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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
静岡
反射炉パンオブジェも 伊豆の国「パン祖のパン祭」
 世界遺産の韮山反射炉築造に尽力した韮山代官江川太郎左衛門が日本で初めてパンを製造したことにちなんだイベント「第10回パン祖のパン祭」(伊豆の国市観光協会、同実行委員会主催)が16日、同市の韮山時代劇場で始まった。17日まで。
 静岡県内外の有名店が会場にブースを並べ、多彩なパンを販売した。ステージでは、子供たちによるパン食いゲーム、生地のばしコンテストなど、パンを使ったさまざまな企画を開催した。
 恒例の田方農業高による巨大パンオブジェの今年の題材は韮山反射炉。食品科学科3年生3人が中心となり、約1カ月かけて高さ約2・3メートル、幅約4メートルの反射炉を製作し、ステージに展示した。
 「全国高校生パンコンテスト」の実技審査では、書類審査を通過した生徒20人が「カリフォルニア・レーズン」「地産地消」「手仕込み」の3部門で腕前を競った。

福島
「五代さま」に会える! "朝ドラ"効果、桑折の特別展が人気
 本県出身の俳優ディーン・フジオカさんが演じていた、NHK連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物、五代友厚(大阪商工会議所初代会頭)が22日の放送で最期を迎えた。五代が産出量を国内一にした半田銀山がある桑折町では「五代さま」を紹介する特別展が開かれており、ドラマ人気に合わせ来場者が増えている。

 五代は、江戸時代に佐渡金山、生野銀山と共に「日本3大鉱山」と称され幕末に閉山した半田銀山を、欧米式の技術を導入し復活させた。同町の旧伊達郡役所(町文化記念館)で開かれている町主催の特別展「半田銀山と五代友厚の足跡」では、五代の半生を記したパネルや銀山ゆかりの品が展示されている。

 町は今月5日の開幕に合わせパンフレットを100部用意。しかし初日で半分がなくなったため、町役場のカラーコピー機で300部増刷した。「予想を上回る反響だった」と担当者。来場者のペースは衰えず、町はさらに印刷会社に3000部を依頼した。特別展開始から1週間の来場者数は319人で、前年同期と比べ同館の利用者は約10倍になった。

 福島市の主婦薮内寿美子さん(66)は「毎朝起きるのが楽しみ」というほどの「朝ドラ」ファン。五代の死に「残念。もう少し長く見たかった」と肩を落とすが「特別展を見れば五代が女性、男性を問わず心を引きつけた理由が分かる。全国のファンが足を運び、福島の魅力発信につながってほしい」と話した。同展は5月8日まで。

新潟
河井継之助の志 ここにあり長岡 記念館が来館者10万人達成
 長岡市長町1の市立「河井継之助記念館」が18日、来館者10万人を達成した。2006年12月の開館から10年目での到達。関係者は「継之助には時代を見通す先見性や改革の実行力など学ぶべき点が多い。業績と人間性を今後も伝えていきたい」と張り切っている。

 継之助の終焉の地・福島県只見町には古くから記念館があったが、当の長岡には長年、こうした施設はなかった。戊辰戦争で長岡が焦土となり、市民の間で継之助の評価が割れていたことなどが背景にあった。

 だが、地方が生き残るために経済の自立を図り、民主主義思想を持っていた継之助の業績をきちんと伝えるべきだとの声が地元でも高まり、市が継之助の屋敷跡の住宅を改修し記念館を整備した。全国にファンが多く、観光資源となることも開館を後押しした。

 館内には、故司馬遼太郎さんの小説「峠」の自筆原稿や、継之助の旅日記「塵壺(ちりつぼ)」などが並ぶ。初心者にも分かりやすい図や絵のほか「熱心なファンにも飽きさせないように文字の解説パネルもなるべく多く展示している」(稲川明雄館長)のが特徴だ。毎年おおむね1万人以上が来館し、市外県外からの来館者が約半数を占め、リピーターも多いという。

