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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日は長めの読み物記事が多めです。

千葉県
首都圏きってのミニ路線…流鉄流山線途中下車(後編)
旅情は甘いヨーグルト風味

「美しまや」に並ぶ流山にゆかりの菓子
 「流山旅情」「しあわせの流山焼」「流山銘菓 新撰組 誠」……。流鉄流山線の鰭ヶ崎
ひれがさき駅前。東洋学園大学に続く道沿いの「流山せんべい」のご主人に教えられ細い路地に入り、上生菓子の店「美しまや」を訪ねると、流山名義の品を中心に菓子が並んでいた。ご主人は白い調理服、調理帽姿で満面の笑み、白い歯が覗のぞく。店はもう創業から30年以上経たつという。

 「この辺りも続いている店が少なくなりました。すぐそこにトンカツ屋があったけど、ご主人が亡くなられて。ほかに昔から続いているのは、クリーニング屋くらいかなあ」

「美しまや」の主人。笑顔が温かい
 「流鉄は意外と便利ですよ。都心へのアクセスもいいし、終電は0時20分過ぎまであるしね」

 店に入った早々から会話が弾み、ご主人は笑顔を絶やさない。そして店の外を近所の知り合いが通るたび「こんにちはー」「今日は寒いね」と必ず声をかける。

 鰭ヶ崎駅は小さくて、駅前の街もこぢんまり。でも素朴な菓子と笑顔の主人が、ここに降り立つ者を立て続けに迎えてくれる。

 ヨーグルト入りの「流山旅情」を買い、店を出た。どうしてもひとつ食べたくなり、路上で包みを解き一口パクリ。優しい甘さが口いっぱいに広がり、その名の通り「旅情」がこみ上げるのを感じずにいられなかった。

新撰組が再起を懸けて集結
 鰭ヶ崎駅に戻ると「青空」号がちょうどやって来て、再び乗車。続く平和台駅前は大手スーパーがデンと立ち、新興住宅街の雰囲気だ。ここでは降りず、その先へ。列車はあっという間に終点・流山駅に滑り込んだ。


車庫から出て流山駅のホームに向かう「青空」号
 「足元にお気をつけください」

 ホームでは到着した列車を駅員さんが総出で出迎え。車庫には色とりどりの2両列車が並び、さながら鉄道博物館のようだ。そして赤い三角屋根の駅舎は民家のように小さく、駅前ロータリーはシンと静か。片田舎のローカル線の終着駅に降り立った気分になる。

 「ようこそ下総流山へ」と書かれた看板が立っている。その近くには「近藤勇・土方歳三 離別の地」の案内版も。

 幕末。新撰組は鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗走を重ね、総勢227人が再起をかけて流山に集結、醸造家・永岡三郎兵衛方を本陣とした。しかし形勢は逆転できず、近藤は土方と別れ流山を離れるが、板橋宿で捕まり斬首された。

 駅前の地図に従い、今も残る本陣跡へ。流山街道から閻魔えんま堂横丁に入ると、民家に挟まれ本陣跡はひっそり残っていた。この日の気温はわずか5度。日曜日だが、寒さのせいか訪れる人の姿はない。それでも鉄の扉や格子に守られた重厚な外壁を見上げるほどに、激動の幕末の空気が伝わってきて――寒風に耐えて僕はしばらく、本陣跡を眺め続けた。

 江戸川に向かうと、新政府軍が三手に分かれた三叉さんさ路から流山広小路に出る。街灯に「しにせぞろいの広小路」と書かれた看板が下がり、小京都の風情に誘われ、平和台方面に向け歩いてみる。……とはいうものの歩道はなく道幅も狭く、交通量は多い。時おりトラックが肩先をかすめヒヤッとするが、そんな中で見つけたのが、歴史を感じる木造の「清水屋」。引き戸のガラスに「陣屋もなか」と書かれた貼り紙も。中に入ると作務衣さむえ姿のご主人に迎えられ、もなかと「流山羊羹ようかん」を1棹さお買う。


