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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 八王子千人同心関係の読み物、連続して3冊目です。著者は法政大学で日本史の博士号を取り、2002年初版発行当時は國學院大学兼任講師。
 標記の本は、既読2冊(末尾に関連記事としてリンク)の著者「村上直先生の慫慂(注・他の人が勧めてそうするように仕向けること)によって成ったものである」ということなので、師弟関係でしょうか。



 以下、例によって、引用と感想の混じった独り言っぽい読書メモ。

・八王子千人同心の設置の目的と経緯について
 慶長五年(1600)、徳川家康と石田三成の間に勃発した関ヶ原の戦いには、小人頭は500人の増員を受けて出陣した。この時から同心が1000人になったわけで、以下では小人頭を千人頭ということにする。江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』は、このことを以下のように伝えている。
江戸にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて新に五百人ばかりめしかかへられ。小禄の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武蔵と甲斐の境界なれば、もし事あらんときには。かれらに小仏口を拒しめ給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡内に往来し。絹帛の類をはじめ彼国の産物を中買し。江戸に持出売ひさぐをもて常の業とせしめしとなり

 ここで触れられている「御長柄もつ御中間」というのが千人同心のことである。江戸時代の中間といえば、草履取などの卑職を務める非戦闘員の姿が思い浮かぶが、戦国時代から江戸時代初期の中間はそうではない。中間とは、長柄という槍をもち、武士の戦闘を助ける戦闘補助員だった。両刀を差していたが、鉄砲・槍をもつ足軽よりワンランク下で、苗字も名乗れなかったようである。要するに江戸時代初期の中間は武士ではなく、戦闘に参加する武家奉公人といえる。先に触れた千人頭の由緒書では、このときの召し抱えのことを村々に離散していた「諸浪人」を「又候」召し抱えたと表現している。戦国大名に仕えていた者が主家の滅亡により農村に散在していたのである。千人同心はそのような人物を召し抱えることによって成立した。

 村上直氏の著書2冊を読んでいるので、ここは素直に読んだ……のだが(汗)。
(中略)千人同心は八王子に置かれたのだろうか。通説では関東と甲州の境である甲州街道の小仏峠を守り、外敵の江戸への侵入を食い止めるため千人同心が必要だったとされている。これは前掲の『徳川実紀』でも述べられている古くからの説である。本当だろうか。

 ……えっ、1ページ半も通説で説明しておいて、ここから新説ですかっ(滝汗)。
 徳川氏が関東に入部した直後の知行割を見てみよう。軍事力が大きい譜代大名は北関東に置かれた。上野国箕輪に井伊直政12万石、同館林藩に榊原康政10万石、下総国結城に結城秀康10万1000石等々。伊達政宗ら後背常ならぬ東北大名が仮想的だったわけである。つま北が主戦線であり、甲斐や東北地方には徳川家と同じく豊臣家に臣従している大名が配置されているのだから、南西方面の軍事的意味は低い。こんなところから開沼正は先の論文で小仏峠の防衛という理由は、甲州街道が未発達だったこともあって、江戸時代初期にはありえなかったと主張している。妥当である。では千人同心が八王子に設置された理由はどこにあったのか。
 それは八王子の政治的位置にある。江戸幕府代官頭大久保長安は八王子の小門に陣屋に構え、長安配下の代官たちの陣屋もその周辺に配置された。長安配下の代官たちがいわゆる八王子十八代官で、長安と同じく武田家家臣がほとんどを占めている。八王子は広域幕領支配の拠点だったのである。江戸時代中後期には代官陣屋は武力を持たないのが特徴だが、初期には違う。初期には惣無事令がまだ貫徹しておらず、争論にも暴力沙汰がつきものだった。代官陣屋の防衛のためにも、代官行政上の必要のためにもある程度の武力が必要だったろう。そのためには治安を乱しそうな八王子周辺の元戦国大名に仕えていた「失業者」を召し抱えれば一石二鳥である。こう考えれば先の由緒書と整合性が出てくる。
 成立期の千人組は幕府直属軍の構成員であることが一義的意味であり、二次的な意味として政治的拠点であった八王子の警衛という役割を果たしていた。この時期の千人同心を後世のイメージから八王子の地域的特質からのみ位置づけるのは間違っている。しかし、三代将軍家光の死とともに幕府直属軍の一員として行動することはなくなり、千人組は八王子に根ざしていく。

 うーん、ちょっと違和感があるなぁ。徳川家康が江戸に幕府を開いた当時、最大の仮想敵が伊達政宗であるのはわかります。でも、江戸の西側を防御する必要はないとは言い切れないでしょう……距離的には離れてますが、同じく仮想敵の毛利家・島津家は西にあったのだから。
 大久保長安が甲州街道と八王子を整備し直し(北条氏の城があった滝山城の城下は、以来、元八王子となる)たり、初期の日野宿などを整えたのは、北から伊達政宗が攻めてきた時に逃げられる街道でもあり、西国大名から江戸を守るための前線基地……と説明される方が、自分には素直にうなずけるなぁ。歴史学も兵学も専門的に習っていない、素人感覚の感想でしかないのだけど。
 旧武田家家臣を召し抱えれば一石二鳥という点は理解できるのだが(八王子には、武田信玄の四女・松姫が尼となって信松院に住み、旧武田遺臣の心のよりどころになっていたとか)。

