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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
年末にプライベートでちょっと悩ましいことが起こり、悩みをかかえて越年します。百八つの鐘で晴らせるものなら晴らしたい悩みではありますが……皆様にはつつがなく新年を迎えられますよう。

東京
江戸東京博物館「大浮世絵展」=写楽、北斎、広重の代表作など340点展示
 リンク先はyoutube動画が貼られており、音楽付ですので注意ください。
2013年12月27日
 江戸東京博物館は開館20周年を記念した展示会「大浮世絵展」を来年1月2日から3月2日まで開催する。一般公開に先立ち12月26日、報道機関向けに内覧会が開かれ、江戸時代を代表する浮世絵師、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重らの展示作品340点が公開された。
 本展では、会場を六つのエリアに分け、作品を展示。江戸時代前期の浮世絵につながる風俗画から始まり、浮世絵、錦絵の創始期、写楽や北斎らが活躍した時代、幕末から近代までと、17世紀前半から20世紀にかけての多様なジャンルの浮世絵を、時代を追って紹介している。
 特に注目は、「教科書で見た」「切手の絵柄で採用されていた」「商品のおまけ」など、誰もが知る有名な作品の数々。東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖波裏」などの本物を目の当たりにすることができる。
 観覧料は、一般1300円、大学・専門学校生1040円、小・中・高校生・65歳以上650円。開館時間は午前9時半から午後5時半まで。江戸東京博物館での展示終了後は、3月11日から5月6日まで名古屋市博物館、5月16日から7月13日まで山口県立美術館で「大浮世絵展」が開かれる。【時事ドットコム編集部撮影】

千葉
幕末の「真忠組」、記事が広げた研究の輪
 よく晴れた夏の休日。家族で車に乗って九十九里浜に遊びに行った。名物食堂に向かう途中、「真(しん)忠(ちゅう)組志士の碑」の表示があった。

 -真忠組とは…。

 妙に気になり、右折した。石碑が建っており、裏面に記述がある。幕末、九十九里浜に真忠組と名乗る世直し集団が出現し、「攘夷救民」の旗を掲げて戦ったという。新聞記者の探究心に一発で火がついた。

 取材を進め、地元の元教師、鈴木克久さん(70)が事件を研究していることが分かった。電話で連絡を取り、お会いした。鈴木さんの案内で事件現場を巡る。拠点となった九十九里町小関の旅館「大村屋」跡。旅館はすでになく、畑と原っぱになっていた。

 「真忠組は大村屋を接収して駐屯所とし、九十九里浜一帯を制圧した。武装して豪農や富商の屋敷に押しかけ、米や金を徴収。貧しい人々に無償で配ったのです。また、隊員はみな平等で、農民や商人も姓を名乗り、腰に刀を差していた。すごい物語でしょう」

 幕府は近隣の藩に鎮圧を命じる。藩兵は3カ所の拠点を襲撃。首領の楠音次郎は自刃して果てた。隊員は捕縛され、処刑された。

 9月22日の「ちば人物記」に「理想に殉じた群像の語り部」として掲載されると、習志野市の元銀行員、飯村興平さん(72)から千葉総局に電話がかかってきた。

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捕縛された真忠組隊員の裁判が行われた最福寺に立つ鈴木克久さん=千葉県東金市東金

 飯村さんは古文書収集家。真忠組の決起趣意書を保管しているという。早速自宅にうかがい、決起趣旨書を拝見した。保存状態は良好。歴史を物語る貴重な史料だ。「個人が持っていたらいずれ散逸する。公的な施設に寄贈したい」と話した。

 羽成哲郎千葉総局長に相談。親交深い山武市歴史民俗資料館の学芸員を紹介され、10月11日、寄贈が実現した。同資料館では郷土史家、加藤時男さん(74)ともお会いした。

