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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
今年は頑張って通います、毎日新聞主催の「渋谷に福来たる」。初日の夜公演は「春風亭昇太と仲間たちⅡ」。

トーク 昇太、彦いち、白鳥
みんなで白鳥さんいじる 
大ヒットは「ポメラニアンの鉢植え」。お腹痛くてしばらく復帰できなかった。

三遊亭粋歌 銀座なまはげ娘

三遊亭白鳥 落語の仮面第四話
『テレビ仮面舞踏会』
花ちゃん、笑点の座布団運びになる。昇太さんをいじり倒し、ちょっと持ち上げる。

~お仲入り~

林家彦いち つばさ

春風亭昇太 オヤジの王国
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先週外出した時に転んで左手の平に大きな青あざをつくってしまいました。まだ握力が戻っておらず、右手首骨折から回復したばかりの右手よりも握力が落ちている状態。またペットボトルで飲み物を購入した時は店員さんに開けてもらう日々に戻りました、くすん。まぁ骨や腱に異常はなさそうなので、一週間もすれば軽くなると思います。

「戊辰」事業4月1日から本格化 式典やクイズラリー
 戊辰150年の記念事業は4月1日から会津若松市内で本格化する。市戊辰150周年記念事業実行委員会は同日、鶴ケ城天守閣前でオープニングセレモニーを催すほか、クイズラリーなどをスタートし、市を挙げて観光誘客に取り組む。
 セレモニーでは実行委員会長の室井照平市長らがテープカットし記念事業の幕開けを宣言する。クイズラリーは県立博物館、白虎隊記念館などの観光名所10カ所を巡ると、正解数に応じて抽選で温泉宿泊券などが当たる。
 さらに、スマートフォンなどで利用できるアプリケーション(アプリ)「AR幕末の会津若松」の機能を拡充する。現実の風景に架空の物体を重ねて映し出す拡張現実(AR)を活用し、幕末に京都守護職を務めた会津藩主松平容保公らを模したアニメキャラクターが音声と文章で観光地を紹介する。各キャラクターと記念撮影ができる場所を5カ所から18カ所に増やし、動画撮影にも対応する。
 鶴ケ城天守閣では幕末の息吹を伝える収蔵品展が始まる。会津若松観光ビューローの主催。「松平容保と京都守護職」と題し、京都での動乱を巡る資料を展示する。
 5月19日は会津大で奥羽越列藩同盟と会津をテーマにした歴史シンポジウムを催す。歴史コメンテーターや仙台、米沢、長岡、鶴岡の歴史関係者らを招く予定だ。7月28、29の両日には白虎隊士飯沼貞吉に焦点を当てた「オペラ白虎」を上演する。会津まつりが開幕する9月22日は記念式典を実施する。

(2018/03/30 12:19)

「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
佐倉藩・二大噺~<義民>佐倉惣五郎と幕末の老中・堀田正睦~謎多き「直訴の農民」と開国にほんろうされた幕閣
高崎 哲郎
<義民>の実像
私は柏市に移り住んで以降、千葉県が生んだ古今の歴史上の人物に関心を持ち、その生き様を確認する旅を続けている。<義民>佐倉惣五郎はその中の一人であった。成田市、佐倉市などのゆかりの地を訪ね文献にもあたってきた。藩主堀田氏(佐倉藩)の圧政に抗議し将軍に直訴して妻子もろとも処刑にされ怨霊となった惣五郎。正義・人道のために一身をささげる<義民>の姿が歌舞伎・講談・浪曲の一大ヒットとなり民衆のヒーローとなった惣五郎。だが史実となると、確認できる文献は少なく、存在否定説も含めて諸説紛々としているのだ。将軍への直訴や処刑後怨霊になったとの説話は、実は惣五郎の死後ほぼ2世紀も経った江戸後期に創作されたものなのである。そこで『佐倉惣五郎』(児玉幸多)や「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)などを参考にして<義民>の実像と虚像に迫ってみたい。

佐倉惣五郎(生年不明 ― 承応2年8月3日・西暦1653年9月24日没)は、佐倉城下の下総国印旛郡公津(こうづ)村(現成田市台方)の名主だったようである。姓は木内氏、俗称は宗吾や惣吾とされる。堀田氏時代の公津村名寄帳(なよせちょう、土地台帳)によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認されている。

惣五郎の処刑後半世紀ほど経った正徳5年(1715)に編まれた「総葉概録」(堀田氏の後を受けた佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、(1)堀田藩主時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと(2)「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと(3)藩主堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟(たた)りとみなされたこと(4)祟りをおさめるため「惣五宮」という祠(ほこら)が藩によって建てられたことが記されている。が、惣五郎が農民の窮状を憂えて将軍に直訴したことを裏付ける史料は確認されていない。

惣五郎の直訴・処刑の背景についても、藩による過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの説が挙げられている。承応2年(1653)に行われた公津村の分村(台方村など5カ村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加が確認されており、惣五郎が抗議に立ち上がったとの推論もある。名主惣五郎を中心とした反藩主闘争があったことは否定しえないようである。

歌舞伎の大当たり、<義民>像の定着
惣五郎の義民伝承は、江戸時代後期以後成立した「地蔵堂通夜物語」や「堀田騒動記」などの実録本、講談「佐倉義民伝」にうかがえる。これらの作品は虚構であるため矛盾が目立ち、時代や事実に反する記述も少なくない。共通する点は(1)藩主・堀田正信が新たに重税を取り立てたことから、領民の暮らしは極度に困窮した(2)領内の名主らは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた(3)やむなく、惣五郎がひとりで将軍に駕籠訴を行った。「地蔵堂通夜物語」では承応2年(1653)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴したとしている。「堀田騒動記」では正保元年(1644)とされており、将軍は三代徳川家光にあたる。(4)直訴の結果、訴えは聞き届けられ佐倉藩の領民は救われた。だが惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男の子ども4人も死罪となった。成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、同寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、それが寺地内にある「宗吾様御廟」であるという。

延享3年(1746)、新たな佐倉藩主として堀田正亮(まさすけ)が入封した(惣五郎が訴え出た正信の弟である正盛の子孫)。宝暦2年(1752)、正亮は惣五郎親子の百回忌の年であるとして、将門山(現千葉県佐倉市大佐倉)に惣五郎を祀る「口の明神」を造営し、「涼風道閑居士」の法号を与えて以後春秋に盛大な祭典を行うようになった。寛政3年(1791)には藩主堀田正順が惣五郎に徳満院の院号を送り石塔一基を寄進した。藩主堀田家が惣五郎を公認したことで、江戸後期以降<義民>惣五郎の姿が明確化される。東勝寺は明治期に惣五郎の霊(本尊)を祀る宗吾霊堂を建てた。

実録本「地蔵堂通夜物語」や「佐倉義民伝」を素材とした最初の脚本化は、幕末の天保4年(1851)三世瀬川如皐による歌舞伎狂言「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」(中村座初演)である。作品では舞台を室町時代に設定し、主人公の名を「浅倉当吾」としている。この作は歌舞伎史上はじめて農民一揆を扱った戯曲で、大当たりをとり以後<義民物>と呼ばれる出し物の嚆矢(こうし)となった。明治後期以後は役名を実名どおりにして上演され、演題も「佐倉義民伝」で定着することになった。 芝居や講談などに取り上げられたことで、惣五郎は一躍<義民>として全国に知られるようになった。人気演目となったのである。明治以降、社会運動家や思想家は社会改革運動の先駆者として惣五郎を称揚した。思想家福澤諭吉もその一人で「古来唯一の忠臣義士」として賞賛している。自由民権運動家たちも惣五郎に民権運動の先覚者の姿を見たのであった。
改革を進める開明的藩主
「海闊(ひろ)く天高し其(そ)れ器宇」
幕末の老中・佐倉藩主堀田正睦の書である。世界の大勢に通じ西洋文明の導入を説いた正睦の気迫がうかがえる。江戸幕府親藩・佐倉藩の領主であった堀田家は最初の領主になった正信系を「前の堀田」と呼び、江戸中期以降の正俊系を「後の堀田」と呼んだ。正睦は「後の堀田」系である。正睦は文化7年(1810)に生まれた。父は、正俊から数えて7代目の藩主正時である。正睦は16歳で藩主になった。藩内には、佐倉藩親戚筋の下野国(現栃木県)佐野藩主正敦の子を推す意見もあった。正睦の賢明さを知る上級藩士らは若い藩主を歓迎し藩内にしこりは残らなかった。

江戸時代も後期に入ると、各藩とも財政に苦しむようになった。佐倉藩も例外ではなかった。窮乏にあえぐ藩士の中には武芸を怠り、風紀の乱れた生活を送る者も出てきた。一方、藩の財政を握る上級藩士の中にはぜいたくな暮らしをする者もいて、藩内の秩序は乱れていた。正睦は藩政立て直しに立ち上がり、佐倉藩独自の天保改革を実施した。この改革は倹約一辺倒ではなく、学問・武術を高めることも目的としていた。庶民の生活の苦しさをしのぐため藩から一時金の貸し出しを行った。その一方で、学問・武芸を修めなかった者が家を継ぐ時には家禄を割り引くという厳しい措置をとった。その結果、武士たちは文武に励むようになった。

正睦は改革の一環として高等教育充実させた。佐倉藩藩校は寛政4年(1792)の「佐倉学問所」に始まる。その後「温故堂」と改称された。儒教中心の小規模なものにすぎなかった。正睦は兵学・医学・洋学(蘭学・英学)をはじめ様々な武芸を学べる先進的学校として「成徳書院」を天保6年(1835)開校した。成徳書院の充実により佐倉は「南関東の学都」と呼ばれるようになった。江戸の著名な蘭学医・佐藤泰然は正睦の招きで佐倉に移り、医学教授とともに病院を開いた。佐倉順天堂の始まりである。特筆すべき医学上の成果として、天然痘で亡くなる患者を救う種痘の実施がある。近代的な予防医学の先駆けである。

貧しい農家で生まれた子を間引して人手を減らさせてはならないと、正睦自らが書いて農村に示した「子育教諭直書(こそだてきょうゆじきしょ)」には、貧困にあえいでも嬰児を殺すことは神や仏が深く憎むことであり、天罰を受けることは必定であると諭した。人口を増やす政策の一環として「陰徳講」という制度を作り、藩や裕福層の者が子育てのための補助金を出すようにさせた。正睦は、学問を愛し、西洋文化を積極的に取り入れる藩主であった。鎖国の幕末にあっては数少ない開明的名君である。
反対派を抑え、開国を目指した老中
正睦が最初に幕府の役職に就いたのが、文政12年(1829)で20歳の時であった。この時の奏者番(大名らを将軍に取り次ぐ役)からその後寺社奉行に昇進し、大坂城代から西の丸老中へと着実に幕府内で出世していった。天保12年(1841)、6人の老中の1人となる。幕政の中心にあった老中水野忠邦が正睦の佐倉藩での改革の成功やそれまでの幕府内での仕事ぶりを評価して登用した。水野の後を受けた老中は阿部正弘(福山藩主)であった。嘉永6年(1853)、提督ペリーが率いる東インド艦隊が浦賀(現神奈川県横須賀市)沖に現われ幕府に開国を迫った。アメリカ側の要求を断れば、戦争を仕掛けられる心配があり、戦争となれば敗北することも見えていた。

長く鎖国を続けてきた日本では開国反対が多数派であった。だが正睦は、日本が欧米列強に比べて軍事力で劣っていることを指摘し、開国した上で外国との貿易も行った方がよいとの意見を出した。幕府は最終決断をまとめきれず、朝廷にも事の次第を報告した。幕府の無力を示す結果となった。結局翌年、幕府は下田(現静岡県下田)、箱館(現北海道函館)の港を開く日米和親条約を締結することになった。

安政2年(1855)、正睦は阿部正弘から推されて再度老中となった。正睦は先進的な考え方の持ち主であり、性格は「善良無我」と評される温和な人柄であった。「内憂外患」の時世を乗り切れるのは正睦しかいないと期待されての再任であった。正睦は46歳で、当時では隠居してもおかしくない年齢であった。政治の表舞台に登場した。事態は、日米修好通商条約を要求するアメリカの初代駐日総領事ハリスの強硬な姿勢でますます困難になって行った。正睦は開国した上で富国強兵を推進する考えであったが、国内では世界情勢を知らずに鎖国・攘夷を叫ぶ声が強かった。

条約問題とともに、国内では病弱な13代将軍家定の跡継ぎを巡って意見が二つに分かれた。一人は紀州(現和歌山県)藩主徳川慶福(よしとみ、後の家茂)、もう一人は水戸(現茨城県)藩主・徳川斉昭の子で一橋家を継いだ一橋慶喜であった。血筋から言えば慶福が将軍に近かったが、10歳代前半なので政権を担うのは無理とされた。正睦は成人に達し聡明と評判の高い慶喜を推した。

外交・将軍の跡継ぎという2つの難題を抱え、正睦はまず条約を結ぶことに全力を注いだ。国内の強い反対を抑えるために朝廷の許しを得ようとして京都まで足を運んだ。朝廷の理解を得られず江戸に帰らざるを得なかった。その後、朝廷の許可なく条約を調印した責任を取る形で正睦は老中を辞めさせられた。

その直前に、大老となった井伊直弼は将軍の跡継ぎを慶福(14代家茂)に決めた。実権を握った井伊直弼は反対派の弾圧に乗り出し、50人以上の志士らを処刑した。安政の大獄である。正睦は将軍の跡継ぎ問題で対立したことから佐倉での隠居を命じられた。直弼は2年後に桜田門外で水戸藩浪士らに暗殺された。正睦は病気がちとなり元治元年(1864)、55歳で他界した。墓は佐倉市最上町の甚大寺にある。