・「百姓化」そして「百姓の抵抗としての武士意識」
 自分が最初に読んだ八王子千人同心に関連する記事が童門冬二さんの土方歳三架空インタビュー(爆)で、その中で八王子千人同心が江戸幕府の身分体制整備を通じても半士半農という身分で幕末まで生き延びた特殊性を強調したせいもあり、八王子千人同心が次第に「百姓化」したという表現になじめなかった。
 多摩の外から移封された武田・北条の旧臣たちが土着した、というのなら、わかる。でも、もともと、鎌倉以来の関東の地侍は武士であり百姓でもあった(豪農ではあったろうけど)という感覚が自分にあるので、「百姓化」という表現には違和感があるんだよなぁ……。
 そしてまた一方で、武士志向というか、身分の二重性ゆえ、よりステータスのある武士として遇されることを目指し、江戸時代を通じていろいろと起こった争議を「百姓の抵抗としての武士意識」ととらえるのも、自分には、ちょっと違和感なんだよなぁ……。時代が下るにつれて、貨幣経済や商品経済が進んで没落した千人同心の株を金で買う百姓が出てきて、その新興千人同心たちが武士としてのステータスを求めていろいろ争議を起こしたという流れは、すごくリアルだし、わかりやすいんだけど。
 江戸時代の初期から兵農分離が完成していたわけじゃないし、まして関東は鎌倉武士以来の伝統ある(笑)騎馬武者であってしかも土地持ち百姓、耕す土地があるからこそ自分たちの土地は自分たちで守るという自治意識が高い層が、一部は八王子千人同心となり、他の一部は多摩の名主・豪農層を形成し、という方が、自分にはすっきりするんだけどなぁ……。
 そして、江戸時代を通じて保たれた、千人同心の半士半農という二重性が、徳川幕府の崩壊という時代にあって先鋭化した、という方が、しっくり来るんだよなぁ。その先鋭化のひとつが、新選組であった、と、つながる方が。

・多摩の女性たちの知られざる活躍
 佐藤文明さん講演会で伺った、多摩出身の女性が江戸城の大奥や薩摩藩の奥向きで活躍したという話。この書にもう少し詳しく書かれていた。
 多摩郡上平井村(現東京都日の出町)で同心株を買った野口家の娘「とら」は江戸城大奥で徳川家祥(第13代将軍家定)に仕えた使番「藤波」。身分は御家人で御目見ではないが、対外的な折衝を行った重要な役職だ。
 また多摩郡宮下村(現八王子市)の旗本川村家知行所の名主荻島家の娘「まさ」は薩摩藩下屋敷の奥向きに「喜尾」という名で務め、同じ多摩出身で大奥に勤めていた藤波と積極的に遣り取りして情報を収集していたという(佐藤氏の講演会では、江戸城開城の時に奥向き間での遣り取りをしたのは、このふたりだったと説明された)。
 多摩の名主・富裕層がただの百姓ではないこと、その層の女性が大奥や大藩の奥向きで活躍できる教育や教養を身につけていることを感じさせる。

・試衛館道場の門人たち
 「戦争と身分制の終焉」という章で、新選組について、特に八王子千人同心との関係について述べているのだが、特に試衛館の門人たちについて興味深い記述があった。
 さらに武士や武家奉公人も挙げられる。武士といっても浪人や下級武士である。後に新選組に参加した近藤芳助は、試衛館近くに居住していた「幕府ノ小臣者」で、試衛館の稽古にも参加したという。また試衛館のような「諸藩士幕臣」へ剣術を教授する撃剣道場は多くあり、「浪人道場」といったとも記されている。勇の門人のなかには「先手組」や「根来組」などの幕府鉄砲組の者もいたので、小給の幕臣は多くいただろう。前節では旗本の家臣や陪臣・浪人・百姓が一つのグループになって共同の目的のために行動する事例を見たが、近藤勇を支えた基盤も江戸の下級武士や武家奉公人、浪人、多摩地方周辺の千人同心・百姓などである。

 創作ものの影響もあって「百姓剣法」とか「芋道場」とかのイメージが強い天然理心流宗家試衛館だが、江戸の下級武士や武家奉公人や浪人という門人層があったことも、もう一度思いおこす必要がある。思い起こせば、近藤勇の妻「つね」も一橋家の家臣の娘という陪臣の出だったなぁ。そして、門人の沖田総司(八王子千人同心頭の井上源五郎の親戚筋だったわけだが、小藩の家臣である沖田家の長男ということで陪臣の出身だ)、松山藩の中間若党の出身だったと伝わる原田左之助、さらには武家出身だと伝わるが様々な理由で浪人になっている永倉新八・藤堂平助・山南敬助・斎藤一たちとの交流はまさしく、下級武士とか武家奉公人とか浪人。
 近藤勇の養父である、天然理心流三代目の近藤周助は、先代の近藤三助が亡くなった時に数え29歳。実力も人脈もあった兄弟子たちに多摩から相模にかけての先代の門下生たちの人脈を押さえられ(その中には八王子千人同心たちもいた)、多摩の名主・豪農層に新たな門人を開拓していった。道場を江戸に開いた理由は歴史的にはあまり検証されていないように思うが、結果的には、江戸で下級幕臣や陪臣、武家奉公人や浪人といった層の門下生を得た。この辺りは、新選組の歴史を語る時に多摩の天然理心流の流れにある近藤勇・土方歳三・井上源三郎・沖田総司を中心に見てしまうと軽視しがちではあるのだけど、改めて意識したい。


関連記事:
『江戸幕府八王子千人同心 増補改訂版』村上直 編(雄山閣)
『千人のさむらいたち ~八王子千人同心~』村上直(八王子市郷土資料館)





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