新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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柳家花緑「あたま山」柳家喬太郎「竹の水仙」を再生しながら書いてます。
北海道
「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」に手づくり郷土賞
岩手
宮古で11月、新撰組サミット 模擬海戦や仮装行列も
千葉
江戸の庶民、めざすは料亭、長者… 佐倉で双六展
大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/192 花外楼 /大阪
高知
「幕末の暮らし」体感施設に 龍馬伝生家セット
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松陰・晋作…かるたに維新志士 萩ゆかり50人の似顔絵
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三重津海軍所跡:30メートルの直線護岸確認--22日に一般公開 /佐賀
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長崎龍馬会が墓前ウォーク 幕末の志士に思いはせ
サヨナラ龍馬アバヨ弥太郎-長崎の龍馬伝館、40万人超え閉幕 /長崎
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霧島の龍馬館で羽織盗まれる、記念撮影用の特注品
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(96)東大教授・山内昌之 寺島宗則(下) 政治原理と暫定措置
北海道
「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」に手づくり郷土賞
【木古内】国土交通省は12日、本年度の国土交通大臣表彰「手づくり郷土(ふるさと)賞」の受賞団体を発表した。道内からは木古内町のまちづくり団体「咸臨丸とサラキ岬に夢みる会」(久保義則会長)など2団体の活動が受賞した。会員らは「地道にやってきた成果。活動の励みになる」と喜んでいる。
同賞は、自然や文化、歴史など地域の魅力や個性を生かした活動を行う団体に贈られる賞。本年度の道内の受賞は同会など2団体。道南で受賞したのは、2006年度の「函館野外劇の会」以来、4団体目。
受賞理由で「住民自らが考え行動し観光交流拠点として整備し、地域の活性化に寄与している」と住民のボランティア活動を高く評価した。
同会は、2004年10月に発足。サラキ岬沖で座礁、沈没した幕末の軍艦「咸臨丸」をまちづくりに結びつけようと活動している。国道228号沿いにあるサラキ岬の公園の整備は、住民有志のボランティアに支えられてきた。これまでに同艦の模型設置や花壇整備を行い、5月初旬に開いているチューリップ祭りには多くの観光客が訪れるようになった。
久保会長は「訪れる人がもっと楽しめるように、サラキ岬を公園として充実させるため汗を流したい」と気持ちを新たにしている。
また、今年は同艦が沈没してから140年の節目で、9月には同艦にゆかりのある自治体の関係者を招き、「咸臨丸サミット」開催を予定している。多田賢淳事務局長は「手作りの活動が評価されうれしい。サミット開催に向けて受賞は弾みになる」と話している。認定証の授与式は2月8日に町役場で行う予定。
岩手
宮古で11月、新撰組サミット 模擬海戦や仮装行列も
宮古観光協会(沢田克司会長)は11月、宮古市内で第12回全国新撰組サミットin宮古を開催する。全国の新撰組や幕末の歴史ファンが集うサミットは県内初の開催。副長の土方歳三らが参戦した宮古港海戦にスポットを当て、ファンが新撰組の羽織を着る仮装パレードや隊士の子孫による講演会などを計画。宮古を歴史ロマンで盛り上げる。