参考文献:「佐倉惣五郎」(児玉幸多)、「歌舞伎 東山桜荘子」(高橋敏氏ら鼎談)、「堀田正睦と幕末の政局」(佐倉城研究会)、筑波大学附属図書館資料

(つづく)
<戊辰戦争150年>慰霊祭開催など事業計画を決定 仙台藩志会総会
 仙台藩士の子孫らでつくる仙台藩志会は8日、仙台市青葉区のホテルで本年度の総会を開いた。約100人が出席し、10月に戊辰戦争150年を記念して戦没者慰霊祭を開催するなど事業計画を決めた。
 戊辰戦争関連として、会津若松市で9月に開かれる会津まつりのメイン行事「藩公行列」に、奥羽越列藩同盟の参加藩である仙台を代表して藩志会が初めて加わることを報告した。
 4代藩主伊達綱村の300回忌に合わせた講演会を6月に開く方針も示した。
 伊達宗行会長は「戊辰150年、綱村公300回忌という二つの節目の年にどう行動するか、よく議論しよう」とあいさつ。伊達家18代当主の伊達泰宗さんは「仙台の発展のために心血を注いだ先人に感謝する1年としたい」と述べた。
<戊辰戦争150年>会津出身・陸軍大将が極貧しのいだ食を再現
 戊辰戦争に敗れ会津から青森県の下北半島に移住させられ、後に陸軍大将になった柴(しば)五郎(1860~1945年)の下北での極貧時代の食卓を再現するイベントが8日、むつ市であった。
 約25人が参加。料理研究家の坂本謙二さんが「ある明治人の記録」(中公新書)に書かれた「オシメ」というおかゆのような食べ物を再現した。
 ワラビとゼンマイを数センチほどに切り、コンブのような海藻のツルアラメを砕いてどろどろになるまで火を通し、交ぜ合わせて作った。参加者らは「思ったよりはいける」「毎日は食べられない」などと感想を述べ、当時の暮らしに思いをはせた。
 参加した大平小5年の井本結月さん(10)は「微妙な味だった。よく食べられたものだと感心した」と話した。
 イベントは、戊辰戦争から150年の節目に合わせ、市の任意団体「ディスカバリーむつプロジェクト」が主催した。
武家装束で和歌 戊辰戦争敵味方の子孫初の顔合わせ 鹿児島
 曲がりくねった水流沿いに並び、和歌を詠む「曲水の宴」が8日、鹿児島市の仙巌(せんがん)園であった。明治維新150年に当たる今年は、戊辰戦争で敵味方に分かれた薩摩藩島津家と徳川本家、会津藩松平家、庄内藩酒井家(山形県)の子孫が初めて一堂に会し、武家装束で和歌をしたためた。
 島津家32代嫡男の島津忠裕さん(45)、徳川家18代嫡男の徳川家広さん(53)、会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)、庄内酒井家18代嫡男の酒井忠順さん(43)ら8人が参加した。和歌のテーマは「語(かたる、ご)」。島津さんは「新しき御世を開きし御祖らの 語るを聞きて未来を築かむ」、松平さんは「150年義の勲しを語り来て 明き未来を祈るこの春」と詠んだ。
 大勢の観光客や市民らが訪れ、雅楽が鳴り響く優雅な雰囲気に魅了されていた。(南日本新聞社提供)
戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。
福島)戊辰150年 長岡と会津若松の図書館が連携企画
戊辰(ぼしん)戦争で越後・長岡藩は、侵攻する新政府軍(西軍)に対し、軍事総督河井継之助(つぎのすけ)を中心に奮闘。長岡城落城後、藩士や家族は会津藩領に逃れ、一部は鶴ケ城の攻防戦に加わった。それから150年。両藩の城下町、新潟県長岡市と福島県会津若松市の市立図書館で、「河井継之助がつなぐ長岡と会津若松」と題した共同企画展が始まった。相互に関連図書を紹介し、観光情報をPRしようという取り組みだ。

 4月1日から始まった長岡市立中央図書館の展示では、企画名が大きく書かれたパネルの下で、星亮一著「会津藩斗南へ」、野口信一著「会津えりすぐりの歴史」など約90冊が紹介され、貸し出しに供されている。書棚の脇に会津若松市の観光案内や「戊辰150周年記念事業」のパンフレットが置かれていた。

 会津図書館の展示は3月31日に始まった。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長の数々の著作のほか、救援米を学校建設に充てた「米百俵」で知られる長岡藩士小林虎三郎や、長岡出身の山本五十六・連合艦隊司令長官関連の書籍など100冊余りが並ぶ。

 書籍に加えて、会津で亡くなった長岡藩士を悼む本光寺の「殉節の碑」や、長岡で重傷を負い、福島県只見町で没した河井継之助の遺骨が一時埋葬された建福寺など、会津若松市内の関連スポットを示す写真や地図も掲げられた。

 今回の企画は、会津図書館が長岡市立中央図書館に呼びかけて実現した。

 会津図書館では一昨年、戊辰戦争後に元藩士らが移住した北海道余市町と、同様の共同企画を初めて実施。昨年は初代藩主保科正之が若き日々を過ごした長野県伊那市と行った。

 「戊辰150周年の記念の年は、ゆかりのある長岡市と一緒にやりたいと考えた」と司書の成田陽子さん。会津若松市の室井照平市長は昨年11月、長岡市を訪問し、磯田達伸市長との会談で交流の促進を確認していた。

 長岡市立中央図書館にとって、このような共同企画は初めてだったが、「先人たちの歩みに思いを巡らす良い機会」(山田あゆみ館長)と快諾。それぞれの所蔵図書から展示する本を選び、観光パンフレットなど配布資料を相互に送って準備を進めた。

 展示期間は長岡市立中央図書館が5月30日まで、会津図書館が5月29日まで。会津図書館の成田さんは「この展示をきっかけに、多くの人に長岡市に行っていただければ、と思っている」と話していた。(戸松康雄)
戊辰150年 激動期の相馬題材に歴史講演会 4月28日相馬
 相馬地方の幕末と戊辰戦争をテーマにした歴史講演会は4月28日午後1時から相馬市民会館で開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、相馬郷土研究会が共催し、市教委が後援する。戊辰戦争や明治改元から150年の節目に合わせ、地元の研究者が当時の資料を読み解きながら、激動期の様子を説明する。
 講師は相馬郷土研究会代表で南相馬市文化財保護審議会委員の藤原一良氏と、相馬美術倶楽部会長の斎藤重信氏が務める。
 藤原氏は「中村藩の幕末と戊辰戦争をふりかえる」、斎藤氏は「明治戊辰軍功賞について」の演題を予定している。
 福島民報社は明治時代の紙面、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流局 出前講座係へ。ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、申し込みの先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。
(2018/04/06 11:01)
<仙台市博物館>戊辰戦争の資料展示 設備改修終え3ヵ月ぶり再開
 老朽設備改修のため休館していた仙台市博物館(青葉区)が、3カ月ぶりに再開した。館蔵品約1000点による「旬の常設展2018春」で、幕末の仙台藩の動向を伝える「戊辰戦争150年」コーナーが設けられている。
 戊辰戦争関連資料は14点。1853年のペリー来航を報じる瓦版をはじめ、外国への対応策を尋ねる幕府に対し「武備が整うまで2、3年は穏便な措置」を具申する仙台藩主伊達慶邦の意見書控えなどが並ぶ。
 諸藩に先駆けて建造した洋式軍艦「開成丸」の威容を伝える版画や模型、西洋銃術の導入を図る慶邦の申渡書もある。
 同館は10月から特別展「戊辰戦争150年」を開催する。担当者は「今回の常設展は開国を巡って藩内の対立が激化する以前の資料を集めた。季節ごとに展示を入れ替えるので、ぜひ順にたどって見学してほしい」と呼び掛ける。
 旬の常設展は6月10日まで。入場料は一般460円、高校生230円、小中学生110円。連絡先は同館022(225)3074。
戊辰150年ラッピングバス、白河で運行開始、機運盛り上げ
 白河市は3日までに、戊辰150年の機運を盛り上げようと導入したラッピングバスの運行を開始した。

 市がジェイアールバス関東などに運営を委託する市循環バスの中型車両など計6台にラッピングを施し、「甦る『仁』のこころ 白河戊辰戦争」のキャッチフレーズのほか、陣羽織と西軍が恐れたとされ、遊撃を得意とする「十六ささげ隊」のロゴマークを入れた。

 記念式典が同市のJR白河駅前で行われた。鈴木和夫市長や白河戊辰戦争150周年記念事業実行委員会の人見光太郎会長らがテープカットに臨んだ。  鈴木市長は「白河には戊辰戦争の足跡が残っている。歴史的意義を多くの人に知ってほしい」と述べた。



「AR幕末の会津若松」機能拡充 街並みや風景、アプリで再現
 拡張現実(AR)の技術を活用して、会津若松市が配信しているスマートフォン、タブレット向け無料アプリ「AR幕末の会津若松」の機能が拡充された。

 アプリは戊辰150年を記念して開発され、昨年4月に配信が始まった。会津若松市の鶴ケ城天守閣、鶴ケ城本丸、日新館跡、西郷頼母邸跡、飯盛山の5カ所のAR撮影スポットでQRコードを読み込むと、幕末当時の街並みや風景がCGで再現できる。

 また、幕末に活躍した会津藩主松平容保(かたもり)や家老西郷頼母、山本八重、会津にゆかりが深い新選組の土方歳三、斎藤一、白虎隊の篠田儀三郎がキャラクター化されており、機能拡充により、幕末キャラの音声で観光スポットを紹介するようになった。現在地から観光スポット周辺までのナビゲーションも可能。

 また、看板が設置されたAR撮影スポットでQRコードを読み込むと幕末キャラと一緒に撮影できたり、顔だけを自分の画像にして撮影できる。動画撮影も可能になった。
幕末の漢文聖書に感動 出版元の香港関係者が来日 京都・円光寺
 京都市左京区の真宗大谷派・円光寺で約160年前の漢文の聖書「代表訳本」が見つかったことを受け、香港から出版元の関係者が同寺を訪れた。歴史的にも貴重とされる聖書を感動した様子で確認していた。

 来日したのは、香港の中学校、香港英華書院の鄭鈞傑校長ら4人。同校では、1860年代まで、宣教師の養成やキリスト教の普及のため、学内の印刷所で漢文の聖書などの出版物を発行していた。

 聖書は昨年6月に円光寺で見つかった。幕末に12代住職で同派の学僧だった樋口龍温(1800~85年)が、キリスト教研究のために入手したとみられる。旧約、新約が合冊され、旧約部分は初版本にあたり、世界的にも貴重な一冊だという。表紙には、出版年の1855年を指す清時代の元号「感豊五年」や「香港英華書院印刷」の印字がある。

 報道で発見を知った香港英華書院が訪問を希望し実現。3月末に訪れた鄭校長らは、目の前で木箱から出された聖書が披露されると、真剣な表情でページをめくりながら内容を確認したり写真に収めたりしていた。

 同校の資料館に保管されている聖書十数点は重版のものばかり。鄭校長は「初版の代表訳本を目にしたのは初めて。非常に感動している。(当校が)西洋以外に日本とも文化交流を深めていたのだと知り、うれしい」と話した。
幕末製造の洋式銃など40丁見つかる 堺の鍛治屋敷から
 全長2メートル超の火縄銃や西洋の技術を模索して製造した洋式銃など計40丁が、堺市に現存する鉄砲鍛冶(かじ)屋敷から見つかった。うち7丁は江戸末期の製造と特定された。鉄砲専門家らは、外国船来航に備えて堺の鉄砲生産が幕末にも増えたとする資料を裏付けるとともに、激動の時代の息づかいを感じられる貴重な資料としている。

 この建物は鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、市の指定文化財。井上家は江戸前期に堺に定着し、主屋も江戸時代初めに建てられた。明治末ごろまで鉄砲を生産していた。

 2014年に屋敷の蔵などから大量の古文書が見つかり、市と関西大が共同研究を開始。ペリー来航直後の1855年に海岸防備のため大筒を幕府側に上納した記録など、鉄砲づくりが江戸中期以降衰退したという通説を覆す記述も見つかった。さらにその過程で40丁の銃を確認。年代の特定を進め、府教委へ古式銃の登録をしてきた。

 26丁は火縄銃。「摂刕住(せっしゅうじゅう)井上関右衛門作」という銘文と花押(サイン)のある全長2メートル超のものや、乗馬で使う馬上筒(全長48センチ)も複数確認された。洋式銃は、弾を装塡(そうてん)する際レバーを引くボルトアクション式(141センチ)など14丁。

 40丁のうち製造年代が特定されたのは7丁で、いずれも幕末のもの。上下2連ピストル(29センチ)は、西洋の近代技術を基に幕末の1863年ごろ製造されたことがわかった。これらの銃は、屋敷から見つかった記録を裏付けるとともに、幕末に鉄砲鍛冶も敏感に時代に反応していたことをうかがわせるという。

 屋敷には16代目の井上修一さん(74)が暮らしていたが、3月に主屋と座敷棟、23丁の銃を堺市に寄贈した。市は銃を博物館で保管し、年代の特定など研究をさらに進める。井上さんは「鉄砲は関右衛門が気持ちをこめてつくったもの。屋敷とともに、個人で持ち続けるよりも市に保存継承してもらい、市民の財産として使ってほしい」と話している。(村上潤治)

     ◇

 古式銃研究家の沢田平・堺鉄砲研究会長の話 太平洋戦争で軍刀にするため火縄銃などの古式銃はスクラップにされて日本刀と比べ残っている数は極端に少ない。鉄砲鍛冶の歴史が終わり、100年以上経つ中で40丁の古式銃が1カ所で見つかるのは極めて珍しい。日本の火縄銃は世界で最も完成度が高い。技術の結晶として残った古式銃を堺市は早く展示してほしい。

     ◇

 〈堺と鉄砲〉 鉄砲は1543年に種子島に伝来したとされ、金属加工の伝統があった堺は生産現場として発展。ピーク時には約140人の職人がいた。堺の銃は1575年の長篠の戦いで使われ、大坂の陣で徳川方に供給された功績から江戸幕府が一定数を堺に注文した。国友(滋賀県長浜市)や根来(和歌山県岩出市)も生産地として知られる。
幕末明治の写真をデジタル再生 文書資料補う鮮明さ ガラスネガから270点
 昔も今も、歴史学で重視されるのは文書資料だ。しかし近世末期以降は、写真も重要な資料になり得る。そのことを改めて感じさせる大著が刊行された。『高精細画像で甦る 150年前の幕末・明治初期日本 ブルガー&モーザーのガラス原板写真コレクション』(洋泉社)だ。

 東京大史料編纂所の「古写真研究プロジェクト」(代表・保谷徹同所所長)による成果だ。1869(明治2)年に来日した2人のオーストリア人写真家が、維新期の日本で撮影、収集した写真とガラス原板ネガコレクションを調査した。2010年から7回、オーストリアで撮影した。江戸・東京や横浜と京都など。本書はその一部、270点を紹介している。

 「当時の世界最高レベル」(保谷所長)という8000万画素デジタルカメラ技術で撮影、拡大した。江戸は日本橋や江戸城、神田や深川、浅草、王子など。鮮明な写りならではの発見が多々ありそうだ。たとえば1871年末から翌年初めごろ、愛宕山で撮影した写真。眼下には元大名屋敷が整然と並んでいる。しかしよく見ると、屋根瓦があちこちではがれている。

 また文書資料では詳細が分からないことも伝えている。たとえば1872年、新橋-横浜間の鉄道が開業した年の横浜駅だ。その一枚は、駅構内や真新しげな蒸気機関車と客車、周囲の街並みなどを鮮やかに収めている。駅や列車の構造を知る手がかりになる。

 ひときわ驚かされる一枚は「英国士官・殺人犯の獄門首」だ。1864(元治元)年、英国陸軍の少佐と中尉が鎌倉・鶴岡八幡宮の参道入り口付近で、浪人2人に襲われ殺された(鎌倉事件)。浪人は後に捕まり、斬首される。写真はその一人。英国側の強い主張により、横浜・吉田橋のたもとに首がさらされた。顔には少年の面影が残る。正視しにくいが、歴史的事件を記録した貴重なものでもある。

 さらに1872年ごろの外国人居留地の写真には、外国語の看板が多数確認でき、興味深い。ちょんまげ姿の人々やその生業の様子も分かる。またこのころ、新政府は神仏分離を進めていた。神社と一緒にあった仏像や仏塔が壊されたり、他の場所に移されたりした。しかし写真は分離が完全に進む前、神仏習合の状況も記録しており、興味深い。同じ国際港でありながら同時代の横浜に比べて情報が少ないという、長崎を撮影した写真群も貴重だ。

 風俗史や建築史など、読み手の関心と知識によって多くの情報を読み取ることができる。またさまざまな研究に貢献するだろう。【栗原俊雄】
外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治
150年前の幕末・維新期に来日し、「激動の時代の目撃者」となった外国人少年写真家がいた。東京大学史料編纂所の古写真研究プロジェクトチームが少年の祖国・オーストリアで、少年が撮影・収集した多数のガラス原板を確認。8000万画素のデジタルカメラで原板を撮影し、拡大したところ、驚くほど鮮明な当時の日本が写り込んでいた。少年の足跡をたどるとともに、成果を写真史料集『高精細画像で 甦 よみがえ る 150年前の幕末・明治初期日本』(洋泉社)にまとめたプロジェクトチーム代表の保谷徹所長(幕末維新史)に現地調査の経緯などについて聞いた。
16歳で来日したオーストリア人少年
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)
日本滞在中の和服姿のミヒャエル・モーザー(1872年)(アルフレッド・モーザー氏所蔵)

