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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
せっかくの連休なので出掛けたかったのですが……あいにくの空模様なので自宅でまったり。


福島
鎮魂の歌声と花火 福島で3日「福幸祭」
 福島県二本松市の安達ケ原ふるさと村で3日、「福幸祭~希望の光~」が開かれる。戊辰戦争に出陣した「二本松少年隊」や東日本大震災の犠牲者への鎮魂の祈りを込めた祭り。

 地元団体による和太鼓や、津軽三味線(青森)など東北の伝統芸能が披露される。午後7時から、同市の中学合唱部生徒らの歌声と共に花火が打ち上げられる。詳しくは二本松青年会議所(0243・22・0556)へ。

坂下で詩碑除幕 秋月悌次郎「北越潜行の詩」
 幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後に詠み、会津三絶の一つといわれる「北越潜行の詩」の詩碑が会津坂下町の束松峠に建立され27日、除幕式が行われた。
 悌次郎は戊辰戦争の敗戦後、会津藩の善処と藩の若者の教育を懇願するため、旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行った。その帰り道に束松峠の頂上から故郷を眺め、藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされる。
 束松峠を生かした地域振興を図る地元のグループや秋月悌次郎顕彰会、歴史愛好者らは、悌次郎の功績を伝えようと詩碑建立を進めてきた。除幕式は悌次郎の子孫に当たる仙台市の秋月孝真さん、悌次郎の伝記「落花は枝に還らずとも」を執筆した直木賞作家の中村彰彦さんらを迎え、行った。
 実行委員会の目黒督朗委員長、秋月さんがあいさつした後、来賓とともに除幕した。出席者は会津盆地を望む峠の頂上に立つ詩碑を前に七言絶句の「北越潜行の詩」を吟じ、会津を愛した悌次郎に思いをはせた。
 除幕式後、会津坂下町中央公民館で中村さんの記念講演会が開かれ、悌次郎の生きざまを振り返った。

( 2013/10/28 10:27 カテゴリー:主要 )

千葉
激動の幕末を駆け抜けた千葉・東金出身の剣士 古文書が物語る波乱の人生
 千葉・東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた史実を物語る古文書が千葉県九十九里町の旧家で見つかり、茂原市の郷土史家、加藤時男さん(74)が解読・検証した。後に新撰組として活躍する近藤勇や土方歳三も名を連ねた浪士組や、新徴組の隊士として、歴史に翻弄されながら各地を転戦した1人の剣士の波乱の人生が明らかになった。

 この剣士は、上総山辺郡川場村(現東金市)出身の伊藤滝三郎。伊藤家当主の子孫、高山妙子さん(79)と結婚した九十九里町の幸洋さん(78)が妙子さんの荷物の中から伊藤の履歴書、江戸市中見廻り日誌、御用控えなど10点の古文書を見つけ、郷土史家の加藤さんに解読を依頼した。

 古文書や家伝によると、滝三郎は伊藤家の次男だった。体が大きく、若い頃から剣術修業に励んだ。江戸に出て品川に道場を開き、門弟は30人ほどいたという。

 文久2(1862)年、幕府は、京都警備を目的として浪士組を結成した。伊藤は志願し、隊士として京都にのぼった。近藤勇や土方歳三らも浪士組の隊士だった。

 その後、近藤らは新撰組を結成したが、浪士組の多くは、江戸にもどる。庄内藩預かりとなり、江戸の警備を担当する新徴組として再編された。

 新徴組は十数人の組に分かれ、昼と夜、分担して江戸の市中を巡回した。伊藤は5番組小頭として、江戸の治安回復に取り組んだという。

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浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)
浪士組や新徴組の隊士として、激動の時代を駆け抜けた伊藤滝三郎の人生を物語る古文書。高山幸洋さんと妙子さんが保管していた=千葉県九十九里町(塩塚保撮影)

 また、伊藤は見廻り日誌を書き残しており、巡回時の様子を克明に記録。日誌ではちょうちんをかざして神田、浅草、吉原、湯島などを巡回し、乱暴者を取り締まる様子が伺える。

