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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 明けましておめでとうございます。皆様にとってよい年になりますよう、心からお祈り申し上げます。
 年明け早々にかなりの数の幕末関係ニュースをクリップしましたので、「初荷」をお送りします。

岩手
【みちのく鬼行】(1)北上市・万福寺 毘沙門天像 伝説の里に東北の源
■顔面に足…蝦夷征伐への思い凝縮?

 東北にとって、今年はどんな年になるのだろう。振り返れば、蝦夷(えみし)征伐、奥州藤原氏の滅亡、戊辰戦争…と悲運の結末が多い東北の歴史。それは同時に、東北人が独自の文化を守ろうと戦い続けた証しでもある。東北では、勝者も敗者も自然の力もひっくるめて「鬼」と呼び、歴史を刻み残してきた。鬼には「東北」が「東北」としてあり続けられたエネルギーが隠されているに違いない。鬼伝説の里を訪ねてその「力の源」を探してみた。


秋田
あきた県民性あれこれ:/1 いろいろ言われて…納得できますか(その1) /秋田
 「しょしがり(恥ずかしがり)」で「ひやみこき(怠け者)」だが「えふりこき(見えっ張り)」。普段無口な男性は酒を飲めば大のおしゃべり、女性は色白で「秋田美人」の誉れが高い。きまじめで素朴な人柄で、苦しくてもねばり強く頑張り抜く。心は温かくおもてなしは抜群だが、商売下手で横並び意識が強く、足の引っ張り合いばかりして自分の意見はなかなか言わない。チャレンジ精神に乏しく、嫌なことは先送り。新しいことには飛びつくがすぐに冷めてしまう--。
(中略)
 四方を日本海と山に囲まれた秋田は、東北の他県と違って外部との交流が少なく、冷害の被害も小さい。米や鉱山・木材資源に恵まれていたため、自己主張せず強い人に従っていれば食べていけた面があった。今でも取材で山村を歩くと、高齢者はあまり話してくれない。自分の住む集落の悪口は言わず、我慢して暮らそうという気質からではないか。
 こうした気質は乱世であだになる。戊辰戦争で新政府軍側についた秋田藩は援軍を得て辛うじて勝利したが、海運で得た中央の情報を生かし切れず判断ミスが続いた。秋田藩の人材は新政府に登用されず、隣県からは恨みを買った。




茨城
大高氏記録:19世紀半ば、水戸の商人の気温観測記録判明(その1) /茨城
大高氏記録:19世紀半ば、水戸の商人の気温観測記録判明(その1) /茨城
◇150年前、千波湖凍る
 幕末の水戸藩の商人が残した日記「大高氏記録」に、1852(嘉永5)年から約15年にわたり定刻に寒暖計で測定した気温が記録されていた。19世紀半ば以前に日本人が機器を用いて記録した気象データは極めて少なく、現在の地球温暖化問題を考えるうえでも貴重な史料だ。毎日新聞は専門家の協力の下、茨城大に所蔵されている日記の写本から気温や気候に関する記述をまとめ、補正したうえで当時の水戸の気温の変化を再現することを試みた。日記から伝わる動乱の時代の空気と共に伝えたい。【八田浩輔、秋田浩平】

 ◆1862年5月25日 14・4度 「アヒルの卵」程のひょう降る

 1862(文久2)年5月25日 14・4度

 粟原(現在の常陸太田市)から門部(那珂市)あたりまで、アヒルの卵くらいのひょうが1尺(約30センチ)あまり降ったという。青い葉はすべて松の葉までもなくなったそうで、役所へ届け出ることになったらしい。

       ◇

 気象庁によると、5月は1年で最もひょうによる農業被害が多い月だという。初夏の陽気で地面が温められたところへ上空に強い寒気が流れ込むと、大気が不安定になり、積乱雲が発達して雷雨や大粒のひょうになる。アヒルの卵といえば鶏の卵より大きめ。記述はやや大げさにも思えるが、日記では後日「老人も見たことがないらしい」「畑は真っ白になった」などと追記されており、事の重大さを伝えている。被害は広範囲に及んだようで、現在の東海村でも「松皮(で作った)屋根が抜けた」と記されている。災害時に出先の役所に届け出るのは今と変わらないようで、当時の住民と水戸藩のかかわりを知る上でも興味深い。

