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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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板東楽膳・彦三郎・亀蔵襲名、眞秀《まほろ》ちゃん初お目見えの昼席。今回は知り合いのつてがあり、1階席3列目という良席。役者さんの姿も表情もよく見え、お芝居としての迫力満点。

 石切梶原は梶原平三を演じる新彦三郎のお目見えの色が強かった。彦三郎を譲った楽膳の大庭三郎、憎まれ役の俣野五郎とのバランスがよく、また六郎太夫の團蔵と梶原の芝居もよかった。右近ちゃんの梢は、ちょっと芝居が過剰気味で浮いていた気がする。菊之助さんの奴菊平、祝い口上を読み込んだ囚人剣菱呑助を演じた松緑さんとお祝いムードも一段。

 吉野山はひたすら海老蔵と菊之助の見た目にうっとりする。

 芝居として面白かったのは、やはり魚屋宗五郞。菊五郎の宗五郞はこの人のニンに合っているし、妾奉公に出した妹が無実なのに不義の咎を受けて斬り殺されたと知って、金比羅様と約した禁酒を破ってどんどん呑んでいく様子がやっぱり巧い。そして、菊五郎劇団といわれるだけあって、おはまの時蔵さんはじめ前半の配役が素晴らしい。寺嶋しのぶさんの息子、眞秀《まほろ》ちゃん四歳で台詞をあそこまでこなすのは凄い。後半は武士たちに精彩がないように感じた。

歌舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」 好感度満点の新彦三郎
 今年の團菊祭は、七代目尾上梅幸(おのえばいこう)二十三回忌、十七代目市村羽左衛門(うざえもん)十七回忌追善。羽左衛門長男・八代目坂東彦三郎の初代坂東楽善(らくぜん)、その長男・亀三郎の九代目彦三郎、次男・亀寿(かめとし)の三代目坂東亀蔵の襲名披露に加え、新彦三郎の長男(侑汰(ゆうた)、4歳)が六代目亀三郎で初舞台。梅幸のひ孫で尾上菊五郎の孫、菊之助のおい、寺嶋眞秀(まほろ)(4歳)が「魚屋宗五郎」の酒屋丁稚(でっち)役で初お目見得(めみえ)など盛りだくさんの興行となった。

 昼。「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)」は、名刀の鑑定を依頼された梶原平三(新彦三郎)が、人間を2人重ねて刀の試し切りをする「二つ胴」や、手水鉢(ちょうずばち)を真っ二つに斬る見せ場で立役冥利(みょうり)の役。家伝といえる十五代目羽左衛門型が久しぶりに出た。手水鉢の背後に立ち、客席正面に向かって刀を振り下ろす豪快さに胸がすく。新彦三郎、生真面目過ぎるが、口跡のよさと潔さ、武士の面目かくやで好感度満点。楽善が大庭(おおば)、亀蔵が俣野(またの)で敵役。尾上松緑(しょうろく)が囚人で、常道の酒尽くしを3人への祝いぜりふに変えた。

 次に市川海老蔵の狐忠信、菊之助の静御前が義太夫で踊る「吉野山」。菊五郎の宗五郎、中村時蔵の女房おはまとしみ込んだ熟成コンビで「魚屋宗五郎」。

 夜。劇中で坂東家三代の襲名口上付きの「壽曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」。「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は「御殿」から「刃傷(にんじょう)」まで。菊之助=政岡の艶(つや)、海老蔵=仁木弾正の悪の華、中村梅玉(ばいぎょく)=細川勝元の優麗さ。松緑、亀蔵による「弥生の花浅草祭」で打ち出し。27日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
(評・舞台)歌舞伎座「団菊祭五月大歌舞伎」 菊之助、強さと優しさ
「魚屋宗五郎」の菊五郎の宗五郎は、江戸の魚屋がそこにいるようだ。禁酒を破って最初の一杯を飲むと「いい酒だなあ」と、思わず酒に気をとられて、他のことは一切忘れてしまう。この表情は誰もかなわない。