 10万人目となったのは長岡市曲新町の主婦鈴木絵理さん(29)と長男の悠仁君(1)。森民夫市長から記念品が贈られた。1年ほど前に群馬県から夫の転勤で引っ越してきた絵理さんは「長岡に来るまで継之助のことは全然知らなかったが、子どもの絵本で最近初めて読んだ。今後多くを学んでいきたい」と笑顔で語った。

 記念館では今後、展示内容の継続的な更新や、記念館友の会(下田邦夫会長)と連携したイベント開催などを通じてファンをさらに増やし、将来の来館20万人、30万人を目指す考えだ。

佐賀
武雄歴史物語 佐賀の騒乱昭和10年に武器弾薬発見
 昭和10年、旧武雄鍋島家邸(現在の市文化会館)の庭から18門の大砲、200挺近い銃に加えて多くの弾薬が、偶然に見つかりました。そのうち現在も残っているのは青銅製の大砲3門だけですが、アームストロング砲やスペンサー銃なども含まれていたとされます。

 これらの武器がなぜ埋められていたのかは不明ですが、佐賀の乱が関係しているのではないかと推測されます。

 明治6年の政変で参議を辞した江藤新平や、同5年に下野していた島義勇は、明治政府の方針に対し不満を高める佐賀士族の鎮静のために、同7年1月、相次いで佐賀へ向かいました。それぞれを首領とする征韓党、憂国党も組織され、結局は、いわゆる佐賀の乱の勃発を招きます。

 武雄最後の領主であった鍋島茂昌は島義勇の従兄弟にあたることもあって、憂国党設立当初から元帥(げんすい)として参画することを懇請されていました。武雄は、当時最新式の武器を多く所有していたこと、戊辰戦争でその武器を用いた実戦を経験した多くの兵士がいたことも、理由の一つと考えられます。

 しかしながら茂昌自身は最後まで、士族の動きには同調しませんでした。それでも、士族軍からの強硬な要請で60余人の武雄士族・卒族が一時的に彼らの陣に加わったことから騒乱終結後、明治政府の審問をうけることになります。

 その中で、明治政府に届け出ていなかった武器の存在を知られないよう土中に埋めたものが、昭和10年に掘り出されたのではないかと考えられるのです。

 武雄市図書館・歴史資料館では、佐賀士族の乱における武雄の動きを追った「佐賀の乱と武雄」を2月13日から3月13日まで開催します。(武雄市図書館・歴史資料館 一ノ瀬明子)


コラム
「あさが来た」五代友厚死す! ドラマで描かれたのとは違う女性関係、福沢諭吉との因縁
実業家で大阪商法会議所の会頭の五代友厚氏が1885年9月25日、東京・築地の自邸で死去したことが、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の本日放送分(第95話)でわかった。51歳(満49歳)。死因は糖尿病と見られる。前月より眼病とあわせて療養を続けていた。葬儀は大蔵大臣・松方正義伯の発意により大阪にて執り行われる予定。

亡くなった五代友厚氏(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)。記事中言及した福沢諭吉は、じつは五代より1歳上とほぼ同世代だった。ちなみにドラマの福沢役の武田鉄矢と五代役のディーン・フジオカの年齢差は31歳

五代氏は1836年薩摩生まれ。明治維新後、官界に入ったが、やがて実業界に転じ、大阪を拠点に当地の産業の近代化に貢献した。この間、大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米紹介所、商業講習所を設立、大阪財界にあって指導的立場を担った。だが一方で、政府高官との癒着も取り沙汰され、1881年には開拓使官有物払下げ事件の中心人物として激しい非難を受けたことは記憶に新しい。

「あさが来た」の劇中ではヒロインで大阪の両替商・加野屋の白岡あさ氏にひそかに思いを寄せながら、しだいにあさの夫・新次郎氏ぐるみで心を通い合わせる仲となっていった。五代氏亡きあとの白岡夫妻、大阪財界の動向が注目される。