サミットは、全国の新撰組ファンの交流促進とまちおこしなどを目的に年1回開催。第1回の東京都日野市から京都市、福島県会津若松市など新撰組にゆかりのある全国各地で開かれ例年、全国の新撰組ファン約100人が集う。
宮古港海戦は1869(明治2)年、宮古市の宮古港で榎本武揚率いる旧幕府軍と明治政府軍が戦った。日本初の洋式海戦として知られ、旧幕府軍には土方らが参戦した。
住民有志が宮古港海戦を研究し、サミットの開催地に立候補。日野市の日野新撰組同好会(峯岸弘行名誉局長)などのアドバイスを受けて先月、開催地に決まった。
サミットは11月の2日間開催し、隊士の子孫らによる講演や、市中心部を新撰組の羽織を着て練り歩く仮装パレード、客船を使った模擬海戦などを計画している。浄土ケ浜にある宮古港海戦の碑などゆかりの史跡巡りも予定する。
今後、サミットに参加する市民ボランティアを募集。5月には、浄土ケ浜でPRイベントを計画している。沢田会長は「宮古の閉塞(へいそく)状況を打破するために、市民も巻き込んだ面白いサミットを開催したい」と意気込む。
宮古港海戦とは 1869年5月6日に明治政府軍と旧幕府軍が争った海戦。土方歳三が戦艦「回天」に乗り込み、宮古港に停泊していた政府軍の最新鋭艦「甲鉄」奪取を決行したが、失敗した。回天を甲鉄に接舷させて斬り込むアボルダージュ作戦は、映画「ラストサムライ」のモデルといわれるフランス陸軍士官ジュール・ブリュネらが授けたとされる。
【写真=宮古市の浄土ケ浜にある宮古港海戦の記念碑。市内では11月、全国新撰組サミットが県内初開催される】
千葉
江戸の庶民、めざすは料亭、長者… 佐倉で双六展
佐倉市の国立歴史民俗博物館で、正月の遊びとしておなじみの「双六(すごろく)の小宇宙」展が開かれている。展示は江戸末期、明治の絵双六が中心。当時の世相と都市文化が、大判の色彩鮮やかな絵とともに浮かび上がる。
同館は約260点の双六を所蔵しており、今回はそのうち30点を展示している。
興味深いのは「新版御府内流行名物案内双六」。日本橋の朝市を振り出しに、麦飯、そばなどを経て江戸の超高級料亭の「山谷の八百善」「深川の平清」にたどり着く趣向だ。さながら、料理店ガイドで知られる「ミシュラン」の幕末版だ。
「春興手習(てならい)出精双六」は歌川広重の絵。現代の塾通いとそっくりだ。母親に手を引かれ寺子屋に入門するのが振り出しで、机を担いで去る「はもん(破門)」、罰をくらう「留(とめ)られ」もある。教えに従わず、勉強をしない子には罰が待っていたのだろう。
「新版主従心得寿語録」は奉公人が長者を目指す、江戸の「人生ゲーム」。小僧の出身地が近江、伊勢となっているのは、江戸で成功した近江商人、伊勢商人が多かったことを映すものだ。
「御大名出世双六」は幕府の官制の中で奉行、側用人、老中と出世しながら上がりを目指す。ただし「上」のマスには職名がない。当然そこは「将軍」の座。恐れ多いと遠慮したようだ。
古代からあった白黒の駒で遊ぶ盤双六は、江戸時代には衰え、出世双六や旅、行楽がテーマの道中双六、名所双六、妖怪双六などの絵双六がはやる。数千枚を刷り、今の価格だと1枚数百円から2千円程度で売ったとみられる。
同博物館の大久保純一教授は「双六は視覚的に知識を伝え、流行を知る機能があった。子どもは遊びながら知識を身につけることにつながった。その時代の人々の関心や、時代の空気を読み取ることもできる」と話している。
30日まで。入館料は一般が420円、高校・大学生が250円。1~6展示室を見られる。土曜日は高校生無料。問い合わせは同館(043・486・0123)へ。(高山修一)
大阪