 やがて、戊辰戦争が始まった。新徴組は庄内藩とともに東北に赴き、官軍と戦った。加藤さんが現地や文献を調査したところ、寄宿帳に伊藤の養子、民三郎の名前が記されていた。加藤さんは伊藤も庄内まで転戦し、現地で亡くなったのではないかと推測している。

 加藤さんは「激動の幕末、東金出身の剣士が浪士組、新徴組の隊士として波乱の人生を生き抜いたことを示す貴重な史料だ」と語る。高山妙子さんは「伊藤家にはたくさんの古文書がありましたが、多くはふすまの下張りに使いました。わずかに残った古文書で滝三郎のことが分かってよかった」と話している。

東京
坂本龍馬の直筆資料など、ネットで公開 宮内庁
 【島康彦】皇室ゆかりの古文書や和歌集、絵巻物などのデジタル画像約1万点と目録約31万点について、宮内庁は1日からホームページで公開を始めた。天皇直筆の書、世界に一冊しか残っていない「孤本」といった貴重な史料が多く、単語を入力すれば簡単に検索できる。

【写真】伏見天皇の直筆の書『伏見天皇御集(ぎょしゅう)』

 公開されたのは、有栖川宮幟仁(たかひと)親王が記した明治新政府の基本方針「五箇条御誓文(ごかじょうのごせいもん)」、後鳥羽上皇による写本「新古今和歌集」など。坂本龍馬が自筆した「薩長同盟裏書(うらがき)」は、桂小五郎(後の木戸孝允)に求められ、龍馬が朱字で保証の裏書きをしたものだ。

 鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」の写本は、世の中に一つしかないとされ「天下の孤本」と称される貴重なものという。

 主に明治時代に撮影された古写真約500点も公開する。1888(明治21)年の福島県・磐梯山噴火などの災害写真のほか、幕末のパリ万国博覧会などの写真も。

 これまでは皇居内にある宮内庁書陵部で閲覧申請をする必要があり、年間400件ほどの申請があった。書陵部の図書寮文庫には約39万点の蔵書があり、今後も公開する数を増やしていくという。宮内庁ホームページは、http://www.kunaicho.go.jp/

静岡
「世界遺産登録推薦」で注目集める韮山反射炉 静岡
 伊豆の山々を背景に、れんが造りの4本の煙突が高く空に伸びている。幕末、韮山の代官で幕臣を務めた江川太郎左衛門(英龍)によって築かれた静岡県伊豆の国市の韮山反射炉(国指定史跡)だ。

 反射炉とは、内部で熱を反射させることで千数百度の高温を作り出し、鉄などの精錬を行う溶解炉のこと。鎖国政策をとっていた日本にも天保11(1840)年のアヘン戦争以降、列強の圧力が高まり、外国に対抗できる高性能の大砲が必要となっていた。そうした大砲を製造するため、質の高い鉄を供給する反射炉が必要だったのだ。

 煙突の高さは約16メートル。4つの炉を持ち、煙突の大部分は約160年前に積まれたれんが。外側に補強用の鉄枠を取り付けるなど幾度かの補修工事を経て、ほぼ当時のままの姿をとどめている。

 今年9月、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産の一つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に推薦されることが決定。富士山に続いて県に2つ目の世界文化遺産が誕生する可能性が出てきた。

 この反射炉建設を手がけた英龍という人物は興味深い。川路(かわじ)聖謨(としあきら)、渡辺崋山、高野長英といった蒼々(そうそう)たる人物たちと交流を持ち、西洋式軍隊や洋式砲術を導入。品川の台場建設を指揮する一方で書や画、漢詩、陶芸などもたしなんだ。また、代官として剣豪・斎藤弥九郎とともに行商人に変装して隠密調査を行うなど、その活動は実に多岐にわたる。反射炉から2キロほど離れた場所に、英龍ら江川家が代々住んだ江川邸が今でも残されており、彼の残した書画などさまざまな足跡をたどることができる。

 その江川が日本の海防を深く憂い、先例主義・事なかれ主義に凝り固まった幕府の下で必死の思いで築き上げたのが、この反射炉だ。安政元(1854)年に着工したが江川は炉の完成を見ることなく、翌年に死亡。跡を継いだ息子の英敏が同4年に完成させた。