 リアルで洗練された味わいは菊五郎劇団の芸風である。今月は同劇団の昭和の名優七代目梅幸と十七代目羽左衛門ログイン前の続きの追善公演。菊五郎のもうひとつの演目「対面」の工藤祐経も、自分を敵と狙う曽我兄弟に、傲慢(ごうまん)ではなく鷹揚(おうよう)に接する時、劇団の歴史がそこに結晶している。

 坂東彦三郎が初代楽善を名乗り、長男の亀三郎が九代目彦三郎を、次男の亀寿(かめとし)が三代目亀蔵を襲名した。新彦三郎は「石切(いしきり)梶原」の梶原と「対面」の曽我五郎を演じて、真っすぐに通る癖のないせりふが快い。

 新亀蔵は「弥生の花浅草祭」で、松緑と連れ舞をして、踊りの名手の腕を披露している。

 「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が面白い。菊之助の乳人(めのと)政岡は我が子を惨殺されても、びくともせず若君を守る。魁春(かいしゅん)の栄御前は、政岡が我が子を若君と取りかえていたと思い、悪人一味の連判状を渡す。六代目歌右衛門の政岡は花道付け際に座って栄御前を見送り、勝利の笑みを浮かべた。

 菊之助は笑わず、立って花道七三へ進み、栄御前の後ろ姿をしばらく睨(にら)んでいる。この強い姿から一転して、我が子の亡骸(なきがら)を抱き上げる優しさは、祖父七代目梅幸を思わせる。海老蔵の仁木弾正はふてぶてしく、観客の心胆を寒からしめる。

 「吉野山」は義太夫の地で、菊之助の静御前は舞台奥から出る。海老蔵の忠信。梅幸の静は清元と義太夫を使う型で、花道から出た。さりげなくて、しかも馥郁(ふくいく)たる香気があった。今月ばかりはその型が恋しい。

 (天野道映・評論家)
渡辺保の歌舞伎評
2017年5月歌舞伎座追善と襲名の団菊祭
 七代目梅幸二十三回忌、十七代目羽左衛門十七回忌。菊之助時代から見てき
た梅幸、彦三郎の時からの羽左衛門、その二人が逝ってもうこんな月日がたっ
たのかと思うと感無量である。

 今年の五月恒例の団菊祭は、それに彦三郎の楽善、長男亀三郎の彦三郎、弟
亀寿の亀蔵、新彦三郎の長男が初舞台で新亀三郎にという坂東一家三代の襲名、
それに菊五郎の孫、寺嶋しのぶの長男寺嶋真秀の初御目見得まで加わっての一
大イベントである。寺嶋真秀が「魚屋宗五郎」の酒屋の小僧で酒樽をもって花
道を歩いてくると、この日一番の大きな拍手が起こった。まさかこの子を見る
ために超満員の観客が集まったとも思わないが、異様な熱狂ぶりであった。二
月の勘九郎の子供二人の初御目見得といい、大人の役者が子供に食われている
ようで情けない。

 さて、坂東一家の襲名披露狂言は、昼が「石切梶原」、夜が「対面」。その
ほかに新亀蔵が松緑と組んで二人で踊り抜く四段返しの舞踊「弥生の花浅草祭」
がある。

 まず「石切梶原」から。
 新彦三郎の梶原は花道を出たところ祖父十七代目羽左衛門そっくりである。
いろいろな事情があって祖父が羽左衛門を継ぐことになって、この梶原も十五
代目羽左衛門型であった。今度の梶原もそれに従う。しかし芸風だけのことを
いえば祖父もそうだったが、新彦三郎も形容本位で派手な羽左衛門型よりもじ
っくり芝居を見せる吉右衛門型の方が似合っているのではないだろうか。

 新彦三郎のいいところは三つある。

 第一に口跡がいいこと。その深い声が広い歌舞伎座に響き渡っている。名調
子、美声、爽やか、凛凛としているというのではないが、観客の心にしみる深
さが独特である。もっともせりふ廻しは今日でまだ三日目、緊張していて緩急
に乏しく力み過ぎているが、日が立てば余裕が出来てうまさが出るだろう。こ
の深さでせりふ廻しがうまくなれば鬼に金棒である。

