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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
12月20日から22 日まで27回目の函館旅行に行ってきました。

 例年より高く積もった根雪の中を土方歳三最期の地碑から五稜郭まで歩いたり、うにむらかみで生雲丹刺身をいただいたり、函館の厳しい寒さに生きるニャンの写真を撮ったり、満喫していたのですが……最終日の午前12頃、元町公園近くで凍った路面にすってんころりん、思わず手を突いてしまい、右手首を骨折してしまいました。

 どうにも痛みがひかず、散策を中止して飛び込んだ末広町の函館市地域交流まちづくりセンターの方々が整形外科を調べてくださり、タクシーまで手配してくれたので、午後一の診療で右橈骨遠位端の骨折と診断され、応急処置を受け、予定通りその日の夜のフライトで帰宅することができました。

 その後、地元の大学病院で診断を受け、外科手術による整復が必要と診断され、火曜日に入院、一昨日水曜日に手術、昨日無事に退院しました。抗生物質呑んで痛み止めしてますが順調に回復しています。ただ利き腕の手首を痛めたので生活に不自由しています。やっと今日スマホも左手入力から右手リハビリ兼ねた両手入力(ただしタイピング作法通りではなく、動く指を使う程度)になりました。

 思えば過去の函館旅行でも同じところで凍結路面で転んでいたっけ……汗。

 それでもまた行きたい函館です。
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大阪産経の連載記事が終わったようです。

相手が悪かった? 力士を血祭りにした「狼藉現場」蜆橋 新選組なにわを奔(はし)る(1)
 大正から昭和にかけて、幕末を描いた無声映画といえば、チャンバラだった。「東山三十六峰、草木も眠る丑三(うしみ)つ時…たちまち起こる剣戟(けんげき)の響き…」。活動弁士の口上で繰り広げられる尊王志士と新選(撰)組の死闘-。そう、新選組の舞台はいつも京都だった。

 ところが彼らの行動を辿(たど)ると、意外にもその足跡は大阪に多い。理由はある。

 ひとつには、新選組が京都守護職、会津藩預かり=直属の武闘集団、諜報機関であったこと。2つ目に、その京都守護職が京都所司代のみならず、大坂城代、大坂町奉行を支配していたこと。さらに彼らの資金源の多くが大坂にあったこと-。自然、新選組の行動範囲は大坂に及ぶことになる。

 文久3(1863)年6月3日、新選組がまだ前身の「壬生(みぶ)浪士組」だったころ、事件は大坂で起きた。

 近藤勇(いさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)、沖田総司ら約10人が大坂町奉行の要請で不逞(ふてい)浪士取り締まりのため大坂にきていた。

 さすがに仕事が早い。2日後には浪士2人を捕縛すると、近藤らを除く隊士8人は、定宿の八軒家(はちけんや)浜から夕涼みとしゃれて大川に川遊びに出る。

 途中、隊士の一人が不調を訴えたため船を下(お)り、徒歩で北新地の住吉楼に向かうことになった。下船したのは、鍋島藩屋敷前の堂島川鍋島河岸(がし)、今の大阪市北区西天満2丁目、裁判所のあたりだ。

 一行が新地に入り、蜆(しじみ)橋を渡ろうとしたとき、向こう側から大坂相撲の力士が渡ってきた。先頭の芹沢。「道を開けろ」「そっちこそ退(ど)け」。口論が始まり、激高した芹沢がいきなり鉄扇で力士を殴りつけた。

 退散する力士。これでその場は収まったかにみえたが、8人が住吉楼に上がり、上機嫌で飲んでいると、八角棒を手にした力士の集団20~30人(一説では50人以上)が、仲間の意趣返しとばかり、押しかけてきたものだから、収まらない。酒が入り、血気にはやる隊士らは「返り討ちにしてしまえ」と抜刀(ばっとう)し、大乱闘になったのである。

 数と力で勝る力士たちも剣客集団にはかなわない。結局、死者1人、負傷者十数人(死者5人、負傷者二十数人とも)の被害を出した。しかも「無礼討ち」が認められたため、翌日、大坂相撲側が酒1樽、金50両を添えてわびを入れ、落着したというから、相手が悪かったというしかない。

 以後、壬生浪士組は「壬生浪(みぶろ)、壬生浪」と呼ばれ、京、大坂の市民を震え上がらせた。 

× × ×

 北区曽根崎新地1丁目。御堂筋と堂島上通りが交わる滋賀銀行ビルの外壁に「しじみばし」の碑が埋め込まれている。かつて堂島川から分岐した蜆川に架けられた小橋で、南から淀屋橋、大江橋、蜆橋と渡ればお初天神に至ることが、落語「池田の猪買(ししか)い」に描かれている。

 江戸時代、川をはさんで南に堂島新地が開かれ、あの「曾根崎心中」の舞台にもなったが、後に米会所が設けられると、堂島はビジネス街に変わり、遊里としてのにぎわいは北の曽根崎新地に移っていく。

 明治42(1909)年の大火(天満焼け)で川は埋められ、住吉楼の場所も不明だが、蜆橋は新選組の最初の狼藉(ろうぜき)現場としてその名を残している。(今村義明)



 壬生浪士組 文久2(1862)年、清川八郎の献策で募集された「浪士組」が、京都到着後に分裂した後、近藤勇、芹沢鴨ら京都残留組を中心に翌年3月に結成された武装組織。幕府の職制では非正規組織だったが、京都守護職だった会津藩の預かり=大名と雇用関係のある士分=となり、月3両が支給された。尊攘派志士の探索、検挙など京、大坂の治安維持を任され、文久3年8月、「8月18日の政変」の功績により「新選組」の名称を許された。

謎広がる大坂与力暗殺、「殺人集団」をめぐる事件の真相は…維新150年大阪の痕跡・新選組なにわを奔る(2)
 本町通から松屋町筋を北に歩く。左手に都市型展示場「マイドームおおさか」(大阪市中央区)が現れる。屋根にアーチ型ドームを戴(いただ)くユニークな外観から視線を落とすと、植え込みの中に小さな石碑がある。「西町奉行所址」。江戸時代、東町奉行所とともに大坂市中を治めた役所の跡だ。

 広さ約9600平方メートル。南に隣接する大阪商工会議所と西側のホテルもその敷地に含まれ、明治に入り初代大阪府庁舎にも使われたというからその大きさがうかがえる。ちなみに、東町奉行所は今の府立大手前高校の北、近畿経済産業局などが入る大阪合同庁舎1号館近くにあった。両奉行所の間は直線で1キロと離れていない。

 元治元(1864)年5月20日夜、天神橋(天満橋という説も)で、西町奉行所与力、内山彦次郎が仕事帰りに襲われ、殺害された。67歳だった。

 彼はただの与力ではない。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の平定で功があったばかりでなく、経済・政策通で知られ、大坂の東西60騎の与力で初めて譜代御家人、つまり将軍へのお目見えも許される旗本格-に栄進した。旗本の町奉行が中央のキャリア組とするなら、与力は地元の“たたき上げ”の中級役人にすぎない。その中で、大出世を果たしたのが、内山だった。

 現場には「天下の義士此(これ)を誅(ちゅう)す」との斬奸状(ざんかんじょう)=犯行声明=が残され、尊攘浪士による天誅(てんちゅう)=テロ事件=として世間を震え上がらせた。
それが明治になって、元新選組副長助勤(ふくちょうじょきん)の永倉新八が、晩年の口述記「新選組顛末(てんまつ)記」で、近藤勇(いさみ)、沖田総司、永倉ら5人で襲ったと暴露したことから、新選組犯行説が急浮上する。