古風なたたずまいの「清水屋本店」。看板は右書き
 「店も建物も明治35年からで、110年になります」

 そしてご主人はもう4代目――そこまで聞いたところで店の前をトラックが走り抜け、引き戸がガタガタと揺れた。「交通量が増えてね……」とご主人は苦笑い、そして「昔はこんな感じでした」と、大きく引き伸ばした白黒写真を見せてくれる。昭和5年に店の前の通りを写したもので、道は土、電柱は木製。道筋は当時から変わっていないという。

 店内の戸棚には、鯛たいや海老えびを象かたどった木型がズラリ。

 「昔は結婚式やお祝いがあると、お菓子の注文を受けて、この型で作ったものです。餅を砂糖で味付けして……当時は今のようにお菓子もいろいろなかったから、喜ばれましたね」

 「でも、結婚式を家じゃなく式場でやるようになって、祝い菓子の注文も徐々に少なくなって」――木型を使う機会はめっきり減った。時代の流れ。しかし、その波を一身に浴びながらも、この店は110年間、変わらぬ姿でここにあり続けている。

「待ってー」って電車に叫べば
 店を出てさらに道を進むと、道端に木の立て札の道案内が。消えそうな文字で「←平和台駅」と書いてある。ひと駅分歩いてしまったようだ。川を背にして左折し、流山街道に続く道を進む。

 ……ここに店?


極細の路地沿いにある「さくら」。のれんやお品書きがなければ普通の民家のようだ
 人がスレ違うのも難儀する極細の砂利道に「お好み焼」のノボリが揺れている。砂利を踏みしだいて向かった「お好焼 もんじゃ焼 さくら」は、どう見ても普通の民家だ。靴を脱いで中に入ると、畳の部屋に鉄板を装着したテーブルが3卓。先客はご近所らしいご婦人が2人、ちょうど食べ終わったところで、僕に「ごゆっくり」と声をかけ席を立った。

 お好み焼きはボリュームたっぷりで500円。食べ終わり茶をすすっていると、店の奥さんが食器を下げにくる。

 「つくばエクスプレスが通って、流鉄のお客が減った? この辺は、それはないですね。平和台駅がいちばん近くて便利だし」

 よかった。この界隈
かいわい
では電車といえば、まず流鉄のようだ。

 「最近はもう、こういう電車も少ないでしょうね。目の前で電車が出そうになっても〈待ってー〉って叫べば待ってくれるの。今どきは珍しいわよね、そういうのも」

 「昔、映画で何だったかしら、舞台は北海道だけど、北海道まで行かず流山駅でロケをしたって聞いたことがありますよ」

 確かに流山駅はポツンと佇たたずむ姿が、どこか日本の果てに来た雰囲気を感じさせる。そんな話が尽きなくて、お茶を片手にしばし、畳の部屋にグズグズと居座ってしまった。

「乗っちゃってください」と優しい駅員
 外に出るともう夕暮れ、流山街道沿いの居酒屋で、駅前散策旅・恒例の一杯。大きな店で客も満杯、店の人と話す暇はなかったが、料理はボリューム満点で値段も安い。客はオジさん、オバさんばかりで、どう見ても僕が最年少。頼んだ料理がなかなか来なくて(満員だから仕方ない)先に出てきた熱燗かんを飲み干してしまうと、


夜の静寂に包まれる流山駅
 「来ないね。(熱燗が)2本目行っちゃうね」

 と隣の見知らぬオジさんが言って、穏やかに笑った。100点満点。

 店を出て、千鳥足で流山駅に向かう。自動改札はないので、財布から小銭を出し切符をグズグズ――買おうとしていると「ジリリ」と発車のベルが鳴る! あわてて財布の中の小銭をまさぐると、