 ◆1861年1月28日 マイナス0・6度 寒気ことのほか強く

 1861(万延2)年1月28日 マイナス0・6度

 終日雪が降り、夕方にやむ。大雪。(中略)当年は寒気がことのほか強く、千波湖に氷がはりつめる。

         ◇

 偕楽園の下に広がる千波湖(33万2000平方メートル)は、大正時代から干拓・開田事業が始まり、現在に至る。平均水深は約1・0メートルと浅い。江戸時代後期の面積は現在の3倍以上あったとされるから、記述の通り全面で氷が張りつめていたのであれば、さぞ壮観であっただろう。

 湖がある千波公園を管理する市公園協会によると、現在でも気温の低い日が続くと、年に1回程度は日陰に薄い氷が張ることがあるが、全面が凍ることはないという。この記述の約1カ月前にも千波湖に氷が「はりつめる」との記述があることからも厳冬だったことがうかがえる。補正値から導き出した1861年1月の推定平均気温は0・7度だった。現在の1月平年値は2・8度となっている。

 寒地土木研究所(札幌市)によると、湖の結氷は平均気温が氷点下の日の気温を積算した指標「積算寒度」と相関関係があり、湖面の広さはあまり影響しないという。千波湖は水深が浅く水温が冷えやすいこともあり、「現在よりも気温が低ければ結氷する可能性はある」と話す。

 ◆1868年11月14日 市街戦で寒暖計しまう

 1868(明治元)年11月14日

 寒暖計をしまった。夕方、水戸城から放たれた鉄砲のため、南三の丸が大火。流れ星が東から南に降る。

        ◇

 この年、水戸では尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)を唱える急進派・天狗(てんぐ)党の流れをくむ明治新政府側と旧幕府側の諸生党との間で「弘道館の戦い」と呼ばれる市街戦が起きた。きちょうめんに気温観測を続けた大高氏も観測どころではなくなったようだ。日記によると、大高氏の屋敷前でも銃撃戦が繰り広げられた。「(鉄砲の)弾が表戸から勝手戸を打ち抜いて裏手口の鴨居(かもい)で止まっていた」「勝手口には矢が1本刺さり、裏手には鉄砲による穴が無数できた」と戦いの激しさを物語る。戦災を避けるため、大高氏の家族らはいったん屋敷を立ち退き、前日には戸や障子まで残らず片づけた。弘道館は焼け、現在の水戸市泉町の大通りには、さらし首が置かれていた。大高氏は夜空の流れ星に何を託したのだろうか。

 幕末維新史が専門の県立歴史館の桜井明・歴史資料室長は「殿様のおひざ元である城下で内戦をしたのは全国で水戸くらいだ」と解説する。家族や奉公人が屋敷に戻ったのは4日後。気温の観測が再開したのはさらに1週間後のことだった。

 ◆1860年3月24日 1.7度 桜田門外の変、水戸は季節外れの大雪

 1860(安政7)年3月24日 1・7度

 明け方から大雪が降って寒い。珍しい大雪だ。昼ごろに地震。昼過ぎに雪がやんだ。少し薄日が照り、春の雪だから消えた。

       ◇

 日記に「梅が見ごろ」を迎えたとあるこの日、江戸城桜田門では水戸の浪士たちが、登城中の幕府大老・井伊直弼(なおすけ)を暗殺するという「桜田門外の変」が起きた。雪中の惨劇として広く知られているが、水戸でも季節外れの雪が降っていたことを日記は裏付けている。「江戸で大事件があったようだ」との知らせが水戸の大高氏のもとへ届いたのは3日後のことだった。