 動機に諸説がある。前年の文久3(1863)年6月の力士との乱闘事件で奉行所に届け出た近藤に対し、吟味に当たった内山の態度が高圧的で不遜だった-とする怨恨(えんこん)説。内山が尊攘派と結託して米や油の価格を不正に操作した-とする私刑説。新選組の強引な金銭借り入れに関し、内山が内偵を始めたことに先手を打った-とする証拠隠滅説など、新選組の犯行だとしても真相は藪(やぶ)の中だ。

 一方で新選組犯行説を否定する研究も多い。たとえば、乱闘事件で近藤が届けたのは当番の東町奉行所で、内山の管轄外だったこと。永倉が顛末記の前に書いた日記では事件にまったく触れていないこと。さらに、顛末記には事実誤認、混同が多く、永倉自身の誇張や編集者の脚色も見られること-などから、坂本龍馬暗殺説と同様、新選組「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」説も根強い。

× × ×

 ふたたび松屋町筋を北へ歩く。西町奉行所址から7、8分で天神橋に至り、ここからが天神橋筋。その橋を渡る。南行き5車線の橋の歩道からは、中之島公園の東端、剣先公園に下りることもできる。ただし、当時は中之島がもっと下流にあり、大きな木橋1本で今より広い大川の両岸を繋(つな)いでいたことになる。

 天神橋筋商店街に入り、大阪天満宮を過ぎると、ほどなく国道1号に出る。国道を渡ると、その北東の辺りが「与力町」と「同心」だ。高層マンションに囲まれた「与力町グラウンド」では夕闇迫る中、子供らが野球の練習をしていた。

 果たして新選組の犯行なのか、否か-。いずれにしても、天誅と称する殺戮(さつりく)が幕末の大坂で横行していたのは事実で、シロにせよ、殺人集団の新選組がいかに世間から恐れられ、嫌われていたかを示す事件の一つであることに間違いない。

(今村義明)



 大坂町奉行 江戸幕府直轄の大坂城下(大坂三郷)の民政、警察、および大坂、摂津、河内の訴訟を担当した江戸幕府の職制。老中支配の下に東西各1人の奉行が置かれ、月番交代制をとった。奉行は千~3千石の旗本から選任され、その下に与力各30騎、同心各50人が配属された。与力には80石(知行高200石)が支給され、しだいに地付(じつ)き(土着)、世襲の役職となる。大坂天満に屋敷地(与力500坪、同心200坪)が与えられ、現在、大阪市北区に地名として残る。

(10月31日掲載)

阻止された大坂城焼き討ち計画 新選組なにわを奔(はし)る(3)
 美容室が1階に入るビルの前に、そのモニュメントはあった。人形と玩具のまち、松屋町(まっちゃまち)商店街を南へ歩き、空堀(からほり)商店街の1本南の交差点。「大利鼎吉(おおりていきち)遭難之地」(大阪市中央区瓦屋町)とある。新選組が土佐浪士の潜伏先を急襲した、世に言う「ぜんざい屋事件」の顕彰碑だ。大坂の“池田屋事件”ともいわれる騒動の地を訪ねると、幕末の志士の数奇な運命を知ることになる。

 元治元(1864)年の晩秋。「蛤御門(はまぐりごもん)の変」を受けて、大坂城を拠点に長州征伐(第1次)が始まろうとしていたころ、松屋町のぜんざい屋「石蔵屋」に、大利鼎吉と田中光顕(みつあき)ら土佐勤王党出身の浪士5人が潜伏していた。老母と妻とで店を営む主人は、武者小路(むしゃのこうじ)家の元家臣、本多大内蔵(おおくら)の世を忍ぶ仮の姿、大利らの同志である。

 長州シンパでもあるこの過激派グループはとんでもない計画を秘めていた。大坂市中に火を放ち、大坂城を焼き払うことで、征長軍の後方を撹乱(かくらん)し、一気に倒幕の先鋒(せんぽう)になろうというのだ。妄想にも近い書生論だが、これが幕末の熱というものだろう。田中も後に「当時は誰もが信じて疑わなかった。浪華(なにわ)城(大坂城)が炎に包まれるのを想像しただけで、意気は天を衝(つ)いた」と回想している。

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 計画は露見した。明けて元治2年(慶応元年)1月8日、実行の12日前のことだった。おそらくは密告だろう。過激派の謀議(ぼうぎ)とアジトをつかんだのは、新選組隊士で、大坂・南堀江で道場を開いていた谷万太郎。さしずめ新選組大坂出張所長といったところ。兄は副長助勤(ふくちょうじょきん)で後に七番隊組長となる三十郎、弟は近藤勇の養子になった周平だ。

 万太郎は、すぐさま大坂西町奉行所に連絡し、大坂城代の命令で定番(じょうばん)の藩兵が松屋町を幾重にも包囲する中、たまたま大坂にいた兄、三十郎と道場の門弟2人で石蔵屋を急襲した。

 4人は功をあせったのか、手柄の独占をねらったのか、新選組本部には「火急のことゆえ、われらだけで討ち入る」と、飛脚を送るのみだった。が、さすがに準備不足は否めない。このとき石蔵屋には、大利と本多、それにその母と妻がいただけで、田中らほかの浪士4人が不在という情報を持っていなかったのだ。

 万太郎らが突入した瞬間、本多は身を翻(ひるがえ)して逃走し、大利1人が4人を相手に奮闘したが衆寡敵(しゅうかてき)せず、1時間余の戦いの末、3人に深手を負わせたものの憤死した。大利24歳の時だった。

 幕府側は大坂城焼き打ちを未然に阻止したとして万太郎ら新選組をたたえたが、土方歳三(ひじかたとしぞう)だけは「4人で乗り込んでたった1人か」と吐き捨てたという。

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 碑には「昭和12年2月建立」と刻まれ、揮毫(きごう)は「田中光顕」とある。建てたのは「奥野伊三郎」氏と「前田重兵衛」氏。奥野氏の消息は判明しないが、前田氏は近くの製菓原材料卸販売「前田商店」社長、前田重兵衛氏(74)の父で、3代目重兵衛氏=平成8年逝去=だとわかった。前田商店は奇(く)しくも事件があった慶応元年の創業で、当初は和菓子店だったという。

 3代目重兵衛氏と奥野氏は建碑の経緯を大略次のように伝えている。

 《血なまぐさい事件に(近所)みな震え上がり、戸を閉ざして息をひそめていたことを父祖から伝え聞いていたが、事件が何か、誰もわからなかった。昨年(昭和11年)夏に伯爵の回想録が世に出て事件の真相を知る。折しも2年前に松屋町筋の拡張工事で石蔵屋が取り壊されたことから、伯爵に手紙を書いたところ、自ら筆を執って快諾してくれた》

 4代目の前田社長が振り返る。「父からは、本多の母と妻はうちの便所に匿(かくま)ったと聞いています。伯爵が2回も家に来たことを大変喜んでいましてね。あれは私が小学校の時だったか、父ら有志がぜんざいを炊き出し、町中にふるまって志士らを偲(しの)んだことを思い出します」

 24歳で新選組の凶刃に斃(たお)れた大利鼎吉。不在で難を逃れ、明治、大正、昭和を生き抜いた田中光顕。長寿の秘訣(ひけつ)を聞かれ、田中は「殺されざれしため」と答えている。(今村義明)



 田中光顕 天保14(1843)念、土佐(高知県)生まれ。通称・顕助。武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に坂本龍馬らとともに参加、藩参政、吉田東洋暗殺にも関与したという説もある。ぜんざい屋事件後、十津川に潜伏したが、中岡慎太郎に見いだされ、陸援隊に幹部として参加する。維新後、警視総監、学習院長、宮内大臣を歴任。昭和14年、95歳で没。