 江戸から明治に変わって間もない1869年(明治2年)10月2日、横浜港に到着したオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦フリードリヒ大公号に一人の少年が乗船していた。日本と修好通商条約を結ぶため派遣された使節団(東アジア遠征隊)に随行していた写真家ヴィルヘルム・ブルガーの助手で、ミヒャエル・モーザーという16歳のオーストリア人少年だった。

 ミヒャエル・モーザーの名は、横浜で創刊された日本初の写真入り英字紙『ファー・イースト』で写真家として活動していた人物であることは知られていた。が、つい最近まで生没年すらわからない「謎の人物」だった。写真技術の高さから、大人の写真家だと思われていたが、実際には10代の少年だったことが判明し、研究者を驚かせた。ミヒャエル少年は、使節団が条約締結を終えて帰国した後も、ただ一人、日本に残った。16歳から23歳まで、7年余りを明治初期の日本に滞在したミヒャエル・モーザーとは、いったい、どんな人生をたどった人物だったのだろうか。
偶然だった師・ブルガーとの出会い
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【日本橋】 東海道など五街道の起点となった橋。「反り橋」としては、これが最後の日本橋になる。1872年(明治5年)4月16日付の英字紙『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
橋の左側部分を拡大。中央にある瓦屋根の建造物は法度(法令)などを掲げる高札場。橋から突き出た梁は欄干の補強材か
 ミヒャエル・モーザーは1853年、現在のオーストリア中部・シュタイアーマルク州アルトアウスゼーで生まれた。師となるヴィルヘルム・ブルガーとの出会いはまったくの偶然からだった。モーザーとブルガーの二つのガラス原板コレクションを集成した写真史料集に掲載された「解説」(ペーター・パンツァー、宮田奈奈の両氏執筆)によれば、次のような経緯だった。

 大都市・ウィーンから遠く離れた避暑地・アルトアウスゼーをブルガーが撮影で訪れた際、カメラの暗箱を修理する必要に迫られた。そのとき修理したのがミヒャエルの父、ヨアヒムだった。修理が完璧だったため、お礼としてブルガーは彼の子どもたちの写真を撮影することにした。大きなレンズのついたカメラが置かれると、子どもたちはおびえて逃げてしまったが、一人だけその場に残った子どもがいた。それがミヒャエルだった。カメラに興味を持ったミヒャエルに「お前も写真家になりたいか?」と尋ねると、小さなミヒャエルが「なりたい!」と答え、ブルガーのもとで助手を務めることになった、という。
英字紙『ファー・イースト』の写真家に
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【東京鎮台営】 右側が、赤坂門内の旧出雲・松江藩邸。重厚な門構えが見える。1871年(明治4年)7月の廃藩置県後、屋敷は東京鎮台の歩兵屯所として用いられた。左端に茶屋があり、手前に坂を登る人の荷車を押して駄賃をもらう「立ちん棒」か、人力車の車夫とみられる人たちが写っている。現在の衆参両院議長公邸(千代田区永田町2丁目)付近(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
写真の右側中央部を拡大。門前の兵隊2人は1871年頃の鎮台歩兵の軍装。左端の木造建造物は、上水道を木樋で屋敷内に引き込むための枡とみられ、上部には南京錠が掛けられている
 ミヒャエルがウィーンのブルガーのもとで働き始めてから1年たった頃、外国へ行くチャンスがめぐってきた。オーストリア・ハンガリー帝国は日本と清(現在の中国)、シャム(同タイ)のアジア三国と修好通商条約を締結することを決定し、使節団を派遣した。この時、随行する写真家として選ばれたのがブルガーだった。

 助手としてブルガーに同行した15歳のミヒャエルは、1868年10月、アドリア海に面した港町トリエステからフリードリヒ大公号で出航。南アフリカの喜望峰を回り、約1年かけて日本に到着した。この航海の途中、ミヒャエルは50日間も船酔いに苦しんだという。日本にとどまったのは、日本が気に入ったことに加え、船酔いが大の苦手だったことも理由の一つだったという。

 ミヒャエルは横浜の飲み屋で給仕として働いたりした後、知り合ったフランス人と一緒に写真スタジオを開いた。しかし、台風のため、写真スタジオが全壊。来日した翌年の70年、英国人ジョン・レディ・ブラックと出会い、創刊したばかりの英字紙『ファー・イースト』で写真家として働くようになった。ブラックがミヒャエルを雇わなければ、激動期の日本を記録した数々の貴重な写真は残されていなかったかもしれない。ちなみに、ブラックの長男ヘンリーは、明治時代に活躍した異色の落語家、快楽亭ブラックである。

 ミヒャエルは、73年に故国・オーストリアで開かれたウィーン万博で日本事務局の通訳を務めるため『ファー・イースト』を辞めた。ウィーンから戻った後は、内務省勧業寮の工業試験場で写真技術を教える教師となった。『ファー・イースト』で写真家として活動したのは、17歳から19歳までの間だった。76年、22歳のとき、フィラデルフィア万博の通訳として日本を離れた後、米国で病気になり、3か月間入院。健康を回復するため、そのままオーストリアに帰国し、再び日本に戻ることはなかった。
子ども部屋に放置されていたガラス原板
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【芝切通】 中央に人力車、右側に茶屋が写っている。プリント写真には「江戸の風景」とだけキャプションが付いていたが、細部を拡大すると町名が読み取れ、現在の港区虎ノ門3丁目であることがわかった。1872年(明治5年)11月1日付の『ファー・イースト』に同じ構図の写真が載っているため、これ以前に撮影されたものとみられる(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
写真の中央左側部分を拡大。右側の建物の入り口に「町名札」が立ててあり、「西久保広町」と書かれていたため、撮影地が特定された
 ミヒャエル・モーザーのガラス原板コレクションが見つかったのは、2008年。師・ブルガーのガラス原板コレクションを1973年に発見していた日本研究者のペーター・パンツァー・ボン大学名誉教授が、探し求めていた弟子・ミヒャエル・モーザーのガラス原板も見つけた。

 東大への留学経験もあるパンツァー氏から連絡を受けた東大史料編纂所のプロジェクトチームは、2010年から17年まで計7回にわたって現地調査を実施。12年の第4回調査から、8000万画素の高精細なデジタルカメラを使用し、ガラス原板(ネガ)の撮影を行った。通常、報道用に使用するカメラが2400万~3000万画素程度であり、8000万画素はその約2.5~3倍に相当する。当時、世界一の高解像度を誇るカメラだった。

 保谷所長らが現地調査を始めたとき、ミヒャエル・モーザーのガラス原板は木箱などに収められたまま、アルトアウスゼーの生家にあった子ども部屋に放置されていたという。「日本関係の原板は全部で136点出てきました。子ども部屋に放って置かれていたにもかかわらず、比較的状態も良かった。150年の間、奇跡的に残っていました」と振り返る。コレクションには自身が撮影した東京や横浜などの風景写真の原板のほか、日本人写真家の内田九く一いちや下岡蓮れん杖じょうらが撮った肖像写真のガラス原板も含まれていた。

 写真フィルムがなかった当時、ガラス板に感光剤を塗り、それが乾く前に像をガラスに写しとる「コロジオン湿板写真」という技法が使われていた。プロジェクトチームは原板(縦約16センチ×横約21センチ)を1枚1枚、デジタルカメラで撮影し、反転加工したうえ、コンピューター画面で自由に拡大できるようにした。原板には高精細な画像情報が封じ込められており、デジタル画像を拡大することによって、細部まで観察できるようになった。

 たとえば、「芝切きり通とおし」の写真。原板を焼き付けたプリント写真にはドイツ語で「江戸の風景」とだけキャプションが付けられていたが、デジタル処理で拡大すると、写真中央左側にある建物入り口の「町名札」に「西久保広町」(現在の港区虎ノ門3丁目)と書かれていることがわかり、撮影地が「芝切通」であることが判明した。また、「横浜元町・居留地」の本村通りをズームアップすると、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋などの看板がひしめく様子が見え、西洋近代の文物が流れ込む開港場の活況が確認できた。「ガラス原板には、リアルな幕末・維新期の日本の姿が写り込んでいます。高精細な写真画像は、歴史的な変化を具体的なイメージとして再認識させてくれる。当時の写真画像はきわめて説得力があり、迫力ある史料になっている」と、保谷所長はその意義を強調する。
写真台紙の裏に富士山と鳥居の絵
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
【横浜元町・居留地】 1872年(明治5年)頃の横浜。山手から山下居留地を望んだ写真で、手前は元町。大森貝塚の発見で知られるエドワード・モースが1877年に、『日本奥地紀行』を書いたイザベラ・バードが翌78年に来日したが、彼らが横浜に上陸したとき、同じような光景を目にしたかもしれない(※カンマーホフ博物館所蔵、東京大学史料編纂所提供)
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
写真の中央部を拡大。前田橋から続く本村通りには、パブや居酒屋、パン屋、仕立屋、両替屋などの看板が確認でき、西洋の最新の文物が流れ込んだ開港場の活況が垣間見える
 原板撮影には苦労もあった。カメラそのものがとてもデリケートで、性能が高いだけに、ほんのちょっとのところでピントがずれてしまったりした、という。撮影を担当した東大史料編纂所技術専門職員の高山さやかさんは「カメラが気まぐれで、なだめすかさないと動いてくれないときもあった」と振り返る。

 幕末・維新期に来日した外国人写真家として最も有名なのは、愛宕山から見た江戸のパノラマ写真などを撮った英国人フェリーチェ・ベアトだが、ミヒャエル・モーザーの残した写真の意義はどこにあるのか。「写真は『ファー・イースト』に在籍していた1871年(明治4年)と72年(同5年)のものが中心です。風景写真などには高解像度の画像があるので、遠景を拡大すると、遠く離れた場所の細部までがよく見える。江戸から明治へ、大きく時代が変わっていく様子を克明にとらえた写真として、きわめて貴重な史料になっている」と指摘する。また、収集したガラス原板の中には、1863年以前の江戸を写した現存最古とみられるネガも含まれている。

 原板は撮影が終了した後、日本から持参した中性紙の専用ボックスに納め、保存措置をとった。コレクションは現在、バートアウスゼー市のカンマーホフ博物館に永久寄託されている。

 ミヒャエル・モーザーの後半生は、波乱に満ちた前半生とは対照的に、きわめて穏やかだったようだ。ミヒャエルの孫、アルフレッド・モーザー氏が書いた『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』(宮田奈奈訳、洋泉社)によれば、米国からオーストリアに戻った後、アルトアウスゼーの両親の家に写真スタジオを構え、その後、27歳で、隣町のバートアウスゼーに写真館を設立。35歳で結婚した後、絵を背景に撮影する「アトリエ写真」で有名な写真家として活躍し、1912年11月24日、卒中発作のため59歳で亡くなった。

 再び日本を訪れることはなかったが、多感な少年期を過ごした日本での日々を終生、忘れることはなかっただろう。写真館で使っていた写真台紙が、今も残されている。その台紙の裏には富士山と鳥居の絵が描かれ、「MICHAEL MOSER, Photographer, TOKIO,JAPAN」と記されている。

幕末藩主も乗った?木製の三輪車、2年かけ完成
 幕末から明治期に活躍した福井藩主の松平春嶽が初めて乗ったとされる木製の三輪車「ビラスビイデ独行車」が復元された。

 福井県が、藩士の日記や1850年代の車輪を参考にして2年がかりで完成させた。県庁1階ホールで13日まで公開している。

 3月24日にあった福井城山里口御門の完成式典でお披露目された。全長1・7メートルで、前輪直径40センチ、後輪は同1メートル。ケヤキなどを使い、ペダルや車輪の外周は鉄製。ペダルを前後に踏み込んで回す仕組みで、ブレーキはない。

 復元の基になったのは春嶽に仕えていた藩士が書き留めた「御用日記」。1862年に江戸の藩邸で、家臣の佐々木長淳が組み立て、春嶽が乗ったという記述があった。「ビラスビイデ」は速い乗り物を意味する。

 県はこの史実を伝え、県民の自転車利用の機運を高めようと2016年度から復元に着手。坂井市のみくに龍翔館所蔵の1850年代の車輪などを参考に、専門家の協力を得て、設計を行って仕上げた。事業費は約240万円。

 県庁ホールでの公開後は、県の博物館などで巡回展示する予定。

 県交通まちづくり課は「福井と自転車の歴史的な関係をアピールする中で、より多くの人に自転車に興味を持ってもらいたい」と話している。

いざ出陣『戊辰観光』開戦 鶴ケ城で幕末特集「会津の義感じて」
 日本の歴史の転換点となった「戊辰戦争」から150年の節目を迎える中、激戦地の本県では記念事業が本格化している。戊辰戦争とゆかりの深い会津若松市や白河市は1日、「戊辰」の観光客を呼び込む新たな動きを始めた。150年前の4月は会津に向けて進攻する新政府軍が本県へと迫る時期。春の観光シーズンの到来に合わせ、観光を舞台にした"開戦ムード"が一層高まってきた。

 会津若松市の鶴ケ城天守閣前で行われた本年度事業のオープニングセレモニーでは、記念事業実行委員会長の室井照平市長が「官民連携して記念事業を盛り上げる。多くの方に会津の義を感じてほしい」とあいさつした。

 鶴ケ城を管理する会津若松観光ビューローは本年度、天守閣の展示を「幕末特集」として全館で展開する。

 各期でテーマを変え、戊辰戦争の伏線となった藩主松平容保(かたもり)の京都守護職時代を含め、会津ならではの一級資料を展示する。1日からは第1弾の「松平容保と京都守護職」(5月7日まで)が始まり、セレモニー後に内覧が行われた。

 京都御所の蛤(はまぐり)御門付近で繰り広げられた「禁門の変」を描いた「蛤御門合戦図屏風(びょうぶ)」や、新選組副長土方歳三も愛刀とした「和泉守兼定」などの日本刀、会津藩家老の書など、貴重な資料が展示されている。

 「八・一八の政変」での容保の働きに感激した孝明天皇が容保に贈った御宸翰(ごしんかん)や一緒に贈られた自作の和歌は同展のみの展示で、来場者の注目を集めている。

 若松市内10施設巡る「クイズラリー」始まる

 会津若松市では市内10施設を巡り、クイズに答えて応募すると温泉宿泊券などが抽選で当たる「戊辰ミステリークイズラリー」が1日から始まった。

 各施設や観光案内所で台紙を入手し、各施設を巡りクイズに挑戦する。7月31日までが前期、後期は8月1日~11月9日。全問正解で温泉宿泊券(各期5人)、6問正解で会津産品セット(同15人)、3問正解で会津WAONカード1000円分(同150人)が当たる。

 初日の1日も鶴ケ城では来場者が戊辰戦争にちなんだクイズに答えていた。出題施設次の通り。

 鶴ケ城天守閣、まなべこ、県立博物館、御薬園、会津武家屋敷、白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館、旧滝沢本陣、會津藩校日新館、会津新選組記念館

