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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 昨日今日あたり、日差しが春めいてきました。土方さんの好きな梅の花の季節ですね。

千葉
歴史の波にのまれ忘れ去られ 戊辰戦争時に沈没の米蒸気船 13日に初の米国人慰霊祭 千葉・勝浦市
 戊辰戦争中の明治2(1869)年2月13日に千葉県沖で沈没した米蒸気外輪船の米国人犠牲者22人を弔う慰霊祭が13日、同県勝浦市の津慶寺で初めて開催される。地元有志が約140年という歴史の波にのまれ忘れられていた事故の詳細を調査した成果の一端だ。有志らは遺族を捜す努力も続けており、「慰霊を通じて日米友好に少しでも貢献できれば」と話している。

 慰霊はこれまで、他の事故の水難者らも合わせて同寺で8月に行われていた。

 沈没した米船は木造蒸気外輪船ハーマン号で、米海運会社が運航し日本国内で輸送事業に従事。官軍側の肥後藩が函館・五稜郭に籠城する榎本武揚軍討伐のため、藩士や武器弾薬、軍資金を輸送する目的で傭船した。明治2年2月12日に肥後藩士ら350人と米国人乗組員80人を乗せ高輪沖(現品川沖)を出航。だが、13日夜に暴風雨により現在の勝浦市川津沖で座礁、沈没した。水死・行方不明者は日本人200人以上、米国人22人とされる。

 事故後、明治11年には事故現場が見渡せる丘に慰霊碑が建立され、現在も「官軍塚」として勝浦市の歴史文化財に指定されているが、米国人乗組員が犠牲になったことは碑文に表記がなく、22人の名前も分かっていない。米国人犠牲者の存在自体が「完全に忘れ去られていた」(市社会教育課)という。

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ハーマン号を描いた油絵の写真(大野幹雄さん提供)

 元外国航路船長の大野幹雄さん(68)は、勝浦市への転居を機に水中考古学者から関連の資料を入手。米国人犠牲者がいたことを知り、「他国の内戦に巻き込まれて亡くなったのに、きちんと慰霊されないのは気の毒だ」と身元調査を始めた。だが、ハーマン号を運航していた海運会社の売却先などに調査を依頼したものの、資料は現在のところ見つかっていない。

 ただ、肥後藩士が作らせた絵巻物に地元の漁師らが救助にあたっている様子が描かれていることなどから、「当時の日本人が懸命に米国人を助けようとしたハーマン号事件を多くの人に知ってもらう契機になれば」と奮起。先祖が旧川津村の網元で救助に携わったといわれている子孫らの有志とともに、事故が起きた今月13日に日米双方の犠牲者を弔う慰霊祭を開くことを決めた。

 慰霊祭には、肥後藩士の遺族を招く予定で、来年以降は米国の関係者にも参加を呼びかけるという。(田中靖人)


神奈川
幕末に思いはせ、「中島三郎助まつり」開催/横須賀
 幕末20+ 件にペリー艦隊が来航した際にアメリカ側との折衝に当たった浦賀奉行所の役人・中島三郎助の功績をたたえるイベント「中島三郎助まつり」が29日、横須賀市浦賀の住友重機械工業浦賀工場(浦賀ドック)で開かれた。

 市民グループ「中島三郎助と遊ぶ会」などの共催。三郎助の誕生日に合わせて毎年開催している。

 特設ステージには三郎助を描いた垂れ幕が掲げられ、郷土史家の山本詔一さんが講演したほか、日本舞踊やフラダンス、ブラスバンド演奏などが披露された。ペリー艦隊来航にちなんだ「黒船シチュー」は用意した300食が昼すぎに完売する人気ぶりだった。

 遊ぶ会の大内透会長は「三郎助の素晴らしい人間性や功績を地元の人に広く知ってもらいたい」と話していた。


幕末藩士の生涯
盛本さんの文化講演会

 金沢の文化講演会「武州金沢藩・上級家臣 萩原唯右衛門則嘉」が2月18日(土)、金沢公会堂(区役所隣)で開催される。午後1時30分から3時30分。

 講師は文学博士・歴史研究家の盛本昌広さん。1853年、米国のペリー提督来航時に乙艫浜と浦賀製鉄所の警備にあたり、江戸藩邸や浦賀奉行所との連絡・情報収集に活躍するなど、幕末動乱期に生きた萩原唯右衛門の生涯について講演する。定員は先着400人(予約不要)。参加費は200円(資料代)。