 東金出身の剣士が激動の幕末を駆け抜けた。その史実を物語る古文書が旧家に保管されていることを教示していただき、記事にすることができた。1つの記事が波紋を広げていく。新聞の力を改めて実感した。(塩塚保)
 東金は亡くなった父の父の出身地です。それだけのことなんですが、いつかルーツを捜しにいきたいと思います。

「最先端の蘭学塾」の面影残す城下町 千葉・佐倉
 雨上がりの冬の日。電車で千葉県の城下町、佐倉市を訪れた。幕末、蘭学(洋学)が盛んで「西の長崎、東の佐倉」といわれた。

 城下町巡りの起点は佐倉順天堂記念館にした。立派な門構えだ。天保14(1843)年、天下に名高い佐藤泰然が佐倉に蘭医塾と診療所を開いた。佐倉藩主、堀田正睦(まさよし)が開明的で西洋医学に理解を示したことが背景にあるようだ。

 「全国の若者が佐倉に来て西洋医学を学びました。順天堂の敷地は最盛期には約2千坪もあって、塾生は延べ1千人を超したそうです」

 記念館の伊藤幸子さんが語る。塾生たちは外泊、飲酒、囲碁将棋などは禁止。オランダ語の解剖書などを読み、一心不乱に学習したという。

 館内には当時の手術道具や外科手術料金表などが展示されている。乳がんや白内障、虫垂炎など最先端の治療・手術が行われていた。塾生らに立ち会わせて実際に役立つ医術を習得させていた。

 順天堂はその後発展して順天堂大学の母体となった。一方、記念館の隣では佐倉順天堂医院が今も開業している。医師は佐藤家の子孫という。幕末の歴史が21世紀まで脈々と息づいているのだ。すばらしい。感嘆した。

 ■蘭学通り

 城下町を東西に結ぶ蘭学通りを歩いていく。高台に建つ旧堀田邸に立ち寄った。最後の佐倉藩主、堀田正倫(まさとも)が明治時代に築いた広大な邸宅だ。上の間に座布団がひとつ置いてあった。ここから眺める庭がもっとも美しいという。しばし、当主の気分を味わう。冬空をおおっていた重い、暗い雲が流れていく。さあっと陽光が差してきた。小鳥が盛んにさえずり始めた。

 昼食時となった。そば店「二番町房州屋」ののれんをくぐる。かもなんばんを注文した。鴨肉の濃厚な味わい。ほかほかと体があったまる。壁にセピア色の写真。少年たちが笑っている。その中に長嶋茂雄巨人終身名誉監督がいた。

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城下町・佐倉の武家屋敷通り。江戸時代の雰囲気を色濃く残している=千葉県

 店主の村瀬照夫さん(77)が「同級生です。中学生のときから足が速く、人気があった。この店にも来てかけそばを食べてましたよ」と笑顔で話す。新聞記者にとっては思わぬ収穫。このへんが町歩きの楽しいところだ。

 ■武家屋敷通り

 城下町の一角に武家屋敷通りがある。土塁と生け垣が続く。天を突く巨木がそびえる。静かだ。旧河原家や旧武居家が公開されている。屋敷内には当時の家財道具が置かれ、武士の暮らしぶりをしのぶことができる。

 郷土史家の内田儀久さん(62)は「佐倉藩の歴代藩主の多くは老中など幕府の要職を務めた。藩主だった堀田家や藩士たちの子孫が今も住んでいます。歩いてみると、思わぬところで江戸時代の名残を発見できる。そのあたりが佐倉の魅力です」と話す。

 武家屋敷通りから竹林を抜ける。通称「侍の古径(こみち)」。その先はもう佐倉城跡だ。

 佐倉城は明治時代、取り壊された。だが、広大な城跡には堀や土塁が残る。師走の日暮れは早い。広い、広い空が見事に赤く染まっていく。(塩塚保)

     ◇

 城下町・佐倉を歩く JR佐倉駅か京成佐倉駅下車。佐倉順天堂記念館(本町(電)043・485・5017)▽旧堀田邸(鏑木町(電)043・483・2390)▽武家屋敷(宮小路町(電)043・486・2947)。3館共通入館券は一般520円。学生260円。いずれも年末年始(12月28日~1月4日)と月曜日休館。

