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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
10月に入り、秋本番という気候になりました。週末は25度超える暑さだったり、この週末はまた台風来襲が見込まれたり、ゆっくり秋に浸れないのが残念です。

青森
弘前で「ひとりミュージカル」公演 元劇団四季俳優が「幕末の志士」演じる
 「津軽弘前屋台村かだれ横丁」(弘前市百石町)で10月11日、劇団四季出身の俳優・伊藤丈雄さんが「坂本龍馬×ひとりミュージカル」を開催する。

酒蔵を舞台に行われた黒石公演の様子(関連画像)

 能楽師を祖父に持ち、大学在学中に2年間米国留学を経験したという伊藤さん。留学時に本場ブロードウェイのミュージカルに接したことから俳優を志し、卒業後、著名テーマパークのダンサーや劇団四季での舞台出演を経て、現在は脚本から作詞まですべてを伊藤さんが手掛ける「ひとりミュージカル」という新ジャンルを開拓。全国各地で巡業している。

 青森県内での公演は2015年5月に行った青森市と黒石市に続いて3回目。13日には八戸市でも開催する。弘前公演について、伊藤さんは「四季それぞれの美しさを持つ青森県の中でも、弘前市は名高いお城を持つ伝統ある町。歴史とかかわりのある町で、日本史をテーマにした『ひとりミュージカル』とはどういうものなのかを皆さんの目と耳で感じ取ってもらえれば」と話す。

 「初めての土地での公演は不安ばかり。しかし終わってみると地元の人たちの温かい声援に救われる」とも。「弘前で最高の舞台を届けたい」と意気込む。

 12時開場、12時半開演。チケット=3,000円。問い合わせは(担当・境さん、TEL 090-1935-5527)まで。

福島
<白虎隊士>生家跡に石碑建立プロジェクト
 戊辰戦争で新政府軍と戦い、集団自刃した会津藩の白虎隊の調査研究に取り組む「白虎隊の会」は、隊士の生家跡に石碑を設置するプロジェクトを始めた。第1弾として隊長代行を務めた篠田儀三郎と、唯一生き残った飯沼貞吉の生家の場所を調べ、会津若松市の跡地に石碑を建てた。今後、他の隊士の石碑も順次整備する計画だ。

 会は隊士の子孫や歴史ファンら全国の約150人がメンバー。義を重んじた隊士の思いを後世に伝える目的で活動する。2011年に会津若松市の飯盛山にある自刃の地に説明板、14年に強清水地区の白虎隊が戦った地に案内板を設置。それぞれで新たに分かった史実を書き記した。
 白虎隊を追悼する行事は多いが、どのように招集され、登城したかは知られていない。出陣までの経緯を明らかにしようと、ことしは生家跡の整備事業を企画。福島県の地域づくり総合支援事業に採択され、補助を受けた。
 調査の結果、篠田の生家は米代地区の建設会社の敷地、飯沼の生家は西栄町の生花店の敷地にあったことが判明。磐梯石で作った高さ1メートルの碑を建てた。
 22日は篠田の生家跡で除幕式を行い、関係者ら約30人が出席した。会津若松市の劇団「び~ひゃらら」が、出陣命令を白虎隊が受けるまでの経緯を劇で再現した。
 飯沼の孫で、白虎隊の会事務局長を務める飯沼一元さん(72)=東京都=は「白虎隊の自刃は約150年前の話だが、石碑のある場所に来ることによって、当時彼らがどういう気持ちだったかを感じ取ってもらえればうれしい」と話した。
会津まつり:武者行列に18万人超 過去最高の人出
 シルバーウイーク最終日となった23日、福島県内の観光地はにぎわいを見せた。会津若松市では、会津まつりのメインイベント「会津藩公行列」があり、過去最高の18万3000人(前年比3000人増)が来場し、武者姿の行列に沿道から声援が送られた。

 会津まつりは、戊辰戦争(1868年)で落命した会津藩士などの霊を慰め、先人をしのぶ行事として1953年から始まり、63回目。今年は鶴ケ城天守閣の再建50周年を記念し、従来の松平時代だけではなく、歴代の全藩主で編成した行列を組んだ。

 藩主に加え、新選組や白虎隊などに扮(ふん)した500人が、ほら貝や和太鼓の音に「エイエイオー」と掛け声を乗せながら市内約6.5キロを3時間半かけて練り歩いた。

 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公の新島八重を演じた綾瀬はるかさん(30)も、昨年に続き参加。沿道の観光客らに笑顔で手を振っていた。

