることに成功した。逆に会津藩が「賊軍」の汚名を着せられることになったのだ。

 敗れた藩は戦後、処分を受けるが、新政府側に回った秋田藩も領地が戦場となり、家に火を付けられるなどの被害に遭った。水野さんは「150年前に起きた戊辰戦争の歴史はそれぞれの地域で大きく違っていることを知って欲しい」。(高橋昌宏)

 ■双方が正義の下に スポーツキャスター・大林素子さん

 東京・多摩地方の出身なので新撰組の近藤勇や土方歳三はご当地ヒーローでした。バレーボールをやっている時は時間がなかったのですが、引退してからゆかりの地を巡り始めました。新撰組は松平容保の下で活動したので、会津にはプライベートの「取材」でよく通うようになりました。今年から福島県会津若松市の観光大使を務めています。

 忠誠心をもって最後まで戦ったのが、会津藩であり新撰組。目上の方を敬うなど「ならぬことはならぬ」の精神が今も残り、当時の空気感が残っています。その時代に行きたい私にとって、会津は最高の場所です。

 会津には友人が多くいます。あの節目を「維新」ではなく「戊辰」と言っていて、つらい歴史として記憶されています。互いに正義の下に行動しましたが、武士のプライドだけで戦った会津はすごいなと感じます。

 これからの世代には、今の平和が先人の歩みの上にあることを知って欲しい。そのためにも、戊辰戦争の歴史を風化、美化せずに伝えていくことが大事だなと考えています。

 <訪ねる> 「戊辰戦争150年」展は新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、仙台市博物館の共同企画。開国、鳥羽・伏見の戦いを経て、奥羽越列藩同盟の結成、降伏までを地域の資料を中心に東北・越後の視点からたどる。26日から仙台市で始まる。12月9日まで。月曜休館。


戊辰戦争「三春藩の選択」解説 歴史民俗資料館で企画展 /福島
 三春町歴史民俗資料館(三春町桜谷)で企画展「戊辰(ぼしん)・明治150年 三春藩の選択」が開かれている。「戊辰戦争の際、三春藩はなぜ奥羽越列藩同盟に加盟し、戦わずして新政府軍に恭順したのか」がテーマ。

 東北諸藩の力関係や地理的条件から会津や仙台などの大藩主導の同盟に加わり、城下を戦乱から守るためにも新…
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京都
戊辰戦争勃発時の京都御所 絵が伝える緊迫感と高揚感
 戊辰(ぼしん)戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いが勃発した慶応4(1868)年正月3日夜の京都御所の様子を描いた絵がみつかり、京都文化博物館(京都市中京区)で展示されている。歴史が転回する緊迫の場面を精細に活写し、専門家によれば、美術的にも資料的にも貴重な作品という。

 作品は、四国・宇和島藩出身で、明治時代に長崎で活動した画家の小波魚青(こなみぎょせい)が描いた「戊辰之役之図(ぼしんのえきのず)」。近代画家の発掘で知られる星野画廊(京都市東山区)の星野桂三社長が入手し、京都大学人文科学研究所の高木博志教授(日本近代史)らと調査し、昨秋に画廊で初公開した。

 縦81・4センチ、横143・2センチの大作。京都御所に公家が参内する公家門=宜秋(ぎしゅう)門=の門前を舞台に、洋式の武装をした宇和島藩の兵士や、頭に白いかぶり物、手に棍棒(こんぼう)を握り、腰に刀を差した本願寺の僧の集団、新政府軍の優勢を伝え聞いてあわてて参内する公家の様子などが描かれる。

 門前には大砲3門が並び、仮小屋の屯所が造営されている。南の方角では、下鳥羽(しもとば)付近の戦闘の炎のためか、空が赤く染まっていく様子や、戦況を知らせる早馬の駆けていく様子も描かれ、見ている者に戦争勃発直後の緊迫感と高揚感が伝わってくる。

 作者の小波魚青は、宇和島藩の砲術指南役の家に生まれた。幕末に京都で四条派の長谷川玉峰(ぎょくほう)に師事して絵を学んでいた際、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、現場に居合わせたとみられる。

 星野さんは「戊辰戦争の動向を記録した文書は多いが、そのときの情景を描いた絵画はほとんどない。装束や馬のあぶみまで細かく描き分けられ、四条派に学んだ画家らしく、考証を重ね写実を追究している」と指摘する。

 高木さんによれば、この絵は、明治23(1890)年に東京であった第3回内国勧業博覧会に出品され褒状(ほうじょう)を授与された。前年の明治憲法発布に伴って大赦があり、戊辰戦争で「賊軍」とされた幕府や会津藩、仙台藩などの罪が許された時点で発表されたことになる。「戊辰戦争から20年以上たって、ようやく維新や近い過去の歴史を自由に語ることができるようになったのではないか」

 宇和島藩は幕末、倒幕を推し進める薩摩藩と長州藩に「公議」を無視すると反発しつつ、官軍側として戊辰戦争に参加。だが、維新後は藩閥政府に置き去りにされた。

 高木さんは「維新に乗り遅れながらも、宇和島藩も一貫して勤王の立場で、重要な役割を果たしたと主張する意図も読み取れる。日本に歴史画というジャンルが成立していくなかで、歴史が転回する場面を迫真の描写で描いた優れた歴史画の大作だ」と話す。

 作品は、11月25日まで京都文化博物館(075・222・0888)で開催中の特別展「華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美」で展示される。(久保智祥)
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