 第二にいいのは、型を楷書でキッチリやっていること。教わった通り精一杯、
まだ余裕がないのは是非もないが、後半の物語はまことにキッカリしていい。
次にはこの型がどうしてこうなっているのかをよく考えることである。たとえ
ば石橋山で頼朝を引き起こせばというところで左手を高く上げて下を見込むが、
左手を上げるのは引き上げた瞬間で、下を見る時にはもう左手は下がっていな
ければいけないと思う。違和感があってリアリティを失うからである。あくま
で左手は引き起こす形容、下を見るのは頼朝を覗き込む芝居である。

 第三にいいのは、これは羽左衛門型のいいところだが、たいていの人がカッ
トする物語のなかで後世自分は佞人讒者といわれるかもしれないが、実はそう
ではない、正義の士だという告白があること。この告白こそこの浄瑠璃一段の
いわば性根であって、義経を讒言して滅亡させた悪人梶原景時というイメージ
を逆転させたところに作者苦心の趣向がある。それをキチンとやっているのは
羽左衛門型のいいところである。

 新楽善の大庭はさすがに立派。新亀蔵の俣野はこの人のニンで悪が効かない
のは仕方がない。この役が憎らしく突っ込まないと梶原が引き立たず、芝居も
盛り上がらない。

 団蔵初役の六郎太夫は、世話な芝居のイキがうまく、リアルさがありながら
締めるところは締めて緩急自在、いい六郎太夫である。右近の梢は娘と人妻の
間を行くところがあいまいである。あどけなさを強調し過ぎるからである。性
根は人妻、姿は娘とハッキリ割り切った方がいい。巳之助が梶原方の大名の筆
頭だが、声を張るのはいいが怒鳴り声になるのは注意すべきだ。

 新彦三郎のために松緑が呑助を付き合って、いつもの酒づくしのせりふの替
りに襲名に引っ掛けたせりふで笑わせる。菊之助が伊東入道からの使者の奴を
付き合う。

 もう一本の襲名披露狂言は、夜の部の「対面」。今度は終わりに劇中口上が
付くためか、幕が開くと浅黄幕で、これを振り落とすと全員板付き、すでに菊
五郎の工藤が高座に座っているという変則。むろんこういう形は故人寿海、十
三代目仁左衛門でも見たが、それは二人とも老齢かつ足が悪かったからである。
ことに今度の菊五郎初役の工藤は苦味に加えて色気があって「さてこそ兄弟」
でほのかに笑みを含む当たりいい工藤なので、ぜひとも障子の内の第一声の
「園の梅」から、平舞台へ降りての「高座御免下さりましょう」というところ
が見たかった。それにこうして全員板付きの絵づらだけが揃ってみると「対面」
という芝居が実は異様な恰好をした連中がゾロゾロ動き回る一種のページェン
トに面白さがあることがわかる。それがないと盛り上がらないのである。

 新彦三郎の五郎は、これも「石切」同様キッチリ型を守って手堅いが、緊張
のためか力の表現が足りないのと、五郎らしいふくらみがほしいところである。
 十郎は時蔵で本役。

 新楽善の朝比奈は可笑し味を含んでいい出来。大磯の虎が万次郎、鬼王新左
衛門が権十郎と三人兄弟が揃って坂東、市村、河原崎三家の当主が顔を揃える。
 新亀蔵は近江小藤太、万次郎の長男竹松が秦野、権十郎の鬼王と共に新亀三
郎が友切丸を持ってくる。
 他に松也の八幡、梅枝の化粧坂の少将、家橘と橘太郎の梶原親子。

 工藤の「思い出だせばおおそれよ」で、二重後ろの襖を払うと富士山の書割
になるのは仁左衛門の時にも見たが、これは芝居が終わって最後の口上になる
ときの方がよかった。その口上に菊五郎はじめ主だった役者が平舞台に並ぶた
めに、ここでもいつもの幕切れの富士山と鶴の絵面の見得もないのが残念。