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/192 花外楼 /大阪
◆大阪市中央区
◇伊助の魂、受け継ぐ 幕末から明治、逸話数多く
木戸孝允や伊藤博文ら明治の元勲たちが出入りした北浜の料亭、花外楼には、数々の逸話が残る。5代目女将(おかみ)の徳光正子さん(61)に伺った。
まずは、幕末に花外楼と名を変える前の加賀伊を開いた徳光伊助。「祖母から伝え聞いた話によりますと、伊助は男気があった人。大坂は与力、同心が少ない町で、伊助がウンと言わないと、手を出せなかったそうです」
幕府に逆らおうとする志士たちと親しく付き合うには、それ相応の覚悟があったはず。「木戸さんも伊藤さんも、当時は若人ですよね。次の時代のリーダーになる人。でも伊助は、そういう人を利用しようという考え方も嫌い」
花外楼と名を変えた後、伊助は通りを挟んだ南側に3階建てで100畳敷の宴会場を持つ別館を建てた。従来の花外楼を浜座敷、新館を陸座敷と称した。時の府知事が「その両方を結ぶ陸橋を架けてやろう」と勧めたが、伊助は「大阪が橋だらけになる」と断ったという。派手さを嫌い、頑固一徹な人物像が浮かび上がってくる。ゆえに「花街の華やかな人たちからは煙たがられたとも聞いてます」というのも、むべなるかな。
その気質は、娘のお悦にも引き継がれた。幕末のこと。大久保利通や木戸らが集っていた加賀伊に、新撰組の近藤勇が刀を手に飛び込んできた。「桂(小五郎、木戸孝允のこと)がいるだろう」と問い詰める近藤に、玄関番をしていたまだ幼いお悦は「そんな人はいやはりゃしません」とこともなげに答え、近藤を追い返したというから、えらいものだ。
お悦は木戸に可愛がられ、御霊神社の夜店に連れて行ってもらって、人形などを買ってもらったという。また、長じては、伊藤博文が宿泊した時、警護のため外で徹夜で立ち番をしている警官を気の毒に思い、伊藤に紙と筆を渡して「何か書いてあげてください」と頼んだとか、陸奥宗光に外遊みやげの洋傘をもらって、うれしさのあまり座敷で差して見せたとか、エピソードに事欠かない。
その娘で、正子さんの祖母、孝は幼い頃、井上馨に来客があると、後ろからうちわをあおぐのがお役目。眠くなって手が止まると、井上は「お孝、風がのうなったのう」と言ったという。そのお孝さんは、女学校で学んで、跡を継ぐのを嫌っていたが、時の総理大臣、桂太郎に説かれて3代目女将となる。
余談ながら、お孝さんの兄、衣城は大阪毎日新聞の11代目の社会部長だった。社会部史には「あの花外楼のぼんぼん出身とは考えられぬ獰猛(どうもう)な面構えと、あの炯々(けいけい)たる眼光が、社会部長としての凄(すご)いエネルギーを象徴しているかに見えた。一秒間もジッとしていない社会部長」と横顔が記されている。ああ、恐ろしい。
長男は代々伊助を継ぐものだったが、跡を継ぐのを嫌って記者になり、衣城を名乗った。正子さんは「鬼瓦みたいな顔をして怖かったですね」と、伯父の印象を語る。正子の名は、実は衣城が付けた。「これからの時代は単純でなきゃあかん」というわけだったそうだ。
1911(明治44)年に木造3階建てに建て替えられた花外楼が、今のビルに建て替わったのは1964年。蛇足ながら、私の生まれた年だ。それを記念して、花登筺が芝居を書き、東西で上演された。正子さんは言う。「花外楼は大阪の歴史だと思っています。私たちのものであって、私たちのものでない」と。
窓外には、土佐堀川を挟んで中之島が見える。大阪会議が開かれた時、中之島の東端はまだここまで延びていない。木戸や伊藤が見た景色はまた異なる。
ユリカモメが乱れ飛び、コンクリートの塀に並んで羽を休める。「うちでパンくずのエサをやってるんです。季節によって、オシドリやサギ、セキレイなんかも来るようになったんですよ」と女将さん。川面が冬の陽(ひ)にきらめいていた。【松井宏員】
高知
「幕末の暮らし」体感施設に 龍馬伝生家セット