 故・吉村昭さんの歴史小説「桜田門外ノ変」は、史実を重んじ、雪の降り始めた時刻まで記している。吉村さんは小説の詳細な気候描写をするにあたって、茨城大に通い大高氏記録などを参照していた。吉村さんはサインをしないことで知られた作家だが、記録を閲覧する際、よほど愛着があったのか、茨城大の職員の求めに応じ「雨過天青」と記したサインを残した。

 ◇大高氏記録から
 大高氏記録より、幕末の気象状況が分かる記述の一部について、茨城大人文学部助手の木戸之都子さんの協力の下、現代語訳で紹介する。(日付は新暦に置き換えた)

       ◇

 ■1853(嘉永6)年2月25日 マイナス2.2度

 宵(よい)から大雪で寒気が強く、この3日間休みなく降り続いた。暮れにやみ、月明かりに照らされた雪は1尺5、6寸(45~50センチ)くらい積もる。

 ■1855(安政2)年11月12日 気温記録なし

 快晴。11日夜四つ半時(午後10時ごろ)、古今まれな大地震で(水戸市)泉町の紙屋徳十郎の土蔵が崩れ落ち、伊勢屋彦六の土蔵の屋根も破れ、屋根瓦が所々落ちた。(中略)行燈(あんどん)も転げ落ちてしまい、女中など5歩も歩けなかった。(中略)明け方まで少なくとも余震が47、48回あった。

       ◇

 安政江戸地震(安政の大地震)で、水戸も被害が生じたことを示す。最大の被害域は江戸市中で、規模はマグニチュード7程度だったと推測されている。この地震で江戸の水戸藩邸に住んでいた水戸学の中心的な学者、藤田東湖が死亡。藩政も大きく揺れた。

 ■1856(安政3)年9月23日 気温記録なし

 宵から雨が強く、明け方に小降りになり寒い。一日中雨が降り続き、(中略)真っ黒な空に稲妻が激しく光り、雷が何度も鳴った。(中略)古今稀(まれ)な大荒れで、明け方に南東の風になり、ようやく静まった。明け方までは生きる心地がしなかった。

 ■1857(安政4)年8月10日 21.7度

 気候不順で土用前(4月下旬ごろ)から寒さが強い。嵐など天災があれば凶作になるとも心得て、以前から通達書を出している通り、さらに質素倹約を心がけて食料をたくわえること。借家人に至るまで伝えること。

 ■1859(安政6)年7月24日 25.6度

 朝より曇り。昼前から日が照りはじめ、暑さがしのぎがたい。夜中まで風がなく、近年まれな暑さだ。

 ■1862(文久2)年2月28日 1.7度

 南風が少し吹き、(中略)土ぼこりが吹き上げ、突然あたりが暗くなった。夕方まで14、5間(25メートル)くらい先まで見えないほどだった。昨冬より雨雪とも降らず毎日風が吹く。

 ■1867(慶応3)年2月17日 マイナス3.9度

 朝曇りで寒い。午後から雪が降り出し夜中降り続いた。4、5年ずっと雪が降らなかったところで久々に雪が3寸(約10センチ)くらい降る。


大高氏記録:19世紀半ば、水戸の商人の気温観測記録判明(その2止) /茨城
大高氏記録:19世紀半ば、水戸の商人の気温観測記録判明(その2止) /茨城
◇寒暖差激しい幕末 夏と冬、変動一致せず
 幕末の水戸は、現在より寒暖の差が激しかった? 大高氏記録から再現した1、8月の推定平均気温の変動を記したグラフからは、こんな傾向が見て取れる。

 現在の1月平均気温の平年値(1971~2000年の平均)は2・8度。対して大高氏記録の推定平均気温は2・3度で、年別にみても平年値を下回る年が多い。一方、8月はこの傾向が逆転した。大高氏記録の推定平均気温は25・9度で平年値を0・9度上回った。年別でも平年値を超える年がほとんどだ。夏と冬の気温変動が年単位で必ずしも一致しないことは、水戸地方気象台の記録に基づく1897年以降のグラフを見ても分かる。

