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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
いよいよ秋だなぁと思って気合いを入れて栗ご飯を炊いたのですが、昨日今日の暑さで糸を引いてしまいましたorz

福島
会津若松戊辰戦争150年式典 先人の苦難に思いはせ
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争で会津藩が鶴ケ城を降伏開城して150年になる22日、福島県会津若松市城東町の会津風雅堂で記念式典が開かれた。会津にゆかりのある全国の自治体や団体などの関係者ら約500人が参加。会津がたどった歴史の意義を再認識し、戊辰戦争後の苦難の時代を生き抜いた先人たちの歩みをたたえた。

 式典が始まった午後1時半、参加者らは1分間の黙とうをした。同時に市役所本庁舎でサイレンが鳴らされ、会場に来られない市民らも先人らに敬意と感謝を表した。

 室井照平市長は「先人から受け継いだ歴史や伝統を守り、次の世代に語り継ぐのが我々の責任だ」とあいさつ。ゆかりの地を代表して、青森県むつ市の川西伸二副市長が「歴史に裏付けられた両市の思いを後世に伝えることが、先人への報いになる」と、宮下宗一郎市長からの祝辞を代読した。

 先人の顕彰に尽力してきた団体などを表彰。市立一箕中3年の田中麻登さんが平和への願いなどを盛り込んだ記念宣言を発表した。その後、会津松平家14代当主の松平保久さんが戊辰戦争後の会津人の歩みについて基調講演。トークショーには女優の綾瀬はるかさんらが出演し、会場は盛り上がった。

 戊辰戦争で会津藩は新政府軍の侵攻を受け、鶴ケ城では約1カ月の籠城(ろうじょう)戦に耐えたものの1868年9月22日に降伏。約3000人が戦死したとされる。会津藩は「朝敵」の汚名を着せられ、戦後も斗南藩(むつ市)への移封を命じられるなど、先人たちは多くの困難を経てきた。【湯浅聖一】
会津藩士の「義」継承 戊辰150年式典、記念宣言を発表
 戊辰戦争の激戦地となった会津若松市の戊辰150周年記念式典は22日、同市で行われ、旧幕府軍の主力として戦い抜いた先人らに出席者が敬意を表した。会津藩士らが命を懸けて貫いた「義」の思いは今に受け継がれ、会津の人々の奥底に生き続ける。出席者は、歴史や伝統に包まれた古里の誇りを再確認し、次世代に継承する決意を新たにした。

 会津若松市と市戊辰150周年記念事業実行委員会の主催。会津藩が鶴ケ城を開き、1カ月に及ぶ熾烈(しれつ)な籠城戦に終止符を打った1868(明治元)年9月22日(旧暦)に合わせて行われた。

 約1分間の黙とうで始まり、会場は約1700人の静かな祈りに包まれた。

 先人に対する感謝や平和への願いが盛り込まれた記念宣言が、23日の「会津まつり」会津藩公行列で若殿役を務める一箕中3年の田中麻登(まなと)さんによって発表された。

 宣言は戦争の悲惨さを伝える必要性を訴え、古里を守るために戦った人々と、戦後の苦難を乗り越え功績を残した人々の顕彰に努めると誓った。さらに、会津の精神文化に学ぶ人材の育成と伝統の継承を掲げた。

 小中学生を対象にした作文コンクールの最優秀賞作品も朗読された。謹教小6年の野中律さんは、明治時代に活躍した会津の女性たちの中に「世の中を見る正しい目と、決してゆるがない強い意志」を見て取り、北会津中3年の坂内愛莉さんは「会津の先人は今でも、私たちにたくさんのことを伝えようとしてくれている」と述べた。

 室井照平市長はあいさつで「会津の歴史や先人の活躍を将来を担う次の世代に語り継いでいくことが、私たちの責務ではないだろうか」と呼び掛けた。

 式典ではこのほか、先人の顕彰に尽力してきた14団体を表彰し、会津松平家第14代当主の松平保久(もりひさ)さんが「それからの会津―開城以降の会津人の歩み―」のテーマで基調講演。大河ドラマ「八重の桜」で主人公山本(新島)八重を演じた綾瀬はるかさんや会津会会長の柳沢秀夫さんらによるトークショーが行われた。

会津藩士・佐川官兵衛通じ交流 戊辰150年の節目に会津と熊本
 幕末の会津藩士で、西南戦争の際に熊本県で討ち死にした佐川官兵衛を顕彰している熊本佐川官兵衛顕彰会の興梠(こおろぎ)二雄(つぐお)会長ら10人が21日、会津を訪れた。一昨年の熊本地震で熊本の顕彰碑が壊れた際、会津佐川官兵衛顕彰会などの協力で新たな胸像が建立された経緯があり、戊辰150年の節目とお礼の意味を込めた。

