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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
昨年暮れに函館で骨折した右手首ですが、本日、整形外科の先生に「きれいにくっついていますね」と快癒と診断されました。まだ握力は10キロ程度しかありませんが、機能はだいぶ回復してきています。

ゆかりの地で「彼岸獅子」 戊辰戦争・山川大蔵の鶴ケ城入場貢献
 戊辰戦争時、会津藩家老・山川大蔵が小松村(現会津若松市北会津町)の獅子を先頭に鶴ケ城入場に成功したことで知られる会津彼岸獅子の演舞が20日、会津若松市の国指定名勝・会津松平氏庭園「御薬園」で行われた。

 会津まつり協会が戊辰150周年の記念事業として企画した。会津彼岸獅子は豊作や家内安全を願う会津各地に広まった伝統行事。山川の入場に貢献した小松獅子団は1871(明治4)年、山川に同園に招かれ、松平容保(かたもり)らに舞を披露し、松平家の家紋の使用が認められたとされる。

 演舞には小松獅子保存会が招かれ、3匹の獅子が「弊舞」「弓くぐり」「庭入り」などを披露し、3匹の華麗な舞に訪れた市民らが見入った。鈴木利栄会長は「ゆかりの地で踊れたのは感慨深い」と語った。

顕彰碑を建立 白河戊辰の戦地「白坂宿」住民
 白河市の旧奥州街道にある「白坂宿」に、住民らが地元の歴史を伝える顕彰碑を建立し、17日に現地で除幕式が行われた。白坂宿は戊辰戦争で戦死者が出た歴史的な場所で、青柳幸治実行委員長は「戊辰150年の節目に除幕でき、感慨深い」と話している。
 郷土史によると、白坂宿は豊臣秀吉が奥州仕置きに向かった際、宿として認められたのが始まり。江戸時代初期には本格的な宿場が建設され、総屋敷数は83軒を数えた。旅館や料理屋がにぎわい、盛況ぶりは奥州街道随一ともいわれた。
 1868(慶応4)年の戊辰戦争では白坂宿でも戦いが繰り広げられ、会津藩士や大垣藩士、棚倉藩士らが戦死。白坂宿に住んでいた大平八郎は白坂宿から西軍(新政府軍)を先導し、東軍(旧幕府軍)の後方に出る間道を案内したという。
 地元の住民はこうした史実を後世に伝え、語り継ごうと顕彰碑の建立を企画し、昨年3月に実行委員会を組織した。住民らから寄付を募り、市の地域づくり活性化支援事業の補助金も受けた。
 顕彰碑は戊辰の戦死者が葬られている街道沿いの観音寺駐車場に設けられた。1873(明治6)年ごろの宿の並びの図と白坂宿の沿革が記されている。青柳委員長ら実行委員、円谷光昭副市長らが除幕した。青柳委員長は「地元住民の長年の願いがかなった。白坂宿を元気にしていきたい」と話している。
 実行委員会は2018年度も事業を継続し、屋号の石柱や歴史を説明する案内板の設置を予定している。
( 2018/03/18 09:50 カテゴリー:主要 )

シリーズ「傑物たちの生と死の真実」第28回新選組の残党、斎藤一の生涯とは? 胃潰瘍で71歳で没した豪腕剣士
「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖され、撃剣師範や三番隊組長で気を吐いた新選組の豪腕剣士といえば斎藤一だ。幕末きっての最強剣客、冷酷非情の刺客、暗殺粛清の請負人(スナイパー)、極悪非道の人斬り、俊敏速攻の豪剣、左利きの孤高なダークアウトローなどと喧伝され、伝説化される。

 そんな斎藤一とは何者だったのか?

享年71で胃潰瘍で病没した新選組の豪腕剣士
 1844(天保15)年1月1日、斎藤一は、江戸(播磨国?)に父・山口右助、母・ますの三子として生誕する。1月1日生まれが一(はじめ)の由来ともいわれる。

 19歳の時、江戸・小石川関口で口論した旗本を惨殺、京都の剣術道場・吉田道場に逃亡し師範代に。そして、1863(文久3)年3月、芹沢鴨、近藤勇ら13名が「新選組」の前身となる「壬生浪士組」を旗揚げ。斎藤ら11人が入隊し、京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなる。斎藤は若年ながら副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長、撃剣師範も兼務した。