 「石切」と「対面」のほかにもう一本の披露狂言は「弥生の花浅草祭」。実
をいうと今月昼夜を通して一番面白かったのはこの四段返しである。第一段が
常磐津で神功皇后と武内宿祢、第二段がいつもの清元の「三社祭」、第三段が
常磐津で通人と野暮大尽、第四段が長唄で石橋であるが、今まで「三社祭」は
面白くとも他の三段、ことに三段目の通人と野暮大尽がつまらなかった。とこ
ろが今度は四段ともに面白い。第一段は新亀蔵が神功皇后をそれらしく踊って
松緑の宿祢とともにキレイづくめ、居所替わりでの「三社祭」の善玉悪玉の踊
り比べが面白いのはいうまでもなく、また居所替わりでの亀蔵の通人が嫌味の
ない意外の面白さ、これに悪玉が絡んだ上に田舎侍風の野暮大尽に替わった松
緑がニンにピッタリ。二人のイキがあって面白い。最後に石橋の踊り比べの面
白さ。

 感心したのは、亀蔵が今まであまり見たことがなかったが踊りがうまいこと。
松緑がその亀蔵を引き立て引き上げる踊りっぷり。二人が一緒に踊る時には上
手が下手に合わせるのが鉄則だが、その合わせ方がまことにいいばかりか、そ
のコンビのイキの合わせ方がまた踊りを一際面白くしている。力量均等火花を
散らすというのも面白いが、こういうイキの合わせ方、取り合わせの異色さも
面白い。かくてこの一幕の二人、今月第一等の出来である。

 以上三本の他、昼の部は「石切」のあとに、海老蔵、菊之助の舞踊「吉野山」
続いて菊五郎の「魚屋宗五郎」。夜の部は「対面」と「弥生の花」の間に海老
蔵、菊之助の「先代萩」御殿、床下、対決、刃傷である。

 まず「吉野山」は、これまたいつもとは違って清元抜きの竹本だけという演
出。幕が開くと一面桜の書割。「恋と忠義」の置き浄瑠璃が終わるとこれを左
右に割って正面桜の立木の後ろに高二重の桜の山、下手に吉野川だろうか御丁
寧に何の役にも立たぬ滝車までついた川の流れ。菊之助の静御前は高二重の桜
の奥から出てつづら折りの道を下ってくる。「弓手も馬手も」もカットでいき
なり「見渡せば」になって普通は忠信と二人で踊る「天井抜けて据える」も
「徳若にご万歳」も一人で踊り、いつもの「女雛男雛」もここにはない。いか
に本文通りとはいえ、静が未亡人になったようで寂しい。その上清元と違って
竹本の地でのりが悪く踊りにくそうである。やっとそれこそ「遅ればせなる」
忠信が出て二人の「雁と燕」になり、ここで「女雛男雛」の振りがあるのがせ
めてもである。

 海老蔵の忠信は、源氏車を全体に散らした派手な衣裳の割には、狐というこ
とを強調するためか、衣裳の着方のせいか、猫背で、幽霊じみて色気が薄い。
竹本は愛太夫慎治ほか。

 次の「魚屋宗五郎」が芝居としては今月もっともすぐれた出来である。菊五
郎の宗五郎は二月の「四千両」の富蔵とは全く違って余裕たっぷりの傑作。花
道から出たところの愁いの肚から始まって、例の長ぜりふが思わず知らず聞き
入ってしまうよさ。今日の歌舞伎の水準を代表する舞台である。酒を呑んでの
酔態から「矢でも鉄砲でも持ってこい」の引っ込みまで十分の出来である。廻
って玄関先は「喜びありゃあ悲しみと」は普通だが、何度かの笑いがうまい。
奥庭までサラサラ運んで聞かせるところは聞かせて秀逸である。
 今度の菊五郎がいいのはむろん本人の芸のためだが、同時に周囲がいいから
でもある。幕開きに時蔵のおはま、万次郎の菊茶屋の女房、権十郎の三吉のや
り取りを聞いていると七五調が生きて、しかも芝居とは思えぬほど自然な生活
感が漂っている。ことに万次郎の菊茶屋の女房が「お大事に」といって門口を
出たところでフッと向こうを見る、思い入れがたまらぬよさ。
これが世話物の芸である。団蔵の太兵衛もいい。これといい、六郎太夫といい、
今月この人大当たり。梅枝のおなぎは神妙というまで。
 廻って玄関先ではさすがに左団次の浦戸十左衛門、市蔵の岩上典蔵がよく、
以上の役がいずれもサラサラしていながら、自然な芝居の面白さがそれぞれツ
ボにピッタリはまる面白さ。ここらがこの一座のアンサンブルのよさである。
松緑の磯部主計助は一通り。
 さて今月最大の問題は、すでに実験済みでもあり、さぞ進歩していてよかろ
うと思って大いに期待した「先代萩」の意外な期待外れ。