大坂豪商からの借金も踏み倒し 新選組なにわを奔(はし)る(4完)
 大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる橋のうち、北から2つ目の「今橋」を起点に西に向かった。子育て世代などの都心回帰を象徴する高層マンションが目に入る。その足元の市立開平小学校前に、「天五に平五 十兵衛横町」と記された風変わりな碑があった。江戸時代の豪商、天王寺屋五兵衛(天五)と平野屋五兵衛(平五)の屋敷跡で、東西に軒を並べていたことから、五兵衛と五兵衛を足し算して十兵衛となった。

 堺筋を渡り、さらに西へ行くと、大阪美術クラブが入るビルの脇に「鴻池本宅跡」とある。幕府公認「十人両替」の一人、鴻池善右衛門の屋敷跡だ。今や豪商らの面影もない今橋だが、証券会社や銀行、保険会社が集まる金融センターとしてのルーツがここにあったことは容易に想像できよう。

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 新選組の足跡は、活動拠点の京都に集中するが、資金源が大坂にあったことはあまり知られていない。そもそも幕府も大名もお金に困っていた時代。富んでいたのは、全国から産物が集まり、米相場や為替相場を動かした大坂、いや大坂の豪商だった。天下の富の7割が集まったとされる大坂の財力を、新選組は見逃さなかった。

 文久3(1863)年4月、結成直後の新選組、当時は壬生浪士組を名乗った芹沢鴨、近藤勇らは今橋の平野屋を訪れ、金100両(当時の米価換算で1両=約5万円)の借金を申し込む。

 困り果てた平野屋は町奉行所に相談するが、奉行所は後難を恐れてか、今で言う「民事不介入」の態度だから泣く泣く応じるほかない。当時流行した“押し借り”である。もちろん、返済の形跡はない。500万円を手にした新選組は京の大丸呉服店で、あの浅葱(あさぎ)色で袖がだんだら模様の隊服をあつらえたとされる。

 同年7月、新選組が続いて訪れたのが鴻池で、武器調達費などを名目に230両を出させている。ただ、交渉は穏便に行われたようで、その伏線(ふくせん)として、新選組が京の鴻池別邸に押し入った不逞(ふてい)浪士を摘発した礼に、善右衛門の方から近藤らを大坂に招いたという説が有力だ。近藤の愛刀「虎徹(こてつ)」もこの時、鴻池から贈られたものらしい。

 鴻池の本心はわからない。近藤らに心酔してパトロンになろうとしたのか、ただ京大坂の治安を鑑(かんが)み、新選組を用心棒にしてみかじめ料として金品を提供したのか。いずれにせよ、新選組はこれを機に鴻池を窓口に、大坂商人から金を吸い上げることになる。

 元治元(1864)年12月、近藤は大坂の富商22家から、長州征伐の軍費を名目に銀6600貫、金換算で7万両、約35億円を借用する。いくら新選組でも単独の軍費としては多額すぎる。この借金に限っては会津藩が新選組を使って集めさせ、藩の裏金として処理したとの見方が強い。
 このあたり、大坂商人は先刻承知だったようで、鴻池はともかく、他の商家らは「会津公、大坂町人へお借り入れを浪人局長(近藤勇)と申す人、押しがり致され、誠に誠に市中だいめいわくなこと」(幕末維新大坂町人記録)と、怨嗟(えんさ)に似た恨み節を残している。

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 肥後橋の大同生命ビル。NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル、広岡浅子が嫁いだ豪商、加島屋がここにあった。2階の特別展示室に新選組の借用書が展示されている。

 「預申金子之事(あずかりもうすきんすのこと)」で始まる証文には、金400両(約2千万円)を月4朱(0・4%)の利息で借り、翌年5月までに返す-とある。借り主として土方歳三(ひじかたとしぞう)が、保証人として近藤勇が署名、捺印(なついん)している。日付は「慶応3(1867)年12月」。鳥羽伏見の戦いの1カ月前で、他の多くの借金とともに反故(ほご)にされたのは疑いない。
 維新の後、新政府は京大坂の豪商を二条城に集め、「御一新(ごいっしん)のため」と300万両(約1500億円)の拠出を要請した。浅子が「新選組の借金なんてかわいいもんや」と言ったとか、言わなかったとか…。(今村義明)



 鴻池善右衛門(こうのいけ・ぜんえもん) 江戸時代の大坂を代表する豪商。山中鹿介(しかのすけ)を祖とし、摂津・鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を興した幸元の八男を初代とする。海運業から両替商、大名貸しで財をなし、3代目が開発した新田は鴻池新田(大阪府東大阪市)として知られる。江戸後期、融資した大名は100藩以上に上り、参勤交代で大坂を通過する際、家老を挨拶(あいさつ)に行かせる大名もいたといわれた。幕末、維新時は10代目。
茨城
古河で「幕末・明治」展 高札や宿泊日記44点26日まで 戊辰戦争の史料公開
古河市三和地区に残された戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69年)や明治黎明(れいめい)期の史料に光を当てた「館蔵資料にみる幕末・明治」展が、同市仁連の三和資料館で開かれている。五榜(ごぼう)の掲示を知らせる高札や、大鳥圭介(1833〜1911年)率いる旧幕府軍が、日光への行軍途中で同地区に宿泊した際を記す日記などが興味を引く。会期は26日まで。

新政府と旧幕府の両軍が激戦を繰り広げた戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いや会津戦争、箱館戦争などが有名。現在の結城市などでも1868年4月16、17の両日、江戸を脱走した大鳥らの旧幕府軍と、宇都宮から駆け付けた新政府軍が4度の戦火を交えた(下野小山の戦い)。

同展はこれらの歴史を地元や県民に知ってもらおうと、来年の明治改元150年を記念して企画された。展示品計44点のうち、多くが初めての公開。

高札は4枚あり、いずれも現在の内閣府に当たる「太政官」の文字が目を引く。2枚は冒頭に永続的な決まり事を示す「定(さだめ)」と記され、徒党や逃散(ちょうさん)、キリスト教の禁止を示したもの。残りは一時的な決定を示す「覚(おぼえ)」と、国際法の順守や許可なく土地を離れることの禁止が示されている。

館蔵資料では、仁連新田の代名主や諸川宿の町名主が記した「当用雑手控書留(とうようざつてびかえかきとめ)日記」「戊辰年(ぼしんのとし)日記」などが並ぶ。小山の戦い直前の旧幕府軍の規模、大鳥らの宿泊の過程、軍勢の様子などが記されており、突然現れた数百人の軍勢に町が混乱する様子がうかがえる。

このほか廃藩置県により、1871年7月から4カ月間だけ存在した「古河県」を示す公文書なども展示した。

同館の白石謙次学芸員(44)は「古河市には当時の貴重な史料が多く残されている。身近にあった戊辰戦争などに触れて、歴史や地域への関心を高めてもらえたら」と話した。

開館は午前10時〜午後6時(入館は同5時半まで)。入場無料。問い合わせは(電)0280(75)1511。

(溝口正則)

県歴博発表幕末の松山・ポルトガルつなぐ時計発見
 県歴史文化博物館(愛媛県西予市)は14日、明治時代初期にポルトガル領事が松山藩知事に贈った懐中時計が見つかったと発表した。松山市の個人から今年3月に寄贈され、調査を進めていた。同館の井上淳学芸課長は「幕末に松山藩が軍艦を購入した経緯や、ポルトガル領事との深いつながりを示す貴重な史料」としている。

大分
解体新書と前野良沢を探る 宝暦年中分限帳など初公開 中津市で特別展 [大分県]
 明治の巨人・福沢諭吉が「文明開化の濫觴(らんしょう)(原点)」と評した解剖書「解体新書」を著した1人で、中津藩医前野良沢(1723~1803)。良沢の活躍を描くNHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命編」(来年1月1日)が放映されるのを前に、同市は大江医家史料館で特別展「『解体新書』と前野良沢」を開催中だ。「解体新書」のドイツ語原著をはじめ、今回発見された良沢の名が記された唯一の藩士一覧表「宝暦年中分限帳」など初公開史料4点を含む23点が展示されている。来年2月12日まで。