 斎藤が20歳の1864(元治元)年6月、「池田屋事件」で土方歳三らと斬り込む。この時期、組内部の粛清役を一手に請負うことになる。長州藩の間者(スパイ)とされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与するが、真相は不明だ。

 23歳、1867(慶応3)年3月、伊東甲子太郎が「御陵衛士」を結成して新選組を離脱。斎藤は間者となり御陵衛士に密かに潜入。新選組に復帰する時は、御陵衛士の活動資金を盗み、「金欲しさに逃走した」と巧みにカモフラージュ。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した「油小路事件」は、斎藤の内偵情報を悪用して起きる。

 また同年12月には、紀州藩藩士・三浦休太郎を警護中、酒宴を開いた天満屋で海援隊・陸援隊の隊員16人の急襲に遭遇。宮川信吉らが死亡、梅戸勝之進が重傷。斎藤は鎖帷子(くさりかたびら)を着て難を逃れた。

 24歳、将軍・徳川慶喜の大政奉還(11月9日)後、1868(慶応4)年1月に戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いに参戦し敗走。3月に近藤勇が流山で新政府軍に投降後、新選組は会津藩の指揮下に入る。白河口の戦い、母成峠の戦いを連戦するが敗戦し、土方歳三は庄内へ、斎藤は会津に残留し会津藩士と薩長の新政府軍に抵抗する。同年9月に会津藩が降伏後も戦い続けたが、松平容保の使者の説得で投降。越後高田に下り謹慎する。

 25歳、会津藩は降伏後に改易され、会津松平家は家名断絶になるが、下北半島に斗南藩の再興を許され、斎藤も斗南藩士となり五戸に赴く。移住後、飯盛山で自刃した白虎隊士の篠田儀三郎の遠縁にあたる篠田やそと結婚したが、その後、離別している。

 30歳、1874(明治7)年3月、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚。氏名を藤田五郎に改名する。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄を授かっている。同年7月、東京に移住し警視庁に入庁する。

 34歳、1877(明治10)年2月、九州で士族反乱の西南戦争が勃発。内務省警視局の警部補に昇任した藤田五郎(斎藤一)は、5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長の大義を負いつつ、西南戦争に参戦。敵弾で負傷する。

 35歳、戦後の1879(明治12)年10月、参戦の功績が認められ政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与。37歳、警視庁の巡査部長に昇進。その後、警部補や麻布警察署詰外勤警部を歴任。48歳、1892(明治25)年12月に退職。50歳で東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)に就任。撃剣師範を務め、学生に撃剣を教える。1899(明治32)年、55歳で退職。その後は東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛に。好爺と慕われ、生徒の登下校時の交通整理も行ったという。65歳、1909(明治42)年に退職……。

 その後の来歴は詳らかでない。1915(大正4)年9月28日、東京都本郷区真砂町で胃潰瘍のため逝去との記録が残っている。享年71。墓所は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。
斎藤の死因とされる胃潰瘍とは?
 死亡診断書は確認できないが、斎藤の死因とされる胃潰瘍(peptic ulcer)を見てみよう。

 胃酸の影響を受け、胃の粘膜に炎症が生じ、粘膜が潰瘍を形成する病態を消化性潰瘍(胃潰瘍と十二指腸潰瘍)と総称する。胃潰瘍は、40歳以降の人に多く、十二指腸潰瘍は10~20代の若年者に多い。

 原因は何か? ピロリ菌(ヘリコバクター・ピロリ)が十二指腸潰瘍なら95%、胃潰瘍なら70%とされる。ピロリ菌以外の原因は、非ステロイド性消炎鎮痛薬のアスピリン(NSAIDs:エヌセッド)が多い。そのほか、胃粘膜保護の減少を助長する飲酒、喫煙、塩分、熱い飲食物、ストレス、コーヒー(カフェイン)などがリスクファクターになる。

 どのような症状が現れるのか? 上腹部痛は、十二指腸潰瘍では、空腹時や夜間によく起こり、胃潰瘍では、食後30分から1時間後によくみられる。潰瘍からの吐血や下血のほか、むねやけ、吐き気、嘔吐などを伴うことが多い。

 胃・十二指腸潰瘍の診断に最も重要な検査は、バリウムによるX線造影検査と内視鏡検査だ。治療は、ピロリ菌の除菌療法の進歩によって1年後の胃潰瘍の再発率は10%、十二指腸潰瘍は5%と低下している。

 エヌセッドの服用による胃・十二指腸潰瘍の治療は、胃粘膜プロスタグランジンを補充するプロスタグランジン誘導体の投与が行われる。胃・十二指腸潰瘍の疑いのある時は、早急に医師の診察を受けなければならない。

 このような病態の根拠から、斎藤一の病死を推察すればどうなるだろう?