 地球温暖化に関して最も権威ある専門家機関である国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が07年にまとめた第4次報告書では、1995~2006年の世界の気温は、機器による記録(1850年以降)が存在する中で、最も温暖な期間に入ると触れている。大高氏記録は、1月はこの流れに大筋で対応した。千波湖の結氷など1850年代後半以降の冬の低温傾向を示す記述も散見された。反対に8月の高温傾向は、約150年間の中でも際立っているが、これを裏付けるまでの記述は日記から読み解くことはできなかった。

 気温の測定は通常、地表面の影響を避けるため、高さ約1・5メートルで太陽が直接当たらない風通しの良いところで行う。大高氏記録では、記述の内容から自宅で測定していたと推測されるが、測定の詳細な方法までは残されていない。朝1回の測定とはいえ、直射日光が当たっていれば高めに作用することもある。今回の試みはあくまで推定値であり、こうした不確実性や誤差が生じることは避けられない。

 今後、当時の気候をより詳細に再現するには、日記に含まれる天候の記録だけでなく、農業や漁業に関する記述と照合させることは欠かせない。同時代の水戸藩に関係する史料にも天候に関する記述は多く残されているという。地球温暖化問題は人類共通の課題であり、地球レベルの現象を地域から考えることは大きな意義がある。先人の知恵は今に何を伝えるのか。文系・理系を超えた多様な視点で史料の分析が続けられることを期待したい。

 ◇1850年代以降、温度計民間に普及
 大高氏記録で使われた寒暖計はどのようなものだったのだろうか。日記には寒暖計に関する具体的な記述はなく、国内で製造されたものか舶来品かを知ることができない。気象観測の歴史に詳しい塚原東吾・神戸大教授(科学史)によると、1760年代には国内の蘭(らん)学者たちの間で欧州の温度計や気圧計は知られていたという。液体の熱膨張を利用し、原料にアルコールか水銀を使用する基本原理は現在の液体温度計と変わらない。発明家の平賀源内は18世紀後半には温度計を自作していたとされる。

 一方、日記が書かれた1850年代以降は、養蚕業の発達を背景に、温度計が民間にも普及し始めたという。蚕の飼育にはきめ細かな温度管理が必要なためで、国産の養蚕用の温度計が北関東の養蚕地帯に広まった。塚原教授は大高氏記録に気温が残されていた点について、医学者など当時の知識人による学問的な影響と同時に、地場の食料生産や産業振興との関連性を指摘する。「夏の低温など気候の特異現象を長いスケールで記録したかったのではないか。知恵の総合があったとすれば面白い」と話す。

 ◇温暖化、将来予測につながる/幕末に高温期、新たな発見--三上岳彦・帝京大教授(気候学)に聞く
 古文書から気候を再現する意味とは。そして、大高氏記録から読み取れることは何か。三上岳彦・帝京大教授(気候学)に聞いた。

  ◇

 地球規模の急激な気温上昇が問題視される中、人間活動の影響が小さい時期の記録から気温変化を検証することは将来の予測にもつながる。アジア地域は19世紀の気象記録が少ない。今回、国内の公式の気象記録がない時期のデータが見つかったことは非常に貴重だ。

 人為的な温暖化懐疑論の中には、現在の温暖化は小氷期(300~400年続いたとされる寒冷な時期)から戻る途中で、自然的な変動だとする指摘がある。しかし、ここ30年はそれだけでは説明できないほど温暖化が進んでいる。気候再現を試みることで、この傾向が日本でいつ始まったのかを知る指標になり、多くの地点でこのような記録が見つかるほど価値は高くなる。

 東京、横浜の気象観測記録を基に再現した気候と今回の結果を重ね合わせると、傾向はおおむね一致する。1850年代前半の関東地方はかなり高温だった可能性が高い。これが事実なら、従来指摘されてきたように温暖化は1800年ごろの低温期以降に徐々に進んだのではなく、1850年ごろに急激に温暖化した後、1860年前後と20世紀初頭にいったん寒冷化し、再び温暖化が進行したことになる。幕末に一時的な高温期があったことは新たな発見と言ってもよいのではないだろうか。夏と冬の気温は必ずしも同じように変化しないため、年間の変動が激しい極端な気候だったとも考えられる。(談)

 ■質問なるほドリ

 ◆大高氏って何をしている人だったの?=回答・磯田道史茨城大准教授

 ◇水戸藩指折りの豪商 気温で作物収穫高予想
 なるほドリ 大高氏(家)って何をしている人だったの?