剣豪・森要蔵しのび80年ぶり法要へ 戊辰・戸の内の戦いで散る
 戊辰戦争の白河口の戦いの一つ、戸の内の戦い(西郷村下羽太地区)で散った剣豪・森要蔵が眠る西郷村の大龍寺で6月30日、80年ぶりとなる法要が行われる。森は千葉周作を開祖とする北辰一刀流の使い手で、千葉道場四天王の一人と称され、熊本藩生まれながら幕府側で最期を迎えた。森の生きざまなどを後世に伝えようと、戊辰150年に合わせて、同村商工会と地元有志が法要を行い、老朽化した墓も修繕する。

 「森は最後の出撃を前に(世話になった礼として)寝泊まりしていた民家に(武士の魂の)小刀を託した」「西軍が押し入った民家に赤子がいて、西軍が殺そうとしたが、会津藩が助けた」。戸の内の戦いに関する資料はあまり村に残っておらず、商工会の大高紀元会長(70)は戦禍を生き延びた住民から伝え聞いた話を披露した。

 「森要蔵は最後の武士。その存在は村にとって財産であり、法要を地域の歴史を再確認する機会にしたい」。大高会長は、森の墓を戊辰戦争の象徴の一つと位置付けており、寄付を募るなどして法要までに再整備する考えだ。70周忌法要には大高会長の祖父も参加したといい、80年ぶりの法要を通して、大高会長は歴史の保存と、いまだ解明されていない戊辰戦争の調査の進展に期待を寄せる。

 森は講談社の創設者野間清治の祖父としても知られている。70周忌法要では清冶が感謝の言葉をつづった手紙4通を同寺に送っており、手紙は今でも寺に保管されている。

 大高会長と内藤信光住職(68)は「講談社の関係者も呼ぶ予定だ。150周年の節目に東西両軍関係なく、国を思い散った先人に村一体となって手を合わせたい」と話した。

戊辰戦争『錦の御旗』初公開! 北畠顕家生誕700年記念企画展
 南北朝時代の武将、北畠顕家(きたばたけあきいえ)の生誕700年を記念した企画展「北畠顕家と霊山」が7日、伊達市の保原歴史文化資料館で始まった。同市の霊山神社に保管され、戊辰戦争で新政府軍が使用したとされる「錦(にしき)の御旗(みはた)」も初めて公開された。7月1日まで。

 顕家は南北朝時代、霊山に現在の東北地方を治める拠点を置いた。同神社は1881(明治14)年に創建され、顕家ら北畠家の4氏をまつっている。

 錦の御旗は天皇を主君とする「官軍」であることを示す旗。同神社が保管している2枚は、明治政府の中枢を担った岩倉具視(ともみ)が、戊辰戦争時に息子2人が使ったものを奉納したものと伝えられている。企画展では2枚のうち1枚を展示。岩倉の名前で、奉納の経緯を記した奉納文も展示している。

 企画展は来年1月まで3期にわたって開かれる。第1期は「戊辰戦争と伊達地方」がテーマで、錦の御旗のほか、戊辰戦争時に棚倉藩士が現在の伊達市保原町に避難してきたことを示す文書などを並べた。同館の担当者は「伊達市でも戊辰戦争があったということを伝えたい」と話している。

 入館料は大人210円、小・中学生と高校生100円。開館時間は午前9時~午後5時(最終入館は同4時30分)。火曜日休館。

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導
◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。
 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。
 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。
 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。
 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。
 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。
 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。
 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。
 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。
 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>
 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。
 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。


[但木土佐]1817~69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。

[藤原相之助]1867~1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

激戦の舞台たどる 新年度、戊辰150周年事業
 会津美里町は2018(平成30)年度、戊辰戦争150周年を記念した各種事業を行う。講演会やパネル展、史跡を巡るツアーなどを繰り広げる。28日までに概要が固まった。
 会津美里町には、下郷町の大内宿から町内の関山宿(現関山地区)などを通って会津盆地に入る下野街道が通り、参勤交代などにも使われていた。関山宿付近は戦火で民家がほぼ全焼するなど、旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となった歴史がある。さらに高田地区などでも戦いが行われたことを示す史料もある。
 5月13日にオープニング事業として歴史講演会を開く。町文化財保護審議会の笹川寿夫会長を講師に、若松城下へ迫ろうとする新政府軍と、防ごうとする旧幕府軍の攻防などについて、史料や町内各所に残る石碑などについて紹介する。
 5月27日に本郷地区で開かれる向羽黒山城跡ふれあい茶会では、城跡の麓にある向羽黒山ギャラリーで戦時品やパネルの展示を行う。
 7月下旬か8月に、町内の関山地区、下野街道など戊辰戦争に関わる場所、史跡を巡るツアーを行う。9月には京都を訪れ、京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡る予定。

【会津美里町の戊辰戦争150周年事業の主な内容】
(かっこ内は開催場所)
・5月13日 歴史講演会(本郷体育館)
・5月27日 向羽黒山城跡ふれあい茶会で、戦時品やパネルを展示(向羽黒山ギャラリー)
・7月下旬か8月 関山地区、下野街道などを巡るツアー(町内)
・9月 京都守護職を務めた会津藩ゆかりの場所を巡るツアー(京都など)

<奥州の義 戊辰150年>(1)プロローグ 画期的瞬間、東北が一つに
白河以北一山百文。東北を軽視するこの言葉が、いつから使われだしたか定かではない。しかし世の人の心に深く刻まれた契機は、はっきりしている。
 今から150年前、幕末から明治へと時代が転換する中で起きた戊辰戦争で、東北の諸藩が明治新政府にひざを屈したことだ。

 西国の薩長土肥を中心に成立した明治新政府は、幕末の動乱期に対立した会津、庄内両藩を討ち滅ぼそうと「朝敵」と位置付けた。東北自らの手で両藩を攻めろと命令した。
 朝廷、幕府双方に忠誠が厚く、京都、江戸の治安維持に尽力してきた会津、庄内を討つ必要がどこにあるのか。納得できない仙台、米沢など東北諸藩は擁護へと立ち上がる。
 新政府と両藩の和平を取り持つため大同団結しようと、東北と北越の31藩が奥羽越列藩同盟を結成。それは東北全域が一つになった画期的な瞬間でもあった。
 しかし平和解決を求める嘆願は新政府に一蹴され、「会津、庄内に味方する者は全て敵」と、東北の地は戦火に巻き込まれていく。そして敗れて「賊軍」のいわれなき汚名を背負い、その後も負け組の意識が付いて回ることとなる。

 今年、日本各地で維新を記念する行事が開催されている。「近代化の幕開けとなった大業」「明治の精神に学ぼう」。そんな称賛の言葉が飛び交う。
 待ってほしい。勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。
 維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい。戦雲を追って。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[戊辰戦争]1868(慶応4)年1月から翌年5月にかけて、明治新政府と旧幕府側の諸藩との間で起きた内戦。鳥羽・伏見の戦いから上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、箱館(函館)五稜郭の戦いまでを指す。開戦年のえとが戊辰に当たるため、この呼称が付いた。薩摩、長州藩などが中心の新政府は、前年に大政奉還した前将軍の徳川慶喜や会津、庄内両藩を朝敵として追討軍を進め、両藩を擁護する東北・北越諸藩が抗戦した。戦後、敗れた東北諸藩には減封や未開拓地への移住など厳しい処分が課せられた。




この舞台を最後に勘九郎さんが大河ドラマ撮影に入ってしまい、舞台で見られる機会がなくなってしまうので、大船の鎌倉芸術館まで足を延ばして見てきました。
 前から4列目の好位置のチケットでしたので、役者さんたちを等身大で見ることができました。それだけで眼福です。
一、芸談
このツアーの振り返り。七之助さんはラーメン三昧。
今後の予定で、兄弟のスペイン公演は既に公表されてましたがパリ公演があるような。
七之助さんはコクーン公演「切られの与三」について語ってましたが、
八月歌舞伎「演目決まってない」(つまりご出演は決まっている)とも。
二、鶴亀(つるかめ)

帝:中村小三郎

鶴:中村仲之助

鶴:中村仲四郎

亀:中村いてう

亀:中村仲助

従者:中村仲侍
三、浦島(うらしま)

浦島:中村勘九郎

近くで見るとますます早変わり凄いです。
四、枕獅子(まくらじし)

傾城弥生後に獅子の精:中村七之助

禿ゆかり後に胡蝶:中村鶴松

禿たより後に胡蝶:澤村國久
こちらも前半の花魁(御殿女中風)から後半に獅子の精に変わるので七之助さんの凛とした美しさを堪能できます。
国性爺合戦、愛之助は結構ニンに合っていたと思うけど、主人公としてストーリー全体に絡んでないんだよね。芝翫は主役より主人公のライバル役の方が映えるかも知れない。そして、日本人女性代表の渚お母さんと義理の娘錦祥女が男たちの選択のために自殺する必然性がわからず、納得いかない。。
 男女道明寺はいつもの道明寺を男女で踊り分ける。雀右衛門さん(立役を引き立てる女形としては素晴らしいと思う。だからこそ、酷使されないで長生きして欲しい)、松緑さん、気持ちいい踊り。
 芝浜革財布は落語で見知ったストーリーだけに、勘三郎さんで見たかった。。

 於染久松色読販は、色悪の仁左衛門、悪婆の玉三郎がいいだけに、物足りなかった。ちっぽけな悪事が失敗したところで終わって残念、せめて髪結新三ぐらいには活躍して欲しかったんだよな。。
 でも神田祭で仁左玉のラブラブは国宝だなと思った。これ見られただけで今日は満足。
 そして滝の白糸。歌舞伎座でやる意味としては玉三郎が演出で壱太郎と松也という若手が主役級という若手養成の意味はあったし、お芝居としてもかなり熱演だったと思う。
 ストーリー展開上自分が疑問符つけたところは、新派のストーリーがそうなっていたらしく、泉鏡花の原作は納得入ったというのは私が近代人だからかも。滝の白糸がいくら大金を強奪されたからと言って、助けを求めて入り込んだ高利貸しの家で殺人するというのはイマイチ説得力がない。強奪する側と金を貸す側がぐるだったと知って激高する、というストーリーの方が説得力ある。そして、最後の場面の順番も原作の方が納得する。。まぁ歌舞伎という手法はリアリティを必ずしも追求しない、という理屈ではあるのだけど。。

三月大歌舞伎 美、際立つ「莨屋」=評・小玉祥子
 昼の序幕が「国性爺(こくせんや)合戦」。愛之助の和藤内は、声が通り、荒事らしい力強さと稚気があり、芝翫は甘輝にうってつけの容姿で大きさがある。華やかさに加えて情がある扇雀の錦祥女、強さと優しさのある秀太郎の渚、東蔵の老一官とそろう好舞台。

 中幕の「男女(めおと)道成寺」は四世雀右衛門七回忌追善。雀右衛門の花子は体の使い方が美しく、「恋の手習い」など愛らしさにあふれる。松緑の狂言師左近が軽快だ。

 最後が「芝浜革財布」。芝翫の政五郎と孝太郎のおたつが世話物らしい夫婦の機微をおもしろく見せた。

 夜の最初が「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)」の「莨屋(たばこや)」「油屋」。鬼門の喜兵衛(仁左衛門)と土手のお六(玉三郎)の場面に絞っての上演で、すごみと色気がある喜兵衛と歯切れ良く伝法なお六である。薄汚れた「莨屋」で早桶(はやおけ)や死人を用いるグロテスクさが2人の美を際立たせ、別世界が現出する。「油屋」のゆすりは、2人の息が合ってテンポが出た。橘三郎の久作が好演。

 中幕は舞踊の「神田祭」。仁左衛門の鳶頭が粋で、玉三郎の芸者があでやか。

 最後が「滝の白糸」(泉鏡花原作、高田保脚本、坂東玉三郎演出)。水芸の芸人、滝の白糸(壱太郎)と法律職を志す青年、村越欣弥(松也)の悲恋物語。壱太郎が初々しく、欣弥へのいちずさを表現し、松也は法廷の場面で、セリフに説得力を出し、さわやかだ。歌六の春平、彦三郎の南京寅吉、米吉の桔梗がふさわしい味わい。【小玉祥子】

歌舞伎座で27日まで
<評>歌舞伎座「三月大歌舞伎」 新派の「白糸」上演、刺激に
 昼の部は「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」から。片岡愛之助が初役で和藤内(わとうない)をつとめる。中村芝翫(しかん)の、これも初役の甘輝(かんき)が若々しくも堂々とした将軍でいい。片岡秀太郎の母渚は、情愛と強さとをメリハリの利いた演技で見せる。中村扇雀の錦祥女(きんしょうじょ)、中村東蔵の老一官。

 「男女道成寺(めおとどうじょうじ)」は先代中村雀右衛門の七回忌追善狂言。姫や娘の印象の強かった雀右衛門が厚ぼったい色気をのぞかせる。尾上松緑も安定感のある洒脱(しゃだつ)な踊りで、ともに役者ぶりがぐっと大きくなった。

 他に芝翫、片岡孝太郎の「芝浜革財布(しばはまのかわざいふ)」。

 夜の部「於染(おそめ)久松(ひさまつ)色(うきなの)読販(よみうり)」は「莨屋(たばこや)」「油屋」の二幕。片岡仁左衛門の鬼門の喜兵衛、坂東玉三郎の土手のお六は四十一年ぶりの顔合わせ。喜兵衛の凄味(すごみ)、お六の愛嬌(あいきょう)とも申し分なく、鶴屋南北の描いた江戸の闇が浮かび上がる。

 続く「神田祭」はガラリと趣を変えて、この二人が鳶(とび)頭と芸者に。息の合った濃厚なむつまじさに客席が大いに沸く。

 最後は玉三郎演出による新派の名作「滝の白糸」。中村壱太郎(かずたろう)の白糸はしなやかで美しく、尾上松也の村越欣弥は法廷での長ぜりふを鮮やかに聴かせる。しかし、いずれも刹那的な激しさ、危うさのひと味物足りないのが惜しい。中村歌六の春平は情理を尽くしたせりふが見事で引き込まれる。坂東秀調の太夫元、坂東彦三郎の南京寅吉も好演。他に中村歌女之丞、中村京妙、坂東守若と、ベテランの女形が確かな存在感を発揮した。新派と歌舞伎は単純に連結できるわけではないが、新派の演目を歌舞伎で上演することは双方に良い刺激となる。二十七日まで。(矢内賢二=歌舞伎研究家)
鶴ケ城に『武士の魂』...23、24日投影 戊辰戦争・激戦の舞台
 戊辰戦争で激戦の舞台となった会津若松市の鶴ケ城を会場に23、24の両日開催されるプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲」の公開リハーサルが22日、行われた。武士道や不屈の魂を迫力ある音楽とともに表現した幻想的な映像が、天守閣の白壁に鮮やかに浮かび上がった。

 震災からの復興に向かって歩む人々を応援するため2013(平成25)年から県内でプロジェクションマッピングを開催している「fukushimaさくらプロジェクト」の主催。これまでは毎年県内1カ所での開催だったが、6年目の今回は開催地を増やし、戊辰150年にちなみ、3年ぶり開催の鶴ケ城と白河市の小峰城を会場とした。小峰城では4月7日に開催される。

 作品は15分間。映像製作の橋本大祐さん(郡山市出身)が「魂を込め、命懸けで作った」という映像では武士の魂や会津藩の「白虎隊」「朱雀隊」などの語源となった四神が表現され、最後は会津若松市生まれという引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラボーカルバンド「RAG FAIR」が復興支援ソング「花は咲く」を披露する。

