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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 拙ブログと交換日記を愛読している方から、直メールをいただいた。金曜日に放送された「所さんとおすぎのトホホ人物伝」における会津の土方さんの動向を白牡丹が「史実を歪曲している」と交換日記に怒りを込めて書いたら、会津における土方さんをよく知らないのでご教示くださいという依頼。リクエストをいただいたからには、それに応えたい。

 ……というわけで、白牡丹が知っている程度の内容だが、会津における土方さん(史実)の動向を、ご紹介したい。前後編になると思う。



1. 土方さん、宇都宮城奪還の戦いで負傷、会津に避難



 もっと遡りたい気持ちは山々だが、会津における土方さんを中心に書くという目的なので、会津入りのきっかけとなった土方さんの負傷から話を始める。



 慶応四年四月二十三日(新暦では5月15日)、西軍(白牡丹は会津降伏以降に「新政府軍」、それまでを「西軍」と書く習わしなのでご寛恕いただきたい)が奪還した宇都宮城を再奪還する戦で被弾、負傷する。負傷箇所は正確には不明で、足指、足の甲、などの説があり、左右どちらかも特定されていない。

 同じく負傷した旧幕軍幹部で会津藩出身の秋月登之助とともに、今市に後送される。その後、旧幕軍は劣勢となり、今市方面に退却。

 翌四月二十四日、土方さんは今市で、八王子千人同心の一員として日光に駐在していた親戚の土方勇太郎を呼び出し、四月十九日の宇都宮城攻撃の時に逃げ出そうとしたために斬った従兵を哀れみ、金子《きんす》を差し出して供養するように頼む。



 四月二十五日、板橋で近藤さんが処刑される。これについて土方さんが知ったのは、おそらく会津入りしてからだろう。



 四月二十六日、土方さん、会津西街道の会津入り口である田島陣屋入り、この地出身の秋月登之助と別れる。隊士である島田魁さんと中島登さんの記録によると、土方さんに付き添っていたのは島田・中島の他に、漢一郎・畠山二郎・沢忠助・松沢乙造と少人数だったようだ(後述する望月光蔵の記録では伝習第一大隊を率いていたかのように書いてある)。

 その日の夕刻、唐津藩主で幕府老中だった小笠原長行の家臣である大野右仲が清水屋に土方さんを訪問し、宇都宮戦争の様子を聞いたという。土方さんは宇都宮攻撃の先鋒軍参謀を務めており、旧幕臣においては重要人物のひとりであったことの証左といえよう。

 四月二十九日、土方さん、会津若松の七日町にある清水屋に投宿。おそらくは当日または数日のうちに、山口次郎こと斎藤一が率いていた新選組の先発隊(流山から会津に入ったらしい)と再会を祝ったことと思う。



2. 土方さんの「枕投げ事件」



 会津入りした直後の土方さんに関する数少ないエピソードとして、旧幕臣の望月光蔵が記録に残した「枕投げ事件」(爆)がある。枕を投げつけられた望月側からの証言なので正確性と客観性には多少の疑問は残るが、簡単にご紹介。



 望月さんが土方さんの部屋を訪ねると、土方さんは布団の中から「汝等吾にくみせよ」と言った。望月さんの記録では「その傲慢、人を易じる(注・「あなどる」の意)をにくむ」という高飛車な態度だったらしい。

 望月さんが、自分は文官なので文で会津に貢献したいと答えると、土方さんはその臆病を嘲笑して、会津まで来て何をためらっているのか、「吾れに従い戦闘を勤め習えよ」と言った。それに腹を立てた望月さん、宇都宮城を再度攻略できなかったのも臆病ではないか、と言い返したらしい。

 望月さんは、それを聞いた土方さんが「多言、我が病褥《びょうじょく》を犯す。聞くを要せず。去れ」と怒鳴ったと書き残しているが、後に家族に口頭で伝え残した話では、その時に枕(当時は箱枕です)を投げつけられたらしい。



