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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
安倍政権が演出「祝明治150年」の陰で 「会津は戊辰を忘れない」論
 安倍晋三政権は今年、「明治維新150年」を唱え、祝賀ムードを全国に広めようとしている。しかし、旧薩摩、長州藩(鹿児島、山口県)を主力とする「西軍(官軍)」に敗れて「賊軍」の汚名を着せられた側では、「明治維新」ではなく「戊辰戦争150年」を掲げる自治体も少なくない。「祝いじゃない。悲しみのときだ」と。怒りの記憶と、忘却について考えた。【藤原章生】

 戊辰戦争で最大の犠牲者が出た会津藩の拠点、福島県会津若松市では、薩長が率いた明治政府、その流れをくむ地域や子孫への怒りが今もあるのか。

 会津藩が19世紀初頭に築いた藩校「日新館」(今は観光施設)の館長、宗像精(ただし)さん(85)を訪ねると、1935年版の歴史教科書「尋常小学国史」をまず読み上げてくれた。<会津藩主松平容保(かたもり)は、奥羽の諸藩と申し合はせ若松城にたてこもって官軍にてむかった>。戊辰戦争で最大の激戦となった会津戦争についての記述である。東北地方で仙台藩に次ぐ規模を誇り、城下で約4万人が暮らした会津藩は、女性らの自殺も含め数千人の死者を出したとされる。「小学6年向けの教科書だから賊軍や朝敵という言葉を使っていないけれども、官軍に『てむかった』とはっきり書いてある。賊軍、悪者ってことだ。薩長中心の官僚が演出した、こんな欺瞞(ぎまん)と歪曲(わいきょく)の歴史を会津の子供たちにも学ばせた。薩長憎しは簡単に消えるもんじゃない」

 宗像さんは、元会津藩士で東京帝大の総長まで上り詰めた山川健次郎監修の「会津戊辰戦史」(33年)を取り出し、「敵軍(西軍)の暴掠(ぼうりゃく)」の章を示す。「『敵は野蛮の甚しき行いのみ多かりし』とある。農工商民から金品、家財、娘らを奪い、薩摩の分、長州の分と山分けして分捕ったと書いてある。韓国の従軍慰安婦の問題があるでしょ。ああいう問題は、金では解決しないんだよ。前から友好を求めてきた山口県萩市に私も去年行ったけど、『仲良く』はできる、でも『仲直り』つまり歴史を水に流すなんてできないとはっきり言ってきた。ただ、長州、薩摩も悪い人ばかりじゃない。だから、子供のために歴史をもう一度検証し、『仲良く』はしていこうと」

 会津藩士らは藩を追われて散り散りになった。子孫にとって明治は悲劇の始まりだ。会津史を書き続ける作家、星亮一さん(82)は、長州勢が受け持った会津戦争の戦後処理が、会津人に積年の反中央感情を植えつけたと語る。「報復を企てる会津藩士を原野に飛ばして息の根を止めろと、長州の木戸孝允が強硬に言い、最終的には1万7000人が青森の下北半島に追いやられた。現地での差別、飢えによる塗炭の苦しみが、近代史上類をみない恨み、怒りを植えつけました」

 NHKの大河ドラマの時代考証などに当たってきた史跡研究専門の会津若松市職員、石田明夫さん(60)は「恨みの根は、明治以降、開発から取り残された点が大きい」と言う。「大きな藩があった地でありながら、戦前、会津には一校も大学ができなかった。道も鉄道も乏しい。だから旧会津藩地域の人口密度がいまも北海道より低い」

 福島県在住の星さんも明治期の「差別」に言及する。「官僚や軍部での出世差別も加わり、積年の理不尽に対する怒りが会津人に限らず、旧東軍の東北、越後の人々に広がった。だから、『明治150年』など認めない」。東京電力福島第1原発事故で出た汚染土の中間貯蔵施設建設を巡り、石原伸晃環境相(当時)が「最後は金目でしょ」と発言したことにも触れ、「政治家の暴言に東北の人が怒るのは、そのたびに怨念(おんねん)が顔を出すからです。安倍さんが明治150年と言う度に我々の心が無視されたと反発するのです」。