 良沢は本道医と呼ばれる漢方医。中津3代藩主奥平昌鹿の母親の骨折を、長崎の大通詞(通訳)で蘭方医・吉雄耕牛(1724~1800)が見事に直した技術に衝撃を受ける。「宝暦年中分限帳」の記載では、藩医の3番目に位置。安定した身分が保障されているにもかかわらず、40歳を過ぎてから猛然と蘭学を学び始めた。今と違い、内科主体の漢方医と外科中心の蘭方医との間には明らかな格差があった時代。市教育委員会文化財室の曽我俊裕さんは「格下ともいえる蘭方医の高い技術力を素直に認め、自分のものにしようとした学問への探求心は良沢らしい」と話す。

 昌鹿の庇護(ひご)の元、長崎遊学も果たし、吉雄にも師事。「解体新書」を著すきっかけとなるオランダ語版の「ターヘル・アナトミア」もこのとき入手したとされる。偶然、同書を持っていた小浜藩医・杉田玄白と江戸で死体の解剖を見学したことがきっかけで、同書の正確さに驚き、翻訳を決意する。良沢は、当時、医者の主流だった漢方医に向けた解剖書を目指した。例えば「神経」という用語は全ての生理活動の元を表す「神気」と、気や血の循環経路を表す「経絡」からの合成で、「漢方の考え方に基づく用語の創造は、多くの漢方医に違和感なく理解してもらうためでは」と曽我さん。

 蘭日辞書などない時代。中津藩江戸中屋敷(東京都中央区)で始まった作業は、オランダ語が分かる良沢をしても困難を極めた。今回、展示されているフラソンワ・ハルマ著「蘭仏辞書」も良沢は駆使。訳出困難なオランダ語はフランス語に一度翻訳。それを長崎にいたフランス語にたけた知人の通詞に日本語への再翻訳を依頼する手法で一つ一つつぶしていった。

 それでも翻訳不能な箇所は膨大だったことから問題が起きる。良沢は“不完全な”「解体新書」刊行を渋ったとされる。曽我さんは「完璧主義者の良沢は同書の不完全さを誰よりも熟知し、精度を高めることを主張。出版を急ぐ玄白と対立し、著者名の中に自分の名前を入れることを拒絶したのだろう」と想像する。

 「解体新書」出版後、良沢は表舞台から姿を消す。今回展示されている良沢が著したロシア歴史書「魯西亜(ろしあ)本紀」に、曽我さんはヒントを見いだす。ロシアは18世紀後半から、樺太や千島列島(クリール諸島)への軍事的圧力を強化。江戸幕府は北方対策に追われる。ロシア対策に腐心した老中松平定信とじっこんだった4代藩主昌男を通じて、オランダ語のロシア関連書籍翻訳を指示されたのではないか。曽我さんは「弟子の大槻玄沢も幕府直属の蕃書和解御用(東京大前身の一つ)となり、ロシア関連書籍の翻訳にも当たっている。良沢の晩年は、ロシアの歴史やカムチャツカ半島の地理などに精通しており符合する」と話す。

 同展では、16日午後1時半から、中津の医学史料の研究を行う九州大名誉教授のヴォルフガング・ミヒェル氏による記念ギャラリートークもある。火曜休館。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。28日から来年1月3日まで無料開放。一般210円、大学・高校生100円、中学生以下無料。

=2017/12/16付 西日本新聞朝刊=
まだ超歌劇『幕末Rock!』雷舞のストリーミング配信が続いているため、毎日のように視聴しています。ちゃんと覚えていたはずなのに、歌詞が出て来なくなったのは大丈夫か自分(汗)。

高知
幕末の志士 武市半平太 田畑など売却を示す直筆証文発見
尊皇攘夷を唱えた幕末の志士、武市半平太が、後の「土佐勤王党」の一員となる志士などが通った剣術道場を開いたあと、田畑などを売ったことを示す直筆の証文が見つかりました。専門家は「資金を道場の運営などに充てたと見られ、当時の状況を物語る貴重な資料だ」と指摘しています。
武市半平太は、坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動を展開しました。

ゆかりの深い地元の豪農の子孫が所有する高知市の蔵を調べたところ、嘉永5年(1852年)に当時24歳だった武市半平太が、田畑や山林を売ったことを示す証文が見つかりました。

「考えるところがあって売ります」という内容が、丁寧な字で記され、高知県の佐川町立青山文庫の松岡司名誉館長が鑑定した結果、直筆で署名と黒い印章も本人の物と確認されました。

この時期は、岡田以蔵など後に土佐勤王党の一員となる志士も通った剣術道場などを建てた2年後にあたるということです。

松岡名誉館長は「売却で得た資金を道場の運営や生活に充てたと見られる。暮らしに関連する直筆の資料が見つかったのは初めてで、当時の状況を物語るとともに、きちょうめんな性格がにじみ出た資料だ」と話しています。

このほか本人が使ったと見られる刃渡り55センチの脇差しや明治以降に描かれた珍しい立ち姿の肖像画なども見つかり、松岡名誉館長は、「本人の息づかいが感じられる貴重な資料だ」と指摘しています。
武市半平太 新たな発見は8点
今回見つかったのは、武市半平太に関係する8点の資料です。

このうち直筆と確認された証文は、嘉永5年、1852年の年末、田畑や山林を地元の豪農に売った際のものです。署名や黒い印章の「黒印」が添えられ、「考えるところがあって、あなた様に売ります」という内容が書かれ、「八十文銭三貫八百目」を受け取ったと記されています。

また本人が使ったと見られる刀は、刃渡り55センチの脇差しです。切腹で生涯を閉じたあと、生活に困っていた妻から買い取ったという話が、代々伝えられてきたということです。
松岡名誉館長は、両家の関係の深さから武市の刀である可能性が高いと見ています。

珍しい立ち姿を描いた肖像画も見つかりました。明治から昭和のはじめにかけて活躍し、坂本龍馬の肖像画をかいたことでも知られる高知市出身の画家、公文菊僊が手がけたもので、縦1メートル15センチ、横40センチで、りんとしたはかま姿が描かれています。
立ち姿の肖像画は初めてだということで、松岡名誉館長は「これまで見たことのない剣士の姿を描いていて、価値の高い資料だ」と話しています。
武市半平太とは
土佐の幕末の志士、武市半平太は、天皇を中心とした新しい国をつくろうと坂本龍馬などとともに「土佐勤王党」を結成し、尊皇攘夷運動に力を注ぎました。剣術の腕前でも知られ、地元で立ち上げた道場には、後に土佐勤王党の一員となった岡田以蔵なども通ったということです。

尊皇攘夷の気運が、一時衰えた際藩内の主導権争いをめぐって切腹を命じられ、明治維新を目前にした慶応元年(1865年)5月11日、志半ばで37歳の生涯を閉じました。出身地の高知市仁井田には、墓と生家が残り、業績を紹介する瑞山記念館が建てられています。地元の人たちは、毎年の命日に慰霊祭を行っています。
武市半平太、田畑売る証文/剣術道場の運営資金か
坂本龍馬らが参加した土佐勤王党を結成した幕末の志士武市半平太(瑞山)が1852(嘉永5)年、田畑などを売ることを示した直筆とみられる証文が見つかったことが7日、分かった。高知市の歴史研究家松岡司さん(74)が筆跡などから鑑定した。半平太は当時、剣術道場を開いており、松岡さんは「運営資金に充てた可能性がある」とみている。