 問い合わせはNPO法人横浜金沢文化協会【電話】045・781・8665(白井さん)へ。


京都
NHK大河ドラマ:「八重の桜」 新島八重が愛したひな人形、同志社女子大・今出川で展示 /京都
◇穏やかで優しかった「女傑」の人柄知って
 来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン、新島八重(1845~1932)ゆかりのひな人形が京都市上京区の同志社女子大今出川キャンパスで展示されている。同志社の創設者・新島襄の妻であり、よきパートナーとして女子教育にも尽くした八重の人となりを知ってもらおうと企画した。

 会津藩砲術師範の家に生まれ、戊辰戦争では自らも銃を執り戦った女傑といわれる八重だが、おひな様の道具類をいくつか持っていたという。「毎年三月になると押し入れからお人形を大事にとりだして、久しぶりに会う人に話しかけるようにあいさつしながら、一つ一つ丁寧に顔を絹のきれでふき、ひな壇にかざって楽しんでおられた」と、晩年を知る人が回想している。

 今回は新島家と親交があり、同志社女学校校長などを務めた末光信三(1885~1971)に八重が贈ったひな人形を特別に借り受け、展示した。

 会場を訪れた信三の二女清子さん(88)は「八重さんは女傑と言われるが、私たちには穏やかで優しい女性でした。“新島のおばあちゃん”と呼んでずいぶん甘えさせてもらった。ひな人形を通して、今の若い人にも八重さんの人柄を知ってほしい」と話していた。

 女子大と女子中学・高校、同志社同窓会の共催。4月25日までの平日午前10時~午後4時、ジェームス館1階史料室で一般の見学も可能。問い合わせは同史料室(075・251・4200)。【榊原雅晴】


元気に変身! 三条会商店街でおばけパレード
 節分の夜に老若男女が扮装する風習「おばけ」を現代に復活させた、おばけパレードが4日、京都三条会商店街(京都市中京区)で行われ、大学生ら約100人が練り歩きました。

 年齢や性別を飛び越えて異装する「おばけ」の面白さを知ってもらおうと京都精華大学人文学部教授の真下美弥子さん(京都学)が提唱したもので、同大学生らでつくる「精華おばけ会」が主催し、今年で3回目。

 この日は、巫女に扮した男性や新選組隊士姿の女性をはじめ、アンパンマン着ぐるみ、アニメキャラのコスプレなど多彩に扮装した大学生や中京女性会のメンバーら約100人が参加。800メートルある商店街の中を阿波おどりの曲や中京音頭にあわせて踊りながら歩きました。

 「生徒会長」の金文字が入った学ラン姿で元気よくパレードの先頭を歩いた上田製菓本舗店主の上田昇さん(63)は、「50年前にタイムスリップしたつもりで歩きました。恥ずかしかったですが、楽しかったです」と話していました。


愛媛
明治維新の立役者・大村益次郎宅跡地の民家全焼
 11日午前10時15分頃、愛媛県宇和島市神田川原の無職松本百合子さん(80)方から出火、2階建て約130平方メートルを全焼した。


 松本さんは逃げ出して無事だった。

 宇和島署の発表では、一人暮らしの松本さんが同7時30分頃から、1階にある仏壇のろうそくに火をつけたままにしていたという。同署は、その火が何かに燃え移ったのではないかと見て調べている。

          ◇

 宇和島市などによると、松本さん方は、幕末から明治期にかけて日本軍隊の基礎を築いた大村益次郎(村田蔵六)の住居跡地。作家司馬遼太郎が、大村を主人公に描いた小説「花神」がNHKの大河ドラマで放送された1977年には、観光バスで見学に訪れる人も多かった。

 大村ファンだった松本さんの祖父が、約100年前に土地を購入。現在は市指定史跡になっているが、当時の面影は残っていない。

(2012年2月12日10時14分 読売新聞)


鳥取
鳥取城の橋脚出土 大手登城路・擬宝珠橋
 鳥取城の大手橋に当たる擬宝珠(ぎぼし)橋の橋脚が出土したと9日、鳥取市教委が明らかにした。江戸から明治時代にかけて3回の架け直しが確認され、市教委が復元を目指している幕末期の橋脚の幅は約5・4メートルで、材種はマツだったとみられる。復元する際の資料となる。