 まず「御殿」から。
 菊之助の政岡は、御簾が上がった立ち姿が思いもかけず空虚である。愁いの
肚もなく、二人の子供への愛情もなく、二人の子供をうまく操る乳母としての
才覚もない。「今、御屋形に悪人はびこり」の聞かせどころもただのせりふに
過ぎず、まことにあっけらかんとした「御殿」である。飯焚き抜きは祖父もそ
うだったから仕方がないが、さらに驚いたのは千松が刺された時に少しも驚か
ないことである。むろんそれらしい芝居はするのだが、それがとても驚いてい
るようには見えない。その上になによりも素早く鶴千代を抱かない。そっちへ
気が行かないから、若君大事という心が見えない。となると「涙一滴目に持た
ぬ」が空虚になるのは当然だろう。これでは栄御前が取り換え子と思うのも当
然であった。
 鶴千代を沖の井に預けないのはある型だが、それもそそくさと上手奥へ連れ
て行って、また平然と出てくるのは問題だろう。大事な若君をどこへ連れて行
ってしまったのかと思ってしまうからである。
 くどきは、悲しみ、狂熱、陶酔なにもなかった。一体どうしたのだろうか。
 歌六の八汐は、憎々しいところ、手強さがいい。魁春の栄御前はいかにも人
が良く、とても毒入りの菓子を持ってくる人には見えなかった。

 梅枝の沖の井、右近の松島。

 床下になる。松緑の男之助は、せり上がったところ合引きにかかった姿が不
安定である。せりふ廻しにも語尾の伸びる悪い癖が出てよくない。

 海老蔵の仁木は、掛け煙硝の白煙のなかにあらわれた顔が期待に反して、普
通の現代人、ただの人にしか見えない。凄味、妖しさがないのである。
 対決になる。海老蔵の仁木は、額の傷もほくろもなく、凄味がない。額の傷
をつけないのは富十郎もそうだったがやはり損である。しかもきわめて無表情
で現代人がそのまま法廷に出てきたようである。観客はボードレールではない
が巨大な「悪の華」を見に来るので、実録の原田甲斐のような仁木では面白く
ない。勝元との芝居もほとんど受けず、それでいて「恐れ入り奉る」で急に右
足を立てガーッと口を開けてのオーバーぶり。白けるだけである。

 気の毒なのは梅玉の勝元。この仁木相手ではどうにもならず、迫れば迫るほ
ど勝元の方が空転してバカに見えてしまう。刃傷ではじめて立派な勝元になった。
 市蔵の渡辺外記、友右衛門の山名宗全、右之助の大江鬼貫、九団次の黒沢官
蔵。右団次が神妙に渡辺民部を勤めている。
 刃傷。前回の海老蔵の仁木はこの場の殺気が凄愴、目を見張らせたが、今回
は余裕が出て却ってその殺気にたるみが見える。やたらに唸る、口を開ける、
というありさまだからである。
 以上、この海老蔵、菊之助、松緑三人の「先代萩」の意外な不出来は、将来
の「団菊祭」を背負う世代だけに不安に駆られる。
Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.
『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/
長谷部浩の劇評
【劇評75】菊五郎劇団のDNA 音羽屋坂東の襲名と寺嶋眞秀初お目見得。
 歌舞伎劇評 平成二十九年5月 歌舞伎座昼の部