 友人と訪れた会津若松市城南町の主婦、高柳友子さん(70)は「会津が盛り上がってくれてうれしいね」と手をたたいていた。同協会の渋谷民男事務局長(68)は「今年は初めてボランティアを募り、祭りを運営した。今後も市民による手作りの祭りにしていきたい」と話した。【宮崎稔樹】

<綾瀬はるか>出迎えてくれてありがとなし
 福島県会津若松市の会津まつりのメーン行事「会津藩公行列」が23日あり、歴代領主や白虎隊、新選組など会津ゆかりの人物に扮(ふん)した市民ら約500人が市中心部を練り歩いた。
 幕末の会津が舞台となったNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公山本八重を演じた俳優の綾瀬はるかさんが昨年に続いてドラマの衣装を着て参加。「ことしもたくさん出迎えてくれてありがとなし。皆さんの笑顔を見ることができて幸せです」と会津弁であいさつし、大きな拍手を受けた。
 鶴ケ城天守閣再建50周年のことしは、葦名直盛、伊達政宗、保科正之、松平容保ら歴代の領主や藩主の行列を編成。家臣を従え、勇壮に行進した。むつ市など、会津と交流が続く自治体の関係者も参加し、まつりを盛り上げた。

群馬
館林に長沢理玄顕彰碑
 群馬で天然痘の予防に貢献した幕末の館林藩医、長沢理玄(1815~63年)の功績を伝える顕彰碑の除幕式が4日、館林市本町で行われた。

 理玄は山形出身で、国替えになった藩主と共に館林に移住した。多くの死者を出した天然痘の予防接種「種痘」を江戸で学び、1851年、館林で初めて実施した。山形と館林で計約9000人に施したとされている。

 「館林城の再建をめざす会」の田中茂雄会長(63)が、城下の歴史を調べる中で理玄に着目。理玄の生誕200年に合わせて、顕彰碑を建てることを呼びかけた。碑は、理玄が館林に設立した種痘所の方角を向いており、初めて種痘を子供たちに施した場面を描いたカラーの絵と、功績を紹介する文章が刻まれている。

 除幕式には理玄の子孫や関係者ら約50人が集まった。子孫の長沢博さん(64)は「先祖の功績が見直されて感激している」と語った。田中さんは「碑を小学校の社会科の課外学習などに活用してもらい、子供たちに理玄の功績を伝えたい」と話している。


福井
梅田雲浜:実像探る 幕末に活躍、小浜出身の勤王の志士 郷土研究会発刊 /福井
◇徳富蘇峰も評価

 幕末に尊皇攘夷(じょうい)運動のさきがけとなった小浜出身の勤王の志士、梅田雲浜(うんぴん)(1815〜59年)の生誕200年にあたり、民間団体の小浜市郷土研究会が書籍「明治維新の扉を拓いた 梅田雲濱の実像に迫る」(A5判、196ページ、税別1800円)を発刊した。研究会が今年設立60周年を迎えたことを記念して、2013年に「生誕二百年へ」をテーマに開催した文化展の内容を基にまとめた。

 書籍では、明治から昭和のジャーナリスト徳富蘇峰が梅田雲浜を高く評価していたことに光を当てた。徳富は主宰していた国民新聞で「崎門学(朱子学の一派)の正統」として「(吉田)松陰や(橋本)左内には立派な全集が出ているのに、雲浜にはない。ただ、前者はよき背景を多く持ったがために広く高く評価されたから」と報じており、今回の書籍でもこうした人物評を詳しく紹介している。

 編集協力者で自身も「梅田雲浜の人物像」(A5判、205ページ、税別1200円)の著書のある前小浜市長の村上利夫さんは「幕府が最も恐れた人物だったためと思うが、講演録など歴史的資料があまり残されていない。そんな中、よくまとめられたと感じる」とコメントした。【高橋一隆】

宮崎
都城六烈士:戊辰戦争前、京都で自害 慰霊碑計画 市民グループが募金 /宮崎
 都城市の市民グループ「都城島津を温(たず)ねる会」が、薩摩藩などと幕府が争った戊辰戦争前に自害した「都城六烈士」を顕彰する慰霊碑の建立を計画している。六烈士は、京都・伏見の警備に派遣された都城島津家「私領一番隊」(121人)の隊士で、20歳前後の若者6人全員が身の潔白を示すために切腹した。同会は慰霊碑建立などの寄付(目標額300万円)を募っている。【重春次男】