 証文によると、半平太は現在の高知市の生家近くにある豪農に田畑や山林を「思うところがあって」売り、資金を受け取ったとみられる。和紙に毛筆で書かれており、豪農の子孫が掛け軸にして保管していた。
広島
尾道文治謎の落語家 高まる再発見の機運 広島
 幕末から明治にかけ、「尾道文治」の名で知られた落語家、桂文治を再発見する取り組みが終焉(しゅうえん)の地となった広島県尾道市で進んでいる。怪談噺を得意とし、六代目桂文治(1843~1911年)と親しかったともいわれるが、その生涯は謎に包まれている。【渕脇直樹】

 「今夜はしっかり笑ってもらえれば、文治のためになる」。尾道市東土堂町の信行寺で11月26日に開かれた尾道文治をしのぶ落語会で、鶴山豊教住職は約80人の落語ファンに呼びかけた。寺には文治の墓があり、「丹頂文治藝姓桂 享年九十三才」と刻まれている。

 市史編さん委員会事務局の林良司さん(40)によると、尾道文治は現在の尾道市久保1丁目付近に居を構え…
 以下は有料記事です。

島根
浜田城跡に「葵の紋」入り鬼瓦としゃちほこ片発見
 島根県浜田市殿町の浜田城跡で、天守に使われていたとみられる徳川家の家紋「葵の紋」入りの鬼瓦と、しゃちほこの目玉周辺部が見つかった。浜田城は幕末の第2次長州征伐の際に藩主が「自焼退城」し、天守は残っていないため、遺物は往時の城のしつらえを伝える希少な史料。鬼瓦は、藩主が代わった際に瓦替えが行われたことも示している。市は2019年の浜田藩開府400年に向けた機運醸成に活用する考えで、17日に一般公開する。
【詳しくは本紙紙面をご覧ください】
福岡
平田家住宅座敷棟「慶応2年建設」墨書発見 小郡市指定有形文化財 /福岡
 小郡市の市指定有形文化財「平田家住宅」の座敷棟で、建設年代が1866(慶応2)年であることを示す墨書が見つかった。座敷棟は主屋と同じ1879(明治12)年の建設と推定されていたが、10年以上さかのぼることになった。市文化財課は「建設時期を具体的に示す貴重な発見だ」と評価している。

 墨書は座敷棟の玄関部分の壁板から発見さ…(以下、有料記事)
Gyao配信で見てました。初演はDVD視聴だし、再演はチケット入手できず映画館でライブビューイングで、初めてライブで見られたのは黒船来航なのに、長年見てきたよう。別れが惜しい。
 とりあえず、詳細は後から入れるとして、セトリ。パンフレットにあった「セットリストA」「セットリストB」をもとに、当日視聴した時のメモを元に起こしてます。ひょっとしたら記憶違い・間違いがあるかも知れませんので、その点はよろしくお願いします。

12/3昼セットリストB
M1 What's this? 超魂團
M2 RIDE ON THE WAVE 龍馬・シンディ・センセー
M3 暁のFreebird 超魂團全員?
M4 黒曜蝶(ブラックバタフライ) ひじぞー&そうちん
M5 GOD BREATH—混式洋式— ジュニア&龍馬
M6 宙の翼 ヨッシー&直弼
=シャッフル歌合戦=
M7 INTERSECT 「晋作、幕府にもの申す」シンディ&ヨッシー&直弼 龍馬&ひじぞー&そうちん
M8 L or R 「新選組」ひじぞー&そうちん 「長州組」シンディ&センセー
M9 グラデーション 「大人のセクシー」龍馬&センセー ジュニア&そうちん
M10 不完全パズル 「完全パズル」ヨッシー&ジュニア&龍馬 「不完全」シンディ&センセー&誠仮面
=お伽話=
M11 GOD BREATH 「狼」ジュニア
M12 共鳴進歌 「赤ずきん」そうちん バックに「白うさぎ」ヨッシー「黒うさぎ」直弼
M13 REACTION 「ピーターパン」シンディ バックに「ワニ」勝 「フック船長」ひじぞー
M14 モット!!! 「フック船長」ひじぞー バックに「ピーターパン」シンディ 「ワニ」勝
M15 Crash My Head 「いかれ帽子屋(マジシャン?)」龍馬 バックに「トランプの女王」お登勢 「チェシャー猫」センセー
M16 ハチノジディストーション 「チェシャー猫」センセー バックに「いかれ帽子屋」龍馬 「トランプの女王」お登勢 
M17 XXXing 超魂團
=お伽話終了=
M18 MASTER COMMUNICATION ジュニア&直弼
M19 LAST SCREAM 龍馬
M20 群青を射す光 ヒジゾー
M21 絶頂SPIRAL ヨッシー&龍馬
M22 五色繚乱 超魂團
=アンコール=
M23 What's this? 超魂團
カーテンコール

12/3夜セットリストA
M1 What's this? 超魂團
M2 Rolling Thunder 龍馬&シンディ&センセー
M3 WHITE 超魂團
M4 非常幻想—オーバーミラージュ— ひじぞー&そうちん
M5 GOD BREATH—混式洋式— ジュニア&龍馬
M6 宙の翼 ヨッシー&直弼
=シャッフル歌合戦=
M7 INTERSECT 「晋作、幕府にもの申す」シンディ&ヨッシー&直弼 龍馬&ひじぞー&そうちん
M8 L or R 「新選組」ひじぞー&そうちん 「長州組」シンディ&センセー
M9 グラデーション 「大人のセクシー」センセー&龍馬 ジュニア&そうちん
M10 不完全パズル 「完全パズル」ヨッシー&ジュニア&龍馬 「不完全」シンディ&センセー&誠仮面 近藤さんの隊服着たお登勢さん登場
=お伽話=
M11 GOD BREATH 「狼」ジュニア
M12 共鳴進歌 「赤ずきん」そうちん バックに「白うさぎ」ヨッシー&「黒うさぎ」直弼
M13 REACTION 「ピーターパン」シンディ バックに「ワニ」勝&「フック船長」ひじぞー
M14 モット!!! 「フック船長」ひじぞー バックに「ワニ」勝&「ピーターパン」
M15 Crash My Head 「いかれ帽子屋」龍馬 バックに「トランプの女王」お登勢&「チェシャー猫」センセー
M16 ハチノジディストーション「チェシャー猫」センセー バックに「トランプの女王」お登勢&「いかれ帽子屋」龍馬
M17 XXXing 超魂團
=お伽話終了=
M18 MASTER COMMUNICATION ジュニア&直弼
M19 LAST SCREAM 龍馬
M20 残響—feedback— そうちん
M21 絶頂SPIRAL ヨッシー&龍馬
M22 絶頂DAYBREAK 超魂團
=カーテンコール=
M23 What's this? 超魂團
M24 スペシャルカーテンコール 五色繚乱 超魂團

永遠の少年「ピーターパン」シンディは、糸ディの特徴をよく表してる。また「チェシャー猫」センセーはみつらさんの可愛セクシーな魅力を振りまいて決めポーズのたびに嬌声が飛んだ。いつもながら最初の瞬間から最後の瞬間まで完璧なヒデちん。誠仮面とひじぞーさんの二役(?)になって水を得た魚のようになった、てるぞー。悪魔バージョンも完璧にこなすKimeヨッシー。美しさ完璧なのにボケ台詞を吐きまくる佑弼。セクシーなスーパースターになりきった兼ジュニ。完全にみんなのパパとママになった勝&お登勢コンビ。そしてらちりょまは完璧にこの世界の龍馬。ありがとうありがとう。
松竹シネマ歌舞伎 め組の喧嘩

私が歌舞伎に目覚めた時、勘三郎さんはこの世におられなかった。
だから、この人が舞台で躍動するのを見ることはかなわないのだと、ぼろぼろ泣いた。勘三郎さんをリアルで見た人、見ていない人の境を超えて、館内からはあちこちからすすり泣きが聞こえた。