県内で3月5日に開幕する観光イベント「志国(しこく)高知龍馬ふるさと博」の内容を検討する運営委員会の3回目の会合が14日、高知市丸ノ内の高知城ホールで開かれた。JR高知駅前に新設し、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家のセットを展示するパビリオンのイメージ図が完成。幕末の暮らしが体感できる施設にするという。
新パビリオン「『龍馬伝』幕末志士社中」(約600平方メートル)は7月9日に開館。龍馬の生家のセットが丸ごと移築され、龍馬の部屋や居間などを再現。調度品も幕末頃の物に似せ、「当時の人たちの声が聞こえてくるような雰囲気にする」という。
新パビリオンと、現在使われている隣接の観光情報発信館「とさてらす」を総称し、駅前会場一帯を「こうち旅広場」と命名した。
また、ふるさと博初日の3月5日は、同時開幕する「土佐の『おきゃく』2011」のメーン会場・高知市中央公園で、「龍馬伝」の出演者らを招いたイベントを行うことを決めた。歴史好きアイドル「歴ドル」の美甘子(みかこ)さん、県立坂本龍馬記念館職員らも参加し、龍馬についてのトークを行う。会場ではシャモ鍋をふるまう。桂浜でもイベントを行う予定。
期間中、土佐の偉人を紹介する施設として、佐川町立青山文庫など9施設を選定。さらに「花」「食」などのテーマや季節ごとに関連企画を広げていく。委員の一人は「スタンプラリーのように各施設を巡ってもらい、携帯端末から観光情報を得られる仕組みが必要」と指摘した。
次回は2月初旬に開き、新パビリオンの具体内容などについて検討する。
(2011年1月15日 読売新聞)
山口
松陰・晋作…かるたに維新志士 萩ゆかり50人の似顔絵
山口県萩市ゆかりの幕末の志士ら50人の似顔絵がユーモアたっぷりに描かれたかるたができた。吉田松陰や高杉晋作、伊藤博文らそうそうたる面々が並ぶ。
NPO法人「維新・人・夢浪漫」が、維新の街をPRしようと、週刊朝日の似顔絵塾で入賞歴もある地元のイラストレーター俵屋猛さんに依頼し、3千部作った。
萩、長門両市の小中高校などに無料で配り、残りは1部1千円で販売する(0838・22・1855)。偉大な先達に、萩の魅力アップと活動資金の確保を託す。
佐賀
三重津海軍所跡:30メートルの直線護岸確認--22日に一般公開 /佐賀
◇市教委「ドック構造解明に前進」
佐賀藩の幕末遺産の三重津海軍所跡(佐賀市川副、諸富町)の発掘調査で、佐賀市教委は14日、海軍所のドック北側の護岸を30メートルにわたって確認したと発表した。船が出入りした開口部付近の木製護岸も出土し、市教委は「ドックの構造解明に一歩近づいた」と位置づけている。22日に一般公開される。【姜弘修】
確認されたのは、09年に見つかった階段状の護岸から早津江川に向かって延びた約30メートルの護岸。ドック護岸を曲線的に描いた大正期の絵図と違い、直線的な構造だったことが判明した。
今回出土した開口部に近い護岸は木板をクイで留める簡易な構造をしており、木板は和船の板材を転用したとみられ、船くぎで固定されていた。
これでドックは階段状の造りと簡易な造りとが組み合わさった構造と分かり、より強固な階段状の部分には重量のある構造物などがあったと推測されるため、さらに発掘調査を続けている。
一般公開は22日午前9時半から、現場の佐野記念公園で。少雨決行。遺構は今月末に埋め戻すため、ドック跡を直接見られる貴重な機会という。
長崎
長崎龍馬会が墓前ウォーク 幕末の志士に思いはせ
幕末の志士、坂本龍馬とともに活躍した海援隊の隊士らが眠る墓などを巡る「亀山社中・海援隊墓前ウォーク」が15日、長崎市内であった。龍馬の顕彰活動に取り組む長崎龍馬会(馬渡善裕会長)の主催で19回目。会員ら10人ほどが参加した。