 詳細なデータが不明だが、明治時代から大正時代の男性の平均寿命は43歳前後だ。胃潰瘍の病態がまだ解明されてい明治期に、71歳まで生存できたのはなぜだろう? 遺伝的な気質、武士道に通ずる精神的な形質、飲酒、喫煙、塩分過剰などの生活習慣などが関与していたのかも知れない。
「顔が割れなかった斎藤一」の写真が初めて見つかる
 斎藤一は「顔」がなかった。だがしかし、2016(平成28)年に初めて、彼の写真が発見される(「日本経済新聞」2016年7月15日)。関係者宅の蔵を整理した時に見つかった2枚の写真を、次男の子孫に当たる藤田家が公表。斎藤が54歳の1897(明治30)年に、妻の時尾、息子二人と撮影したポートレート。「これが死線くぐった目だ」と物議をかもしている。

 没後103年。前述のように「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と畏怖される。沖田総司、永倉新八と居並ぶ新選組の豪腕剣士として伝説化される斎藤一とは、いったい何者だったのか?

 数知れない歴戦逸話や剣技美談の陰で、幾重にも折り重なる出自の謎、暗殺疑惑、粛清嫌疑の暗雲。惨劇と鮮血の轍。同志隊員の横死を横目に見つつ、幾多の先陣を切り抜け、戦死することなく幕末、明治、大正を生き存えた宿業の執念。史実の激流に呑み込まれつつも、闘魂伝説の闇に葬られた71年の剣劇人生!
 
 旗本の殺戮と逃亡、大坂力士との乱闘、長州藩の間者や脱走隊員の大粛清、天満屋事件の惨殺、戊辰戦争の死闘で猛剣を振るった歴戦猛者。戦後は警部、大学の守衛や庶務掛兼会計掛にも就き、汗して勤労する。

 司馬遼太郎は『新選組血風録』に隊士の粛清役、暗殺の請負人を淡々と描く。小説や映画の『壬生義士伝』は「ふさふさとした眉、目つき鋭く、炯々とした背の高い男」の怪奇な横顔を追う。漫画や映画の『るろうに剣心』は御一新の明治時代に警視庁で一心に働く藤田五郎を活躍させる。

 最初の名前は山口一。京都に潜伏した時は斎藤一。24歳になれば山口二郎。戊辰戦争の時は一瀬伝八。斗南藩に移住する直前は、妻の高木時尾の母方の姓を借り、藤田五郎と名乗る。

 名前に数字を折り込み、変名、改名を繰り返す不可思議。本名(諱:忌み名)を名乗ることで霊的人格を差配されるとする実名敬避のジンクスを死守しようと、本名を巧みに使い分けながら武士の本願を貫こうとしたのか?

 かの「七つの顔の男」多羅尾伴内も真っ青の多重人格者か? 怪奇異能、冷徹寡黙のポーカーフェイスか? 斎藤一は何も語らない。
(文=佐藤博)

維新に翻弄された徳川の殿様たち御三家筆頭の尾張藩が新政府に寝返った理由幕末動乱の中、西郷隆盛を信頼した尾張藩主徳川慶勝
安藤 優一郎
 明治維新から150年が経つ。NHKの大河ドラマで西郷隆盛が取り上げられるなど、薩摩・長州の側から維新を描く番組・特集が目立つ。しかし、負けた側である徳川方にも歴史がある。

 会津の松平容保は最後まで将軍家に尽くした悲劇の宰相として有名。その弟である松平定敬(桑名藩主)も容保と行動をともにした。それゆえ、桑名藩を飛び出すことになる。

 一方、彼らの実の兄である徳川慶勝(尾張藩主)は藩内の親幕派を抑え、新政府につく。兄弟ではないが、越前・福井の松平春嶽もキーパーソン。当初は、最後の将軍・徳川慶喜も参加する“連立政権”の実現を図るが頓挫。その後は新政府に人材を供給した。