 鶴ケ城三の丸跡地には、官兵衛が戦死した地から寄贈された石で2001(平成13)年に建立された顕彰碑がある。熊本県南阿蘇村にも顕彰碑や供養碑があったが、地震で多くが壊れ、約350万円をかけて新たな胸像を建立した。

 会津若松市で開かれた歓迎会には、会津顕彰会の会員ら約25人も参加。室井照平市長が「毎年碑前祭を開いていただいていることに感謝したい」と歓迎、会津顕彰会の会長を務める菅家一郎衆院議員もあいさつした。

 熊本顕彰会の興梠会長は「官兵衛は部下の規律を徹底し、住民からも慕われた。最後まで会津武士道を貫いた官兵衛を縁に末永く絆をつないでいきましょう」と謝辞を述べた。熊本顕彰会顧問で歴史作家の中村彰彦さんも熊本と会津の縁を紹介した。新井田万寿子市子ども会育成会連絡協議会長が熊本顕彰会の会員に記念品を贈った。

戦死した藩士らの功績伝える 戊辰戦争・熊倉の戦い、喜多方に看板
 戊辰150年に合わせ、戊辰戦争・熊倉の戦いを伝えようと、熊倉史談会(山本佑一郎会長)は喜多方市熊倉町の杉ノ下墓地に、同戦いで戦死した佐藤銀十郎や会津藩士中根米七の功績を伝える看板を設置した。

 佐藤は上州権田村(現群馬県高崎市)出身で幕府の勘定奉行などを務めた小栗上野介に仕えた。小栗が斬首され、小栗の妻を会津まで護衛した後、会津藩に加わり、戦いに参加した。

 設置は11日に営まれた「熊倉の戦い 顕彰祭」に合わせて行った。顕彰祭には小栗の顕彰会の関係者や中根の親族らが参列。小栗上野介顕彰会の市川平治会長は「顕彰祭を契機に歴史を見直す機会になればうれしい」、中根の親族に当たる中根徹さんは「毎年行っている墓参を続けたい」と語った。

◆佐藤銀十郎の活躍「熊倉の戦い」出版

 熊倉史談会の山本佑一郎会長は書籍「戊辰戦争・熊倉の戦い」を出版した。

 佐藤銀十郎の活躍や熊倉の戦いの経過を詳細に記しており「地元の人に地元の歴史を知ってほしい」と話した。

   問い合わせは山本会長(電話・ファクス0241・25・7651)へ。

迫力演武「會津鶴ケ城古武道祭」 新選組ゆかりの試衛館初参加
 会津若松市のシンボル・鶴ケ城をバックに各団体が武道や江戸時代から受け継がれる古武道の演武を披露する「會津鶴ケ城古武道祭」は17日、開かれた。戊辰150年に合わせ、会津藩と深い関わりがある新選組の局長・近藤勇などが習得したとされる「天然理心流」の道場「試衛館」(東京)も初参加した。

 同祭実行委員会の主催、市、市教委、福島民友新聞社などの後援。第1部は武道団体の演武で、各団体の会員らが合気道や空手などを披露した。

 第2部は古武道団体の演武で、なぎなたや居合道、杖道などが次々に披露された。初参加の試衛館は高鳥天真館主らが形を披露。防具を付けての実戦も行い、独特の寝技なども披露し迫力ある技を繰り出した。

千葉
戊辰戦争中に沈んだ米国蒸気船、着々と水中調査
 戊辰ぼしん戦争中の1869年、新政府軍の熊本藩士らとともに千葉県勝浦市沖で沈んだ米国蒸気船「ハーマン号」(全長71メートル)の水中調査が着々と進んでいる。5回目の調査を終えたチームは史跡指定や発掘調査を目指しており、地元でも「熊本や米国との交流拡大や、新たな観光資源につながる」と期待が高まっている。

 ハーマン号は、日本に開国を迫ったペリー提督の「サスケハナ号」に迫る当時最大級の蒸気外輪船。いわゆる黒船だ。榎本武揚ら旧幕府軍の討伐のために借り上げられ、熊本藩士ら350人と米国人船員約80人を乗せて函館・五稜郭に向かう途中の同年2月13日、暴風雨で座礁して沈没。地元住民が救助にあたったが、約230人が犠牲になった。

 この沈没船の水中調査を行っているのが、日本水中考古学調査会だ。米国で水中考古学を学んでいた井上たかひこさん(75)が1998年、地元漁協の協力を得て、沖合の水深約10メートルの海底に沈んでいる船を発見し、ハーマン号と特定。同会を設立して会長に就き、調査を続けてきた。

 今年7月下旬には、沈没から150年を前にした5回目の調査を実施。「マルチビーム測深」や「写真測量」といった技術を使い、沈没船や周囲の海底状況などがわかる精密な立体図を作成するためのデータを収集した。食器の破片とみられる磁器片も新たに見つかったという。