 茨城大の磯田先生 大高家は水戸藩でも指折りの豪商でした。現在の水戸市末広町に居を構え、両替商や呉服商などを営んでいました。藩からの信頼も厚く、町年寄という役にも任じられ、水戸の行政を担うほど格の高い家柄でした。

 Q 日記が書かれた幕末の水戸藩はどんなところだったの?

 A 当時の水戸藩は日本中の手本でした。弘道館という学校で人材を育成したり、早々に「富国強兵」をうたい、国内の産業や海の備えに力を入れていました。一方で、天狗(てんぐ)党と諸生党という藩内部での対立抗争が根強く、市街地で紛争が起きるなど政情不安定な面もありました。

 Q 大高家はなぜ気温を残したの?

 A 18世紀後半に平賀源内が寒暖計を作ってから、全国のお金持ちの間に寒暖計が流行しました。大高家のような商人はコメなどの商品相場に影響されますし、町年寄として飢饉(ききん)対策のためにも、気温から作物の収穫高を予想する必要があったのではないでしょうか。

 Q 仕事のために測っていたの?

 A 使命感を持っていたようです。朝五つ時に計測するというのは幕府が採用した全国的な観測方式で、私的ではなく公的な方式を用いています。水戸は徳川御三家の一つで江戸にも近く、幕府の情報などが入ってきやすかったことも影響しているのでは。

 Q 江戸時代の気温を記録した史料は珍しいの?

 A 同時期の気象記録は極めて少なく、約15年という長期間の記録は非常に価値があります。幕府のある江戸や奉行所のある大阪のような大都市ではなく、地方都市で個人がつけたものとしてはおそらく唯一の存在でしょう。

 Q これまでは着目されていなかったの?

 A 史料としての「大高氏記録」自体は有名でしたが、もっぱら政治史の分野で活用されるものでした。当然一つの史料でも時代によってさまざまな視点から解釈ができるわけで、地球温暖化に注目が集まる今だからこそ意味が大きくなったと言えるでしょう。

==============

 ■ことば

 ◇大高氏記録
 水戸藩の商人、大高氏が江戸後期から明治初期に残した日記。1852(嘉永5)~1868(明治元)年までの約15年間にわたり、定刻の朝五つ時(季節によって午前6時半~8時ごろまで変動)に寒暖計で観測された気温と天気が記されていた。当時の社会情勢や農産物の価格などのほか、季節の花の咲いた時期や地震など気象現象に関する記述も多い。原本は東京大が所蔵する。茨城大は写本を所蔵。1866(慶応2)年=旧暦=の日記は欠本。全76冊。





東京
上野松坂屋240年
あすから歴史振り返る特別展

 「上野松坂屋」(台東区上野3)は、江戸時代から240年にわたる同店の歴史を振り返る特別展を2日から開く。

 同店は松坂屋の前身「いとう呉服店」が1768年、上野の呉服店「松坂屋」を買収したのが始まり。新撰組の土方歳三が11歳で奉公したことで知られる。今回展示するのは同店所蔵の江戸期の衣装類や、「篤姫」が眠る寛永寺所蔵の美術品計約20点。同店が描かれた浮世絵も。

 本館7階「ロイヤルルーム」で。入場無料。8日まで。

 ……今年最初のクリップ記事が土方さん関係とは、こいつぁ春から縁起がいいわいなぁ(笑)。

神奈川
横浜中華街・150年の景色:/1 市場通り/上(その2止) /神奈川
横浜中華街・150年の景色:/1 市場通り/上(その2止) /神奈川
◆芥川賞作家・楊逸さんが語る中華街