……と、「あさが来た」の物語と史実を組み合わせて新聞の訃報記事風にまとめてみた。だが、ドラマと史実とではもちろん違うところもある。そこでこの機会に、ドラマでは描かれなかった五代友厚像にちょっと迫ってみたい。ただし、今回のドラマで五代ファンになったという方には、ひょっとするとイメージを壊すような記述もあるかもしれない。その点、あらじめお断りしておく。

五代の妻と子供たち

「あさが来た」の五代は、あさ以外の女性には関心がなさそうで、独身者のように描かれていた。しかし現実の五代には妻も子もいたし、また明治時代の政治家・財界人の例外に漏れず、彼もまた妻以外の女性と多々関係している。

五代は生涯に、生後すぐ死んだ子も含めて10人の子供を儲けている。最初の子供(女子)は、幕末の薩摩藩士時代の赴任先・長崎で知り合った女性とのあいだに生まれた。ただしこの子は五代家の籍には入っていない。

のち明治初めに菅野豊子(外交官・森山茂の実妹とも養妹ともいわれる)という女性と結婚したが、彼女とのあいだに子供はできなかった。戸籍上の三人の娘も、べつの女性が生んだのを引き取った子たちだ。経済史学者・宮本又次の『五代友厚伝』(有斐閣)によれば、五代はそうとうな遊び人であったらしく、官界から離れたのも派手な遊蕩が一因だったともいわれている。…

結婚したときにもべつの女性とつきあっており、長女と次女はその女性とのあいだに生まれた。長女誕生のときにはさすがに正妻・豊子と五代の関係は険悪になったらしいが、それでも次女入籍のときには悶着はなかったというから、豊子はかなり人間のできた女性だったのだろう。事実、五代の秘書的な役割も果たし、また教養を身につけるべく、師について絵や文学を学んでいたという。

五代が家の外で儲けた男子はすべて、認知はしても籍には入れず庶子となった。一方で彼は、かつての恩人の甥・九里龍作に学費を出すなど援助を惜しまなかった。龍作は五代の没後、五代家へ養子に入り、五代の長女・武子と結婚する。1886年には東大工学部教授の職を辞して大阪に転居、養父の興した鉱山業を引き継いだ。

こうして女性関係を見るかぎり、ドラマと現実の五代像はずいぶんかけ離れている。たぶん、朝ドラでとりあげるにはあまりに生々しいし、物語で扱うには煩雑になるとの理由から、劇中では一切描かれなかったのだろう。ただ、せめて五代の妻は登場させ、たとえばあさのライバル的存在として描く手もあったような気もしないではない。

福沢諭吉は五代の宿敵だった!?

「あさが来た」では慶應義塾創立者の福沢諭吉が、あさに影響を与えるとともに、五代もまた福沢の教え子たちを商業講習所設置のため相談役に迎えるなど、その関係が強調されていた。しかし調べてみると、現実の五代と福沢は微妙な関係にあった。というのも、ドラマでも描かれた開拓使官有物払下げ事件(1881年)で、福沢は五代を批判する立場をとったからだ。

この事件は、北海道開発のため置いた開拓使を民間に払下げようと、開拓使長官・黒田清隆が閣議に求め、明治天皇の裁可を得たことに端を発する。その払下げ先となったのが五代の設立した関西貿易社だった。1869年の開設から10年間に約1400万円もの国費を注ぎこんだ開拓使がわずか38万余円、それも無利息・30か年賦という破格の条件で、黒田と同じ薩摩出身の五代の会社に払下げられる……このことは機密情報であったにもかかわらず、自由民権運動系の新聞にすっぱ抜かれて大騒動となる。

このとき批判の急先鋒となった福沢と政府にあって手を組んだのが大隈重信だった。福沢と大隈はともに国会の早期開設を求める自由民権論者として意気投合した。もっとも、大隈とのつきあいはじつは五代のほうが長い。互いに幕末の志士だった時代からの仲であり、財政・経済策でも思想面でも通じ合うところが多かった。…