 鶴ケ城での上映時間は2日間とも午後6時30分、同7時15分、同8時、同8時45分の4回。小峰城では4月7日の午後7時と同8時に上映する。入場無料だが予約制。予約は「はるか2018」の公式サイトから。
きょうまでプロジェクションマッピング 鶴ケ城に浮かぶ四神 若松
 会津若松市の鶴ケ城を映像で彩るプロジェクションマッピング「はるか2018~戊辰の風 花の雲~」は23日、開幕した。戊辰戦争150周年や東日本大震災からの復興などをテーマにした幻想的な映像が天守閣を包み、多くの市民や観光客らが見入っていた。24日まで。
 fukushimaさくらプロジェクトの主催、市の共催、NHKエンタープライズの企画制作、福島民報社などの協賛。
 郡山市出身の橋本大佑さんが映像を制作し、武士道や不屈の魂、幕末の会津藩に組織された「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」の語源となった四神などを表現した。
 終盤には福島市出身の引地洋輔さんがリーダーを務めるアカペラグループ「RAG FAIR(ラグフェア)」が登場した。花々がかれんに舞う映像に合わせ、天守閣最上階で復興支援ソング「花は咲く」を披露した。計4回の公演を繰り広げた。
 観覧は予約制で、24日分は既に締め切っている。
 4月7日には白河市の国史跡・小峰城跡でも催される。専用ホームページや往復はがきで観覧予約を受け付けている。

( 2018/03/24 10:11 カテゴリー:主要 )

<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。
 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。
 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。
 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。
 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。
 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。
 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836~93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
 世良修蔵 1835~68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし
 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。
 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。
 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。
 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。
 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。
 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827~68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月~73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず
中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。
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京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)
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 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。
 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。
 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。
 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。
 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。
 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。
 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。
 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。
 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611~73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748~1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828~90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に
◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん
 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意
 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。
 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。
 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。
 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>
 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。
 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。
 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。
 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部
 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。
 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。
 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。
 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860~1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845~1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。
3度目の観劇、1回目と同じく花道に近い10列目以内の席。花道での演技が見える。

(三谷幸喜のありふれた生活:887)「殿堂」が笑いで揺れる
 幕末の江戸無血開城をテーマにした新作舞台「江戸は燃えているか」が開幕した。今回はコメディーである。お客さんに笑って頂くことだけを目的にした芝居を作るのは、「酒と涙とジキルとハイド」以来、四年ぶりである。

     *

 今回は笑いのバリエーションにも工夫を凝らした。基本は定番の「勘違い」「すれ違い」から来る笑いだが、そこに普段僕がやらないタイプの笑いもプラスしている。

 偽物の西郷吉之助(隆盛)や偽物の勝海舟が登場するのだが、それがどう見てもニセというチープな仕上がり。なのに誰もが本物と信じてしまう「そんな馬鹿な」的笑い。さらには演者が共演者をアドリブで突っ込む、本来なら禁じ手の笑い。それが出来たのはひとえに、劇場が新橋演舞場であり、突っ込むのが中村獅童さんだから。

 客席の上に提灯(ちょうちん)がズラリと飾られているこの劇場には、「なんでもあり」のおおらかさがある。そして優れた歌舞伎役者さんは必ず持っている、舞台上で起こることはどんなことでも成立させてしまう懐の深さ。なにしろ獅童さんが現れた襖(ふすま)が、彼の後ろで自動的に閉まっても、まったく違和感がないのだ。普通の役者さんではこうはいかない。

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 新橋演舞場といえば「松竹新喜劇」。まさに喜劇の殿堂でもある。中村勘三郎さんの「浅草パラダイス」に始まる「浅草」シリーズ、最近では渡辺えりさん、キムラ緑子さんコンビの「有頂天」シリーズ、三宅裕司さんたちの「熱海五郎一座」も人気演目だ。新橋演舞場に笑いを求めてやって来るお客さんたちは確実にいる。喜劇を作るからには、その方々を満足させなくてはならない。おのずとこちらも力が入るというものだ。

 喜劇映画の面白さを伝える表現で、たまに「一分に一回は笑える」というフレーズを見かけるが、六十秒おきにしか笑えない喜劇は、実は喜劇としては失格。僕の理想は「十秒に一回」だ。

 だがそれはあくまで理想であって、映画にしろ舞台にしろ、十秒に一回の割合で観客が笑い続ける作品(二時間だと七百二十回)に僕は出会ったことがないし、当然自分でも作ったことがない。

 そもそも全編通じて十秒に一回となると、最初の笑いは幕開き十秒後に来なければならず、これは至難の業だ。よっぽど面白い顔の人が出てくるとか、犬だと思っていたら人だったとか、そんなことくらいしか思いつかない。僕の作品みたいに、シチュエーションや会話で笑いを紡いでいく場合は、どうしても状況説明、いわゆる「フリ」の部分が長くなる。だがそこを乗り切れば、後は、別に誰かが面白いことを言ったり、おかしな動きをしなくても、ごく普通の会話をしているだけで、観客を爆笑させることも可能になるのである。

     *

 今回の「江戸~」も、序盤は静かに始まるが、一幕の終盤では十秒に一回どころか、三秒に一回くらいの頻度で客席は爆笑に包まれる。千人以上が一度に笑う時のパワーはすさまじく、劇場中が揺さぶられているように感じる。そんな客席の様子を舞台袖からそっと覗(のぞ)く。喜劇作家にとって至福の時間である。

獅童出演『江戸は燃えているか』初日に向けて
 3月3日(土)~26日(月)、新橋演舞場『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』公演に中村獅童が出演、12人の出演者が初日に向けて意気込みを語りました。



 三谷幸喜書き下ろしの『江戸は燃えているか』。江戸城を攻め落とそうとする官軍の西郷吉之助、なんとしても将軍を守りたい勝海舟と山岡鉄太郎、江戸城明け渡しに至るまでのドラマは、歌舞伎の『江戸城総攻』をはじめあまたの舞台や映像、小説に描かれています。が、この作品は「笑えるお芝居をつくりました」と三谷が言うとおり、オリジナリティーあふれる喜劇です。出演者の言葉からは三谷作品、三谷演出に大きな期待と信頼が寄せられていることが伝わってきました。



12人が一丸となっての喜劇

 獅童が演じるのは勝海舟。西郷が城を攻める前に降伏を勧めにやってくると聞いて、小心者で喧嘩っ早い勝のとった言動に、交渉決裂を懸念した周囲が、江戸を戦火の海にしないためにと策をめぐらせます。獅童は、「お客様におおいに笑っていただけたらいいなと思います。喜劇はお客様がお入りになってみないとわからない。ここで笑わせようと思って演技はしていません」。喜劇の難しさを率直に語った言葉からは、稽古の充実ぶりがうかがえました。



 そして、すったもんだの末にとった策が、勝の身代わりを立てること。身代わりに選ばれたのは庭師の平次、松岡昌宏が勤めます。「いろいろなジャンルの人がいらっしゃって、存在感、笑いの間が皆違う。それが一緒になるからこそ面白い。今回は出演の12人が一丸となった、料理の“ばくだん”のような公演です。ぜひ、一人ひとりの味を楽しんでいただけたら」。まさにこれは、12人がそれぞれの味を出すことで笑いを起こす“群像喜劇”です。



 この二人について三谷は、「どんな演出の注文をしても絶対に、できないと言わないで瞬時にやってくれる。しかも、あとで冷静にきちんと考えて論理的に構築してやってくれる。本当にやりやすいです」と絶賛。さらに、「獅童さんが前半で飯尾さんと、後半で磯山さんと、毎回稽古場で笑ってしまうシーンがあるんですが、どちらも台本に書いていないところで本当に腹立たしい! あんなに的確に絶妙につっ込みつつ、ぼろぼろになっていく獅童さんが、本当に面白い」。



▲ 『江戸は燃えているか TOUCH AND GO』 左より、中村獅童、松岡茉優、田中 圭、八木亜希子、高田聖子

笑わないのが難しい

 ほかの出演者も、「たくさん笑っていただけるように、たくさん汗をかいていきたい」(高田聖子)、「(芝居の)経験は少ないですが、皆さんに教わりながらここまで来ました」(八木亜希子)、「見ている皆様が、楽しかった、笑って腹筋が疲れた、という芝居をしたい」(磯山さやか)、「わくわくしています。ハッピーになってもらえるように頑張りたい」(妃海 風)、「舞台でたくさん走っております。皆様のお力をお借りして25日間走り続けたい」(中村蝶紫)と、この喜劇への意気込みを見せました。



 「皆の芝居がおかしくて。笑わないよう負けないよう芝居をします」(藤本隆宏)、「笑いなくして見られない。本番中に笑わないよう気を付けます」(田中 圭)と、喜劇を演じる側には笑いを起こすだけでなく、笑わないという試練もある様子。「始まりから終わりまでノンストップの芝居」(飯尾和樹)、「ノンストップの笑い合戦に、セットを使った笑いどころもあります」(吉田ボイス)と、笑いのツボはあちこちに仕掛けられているようです。



新橋演舞場で初演出

 新橋演舞場で初めて演出する三谷は、「花道がある舞台が初めてなので、今までやったことのない使い方をと考えましたが、ほとんどのことはやられていると聞き、オーソドックスな感じになりました」と明かしましたが、ここで出演者からはあれがオーソドックスなのかと驚きの声。花道がどういう空間になるかは見てのお楽しみです。「新橋演舞場に出演するのは初めてなので、花道を歩きたかった」とは松岡茉優、「ちょっと三谷さんに恨み節です」。



 また、三谷は、「歌える人がいっぱいいることに気づき、急きょ『江戸は世界一』というナンバーをつくりました」と、宝塚退団後初の大舞台という妃海が中心となって、ミュージカルシーンも入れ込みました。獅童は、「セットがリアルで本物かと思うくらいよくできています。ご覧になる場所によって見え方も全然違うので、2、3度は見てほしい」と、みどころは言い尽くせないようです。



 約1カ月にわたる稽古を経て、いよいよ初日の舞台へ。「稽古場で皆と一緒に過ごす時間がとても長かったですが、やっていて楽しかった。集中していたのであっという間でした」と獅童。「野球でいうなら全員野球。誰ひとり欠けても成立しない芝居です。皆で頑張ってここまでこぎつけました」と三谷。ぜひ、新橋演舞場へ足をお運びください。

 以下、畳みます。
昨年暮れに函館で骨折した右手首ですが、本日、整形外科の先生に「きれいにくっついていますね」と快癒と診断されました。まだ握力は10キロ程度しかありませんが、機能はだいぶ回復してきています。

ゆかりの地で「彼岸獅子」 戊辰戦争・山川大蔵の鶴ケ城入場貢献
 戊辰戦争時、会津藩家老・山川大蔵が小松村(現会津若松市北会津町)の獅子を先頭に鶴ケ城入場に成功したことで知られる会津彼岸獅子の演舞が20日、会津若松市の国指定名勝・会津松平氏庭園「御薬園」で行われた。

 会津まつり協会が戊辰150周年の記念事業として企画した。会津彼岸獅子は豊作や家内安全を願う会津各地に広まった伝統行事。山川の入場に貢献した小松獅子団は1871(明治4)年、山川に同園に招かれ、松平容保(かたもり)らに舞を披露し、松平家の家紋の使用が認められたとされる。

 演舞には小松獅子保存会が招かれ、3匹の獅子が「弊舞」「弓くぐり」「庭入り」などを披露し、3匹の華麗な舞に訪れた市民らが見入った。鈴木利栄会長は「ゆかりの地で踊れたのは感慨深い」と語った。

顕彰碑を建立 白河戊辰の戦地「白坂宿」住民
 白河市の旧奥州街道にある「白坂宿」に、住民らが地元の歴史を伝える顕彰碑を建立し、17日に現地で除幕式が行われた。白坂宿は戊辰戦争で戦死者が出た歴史的な場所で、青柳幸治実行委員長は「戊辰150年の節目に除幕でき、感慨深い」と話している。
 郷土史によると、白坂宿は豊臣秀吉が奥州仕置きに向かった際、宿として認められたのが始まり。江戸時代初期には本格的な宿場が建設され、総屋敷数は83軒を数えた。旅館や料理屋がにぎわい、盛況ぶりは奥州街道随一ともいわれた。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争では白坂宿でも戦いが繰り広げられ、会津藩士や大垣藩士、棚倉藩士らが戦死。白坂宿に住んでいた大平八郎は白坂宿から西軍(新政府軍)を先導し、東軍(旧幕府軍)の後方に出る間道を案内したという。
 地元の住民はこうした史実を後世に伝え、語り継ごうと顕彰碑の建立を企画し、昨年3月に実行委員会を組織した。住民らから寄付を募り、市の地域づくり活性化支援事業の補助金も受けた。
 顕彰碑は戊辰の戦死者が葬られている街道沿いの観音寺駐車場に設けられた。1873(明治6)年ごろの宿の並びの図と白坂宿の沿革が記されている。青柳委員長ら実行委員、円谷光昭副市長らが除幕した。青柳委員長は「地元住民の長年の願いがかなった。白坂宿を元気にしていきたい」と話している。
 実行委員会は2018年度も事業を継続し、屋号の石柱や歴史を説明する案内板の設置を予定している。
( 2018/03/18 09:50 カテゴリー:主要 )

シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第28回新選組の残党、斎藤一の生涯とは? 胃潰瘍で71歳で没した豪腕剣士
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖され、撃剣師範や三番隊組長で気を吐いた新選組の豪腕剣士といえば斎藤一だ。幕末きっての最強剣客、冷酷非情の刺客、暗殺粛清の請負人(スナイパー)、極悪非道の人斬り、俊敏速攻の豪剣、左利きの孤高なダークアウトローなどと喧伝され、伝説化される。

 そんな斎藤一とは何者だったのか?