神奈川
八重の篤志、横浜にも 大火被災者へ多額の寄付、神奈川知事が感謝状
 今からちょうど110年前、1903(明治36)年12月28日。当時の神奈川県知事・周布(すふ)公平が、一人の女性に感謝状と木杯を贈った。宛先は、新島八重(1845~1932)。横浜であった大火の被災者への多額寄付に謝意を表したものだった。福島・会津出身で京都に住んでいた八重にとって、横浜は縁もゆかりもない。八重を突き動かしたものは、何だったのだろうか。

 1899年8月12日、横浜市の雲井町(現在の中区弥生町周辺)で起きた火事は南風によって延焼し、伊勢佐木町近辺をほとんど焼き尽くした。焼失戸数は、当時の市内世帯数の1割にも及ぶ約3200戸。

 神奈川新聞の前身「横浜貿易新聞」は「惨は火災より甚だしきはなし。しかも我が市の大火は惨中最も惨なる。酸鼻(むごたらしい状況)にむせばざるものあらん」などと記した。

 この大火の被災者を支援するため、八重が義援金を送っていた。寄付額は35円。現在の貨幣価値と単純に比較することは困難だが、企業間取引の物価指数の推移からみると、少なくとも現在の50万円以上に相当する。

 横浜貿易新聞が発生直後から「江湖(こうこ)(世間)の慈善家に訴ふ」と10日間募り、横浜市役所に届けられた義援金の総額は159円80銭。八重は遠く離れた京都から、その2割強にあたる額を寄付したことになる。

 戊辰戦争で会津が敗れて故郷を失った後、同志社英学校(現同志社大)を創設した新島襄の妻となって学校運営に奔走するなど京都を拠点としていた八重。何のゆかりもない横浜の災害に、多額の寄付をした理由は何なのか。

 八重はこの火災以外にも、実に多くの慈善活動に携わっている。

 身を賭して近代看護の普及に努めた「日本赤十字社篤志看護婦人会」、目や耳が不自由な人の支援目的で発足した「京都婦人慈善会」、戦争未亡人らの経済援助を行った「愛国婦人会」。いずれも自ら資金を提供し、報酬はない団体の幹部として奮闘した。

 さらに、孤児の世話をする東京市(当時)の担当部門、京都の高等女学校の増築、尋常小学校の改築などに、八重個人として浄財を投じていた。

 同志社社史資料センターの小枝弘和・社史資料調査員は「八重は50歳を過ぎてから自身のことを語りだしたが、ほとんど会津のことばかり。慈善活動について語った記録がなく、気持ちは分からない」と述べる。

 その上で、「襄と生活して社会的地位が上がるにつれ、果たすべき役割に気付いて寄付などを始めたのではないか」と推察。横浜への寄付については、「会津戦争で八重は大好きな故郷を失った。だから、同じように苦しんでいる人たちを放っておけず、できることはしたいと思ったのではないか」と心情を推し量った。

静岡
来年2月に韮山反射炉検定
 「反射炉博士」になって価値を伝えて-。伊豆の国市は二十四日、二〇一五年の世界文化遺産登録を目指す韮山反射炉の検定を来年二月一日に初めて実施すると発表した。見学だけでは価値が伝わりにくい韮山反射炉への理解を深め、登録への機運を盛り上げる狙い。鉄を溶かした仕組みや時代背景を正しく理解してもらうために検定という手法を選んだ。
 韮山反射炉は鉄製大砲を鋳造するための溶解炉で、幕末に伊豆韮山代官の江川坦庵(たんなん)(一八〇一~五五年)が建築を指揮した。実際に稼働した反射炉として国内で唯一完全な形で残った。国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に世界文化遺産として推薦する「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産に入っている。
 検定は小冊子「韮山反射炉を世界遺産に」と反射炉の展示内容から出題し、四択問題を四十問解く形式。正答率によって級が分かれ、九割以上が一級、八割以上が二級、六割以上が三級となる。市世界遺産推進課によると、検定問題には「太陽光を反射させる施設か」「これでパンを焼いたのか」などを想定している。
 一月二十四日まで受検申し込みを受け付ける。試験は伊豆の国市四日町の韮山文化センターで午後一時から。検定料は高校生以上五百円、小中学生三百円。受検者には後日、検定結果と認定証、認定バッジなどを送る。三級に届かない場合は参加記念品が届く。
 問い合わせや申し込みは、韮山反射炉応援団事務局の市世界遺産推進課=電055(948)1425=へ。
(山田晃史)
 反射炉限定でなく江川太郎左衛門検定なら挑戦したいと思うのですが……。