幕末期の擬宝珠橋の橋脚。左の高い橋脚は明治以降、その右にある低い橋脚は幕末期以前のもの=9日、鳥取市東町2丁目の大手橋下

明治初期の写真に写る擬宝珠橋。この橋脚の一部が見つかった=鳥取市教委提供
 擬宝珠橋は、幅が約30メートルの内堀に架かり、正門である中ノ御門につながる。幕末期には、明治初期の写真からアーチ橋だったことが分かっていた。

 大手登城路の復元整備の一環で鳥取市教委が昨年12月から擬宝珠橋跡を発掘。橋脚の一部が62本出土した。

 橋脚が打ち込まれた堆積部分の新旧関係や橋脚の並び方などから、幕末期(マツ材)▽幕末期以前(クリ材)▽明治以降(マツ材)-の橋脚が確認された。

 このうち幕末期の橋脚は、直径30センチ前後のマツを横に3本並べたものが4列出土。幅は5・4メートルほどだった。現在の橋脚の下にあと2列があったと想定され、全部で6列だったとみられる。

 幕末期以前の橋脚の年代は不明。明治以降の橋脚は、1889年ごろに幕末期のアーチ橋から架け替えられ、1963年に現在のコンクリート橋に架け替えられた木造橋のものとみられる。

 市教委文化財課の坂田邦彦文化財専門員は「調査前には残っていないと思っていた橋脚が、意外に良好な形で残っていた。これほど大規模な城の橋跡の調査は珍しい」と話している。

 現地説明会は11日午後1時から開かれる。



佐賀
幕末の西洋砲ずらり モルチール砲…
 江戸後期から幕末にかけ武雄での西洋砲の鋳造などの取り組みが、佐賀藩や日本の近代化に果たした役割を探る武雄市図書館・歴史資料館(愛称、エポカル武雄)の特別企画展「武雄の時代 西洋砲術導入の軌跡」が11日から始まる。3月20日まで。無料。
 28代武雄領主・鍋島茂義(1800~1862)は1830年ごろ、長崎警備を担当した際にオランダ船を見学し、西洋の進んだ科学力に感銘した。その後、積極的に蘭学(らん・がく)の導入に踏みきり、西洋砲術の習得や大砲鋳造に取り組んだ。
 領主命で、武雄領の下級武士の平山醇左衛門(じゅん・ざ・え・もん)に、長崎の西洋砲術の第一人者の高島秋帆(しゅう・はん)から砲術を学ばせた。自らも砲術の基本原理などを習得。1835(天保6)年4月には、秋帆の指導で日本初の野戦砲「モルチール砲」を鋳造。試射にも成功している。
 1840年9月、神埼・岩田射的場(現在の神埼市神埼町尾崎)であった砲術訓練で、上覧していた第10代佐賀藩主・鍋島直正から武雄武士の砲術は高い評価をうけた。その技術は佐賀本藩にもたらされ、反射炉建造や鉄製大砲の鋳造成功につながったとされる。
 特別展では、初めて日本で鋳造され、武雄鍋島家の「抱銀杏(だき・い・ちょう)」の家紋がはめ込まれた「モルチール砲」や「ボンベン野戦砲」「ナポレオン式四斤野砲」「カノン砲雛(ひな)型」などを展示。大砲鋳造絵巻や大砲設計図など含め約150点を集め、佐賀藩や幕末期の幕府に武雄領がどんな影響を与えたのかをたどっている。
 11日、25日、3月11日、20日の午後1時半から学芸員による展示解説が予定されている。今回の特別展図録(千円)もある。開館は午前9時~午後5時。休館日は毎週月曜日と第3木曜日。問い合わせは武雄市図書館・歴史資料館(0954・20・0222)。(長沢豊)

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(148)東大教授・山内昌之 橘曙覧(上)

楽観と人間愛の幕末歌人

 2月最初の週末、越前は福井に2日ほど遊んだ。セーレン社長の川田達男氏とご夫人の案内で訪れた福井市橘曙覧記念文学館は小ぶりであったが、市民が橘曙覧に寄せるほのぼのとした尊敬心が控えめに発露された施設で、福井人の奥ゆかしさが好ましく感じられた。

「独楽吟」52種の連作陳列

 なかでも、曙覧の「独楽吟(どくらくぎん)(ひとりたのしめるうた)」52種の連作が照明スタンドに浮かび上がるように陳列されているのは、郷土の生んだ偉大な国学者歌人の名作を現代の若者にも近づけようという工夫なのだろう。