全編、江戸弁が流れるのが嬉しい。たぶん、原作の舞台であった芝周辺の言葉というより、今の浅草周辺に近いんじゃないかと思う。当時の芝は、江戸でも南の外れの方だったから。勘三郎さん演じる辰五郎と、梅玉さん演じる喜三郎、扇雀さん演じるお仲などとのやり取りの言葉が、とてもしっくり来る。

勘九郎さんの鉄火ぶりもみどころ。惜しげもなく太腿を出すのが眩しい。


セットリストA
M1 What's this?
M2 Rolling Thunder
M3 WHITE
M4 非常幻想—オーバーミラージュ—
M5 GOD BREATH—混式洋式—
M6 宙の翼
M7 INTERSECT
M8 L or R
M9 グラデーション
M10 不完全パズル
M11 GOD BREATH
M12 共鳴進歌
M13 REACTION
M14 モット!!!
M15 Crash My Head
M16 ハチノジディストーション
M17 XXXing
M18 MASTER COMMUNICATION
M19 LAST SCREAM
M20 重力のない世界
M21 絶頂SPIRAL
M22 絶頂DAYBREAK
M23 What's this?
新選組ミニ雷舞 オーバーミラージュ振り練習つき
11月30日(木) 夜の部 セットリストB
M1 What's this?
M2 RIDE ON THE WAVE
M3 暁のFreebird
M4 黒曜蝶(ブラックバタフライ)
M5 GOD BREATH—混式洋式—
M6 宙の翼
M7 INTERSECT
M8 L or R
M9 グラデーション
M10 不完全パズル
M11 GOD BREATH
M12 共鳴進歌
M13 REACTION
M14 モット!!!
M15 Crash My Head
M16 ハチノジディストーション
M17 XXXing
M18 MASTER COMMUNICATION
M19 LAST SCREAM
M20 残響—feedback—
M21 絶頂SPIRAL
M22 五色繚乱
M23 What's this?

M7 INTERSECTからM10不完全パズルまではメンバー入れ替わって、たとえば長州組のINTERSECTの後にオリジナルの龍馬・新選組トリオのINTERSECTが続くというイベント特別仕様。

アフターイベントは贔屓(観客)がジュニア・シンディ組と龍馬・センセー組とに分かれてGOD BREATH—混色洋式—を一緒に歌うという難易度の高い贔屓参加型イベント。

感想はまた、12月1日夜のセットリストAを見てからにでも。
業務繁忙期の山を抜けたので、幕末の話題をば。

京都
生き残り懸け将軍のカルテ入手 幕末の西本願寺
 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が24日に発表した江戸時代末期の資料には、同寺が、江戸幕府のトップシークレットを収集していたことを示す内容もあった。中には「将軍のカルテ」まである。情報を迅速に入手することにより激動の時代の中で生き残りを懸けようとする同寺の姿が浮かぶ。

 西本願寺には現在20万点の文書が残る。研究所が幕末以降の歴史をまとめる「本願寺史」の編さん作業中に文書を確認し、今回は7点を発表した。

 その中に、幕末の第2次長州征伐で大坂城に入った14代将軍家茂の病状を探る手紙や「容体書」(カルテ)があった。

 慶応2(1866)年7月4日、朝廷は漢方医の高階経由らを大坂城に派遣し診察させた。西本願寺には経由の息子経徳からの手紙が残り、経由に情報を送るよう依頼したことをうかがわせる。それに対して7日に京都へ帰った経由の返信(8日付)は「せがれ(経徳)へのお手紙の内容、委細承知」「極御内々」と同寺の求めに応じ、家茂の容体書を同封してあった。

 容体書は7月5日付。家茂は6月下旬から体のむくみや発熱、嘔吐(おうと)、食欲不振、尿が出ないなどの症状があり、このままだと脚気(かっけ)になる恐れがあり、心臓機能の低下となれば「計り知れない」と記されていた。

 この内容は、1934年に発行された「新聞薈叢」(岩波書店)に掲載された翻刻と同じだった。孝明天皇の側近朝彦親王の日記には、経徳が家茂の容体書を親王に持参したと書かれている。容体書は複数出回っていたとみられるが、研究所の大喜直彦上級研究員は「当時の資料が残っているのは珍しいのではないか」とみる。

 西本願寺が情報収集に奔走していたことを示す資料について、海原亮住友史料館主席研究員(日本近世史)は「西本願寺が積極的に働きかけて家茂の様子を尋ねており、想像力がかき立てられる。容体書が実は広く流布していたことと、その背景の一端を示しており、貴重な史料であることは疑いない」とする。

 今回の資料は、来年2月20日に下京区の西本願寺聞法会館で行われる研究所の公開講座で展示される。問い合わせは同派075(371)5181。
徳川慶喜への贈り物「内々に」 西本願寺、幕末に生き残り図る
 1867(慶応3)年、大政奉還後に大坂城へ移った徳川慶喜へご機嫌伺いの贈り物をする際、西本願寺(京都市下京区)が「他人に知られぬように送れ」などと大坂の出先機関に指示した書状が見つかり、24日、本願寺史料研究所が発表した。

 大喜直彦上級研究員は「元将軍側と、朝廷や倒幕派のどちらに付けば生き残れるかを推し量っていた証拠」としている。

 書状は、西本願寺から大坂の津村別院に宛てた命令書の下書き。大政奉還直後で「とりあえず、このような事態なので内々に」品物を贈るよう指示しており、同封する手紙には「親しく交際する趣意が見えないよう心配りを」と注文していた。
「とりあえずカステラ」慶喜との付き合い悩んだ西本願寺
 150年前の大政奉還(1867年)の後、将軍を辞職した徳川慶喜(よしのぶ)とどう付き合うかに悩む西本願寺の様子を示す書状など、幕末・明治維新期の史料7点が浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)の保管史料から新たに見つかった。研究所が24日、発表した。

 見つかった史料の一つは、西本願寺が大坂の津村御坊(現・本願寺津村別院、大阪市中央区)との往復書簡をまとめた「大坂諸記」。西本願寺から津村御坊に宛てた慶応3年12月14日(1868年1月)付の書状控えでは、それまで西本願寺と親交のあった慶喜らに「とりあえず」「内々に」見舞いの品を贈るよう命じ、見舞いの手紙は「従来のように親しく交際するような趣旨とならぬように」と注意を促している。

 大政奉還後、薩摩藩などの討幕派は新政府樹立を宣言。慶喜は京都・二条城から大坂城に下った。研究所によれば、西本願寺としては、慶喜と親しいと見られると立場を悪くする恐れがあった一方で、慶喜が勢力を回復する可能性もあり、友好的な関係を保つ必要もあった。「とりあえず」という表現には、元将軍となり立場が微妙になった慶喜を見る周囲の空気感が表れているという。

 慶喜や幕府関係者への贈り物として選んだのは、鴨(かも)や「カステイラ(カステラ)」。カステラは当時の贈答品として珍しく高級品というだけでなく、慶喜らの好みに西本願寺側が配慮した選択だった可能性があると研究所はみる。

 慶喜はその後、大坂城から京都に進撃したが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、江戸に逃れた。

 江戸の築地本願寺と西本願寺の往復書簡をまとめた「江戸諸記」も発見。米国東インド艦隊司令長官ペリーの来航と幕府の対応について、西本願寺が精度の高い情報を得ていたことがわかる。

 嘉永6(1853)年6月24日付の書状によれば、西本願寺はペリー来航直後の6月8日ごろから来航の情報を集め、異国船が米国の4隻で蒸気船があること、米国からの国書の日本語訳を幕府が儒者と蘭学者にさせることなどをつかんでいた。