 伊豆の国市役所によると、昭和50年代には年間30万人以上が訪れていたが、少しずつ減り、平成22年には約5万人にまで減った。しかし、23年、世界文化遺産の構成資産候補となったことで注目が集まり、昨年は約8万人にまで回復。「今年は10万人に届きそうです」とうれしそうだ。

 現在、同市は来夏に控えた国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査に向け、資料の整備などに大忙し。

 「今後の課題は反射炉の維持。前回の補修から25年がたっており、相当傷んでいる。オリジナルの状態をどうやって維持していくかが問題です」と話している。

 ユネスコの判断が下るのは2年後。幕末、韮山の地から世界を見据えていた英龍の反射炉は「世界の反射炉」となるのか。入り口に立つ英龍の銅像は、残された自画像そのままの大きな瞳を見開いて、今日も空を見上げている。(岡本耕治、写真も)

 ■韮山反射炉 伊豆の国市中鳴滝入268。伊豆の代官、江川太郎左衛門(英龍)が手がけた大砲鋳造用の金属溶解炉。実際に稼働した反射炉としては国内で唯一現存。開館は午前9時~午後4時半。12月31日と1月1日は休み。観覧料は一般100円、小・中学生50円(伊豆の国市民は無料)。問い合わせは(電)055・949・3450。
 また近々韮山に足を運びたいものです。

新潟
新潟・長岡藩と友好の芽 一関の郷土史会と初交流
 新潟県の越後長岡藩主17代当主の牧野忠昌さん(71)=神奈川県逗子市在住=ら藩士の子孫は27日、戊辰戦争(1868~69年)で敗走した藩士が一時滞在したとされる一関市内の寺を初めて訪問した。招待を実現させた同市の一関藩志会(小山真会長)は「古里の知られざる歴史を市民に伝えながら、新潟との交流にもつなげたい」と、世紀を超えて結ばれた友好の発展を期待した。

 一関藩志会によると、越後長岡藩は戊辰戦争で新政府軍に敗れた後、約600人の藩士と家族が会津や米沢、仙台を経て現在の一関市大東町や室根町などに46日間滞在したという。

 牧野さんと妻美和子さん(61)のほか、越後長岡藩藩士会「柏友(はくゆう)会」の会員ら計7人が来県。牧野さんは「長岡の方が滞在した具体的な場所は知らず、お世話になった方々に感謝したいと思っていた。戊辰戦争から約150年たつが、私には最近のように感じられる」と静かに手を合わせた。

【写真=越後長岡藩士の家族が亡くなった記録が過去帳に残る長泉寺で供養を行う牧野忠昌さん(手前右から2人目)ら】

(2013/10/28)

京都
龍馬好き、京に集まれ 11月16日「幕末祭」
 幕末の志士、坂本龍馬のファンらでつくるNPO法人京都龍馬会が11月16日に、創立20周年の記念イベント「京都幕末祭」を京都市中京区の市役所前などで開催する。龍馬や妻おりょうになりきるコンテストや歴史講演、堤灯行列など多彩な行事を通じて維新の英雄に思いをはせる。

 同会は同区の河原町商店街の青年会が、龍馬をテーマにまちづくりに取り組むため1993年に発足させた。おりょうの実家跡などに石碑を建て、会報を発行している。龍馬の命日の11月15日前後には慰霊の堤灯行列を催してきた。今年は20周年記念で行事を拡大し、市役所とゼスト御池の2会場で行う。

 コンテストでは「我こそは龍馬、おりょう」と思う人を募る。自己アピールを審査し、優勝者の男女各1人は、17日に伏見区の伏見竜馬通り商店街である「龍馬祭」のパレードに龍馬、おりょう役で参加できる。

 龍馬関連の曲を持ち歌にする歌手らが出演するコンサートのほか、研究者5人の講演やパネル展示で幕末史を紹介する。恒例の堤灯行列は午後4時半から市役所を出発する。地元商店や山口県の物産展なども繰り広げる。