享年71で胃潰瘍で病没した新選組の豪腕剣士
 1844(天保15)年1月1日、斎藤一は、江戸(播磨国?)に父・山口右助、母・ますの三子として生誕する。1月1日生まれが一(はじめ)の由来ともいわれる。

 19歳の時、江戸・小石川関口で口論した旗本を惨殺、京都の剣術道場・吉田道場に逃亡し師範代に。そして、1863(文久3)年3月、芹沢鴨、近藤勇ら13名が「新選組」の前身となる「壬生浪士組」を旗揚げ。斎藤ら11人が入隊し、京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなる。斎藤は若年ながら副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長、撃剣師範も兼務した。

 斎藤が20歳の1864(元治元)年6月、「池田屋事件」で土方歳三らと斬り込む。この時期、組内部の粛清役を一手に請負うことになる。長州藩の間者(スパイ)とされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与するが、真相は不明だ。

 23歳、1867(慶応3)年3月、伊東甲子太郎が「御陵衛士」を結成して新選組を離脱。斎藤は間者となり御陵衛士に密かに潜入。新選組に復帰する時は、御陵衛士の活動資金を盗み、「金欲しさに逃走した」と巧みにカモフラージュ。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した「油小路事件」は、斎藤の内偵情報を悪用して起きる。

 また同年12月には、紀州藩藩士・三浦休太郎を警護中、酒宴を開いた天満屋で海援隊・陸援隊の隊員16人の急襲に遭遇。宮川信吉らが死亡、梅戸勝之進が重傷。斎藤は鎖帷子(くさりかたびら)を着て難を逃れた。

 24歳、将軍・徳川慶喜の大政奉還(11月9日)後、1868(慶応4)年1月に戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いに参戦し敗走。3月に近藤勇が流山で新政府軍に投降後、新選組は会津藩の指揮下に入る。白河口の戦い、母成峠の戦いを連戦するが敗戦し、土方歳三は庄内へ、斎藤は会津に残留し会津藩士と薩長の新政府軍に抵抗する。同年9月に会津藩が降伏後も戦い続けたが、松平容保の使者の説得で投降。越後高田に下り謹慎する。

 25歳、会津藩は降伏後に改易され、会津松平家は家名断絶になるが、下北半島に斗南藩の再興を許され、斎藤も斗南藩士となり五戸に赴く。移住後、飯盛山で自刃した白虎隊士の篠田儀三郎の遠縁にあたる篠田やそと結婚したが、その後、離別している。

 30歳、1874(明治7)年3月、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚。氏名を藤田五郎に改名する。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄を授かっている。同年7月、東京に移住し警視庁に入庁する。

 34歳、1877(明治10)年2月、九州で士族反乱の西南戦争が勃発。内務省警視局の警部補に昇任した藤田五郎(斎藤一)は、5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長の大義を負いつつ、西南戦争に参戦。敵弾で負傷する。

 35歳、戦後の1879(明治12)年10月、参戦の功績が認められ政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与。37歳、警視庁の巡査部長に昇進。その後、警部補や麻布警察署詰外勤警部を歴任。48歳、1892(明治25)年12月に退職。50歳で東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)に就任。撃剣師範を務め、学生に撃剣を教える。1899(明治32)年、55歳で退職。その後は東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛に。好爺と慕われ、生徒の登下校時の交通整理も行ったという。65歳、1909(明治42)年に退職……。

 その後の来歴は詳らかでない。1915(大正4)年9月28日、東京都本郷区真砂町で胃潰瘍のため逝去との記録が残っている。享年71。墓所は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。
斎藤の死因とされる胃潰瘍とは?
 死亡診断書は確認できないが、斎藤の死因とされる胃潰瘍(peptic ulcer)を見てみよう。

 胃酸の影響を受け、胃の粘膜に炎症が生じ、粘膜が潰瘍を形成する病態を消化性潰瘍(胃潰瘍と十二指腸潰瘍)と総称する。胃潰瘍は、40歳以降の人に多く、十二指腸潰瘍は10~20代の若年者に多い。

 原因は何か? ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が十二指腸潰瘍なら95%、胃潰瘍なら70%とされる。ピロリ菌以外の原因は、非ステロイド性消炎鎮痛薬のアスピリン(NSAIDs:エヌセッド)が多い。そのほか、胃粘膜保護の減少を助長する飲酒、喫煙、塩分、熱い飲食物、ストレス、コーヒー(カフェイン)などがリスクファクターになる。

 どのような症状が現れるのか? 上腹部痛は、十二指腸潰瘍では、空腹時や夜間によく起こり、胃潰瘍では、食後30分から1時間後によくみられる。潰瘍からの吐血や下血のほか、むねやけ、吐き気、嘔吐などを伴うことが多い。

 胃・十二指腸潰瘍の診断に最も重要な検査は、バリウムによるX線造影検査と内視鏡検査だ。治療は、ピロリ菌の除菌療法の進歩によって1年後の胃潰瘍の再発率は10%、十二指腸潰瘍は5%と低下している。

 エヌセッドの服用による胃・十二指腸潰瘍の治療は、胃粘膜プロスタグランジンを補充するプロスタグランジン誘導体の投与が行われる。胃・十二指腸潰瘍の疑いのある時は、早急に医師の診察を受けなければならない。

 このような病態の根拠から、斎藤一の病死を推察すればどうなるだろう?

 詳細なデータが不明だが、明治時代から大正時代の男性の平均寿命は43歳前後だ。胃潰瘍の病態がまだ解明されてい明治期に、71歳まで生存できたのはなぜだろう? 遺伝的な気質、武士道に通ずる精神的な形質、飲酒、喫煙、塩分過剰などの生活習慣などが関与していたのかも知れない。
「顔が割れなかった斎藤一」の写真が初めて見つかる
 斎藤一は「顔」がなかった。だがしかし、2016(平成28)年に初めて、彼の写真が発見される(「日本経済新聞」2016年7月15日)。関係者宅の蔵を整理した時に見つかった2枚の写真を、次男の子孫に当たる藤田家が公表。斎藤が54歳の1897(明治30)年に、妻の時尾、息子二人と撮影したポートレート。「これが死線くぐった目だ」と物議をかもしている。

 没後103年。前述のように「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖される。沖田総司、永倉新八と居並ぶ新選組の豪腕剣士として伝説化される斎藤一とは、いったい何者だったのか?

 数知れない歴戦逸話や剣技美談の陰で、幾重にも折り重なる出自の謎、暗殺疑惑、粛清嫌疑の暗雲。惨劇と鮮血の轍。同志隊員の横死を横目に見つつ、幾多の先陣を切り抜け、戦死することなく幕末、明治、大正を生き存えた宿業の執念。史実の激流に呑み込まれつつも、闘魂伝説の闇に葬られた71年の剣劇人生!
 
 旗本の殺戮と逃亡、大坂力士との乱闘、長州藩の間者や脱走隊員の大粛清、天満屋事件の惨殺、戊辰戦争の死闘で猛剣を振るった歴戦猛者。戦後は警部、大学の守衛や庶務掛兼会計掛にも就き、汗して勤労する。

 司馬遼太郎は『新選組血風録』に隊士の粛清役、暗殺の請負人を淡々と描く。小説や映画の『壬生義士伝』は「ふさふさとした眉、目つき鋭く、炯々とした背の高い男」の怪奇な横顔を追う。漫画や映画の『るろうに剣心』は御一新の明治時代に警視庁で一心に働く藤田五郎を活躍させる。

 最初の名前は山口一。京都に潜伏した時は斎藤一。24歳になれば山口二郎。戊辰戦争の時は一瀬伝八。斗南藩に移住する直前は、妻の高木時尾の母方の姓を借り、藤田五郎と名乗る。

 名前に数字を折り込み、変名、改名を繰り返す不可思議。本名(諱:忌み名)を名乗ることで霊的人格を差配されるとする実名敬避のジンクスを死守しようと、本名を巧みに使い分けながら武士の本願を貫こうとしたのか?

 かの「七つの顔の男」多羅尾伴内も真っ青の多重人格者か? 怪奇異能、冷徹寡黙のポーカーフェイスか? 斎藤一は何も語らない。
(文=佐藤博)

維新に翻弄された徳川の殿様たち御三家筆頭の尾張藩が新政府に寝返った理由幕末動乱の中、西郷隆盛を信頼した尾張藩主徳川慶勝
安藤 優一郎
 明治維新から150年が経つ。NHKの大河ドラマで西郷隆盛が取り上げられるなど、薩摩・長州の側から維新を描く番組・特集が目立つ。しかし、負けた側である徳川方にも歴史がある。

 会津の松平容保は最後まで将軍家に尽くした悲劇の宰相として有名。その弟である松平定敬(桑名藩主)も容保と行動をともにした。それゆえ、桑名藩を飛び出すことになる。

 一方、彼らの実の兄である徳川慶勝(尾張藩主)は藩内の親幕派を抑え、新政府につく。兄弟ではないが、越前・福井の松平春嶽もキーパーソン。当初は、最後の将軍・徳川慶喜も参加する“連立政権”の実現を図るが頓挫。その後は新政府に人材を供給した。

 維新に翻弄された、尾張・会津・桑名の3兄弟と、春嶽の歴史をひもとく。現代のビジネスに通じる要素がいくつもある。

 明治維新とは、徳川家中心の幕府から薩摩・長州藩を中核とする明治政府への政権交代劇であったが、維新を境に徳川家が完全に排除されたわけではない。排除された徳川一門もいたが、明治政府入りした徳川一門もいた。徳川一門が分裂して一枚岩になれなかったことが、維新が実現できた理由の一つでもあった。


高須4兄弟肖像。向かって右から、徳川慶勝・ 徳川(一橋)茂栄・松平容保・松平定敬(複製/原資料行基寺蔵) 海津市歴史民俗資料館提供
 一口に徳川一門の大名(親藩大名)と言っても、徳川姓を名乗ることが許された御三家・御三卿から、藩主が松平姓を名乗る会津藩、福井藩まで様々だ。それぞれ、将軍職を継いだ徳川宗家との関係は一筋縄ではいかなかった。各大名家の複雑なお家事情も背景にあった。葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、本社と系列会社との関係は必ずしも良好ではなかったのである。

 そこで台風の目となったのが、尾張藩徳川家や福井藩松平家だった。こうした徳川家内部の足並みの乱れを突く形で、薩摩・長州藩は徳川一門の尾張藩や福井藩を引き入れて明治新政府を樹立し、さらに戊辰戦争を経ることで維新回天を実現する。

 本連載では明治維新150年の節目の年に際し、維新の過程で翻弄された徳川一門の殿様4名に注目する。尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、福井藩主松平春嶽の4名である。

 将軍家以外の徳川家は激動の時代をどう生きたのか。維新を境に敵味方に分かれた4名の殿様の生き様を追うことで、徳川一門の殿様からみた明治維新の知られざる実情に迫る。

冷戦状態だった幕府と尾張藩
 初回は尾張藩主徳川慶勝を取り上げる。慶勝は文政7年(1824)の生まれで、後に部下となる西郷隆盛よりも3才年上であった。

 尾張藩の石高は62万石で、戦国の雄だった加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家にこそ及ばないが、家格は徳川宗家(将軍家)に次いだ。徳川宗家に継嗣がいない時は、ナンバー2の大名として将軍の座に最も近い立場にあったが、尾張藩主が将軍の座に就くことは一度もなかった。

 6代将軍徳川家宣がいまわの時、尾張藩主の吉通が継嗣に擬せられたことはあったが、家宣の嫡男家継がわずか4才で将軍の座を継いだことで、その機会を失う。7代将軍家継が8才で夭折した時も、紀州藩主の吉宗に8代将軍の座を奪われた。

 家格では尾張藩の次に位置した紀州藩から将軍職を継いだ吉宗に対し、その後尾張藩主となった宗春は御三家筆頭としてのライバル心を剥き出しにするような政治を行う。質素倹約を旨とする吉宗のデフレ路線に対し、尾張藩主の宗春は規制緩和による積極経済の路線で対抗した。そのため、不景気に苦しむ江戸城下とは対照的に名古屋城下は大いに賑わう。

 しかし、こうした宗春の施政は吉宗から目を付けられざるを得ない。隠居・謹慎を命じられ、藩主の座を追われることになった。筆頭の系列会社のトップ人事にグループの総帥が介入した格好だ。おのずから、尾張藩では紀州藩が牛耳る幕府への反発が高まる。

 そして、尾張藩に跡継ぎがいなくなると、寛政10年(1798)に徳川宗家から養子を送り込まれてしまう。尾張藩には「御連枝」と称された分家の美濃高須藩松平家(3万石)があり、継嗣がいない場合は高須藩から養子に入るのが慣例だったが、幕府は高須藩からの相続を認めず、吉宗の曾孫にあたる11代将軍家斉の甥斉朝を養子に送り込んだ。

 斉朝が隠居した後も、三代続けて家斉の子や甥が藩主の座に就くが、いずれも吉宗の血統であるから、みな紀州藩出身ということになる。ライバル紀州藩の血統を引く者を主君として仰ぐことへの不満が尾張藩内では募っていく。自前の候補がいるにも拘らず、ライバルが牛耳る本社から社長を送り込まれたことへの反発は抑えようがなかった。

尾張藩待望の藩主徳川慶勝
 当時、分家の高須藩主は松平義建という人物で、子だくさんであった。後述するとおり、幕末史で重要な役割を演じる「高須四兄弟」とは義建の子供たちのことである。

 尾張藩では幕府に対抗して、義建の次男慶恕を藩主に迎えようという動きが既にみられた。慶恕は高須四兄弟では長兄にあたる。幕府はその動きを抑え込み、徳川宗家から養子を送り込み続ける。何度も養子を押し付けてきた幕府への不満は爆発寸前となるが、ようやく嘉永2年(1849)に慶勝が藩主として迎えられた。約半世紀ぶりに、尾張藩は自前の候補を社長の座に据えることができた。

 幕末に尾張藩主となった慶恕は藩政につとめるかたわら、国事多難な折柄、幕府の政治にも積極的に関与する。ついには水戸藩の前藩主斉昭とともに、大老井伊直弼の政治責任を追及したが、その反撃を受けて隠居・謹慎に追い込まれた。安政5年(1858)、世に言う安政の大獄である。藩主の座は高須四兄弟で次弟にあたる茂徳が継いだ。

 尾張藩主としては、宗春以来の強制隠居だった。藩内には衝撃が走り、幕府への反発がさらに強まる。そうした事情は斉昭や家老が処罰された水戸藩も同じであり、脱藩した水戸藩士たちは江戸城桜田門外で井伊を討ち果たす。幕府の権威は地に堕ちた。

 桜田門外の変の後、慶恕は隠居を解かれる。その折慶勝と改名した上で、政治活動を再開させた。文久3年(1863)に息子の義宜が藩主となると、後見役として藩の実権を再び握る。

 翌元治元年(1864)7月、長州藩が京都に攻め上り戦争(禁門の変)が起きる。敗れた長州藩は御所に向けて発砲した廉で朝敵に転落し、諸藩から構成される征長軍が組織された。長州征伐の開始だ。その総督に就任したのが慶勝であった。

 幕府は長州藩を徹底的に追い詰めることでその力を天下に見せつけ、幕府権威の復活を目論んだが、慶勝の考えは違っていた。長州征伐を断行することで、国内が内戦状態に陥ることを懸念していたのである。その混乱に乗じて、欧米列強が日本を侵略しないとも限らない。征長軍参謀を勤めることになった薩摩藩士西郷隆盛も同じ考えだった。

 西郷は長州藩に寛大な処置を取ることで、不戦のまま事態の収拾をはかることを慶勝に提案し、その了解を得る。自ら敵地に乗り込み、長州藩を帰順させることに成功した。征長軍は解兵となり、第一次長州征伐は終った。
 しかし、慶勝が西郷の勧めを受けて寛大な処置を施したことに、幕府は大いに不満だった。最後の将軍となる同じ徳川一門の一橋慶喜などは「芋に酔った」と批判している。芋とは薩摩藩(西郷)のことで、慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃したというわけだ。

明治政府の一翼を担った尾張藩
 それから3年後の慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は大政奉還に踏み切り、幕府は消滅する。その後、薩摩藩が主導する形で天皇をトップとする明治新政府が樹立されたが、徳川一門は分断された。慶喜が新政権から排除される一方、慶勝と福井前藩主松平春嶽を政府入りさせたのである。

 これに反発した慶勝の弟にあたる高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、慶喜を奉じて新政府と開戦する。慶応4年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いである。だが、慶喜と両藩は戦いに敗れて朝敵に転落し、慶勝と容保・定敬は兄弟で敵味方に分かれた。江戸中期以降、幕府と尾張藩が冷戦状態にあったことの必然的な結果でもあった。

 しかし、尾張藩内には幕府に反発する藩士がいる一方で、幕府に殉じるべきと主張する藩士も少なくなかった。このままでは路線対立が起き、内部抗争が起きるのは時間の問題だった。藩の分裂の危機が迫っていた。