 研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「激動の時代に懸命に対応しようとした西本願寺の姿勢や情報収集能力の高さが伝わってくる貴重な史料だ」と話している。(大村治郎)
京都・西本願寺で幕末の“機密情報”記す新史料
 京都の西本願寺は、所蔵する史料から幕末のペリー来航時の様子や将軍の容体など当時の機密情報を克明に記した文書が見つかったと発表しました。

 「黒船」を示す、「異国船」の文字。東京の築地本願寺と西本願寺との間でやり取りされた書簡で、アメリカの提督・ペリーが4隻の船で来航したことなどを正確に伝えています。こちらは14代将軍・徳川家茂が21歳で亡くなる直前に記された文書。当時最大級の機密事項だった家茂の容体について「血流が滞っている状態で皮膚の調子も悪い」と書かれています。

 「どう考えても普通の人が知らないような情報・知るはずがない情報をかなり早い段階で入手している。西本願寺自体がかなりのネットワークを張って情報収集していることがわかる」(本願寺史料研究所 大喜直彦上級研究員)

 今回見つかった新史料は来年2月に京都で公開されます。
西本願寺幕末のそんたく? 「慶喜と親密」伏せる文書
 浄土真宗本願寺派本山・西本願寺が、1867年の大政奉還の際、将軍・徳川慶喜への対応に苦慮したことを示す記録が京都市下京区の同寺で見つかった。本願寺史料研究所が24日に発表した。権力が移った朝廷側をおもんぱかり、慶喜と親密と見られないよう指示した記述などがあり、専門家は「当時の政治状況を生々しく伝える貴重な資料だ」としている。

 研究所が資料整理中に複数の文書を発見。慶喜に関する記述は、西本願寺から大坂の直属寺院「津村御坊」(…
以下、有料。

 幕末の西本願寺がかなり情報機関化していることをうかがわせる記事ですね。新選組が無理矢理押しかけて屯所にして親長州の動きを牽制しようとしたのも、家茂公の病状まで入手できる西本願寺の情報力ゆえでしょう。
 甘い物好きで知られたのは家茂公ですが、「豚一公」の別名が残る慶喜公もカステラや鴨を食されたとしたらなかなかの美食家。

薩摩藩の恐るべき軍事力 「鳥羽伏見」150年…初公開の不発弾から見える幕末の緊迫
 平成29年は大政奉還から150年、30年は新政府軍が倒幕を果たした鳥羽伏見の戦いから150年という節目の年が続く。これを受け、旧幕府軍の拠点・伏見奉行所に着弾した大砲の不発弾が今月、京都市考古資料館(上京区)で初めて公開された。オランダから伝わった大砲から発射されたとみられ、史実通り奉行所が大火災を起こしたことを物語る焼け土とともに出土した生々しい〝物証〟だ。そこで約260年続いた徳川幕府を破る歴史の大転換となった戦いの一端を、この砲弾からひもといてみた。(園田和洋)

薩摩藩が撃った?

 砲弾は赤茶色のさびで全体が覆われているものの保存状態は比較的良好で、てっぺんには信管と思われる木製の栓が装着されているのが見て取れる。

 オランダから伝わった12ドイム臼砲(きゅうほう)の弾とみられる。臼(うす)のような形が名前の由来。ドイムは同国の長さの単位で、センチと同じ長さ。12は口径の大きさを示す。

 砲弾は直径11・8センチで口径とピッタリ。中空の半球を2個継ぎ合わせているので中は空洞だという。前田義明館長は「そこに火薬が詰められたはずで、まだ火薬は残っています」と説明する。

 この砲弾は平成元年、京都市伏見区内の市営住宅建設に伴い行われた発掘調査で見つかった。奉行所跡を示す石碑が立つ近くで、当時の奉行所西端の石垣あたりに該当するという。

 調査を担当した関西文化財調査会の吉川義彦代表は「普通なら地面にたたきつけられた瞬間に爆発を起こすはずなのに、地中に30センチほどめり込んだ状態で止まっていた。どうして爆発しなかったのかは分からない」と首をひねる。

 めり込み具合などから、奉行所の北東から飛んできたことも判明した。その先には薩摩藩ら新政府軍が本営を置いた御香宮(ごこうのみや)神社がある。このため、新政府軍が旧幕府軍の拠点をめがけて放った弾の一つの可能性が高い。

森から現れる砲弾

 鳥羽伏見の戦いは慶応4(1868)年1月3日に戦端が切られた。激しい攻防の末、新政府軍が放った大砲の弾が奉行所内の弾薬庫に着弾し大火災を起こしたと伝えられ、調査地一帯では火災を裏付ける焼け土が出土している。

 ただ、御香宮神社と伏見奉行所との間の距離は約300メートルで、大砲より銃を使った方が効果的な距離だ。実際、当時の記録をみると、臼砲の弾は御香宮神社からではなく、その先の高台から放たれたと書かれている。

 幕末史に詳しい霊山資料館(京都市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長は「神社のさらに北東の山側にある現在の龍雲寺が建つ付近から撃った可能性が高い」と推測する。

 龍雲寺は現在、御香宮神社から国道を挟んだ桃山丘陵地にあり、同神社から約300メートル離れている。ここからは奉行所の一帯が手に取るように見渡せたのだろう。しかも射程圏が700メートルという臼砲には絶好の距離。臼砲の仰角は45度に固定されていたため、ほどよい射撃場所があれば、奉行所を狙うぐらいなら相当な命中率が考えられる。

 特に薩摩藩は、文久3(1863)年に英国相手の戦いで惨敗を喫したことを教訓に、軍隊の近代化を唱えた第11代藩主の島津斉彬(1809-58年)が砲兵を鍛え上げており、練度が高かったという。

 木村副館長は「当時あの辺りは桃の木々でうっそうとしていたはず。奉行所側からみれば、木がおい茂る中から放物線を描いた砲弾が特有の音を立てて、次々と落ちてきたような感覚ではなかっただろうか」と旧幕府軍側の驚きぶりを想像する。

練度と物量が雌雄決す

 臼砲の弾道は高い弧を描くことから命中率は比較的低いが、壁を破壊する程度ならば問題なく、要塞攻略戦で多用された。日本では江戸時代初頭の島原の乱を機に導入され、試し撃ちをした記録も残る。幕末にはオランダから12ドイム、20ドイム型が輸入され、幕府のほか有力諸藩が所持していた。

 風雲急を告げる幕末は、輸入だけに頼っていては数が足りなかった。そこで鉄の精錬所を自前で建設していた有力藩のうち、薩摩藩や佐賀藩が大砲の国産化を始めた。木村副館長は「鳥羽伏見で使われたドイム砲は、薩摩藩が製造した可能性が高い。薩摩藩の高い生産能力と大砲を正確に撃つ技術力が、新政府軍を勝利に導いた要因の一つといえる」と評価する。

 京都市考古資料館では、同市上京区の同志社大今出川キャンパス内で行われた発掘調査で、幕末期の薩摩藩邸跡から出土したイギリス製エンフィールド銃の銃弾数発も同時に展示されていた。

 「最新式の銃を試し撃ちしたか、射撃訓練をしたものだろう」と前田館長。当時、欧米ではライフル銃が出始めていたが、この銃は旧式の先込め式で、「米の南北戦争が終わり銃が余ったため、日本に売られてきたのだろう」と話す。

 そして、この銃を薩摩藩に売りつけたのが、坂本龍馬もよく知るイギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーだった。展示された銃弾のうち1点は御香宮神社から見つかったものなので、実戦配備されていたのかもしれない。

 木村副館長は「幕府との熾烈(しれつ)な戦いを予想し、薩摩藩は手に入る武器ならどんなものでもほしかったのだろう」と当時の緊迫する情勢に思いをめぐらせた。
 伏見の戦いにおける薩摩藩側の圧倒的な火力を推測させる砲弾ですね。