 「乗っちゃってください。降りる駅で精算してください!」

 駅員さんが僕にそう言った。お言葉に甘えて改札を通り抜け、無事に乗車。僕が乗ったのを見届けると、扉はスルルと閉まった。

 優しい駅、優しい駅前の街。列車はゆっくり動き出し、車窓の闇の中を、点々と灯ともる住宅の明かりが右から左へ流れていく。

 「待ってーって叫べば待ってくれる」

 お好み焼き屋の奥さんの言葉を噛かみ締めながら、ガタンゴトンと列車に揺られ、僕は流山をあとにした。


静岡
幕末のパン再現、商品化へ 江川坦庵の製造書基に(2/21 14:46)
 日本のパン製造の開祖とされる幕末の韮山代官江川坦庵(1801~1855年)が記したパンの製造書が新たに見つかった。これまでにも当時の兵糧用のパンなどを再現した函南町上沢の製パン会社石渡食品が、商品化しようと試行錯誤を続けている。
 新たに見つかったのは「カーネルコックカステイラ」と呼ばれるパンの製造書。江川家に伝わる史料を保存している江川文庫(伊豆の国市)の史料総合調査で発見された。兵糧用のパンは酒種で発酵させ、塩で味付けした長期保存が可能のパンに対し、カーネルコックカステイラは砂糖や卵の分量などが記されていた。名前は日本に伝来していたカステラに、オランダの外交官の名前を付けたものとみられる。
 同社は昨年7月に試作品をつくり、8月に静岡市駿河区で開かれた展覧会「江川坦庵とゆかりの人々」で来館者500人に配布。その後、現代風の味付けにするため砂糖の量を増やすなど手を加え、今年1月21、22日に伊豆の国市で開催された「第6回パン祖のパン祭」で1個100円で千個を販売し、好評を得た。江川坦庵が兵糧用のパンを初めて作った日とされる4月12日の「パンの日」の発売を目指し、改良を続けている。同社の石渡浩二社長は「幕末のパンの味を多くの人に味わってもらい、地元の活性化に貢献したい」と話している。


京都
愛用品から直弼の実像知る展示 東山の井伊美術館
 幕末の大老、井伊直弼に焦点を当てた特別展「人間 井伊直弼 生涯の実像」が、京都市東山区の井伊美術館で開かれている。恋心を詠んだ歌が書かれ、同館が直弼の自筆と判断した書状をはじめ、茶道具などの愛用品を展示し、直弼の実直な一面を伝えている。
 「安政の大獄など政治家としての側面が注目されてきた直弼の人柄を想像してほしい」と同館が企画した。
 書状は、後に倒幕派の情報を集める役割を担った村山たか宛てとみられ、会えない寂しさなどがつづられている。直弼が愛用した後に茶道の弟子に譲った茶わんや、素振りで使い込んだという刀など約100点が並び、来館者が直弼の人となりに思いをはせている。
 11月15日まで。午後1時~5時。不定休。大人1500円。井伊美術館TEL075(525)3921。


ブックレビュー
『西郷の貌(かお) 新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史』
■「長身の若侍」が若き日の… 

 その「写真」を著者とともに初めて見たときは、まさに衝撃的でした。居並ぶ13人の武士。とりわけ向かって右端に立つ若侍の精悍(せいかん)な顔つきと、180センチはあろうかという長身が目を引きます。「薩摩藩の島津公 慶應年間の記念写真」というキャプション。幕末の古写真が数ある中で、この衝撃は「フルベッキ写真」以来のものでした。

 「フルベッキ写真」は維新の志士たちの集合写真といわれ、かつて著者は『幕末 維新の暗号』(文庫版と合わせ累計12万部)で題材にしています。今回の写真が衝撃的なのは、「長身の若侍」が、著者が「フルベッキ写真」で西郷隆盛に比定した大男と酷似していたからです。

 よく知られるように、西郷隆盛その人を撮影した写真は一枚も確認されていません。私たちになじみのある肖像は西郷の死後、外国人技師が親族(実弟と従兄弟(いとこ))の顔からモンタージュした想像の産物です。この肖像画が元になり、「西郷の顔」と言えば、どんぐり眼(まなこ)に太い眉が定着しました。