 維新に翻弄された、尾張・会津・桑名の3兄弟と、春嶽の歴史をひもとく。現代のビジネスに通じる要素がいくつもある。

 明治維新とは、徳川家中心の幕府から薩摩・長州藩を中核とする明治政府への政権交代劇であったが、維新を境に徳川家が完全に排除されたわけではない。排除された徳川一門もいたが、明治政府入りした徳川一門もいた。徳川一門が分裂して一枚岩になれなかったことが、維新が実現できた理由の一つでもあった。


高須4兄弟肖像。向かって右から、徳川慶勝・ 徳川(一橋)茂栄・松平容保・松平定敬(複製/原資料行基寺蔵) 海津市歴史民俗資料館提供
 一口に徳川一門の大名(親藩大名)と言っても、徳川姓を名乗ることが許された御三家・御三卿から、藩主が松平姓を名乗る会津藩、福井藩まで様々だ。それぞれ、将軍職を継いだ徳川宗家との関係は一筋縄ではいかなかった。各大名家の複雑なお家事情も背景にあった。葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、本社と系列会社との関係は必ずしも良好ではなかったのである。

 そこで台風の目となったのが、尾張藩徳川家や福井藩松平家だった。こうした徳川家内部の足並みの乱れを突く形で、薩摩・長州藩は徳川一門の尾張藩や福井藩を引き入れて明治新政府を樹立し、さらに戊辰戦争を経ることで維新回天を実現する。

 本連載では明治維新150年の節目の年に際し、維新の過程で翻弄された徳川一門の殿様4名に注目する。尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、福井藩主松平春嶽の4名である。

 将軍家以外の徳川家は激動の時代をどう生きたのか。維新を境に敵味方に分かれた4名の殿様の生き様を追うことで、徳川一門の殿様からみた明治維新の知られざる実情に迫る。

冷戦状態だった幕府と尾張藩
 初回は尾張藩主徳川慶勝を取り上げる。慶勝は文政7年(1824)の生まれで、後に部下となる西郷隆盛よりも3才年上であった。

 尾張藩の石高は62万石で、戦国の雄だった加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家にこそ及ばないが、家格は徳川宗家(将軍家)に次いだ。徳川宗家に継嗣がいない時は、ナンバー2の大名として将軍の座に最も近い立場にあったが、尾張藩主が将軍の座に就くことは一度もなかった。

 6代将軍徳川家宣がいまわの時、尾張藩主の吉通が継嗣に擬せられたことはあったが、家宣の嫡男家継がわずか4才で将軍の座を継いだことで、その機会を失う。7代将軍家継が8才で夭折した時も、紀州藩主の吉宗に8代将軍の座を奪われた。

 家格では尾張藩の次に位置した紀州藩から将軍職を継いだ吉宗に対し、その後尾張藩主となった宗春は御三家筆頭としてのライバル心を剥き出しにするような政治を行う。質素倹約を旨とする吉宗のデフレ路線に対し、尾張藩主の宗春は規制緩和による積極経済の路線で対抗した。そのため、不景気に苦しむ江戸城下とは対照的に名古屋城下は大いに賑わう。

 しかし、こうした宗春の施政は吉宗から目を付けられざるを得ない。隠居・謹慎を命じられ、藩主の座を追われることになった。筆頭の系列会社のトップ人事にグループの総帥が介入した格好だ。おのずから、尾張藩では紀州藩が牛耳る幕府への反発が高まる。

 そして、尾張藩に跡継ぎがいなくなると、寛政10年(1798)に徳川宗家から養子を送り込まれてしまう。尾張藩には「御連枝」と称された分家の美濃高須藩松平家(3万石)があり、継嗣がいない場合は高須藩から養子に入るのが慣例だったが、幕府は高須藩からの相続を認めず、吉宗の曾孫にあたる11代将軍家斉の甥斉朝を養子に送り込んだ。

 斉朝が隠居した後も、三代続けて家斉の子や甥が藩主の座に就くが、いずれも吉宗の血統であるから、みな紀州藩出身ということになる。ライバル紀州藩の血統を引く者を主君として仰ぐことへの不満が尾張藩内では募っていく。自前の候補がいるにも拘らず、ライバルが牛耳る本社から社長を送り込まれたことへの反発は抑えようがなかった。