京都
鴨川の小魚冬の味覚 「鷺知らず」魯山人も絶賛
 京都には「鷺(さぎ)知らず」という美味(うま)い小ざかながある――。

 古都の冬の味覚として、かつて美食家・北大路魯山人(1883~1959年)もこう評した鴨川の小魚「鷺知らず」を、特産品として復活させる取り組みが始まった。世界無形文化遺産に登録された「和食」への関心が高まる中、都の食文化を見直し、身近な川の環境にも目を向けてもらおうと、京都市が推進。今後、漁獲量の調査や試食会を通じて、「夏のアユ」に並ぶブランドに育てたい考えだ。

 「鷺知らず」は、淡水魚のオイカワ(ハエ)の稚魚で、体長3センチほどのものを呼ぶ。様々な説があるが、川魚を餌とする鷺が見向きもしないほど小さいことから、その名が付いたとも言われる。旬を迎える冬の早朝には、水があまり流れないたまり場で、群れになっている。

 京都では、少なくとも幕末頃から、つくだ煮などで食べられてきたと伝わり、つくだ煮そのものを「鷺知らず」と呼ぶこともあるという。明治時代の歌集・鉄道唱歌には「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず みやげを提げていざ立たん」と名産に挙げられ、幅広い芸術に通じた北大路魯山人も、著書で太鼓判を押している。

 かつては専門の漁師もいたというが、食生活の多様化や河川環境の変化などで、食する機会は次第に減少。鴨川に近い飲食店でもほとんど見られなくなった。

 こうした中、市は都で育まれてきた食文化の魅力を見直そうと復活を計画。商品として売り出すには、一定の漁獲量が必要なため、先月から賀茂川漁協(澤健次組合長)と「鷺知らず」の歴史や販売状況の調査に乗り出した。

 土産物としての商品化や産卵場造成といった環境整備の課題についても協議。さらに資源量の調査を続け、近く市民らを対象にした試食会も開く計画だ。

 京都市農政企画課の中筋祐司係長は「昔ながらの食文化を伝え、川の資源を活用することで、環境保全の大切さも知ってもらいたい。豊かな鴨川を残す機運が高まれば」と話している。

◆酒が進むほろ苦さ つくだ煮

 京都市に暮らし始めて1年余り。恥ずかしながら初めて「鷺知らず」の存在を知った。毎年この時期に鴨川の鷺知らずを出している数少ない店があると聞き、ユニークな名に思いを巡らせながら足を運んだ。

 創業60年の湯どうふ店「喜幸」(下京区西木屋町通四条下る)。店に立つ浅井喜美代さん(47)は、今月2日に84歳で亡くなった父・喜三さんから、つくだ煮の作り方を受け継いだ。川魚のため、扱いが難しいといい、しょうゆと酒、砂糖、みりんでじっくりで二度炊きして味を調える。

 約20年前、父に連れられ、鴨川のほとりで初めて泳ぐ姿を見た時は、「小魚の集まりではなく、鷺も食べられないような1匹の大きな魚がいると思った」といい、「小魚と気づかれないようにするためで、名前の由縁の一つでもあるんですよ」と教えてくれた。