(中略)
 開港150周年の節目を迎えた横浜市。外国の文化をいち早く取り入れ、国際性豊かな街をはぐくんできた。「日本の近代史のポイントを探すのであれば横浜」と楊さん。そして「横浜は日本の先駆け。この1年、どう過ごすのか注目されていると思います。日本の歴史にいろいろ書き残せる1年になればいいですね」と期待を寄せた。【野口由紀】



新潟
にぎわい再び:新潟開港140年/1 北東アジアの玄関口へ(その1) /新潟
にぎわい再び:新潟開港140年/1 北東アジアの玄関口へ(その1) /新潟
◇苦難乗り越え、北東アジアの玄関口へ

 新潟港はきょう、開港140年を迎えた。幕末から明治にかけて、鎖国の殻を破っていち早く世界へ扉を開いた開港5港の一つだが、横浜、長崎、函館、神戸に比べると、新潟は港町のイメージが薄い。1000年以上前から船が行き交い、北前船の寄港地として栄えた歴史をもちながら、信濃川の河口に立地する川湊(かわみなと)だったことが、近代の港としては発展の障壁になった。<みなとまち>のにぎわいを取り戻したいと、活動してきた人々の心意気を追った。【黒田阿紗子】




福井
左内の心を体現 全国36県で「立志式」
 幕末の福井藩士、橋本左内が残した立志の心は、没後150年を迎えた今も全国で息づく。満14歳で自己規範の書「啓発録」を著した左内のように、中学2年生が将来の夢などを発表する「立志式」は少なくとも全国36県で行われている。本紙の各教育委員会への聞き取りで分かった。
 立志式は生徒たちが将来の夢などを作文につづり保護者らの前で発表する行事。かつての元服に由来し、昭和40年代に児童団体が提唱したことなどが、普及した理由の一つとされる。
 14歳にして人生の教訓に富む啓発録を書いた左内は「立志の人」の代表格。式に合わせて左内について学ぶ習慣は、故郷の福井市にとどまらない。


三重
「ええじゃないかお伊勢参り」
和装で参加しませんか 11日実施

 景気の悪化も、ええじゃないかで吹き飛ばそう――。伊勢市の「伊勢ええじゃない会」(石川雄一郎会長)は、11日に行う和装の「ええじゃないか華のお伊勢参り」の参加を呼びかけている。
 同会は伊勢市を中心とした20~30歳代の20~30人で構成。愛知県豊橋市が発祥といわれる幕末の「ええじゃないか」騒動に共感し、2005年から新春に和装でにぎやかに伊勢神宮に参拝する催しを開いている。


滋賀
大河「篤姫」井伊直弼役・中村梅雀さん
 滋賀から日本を変えた人物が幕末にいた。彦根藩主で江戸幕府の大老も務めた井伊直弼だ。開国を推し進める一方、安政の大獄を断行して恐れられもした。現在もその功績の評価が分かれることこそ、激動の時代を駆け抜けた証左だろう。情熱たぎる傑物をNHK大河ドラマ「篤姫」で演じた俳優中村梅雀さんが語る。


 彦根藩主の十四男として生まれて部屋住みだったころ、学問や武道、世間を見る目などをとことん磨いて極めたところに、井伊直弼のすごみがある。だからこそ、いざ世の中をつかさどっていく立場になった途端、これまでに培ったものが一気に開花し、発揮された。
 当時の日本にとって何が危機であり、乗り切るために何をすべきか、安政の大獄や日米修好通商条約の締結などを強行するからには自分がどういう目に遭うのか、直弼はわかっていたんじゃないか。日本が異国の文化や科学に制圧されてしまう前に、国内を変革して日本人の手で受け入れていく素地をつくっておくべきだという信念を持っていた。
 「篤姫」では演出上、悪役に振る舞わなければいけない。地元の彦根の方々には「あんなひどい描き方はない」という反感もあったはず。しかし、篤姫と対峙して少しだけ心を通わせた茶室の場面や桜田門外の変の場面まで見た視聴者に、もう一度最初に直弼が登場した頃を振り返ってもらえれば「決してただの悪人ではない」と納得してもらえると思う。何を考えているのか読めない不気味さの奥に未来を見据える眼力を持った人物を意識して演じた。
 暗殺されたとき、直弼は「これで務めは終わった」と潔い気持ちだったんじゃないかな。今後の日本がどうなるのかという一抹の不安を抱く一方、己は日本の将来を決めるにあたって一つの布石を打ったという自負もあった。死んでいくけれども思い残すことはない、と。臨終の際の無言の芝居には、そんな思いを詰め込んだつもりです。