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「西郷の貌」

 しかし歴史の定説は、いつも覆されます。とくに時の権力者が都合よく書き換えていた場合に綻(ほころ)びが見えやすくなります。著者はその綻びを見抜きました。

 明治政府には西郷の本当の顔を封じ込めなければならない理由があった--本書はその謎を解読しながら「長身の若侍」が若き日の西郷であることを立証してゆきます。そして13人の武士たちの素性も明らかになりました。

 明治維新の裏面を描く上質の歴史ミステリーです。(加治将一著/祥伝社・1890円)

 祥伝社書籍出版部 岡部康彦




社会
第1回「新選組検定」申込締め切り迫る 
合格者有料特典 薄桜鬼のイラスト付き認定カードの販売が緊急決定!
激動の幕末期、「誠」の旗のもとに集い「義」のために戦った新選組について学ぶ、第1回「新選組検定」を2012年3月18日(日)に東京と京都で開催いたします。企画・運営は日本出版販売株式会社(本社:東京都千代田区 代表取締役:古屋 文明、略称:日販)とヒューマンリソシア株式会社(本社:東京都新宿区、代表取締役:桑原 加鶴子)が行います。

第1回目は初級者向けの3級、中級者向けの2級を実施し、3級合格者は「組長」、2級合格者は「副長」としてそれぞれ認定、合格認定証を付与します。また、合格者限定の有料特典として合格認定カードと合格認定名刺を販売します。合格認定カードは裏面に土方歳三の写真、もしくは人気沸騰中の新選組をモチーフにした恋愛アドベンチャーゲーム「薄桜鬼」カズキヨネのキャラクターイラスト5種(土方・沖田・斎藤・藤堂・原田)から好きな絵柄(コメント入り)を選べる特別仕様になっており、生粋の歴史ファンからゲームやマンガをきっかけに新選組ファンになった若い女性まで満足いただける内容になっております。詳細については、合否結果通知に同封いたします。

新選組検定は書店店頭に設置される願書(郵便払込票)( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/popup/entry_store.html )もしくは日販が運営するWebサイト「検定、受け付けてます」( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )にて2月16日まで申し込みを受け付けております。受験者特典として受験者全員に松平容保ピーを贈呈します。

日販は一昨年実施した「坂本龍馬 幕末歴史検定」を皮切りに、幕末歴史検定シリーズの第二弾として「新選組検定」を実施し、今後も幕末歴史ファンのコミュニケーション活性化に役立つ検定として発展させてゆきます。


◆「新選組検定」合格対策講座開催決定
2月24日(金)に早稲田予備校13時ホール6階にて100名限定で「新選組検定」合格対策講座を実施します。当検定の問題監修者である菊地 明先生、土方歳三の子孫にあたる土方 愛さんをお迎えし、問題解説から新選組にまつわるエピソードまで盛りだくさんの内容となっております。お申込み、詳細は検定オフィシャルサイト( http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/ )をご確認ください。

◆ 第1回新選組検定 概要
検定名 :第1回新選組検定
主催  :新選組検定運営事務局
後援  :日野市/日野市観光協会/日野市商工会/会津若松市/函館市/
     流山市/調布市/調布市観光協会
特別協力:歴史街道(株式会社PHP研究所)
協力  :新選組友の会/全国新選組サミット
運営  :日本出版販売株式会社/ヒューマンリソシア株式会社
実施日 :2012年3月18日(日)
実施都市:東京・京都
申込締切:2012年2月16日(木)
受験料 :3級(組長) 4,700円/2級(副長) 5,400円(すべて税込)
     ※2・3級は併願受験可能 併願割引9,800円(税込)
受験資格:新選組を愛する方ならどなたでも。何級からでも受験可能です。
問題形式:3級・2級/マークシート4者択一方式
合格基準:2級/全100問中、70問以上正答者は合格
     3級/全100問中、70問以上正答者は合格

公式ホームページ: http://www.kentei-uketsuke.com/shinsen-gumi/


◆ 合格者有料特典カード 裏面案(薄桜鬼 土方版)
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/A_1.jpg