 曙覧は、歌道や学問ですぐれていただけでなく、人柄でも幕末越前の名士たちに愛された。藩主、松平春嶽(しゅんがく)やその重臣、中根雪江(せっこう)らとの交流もあり、その門人の一人が三岡八郎(由利公正(きみまさ))であった。

 明治に改元される直前の慶応4(1868)年に56歳で物故したために、維新の事業には関わらなかった。また、たとえ明治維新を生きて迎えたとしても、城への出仕と進講を求めた春嶽の誘いを歌で婉曲(えんきょく)に断ったくらいだから、政治に関わる可能性は少なかったかもしれない。

 それでも曙覧がいまの日本人の心を引き付けるのは、幕末という動乱期にあって、歌のモチーフとして素直に人間や家族の愛を取り上げ、日々のかけがえのない生活をつつましく読み込んだ楽観主義にあるのではないか。

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福井市橘曙覧記念文学館内に再現された、曙覧の住居「藁屋」のジオラマ=福井市(山内昌之撮影)

現代人慰謝するエスプリ

 「たのしみは~とき」の形で詠まれた作品の独楽吟には、歌人や国学者だった曙覧が家庭人としても円満だったことを知る歌が多く収められている。それらは公人と私人の領域をいかに円滑につなげるかで苦労する現代人の心を慰謝するエスプリにあふれている。

 たとえば、日ごろは質素な食事に甘んじている曙覧も、たまには子供の喜ぶ姿を見たくて、奮発した魚を煮物にして夕餉(ゆうげ)をとった。すると、「父上おいしい、おいしい」と子供が喜ぶさまを詠った作品がある。

 たのしみはまれに魚烹(いおに)て児等(こら)皆(みな)が

 うましうましといひて食ふ時

 歌だけでも楽しそうな情景が浮かび上がる。橘曙覧記念文学館に出かけられる人なら、2階の陳列室のすぐ入り口に飾ってある一家団欒(だんらん)の人形を見て顔がほころぶ人も多いだろう。この歌の情景がありありとしのばれる曙覧の家族団欒の絵模様だからである。

米大統領、歓迎式典で引用

 橘曙覧の作品には洋の東西を超えて人の心を打つ要素が秘められているようだ。有名なのは、平成6年6月の天皇皇后両陛下のアメリカご訪問の折、クリントン大統領が歓迎式典のスピーチで曙覧の歌を引用したことであろう。

 たのしみは朝おきいでて昨日まで

 無かりし花の咲ける見る時

 朝早く寝床から起き出して、庭にふと目をやると、昨日まで咲いていなかった朝顔が美しく咲いていることに明日ひいては未来への希望を託したともいえる歌なのだろう。

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福井市橘曙覧記念文学館内に再現された、曙覧の住居「藁屋」のジオラマ=福井市(山内昌之撮影)

 クリントンはこの歌を引いて、「その伝える心は時代を超えたもの」だとした。「一日一日新たな日とともに確実に新しい花が咲き、ものごとが進歩し、日米両国民の間の友好をはぐくむのです」というスピーチの内容は、橘曙覧の詩想からさほど隔たったものではないだろう。

 さて私は東大教養学部の新入生に対して、橘曙覧もたたえた楽しい読書の世界に没入するように勧めたことがある。ある読書ガイドを岩波文庫の『橘曙覧全歌集』を紹介しながら結んだのである。

 たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり

 始め一ひらひろげたる時(「古典の力--和漢洋印回の魅力」『教養のためのブックガイド』東京大学出版会)

 その結果は、曙覧ぶりを発揮するとすれば、次のようなものでもあろうか。

 たのしみは紅顔可憐の若者が噴水背にし

 曙覧耽読(たんどく)するをひそかに見る時(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】橘曙覧

 たちばなの・あけみ 文化9(1812)年、越前国(福井県)福井城下の商家に生まれる。天保10(1839)年、家督を弟に譲り隠棲(いんせい)。国学者・本居宣長の弟子の田中大秀に国学や歌を学ぶ。福井に居を構えて清貧の生活を送り、歌作と学問研究に没頭。慶応4(1868)年、死去。その歌風は正岡子規らに大きな影響を与えた。


【幕末から学ぶ現在(いま)(147)】
松平主税助 政治家の貴種伝説(東大教授・山内昌之)