中村梅雀(なかむら・ばいじゃく)
東京生まれ、53歳。歌舞伎、演劇、映画、TVドラマなど芸域は広い。NHK大河ドラマ「篤姫」で井伊直弼を演じ、3月放送開始のNHK連続テレビ小説「つばさ」には主人公の父親役で出演する。ベース、ギター奏者としても活躍し、昨秋に初のソロCD「ブライト・フォーチュン」を発売した。祖父は前進座創立に携わった中村翫右衛門、父は中村梅之助。


京都
マスコット・キャラクター:府内のキャラ大集合!(その1) /京都
◇いくつ知ってる?
 滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が大人気となり、奈良県の平城遷都1300年記念事業で「せんとくん」「まんとくん」「なーむくん」の3者が競い合うなど、マスコット・キャラクターへの注目が続く。府内にはどんな面々がいるのか。毎日新聞の取材班が調べてみると、その多さに驚いた。「活性化につなげたい」「市民に親しみを持ってもらいたい」「注目を集めたい」など、狙いはさまざまだが、いずれもより良い未来への思いが込められている。取材班が集めることのできたものを図鑑のように並べて紹介する。【府内キャラ取材班】
(中略)
<20>四条大宮商店街振興組合▽まことちゃん▽93年▽新選組の沖田総司


山口
幕末の激戦モノ語る写文集
 山口県田布施町麻郷の写真愛好家南野繁さん(67)が、幕末に江戸幕府と長州藩の間に起こった大島口の戦い(1866年)をテーマにした写文集「写真散歩 大島口の戦い」を自費出版した。激戦の舞台だった周防大島町など県内外の史跡を、趣のあるモノクロ写真で丁寧に切り取っている。

 「大島近辺の諸隊」「高杉晋作の奇襲」など10章で構成。周防大島出身の世良修蔵や晋作ら維新志士の顕彰碑や墓碑をはじめ、第二奇兵隊の本陣跡、幕府軍軍艦の弾痕などの写真218枚を載せ、1枚ごとに簡単な説明文を添えている。

 A5判、223ページ。500冊を印刷し、田布施町と近隣の中高校、図書館などに約150冊を寄贈した。希望者にも提供する。価格は読者が決めて南野さんの口座に振り込む。南野さん=出羽名0820(55)5846。


福岡
九大:発見!お宝ザックザク(その1) 東大、京大しのぐ資料740万点 /福岡
九大:発見!お宝ザックザク(その1) 東大、京大しのぐ資料740万点 /福岡
 重い扉の向こうに、古今東西の珍品名宝がザックザク--。「初夢」のお話ではありません。正真正銘、何しろ持ち主が九州大学ですから折り紙付き。偉い学者先生たちが集めましたる資料・標本の山、実に約740万点! 東大、京大をはるかにしのいで全国1位。華麗なる秘蔵品のほんの一端をご覧に入れましょう。【阿部周一】
(中略)
(2)青い目が見たニッポン

 長崎・出島のオランダ商館医として幕末の日本をつぶさに見聞したドイツ人医師シーボルト。博物学者でもあった彼が帰国後の1832年に出版を始めた著書「NIPPON」の初版本が付属図書館医学分館に所蔵されている。法医学研究室が購入し、第2版以降にはない大型図版が付いた世界的にも数少ない一級資料だ。シーボルトが滞日した当時の制度や風習が細かく紹介されているほか、長崎港や関門海峡などの軍事的に重要な地点は水深まで記された地図も残されている。ちなみに購入は1926(大正15)年で3000円だった。
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