 明治政府からも踏絵を迫られた慶勝は京都から名古屋に急行し、幕府寄りの立場を取る藩士たちを切腹などの断罪に処した。これは「青松葉事件」と呼ばれている。

 家臣たちに犠牲を強いることで藩内の一本化に成功した慶勝は政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走する。東海道や中山道沿いの諸藩をして明治政府に帰順させることにも成功した。その一方で、敵となった弟たちの助命にも力を尽くした。

 その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たさなければならない慶勝の苦悩があった。尾張藩に限ることではないが、尾張藩主と徳川一門の立場を両立させることの難しさが滲み出ている。

維新に翻弄された徳川の殿様たち徳川宗家に殉じた会津藩主松平容保子会社の存亡よりも本社の利益を優先
安藤 優一郎
 第2回は会津藩主松平容保を取り上げる。容保は天保6年(1835)の生まれで、兄の徳川慶勝よりも11才年下である。高須四兄弟でいうと、3番目にあたる。


京都守護職を務めたがゆえに幕末・維新の風雲を真正面から浴びた松平容保(近現代PL/アフロ)
 会津藩の初代は、3代将軍家光の異母弟で信濃の旧家保科家に養子に入った正之である。23万石の所領を与えられた保科正之は、甥にあたる4代家綱の治世では将軍補佐役をつとめた。藩主が松平姓を名乗ったのは、3代藩主の時からである。

 会津藩松平家は福井藩松平家とともに、松平姓を名乗る親藩大名の代表格だった。徳川御三家も親藩大名だが、当時の慣例として親藩大名が幕府の役職に就くことはなかった。外様大名はもちろんである。

 老中・若年寄や奉行職など幕府の役職に就けるのは、徳川家の家臣から大名に取り立てられた譜代大名と、将軍の御直参である旗本と御家人だった。徳川宗家としては一門の大名をして幕府の仕事に当たらせるのはためらわれ、一門の大名としても宗家(将軍)の下で仕事をするのは抵抗があった。一国一城の主としてのプライドである。

 ただし、将軍が幼少の時などは別で、親藩大名も特別に幕府政治に関与した。保科正之が任命された将軍補佐役はその一例だ。御三家が幕政に関与することもみられた。

 寛文8年(1661)、正之は家老宛という形で15ケ条から成る家訓を家中に向けて提示する。この家訓は会津藩の藩是となる。正之は第1条目で将軍には一心をもって忠勤を励むことを説く。他藩の動向に関係なく、将軍には忠節を尽くさなければならない。もし二心を抱く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな主君に、家臣たちは従う必要はない。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた。会社に喩えると創業者の社訓だ。この社訓に縛られてしまったのが美濃高須藩から養子に入った第9代藩主の松平容保なのである。

松平容保、京都守護職となる
 容保が会津藩に養子に迎えられたのは、弘化3年(1846)のこと。藩主の座に就いたのは嘉永5年(1852)、18才の時だった。

 そんな容保が幕末の政治史に登場するのは、文久2年(1862)のことである。

 当時は幕府権威の低下による天皇(朝廷)権威の急浮上を受け、京都が江戸に代わって政局の舞台となっていた。攘夷を唱える尊王攘夷の志士が京都に集結し、天誅などの騒動を引き起こす。

 朝廷内でも尊攘派の公家が台頭する。薩摩藩や長州藩に象徴されるように、朝廷を介して幕政に影響力を行使しようという藩も増えはじめた。天皇の奪い合いだ。

 こうした京都の情勢を、幕府は危険視する。朝廷や西国大名の監視そして京都の治安維持のために京都所司代を置いていたものの、所司代のみでは無理と判断する。

 所司代に任命されるのは10万石前後の譜代大名であり、小禄の方だった。そこで、23万石の石高を誇る会津藩の武力をもって、京都の治安を回復しようと目論む。京都守護職の新設だ。会津藩としては将軍補佐役に任命された藩祖保科正之と同じく、特命を受けて幕政への参画を求められた格好である。

 容保に守護職就任を求めてきたのは、同じ親藩出身で大老に相当する政事総裁職を務めていた福井前藩主の松平春嶽だった。容保はこれを固持、家臣たちも大反対だった。現下の情勢では、衰運の幕府を助けて守護職を務めるというのは薪を背負って火中に飛び込むのに等しい。家老の西郷頼母や田中土佐は言葉を尽くし、守護職を受けないよう容保に諫言を重ねる。
 会津藩が存亡の危機に陥ることを危惧したのだ。実際、その危惧は現実のものとなる。

 しかし、正之が残した家訓を知っていた春嶽は容保を説得してしまう。藩祖の正之ならば、必ず引き受けただろう。この言葉は、容保には殺し文句だった。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めたわけだが、容保にとり藩祖の家訓は何よりも重かった。養子であるがゆえに、養家の社訓により縛られてしまう。会津藩としては、幕府の苦難を黙視できない。命運を共にしなければならない。

 容保は藩内の反対を押し切って京都守護職を受諾する。これが、会津藩にとっては茨の道のはじまりだった。

容保に守護職辞職を求めた会津藩重臣
 会津藩士1000人とともに入京した容保は、幕府の命に従って職責を全うすることに努める。衰運の幕府を支える柱石になるとともに、孝明天皇の厚い信任も獲得した。だが、そのぶん、朝廷を牛耳ろうとしていた長州藩などからの嫉妬は避けられなかった。

 元治元年(1864)の池田屋事件、禁門の変を経て、長州藩とは血で血を争う仇敵の関係になる。高須四兄弟では弟にあたる桑名藩主松平定敬は京都所司代として容保を支えたが、長兄にあたる徳川慶勝が藩主を勤めた尾張藩との関係は微妙なものとなっていく。

 正之の家訓に従って幕府と運命を共にする道を進む会津藩と、藩主が2度にわたって隠居を命じられた上、宗家から養子を押し付けられてきたことで幕府への積年の不満が溜まっていた尾張藩の藩内事情の違いだ。幕府を支える会津(容保)・桑名藩(定敬)と、幕府と距離を置く尾張藩(慶勝・茂徳)の政治的立場の違いが、同じ徳川一門の家に養子に入った高須四兄弟の間を引き裂いた。

 こうして、会津藩は幕府の柱石として守護職を勤めれば勤めるほど、反幕府の立場を取る長州藩や薩摩藩との関係が悪化することになったが、藩内にも容保への不満が広がっていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからだ。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となる。

 容保の在京は5年にも及んだが、京都詰の藩士たちも多大な負担を強いられる。藩にしても財政難であるから、彼らに充分な手当は支給できなかった。生活難に陥った藩士の間では、内心京都詰を忌避する空気があったが、迷惑であると表立って申し立てるのは臣下として許されるべきことではなかった。会津藩に限らず、藩士にとり藩命は絶対だった。

 しかし、このまま容保が守護職にとどまっては、藩や藩士たちが疲弊して滅亡の危機に瀕するのは明らかだった。仇敵長州藩との戦いも避けられない。重臣たちは容保に守護職辞任と国元への帰国を説く。会社の危機を眼前にした役員たちが、その回避をはかろうと社長に直訴した格好だが、容保は重臣たちの意見を退け、守護職にとどまる。子会社の存亡よりも本社の利益を優先した形であった。
 当然ながら、藩内にはしこりが残る。藩内に反発を抱えたまま、容保は大政奉還の日を迎える。幕府が倒れた後は、薩摩・長州藩との戦いが時間の問題となり、慶喜を奉じる会津藩と桑名藩は敗れ、朝敵に転落した。容保は弟の定敬とともに、慶喜に随って江戸へ敗走する。会津藩士たちもその跡を追った。

 しかし、新政府に対して恭順の意思を示す慶喜からは会津への帰国を命じられる。抗戦の意思を捨てない会津藩は、慶喜にとり都合の悪い存在になってしまったからだ。その後の会津藩の苦難は、白虎隊の悲劇に象徴されるように良く知られているだろう。

 明治維新(戊辰戦争)における会津藩の悲劇とは、創業者の社訓に縛られた子会社の社長が本社に義理立てし続けた結果、その身代わりとなって自分の会社を倒産させてしまい、社員にも多大な犠牲を強いた事例である。会津藩主松平容保の生き様は、現代にも通じる本社と子会社の関係の難しさを物語っている。

(次回は、3月22日に桑名藩主・松平定敬をお送りします)
維新に翻弄された徳川の殿様たち戊辰戦争で帰る場所を失った桑名藩主松平定敬それでも殿様は箱館まで戦い続けた
安藤 優一郎
 第3回は桑名藩主松平定敬を取り上げる。定敬は弘化3年(1846)の生まれで、兄の会津藩主松平容保よりも11才年下である。高須4兄弟でいうと、一番下にあたる。


新撰組の局長、近藤勇。新撰組が活躍していた頃、会津藩とともに京都の治安維持に努めたのは桑名藩だった(写真:近現代PL/アフロ)
 兄弟が藩主を勤めて政治行動を共にしたことで、「会津・桑名」と括られるのが幕末史の定番の記述だが、桑名藩の歴史は会津藩とかなり違う。会津藩は保科正之が入封して幕府が倒れるまでの200年以上、保科(松平)家が藩主を勤めたが、桑名藩は藩主の入れ替わりが多い藩であった。

 伊勢桑名は上方の要衝として、親藩大名や譜代大名が入封するのが通例だった。関ヶ原合戦の論功行賞で徳川四天王の本多忠勝が封じられた。本多家が姫路に転封となると、家康の異父弟である久松(松平)定勝が封じられる。

 百年近く松平家が藩主を勤めた後、奥平(松平)家が藩主となる。同家が同じく100年ほど藩主を勤めた後、文政6年(1823)に白河藩主松平定永が移ってきた。そして、明治まで松平家が藩主を勤める。なお、定永の父は寛政改革を主導した老中松平定信である。

 桑名藩の所領は11万石だが、越後柏崎に6万石近くの分領があり、陣屋を置いて支配にあたった。後に、定敬は柏崎陣屋を拠点に新政府軍に抵抗することになる。

 安政の大獄のさなかの安政6年(1859)、定永の孫にあたる藩主松平定猷が死去する。嫡男の定教は幼少であった。そのため、中継ぎの形で養子を迎える話となり、定敬が養子入りする。定敬は14才になっていた。

 高須4兄弟のうち、長兄の徳川慶勝(当時は慶恕)は前年に井伊大老(安政の大獄)により隠居に追い込まれ、次兄の茂徳が尾張藩主となっていた。すぐ上の兄松平容保は会津藩主の座にあり、これで4兄弟がみな藩主の座に就いたことになる。

 翌年に勃発した桜田門外の変を境に、幕府の権威は失墜の一途を辿る。そうしたなか、文久2年(1862)閏8月に容保が京都守護職に任命される。定敬が兄と運命を共にする時は刻々と近づいていた。
京都所司代として兄容保を支える
 兄の容保が会津藩士1000人を連れて京都に入ったのはその年の暮のこと。京都には守護職とともに治安維持にあたる所司代が置かれていた。時の所司代は長岡藩主牧野忠恭で、その家臣として奔走していたのが河井継之助である。

 しかし、長岡藩の所領は7万4000石に過ぎなかった。23万石の会津藩とともに、風雲急を告げる京都で鎮撫の任にあたることは無理があった。そのため、翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職し、淀藩主の稲葉正邦が後任に補される。淀藩の所領は15万石であった。

 元治元年(1864)4月、幕府は稲葉を老中に抜擢し、江戸へ向かわせる。そして、後任の所司代として白羽の矢が立ったのが定敬だった。ここに、兄弟揃って守護職・所司代として京都鎮撫の任にあたることになる。慶応3年(1867)12月に両職が廃止されるまで、会津・桑名藩が京都で幕府を支える体制は続く。

 定敬が桑名藩士を率いて入京した時、京都の情勢は既に緊迫していた。元治元年(1864)6月には会津藩配下の新選組が池田屋事件を起こし、長州藩士を殺傷する。これに激高した長州藩は会津藩主松平容保討伐を掲げ、京都に兵を進めた。

 当然、定敬は所司代として兄容保を支える。親藩の会津藩や福井藩、そして外様の薩摩藩とともに御所の警備に付き、長州藩兵を撃退した。7月の禁門(蛤御門)の変の名で知られる戦いである。

 その後も、桑名藩は会津藩とともに京都に駐屯する。最後の将軍となる慶喜を奉じ、長州藩そして薩摩藩との対決姿勢を強めていく。

 しかし、桑名藩も会津藩と同様の問題を内部に抱えていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからである。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となり、そのしわ寄せは藩士に降りかかった。

 このまま定敬が所司代の職にとどまっては、藩や藩士が疲弊して滅亡の危機に瀕し、仇敵長州藩との戦いも避けられない。藩内の不満と不安が増幅していくが、定敬はその職にとどまり続ける。兄容保と運命を共にする道を選び、戊辰戦争の渦の中へと飛び込む。だが、桑名藩は別の道を歩むのである。
藩存続のため家老の説得を容れる
 慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、会津・桑名藩は京都を目指す徳川方の先鋒を務める形で薩摩・長州藩と激突した。会津藩は伏見で、桑名藩は鳥羽で奮戦したが、徳川方のまとまりの悪さなども相まって、両藩は後退を余儀なくされる。そして朝敵に転落した。

 戦況の不利を悟った慶喜は大坂城から海路江戸へと向かうが、その折、容保と定敬に同行を命じる。二人を大坂に残しておくと、自分の代りに祀り上げられ、会津・桑名藩士が抗戦を続ける恐れがあったからだ。

 主君が江戸へ向かったことを知った会津藩士はその跡を追うが、桑名藩士の場合は事情が違っていた。もちろん定敬の跡を追った藩士もいたが、藩内では別の動きが起きていた。

 会津とは違い、桑名は上方の要衝であり、西日本を制圧しつつあった薩摩・長州藩を主軸とする新政府の軍事的圧力に晒されていた。その上、譜代大名の井伊家をはじめ、上方の諸藩は新政府に次々と帰順し、桑名藩は四面楚歌の状況に置かれつつあった。

 定敬が所司代を長く務めることへの不満と不安が藩内には渦巻いていた。それが、ここに至り、一気に噴出する。新政府への帰順、つまり不戦論が藩内で急速に台頭した。しかし、藩内では抗戦論も根強かったため藩内は分裂の危機に陥る。藩主が不在であったことも混乱に拍車を駆けた。

 桑名藩の留守を預かっていた家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一する。藩を守るため、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。1月28日のことである。以後、桑名藩は新政府側の尾張藩の管理下に入る。

 国元を長らく不在とし、さらには養子だったこともあり、定敬が家中を充分に掌握できていなかったことは否めない。兄弟が藩主を務めたことで会津・桑名藩は政治行動を共にしたが、もともとは別の藩である。会津藩に引きずられることへの不満と不安が藩内で渦巻いていたことは否めない。

 葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、会社が存亡の危機に瀕したのを契機に別々の道を歩んだわけである。

 一方、江戸に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意思を示すことを決めたため、抗戦の意思を捨てない松平容保・定敬兄弟は帰国を命じられる。容保は会津若松城に帰るが、定敬には帰るべき城がなかった。

 止むなく、定敬のもとに駆け付けた藩士たちとともに、分領の越後柏崎陣屋に向かう。しかし、越後でも新政府軍に敗れた定敬は、蝦夷地に渡り箱館で最後の抗戦を試みる。

 これでは桑名藩の存続も危ういと事態を憂慮した酒井は、自ら箱館まで赴く。定敬を説得して、新政府に帰順させた。年は明け、明治2年(1869)5月になっていた。

 これにより、桑名藩は会津藩のように御家断絶からは免れる。所領は約半減されたものの、桑名藩は存続を許された。

 会津藩に比べ、桑名藩の苦難が明治維新史で取り上げられることは少ない。会津藩とは異なり、戦わずして帰順したことが大きい。同じ徳川一門に連なる藩で藩主が兄弟であっても、別々の藩であることが桑名藩をして帰順の道を取らせた格好であった。

