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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 本業が繁忙期に入りつつあり、記事検索と編集になかなか時間が取れません。最近は網羅性に目をつぶり、ぽろぽろと取りこぼしつつも、目に付いた記事を拾う程度にしておりますのでご容赦くださいませ。

茨城
龍馬ゆかりのお宝200点ぜよ 石岡で25・26日展示
 本人の肖像画や妻お龍(りょう)こと楢崎龍の着物など坂本龍馬ゆかりの品を集めた「龍馬の生きた幕末名宝展」が25、26の両日、石岡ジャスコぱれっと(石岡市石岡)の2階イベント広場で開かれる。
 着物文化の普及に努めているNPO法人「京彩都(きょうさいと)」(本部・京都市)の石岡支部などの主催。「龍馬が活躍した幕末の京都を通して、日本の着物文化に親しんでほしい」と企画した。
 古美術研究家の上田有之さん(48)=京都市在住=の個人コレクション約6千点の中から龍馬ゆかりの品約200点を今回借り受けた。
 龍馬の肖像画掛け軸、晩年にあたる寺田屋事件後の龍馬の写真、十二代酒井田柿右衛門の作となる白磁龍馬像、妻お龍所用の京都西陣織の御召(おめし)(単衣〈ひとえ〉の着物)、龍馬がひいきにしていた京都・島原の太夫の打ち掛け・かんざしなどが展示される。
 前野誠人・京彩都石岡支部長は「幕末の激動期を生き抜いた偉人たちが残した重要文化財級の貴重品ばかり。品々それぞれの歴史や由来を知れば、きっとくぎ付けになるはずです」と話している。


東京
東京・新橋を「古地図」を片手に歩く親子イベント 募集中
親子で歴史や史跡を巡りながらスイーツも!
 第一ホテル東京では、阪急阪神ホールディングスグループが現在、推進している社会貢献活動「阪急阪神 未来のゆめ・まちプロジェクト」の一環として「親子イベント~古地図を持って、親子で江戸幕末・文明文化を知ろう~」を、2010年11月20日に開催する。
 今回、江戸から明治・大正・昭和と、歴史の移り変わりとともに大きく変わった「新橋」エリアにスポットを当てる。
 そして、江戸時代に作成された「古地図」を片手に、地図に表記されている場所を探りつつ、親子で歴史や史跡を巡る内容。NPO法人「江戸前21」理事長の清田和美さんによるガイド案内、レストランでのデザートも用意しているという。
 時間は、13時から15時。参加費は1人1,500円。対象はおとなと小学校4~6年生。募集人数は15組30名。第一ホテル東京の公式ホームページから予約を受け付けている。


神奈川
幕末の教会祭壇100年余継承か、地元団体が研究「現存の可能性も」/横須賀
 旧横須賀造船所(横須賀市)内に幕末建設された天主堂(聖ルイ教会)の祭壇が、横須賀三笠教会(同市稲岡町)でも使われていた可能性が高いことが18日、「横須賀の文化遺産を考える会」の長浜つぐお代表の調査研究で分かった。三笠教会が建て替えられるまで、100年以上受け継がれていたとみられる。「横須賀の文化や精神面にも横須賀造船所が大きな礎となっている」と長浜さんは話している。
 聖ルイ教会は横須賀市内で最初のキリスト教教会として、造船所入り口近くのフランス人居留区内に1867(慶応3)年までには建てられたとみられる。80(明治13)年に任務を終えたフランス人が全員帰国し、教会は閉鎖された。しかし、司祭を務めていた神父が再建を目指し、旧教会の資材を運んで83(明治16)年、上町に中里教会を建設した。
 中里教会は太平洋戦争中も活動していたが、終戦後の1948(昭和23)年、稲岡町に移り、カトリック横須賀三笠教会として現在に至っている。
 長浜さんは7月、知人のフランス人から聖ルイ教会の拝殿内にあった祭壇の貴重な写真を入手した。1974年に三笠教会が建て替えられる前の祭壇の写真と比較。祭壇の形状や前面の彫刻のデザインから同一である可能性が高いと分析した。長浜代表は中里教会に通った経験のある信者らの証言を基に、中里教会でもこの祭壇を使っていたとみている。
 長浜代表は「祭壇は貴重なもの。今もどこかに残っている可能性もある」と話している。
 研究結果は11月3日、横須賀市深田台の市自然・人文博物館で開催される郷土研究発表会で長浜代表が報告する。問い合わせは、同博物館電話046(824)3652。