 政治家は、有権者にまず名前をおぼえてもらわないと仕事が始まらない。時に国会議員に会う機会もあるが、異様に大きな活字で名前を印刷した名刺をもらって仰天することも多い。時にはカラー写真付きの名刺をもらうこともある。学者間の付き合いでは写真の付いた名刺をもらったこともなく、名前の印字も互いに慎ましやかなものだ。

 政治家は一種の“人気稼業”という点で芸能人とも似ている。何かで出自や家系が誤解された場合でも、自ら詐称したものでない限り、全員が正確に訂正するわけではないらしい。貴種(きしゅ)の評判や名門の伝説も、集票の役に立てば、それもよしというところなのだろう。

伝説をつくりやすい家系

 似たようなことは幕末史にもある。文久2年12月(1863年1月)に、幕府の武芸訓練機関である講武所(こうぶしょ)の剣術教授方(きょうじゅかた)と兼任する形で新選組の前身、浪士組をとりまとめる浪士取扱に就任した松平忠敏もその類であろう。松平主税助や上総介(かずさのすけ)として知られる人物である。

 彼が長沢松平家の出身であり当主の地位を継いだのは事実であるが、彼が徳川家康の六男、松平忠輝(ただてる)の血を継ぐというのは怪しい。しかし、新徴組支配を命じられた主税助は、京の浪士たち、なかでも新選組の近藤勇や土方歳三(ひじかた・としぞう)などの活躍と二重写しになって高貴な“家門”として人気を呼んだのだろう。

 長沢松平という家系が実にスター伝説をつくりやすい仕掛けになっていた。江戸幕府が開かれてまもなくその家の養子となった松平忠輝は、伊達政宗の娘五郎八(いろは)を妻に迎え前途洋々にも見えながら、兄の将軍秀忠に嫌われて改易(かいえき)されてしまった。

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 しかし、忠輝には別に娘がいたらしく、分家の人物が彼女を迎えて長沢松平家を再興したとされるが、幕府はこの流れを嫌い、公に認められたのは享保4(1719)年のことらしい。しかも無易(むろく)であり、どうにか幕府から俸禄が下されたのは天保5(1834)年であった。

 それも10人扶持(ぶち)だったというから御家人の軽輩身分くらいの待遇であった。このあたりが佐々木味津三(みつぞう)の小説『旗本退屈男』の「ぐずり松平」の殿様のモデルになった所以(ゆえん)であろう。東海道は三河国長沢村(現在の愛知県豊川市)に陣屋を構える由緒正しき貧乏殿様の松平源七郎が、将軍家からの書き付けを根拠に道中往還の大名家から石高相応の貢物(こうもつ)をせしめとる話である。

 退屈男の早乙女主水之介(もんどのすけ)は源七郎のために、薩摩の島津家から3万両を葵の御紋と口舌でまんまと取り立てた。もとより源七郎は実在の人物でなく、忠輝と同じように兄の将軍家光に盾突いて改易された駿府藩主、徳川忠長(ただなが)の伝説上の長男なる長七郎の名からヒントを得たものだろう。しかし現代ともなれば長七郎の実在自体が疑わしい。ともかく、この不遇の名跡には、どこか歴史伝説をつくらせる魅力があったのだろう。

 主税助忠敏はこの長沢松平家当主親芳の三男として文政元(1818)年に長沢に生まれ、後に兄の忠道の養子となって家督を継いだのである。

 天保13(1842)年に江戸へ出たというから、貴種とはいえ都市型の柔弱な殿様ではなかった。幼少から柳剛流剣術を修め、後には心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の伊庭(いば)軍兵衛にも学んだようだが、近藤勇ら浪士のように本物の剣士だったわけではないだろう。

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 文久3(1863)年正月に講武所の剣術師範役並に昇進し、上総介に任官して80人扶持を給されたあたりからやや生活も安定しはじめる。同年の将軍家茂上洛に際し、治安が悪化した京都での警護役として募った浪士組を指揮する浪士取扱の役にも任じられたが、集まった過激な面々を見て何らかの不都合を感じたためか、この職は早々に辞している。その後、大政奉還後の慶応4(1868)年に2千石をもらう小普請支配となったのが家運の絶頂であった。

血筋の割には恵まれず

 主税助は血筋や家格の割には恵まれない生涯を過ごした。封建社会でも家柄だけでは何ともならない不条理が作用して、禄高や公職に恵まれない才人もいたのである。

 後世の時代小説家たちは、その家系を忠長や長七郎の伝説と知ってか知らでか混同し、また貴種にしては達者だった剣術の才を近藤や土方レベルの腕前と思いこみ、一大スターに仕立て上げたのである。これも幕末という動乱の時代が背景になければ起こりえなかったことだ。