◆ 合格者有料特典 認定名刺案
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/B_2.jpg

◆ 松平容保ピー
http://www.atpress.ne.jp/releases/25458/D_4.jpg


■運営事務局 日本出版販売株式会社
日販は、当検定の運営業務全般をサポートいたします。新選組検定の運営事務局として、書店店頭を使った受験者の募集から、検定ポータルサイト「検定、受け付けてます」での受験者獲得、受験者からの問い合わせ対応や受験票の発送、受験会場の運営、また合否結果の通知まで、検定運営にまつわるすべての業務を総合的にサポートいたします。
※日販の検定ポータルサイト 「検定、受け付けてます」
http://www.kentei-uketsuke.com/
※日販の検定事業トータルパッケージに関してはこちら
http://www.kentei-uketsuke.com/business/index.html


コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(150)東大教授・山内昌之 蜂須賀斉裕
幕府最初の防衛大臣

 野田首相はどうして、こうも能力の低い防衛大臣を立て続けに任命したのであろうか。

 民主党幹事長の属する参議院対策などの党内事情もあるのだろうが、防衛大臣はどの国においても外務大臣とコンビで同盟国や関係各国と交渉することも多い“国の顔”である。この人事だけはいただけない。

 一川保夫前大臣も田中直紀現大臣も、陳情受け付けなどでは、たぶん人情味あふれる地方政治家の一面をもつのであろう。しかし、安全保障環境が激変している北東アジアの危機対応や、アメリカの新防衛戦略への弾力的対応をこなせる国際通の人材とは到底思えない。

毛並みのよい人材

 外交安全保障と防衛力の基盤整備はいつの時代も国の命運を左右する領域である。幕末でも改革は、防衛力の整備強化から始まった。

 徳川幕府は、文久の改革によって西洋式兵制(歩兵・騎兵・砲兵の三兵制度)の導入や、兵賦令(旗本から石高に応じた農兵の供出や金の徴収)を発した。注目すべきは、文久2年12月(1863年2月)に、阿波藩主蜂須賀斉裕を陸軍総裁に任命したことである。斉裕は海軍総裁も兼任した。いわば幕府初の防衛大臣に就任したのである。

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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)

 この人事は多くの点で異例ずくめであった。第一に、蜂須賀家は禄高こそ25万7千石の国主であったが、幕政に関与しなかった外様大名だったことである。第二に、幕府が満足な陸海軍予算を計上できないのに、果たして斉裕に陸海軍総裁を務める力があったのかという疑問である。

 蜂須賀斉裕に白羽の矢がたったのは、家柄よりも血筋からである。彼は11代将軍家斉(いえなり)の二十二男であり、幕末動乱期の13代将軍家定の叔父にあたる。徳川幕府危急のときに軍制改革を託するに足る毛並みのよい人材であり、徳川宗家への忠誠心も抜群だったからであろう。

 蜂須賀家は歴代従四位上侍従を極官としたが、斉裕は正四位上参議に上り中将を兼ねている。外様大名で代々参議と中将とを兼帯し「宰相中将」と称せられたのは、加賀藩前田家だけであったから、阿波藩の家格は一挙に跳ね上がったことになる。

 しかし幕府の真意はどこにあったのだろうか。赤字財政に苦しむ一方の幕府もしたたかなのだ。阿波と淡路の2国を領し実高が40万石以上といわれ、藍や染料などの物産交易でも潤っていたのが、裕福さでは外様大名屈指の阿波藩であった。蜂須賀家の財力をあてこんだのかもしれない。とはいえ、斉裕はいくばくもなく総裁職を辞任した。あまりにかさんだ財政出費に藩が音をあげたという説も無視できない。

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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)

 藩の軍制をイギリス式に改めるなど開明的な君主だった斉裕ほどの人物である。淡路島の岩屋や由良の砲台新設など海防においても成果を挙げていた。斉裕が陸軍総裁を辞したのは、公武合体論者として幕政への独自の抱負ももっていたのに、伝統的な老中合議体制のもとで自らの意見がほとんど顧みられないのに嫌気がさしたこともあるのだろう。