 天災の多さなどその風土から日本人は一般に憎しみ、怒りをためないと言われる。会津人は別格なのだろうか。しかし、現在も残る恨みや怒りは、幻想に過ぎないという意見もある。

 「会津という神話」を2010年に著した摂南大准教授、田中悟さん(47)は「会津人の恨みは戦後に強化された一種のファンタジーだ」と言う。「戊辰戦争から60年が過ぎた1928年、会津松平家の勢津子妃が昭和天皇の弟、秩父宮殿下と成婚し、会津は賊軍という汚名を返上しました。またその前の明治末期、若松市(現会津若松市)は陸軍連隊を誘致して軍都になっています。十五年戦争下では、会津精神、白虎隊(戊辰戦争時の青少年隊)の魂こそ日本人のかがみと称賛され、会津人は当時、いわば我が世の春の中にいた。それから戦後間もないころまで、薩長への恨みなるものはほとんど意識の外にあったはずです」

 白虎隊は日独伊三国同盟の下、独伊にたたえられ両国から記念碑を贈られている。そんな史実を示すと、宗像さんは語気を強めた。

 「お人よしの会津人が、薩長が築いた軍部にうまく使われたんですよ。会津人の一面だけを礼賛し利用されたんだが、白虎隊はもっと純でかたくなな思いで自刃した。それを日本精神などといわれるのは、はなはだ迷惑だ」

 郷土史を研究してきた会津若葉幼稚園長、中沢剛さん(84)も、恨みは戦時中に晴れたどころか深まったと言う。

 「会津若松の連隊は『白虎部隊』などと呼ばれ、満州事変、上海事変、のちには南京、ガダルカナル、インパールの最前線に立たされ何度もせん滅に近い状態に遭った。熊本の連隊と並び『強くて文句を言わない』とたたえられて激戦地に放り込まれ、会津、東北は多くの若い人材を失ったのです。若松の連隊も加担した南京事件もそうです。被害者数の議論はあるでしょうが、やられた方は絶対に忘れませんよ」


「ならぬことは ならぬものです」。会津藩士の子供たちがかつて唱えた言葉が大きく書かれていた=福島県会津若松市のJR会津若松駅前で、2018年2月14日、藤原章生撮影
失ったもの「考える機会に」
 「恨みを言い立ててきたのは、戦後の場合、観光という側面がなかったわけではない」と会津若松市の広告会社経営、庄司裕さん(71)は言う。星さんも「簡単に長州と和解などしたら、ふぬけの会津人と言われる、という意識がある。一種のブランドなんです。たとえば会津在住の高校生にさほど郷土意識はないんですが、東京に出ると『おまえ、会津か』と一目置かれる。すると、薩長を許さない会津人という旗を自ら揚げるようになる面もあります」。

 日新館の宗像さんにその話をすると、「会津人の心はそんなもんじゃない」と言下に否定する。「被害をエスカレートさせて話すところはあるけど、私らは純で愚直なまでに先祖の教えに従い、歴史を忘れない。それが雪国の閉ざされた環境が育んだ会津人気質なんです」

 そんなに違うのか。私など曽祖父の時代など全く関知しないが、と素朴な疑問をぶつけると、庄司さんはこう答えた。

 「忘れるのは日本人の知恵であり、弱点です。例えば、唯一の被爆国である日本の政府が核廃絶について、まあいいかという態度をとるのはどうかと思う。忘れてはいけないことはある。150年を振り返るとき、日本人は何を忘れ、何を失ってきたのか、一人一人が考える機会になるよう会津人として願っています」

 日本の諸都市が見舞われた米軍による無差別空襲、そして広島、長崎。そんな被害のみならず加害行為も実は、多くの現代人がただ忘れたふりをしているだけではないのか。会津の地でそんな思いがわいてきた。
南会津 戦いの跡PR…戊辰150年
 戊辰ぼしん戦争(1868~69年)開戦から今年で150年になるのに合わせ、県南会津地方振興局が南会津地域の戊辰戦争ゆかりの地を紹介するパンフレットを作成した。歴史ファンを集めたセミナーも開催し、あまり知られていない南会津地域にある戊辰関係の史跡をアピールし、観光誘客を狙っている。