 つくられた伝説や思い込みも、政治家にとっては大切な武器であろう。ただし行き過ぎると、“宇宙人”などと自他ともに面白がった末に、日本の国を危うくしかねない“貴種”政治家も現れる。

 いつの時代でも、育ちと実力が整合して、胆力も兼備する政治のリーダーを見いだすのはむずかしいことなのだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】松平主税助

 まつだいら・ちからのすけ 本名は忠敏(ただとし)。文政元(1818)年、三河国(愛知県)生まれ。長沢松平家の当主となり、天保13(1842)年に江戸に出る。安政3(1856)年、講武所剣術教授方。文久2年12月(1863年1月)、浪士取扱に就任したが、翌3年に辞任。慶応4(1868)年、小普請支配。明治15(1882)年、死去。

【決断の日本史】
(109)1868年9月22日 会津藩、降伏す

京都守護職・松平容保の意地

 会津23万石の第9代藩主、松平容保(かたもり)(1835~93年)ほど維新動乱の悲劇を体験した人物はいないのではないか。文久2(1862)年、京都の治安を担う「京都守護職(しゅごしょく)」が設けられると、その任に就いた。重臣たちは「薪を負い火中に飛び込むつもりでしょうか」と大反対した。

 当時の京都は尊王攘夷(じょうい)を叫ぶ志士たちが集結し、暗殺や略奪が横行する無法地帯となっていた。容保は千人の家臣団のほか新撰組も配下に置き約5年間、難しい職を務めた。働きぶりは孝明天皇からも深く信頼された。

 しかし、薩摩・長州の同盟により倒幕という大きな流れができあがった。「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた容保は最後の将軍、徳川慶喜とともに江戸へ逃げ帰る。慶喜がひたすら恭順の姿勢を示したのに対し、容保は徹底抗戦の意思を捨てず、会津に戻った。

 会津は藩祖・保科正之が徳川家光の異母弟にあたり、「将軍家への忠勤」を藩是(はんぜ)としていた。その将軍が降伏したのに、容保はなぜ矛(ほこ)を収めなかったのだろう。彼の目には、薩長勢力が天下の大権を私物化しているとしか映らず、許せなかったのではないか。

 明治元(1868)年8月23日、新政府軍が会津に攻め込んだ。容保は藩士ら約5千人とともに鶴ケ城(つるがじょう)に籠もった。少年兵が自刃した白虎隊の悲劇などは知られる通りである。

 新政府軍約3万の猛攻の前に、籠城軍はよく耐えた。しかし1カ月後の9月22日、容保は降伏を申し出た。京都時代以降、戊辰(ぼしん)戦争での会津藩の死者は約2500人にものぼる。

 将軍に裏切られ、「朝敵」の不名誉も受けた容保だったがのち許され、東照宮宮司などを務めた。しかし自らの思いを口にすることはなく、藩士らの菩提(ぼだい)を弔いつつ、明治26年12月5日、59歳で亡くなった。(渡部裕明)


江戸の町のB級グルメは?
 江戸の四大グルメといわれた、うなぎ、そば、天ぷら、すし。

 これらは元々、町の屋台で売られたものでした。つまり、B級グルメの出身だったのです。

 うなぎは、万葉集にも登場する、古くからの食べ物です。江戸の初期には、うなぎを丸ごと串刺しにして、火であぶったものを屋台で売っていました。脂っこくて、まずいのですが、「精がつくから」と主に肉体労働に従事する人たちが食べていました。

 それが、江戸中期に「蒲(かば」焼き」という調理法が考案され、さらに「土用の丑(うし)の日」(平賀源内の発案と言われていますが、確証はありません)が定着したため、爆発的に普及したのです。B級屋台を卒業して、特Aクラスのうなぎ専門店へ。文字通り、うなぎ登りの出世です。

 落語の「時そば」に登場するのは、そばの屋台です。二八の16文で売っていたので、通称「二八そば」。当時のそば1杯は、現在よりもかなり量が少ないものだったようで、メーンの食事というよりも、おやつ、あるいは間食という位置づけです。大きな商家の奉公人や、夜鷹などが夜中に小腹を満たすのに絶好の軽食でした。