 甘い香りをたてるつくだ煮は、川魚特有の癖があるかと思いきや全くない。「小さいけど、かむほどにほろ苦い味がして、お酒が進みます」と浅井さん。シーズンを楽しみにしている人も多く、鷺知らずを肴(さかな)に、酔客の話題は鴨川の歴史や環境にも及ぶとか。豊かな風味に触れながら、古都の自然が育んできた食文化の復活を願った。(倉岡明菜)

蛤御門の変・番外 敗走の長州、追う新選組…「幕末の天王山」の意外な結末 
 元治元(1864)年7月19日、幕府軍と長州軍が御所周辺で衝突した蛤(はまぐり)御門の変は長州の敗退で一応の決着はみた。長州側はほとんどの兵が夜のうちに引いたものの、真木和泉(いずみ)ら約200人の敗残兵は山崎・天王山(標高約270メートル)に集まり、最後の一戦に挑もうとした。これを追う幕府側は1500人。到底勝ち目のない真木は200人全員を長州へ帰そうと、ある思い切った行動に出る。

思い届かず

 19日午前零時、伏見・藤森で福原越後軍が大垣藩の軍勢と戦闘を始めると、同日未明、嵯峨天龍寺に陣を構えていた国司信濃・来島(きじま)又兵衛隊が御所へ突入を始めた。

 そして、天王山にいた真木和泉と久坂玄瑞ら約600人は前日の18日午後8時に出発したが、悪路がたたって、目指す御所・堺町御門前に着いたときには福原隊と国司・来島隊の勝敗が決した後だった。

 すでに、福井藩や薩摩藩などの軍勢で門は守られていたため、門を突破することはできず、迂回して門近くの鷹司(たかつかさ)関白邸で抵抗を続けるのみだった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 だが、幕府軍の強力な火力と圧倒的な兵力の前にどうしようもできず、久坂はこの場で自害する。

 真木も銃撃で足を負傷するが、「最後の一戦」のために長州藩家老の益田右衛門介との合流地点、天王山へ200人の残存兵と引き返した。

 だが、益田は逃走した後で、午後2時ごろ天王山に着くもその姿はない。真木の到着を待っていた長州の宍戸九郎兵衛は再起を促したが、真木は「私は御所を血で汚した今回の戦の主犯。死をもって責任を取りたい」と辞退した。

しんがり

 筑後(福岡県)・久留米の水天宮の神職の家に生まれた真木は家を継ぐとともに尊王攘夷の活動家でもあった。薩摩に通じ、藩主の上洛に乗じて向かった京都で長州に急接近する。

 攘夷派の長州が公武合体派の幕府に京都を追い出された8・18の政変で三条実美らとともに長州へ落ちると、武力での京都奪回を強行に主張した。

 だが、結果は長州のひとり負けの形。さらに御所に向けて発砲したかどで、朝敵の汚名も着せられることになった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 今回の戦いは、長州藩主の毛利敬親(たかちか)も乗る気でなかっただけに、強行に戦いを主張した真木にとって、今回の敗戦は相当に心苦しかったに違いない。

 もう1人の強行派の来島又兵衛は御所で戦死しており、たった1人で責任を取って幕府軍と対峙するつもりだったが、「自分も残りたい」などとする16人の若者が申し出てきた。

 真木の退却の説得も聞かず、そばを離れようとしない。結局、真木を含めた17人が、後退する部隊の最後尾で追っ手から味方を守る「しんがり」を務めることになったのだ。

 京都、大阪の境にある天王山。中腹まで登ると、男山との狭い平地の間を桂川と宇治川、木津川が合流して淀川へとつながっていく光景が一望できる。

 真木ら17人は死を覚悟して、たぶん、そんな所から味方の退却を見送ったのだろう。

17烈士の自害

 山の中腹に立てこもる真木らは20日、郡山藩の退却の勧告にも耳を貸さずに断ると、翌21日、新選組を先頭に会津の兵士たちが山へ入っていった。

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久留米・水天宮境内に建つ真木神社

 天王山の麓にある離宮八幡の境内に長州が捨てた大砲を新選組が捕獲し、天王山めがけて撃ったという話も残る。山道を登って追いかける会津藩と新選組。じわり、じわりと追い詰められた真木。