政府に入った大隈は大久保利通とともに殖産興業政策を推進し、それを五代は財界から支援し続ける。そんな両者がこの事件で対立し、たもとを分かったのは運命の皮肉であった。

結局、開拓使払下げは伊藤博文や岩倉具視らによって中止される。伊藤たちは9年後の1890年に国会を開設することを約束する一方で、大隈を払下げの情報を新聞にリークした張本人と見なし政府から追放した。いわゆる「明治14年の政変」である。

野に下った大隈は、翌82年に東京専門学校、現在の早稲田大学を開いた。それから10余年後、広岡浅子という女性が女子大学校の創立のため奔走するなか、大隈のもとへ相談に赴いている。浅子は「あさが来た」のあさのモデルだ。このころ、大隈もちょうど専門学校を大学へと移行するにあたり募金を行なっており、浅子に「自分は広く大衆に資金を募る。女子大は財界有力者中心に」とアドバイスしたばかりか、自ら女子大学校の創立委員長となるなど協力を惜しまなかった。こうして1901年、日本女子大学校(現・日本女子大学)が開校する。「あさが来た」はまさにその開校式典のシーンから始まった。

もし、あと20年長く生きていたら……

ここまで書いてきたとおり、ドラマと史実とではさまざまな相違がある。しかし五代友厚が私利私欲を抜きに、国や大阪のために尽力したこと自体はドラマで描かれたとおりである。「男児、財産をつくるためにこの世に生を受けたのではない」が彼のモットーだった。実際、その死後には財産どころか、100万円もの借財が残された。

五代が死んだのは日本に本格的な産業革命が到来する直前だった。前出の宮本又郎は、五代がもし20年長く生きていたら、一大財閥を形成していたかもしれないと書いている(前掲、『五代友厚伝』)。

1885年10月2日に大阪・中之島の五代邸で行なわれた葬儀には、じつに一般から4800人もの参列があった。このことからも、地元の人たちの彼に対する敬愛ぶりがうかがえよう。葬儀後、棺は馬車に乗せられ、天王寺埋葬場まで大勢の人に付き従われながら運ばれた。それは盛大な行列となり、先頭が埋葬場に到着したときも、後尾はまだ4キロほど先の長堀橋あたりを歩いていたと伝えられる。

ディーン・フジオカの好演もあって、その死から130年を経てふたたび脚光を浴びた五代友厚。ドラマのなかでも惜しまれながら亡くなった「大阪経済の父」に、ここに謹んで哀悼の意を表したい。
(近藤正高)

時は幕末。鎖国中の日本人に愛されたスイス人時計師の数奇な運命
スイスの高級腕時計ブランド「ジラール・ペルゴ」を日本に広めるため、フランソワ・ペルゴ社が創立されて150年になったことを記念した「フランソワ・ペルゴ展」が去る12月19日〜24日まで横浜の「ヨコハマ創造都市センター」で開催されました。19世紀の貴重な時計などが数多く展示されるということで、興味津々のMAG2NEWSは喜び勇んで横浜まで取材に行ってまいりました。

みなとみらい線「馬車道駅」にほど近い、会場の「ヨコハマ創造都市センター」。1929年竣工の「旧第一銀行横浜支店」を改装した趣あるたたずまいが歴史を感じさせます。

スイス時計を日本へ持ち込んだ男、フランソワ・ペルゴの生涯
日本に初めてスイス時計を正式に輸入したフランソワ・ペルゴは、1834年にスイスで生まれました。実の姉であるマリー・ペルゴは、夫のコンスタン・ジラールと共に、かの有名な高級腕時計ブランド「ジラール・ペルゴ」を創立した女性です。ジラール・ペルゴ社が世界進出する中、フランソワ・ペルゴは1860年から横浜に住まいを構え、アジアでの販路を拡大。日本で初めてスイス製時計の販売を開始しました。1865年にはF.Perregaux & Co.社を設立し、1877年に亡くなるまで、ジラール・ペルゴの正規代理店を務めていたということです。