岡山
最後のアカマツ伐採 新見・松原通り 江戸期倒木の恐れ
 新見市中心部の松原通りに、1本だけ残っていた江戸時代のアカマツ(高さ18メートル、目通り周囲1・8メートル)が枯れ、倒れる危険があるため、19日、市が根元から伐採した。一帯は、旧新見藩の家老屋敷などがある観光名所で、アカマツは歴史の生き証人として観光客らに親しまれていただけに、市民らを残念がらせている。
 歴史書などによると、初代藩主・関長治が元禄年間(1688~1704)、藩と庶民を結ぶ道として長さ約100メートルの道路を作り、両側に街路樹の松約40本を植えたとされ、以来、松原通りと呼ばれてきたという。昭和30年頃まで十数本あったが、枯死や道路拡張でなくなり、市立新見図書館前の1本だけになっていた。
 最後の松が枯れた原因はマツクイムシで、市の依頼を受けた市森林組合の作業員がクレーンを使って上部の枝から順に伐採。約1時間で根元から切り倒した。年輪から樹齢約160年で、幕末頃に植え替えられたものらしいことが分かった。
 近くには、松にちなんで名付けられた明治時代の料亭「松葉」「松月」などの建物が残り、お茶会やイベントに開放され、観光ポイントの一つになっている。
 市中心部の活性化を進めている新見御殿町振興会(山本栄一会長)や観光客を案内している「新見まち歩きボランティアの会」(大西洋リーダー)は「残念だが、市民の安全が一番。早く、後継ぎの松を植えたい」としている。


広島
「幕末の動乱」展:歴史博物館で /広島
 福山市西町の県立歴史博物館で、江戸時代から幕末、明治にかけての戦乱や福山、広島両藩の動きをたどる企画展「幕末の動乱と瀬戸内海」が開かれている。11月23日まで。
 展示は第1~6章までの構成で、ペリーの来航や桜田門外の変、幕府軍による長州征討のほか、王政復古の大号令などの江戸から幕末にかけての大きな事件を、福山、広島藩などの瀬戸内海に面した諸藩とからめて紹介している。今年8月に初めて見つかった坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ「いろは丸」の外観を描いた資料などもある。
 同館(084・931・2513)の開館時間は午前9時~午後5時、月曜休館。入館料は大人700円、高校・大学生520円、小中学生350円。【高山梓】

 
山口
下関市立東行記念館
 010年6月1日、山口県下関市に「下関市立東行記念館」がオープン。
同館は、幕末の志士 高杉晋作の墓がある場所として知られる下関市吉田の東行庵内に開館。萩市が管理する晋作の遺品は所有権をめぐる訴訟の関係で展示せず、当面は奇兵隊関係の資料を紹介する予定という。


福岡
ワイル・ウエフ号の「碇石」か 新上五島、沈没海域を初調査
 NPO法人アジア水中考古学研究所(福岡市、林田憲三理事長)が16日から3日間、幕末の志士、坂本龍馬が長崎で結成した日本初の商社とされる亀山社中の専用船ワイル・ウエフ号が沈没した新上五島町潮合崎沿岸で海底を調査している。同研究所によると、この海域での調査は初めてで、17日までに碇石(いかりいし)2点を確認。使われていた年代やワ号に関係するかどうかは現時点では不明という。
 地元の有川町郷土誌(1994年発行)などによると、ワ号は薩摩藩がトーマス・グラバーから購入した木造帆船で、1866年4月、亀山社中の同志らが乗船して鹿児島に向け長崎を出港したが、暴風雨に遭い漂流。5月に潮合崎で沈没し、12人が水死したとされる。
 船には荒鉄約700石、鍋地金約20石の積み荷があり、大砲7門と小筒16門などが装備されていたともされる。事故後、福江藩が漁民らと協力して遺体や積み荷を収容した。
 今回の調査は、日本財団の助成を受けて同研究所が取り組んでいる全国的な水中遺跡の分布調査の一環。ワ号が沈没した詳しい場所を特定し、船体の残存部や積み荷などの有無、状態を確認するのが目的。
 7人の調査チームが15日に現地入りし、地元の郷土史家などから聞き取りしてワ号が沈没した海域を推定。潮合崎沿岸付近の2カ所で5人が水深18メートル程度まで潜水し、遺物の有無を目視で調査している。
 林田理事長は「今回は初期調査。沈没した場所を特定しながら今後も調査を続け、船や積み荷が今どういう状態にあるのか明らかにしていきたい」と話している。
 現場近くには龍馬が仲間の慰霊のために建てたとされる墓があり、旧有川町は墓の近くに坂本龍馬ゆかりの広場を整備。今年5月には広場の改修とともに「祈りの龍馬像」が建立、除幕され、新たな観光スポットとして注目されている。