 南会津町や只見町などの南会津地域(会津地方南西部)は江戸時代の1643年、「南山御蔵入領みなみやまおくらいりりょう」と呼ばれる幕府の直轄地となった。その後、年貢が京都守護職になった会津藩主松平容保へ財政援助のため支給され、1863年に名称が「南山御役知みなみやまおんやくち」に変わった。

 戊辰戦争では、新政府軍が南山御役知に侵攻した。新政府軍側の死者を弔った墓所が南会津町田島地区や下郷町の大内宿近くに残るなど、戦いの跡が点在する。

 また、会津藩とともに戦った長岡藩(現在の新潟県)の家老・河井継之助が落城後に会津へ向かう途中、只見町で亡くなった。継之助は只見で「会津のために戦った英雄」とたたえられ、町内には「河井継之助記念館」がある。

 ただ、会津地方の戊辰戦争は会津若松市の鶴ヶ城や飯盛山などが主に取り上げられており、南会津での出来事はあまり知られていない。このため、同振興局では只見など5町村の教育委員会と協力し、古戦場や墓所などをまとめたパンフレット「知られざる南会津戊辰歴巡図」を昨年10月に計約1万部製作。観光情報サイト「おいでよ!南会津。」でも情報を掲載している。
「会津の偉人・先人50選」手ぬぐい作製 戊辰150年で若松商議所
 会津若松商工会議所醸造・食品製造部会(新城猪之吉部会長)は20日までに、戊辰150年に合わせて「会津の偉人・先人50選 手ぬぐい」を作製した。

 節目の年に合わせて会津の歴史をより深く知り、先人の苦労や知恵、心を学び現代に生かす温故知新の精神が重要との思いから、300本を作製した。

 会津を治めた戦国武将・葦名盛氏や、会津清酒や会津漆器などの殖産政策に努め、会津発展の礎を築いた会津領主・蒲生氏郷、戊辰戦争時の家老、会津藩士、世界的な医学者・野口英世ら50人の名前が並ぶ。

 会津の偉人・先人は約3千人いるとされるが、サイズの関係で同部会が50人を選んだ。同部会は「偉人・先人たちから学ぶことはたくさんある。思いを継承し、自身の成長と次世代へ伝えていく担い手のたすきとして活用してほしい」としている。
いわきの戊辰戦争理解深めて 3月10日に歴史講演 聴講希望者を募集
 いわき地方の戊辰戦争に理解を深める歴史講演会は3月10日午後1時から、いわき市生涯学習プラザで開かれる。
 福島民報社の出前講座の一つで、市が後援する。今年が戊辰戦争や明治改元から150年に当たることに合わせ、幕末から明治にかけてのいわき地方の歴史的意義を確かめるとともに、先人の功績を学ぶ。
 講師は県文化振興財団歴史資料課副主幹の渡辺智裕さんと、いわき市文化財保護審議会委員の渡辺文久さん。
 演題は、渡辺智裕さんが「官修墓からみたいわきの戊辰戦争」、渡辺文久さんは「磐城の戊辰戦争-磐城平藩士16人の覚書から-」。
 福島民報社は明治時代を中心とした紙面をはじめ、幕末や戊辰戦争に関連する資料を展示、解説する。
 聴講は無料。希望者は、はがきかファクス、メールで申し込む。郵便番号、住所、氏名、電話番号(複数の聴講者の申し込みは代表者の連絡先と全員の住所、氏名)を明記し、〒960-8602 福島市太田町13の17 福島民報社地域交流室 出前講座係へ。
 ファクスは024(531)4117、メールはchiiki@fukushima-minpo.co.jpまで。定員は100人程度で、先着順。
 問い合わせは電話024(531)4145で、平日午前10時から午後5時まで受け付ける(電話での聴講申し込みは不可)。






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