一行は風頭公園(同市伊良林3丁目)の龍馬像前をスタート。同公園内の上野彦馬や、晧台寺(同市寺町)にある近藤長次郎、高島秋帆の墓などを訪れた。墓前では線香を供えて手を合わせ、それぞれの功績に思いをはせた。
同会・龍馬楽校長の柴崎賀広さん(54)は「龍馬伝の放映も終わり、彼らの活躍が認知されてきた今こそ、イベントなどに力を入れていきたい」と話した。
サヨナラ龍馬アバヨ弥太郎-長崎の龍馬伝館、40万人超え閉幕 /長崎
長崎歴史文化博物館(長崎市立山)の長崎奉行所・龍馬伝館が1月10日、閉幕した。昨年1月9日にオープンして以来、約47万人の入場者が同館を訪れ、当初の目標だった40万人を大きく超えた。(長崎経済新聞)
【画像】 かわち屋による祝餅つきパフォーマンスで会場が盛り上がる
最終日は、同館のエントランスホールで「サヨナラ龍馬!アバヨ弥太郎!」と題した閉幕記念イベントが開催され、長崎を中心に活動する10組のミュージシャンらが出演。歌や舞、オペラ、和太鼓の演奏、餅つきパフォーマンス、月琴を中心にした長崎らしい音楽などで、終日同館をにぎやかな音色で包み込んだ。龍馬伝館が閉館した19時以降もイベントは続き、多くの人が同館との別れを惜しんだ。
今回のイベントをプロデュースしたプレイタイム・ロックの高浪慶太郎さんは「龍馬が盛り上げてくれた長崎の宴は終わるが、これを機会に芽生えた幕末長崎への興味をブームに終わらせたくない。この興味を根付かせるための始まりが今日」と笑顔で話す。同館によると、期間中の博物館全体での来場者数は約107万人だったという。
龍馬伝館の後は、大河ドラマ50作記念企画「長崎奉行所・大河ドラマ館」として生まれ変わる。1963(昭和38)年「花の生涯」から2011年「江~姫たちの戦国~」までの大河ドラマを一挙に紹介する予定。会期は2月11日~10月30日。観覧料は500円
鹿児島
霧島の龍馬館で羽織盗まれる、記念撮影用の特注品
幕末の志士・坂本龍馬が妻のお龍と「日本初の新婚旅行」で訪れたことにちなむ霧島市牧園町の塩浸
しおひたし
温泉龍馬公園資料館で8日未明、来館者の記念撮影用に展示していた特注の大人用羽織1枚(約10万円相当)が盗まれているのが見つかった。横川署が窃盗などの疑いで捜査している。
施設を管理する市によると、午前4時25分頃、委託している警備会社の警報が作動。20分後に同社の社員が横川署員とともに駆け付けたところ、受付窓口のガラスが割られて鍵が開けられていた。犯人は逃走した後だったという。
資料館は7日、平常通り午後6時まで開館していた。盗まれた羽織は、企画展を開いているNHKエンタープライズが展示した資料の一つ。昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で龍馬を演じた福山雅治さんが撮影で使った羽織やサイン色紙などもあったが、ほかに盗まれた物はなかったという。
前田終止市長は「犯人は、命をかけて日本を変えた坂本龍馬の志を理解し、一刻も早く自首してほしい」とコメントした。
(2011年1月9日 読売新聞)
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(96)東大教授・山内昌之 寺島宗則(下) 政治原理と暫定措置
「公使の暴走」憂慮
1810年以来3度もオスマン帝国に在勤した英国外交官のストラトフォード・カニング(レドクリフ子爵)は、クリミア戦争の処理にあたった3度目の在勤が1842年から58年まで及んだほどだ。トルコ語で「大・大使」という敬称をつけられたのも理解できる。日本駐在のパークス英公使の力も、カニングほどではないにせよ、かなりの威勢を示した。
パークスは税権回復に断固反対したが、これは関税自主権回復をさしあたり断念し協定税率の引き上げによる貿易協定の実現に満足すべきだと主張した欧州在勤の日本公使たちの意見にも近い。しかも、英独に駐在する公使は条約改正の国際会議をロンドンで開きたいという英国の提案を各国別交渉ならよいと条件を付けて同意する有り様であった。