尾張藩待望の藩主徳川慶勝
 当時、分家の高須藩主は松平義建という人物で、子だくさんであった。後述するとおり、幕末史で重要な役割を演じる「高須四兄弟」とは義建の子供たちのことである。

 尾張藩では幕府に対抗して、義建の次男慶恕を藩主に迎えようという動きが既にみられた。慶恕は高須四兄弟では長兄にあたる。幕府はその動きを抑え込み、徳川宗家から養子を送り込み続ける。何度も養子を押し付けてきた幕府への不満は爆発寸前となるが、ようやく嘉永2年(1849)に慶勝が藩主として迎えられた。約半世紀ぶりに、尾張藩は自前の候補を社長の座に据えることができた。

 幕末に尾張藩主となった慶恕は藩政につとめるかたわら、国事多難な折柄、幕府の政治にも積極的に関与する。ついには水戸藩の前藩主斉昭とともに、大老井伊直弼の政治責任を追及したが、その反撃を受けて隠居・謹慎に追い込まれた。安政5年(1858)、世に言う安政の大獄である。藩主の座は高須四兄弟で次弟にあたる茂徳が継いだ。

 尾張藩主としては、宗春以来の強制隠居だった。藩内には衝撃が走り、幕府への反発がさらに強まる。そうした事情は斉昭や家老が処罰された水戸藩も同じであり、脱藩した水戸藩士たちは江戸城桜田門外で井伊を討ち果たす。幕府の権威は地に堕ちた。

 桜田門外の変の後、慶恕は隠居を解かれる。その折慶勝と改名した上で、政治活動を再開させた。文久3年(1863)に息子の義宜が藩主となると、後見役として藩の実権を再び握る。

 翌元治元年(1864)7月、長州藩が京都に攻め上り戦争(禁門の変)が起きる。敗れた長州藩は御所に向けて発砲した廉で朝敵に転落し、諸藩から構成される征長軍が組織された。長州征伐の開始だ。その総督に就任したのが慶勝であった。

 幕府は長州藩を徹底的に追い詰めることでその力を天下に見せつけ、幕府権威の復活を目論んだが、慶勝の考えは違っていた。長州征伐を断行することで、国内が内戦状態に陥ることを懸念していたのである。その混乱に乗じて、欧米列強が日本を侵略しないとも限らない。征長軍参謀を勤めることになった薩摩藩士西郷隆盛も同じ考えだった。

 西郷は長州藩に寛大な処置を取ることで、不戦のまま事態の収拾をはかることを慶勝に提案し、その了解を得る。自ら敵地に乗り込み、長州藩を帰順させることに成功した。征長軍は解兵となり、第一次長州征伐は終った。
 しかし、慶勝が西郷の勧めを受けて寛大な処置を施したことに、幕府は大いに不満だった。最後の将軍となる同じ徳川一門の一橋慶喜などは「芋に酔った」と批判している。芋とは薩摩藩(西郷)のことで、慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃したというわけだ。

明治政府の一翼を担った尾張藩
 それから3年後の慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は大政奉還に踏み切り、幕府は消滅する。その後、薩摩藩が主導する形で天皇をトップとする明治新政府が樹立されたが、徳川一門は分断された。慶喜が新政権から排除される一方、慶勝と福井前藩主松平春嶽を政府入りさせたのである。

 これに反発した慶勝の弟にあたる高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、慶喜を奉じて新政府と開戦する。慶応4年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いである。だが、慶喜と両藩は戦いに敗れて朝敵に転落し、慶勝と容保・定敬は兄弟で敵味方に分かれた。江戸中期以降、幕府と尾張藩が冷戦状態にあったことの必然的な結果でもあった。

 しかし、尾張藩内には幕府に反発する藩士がいる一方で、幕府に殉じるべきと主張する藩士も少なくなかった。このままでは路線対立が起き、内部抗争が起きるのは時間の問題だった。藩の分裂の危機が迫っていた。

 明治政府からも踏絵を迫られた慶勝は京都から名古屋に急行し、幕府寄りの立場を取る藩士たちを切腹などの断罪に処した。これは「青松葉事件」と呼ばれている。

 家臣たちに犠牲を強いることで藩内の一本化に成功した慶勝は政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走する。東海道や中山道沿いの諸藩をして明治政府に帰順させることにも成功した。その一方で、敵となった弟たちの助命にも力を尽くした。