 桑名藩における家老酒井孫八郎の行動は、会社が存亡の危機に立たされた時、社長の意向よりも会社の存続を優先させるため役員が決起した社内クーデターに似ているのではないか。

(次回は、3月23日に越前藩主・松平春嶽をお送りします)

第一弾は幕末・明治の長崎にフォーカス「写真発祥地の原風景」展幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を楽しむ展覧会が5月6日(日)まで開催。
日本の写真発祥地といわれる3都市にフォーカスし、初期写真を核に幕末・明治の日本を再構築するシリーズ「写真発祥地の原風景」の第一弾が、5月6日(日)まで恵比寿・東京都写真美術館で開催中。

本展では「明治150年」を記念し、写真を中心としたオリジナル作品のほか、古地図や絵画・工芸作品など、 ジャンルや時代を超えて、幕末・明治の「長崎」に焦点を当て、日本の写真文化発展の源流を考察するとともに、初期写真の記録性に着目する。現代に生きる我々が決して訪ねることが出来ない、幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を、集積された初期写真・資料等から楽しんでみては。

タイトル
「写真発祥地の原風景 長崎」

会期
2018年3月6日(火)〜5月6日(日)

会場
東京都写真美術館(東京都)

時間
10:00〜18:00(木金曜は20:00まで)

休館日
月曜、4月30日(月・祝)*5月1日(火)は開館

入場料
【一般】700円【学生】600円【中高生・65歳以上】500円

URL
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2960.html
幕末維新博 最先端の「肥前」体感5万人体験授業計画、肥前中の50人が第1号
 唐津市の肥前中学校2年生約50人が20日、「肥前さが幕末維新博覧会」の会場を訪れ体験した。佐賀市城内のメインパビリオン「幕末維新記念館」、県立博物館・美術館などを訪れ、日本の近代化をけん引した佐賀県の業績を“体感”した。

 県は来年1月14日までの期間中、県内の小学校4年生から中学校3年生まで約5万人が博覧会で体験授業を受けられるよう準備している。肥前中の生徒はその第1号として訪れた。

 生徒たちは5月、鹿児島県への修学旅行を予定。その事前学習の一環という位置づけもあり、幕末維新記念館では、最新のデジタル技術などを駆使した演出のほか、役者や映像が一体となったショーに見入っていた。

 「未来につなぐメッセージ」を書くコーナーでは、「佐賀、大好き」など思い思いの言葉を記した。岩本藍さん(14)は「これまでは田舎…と思っていた佐賀が、最先端を走っていたんだなあと実感した」、井上真帆さん(14)は「看護師になるのが夢。将来は佐賀のいいところを伝えられるようになりたい」と目を輝かせていた。

 生徒たちは事前学習で偉人をテーマにした壁新聞作りにも取り組んだ。県立美術館ホールで開いた表彰式で副島種臣を取り上げた最優秀の吉田咲笑さん(14)らに賞状などが贈られた。
好評であるようです。
「江戸は燃えているか」 獅童、海舟を好演=評・小玉祥子
 勝海舟と西郷隆盛(吉之助)による江戸無血開城を決した会談が題材の喜劇。三谷幸喜作・演出。

 慶応4年。新政府軍が江戸城総攻撃を決定し、幕府は軍事取扱の海舟(中村獅童)に降伏か抗戦かの決断を委ねた。そこに新政府軍の指揮を執る西郷(藤本隆宏)から、内々に会いたいとの打診が。短気な海舟が交渉を決裂させることを案じた娘のゆめ(松岡茉優)は、庭師の平次(松岡昌宏)を海舟の身代わりに立てることを思いつく。

 2幕構成で舞台は江戸の海舟邸。来訪した西郷と中村半次郎(吉田ボイス)は平次を海舟と疑わないのだが、家内に密事を知るものと知らない者が存在することが事態を混乱させる。

 西郷と平次の会話を成立させようとする海舟の義弟俊五郎(田中圭)と女中頭かね(高田聖子)、俊五郎の妻で海舟の妹の好戦的な順(妃海風)、蚊帳の外に置かれた海舟の妻たみ(八木亜希子)、平次を慕う女中いと(磯山さやか)、若干ピントのずれた山岡鉄太郎(飯尾和樹)ら個性の強い人物が西郷に接触することで波紋が生じ、笑いが起きる構成が巧みだ。

 獅童が前半では海舟の幼児性を、後半では打って変わっての明晰(めいせき)と胆力を示す。平次の松岡が女性に好かれるが、どこか乾いたところのある人物像をうまく見せた。

 事態を収拾しようと身を挺(てい)するかねの高田がコミカルだ。妻や周囲に振り回される俊五郎の困惑ぶりを田中がおもしろく見せた。【小玉祥子】

新橋演舞場で26日まで

先週の公演ではこんなこともあったようです。
松岡茉優ダウンで三谷幸喜氏が代役「まさか自分が」
 女優松岡茉優(23)が19日、東京・新橋演舞場で上演中の舞台「江戸は燃えているか」の昼公演中に体調不良となり、夜公演の出演を見合わせた。

 夜公演は、同舞台の作・演出を手掛けた三谷幸喜氏(56)が代役を務めた。劇場関係者によると、松岡は昼公演本編は最後まで演じきったが、終了後のカーテンコールに参加できなかった。体調不良を訴えたため病院で点滴治療を受けた後、帰宅して休養した。今日20日は予定通りに出演する。

 夜公演は、三谷氏が開演前に「松岡さんの具合がよくありません。(代役の)人が見当たらないので、代わりに私がやります」と自分が代役を務めることになった経緯を説明した。松岡は中村獅童(45)演じる勝海舟の長女ゆめ役。三谷氏は本番では、台本を手に持ちながら黒子姿で舞台に立った。

 観客によると、時折アドリブを交えるなど堂々と演じていたという。またカーテンコールでは「劇場に毎日来ているわけではないのに、まさか自分が(代役を)やることになるとは」と話して観客を笑わせていたという。

 同舞台には他に、松岡昌宏、藤本隆宏、田中圭らが出演している。

 例によって私の感想は折り畳んでおきます。
14代当主松平保久さん参加 来月8日・鹿児島の島津家別邸で「曲水の宴」
 鹿児島市で4月8日に開かれる行事「曲水の宴」に初めて会津藩松平家の14代当主松平保久(もりひさ)さん(64)が参加する。戊辰戦争の開戦から150年の節目の年。松平家のほか、敵味方に分かれた徳川家と薩摩藩島津家からも当主らが出席する。歴史に思いをはせ、歌を詠みながら交流する。

 曲水の宴は島津家のみやびな文化を後世に伝えようと毎年開催されている。参加者は小川の上流から流された杯が前を通り過ぎないうちに歌を作り、杯を取り上げて酒を飲むという風流な行事だ。
 会場は島津家の別邸「仙巌園」。鹿児島のシンボルである桜島を庭園の景観に取り入れ、雄大な景色が楽しめる。幕末の薩摩藩主島津斉彬も愛した。
 今年は松平さんをはじめ、徳川宗家18代当主徳川恒孝さんの長男徳川家広さん、島津家32代当主島津修久さんの長男島津忠裕さん、庄内藩酒井家19代目酒井忠順さんらが参加する。
 歌のテーマは「明治維新150年」。松平さんは「行事を通じて幕末の会津藩の立場を薩摩の地でしっかりと伝えたい」と語った。
 戊辰戦争では会津藩を中核とした東軍(旧幕府軍)、薩摩藩や長州藩の西軍(新政府軍)が戦火を交え、東軍が敗れた。
( 2018/03/15 10:36 カテゴリー:主要 )

顕彰碑を建立 白河戊辰の戦地「白坂宿」住民
 白河市の旧奥州街道にある「白坂宿」に、住民らが地元の歴史を伝える顕彰碑を建立し、17日に現地で除幕式が行われた。白坂宿は戊辰戦争で戦死者が出た歴史的な場所で、青柳幸治実行委員長は「戊辰150年の節目に除幕でき、感慨深い」と話している。
 郷土史によると、白坂宿は豊臣秀吉が奥州仕置きに向かった際、宿として認められたのが始まり。江戸時代初期には本格的な宿場が建設され、総屋敷数は83軒を数えた。旅館や料理屋がにぎわい、盛況ぶりは奥州街道随一ともいわれた。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争では白坂宿でも戦いが繰り広げられ、会津藩士や大垣藩士、棚倉藩士らが戦死。白坂宿に住んでいた大平八郎は白坂宿から西軍(新政府軍)を先導し、東軍(旧幕府軍)の後方に出る間道を案内したという。
 地元の住民はこうした史実を後世に伝え、語り継ごうと顕彰碑の建立を企画し、昨年3月に実行委員会を組織した。住民らから寄付を募り、市の地域づくり活性化支援事業の補助金も受けた。
 顕彰碑は戊辰の戦死者が葬られている街道沿いの観音寺駐車場に設けられた。1873(明治6)年ごろの宿の並びの図と白坂宿の沿革が記されている。青柳委員長ら実行委員、円谷光昭副市長らが除幕した。青柳委員長は「地元住民の長年の願いがかなった。白坂宿を元気にしていきたい」と話している。
 実行委員会は2018年度も事業を継続し、屋号の石柱や歴史を説明する案内板の設置を予定している。
( 2018/03/18 09:50 カテゴリー:主要 )

新選組の街・日野 海外PR
名所紹介の動画 市が製作

昨年12月のツアーで、新選組の隊士になりきって楽しむ外国人ら

日野市が製作した動画の一部分。新選組に関する市内の観光ルートを紹介している

 日野市は、外国人観光客向けに、新選組にゆかりのある名所を紹介する動画を製作した。市観光協会の英語版サイトで今月末から公開する予定。海外でも人気の新選組を積極的にPRし、訪日外国人の呼び込みに本腰を入れて取り組む。

 日野市は、新選組副長・土方歳三の出生地で、土方や近藤勇、沖田総司らが、日野宿本陣の道場で剣術の稽古に励んだ「新選組のふるさと」。新選組は海外でも広く知られており、市は「日野=新選組」といったイメージの積極的な発信をはかる。

 今回製作した動画では、JR日野駅を出発し、日野宿本陣―新選組のふるさと歴史館―高幡不動尊へと向かうルートなどを紹介。英語のナレーションと字幕付きで、外国人にとって難しいとされる路線バスの乗り方も説明している。市の国際交流員や、英語が堪能な職員らも製作に携わった。

 市内を訪れる外国人観光客も増えている。日野宿本陣と、新選組のふるさと歴史館を訪れた外国人は2014年度は18人だったが、今年度は1月までで140人と急増した。20年東京五輪・パラリンピックが近づくにつれてさらに増加が見込まれ、市は集客につなげたい考えだ。

 動画製作に先立ち、市は昨年12月、9か国19人の外国人を集めたツアーも開催した。参加者からは、新選組の隊士に扮ふんした「侍体験」などが好評で、手応えをつかんだ。

 市観光振興課の小松利夫課長は「外国人はもちろん、日本人観光客や地域の人々も、動画で日野に関心を持ってもらえたら」と話している。

膳所藩の藩政や幕末の動乱鮮明に 大津市歴博で4月15日まで企画展
 膳所(ぜぜ)藩(大津市)に残る屏風(びょうぶ)絵などの文化財を展示する企画展「膳所城と藩政 築城から幕末十一烈士事件まで」が大津市歴史博物館で開かれている。4月15日まで。

 膳所藩は、江戸幕府にとって京都への入り口として重要な役目を担い、譜代大名が藩主を務めた。元和3(1617)年に本多康俊が藩主に就いて以来、一時期を除き本多氏が治めてきた。企画展は本多氏が膳所城に入城して約400年となったことを記念し開催している。

 城下町の測量図や、合戦での陣立ての屏風絵など約75点を展示。江戸時代後期に描かれた屏風絵「近江八景図」は、「瀬田の唐橋」などとともに湖の中に石垣を築いた膳所城が勇壮な様子で描かれている。

 また、幕末に尊皇攘夷運動で投獄された藩士らが、獄中で紙をひも状にして文字にし、家族を憂う気持ちなどを書いた詩歌なども展示。膳所藩に及んだ幕末の動乱の一端も垣間見える。

 京都市東山区の矢野正明さん(75)は「激動の時代の政治や個人の無念などの思いを体感した。膳所藩の大きな役割を感じた」と話していた。

 一般600円、高大生300円、小中生200円。問い合わせは同博物館((電)077・521・2100)。

幕末維新博あす開幕先人の気概を感じ取ろう
 「肥前さが幕末維新博覧会」が17日、佐賀市城内エリアを中心に開幕する。明治維新150年の節目に、日本の近代化をリードした佐賀の歴史や業績を振り返り、新たな飛躍に向けて一歩を踏み出す契機にしたい。

 維新博は「幕末維新記念館」(市村記念体育館)をメインパビリオンとして、「リアル弘道館」(旧古賀家)や「葉隠みらい館」(旧三省銀行)、唐津、鳥栖のサテライト館などで展開される。佐賀城本丸歴史館や佐賀県立博物館・美術館など既存施設も活用し、来年1月14日まで県内各地で繰り広げられる。

 幕末維新記念館は「歴史と未来をつなぐ架け橋」がコンセプト。幅15メートルの大型スクリーンを使い、佐賀が果たした業績や偉人たちの活躍を紹介する。「幕末維新」「技」「人」「志」の四つのテーマに分け、デジタル技術を駆使した映像などで当時の佐賀を浮かび上がらせる。

 反射炉や鉄製大砲の鋳造、実用蒸気船の建造など他藩に先んじた技術と、その構築に力を注いだ10代藩主鍋島直正をはじめ、多くの優れた人材が幕末維新期の日本をけん引した。記念館の映像の冒頭では「その時、日本は佐賀を見ていた。佐賀は世界を見ていた」という維新博のキャッチコピーが映し出されるが、まさに激動の時代を見通す先見性があった。

 その活躍を顕彰する維新博だが、パビリオンが並ぶ一般的なイメージの博覧会とは趣が違う。「楽しい」「面白い」というアミューズメント施設が集まっているわけではなく、「学び」の要素が強い。来館した一人一人が当時の空気感や先人の考え、気概を感じ取り、夢や希望を膨らませる-。そのきっかけにすることで、一過性に終わらない意義のあるイベントになるだろう。

 佐賀県は、昨年10月からプレシンポジウムを開いてきた。唐津会場では唐津藩英学校「耐恒寮」、鳥栖会場は「交通・物流の結節点」、小城会場は「菓子の文化」、嬉野会場は「茶産業」と、各地域の特色を踏まえ、歴史を振り返りながら現代につながる地域の力を再認識した。

 幕末維新期に躍動した佐賀の源泉は、佐賀城内一帯にとどまるわけではない。県内各地に秀でた人材がいて、その活躍が日本を、地域を先導して現在の礎となっている。維新博ではサテライト館も設けられるが、それぞれの地域で幕末維新期の息吹を感じる場となるように運営してほしい。

 新たな国づくりに向かった当時と、成熟した社会となった現代。状況は大きく異なるが、「時代が違う」で片付けては開催の意義がない。当時の人たちの思考や行動、気概に触れ、「これから」を生きる力にしたい。(大隈知彦)


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