 天ぷらや、すしも、始まりは屋台のメニューでした。揚げたての天ぷらや、目の前でにぎってもらうすしは、気の短い江戸っ子にぴったり。早くて安直なファストフードだったようです。

 ただ、どちらも幕末には、料理店、専門店のメニューに加わり、あっという間に、庶民には手の届かない高級料理になってしまいました。

 江戸のB級グルメは、そのほとんどが、屋台から生まれたものでした。
(編集委員・長井好弘)



エンターテインメント・海外
「壬生の狼」ロシアを駆け巡る
 2月6日は演劇「壬生のオオカミ」の誕生日です。この作品の初演はちょうど2年前にニージニー・ノブゴロドで行われた。
  ニージニー・ノブゴロドは、ヴォルガ川とオカ川が合流する場所に位置する。壬生は、前世紀の中ごろまで日本の都だった京都の郊外に位置地する場所となっている。まさにこの京都で、江戸幕府と尊皇派が激しい戦いを繰り広げた。新選組は将軍を守護するために集められた若い侍たちだった。新選組は「壬生の狼」との別名を取っていた。

 遠い日本の遠い昔の出来事にロシアの若者が関心を持つのは不思議なことだ。皮膚科医のアラ・グリゴリエワさんと技師のエレーナ・ペレヴェルタイロさんは、ヘリガ・エン・ケンチとエニドという名前のもと、演奏家と若者向けフェスティバルのオーガナイザーを務め、個性的な音楽劇を作り上げた。この音楽劇は、日本の宝塚と芸者と舞妓の舞台をもとにして作られている。このチャンバラを含む音楽劇は、ロシア国内の多くの都市で大成功を収めた。インターネットにはこの劇のファンサイトまで作成された。



このビデオの提供者はヘリガ・エン・ケンチ 

「壬生の狼」公演2周年を記念して、ヘリガ・エン・ケンチさんは「ロシアの声」の記者、ヴェロニカ・クリモワのインタビューに答えた。

 「ヘリガさん、このお芝居の特徴はなんだと思いますか?」

 「『壬生の狼』は音楽劇です。上演時間は2時間で、19世紀の幕末の日本でおきた史実に基づいて構成されています。この劇のもっとも重要なテーマは「誠」です。すべての登場人物には、自分の誠と正義の考えがあります。でも、彼らは遅から早かれ、運命を決する決断を下し、難しい選択をしなければなりません。ある者は、大義のために自身の誠を曲げ、ある者はその反対に、死を選びます。そのどちらが正しいのかは、観客が決めることです。

 私たちの演劇では、女性がすべての役を演じます。これは、ロシアの演劇の伝統には背きますが、日本の演劇からヒントを得た演出です。

 この劇の演出は、京都の「都踊り」から直接的な影響を受けています。幕が開くと、女性の衣装を身に着けた俳優が、劇の歴史的背景を物語り、これから上演される場面について観客に語ります。そして、その間に、女性の衣装を着た何人かの俳優は、様式的な男性の衣装に着替え、物語の始まりが様式的に示されます。」

 「観客の『壬生の狼』への反応はいかがですか?」

 「この劇は2年間上演されていますが、その間にファンクラブができて、ファンたちは毎回の上演に通い、感想を書き、似顔絵を描き、劇のモチーフをもとにしたヴィデオクリップを作成してくれています。毎年私たちは大晦日に観客の創作作品のコンクールを行っています。もちろん私たちは自分たちがプロの劇団だと名乗るつもりはありませんし、まだまだ練習を積まなければならないと思っていますが、今既に達成していることを誇りに思っています。

 今日、ロシアには幕末に関心を持つ人が増えており、情報を探したり、翻訳を発表したりしています。そして、それらの人々の多くは、ミュージカル「壬生の狼」を観てから幕末に関心を持ったと話しています。」

 「坂本竜馬に関する演劇を準備中だと伺いましたが。」

 「3月10日にモスクワで、幕末を特集したフェスティバルを開催することを計画中です。このフェスティバルでは、幕末のファンが出会い、交流し、知識を交換し、舞台に出演することが可能です。私たちのミュージカル「壬生の狼」も上演予定ですし、新作品も公開に向けて現在準備中です。新作品は「袖の中の龍」と名付けられており、幕末の志士、坂本竜馬に捧げられています。

