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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
来年は明治維新150周年というキャンペーンが政府主導で行われるようですが、旧幕府側に思い入れのある私は戊辰戦争150周年と思っています。
 さて、そんな150年前の史実が、今でも新たに発見されるというワクワクなニュース。

新選組、野営でなく豪農に宿陣 禁門の変の新史料
 1864(元治元)年7月の「禁門の変」で、新選組の動向を記した新史料が見つかり、18日、京都女子大の中村武生非常勤講師(幕末政治史)が発表した。当時の東九条村(現京都市南区)の豪農・長谷川家当主の日記で、新選組が村の農家に下宿しながら街道警護に当たったことが分かったという。

 禁門の変は、京都での勢力挽回を目指す長州藩と、京都を守護する会津をはじめ在京諸藩が京都御所などで軍事衝突した事件で、京都は大規模な火災に見舞われた。日記は同家の蔵で2015年に見つかり、中村講師が調査した。

 6月25日付には、会津勢と行動を共にしていた「壬生浪士組」(新選組)が、東九条村の農家に分かれて「御下宿」したとあり、別の日付で「非番」の記述もあった。従来は長州勢の北進を食い止めるため、竹田街道と鴨川が交わる「九条河原」に約1カ月間野営したと考えられていたが、村を拠点に交代制で警護したとみられる。

 禁門の変が起きた7月19日付には、長州勢約30人が正午ごろ、京都中心部から退いて東九条村に迫り、新選組が鉄砲を撃ち合って追い払ったと記されている。

 中村講師は「禁門の変は京都中心部での戦争と思われがち。新選組の京都南部における開戦前の行動や戦闘の様子が初めて分かった」と評価している。

新選組、京の南部で長州藩士迎撃…禁門の変
 幕末の政変で京を追われた長州藩の尊王攘夷派が権力奪還を狙い、御所を守る会津藩などと衝突した禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変、1864年)で、会津藩配下の新選組が長州藩士を京の南部で迎撃していたことなどが記された日記が、京都市内の旧家で見つかった。

 現在の京都市南区にあった東九条村の豪農、長谷川軍記(1822~71年)の日記で、2年前、軍記ら歴代当主が暮らした長谷川家住宅(国登録有形文化財)の土蔵で発見され、京都女子大の中村武生・非常勤講師(幕末政治史)が解読していた。通説では新選組は禁門の変の直前、鴨川の九条河原に野営していたとされるが、日記には新選組と会津藩の兵は河原近くの東九条村の農家に下宿、交代で警戒に当たり、御所で戦闘が勃発した後は、敗走する長州藩士を東九条村の新選組が鉄砲で迎え撃ったことなどが記されていた。

 中村氏は「東九条村でも衝突があったことは新発見。当時の状況が生々しく伝わる」としている。

新選組の動向、日記に=蛤御門の変「鉄砲打合」-京都
 幕末の1864年に京都で長州藩と薩摩・会津両藩が戦った「蛤御門の変(禁門の変)」の頃、新選組や会津藩士の動向を記録した豪農の日記が発見された。新選組の宿営地や出陣状況、当時の京都近郊の村の様子などが書かれている。国登録有形文化財の長谷川家住宅(京都市南区)を管理する財団が18日、発表した。
 日記は幕末の豪農、長谷川家当主が1871年に亡くなるまで27年間の出来事を記録している。2015年に発見され、京都女子大非常勤講師の中村武生氏が調査した。
 日記によると、元治元(1864)年6月、長州勢から御所を警護するため、京都の南の玄関口に当たる旧東九条村に展開した会津藩士と新選組が、長谷川家と村内の農家に1カ月ほど滞在した。
 日記には「会津様御下宿」「壬生浪士組御下宿」などと書かれ、村内の寺や農家が滞在先になったことや、混雑で村の行事が中止されたことが記録されている。蛤御門の変が起きた同年7月19日の項には「新選組立向ひ鉄砲打合」など、村内で長州勢と戦った様子も記されていた。(2017/07/18-21:08)

新選組「蛤御門の変」参戦の新史料 長州勢を鉄砲撃退
 幕末に起きた武力衝突「蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)」で新選組が戦闘に加わっていたことを示す日記が、京都市南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で見つかった。「池田屋事件の研究」などの著作がある中村武生・京都女子大非常勤講師(幕末政治史)が18日、発表した。都の入り口だった要の場所に布陣して長州藩と激突し、鉄砲で撃ち破ったことなどが生々しく記されていた。
 蛤御門の変では、長州軍が京都に出兵。新選組が従っていた京都守護職の松平容保(かたもり)の軍と戦って敗れ、朝敵となった。しかし、各地の浪士が集まった新選組が当時果たした役割や待遇は諸説あり、明確になっていなかった。
 日記は、当時の住宅の当主、長谷川軍記が文政5(1822)年~明治4(1871)年に見聞きした出来事をまとめたもの。2015年に土蔵のタンスの中から見つかった。

 蛤御門の変が起きた元治元年7月19日(1864年8月20日)には「新選組が立ち向かい鉄砲を撃ち合い、長州方は撃ち負けて、当村の野辺を西へ逃げ去った」などと記載されていた。住宅は蛤御門から約5キロ南で都の南の入り口だった旧東九条村にある。

 また戦闘が始まる約1カ月前には、「会津様御下宿」「壬生浪士組御下宿」の文字と共に、具体的に泊まった農家などの名が記載されていた。壬生浪士組は新選組を指すとみられる。

 中村さんは「新選組が旧東九条村で長州勢と鉄砲を撃ち合い勝利した事実はこれまで知られていなかった。また、通説では鴨川の河原に野営したとされており、農家に泊まっていたことも当時の具体的な動向を知るうえで興味深い」としている。【宮川佐知子】


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