 井上さんは「精密な立体図を含む報告書をまとめ、県の史跡指定や、沈没船を引き揚げる発掘調査につなげたい」と意欲を燃やし、「発掘調査が進めば、外輪が付いた船の構造や積み荷などもわかってくる。『海から見た戊辰戦争』という新たな視点も生まれる」と指摘する。

 水中調査の進展に地元勝浦市でも期待の声が上がっており、市観光協会副会長で民宿組合長の江沢修さん(68)は「史跡指定となれば注目度はぐっと増し、新たな観光資源にもなる。熊本側との交流も進む」と胸を膨らませる。

 同市では毎年、犠牲者の慰霊祭が行われ、2012年からは米国大使館員も参加するようになった。これに尽力した同市の海事補佐人、大野幹雄さん(75)も「この地の人たちが乗組員の救助活動を必死で行った歴史に、光がさらに当てられれば。もっと多くの米国人にも知ってもらい、勝浦を訪れてほしい」と願う。

 慰霊祭を主催する「黒船『ハーマン号』を世に出す会」の会長を務める猿田寿男市長も「市としても史跡指定に向けて力を尽くしたい。さらなる日米親善にもつながる」と話している。

東京
明治期の浮世絵師に脚光 今に通じる動画的表現 月岡芳年“血みどろ絵”
 明治改元から150年。美術界では明治期に活躍した浮世絵師に関連し、展覧会や関連本の出版が相次いでいる。幕末から明治の激動の時代に生きた、知られざる優れた絵師の一端が見えてくる。(渋沢和彦)

 東京の練馬区立美術館で開催中の「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展。躍動的な武者絵や妖艶(ようえん)な美人画などとともに、刀で斬られ血が飛び散る刺激的な作品が並ぶ。“血みどろ絵”の絵師、月岡芳年(よしとし)の作品だ。

 天保10(1839)年、江戸に生まれ、明治25年数え54歳で死去した。12歳で歌川国芳に入門して幕末には武者絵などを描いていた。代表シリーズ「英名(えいめい)二十八衆句」は、歌舞伎や講談などの刃傷(にんじょう)沙汰を主題とした28図の血なまぐさい図。国芳門の兄弟子の落合芳幾(よしいく)(1833~1904年)とそれぞれ14図ずつ描いた競作だった。

 芳年は慶応4年、江戸・上野で起こった明治新政府軍と旧幕臣からなる彰義隊との戦いの地を、弟子を連れて取材。「魁題百撰相(かいだいひゃくせんそう)」で表現した。

 「実際に戦の跡地に出向き、しかばねを写生していた。だから芳年の絵は荒唐無稽ではなくリアリズムがあり作品の魅力」と同館の加藤陽介学芸員は解説する。

 関連本の出版も相次ぐ。芳年の血みどろ絵は「英名二十八衆句」「東錦浮世稿談(あずまにしきうきよこうだん)」「魁題百撰相」の3シリーズのみで、40年の画業全体から見ればほんの一部。8月刊行の『月岡芳年伝 幕末明治のはざまに』(中央公論美術出版)は、さまざまな資料を分析し、同時代の絵師とともに芳年の画業の全容を浮かび上がらせる。著者の大阪市立大の菅原真弓教授は「四半世紀前まで、幕末明治の浮世絵は、絵画作品として認識されておらず美術史研究の対象となりえなかった。物語のように見せる視線誘導が動画的であり、現代に受ける」と指摘する。続いて刊行された『鬼才 月岡芳年の世界 浮世絵スペクタクル』(平凡社)も美人画や歴史画を多数掲載し、芳年の異なる側面に光を当てる。

 同時期の浮世絵師の再評価も進む。兄弟子の落合芳幾についても8月、東京都内で80点以上の作品を紹介した初の本格的な展覧会が開催された。近代美術に詳しい帝京大の岡部昌幸教授は「明治の浮世絵は研究の宝庫。豊原(とよはら)国周(くにちか)や三代歌川広重、井上安治(やすじ)ら優れた絵師は多い。今後さらに光が当てられるでしょう」と話している。

 「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」展は24日まで、一般1000円。10月28日から、高知県立美術館に巡回する。

 政治体制など社会が大きく変わった幕末から明治前半の美術に焦点を当てた展覧会「明治150年記念 真明解・明治美術 増殖する新(ニュー)メディア」展が、横浜の神奈川県立歴史博物館で開催されている。