 「壬生の狼」の初演の時から、観客から、「どうして坂本竜馬はでてこないんですか?」との質問がありました。そうしたとき、私たちは、坂本竜馬は日本を大きく変えた人物なので、別個の作品で取り上げますと答えてきました。私たちの観客はとうとうこの偉大な人物を舞台で見ることができるのです。

 「袖の中の狼」では、「壬生の狼」とは異なる演出方法が採られます。この新しい作品を私たちの常連の観客が気に入ってくれて、さらに新しい観客が集まることを期待しています。」


手塚治虫「陽だまりの樹」市原隼人&成宮寛貴主演で実写化
手塚治虫の「陽だまりの樹」が実写化される。NHK BSプレミアムのTVドラマとして、4月から放送が始まる予定だ。

「陽だまりの樹」の舞台は幕末。開国、戊辰戦争15 件、明治維新と大変革の時代に、友情で結ばれた対照的な2人の若者を描いた時代劇だ。主役の伊武谷万二郎役は市原隼人、手塚の曽祖父に当たる手塚良庵役は成宮寛貴が演じる。

そのほかにも、おせき役は黒川芽以、藤田東湖役は津川雅彦、伊武谷千三郎役は西岡徳馬、おとね役は池上季実子、手塚良仙役は笹野高史、お中役は古手川祐子、おつね役は大塚シノブ、お品役は笛木優子、綾役は大塚千弘と発表された。


上川隆也×吉川晃司 W主演で手塚マンガを舞台化

手塚治虫の長編歴史漫画の代表作として知られる『陽だまりの樹』が、上川隆也と吉川晃司のダブル主演で上演される。ふたりの共演は今回が初めてで、吉川はストレートプレイ初挑戦となる。今年4月の上演に先立ち、1月19日に制作発表記者会見が行われ、意気込みを語った。

『陽だまりの樹』チケット情報

『陽だまりの樹』は、テレビアニメ化や過去4回の舞台版をはじめ、数多く上演されている作品。太平の世の中にあり、いつの間にか内部が腐ってしまった徳川幕府が終わりを迎えようとしている幕末の時代に、エリートだが夢想家でノンポリな医者の手塚良庵(上川)と、無骨で真面目な性格で模範的な武士の伊武谷万二郎(吉川)の、対照的なふたりが絆を深めながら混乱の時代を生き抜く物語だ。種痘所開設や黒船来航、戊辰戦争、西南戦争と激動する時代の中で、理想と現実にもがき苦しみながらも精一杯生きるふたりの姿が描かれる。

女にだらしなく情に厚い良庵を演じる上川は「こういった軟派な役がらは、実は今まであまりやらせてもらったことがなく、新鮮な気持ちでお受けしました。僕は殺陣もなく体力的な心配はありませんので、良庵の人となりをしっかり考えながらやってみたい」と語った。自身の役について質問を受けた吉川は「知力面は上川さんにおまかせして、僕は体力面かなと。セリフが少ないと(下手が)バレなくていいな」と冗談をとばしつつも「ミュージカルの経験はあるが、ストレートなお芝居は初めてなので、とにかく無心で真っ白なキャンバスとして余計なものを持ちこまないようにしたい。練習では恥をかきにいけることが嬉しいし、ありがたい。胸をお借りして学ばせてもらう」と謙虚な姿勢をみせた。そんな吉川について上川は「何をしてくれるかの方が楽しみ。他にも経験豊かな役者が揃いますが、皆さんが刺激を受けるのはやっぱり吉川さんからだろうと思います」とコメント。また、初共演については「僕とは同い年なので、舞台の上以外でのコミュニケーションも楽しみです。同じ時代感を持っているというのは、きっと舞台にも現れてくるでしょうね。主に音楽をやってこられた吉川さんと、芝居しかやってこなかった僕とで生まれる異文化交流もあるでしょうし、共通する部分と異なった部分からのハイブリッド感が出ればいいなと思っています」と期待を語った。

現代日本にも通じる激動の時代背景で展開する本作。舞台経験の豊富な上川と、音楽での実績をもつ吉川。ジャンルは違えど生のステージを得意とするふたりが、手塚マンガをどのようなコンビネーションで舞台化するのか見ものだ。

東京公演は4月13日(金)から23日(月)まで東京・サンシャイン劇場、大阪公演は5月4日(金・祝)から20日(日)まで新歌舞伎座、名古屋公演は5月24日(木)から27日(日)まで中日劇場で上演。チケットは東京・大阪公演は1月28日(土)10:00より、名古屋公演は3月26日(月)より発売開始。

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