独自の意見と信念

 彼には譜代大名や旗本官僚とは違う生まれへの矜持(きょうじ)も大きかったことはいうまでもない。その構想力や実行力も平凡でなく、家斉の子としては出色の部類だったのである。

 その子もオックスフォード大学で学び、駐仏大使から貴族院議長になったり、ひ孫は世界的な鳥類学者にもなっている。斉裕の血に流れていた政治家としてのセンスや知的な聡明(そうめい)さを受け継いでいたのだろう。

 その斉裕にしても、淡路洲本城代の家老稲田氏など家臣内部の尊皇攘夷(じょうい)派を無視できず、藩論を統一できぬままに慶応4(1868)年1月に死去したのである。斉裕のいない阿波藩が明治維新の激流を乗り切るのはむずかしく、積極的に新政府に関わることはできなかった。それでも蜂須賀家が前田家と同じく侯爵になったのは、斉裕の余薫(よくん)ともいうべきだろうか。

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外様大名ながら幕府の陸海軍総裁となった蜂須賀斉裕の肖像(徳島城博物館蔵)

 彼は、育ちの良さにもかかわらず、大名としては海防や兵制改革に独自の意見をもち、公武合体論ながら内外の危急に対処する信念をもっていたからだ。斉裕なら、優秀な防衛官僚やブレーンに補佐されると、現代日本の安保政策でも失言を犯さずに対処できたであろう。

 しかし、ここ2代の防衛大臣が幕末にタイムスリップしても、斉裕ほどの安定感をもち実績を挙げられるとはかぎらないあたりが平成の日本人にはつらいところだ。(やまうち まさゆき)

                   ◇

【プロフィル】蜂須賀斉裕
 はちすか・なりひろ 文政4(1821)年、第11代将軍徳川家斉の二十二男として生まれる。同10年、阿波(徳島県)藩主の蜂須賀家の養子となり、天保14(1843)年家督を継ぐ。藩主として軍制改革に注力。文久2年12月(1863年2月)に幕府の陸軍総裁。海軍総裁も兼ねたが、3年辞任。慶応4(1868)年、死去。



「征韓論」生んだ西郷のストレス太り 病気が変えた幕末維新
(日経新聞サイトのリンク先アドレスがMacだとうまく読めないようなのでリンク省略します)
 西郷隆盛はストレス過多、高杉晋作や木戸孝允らも体調を崩しがちで、坂本龍馬は風邪に悩まされていた――。幕末・維新史をキーパーソンの健康状態から読み解こうとする研究が始まっている。幕末の日米修好通商条約から王政復古、明治の征韓論など転換期に体調問題がどんな影響を及ぼしたのか。残された史料、書簡から専門医が精神分析するなど真相を一段階深くえぐった近代史の構築を試みている。

■大久保利通にも「持病の下痢」



明治維新を主導した西郷隆盛。実はさまざまなストレスと体調不良に悩まされていた
 「西郷隆盛は感情量が豊かで、緻密・繊細な性格。ストレスもためやすかった」とみるのが大阪経済大学の家近良樹教授だ。「度量の広い東洋的な大人物」といった従来のイメージとは異なった西郷像を著書の「西郷隆盛と幕末維新の政局」(ミネルヴァ書房)で描きだした。西郷関連の書簡を分析すると「対象相手に感情移入しやすいタイプ。部下への指示も細かく念入りだった」(家近教授)という。

 西郷には喫煙の習慣もあったという。さらに日本医史学会理事長の酒井シヅ・順天堂大名誉教授は「風土病のフィラリア症にも悩まされていたようだ」と指摘する。

 一方、ストレスの原因は事欠かない。2度の遠島暮らし、主君の島津久光との不和、徳川慶喜の政略には度々翻弄され、自ら樹立したはずの明治政府にも不満が高まった。西郷は書簡では下痢に悩まされた事を吐露する一方、「恨を生じ」「憤怒に胸を焦がし」などの表現もみられる。思うように活動できず自らのストレス太りを自嘲している文面もあるという。