フランソワ・ペルゴ社が日本に設立されてから150年を記念した今回の展示会では、日本上陸当時を偲ばせる貴重な時計や資料がズラリと展示されました。まずは、その魅力的な時計の数々をゆっくりと見ていきましょう。

世界初とされる極薄サヴォネット懐中時計
左手前に吊されている黄金の時計は1800年頃に作られたサボネット懐中時計です。サヴォネットとはフランス語で「石けん箱」を意味します。この極薄タイプはイエローゴールドのケースで彫金、ギョーシエ彫りがほどこされたMoulinier Bautte & Cie社のものです。

右手前は1835年頃にJ.F.Bautte & Cie社で作られた、装飾ペンダント時計。ブルーを基調に、エナメル製のハーフパールの花模様がほどこされています。左奥は1820年頃Moulinier Bautte & Cie社で作られたイエローゴールド製の懐中時計。

1888年製の傑作トゥールビヨン
上写真の右手前は1888年に製造された「スリーブリッジ トゥールビヨン」です。ジラール・ペルゴの傑作とされる懐中時計も実に魅力的なクラシック時計でした。こちらは、ニューシャテル天文台の1級証明書を取得しています。ニューシャテル天文台とは、スイスで開催されていた時計の精度を競うコンクールを意味します。紋章が入ったギョーシェ彫りのゴールドケース、エナメルの文字盤を採用し、トゥールビヨンムーブメントを搭載する、当時の最先端技術を盛り込んだ高性能モデルなのです。

左手前はジラール・ペルゴ社により1860年頃製作された、小冊子型ペンダント時計。彫金とブルーエナメル装飾が施されたイエローゴールドケースが使われています。奥には1870年頃にジラール・ペルゴで製作された、十字型のペンダント時計も見えます。

兄が作ったマリン・クロノメーター
フランソワ・ペルゴの兄、アンリ・ペルゴもまた家業を支える重要な人物でした。こちらは、そのアンリ作とされ、1860年頃に出身地であり時計の聖地でもあるスイスのル・ロックルで作られたマリン・クロノメーターです。洋上で正確な時刻を刻み、また、経度を正確に割り出すことができました。

船が波にもまれても正確な時刻を示すという、水平を保つ木製ケースの作りの良さにまず感心。ブラウンにゴールドケースと白の文字盤のバランスが美しく、現代でも充分通用するデザインです。

幕末の日本人に愛された、異邦人フランソワ・ペルゴ
日本初の時計師とされるフランソワ・ペルゴは、横浜に居を構え、没後は同じく横浜にある外国人墓地に埋葬されたことでもわかるように、日本とのつながりが大変深い人物でした。大政奉還(1867年)の約3年前という幕末の江戸で、スイスと日本は通商条約を締結しましたが、そのために派遣されたエメ・アンベール使節団の特派員が、フランソワ・ペルゴだったのです。

外交官エメ・アンベールは帰国後の1870年『幕末日本図絵』を出版します。その特派員としてフランソワ・ペルゴが活躍した結果、彼自身もまた日本の文化への造詣を深めていったのです。

1870年に仏・パリの出版社であるアシェット社から2巻で発刊された、エメ・アンベール著『幕末日本図絵』。外交官からの要請で、フランソワ・ペルゴは日本の歴史、民衆伝説、おとぎ話、子供の歌などを収集。横浜の写真家から写真を抜粋してスイスに送り、同著の完成に貢献しました。

フランソワ・ペルゴの義兄であるルシアン・ランドリがニューシャーテルの自然科学博物館に寄贈したという、獅子面も往時を偲ばせます。

(以下略)
男子専科STYLE http://danshi-senka.jp/


取材・文/堀ミキヒロ
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