福島
「会津藩に正義あった」 義尽くし汚名、戊辰戦争を語り合う
 戊辰戦争をテーマにした歴史文化講演会「会津藩と徳川幕府」が23日、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれた。「会津の視点から見た、明治維新を再考」をテーマに、徳川家や松平家の当主ら会津藩関係者が参加した討論では、義を尽くしながら汚名を着せられ、故郷を追われた敗者にも「正義」があったことを語り合った。

 来年の戊辰150年に合わせて開催。約500人が来場した。討論には、徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)徳川記念財団理事長、松平保久(もりひさ)松平家14代当主、会津会会長の柳沢秀夫NHK解説主幹、室井照平市長、近藤真佐夫市教委文化課主幹が登壇。漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長が司会を務めた。

 松平氏は「会津は『義』を大切にしていた。愚直さから京都守護職を引き受け、恭順の意思を示していたのに戦いに巻き込まれた」と指摘。柳沢氏は「義を貫いた会津の生きざまは誇りだ」と語った。

 討論に先立ち、徳川氏と漢字文化振興協会長の石川忠久氏が基調講演した。文化講演会は、漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年記念事業実行委員会の共催、会津若松ワシントンホテル、会津商工信用組合の協賛。

 『戊辰』見直す契機に

 基調講演では徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝氏、元二松学舎大学長・理事長で漢字文化振興協会長の石川忠久氏がそれぞれの立場から江戸時代の文化などを紹介した。

 徳川氏は「江戸時代に築かれた日本の基礎」を演題に、平和で豊かな江戸時代を解説、現代に江戸の精神を生かすべきだと提言。石川氏は「戊辰戦争の漢詩」と題し、会津藩主・松平容保(かたもり)や会津藩士らが詠んだ漢詩を紹介し、作者の気持ちを想像してほしいとした。

 会場には約500人の歴史ファンが詰め掛け、基調講演や討論に聞き入った。前会津若松商工会議所会頭の宮森泰弘さんは「会津にも江戸時代の文化が色濃く残る。来年の戊辰150年を会津の文化を見直すきっかけにしたい」と語る。

 冒頭、主催者代表の五阿弥宏安福島民友新聞社社長が「近代史では勝者の視点から歴史が語られるが、敗れた側に正義はなかったのか、改めて戊辰戦争と明治維新を考えてみたい」とあいさつした。
会津藩ゆかりの地で先人慰霊 新潟で会津若松市長ら献花
 来年の戊辰150年の節目を前に、会津若松市の室井照平市長と目黒章三郎市議会議長は24日までに、新潟県上越市にある会津藩士の墓地「会津墓地」を墓参し、新潟県内にある会津藩ゆかりの地を訪ねた。

 室井市長は「先人への慰霊、地元へのお礼ができた」と語った。

 戊辰戦争で敗れた会津藩士の一部約1700人は越後高田藩(現在の上越市)で謹慎した。越後高田藩は財政窮乏の中でも待遇に手を尽くしたが67人が病没した。

 会津墓地は無縁仏が多いため地元住民が手入れを行っている。現地で生涯を過ごした会津藩士もおり、今も子孫が残っている。

 長岡藩(長岡市が本拠)周辺で起きた「北越戦争」。激戦だった小千谷市での「朝日山の攻防戦」で亡くなった会津藩士ら22人の慰霊碑が戦場近くの浦柄神社に整備されている。

 地元住民でつくる保存会が守っており、室井市長と目黒議長が碑前で献花した。

 この日は会津藩と関係が深い長岡藩の本拠だった長岡市の磯田達伸市長らも表敬訪問し、さらに親善交流を深めることで一致した。

静岡
悲しすぎる…ハリスを世話した幕末の下田芸者「唐人お吉」の波乱万丈な人生:前編
幕末という名の風雲は、その時代を生きた多くの人間を呑み込み、彼らの人生を変えました。時代が違えば名もなき寺子屋の先生で終わったような人物が攘夷志士になり、泰平の世であれば良い政治家だった人物が難局を乗り越えられずに暗殺や失脚に追い込まれました。下田の芸者、斎藤きちの場合もそうでした。彼女は幕末に生まれたがために時代の波に巻き込まれ、人々からこう呼ばれるようになります。「唐人お吉」と。

きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。



天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。安政元年、14歳になる頃には「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。

同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、彼女の怒涛の人生が幕を開きます。

同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。彼は立派な船大工になっており、自腹できちに急ごしらえの家を作り、お金も貸してくれたのです。きちは鶴松に救われ、なんとか生命を繋ぐ事ができました。

しかし不幸は続き、翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。

安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。

翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります・・・」と了承しました。

お吉自筆の給金請書 出典:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵

こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。

「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」

間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。(後編へ続く)

北海道
「咸臨丸」どこに 木古内沖 来年度は潜水も 東京海洋大とオランダ文化庁が調査
 【木古内】幕末に勝海舟らを乗せて日本船として初めて太平洋を横断し、1871年(明治4年)に渡島管内木古内町のサラキ岬沖で沈んだオランダ製軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」の調査に、東京海洋大教授とオランダ文化庁の調査官が乗り出した。21日まで3日間、町内で聞き取りなどを行った。来年度以降、潜水による探索も行う。明治時代から謎とされていた詳しい沈没場所の解明につなげたい考えだ。

 調査を行うのは、東京海洋大の岩淵聡文教授(56)=人類学、考古学=と、オランダ文化庁から委託を受けた調査官のレオン・デルクセンさん(30)=同国在住=。オランダは世界各地のオランダ製の沈没船のリスト化と調査を進めており、咸臨丸については、沈没船などの「水中文化遺産」が専門の岩淵教授と共同調査を行うことになった。

 2人は19~21日に木古内町を訪問。ナマコ漁などの潜水漁師の間では、10年ほど前に約1キロ沖合で沈没船を見たとの情報もあるといい、漁業者らに沈没船を見たことがあるかどうか聞いたほか、海底の地形などについても聞き取った。19日には木古内町郷土資料館「いかりん館」(町鶴岡)で、町民有志の「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)メンバーらと面会し、情報提供などの協力を取り付けた。

 岩淵教授は「咸臨丸はオランダでも知名度が高いが、その歴史は不明点が多い。船体調査により沈没原因も分かるかもしれない」と期待する。

 来年度は専門ダイバーによる潜水調査を検討している。木造の沈没船を発見した場合は、船体の一部をサンプルとして採集した上で木の年代、産地を特定し、咸臨丸かどうかを確かめる。(木古内支局 高野渡)



吉例顔見世大歌舞伎

仮名手本忠臣蔵
五段目 山崎街道鉄砲渡しの場 二つ玉の場
六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
 仁左衛門の早野勘平を見るための場でしたなぁ。幕が下りてからも周囲から溜息「にざ様色っぽい」「いいものを見せてもらった」
 染五郎の斧定九郎も形が決まってた。この形をつくった初代中村仲蔵に感謝。

恋飛脚大和往来
新口村
 心中を決めた梅川忠兵衛が忠兵衛の父に最後の別れを告げる場。ひたすら寒い雪の場面。

元禄忠臣蔵
大石最後の一日
 襲名前の松本幸四郎(年明けに白鷗)・市川染五郎(年明けに松本幸四郎)・松本金太郎(年明けに市川染五郎)が勢揃い。幸四郎の重厚な大石内蔵助、染五郎の若々しい磯貝十郎左右衛門、金太郎の初々しい細川内記(大石ら赤穂浪士十七人を預かった細川屋敷の若君)。磯貝と祝言を挙げたのに討ち入りのために去られてしまったおみの(中村児太郎)が素晴らしく、女役はひとりしか出ないというドラマの中で切なく美しく儚い。

 時代物と人情モノと新歌舞伎を揃えたのだろうけど、人が死ぬ話ばかりで重くて胸焼けした。。
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