長崎
「小曽根乾堂と長崎」テーマに講演 雲仙で17代吉郎さんと育代夫人
 幕末、長崎で坂本龍馬を物心両面で支援した小曽根乾堂(1828~85年)と当時の長崎をテーマにした小曽根家17代当主の吉郎さん(63)、夫人で「お龍さんの長崎日和」著者の育代さん(62)の講演会がこのほど、雲仙市小浜町雲仙の「森の美術館in雲仙」であった。
 同館で開催中の乾堂の書画など約100点を集めた企画展にちなんで開催。市民ら約50人が聴講した。
 育代さんは「乾堂が篆書(てんしょ)で書いた『冷眼視世』は冷めた眼(まなこ)で世の中を視(み)よ、という世代を超えた名言警句で、床の間に飾っている。勝海舟にあてた書簡には『軍艦500隻を揃(そろ)え、日本を守りたい』と記しており、龍馬はこの思想に感銘を受けたに違いない」などと話した。
 吉郎さんは、乾堂が書画に長じ、印鑑を彫っていたことに触れ「乾堂は(書画に)全部、時間と場所を書き込んでいる。印の細い線は抜群の味。竹図も上手だった」などと話しながら作品を解説。当時の社会について「長崎ではやっぱり高島秋帆先生が一番。その弟子が佐久間象山、勝海舟、吉田松陰ら」と述べながら、激動の時代を振り返った。



社会
好きな幕末有名人1位は高杉晋作、2位は?
「好きな幕末の有名人」1位は高杉晋作-。日刊スポーツで隔週木曜日に掲載する「日本史なんでもランキング」はニッカンスポーツコムと連動し、日本史にまつわる人物、出来事などを、ネット投票によって順位を付けます。

 第1回のテーマは「好きな幕末の有名人」で計598人の投票が寄せられ、トップは107票を獲得した高杉でした。

 1位 高杉晋作(107票) 長州藩では吉田松陰の下で学び、尊王攘夷(じょうい)運動に加わる。身分を問わない奇兵隊を設立。1864年8月、長州が英国など4カ国と戦った下関戦争では藩を代表して講和交渉に当たる。同年12月に伊藤俊輔(博文)らと挙兵して藩の実権を握り、討幕、薩長同盟へと動いていく。66年6月の第2次長州征伐では参謀として指揮を執り、幕府軍を敗北に追い込む。結核を患い、67年4月13日死去。享年29。
 2位 坂本龍馬(100票) 土佐藩を脱藩し、亀山社中(海援隊)を設立。薩長同盟成立、大政奉還に大きな役割を担った。1867年11月15日、京都で暗殺される。享年33。
 3位 土方歳三(76票) 新選組副長。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、会津、仙台と転戦、最後は箱館で新政府軍と戦う。1869年5月11日、同地で戦死。享年35。
 4位 西郷隆盛(42票) 薩摩藩の中心的存在として薩長同盟、王政復古に尽力。戊辰戦争では江戸総攻撃を前に勝海舟らと会談、無血開城を実現する。1877年、西南戦争で自刃。
 5位 勝海舟(40票) 幕府の軍艦奉行、新政府の海軍卿などを務め、「日本海軍生みの親」といわれる。戊辰戦争では、西郷と交渉し、江戸城無血開城に尽力した。
 6位以下は、河井継之助、吉田松陰、大久保利通、大村益次郎、桂小五郎となりました。
 次回「日本史なんでもランキング」は、11月4日(木)の日刊スポーツでお楽しみください。次回は「好きな戦国武将」のアンケート結果発表です。