五百旗頭(いおきべ)薫氏が著書の中で時に「日本公使の暴走」と呼ぶような事態は、寺島を嫌な気分にさせたに違いない(『条約改正史』)。どの公使も幕末には薩長の志士であり寺島を同格に見ていたにせよ、交渉開始は大臣の発議によるべきだという“明治の政治家主導”の理念をないがしろにしていたからだ。
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寺島の理念は正しかったにせよ、大隈重信が条約改正御用掛となり欧州在勤公使にも交渉の善後策をつけるように命じられた。西南戦争後の財政難に苦しむ政府部内には、関税収入の増加を求めるあまり、関税自主権回復を後に回して、改正交渉をとにかく協定関税の引き上げに限定しようとする動きが台頭していた。大蔵卿(きょう)の大隈はその筆頭だったといってもよい。
しかし寺島は、あくまでも関税自主権の回復を最優先とし、具体的な税目の交渉を始める作業を拒否した。財源の拡充をプラグマチックに求める大隈と、税権回復の原理的立場を譲らない寺島との亀裂は大きすぎる。閣内不一致ともいうべき事態は、完敗した寺島がまもなく外務省を去って文部卿に横滑りすることでひとまず避けられた。
百年の大計正面から
大隈の主張は傍目(はため)には“軟弱外交”のそしりを免れない。税権を回復できない代償として、満足な改正が失敗した場合に条約を廃棄する権利の承認や行政規則の制定権回復を目指すことが明言されたが、これは世論の批判をかわすためであった。
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外交の自主性から判断する限り寺島の方針は正論であり、大隈はあまりにも御都合主義にすぎる。寺島は外国語に堪能であり誰よりも泰西(たいせい)事情に通じていた。不平等条約改正という究極的願望はたやすく実現しがたく、大隈のように、何らかの妥協によって暫定的な協定が必要なことも知らないわけでなかった。しかし彼の知性は、暫定措置といえども常に「最終目標の光の下」に位置づけられるべきだったのである。
こう語った五百旗頭氏は、政治家たる者目標にたどりつくためには状況に対応しながら、いくつもの段階を踏破しなければならず、その態度は主客転じるかのように変転することもあると適切に指摘している。「その間、最終目標の大きな部分をかなり長い間断念しなければならない。このような政治家として振る舞うには、寺島はあまりにも謹厳であった」(『条約改正史』)
言い換えれば、寺島は大隈のように懸案を何でも実用的に片付けがちな手法を許せず、国家百年の大計にかかわる課題を暫定措置として扱う大雑把(おおざっぱ)さを許せなかったともいえよう。実際に、挫折したとはいえ、条約改正のような大命題をあくまでも正面からとりあげる寺島の気迫と信念には学ぶべき点も多い。
実直さが歴史的意義残す
さて、来年度以降の予算編成には抜本的な税制の見直しが必要なことが誰の目にも否定できなくなった。去年の参院選挙で菅首相が消費税引き上げを示唆したのは正しく、そのまま国民を相手に丁寧に信念を貫けばよかったのである。
もちろん、先行きは簡単でなく寺島のように条約改正挫折の責任をとって地位を退く危険性もあった。しかし指導者には、どの時代、どの世界でも政治的危機を絶好の機会に変える才も要求される。明治の条約改正は、四面楚歌(しめんそか)の状態でも自説を曲げなかった寺島の先駆的挑戦を基盤に実現したものだ。菅首相が消費税問題でリスクをとり政権交代と民主党政治の意味を後世に残す政治家となるのは難しいことではない。(やまうち まさゆき)
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