五月の團菊祭は、七世尾上梅幸二十三回忌、十七世市村羽左衛門十七回忌追善の興行である。梅幸はもちろんだが、羽左衛門が亡くなってもう十七年も過ぎたのかと思うと溜息が出る。そのあいだに鬼籍に入った名優は数多く、梅幸、羽左衛門の時代と比較して歌舞伎がいやおうもなく変化しているのはいうまでもない。羽左衛門は自らの藝、一門の藝ばかりではなく、菊五郎劇団の若手たちに対しても厳しい指導を行ったことで知られている。こうした「怖いおじさん」が歌舞伎界にほとんど見当たらなくなってしまったのも、歌舞伎の現状に影響を与えているのだろう。
さて、昼の部は、亀三郎改め九代目彦三郎による『梶原平三誉石切』。もちろん彦三郎の名跡を長男にゆずった初代楽善、亀寿から三代目(坂東)亀蔵が、それぞれ大庭三郎、俣野五郎を勤める。もとより家の藝で、十五代目羽左衛門の型を採り、あくまで颯爽たる武者として演じている。新・彦三郎は、口跡、姿、所作いずれもこの役にふさわしい。生締の分別、思慮よりは、この場を鮮やかに切り抜け、六郎太夫(團蔵)とその娘、梢(尾上右近)の難儀を救う美丈夫としての色が強い。これから回を重ねるうちに、独特の光彩が与えられていくのだろう。囚人の剣菱呑助に松緑、奴菊平に菊之助がつきあう。
それにしてもこの演目、梢が六郎太夫の命により刀の折紙を取りに戻ってから、大庭三郎、俣野五郎が舞台を去るあたりまで、言い方が悪いが意識が遠くなる。もちろん寝ているわけではない。どこか台詞が入ってこない。このあたりの沈鬱な空気があってこそ、手水鉢を二つに割る大団円が生きてくるのだろう。劇作の難しさを思う。
新・彦三郎、亀蔵の世代が大きな役を勤めてこそ、将来の歌舞伎に展望が開ける。それだけの素質と努力がそなわっている。ふたりには楽善が健在なのがありがたいが、菊五郎劇団全体で考えれば、役の伝承にあたって三津五郎が欠けたのがあまりにも痛い。その損失の大きさを改めて考えさせられた。
次は、めずらしく義太夫の地による『吉野山』。いわずと知れた『義経千本桜』の道行だが、桜の満開に静御前(菊之助)と狐忠信(海老藏)が主従ながら道行をする情景を描いた舞踊である。
今日、数多く上演される清元の地と比べると重みがあり丸本物狂言の原型があり、語りといっても竹本と豊後節浄瑠璃の性格の違いを考えさせられる。男雛女雛として決まるときの陶酔感はないが、軍物語の描写に強く引かれる。静御前が舞台中央の大木から出て、狐忠信が花道のスッポンから出るが、義経の愛妾とその持ち物の鼓を慕う狐の関係性よりは、幻想の男女が桜が満開の吉野山、その雲の上で戯れに踊っているかのような気分が横溢していた。
切りは、菊五郎の『魚屋宗五郎』である。もはや名品とよびたくなるアンサンブルの充実がまずある。時蔵のおとく、團蔵の太兵衛、権十郎の三吉、萬次郎のおみつと揃って菊五郎の宗五郎を支えている。また、梅枝のおなぎ、丁稚の与吉の寺嶋眞秀まで菊五郎劇団のDNAが着実に伝えられている。
菊五郎の宗五郎は、飲み始めてから生酔いのあいだが特に自然で酒飲みの特長をよく捉えて自然である。また、磯部屋敷の玄関での悪態から一転して、庭先の場での照れまで、劇作上は荒唐無稽であるにもかかわらず、流れがよく、さらさらとした名人の趣が強くなってきた。
菊五郎孫の寺嶋眞秀は初お目見え。せりふもきちっと強く、なにより姿勢がいい。幼さで受けを取るのではなく、芝居で取ろうとする意志がある。花道の引っ込み、大向こうから「よく出来ました」と声がかかったのはご愛敬。客席のだれもがうなずいた。二十七日まで。
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