 龍馬よりも高杉の方が人気あるというのがなかなか興味深いです。3位に土方さんが入るのは、ま、順当かと(*^_^*)。

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】(84)東大教授・山内昌之 広沢真臣
大官僚政治家の謎
 薩摩の小松帯刀(たてわき)と並ぶ明治新政府の柱、長州の広沢真臣も維新後すぐに世を去った。小松が病死、広沢が暗殺という違いはあるにせよ、もし健在だったなら長州では木戸孝允と同格であり、薩摩の西郷隆盛や大久保利通(としみち)にもゆうに比肩する人物であった。藩官僚から新政府中枢の大官僚政治家に成長を遂げた点で屈指の人材であり、日本の憲政で多かった中央官庁の高級官僚から保守党政治家へ転身する大型のモデルかもしれない。
 ◆とらえどころのない人物
 広沢には謎めいた要素が多い。まず『広沢真臣日記』という刊行史料がありながら、いまでもヴェールに包まれた部分が多い政治家である。
 長州藩時代の家格は、他藩では馬廻(うままわり)に相当する上中士クラスの大組(おおくみ)であり、高杉晋作や木戸や周布(すふ)政之助と同じであったから、藩政の中心に座る資格は十分にあった。事実、広沢は軍制や行政の改革に関係する職を歴任しており、この経験は新政府の行政組織を束ねる上で大きな糧(かて)になったはずだ。それでいて広沢には、どこかとらえどころのない雰囲気を醸し出すところがある。高杉や木戸のような正義派でなく、かといって椋梨藤太(むくなし・とうた)の俗論派にも属さなかった。元治元(1864)年は、禁門の変、下関戦争、第1次幕長戦争と長州にとって多事多難な時であり、主戦派の正義派が恭順派の俗論派に敗れ、多数の藩士が粛清された。その折でさえ、中間派めいた広沢は処刑を免れる。どこか保身術にたけた世渡り上手という印象も受けるのだ。
 その一方、慶応元(1865)年、高杉や伊藤俊輔らが藩の実権を掌握すると、広沢は天下晴れて政務役として藩政に戻り、慶応2年の第2次幕長戦争を指導している。
広沢の名が天下に知られるのは、藩論を一致させ厳島で勝海舟と休戦の事を談判してからのことだ。薩長同盟と討幕運動にもリーダーシップを発揮した広沢は、木戸や西郷や大久保の陰に隠れがちとはいえ、新政府では徴士(ちょうし)、参与、海陸軍務掛、大総督府参謀などを経て、民部大輔(みんぶたいふ)や参議などの顕職を歴任する華やかさであった。
 ◆「府藩県三治制」をリード
 広沢は明治4(1871)年1月に数え39歳で暗殺された。官僚政治家として競争のトップを切るはずの広沢は早々と消え、木戸や高杉のような英雄談にも乏しいせいか、人びとの記憶からも次第に忘れさられてしまった。しかし、『日記』などを読み進めると、広沢がいわゆる「府藩県三治制」の制度化に果たした役割の大きさに気がつくだろう。たとえば、慶応4(1868)年閏(うるう)4月に旧幕領や戊辰戦争で敵対した藩の没収領地から成る府県と、勤王派大名に残された藩領が併存する矛盾を抱えた地方制度が発足した。
 まもなく藩治職制で藩制の統一が図られ、明治2(1869)年に版籍奉還が断行され、郡県制度の徹底を目標とした府藩県三治の統一が目指された。それをリードした中心人物こそ広沢である。この状況は、明治4年7月の廃藩置県により府県制が敷かれるまで続くので、広沢は多数の不平士族から反感をもたれたことは疑いない。時には、薩長閥内部に下手人がいるのではと推測される始末だったが、愛妾(あいしょう)と同衾(どうきん)中に殺された事件が噂(うわさ)に噂を呼び、暗殺の真相は今もって不明である。
政府要人の西郷や大久保、木戸や山県有朋、板垣退助らは、廃藩置県に備えるべく「御親兵」を東京に集め、出身藩の改革を推し進めるためにも、参議の広沢に留守の大任を託して東京を離れることが多かった。
 文字通り、広沢は行政組織最大の実力者となったのである。明治3年7月に一体だった民部省(徴税)と大蔵省(財政)の分離を主導した大久保を支持し、長州閥の木戸や伊藤と対立したこともあった。もし広沢が生きていれば、もっぱら大久保の手で成し遂げられた国内の行政官制や地方組織の整備にも大きな役割を果たしたはずだ。その際に薩長の両巨頭がいかなる関係を取り結んだかを想像するのは、現代の大連立や部分連合の性格を考える“アタマの訓練”としても興味が尽きない。(やまうち まさゆき)
                   

【プロフィル】広沢真臣 
 ひろさわ・さねおみ 天保4(1834)年、長州(山口県)萩生まれ。藩校明倫館に学び、尊皇攘夷派の実務官僚として重用される。慶応元年(1865)年には藩の政務役となり、翌2年の第2次幕長戦争では勝海舟と会談し休戦交渉にあたる。翌3年には薩摩藩の大久保利通らと倒幕の盟約を結ぶ。維新後は民部大輔や参議など新政府の要職を歴任、版籍奉還を推進するが、明治4(1871)年私邸で暗殺された。







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