 新選組隊士の永倉新八が書き残した記録には、局長の近藤勇が山の中腹あたりで金の烏帽子(えぼし)に錦の直垂(ひたたれ)姿の真木と銃を持つ数人の浪士が立っているのを見つけた。

 真木は大声で「互いに名を名乗ろう」を声をかけると「毛利家家臣の真木和泉である」と続けた。対する近藤も「私は幕府配下の近藤勇だ」と応じる。

 そして真木は詩吟を歌い勝ちどきを上げた直後、周囲にいた浪士が幕府軍目がけて発砲し、弾を避ける隙に山頂に向かって走り去った。

 少し間を置いて近藤らが登っていくと、炎をあげて燃える小屋を発見。急いで小屋に駈け寄る近藤らが見たものは自害して果てた黒こげの真木の姿だった。

 小屋の中にあった火薬で吹き飛ばされたらしく、死にきれない浪士は新選組の隊士が介錯したという話もある。

 ここに蛤御門の変は完全終結した。真木ら17人の遺体は賊徒の墓として、地元の人の手で宝積寺の三重塔前に葬られた。それでも地元の人からは17人を“残念さん”と親しみを込めて呼ばれ参拝する人が絶えなかった。

 それに困った幕府は別の場所に改葬したうえで、一般人の登山を禁じたとも伝わる。

(園田和洋)

愛媛
伊達家書簡で幕末政治読む 8日に公開講座 宇和島
 宇和島伊達家伝来の書簡からみる徳川幕府の崩壊―。宇和島歴史文化研究会(近藤俊文会長)の公開講座が8日正午から、愛媛県宇和島市堀端町の市生涯学習センターで開かれる。幕末の政治の舞台裏を、初めて一般公開される同家所蔵の史料約30点から読み解く。
 講座では「慶応3年伊達家文書からみた四候会議、大政奉還、王政復古」と題し近藤会長が講演。江戸から明治へと時代が大きく動いた慶応3(1867)年に焦点を当て、関連する各史料を日付を追ったストーリー仕立てで解説する。
 史料には、宇和島での西郷隆盛らとの会談内容などを記した宇和島藩8代藩主伊達宗城の直筆書や、大阪商工会議所の初代会頭などとして活躍した五代才助が宗城を新政府で起用するよう進言する書簡などが並ぶ。


高知
高知県立坂本龍馬記念館で「幕末の志士人気ベスト10」展
高知県高知市の高知県立坂本龍馬記念館、海の見える・ぎゃらりいで2014年1月31日まで、「幕末の志士人気ベスト10」展を開催している。記念館の入館者アンケートの項目「幕末のお気に入りの人物を教えてください」を4月から7カ月間集計し、人気ベスト10の写真をパネルで紹介。12月27日からはベスト20位までを展示している。
 県立坂本龍馬記念館は9時から17時まで開館。入館料500円で、高校生以下は無料。連絡先は088・841・0001。