 同会の赤尾博章理事長(61)は「会にこれほど大勢の人が集まったのは、龍馬さんだからこそ。これからも仲間を増やしたい」としている。

 堤灯行列は11月9日まで、「龍馬おりょうコンテスト」は10月末までに京都幕末祭のホームページから申し込む。京都龍馬会TEL075(211)3666。

<京都・金戒光明寺>山門修理終わり1日から特別公開
 京都市左京区の浄土宗大本山、金戒光明(こんかいこうみょう)寺で山門の修理が終わり、1日から特別公開が始まる。12月8日まで。同寺は幕末、京都守護職に任じられた会津藩主、松平容保が本陣を置いたことで知られる。

【写真特集】「平成の大修理」進行中 姫路城や平等院鳳凰堂など

 山門は1860(万延元)年の建築で高さ約23メートル。楼上には釈迦(しゃか)三尊像と十六羅漢像が安置され、天井一面に「蟠龍(ばんりゅう)図」が描かれている。午前9時から午後4時。拝観料は大人800円、小学生400円(山門のみの場合)。同寺(075・771・2204)。【花澤茂人】

京都御所、秋の一般公開が始まる
 京都御所(京都市上京区)の秋の一般公開が31日、始まった。観光客は、平安時代からの御所の歴史を伝える建造物や展示品に見入っていた。

 11月4日まで。

 江戸時代後期の画家・岸駒(がんく)が富士山を題材に墨で描いた屏風(びょうぶ)「墨絵山水」、幕末から明治に活躍した画家・塩川文麟(ぶんりん)がクジャクやモクレンなどを描いた襖(ふすま)絵、雅楽の舞装束を着た人形7体などを見学できる。

 北海道石狩市の男性(75)は「堂々とした建物や庭に、皇族の歴史を垣間見ることができた」。入門は午前9時~午後3時半。無料。

山口
錦絵:幕末に描かれたゾウ 2点を展示−−周南市美術博物館 /山口
 ゾウ2頭が周南市徳山動物園にやってきたのに合わせ、市美術博物館は150年前のゾウの錦絵2点を展示している。鋭い目をした巨体に、「昔は珍しかったゾウが人々の目にどんなふうに映ったか、現代のイメージと比べてほしい」と話している。

 「新渡舶来之大象」は、幕末の文久3(1863)年にインドから横浜に入港し、見せ物として江戸・両国へ向かう3歳の雌を歌川芳豊が描いている。ゾウは縁起の良い「霊獣」とされ、「一度これを見る人は、七難を滅し、七福を生ず」との文章が添えられている。

 ゾウを呼ぶ運動が盛んだった昨年、同博物館が購入した。11月1日からは、ゾウを描いた別の錦絵3点と入れ替える。【蒲原明佳】

〔山口東版〕

宮崎
特別展:「幕末維新」実像伝える 国重文含む65点展示−−都城・島津伝承館 /宮崎
 特別展「幕末維新 近代国家への飛躍」が都城市早鈴町、都城島津伝承館で開かれている。書簡や絵図などの資料を通じて、幕末維新期の都城島津家や薩摩藩の活躍、動乱期の実像を伝える。11月24日まで。

 展示品は、彦根城博物館(滋賀県彦根市)など所蔵の国指定重要文化財7点を含む65点。大老・井伊直弼の暗殺を描いた「桜田事変絵巻」や勝海舟の日記、大久保利通の書簡のほか、戊辰(ぼしん)戦争で戦死した薩摩藩士を追悼する西郷隆盛直筆の「東征戦亡碑下書」が九州初公開される。

 また、幕藩体制を揺るがす発端となった黒船来航に関する重文で、米国大統領の親書授受を描いた「ペリー浦賀来航図」は、11月6日から展示する。

 観覧料は▽大人300円▽高大生250円▽中学生200円▽小学生150円。【重春次男】


コラム
松尾多勢子 幕末駆け抜けた「おばさん力」 ヒロインは強し(木内昇)
 女と生まれたからには、最強の人類と名高い「おばさん」期を経ずしてなんとなる、と思うことがある。他人の目などお構いなし、やりたいことをし、思ったことを言う。恥じらい? そんなものはとうの昔に縁を切りました。仕事の場では誰しも理性で自分を律しがちだが、例えば現状を打破する場面などで、案外この「おばさん力」はものを言いそうな気もする。