 洋画、日本画、木版画、写真などを展示。明治美術の研究・調査を進めてきた同館所蔵品を中心に公開した。

 洋風建築が建ち始めた明治時代。街の風景や風俗を題材にした錦絵を多く描いたのが三代歌川広重だった。版元の大倉孫兵衛(1843~1921年)が制作を後押しし、米国で版画を販売。大倉が旧蔵した錦絵画帖が本展準備中に発見され、中には海外向けを意図して制作された美人画や花鳥画の大型錦絵も含まれる。

 英国人画家、チャールズ・ワーグマンから洋画の習得に励んだ五姓田義松(ごせだよしまつ)(1855~1915年)の油彩画や、渡欧して銅版画技術を身につけ美的な地図を制作した洋画家で版画家の岩橋教章(のりあき)(1835~83年)などの作品も、明治期の美術の多様さを再認識させる。

 30日まで、一般900円。(電)045・201・0926。

新潟
徳川の銀印、15日から公開=昨年発見、15代将軍ら使用-新潟
 江戸時代末期に徳川将軍家が外交文書に使った銀印「経文緯武(けいぶんいぶ)」が、新潟県立歴史博物館(長岡市)で15日から初めて一般公開される。銀印は昨年、徳川記念財団(東京都)が徳川宗家の蔵を整理した際に見つかったもので、幕府が1857年に作製を命じ、翌年結ばれた日米修好通商条約の批准書などに押印された。14代将軍家茂と15代将軍慶喜が使用したという。

将軍家光のかご、福井で発見=側近藩主に下賜

 同博物館では14日、銀印を公開する企画展の開場式と内覧会が開かれた。来賓として招かれた徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(78)は「歴史の積み重ねで現在がある。今の日本につながっているものを見ていただくのはとてもいいことだと思う」と話した。公開は30日まで。(2018/09/14-18:46)

福井
龍馬の花押、初お目見え=唯一の直筆原本、特別展で-福井
 福井県立歴史博物館(福井市)で22日から始まった特別展で、幕末の志士、坂本龍馬の花押(サイン)が記された書簡が国内で初公開された。龍馬直筆の花押を原本で確認できるのは、この書簡だけという。

龍馬への手紙原本公開=京都の古美術商で発見-高知

 同博物館によると、花押は「龍」の左側と「馬」が左右に組み合わされている。書簡は福井藩士村田氏寿宛てに、元治元(1864)年10月6日付で書かれ、上洛していた薩摩藩士岩下方平に同行し、自身が近日中に関東へ向かうことを伝える内容。県外の個人所蔵品を県が借用した。
 同年に書かれた龍馬の書簡は、これを含め2点のみが確認されている。2010年にこの花押を歴史雑誌で初めて紹介した歴史作家の桐野作人さん(64)は「元治元年の龍馬の動きが少し分かってきたのは意義がある」と指摘。岩下が薩摩藩重役だったことから、「政治的、経済的に薩摩藩と密着するターニングポイントになったことが分かる」と語った。

坂本龍馬直筆の花押が記された書簡=19日、福井市の福井県立歴史博物館

 特別展「幕末維新の激動と福井」では、薩摩藩士西郷隆盛が村田に宛てた書簡が初公開されるほか、15歳の時に自身の志を記し、各地の中学校で行われる立志式の由来にもなった福井藩士橋本左内の「啓発録」の原本も展示される。11月4日まで。(2018/09/22-10:10)

西郷隆盛の書簡初公開=福井藩士宛て、特別展で-県立歴史博物館
 福井県立歴史博物館は19日、薩摩藩の西郷隆盛が福井藩士に宛てた書簡を22日から始まる「幕末明治福井150年博」の特別展で初めて公開すると発表した。藩士との面会翌日に出しており、内容からも、西郷のこまやかな心遣いが読み取れるという。
 書簡は縦16.0センチ、横47.1センチ。複数の専門家による鑑定で、西郷の筆跡と確認された。県外の個人が所蔵していたのを県が特別展のため借用した。
 安政4(1857)年、前日に面会した福井藩士の村田氏寿宛てに書かれた。面会で打ち解けて話ができたことを喜ぶ一方、失言があったかもしれないと許しを求めている。


福井県立歴史博物館が初公開する西郷隆盛の書簡。手前に「西郷拝」と記されている=18日、福井県庁

 村田は福井藩主松平春嶽の親書を薩摩藩主島津斉彬に渡すため薩摩を訪れていた。西郷は書簡で、斉彬との面会が実現しそうなことも伝えている。
 西郷は文久2(1862)年に沖永良部島へ流された際、書を学んで丸みのある書体を確立したという。この書簡を書いたのは29歳の時で、博物館の担当者は「少し荒っぽい感じがする」と話す。
 落合弘樹明治大教授(幕末維新史)は「早い時期の書簡はあまりなく、よく見る西郷の字と違うのは面白い。『俺は斉彬の無二の忠臣である』というとがったところが書簡に反映されている」と語った。(2018/09/19-17:02)





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