 その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たさなければならない慶勝の苦悩があった。尾張藩に限ることではないが、尾張藩主と徳川一門の立場を両立させることの難しさが滲み出ている。

維新に翻弄された徳川の殿様たち徳川宗家に殉じた会津藩主松平容保子会社の存亡よりも本社の利益を優先
安藤 優一郎
 第2回は会津藩主松平容保を取り上げる。容保は天保6年(1835)の生まれで、兄の徳川慶勝よりも11才年下である。高須四兄弟でいうと、3番目にあたる。


京都守護職を務めたがゆえに幕末・維新の風雲を真正面から浴びた松平容保(近現代PL/アフロ)
 会津藩の初代は、3代将軍家光の異母弟で信濃の旧家保科家に養子に入った正之である。23万石の所領を与えられた保科正之は、甥にあたる4代家綱の治世では将軍補佐役をつとめた。藩主が松平姓を名乗ったのは、3代藩主の時からである。

 会津藩松平家は福井藩松平家とともに、松平姓を名乗る親藩大名の代表格だった。徳川御三家も親藩大名だが、当時の慣例として親藩大名が幕府の役職に就くことはなかった。外様大名はもちろんである。

 老中・若年寄や奉行職など幕府の役職に就けるのは、徳川家の家臣から大名に取り立てられた譜代大名と、将軍の御直参である旗本と御家人だった。徳川宗家としては一門の大名をして幕府の仕事に当たらせるのはためらわれ、一門の大名としても宗家(将軍)の下で仕事をするのは抵抗があった。一国一城の主としてのプライドである。

 ただし、将軍が幼少の時などは別で、親藩大名も特別に幕府政治に関与した。保科正之が任命された将軍補佐役はその一例だ。御三家が幕政に関与することもみられた。

 寛文8年(1661)、正之は家老宛という形で15ケ条から成る家訓を家中に向けて提示する。この家訓は会津藩の藩是となる。正之は第1条目で将軍には一心をもって忠勤を励むことを説く。他藩の動向に関係なく、将軍には忠節を尽くさなければならない。もし二心を抱く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな主君に、家臣たちは従う必要はない。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた。会社に喩えると創業者の社訓だ。この社訓に縛られてしまったのが美濃高須藩から養子に入った第9代藩主の松平容保なのである。

松平容保、京都守護職となる
 容保が会津藩に養子に迎えられたのは、弘化3年(1846)のこと。藩主の座に就いたのは嘉永5年(1852)、18才の時だった。

 そんな容保が幕末の政治史に登場するのは、文久2年(1862)のことである。

 当時は幕府権威の低下による天皇(朝廷)権威の急浮上を受け、京都が江戸に代わって政局の舞台となっていた。攘夷を唱える尊王攘夷の志士が京都に集結し、天誅などの騒動を引き起こす。

 朝廷内でも尊攘派の公家が台頭する。薩摩藩や長州藩に象徴されるように、朝廷を介して幕政に影響力を行使しようという藩も増えはじめた。天皇の奪い合いだ。

 こうした京都の情勢を、幕府は危険視する。朝廷や西国大名の監視そして京都の治安維持のために京都所司代を置いていたものの、所司代のみでは無理と判断する。

 所司代に任命されるのは10万石前後の譜代大名であり、小禄の方だった。そこで、23万石の石高を誇る会津藩の武力をもって、京都の治安を回復しようと目論む。京都守護職の新設だ。会津藩としては将軍補佐役に任命された藩祖保科正之と同じく、特命を受けて幕政への参画を求められた格好である。

 容保に守護職就任を求めてきたのは、同じ親藩出身で大老に相当する政事総裁職を務めていた福井前藩主の松平春嶽だった。容保はこれを固持、家臣たちも大反対だった。現下の情勢では、衰運の幕府を助けて守護職を務めるというのは薪を背負って火中に飛び込むのに等しい。家老の西郷頼母や田中土佐は言葉を尽くし、守護職を受けないよう容保に諫言を重ねる。
 会津藩が存亡の危機に陥ることを危惧したのだ。実際、その危惧は現実のものとなる。