土佐藩馬奉行の子孫が江戸期の馬術書寄贈 高知県安芸市へ35点
 幕末に土佐藩の馬奉行などとして騎兵育成に尽くした葛目楠吉の子孫が25日までに、江戸初期から明治の馬術書などの資料35点を高知安芸市の市立歴史民俗資料館に寄贈した。カラーで馬体を描いた図や馬術指導書などが含まれ、同資料館は「江戸時代の馬術資料は少ない。実用的な内容で、貴重な研究資料になる」とし展示などを検討する。
 同資料館によると、楠吉は土佐藩が取り入れていた大坪流馬術、朝鮮流要馬術、源家古伝馬術のうち、源家古伝馬術を伝えた本山団蔵茂隆に師事。1856(安政3)年から大目付、68(慶応4)年から軍馬指南役、馬奉行を務めたとされる。
 資料は1662(寛文2)年の馬術心得をはじめ、楠吉が使ったとみられる指導書、本山団蔵の馬術免状など。「馬の博物館」(横浜市)によると、源家古伝馬術は、愛媛県の松山藩士が1802年に完成させた馬術で、当時、全国的に主流だった大坪流で鍛えた馬より、持久力や速力を向上させ、遠乗りを可能にする調教法などを編み出した。
 高知県内では土佐藩の剣術や弓術は研究されてきたが、馬術は土佐山内家宝物資料館(高知市)などに一部の資料が残るだけ。特に、源家古伝馬術の資料はほとんど残っていないという。
 寄贈したのは、楠吉のやしゃごに当たる藤島善之さん(72)=安芸市東浜。葛目家が絶え、楠吉の孫で、藤島家に嫁いだ善之さんの祖母が管理していたものを受け継ぎ、保管してきた。
 藤島さんは「『楠吉さんは流鏑馬(やぶさめ)の名人だった』と祖母に聞いていた。これを機会に馬術の研究が進むよう役立てば」と期待。同民俗資料館は「源家古伝馬術だけでなく、葛目家の資料としてもまとまっている。2014年はうま年でもあり、展示を考えたい」としている。

【写真】土佐藩の馬奉行、葛目楠吉が残していた馬術の関連資料。子孫が安芸市立歴史民俗資料館に寄贈した(安芸市土居)

コラム
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長 甲賀源吾
甲賀源吾
享年31 戦死
被弾しながらも陣頭指揮をとった回天丸艦長
生没:1839~1869
命日:3月25日
墓所:光源寺(東京都文京区)

甲賀源吾

蝦夷共和国のエリート幹部
遠江掛川藩士(静岡県掛川市)・甲賀秀孝の四男に生まれ、本名は秀虎という。
十七歳で蘭学を学び、安政五年(一八五八)には軍艦教授頭・矢田堀鴻に従い、長崎の海軍伝習所で航海術を学んだ。
その後、矢田堀の甥・荒井郁之助とともにオランダ語の高等数学を研究している。

幕臣時代は軍艦操練教授方、伝習所軍艦役など海軍のエリートコースを進んだ。
慶応四年(一八六八)には軍艦頭並に昇進したが、すでに幕府は瓦解し、戊辰戦争が勃発。
旧幕府軍の敗色濃厚のなかで旧幕府海軍にいた甲賀源吾は、海軍副総裁・榎本武揚とともに品川沖に碇泊し、徳川家の処置の成り行きを見守っていた。

四月十一日、江戸城の明け渡しが行われたが、徳川家の処置に対して不満をもっていた榎本武揚らは軍艦の引き渡しを拒否。
八月十九日に「開陽丸」「回天丸」「蟠竜丸」「千代田形丸」の軍艦四隻とともに品川沖を脱出し、新政府軍に抵抗する東北諸藩の救援に向かった。
このとき甲賀は「回天丸」の艦長をつとめている。

榎本らの旧幕府艦隊は仙台藩領の松島湾に碇泊したが、九月に入って東北諸藩が次々と降伏したため、元新撰組副長・土方歳三ら抗戦派の兵を収容して蝦夷地(北海道)へ向かった。
甲賀の「回天丸」は、箱館港を占領するなど蝦夷地平定で活躍し、江差で「開陽丸」が座礁したあとは旗艦となる。
十二月十五日には蝦夷共和国を樹立し、甲賀は閣僚として軍艦頭になった。

ガトリング砲の前に散った艦長
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めるはずもなく追討令を発布。
雪解けとともに新政府軍と剣を交える。
新政府はアメリカ製の最新戦艦「ストンウォール」で蝦夷地征伐に出港。
元々は旧幕府が購入を予定していたが、瓦解によって明治二年(一八六九)二月三日新政府に引き渡され、「甲鉄艦」と命名された戦艦である。