 ただ西郷周辺の人物も健康良好とはいえなかったようだ。大久保利通には「持病之下痢」があり、島津久光は脚気(かっけ)、薩摩藩家老の小松帯刀もは足痛の持病があったという。

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■「王政復古」は協調派の病気も遠因に



 こうした各人の体調不良が大きく影響したのが、慶応3年12月(1868年)の王政復古のクーデターと家近教授は説く。徳川慶喜の大政奉還後、幕府側も含めた新体制に移ろうとする政局の流れを、京都にいた西郷、大久保ら薩摩急進派が半ば強引に朝廷を倒幕方針へ転換させてしまったケースだ。幕府と協調を目指す久光は帰国中。脚気からくる腰痛が悪化し藩政にすらタッチできない病状だった。倒幕方針から距離を置くようになっていた小松帯刀も鹿児島県から動けず、協調派の主軸が病気で政治の中心にいなかったことが「西郷らが主導権を握ることを容易にさせた」(家近教授)

 さらに明治6年(1873年)の「征韓論」では逆に西郷の健康状態が影響しているという。肥満対策で下剤を常用していた西郷は、加齢もあって時に閣議に出られないほど体調が悪かった。「自分が韓国に赴いて殺害されるのをきっかけに開戦する」という無謀に見える西郷の論理は今でも近代史学の議論の対象になっている。家近教授は「健康悪化が死の誘惑につながったのではないか」と推測する。

 「江戸時代は特に胃腸病などの多かった時代」と酒井名誉教授は指摘する。白米食の普及につれ脚気も多く、古くは貞観4年(862年)から記録されているインフルエンザも世界的な流行期と同調して度々江戸を襲った。

 一坂太郎・山口福祉文化大学特任教授は幕末の高杉晋作も度々風邪で休んだという。「同僚が風邪で休んだことをどう思っているか気にしている日記も残っている」(一坂氏)。上海視察に渡航した際も現地で風邪に悩まされた。

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■坂本龍馬の暗殺、風邪で刺客の接近容易に



坂本龍馬暗殺の時、風邪で体調不良だったという(高知県高知市)
 一坂氏は「高杉は藩の重役に就いたり、奇兵隊を率いたりといった活動期と隠退期を交互に繰り返した。健康問題も関係したのではないか」とみる。明治に入ってから急激に健康を悪化させたかにみえる木戸孝允も慶応年間に下痢などを訴える書状があるという。

 一見病気とは無縁に思える坂本龍馬。しかし高知県立坂本龍馬記念館の前田由紀枝学芸員は「風邪の事などを記した手紙がある」としている。さらに龍馬のメモ日記には慶応元年(1865年)に山口県で「曽病アリ」と病気で宿を代えた記述がある。ちょうど龍馬が薩長間の仲介に奔走していた時期で、西郷と木戸を会わせ薩長同盟が成立する約半年前だ。

 「船中八策」を構想し、大政奉還が実現した同3年に龍馬は京都・近江屋で暗殺された。この時、龍馬は風邪だったという。用心のため潜伏していた土蔵から温かい母屋に移っていたことが暗殺者の接近を容易にさせた。歴史に「イフ」はないが龍馬が健康な状態だったら維新史はどうなっていただろうか。

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 一方、日米修好通商条約を締結した徳川幕府の大老・井伊直弼を臨床医の立場から分析したのが大阪精神科診療所協会の大原和雄名誉会長。井伊家の史料、書簡を渉猟し井伊が精神医学で扱う「自己愛性パーソナリティー」だと推論した。

 自己愛性パーソナリティーは成功や賞賛、理想的な愛を求める一方、完全主義で批判を受け入れられず、他人の気持ちを推し測るのが苦手なため「世渡りベタ」とされるケースが多い。大原氏は井伊に詩人の石川啄木、作家の太宰治らに共通する性格を見出せるとしている。