 ◇「不遇の若者たちを知ってほしい」

 同会によると、一番隊は戊辰戦争前年の1867年12月、伏見で幕府軍の動きを偵察する斥候や警備に当たっていた。同21日夜、一番隊の隊士6人が市中を見回り、幕府側の新撰組(しんせんぐみ)らしき約30人の武装行軍を発見し、本隊へ報告に戻る途中で、武装行軍側から銃声も聞こえたという。6人は逃げ帰ったと誤解され、斥候の任務は戦わずに報告するのが本命と釈明したが、同27日未明に6人全員が京都・東寺で自害した。隊士の大峰壮之助は「武士(もののふ)の義の一筋に思い立ち、命は露も思はざりけり」との辞世の句を残した。

 当時、薩摩藩から軍律違反とされて遺骸は都城に戻されず、6人の墓碑は京都市の狐塚墓地にある。後年、任務を果たして義心に殉じたと名誉回復され、都城島津家の歴代当主が墓参しており、都城での慰霊碑建立は同会の悲願だという。

 会の平井泉会長(61)は「明治維新で近代国家を築く礎となった若者たちが都城にもいた。その途上で、不遇にも亡くなった六烈士のみたまを里帰りさせ、六烈士のことを多くの人に知ってほしい」と話した。六烈士没後150年を迎える2017年に都城市都島町の島津墓地に慰霊碑建立と、京都市の墓碑改修を目指している。問い合わせは、同会事務局の都城市の旭丘(ひのお)神社0986・25・7150。

史実
龍馬の手紙草稿に登場、「林」との交流明らかに
 坂本龍馬が暗殺される直前、土佐藩重臣の後藤象二郎宛てに書いた手紙の草稿に名前が記されていた「林市郎右衛門いちろううえもん」と、龍馬らとの交流の様子が明らかになった。

 NPO法人の京都龍馬会が20日、発表した。林は、新選組が尊皇攘夷じょうい派の長州藩士らを襲撃した池田屋事件との関わりもあったとされ、同会は「さらに裏付け調査を進めたい」としている。

 林は、龍馬が1867年(慶応3年)10月、福井藩で三岡八郎に会い、新政府への協力を要請した際の様子を記した手紙の下書きに登場。下書き裏面に「■江国塩津 宿 林市郎右衛門」の記載があり、龍馬の新たな人間関係と注目された。

 今回、同法人が滋賀県長浜市西浅井町の「塩津」で現地調査を行い、林が宿屋を営んでいたことが判明。林の子孫らが保管する掛け軸や、幕末から明治維新にかけての功労者への贈位の際に、林が政府に自己申告した「贈位申請書」も国立公文書館で見つかった。

 贈位申請書によると、林は1862年、龍馬の仲間で土佐藩藩士の北添佶摩きつまらに請われて活動を開始。翌年に龍馬と出会い、「汽船購入のために金5万両を借り入れてほしい」などと依頼されたと記している。

 また64年の池田屋事件では、北添の命を受け、事件直前に捕らえられた古高俊太郎の家に忍び込み、重要書類を焼き捨てたと記述。龍馬とは暗殺直前にも会い、龍馬が福井へ赴いた際、雪で塩津には寄らず、西近江路で帰京したことなどを話したとの記載もあった。

 ただ、史実と申請書記載の時期が異なる部分もあり、さらに裏付け調査が必要だという。京都国立博物館の宮川禎一・学芸部列品管理室長は「幕末・明治維新は、武士だけでなく、知られざる市井の人々らも支えていたことがわかる貴重な発見」としている。
エンターテインメント
柳楽優弥&瀬戸康史、幕末の男たちのギャップはまだ理解できない
 第39回モントリオール世界映画祭ワールド・コンペティション部門に正式出品された映画『合葬』。杉浦日向子さんの傑作漫画を映画化した本作で、幕末という時代の波に翻弄(ほんろう)された侍を演じた柳楽優弥と瀬戸康史が、役柄を通して感じた幕末の若者たちへの思いを明かした。

【写真】過激ではかない…彰義隊の美しき男たち

 本作は、慶応4年、300年近くにわたる徳川幕府が終わり、明治維新を迎えようとするときに、それを良しとせず、幕府の解体に最後まで抵抗した彰義隊に加わり、数奇な運命をたどることになった三人の若者を描いた物語。強い意志を持って彰義隊に入る極を演じた柳楽は、「時代劇自体、遠い存在のように感じるところがありましたが、杉浦さんの原作を読み、テーマが青春ということもあって(クランク)インする前からワクワクしていました」という。