一方、「開陽丸」を失った旧幕府軍は、新政府軍の上陸を阻む術を持っていなかった。
そんな折、「甲鉄艦が宮古湾に寄港する」という情報を得た甲賀源吾は、これを奇襲して拿捕する作戦を考案、土方歳三がその指揮をとることになった。
この作戦は「アボルダージュ」と呼ばれる接舷攻撃で、敵艦に乗り込んで奪い取るという戦術である。

三月二十日、「回天丸」「蟠竜丸」「高雄丸」の三隻で箱館を出港したが、暴風雨に遭い、三隻は離散。
結局、二十五日早朝に宮古湾に到着したのは「回天丸」だけで、他二隻を待たずして突入することになってしまった。

「回天丸」は、アメリカ国旗を掲揚、「甲鉄艦」をあざむいて間近に迫り、接舷したところで急に日章旗をひるがえし虚を衝いた。
しかし、「回天丸」の艦首と「甲鉄艦」の甲板との間に約三メートルの落差があった。
突撃部隊は敵艦に飛び下りるのをためらい、敵に反撃態勢を整える余裕を与えてしまった。
「甲鉄艦」には一分間に一八〇発の銃弾を撃てるガトリング砲があり、斬り込み部隊はあえなく撤退。
ひとり気をはいた新撰組隊士・野村利三郎も、数名を斬り殺すも、「回天丸」に引き上げる直前に戦死してしまった。

甲賀源吾は、そのガトリング砲で左脚や右腕に被弾しながらも甲板で指揮をとったが、左のこめかみを撃ち抜かれて落命した。
「回天丸」は荒井郁之助が舵を握って箱館へ帰還した。
この宮古湾海戦に新政府軍として参戦していた東郷平八郎(当時二十三歳)は、「天晴な勇士であった」と追悼の意を表している。


「江戸無血開城」を成し遂げた男の生涯に迫る
12月24日、『勝海舟と江戸東京』(樋口雄彦著、吉川弘文館)が刊行。
慶応4年(明治元年 1868年)4月の「江戸無血開城」を成し遂げた江戸藩士・勝海舟。
その功績は、2013年度大河ドラマ『八重の桜』をはじめ、現在においてもさまざまな形で伝えられる。

本書『勝海舟と江戸東京』は、在野の巨人として影響力を及ぼした明治以降にいたる生涯を活写する一冊。
著者は国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』(吉川弘文館、2012年)の樋口雄彦。

咸臨丸で渡米した幕臣時代にはじまる、海舟の生涯にゆかりの深い江戸東京の史跡を訪ねる。
戊辰戦争で明治新政府軍・幕府軍の双方から厚い信頼を集め、江戸城無血開城を果たした勝海舟。
本書は、海舟ゆかりの江戸東京の史跡を訪ね、実像に迫る。
エンターテインメント
「風雲児たち 幕末編」150回&新刊記念で5巻まで無料配信
発売中のコミック乱2014年2月号(リイド社)にて、みなもと太郎「風雲児たち 幕末編」が連載150回を達成。これを記念して、今号にはみなもとの特別インタビューが掲載されている。

また「風雲児たち 幕末編」最新23巻の刊行に合わせて、「風雲児たち」シリーズの特設サイトがオープン。多数の電子書籍サイトを通じて、「風雲児たち」「風雲児たち 幕末編」の各1~5巻を無料配信している。さらに全巻セットの特別価格販売も実施中。まずは記事末のリンクからサイトを覗いてみよう。

このほかコミック乱2014年2月号では、「黒鷺死体宅配便」の山崎峰水が数年ぶりに山崎浩名義を用いて、新連載「てくてく~東海道ぬけまいり~」をスタート。さらに3月号からは「ばら物語」「東京物語」で知られる、滝沢聖峰による「物語」シリーズの新作「二兎物語」が幕を開ける。
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