■勤王家として活躍
 1811~1894年。信濃国伊那谷飯田城下の山本村(現・長野県飯田市)に生まれる。文久2年(1862年)に京に上り、彼の地で平田国学の門人と親交を結び、諸藩の攘夷志士の活動を助ける。足利三代の木像の首が何者かによって梟首(きょうしゅ)された事件に関与したとの疑いを受け、一旦は伊那谷に戻り、訪ねてくる勤王家を家に泊めて世話する。明治元年(1868年)再度入京。岩倉具視に仕え、国事に関わる。
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■勤王家として活躍
 1811~1894年。信濃国伊那谷飯田城下の山本村(現・長野県飯田市)に生まれる。文久2年(1862年)に京に上り、彼の地で平田国学の門人と親交を結び、諸藩の攘夷志士の活動を助ける。足利三代の木像の首が何者かによって梟首(きょうしゅ)された事件に関与したとの疑いを受け、一旦は伊那谷に戻り、訪ねてくる勤王家を家に泊めて世話する。明治元年(1868年)再度入京。岩倉具視に仕え、国事に関わる。
 さて、幕末の伊那谷に松尾多勢子なる女性がいた。豪農の家に育ちながら、畑仕事よりも書物が好きな少女だった。こと和歌に関心を持ち、当時の農村には珍しく、師について本格的に学んでいる。

 十八歳で嫁いだのちは七人の子を育て、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)にも従順に仕え、胃弱な夫のために毎朝三十分按摩をする献身ぶり。要領も手際もよく、賢妻として評判が立つほどだったが、元来知識欲や好奇心が強い彼女は家の中だけに収まってはいなかった。

 子育てが一段落すると、夫を伴い旅するようになるのだ。松本、遠州(静岡)、さらには江戸まで。家が裕福だったこともあるだろうが、女性がこれほど旅するのは、当時としては珍しい。老いた夫が体力的問題から家に留まるようになると、今度は平田国学を学んで攘夷思想を育み、挙げ句、嫁いだ娘の家に遊びに行くと嘘をつき、尊皇攘夷の活動に勤しむため単身京へ上ってしまうのである。このとき五十二歳。普通なら隠居している歳である。

 ここから多勢子は、地縁も薄い京でよくぞこれだけ、と感嘆せずにはいられぬ人脈を着々と築いていく。長州や土佐の志士たちと国事を語り合い、公家の歌会にまで参加。一旦伊那に戻って勤王家をかくまう働きをしたのち、再度上京すると今度は岩倉具視と接触、その信頼を勝ち得て屋敷に住み込むことを許され、女参事のような仕事を任されたというから驚く。岩倉はこの頃、王政復古を成し遂げていた。多勢子の働きを認めたのだろう、維新後、中央政府の要職に就いたのちも彼女を東京に招いたり、西洋菓子を送ったりと、親交を続けたという。動乱の京でつちかった人脈は、のちのちまで彼女の人生を彩ったのだ。

 しかし、特別な地位にあったわけでもない普通の「おばさん」がなぜここまで活躍できたのか。それは、彼女の教養もさることながら、体裁を繕わない正直さが、海千山千の中で信頼を勝ち得たからではないか。こんなことをしたら恥ずかしい、格好悪いと物怖じする場面で、彼女は堂々と自分を貫いたのだ。

 周りを無視した厚顔は仕事に支障をきたす。だが、しがらみを取っ払い、真摯に本音を訴えて行動を起こすことは、物事を本質的に動かす上で不可欠だ。そしてこの能力は案外、建前や立場を重んじる男性より、「おばさん力」を内に秘めた女性のほうが長けている気もするのだ。

 家庭人としての務めを果たし、勤王家として活躍し、多くの要人と交流をした。多勢子の希有な人生は、正直に生きた道筋そのものなのだ。

[日本経済新聞朝刊女性面2013年11月2日付]


 木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

※「ヒロインは強し」では、直木賞作家の木内昇氏が歴史上の女性にフォーカス。男社会で奮闘した女性たちの葛藤を軽妙に描きます。
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明日から
by イバハチ 2013/11/06 20:08 編集
明日から四泊で函館に渡ります。最期の地碑には毎日行きます。行ってまいります。     
読み込み中・・・
2013/11/06 22:31
イバハチさん、行ってらっしゃーいo(^▽^)o 函館の土方さんによろしく&よいお店があったらお知らせくださいね。
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