 白牡丹は、その前後の状況から、負傷して動けないストレス、はかばかしくない戦況への苛立ちもあったことが加っての言動だと思う。が、武士の生まれではないけど性根は軍人の土方さんは、生まれながらの武士だけど文官という人物に対しては、このエピソードに限らず、言動がキツいのは確かだ。



3. 療養中の土方さん



 土方さんの怪我の具合はかなり重かったようで、直後に会津入りした松本良順先生の治療を受けて、その後は会津若松郊外の東山温泉に滞在していたらしい……本当に動向不明なのである。

 だが、史実の上では、東山温泉に滞在したという伝承だけで、どこの宿に逗留していたかという記録も、ほとんどない……最近、東山温泉の旅館不動滝・旗亭濫觴《らんしょう》が土方歳三が滞在した旅館だと名乗りを挙げているようだ。



 閏四月五日(新暦では5月26日)、山口次郎率いる新選組、白河方面への出陣を命じられる。以後、百人余りの部隊である新選組は会津藩の白河攻撃軍と共に西軍に奪還された白河城の再奪還をめざして何度か出陣している……が、七月まで何度か攻撃を試みたものの、結局、再奪還はできなかった。



 六月十五日(新暦では8月3日)、土方さんがようやく記録に登場する。上野の東照宮から会津に亡命してきた(後に奥州列藩同盟の盟主とされる)輪王寺宮公現親王の執頭、覚王寺義観に面会する。この直後、旧幕臣で奥州列藩同盟の幹部になっている竹中重固とも面会。



 記録にははっきり残っていないが、近藤勇さんの墓が会津若松城を見下ろす天寧寺の一角に建てられたのは、この頃。土方さんは、近藤勇さんの処刑を会津で聞き、容保公の許可を得て天寧寺の一角に墓を建立した(涙)。西軍に墓を荒らされることを恐れて戒名の「貫天院殿純忠誠義大居士」だけ刻み、俗名は刻まれていない。



 また、六月、福良に駐屯していた白虎隊士中二番隊を土方さんが慰問して大いに励ましたという逸話もあるようだが、白牡丹は土方さん本人でなく新選組の誰かが慰問したのが土方さんの話として伝わっているのではないかと考えている。



3. 土方さん、戦線復帰……そして、母成峠の敗戦



 七月初旬、土方さんは負傷が癒えたようで、白河城を囲んでいる新選組に合流したらしい。



 八月半ば、新選組は二本松方面出兵のために猪苗代城下に宿陣。八月十九日、母成峠出陣が決定され、伝習第一大隊・回天隊とともに守備につく。



 すでに二本松を攻め落としていた西軍が会津を攻めるにはいくつかのルートが考えられ、会津藩は勢至道口と中山口を中心に守備した。母成峠を要する石筵口は険路であり、会津藩は余り重視していなかったらしい。石筵口は旧幕軍約八百名が守備についたが、どうにも数が足りない状態だった。



 一方西軍では、他のルートを攻略するよう幹部から進言されていたのを、板垣退助が会津の意表を突く攻撃ルートとして石筵口を選んだようだ。攻撃部隊は二千六百人。



 銃砲の装備の差も含めて圧倒的な兵力差があり、二十一日の半日で母成峠は西軍に制圧された。新選組では大下巌ら六名が戦死、幹部の山口次郎(斎藤一)が本隊とはぐれて「猿でないと登れないような」岩山を葛を縄代わりに頼りに登って逃走したとか、旧幕軍の司令官である大鳥圭介さんも本隊とはぐれて(爆)山中をさ迷ったとか、さんざんな敗戦である。

 撤退しながらその夜、土方さんは会津藩家老宛に、二十二日の朝までに西軍が猪苗代城まで押し寄せてくるので全軍を集めて防御するよう進言する手紙を書いた。が、予想以上に速い西軍の進軍に会津の城内は混乱したようで、援兵が出されぬまま、八月二十三日を迎えることになる。



☆★☆★



 できれば今日中に後編も書いてアップしたい。



【出典】

『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)

『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)

『新選組』松浦玲(岩波新書)

『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)
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