 一方、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で長州藩藩士を演じるなど幕末づいている瀬戸が演じたのは、養子先を追い出され、行くあてもなく極に引きずられて彰義隊に入る柾之助。「ふわふわっとしているキャラクターで、時代に流されているような役。こんな人があの時代にいたのかと驚きながら、自分と近いものも感じました」と話す。

 撮影は昨年、全編真夏の京都で敢行。ほぼ同世代だけに「食事を一緒にしたりして仲良くなりました。年上の瀬戸さんは柾之助のようにふわっとして、場をまとめてくださいました」と柳楽が言えば、瀬戸は「(悌二郎役の岡山天音を含めて)生まれてきた環境も性格も違う三人の微妙で絶妙な空気感が、作品の世界観とどこか似ていて。うまく行ったのは二人のおかげです」とフォロー。抜群のチームワークが生まれ、激動の時代の中での男たちの友情と絆の物語を紡ぎ出している。

 そんな男たちの刹那的な生きざまに対し、「彼らの生き方というのは現代の僕達にしてみれば本当の意味で理解しづらい部分もありますよね。国のため将軍のために一生懸命になり、死んでいくというのは切ないし、自我がないということにもなるような気がするんです。誰かのために生きるという考えは、僕が親にでもなったらわかるんでしょうか」と悩みながら答える瀬戸。柳楽も同じように、「同じ時代を描いた『許されざる者』にも出演しましたが、幕末にロマンを感じるというより、もっとその時代を知りたいですね。で、35歳ぐらいになったら、その境地に至りたい」と冗談っぽく語る。

 わからないなりに、現代を生きる彼らが役柄を通して感じ取った激動の時代の青春。懸命に生きようとする若者たちの姿に、わたしたちも何か感じ取るものがありそうだ。(取材・文:前田かおり)

映画『合葬』は9月26日より新宿ピカデリーほか全国公開
 見たいなぁと思っている作品ですが、先週から今週は落語と歌舞伎が優先で……(^_^;)。

コラム
牧太郎の大きな声では言えないが…:「薩長史観」は大嫌いだ!
 断っておくが、江戸っ子である。

 実家は東京・柳橋の「深川亭」という料亭。戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷(えぞ)地を占領、一時は「蝦夷共和国」の総裁となった榎本武揚と縁が深く、箱館戦争で降伏、その後、明治政府に仕えた榎本は「深川亭」を拠点に「江戸っ子会」を起こし「江戸の思想」を守る同志を糾合していた。

 そんな家柄だから、母は「勝てば官軍!」の薩長(さっちょう)が大嫌い。薩長のイナダイ(田舎代議士)は客にせず!がモットーで、結局、昭和38(1963)年に店を潰した。

 僕はそんな環境で育ったから「明治維新は日本の夜明け」とは思わない。薩摩や長州の勤皇の志士が正義。皇国にあだなす徳川幕府の賊軍を撃破し、美しい皇国をつくった!というストーリーなんて……。

 母は「明治時代、薩長の官僚は遊びが下手くそで、すぐ芸者を乱暴する。だから、柳橋の花柳界には薩長は来るな! 明治政府は遊ぶ場所がないので、新橋に新しい花柳界を作った」と教えてくれた。

 勝てば官軍? たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正。この「薩長史観」が日本国の戦争の背景には常に存在した。

 天皇陛下は「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」と述べられた。恐れ多いことだが、陛下は「勝てば官軍」の人々が、薩長史観を皇国史観と偽って暴走した、と看破されていらっしゃるのでは?

 断っておくが、鹿児島県(薩摩)、山口県(長州)に悪感情を持ってはいない。でも、政治家の「薩長史観」には腹がたつ。

 山口県出身の8人目の首相、安倍晋三さんは「勝てば官軍」の申し子だ。「美しい国」というキャッチコピーで「戦勝国から押し付けられた価値観を大事にする自虐的な歴史観から脱却しろ!」と言い続ける。「正しい戦争(=集団的自衛権行使)」に勝利しろ!と言わんばかりだ。

 物事は勝敗によって正邪善悪が決まる!と信じ、「他国の戦争に巻き込まれることはない」などと平気でうそにうそを重ね、安保関連法を強行採決した。

 江戸っ子は「正義」を装い「うそ八百」を並べるやつらが大嫌いだ。(客員編集委員)
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