 井伊にもストレスが多かった。青年期を不遇の部屋住みで過ごし跡継ぎの「世子」になってからも藩主の兄の干渉に悩まされた。江戸城内では老中、奉行らに軽視され孤立することもあった。大老になってからは開国問題と次期将軍選びの2大課題に忙殺された。

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■「自己愛」が強かった井伊直弼

 それでも完全主義の性質と逆境をバネに茶道、和歌、禅に上達し、大老就任の初日から幕僚らと議論を始めた。従わない老中は解任、政敵は弾圧し「安政の大獄」を徹底するものの、必ず裁判を通す原則は崩さなかった。手紙には「火中に」と燃やすよう付け加えて証拠を残さないように用心することもあったという。こうした井伊の行動は自己愛性パーソナリティーの一面を表しているという。



 万延元年(1860年)3月3日の「桜田門外の変」では以前から暗殺情報が井伊にも伝えられていた。しかし周囲から勧められた様々な対抗策は全く採らなかったという。大原氏は「自己愛性障害抑うつ」の可能性を指摘している。

 酒井名誉教授は「ストレスの原因は現在と過去で異なるから慎重に考えるべきだ。しかしストレスが身体に与える影響は昔も今も変わらない」と歴史学と医学のコラボレーションの展開に期待を寄せる。政治、経済界トップの健康問題はいつの時代でも重要なテーマになる。過去の歴史を新たな視点で掘り返すことで今日につながる教訓を得られるかもしれない。

(電子整理部 松本治人)

 
エンターテインメント
「新選組血風録」俳優の左右田一平氏が死去
 左右田一平氏 81歳 (そうだ・いっぺい、本名・廣田信夫=ひろた・のぶお=俳優)10日、S状結腸がんで死去。
 告別式は近親者で済ませた。喪主は長男、圭一朗氏。
 札幌市出身。1956年「真昼の暗黒」で映画デビューし、味のある脇役として活躍。テレビ時代劇「新選組血風録」の斎藤一役で人気を集めた。

 自分にとっては、大河ドラマ『新選組!』以前の映像作品の中ではベスト作品だった『新選組血風録』の斎藤一、『燃えよ剣』の裏通り先生。飄々とした風貌だけど芯は侍な斎藤像をありがとうございました。合掌。

今春スタートの薄桜鬼「スタンプリー」,2月26日開催イベントで事前登録実施
大人気アニメ“薄桜鬼”がついに今春“スタンプリー”に登場!
オリジナルWebMoney カードをプレゼントする
事前登録キャンペーンを併せて実施!!
http://www.stamplly.jp/

 株式会社インフォ・クエスト(本社:東京都文京区、代表取締役社長:家永慎次郎)は、フィーチャーフォン(携帯電話)やスマートフォン・PC にて、現在地や時間、そして日付などさまざまな条件のもとに発行されるスタンプを探し出して集めるモバイル/PC 向けリアルトレジャーゲーム『スタンプリー』におきまして、大人気アニメ「薄桜鬼」とのコラボレーションが決定したことをお知らせいたします。

 また、2月26日(日)にパシフィコ横浜にて開催されるイベント『「薄桜鬼 雪華録」~春の夢~』にて、今春スタート予定の「薄桜鬼」スタンプリーの事前登録を実施させていただきます。


龍之介と新選組隊士達はどう関わっていくのか!?「薄桜鬼 黎明録 DS」オープニングムービー公開!
 オトメイトは、2012年4月26日発売予定ニンテンドーDS専用ソフト「薄桜鬼 黎明録 DS」公式サイトにて、オープニングムービーを公開した。

 公式サイト「スペシャル」ページに、「薄桜鬼 黎明録 DS」のオープニングムービーが公開。PSP版のオープニングムービーとはひと味違う仕上がりになっている。

 また、「主題歌」ページでは、オープニング曲とエンディング曲を確認することができる。どちらの曲もPSP版とは違う曲に変更されているので確認してみてほしい。
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