 しかし、正之が残した家訓を知っていた春嶽は容保を説得してしまう。藩祖の正之ならば、必ず引き受けただろう。この言葉は、容保には殺し文句だった。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めたわけだが、容保にとり藩祖の家訓は何よりも重かった。養子であるがゆえに、養家の社訓により縛られてしまう。会津藩としては、幕府の苦難を黙視できない。命運を共にしなければならない。

 容保は藩内の反対を押し切って京都守護職を受諾する。これが、会津藩にとっては茨の道のはじまりだった。

容保に守護職辞職を求めた会津藩重臣
 会津藩士1000人とともに入京した容保は、幕府の命に従って職責を全うすることに努める。衰運の幕府を支える柱石になるとともに、孝明天皇の厚い信任も獲得した。だが、そのぶん、朝廷を牛耳ろうとしていた長州藩などからの嫉妬は避けられなかった。

 元治元年(1864)の池田屋事件、禁門の変を経て、長州藩とは血で血を争う仇敵の関係になる。高須四兄弟では弟にあたる桑名藩主松平定敬は京都所司代として容保を支えたが、長兄にあたる徳川慶勝が藩主を勤めた尾張藩との関係は微妙なものとなっていく。

 正之の家訓に従って幕府と運命を共にする道を進む会津藩と、藩主が2度にわたって隠居を命じられた上、宗家から養子を押し付けられてきたことで幕府への積年の不満が溜まっていた尾張藩の藩内事情の違いだ。幕府を支える会津(容保)・桑名藩(定敬)と、幕府と距離を置く尾張藩(慶勝・茂徳)の政治的立場の違いが、同じ徳川一門の家に養子に入った高須四兄弟の間を引き裂いた。

 こうして、会津藩は幕府の柱石として守護職を勤めれば勤めるほど、反幕府の立場を取る長州藩や薩摩藩との関係が悪化することになったが、藩内にも容保への不満が広がっていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからだ。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となる。

 容保の在京は5年にも及んだが、京都詰の藩士たちも多大な負担を強いられる。藩にしても財政難であるから、彼らに充分な手当は支給できなかった。生活難に陥った藩士の間では、内心京都詰を忌避する空気があったが、迷惑であると表立って申し立てるのは臣下として許されるべきことではなかった。会津藩に限らず、藩士にとり藩命は絶対だった。

 しかし、このまま容保が守護職にとどまっては、藩や藩士たちが疲弊して滅亡の危機に瀕するのは明らかだった。仇敵長州藩との戦いも避けられない。重臣たちは容保に守護職辞任と国元への帰国を説く。会社の危機を眼前にした役員たちが、その回避をはかろうと社長に直訴した格好だが、容保は重臣たちの意見を退け、守護職にとどまる。子会社の存亡よりも本社の利益を優先した形であった。
 当然ながら、藩内にはしこりが残る。藩内に反発を抱えたまま、容保は大政奉還の日を迎える。幕府が倒れた後は、薩摩・長州藩との戦いが時間の問題となり、慶喜を奉じる会津藩と桑名藩は敗れ、朝敵に転落した。容保は弟の定敬とともに、慶喜に随って江戸へ敗走する。会津藩士たちもその跡を追った。

 しかし、新政府に対して恭順の意思を示す慶喜からは会津への帰国を命じられる。抗戦の意思を捨てない会津藩は、慶喜にとり都合の悪い存在になってしまったからだ。その後の会津藩の苦難は、白虎隊の悲劇に象徴されるように良く知られているだろう。

 明治維新(戊辰戦争)における会津藩の悲劇とは、創業者の社訓に縛られた子会社の社長が本社に義理立てし続けた結果、その身代わりとなって自分の会社を倒産させてしまい、社員にも多大な犠牲を強いた事例である。会津藩主松平容保の生き様は、現代にも通じる本社と子会社の関係の難しさを物語っている。

(次回は、3月22日に桑名藩主・松平定敬をお送りします)
維新に翻弄された徳川の殿様たち戊辰戦争で帰る場所を失った桑名藩主松平定敬それでも殿様は箱館まで戦い続けた
安藤 優一郎
 第3回は桑名藩主松平定敬を取り上げる。定敬は弘化3年(1846)の生まれで、兄の会津藩主松平容保よりも11才年下である。高須4兄弟でいうと、一番下にあたる。


新撰組の局長、近藤勇。新撰組が活躍していた頃、会津藩とともに京都の治安維持に努めたのは桑名藩だった(写真:近現代PL/アフロ)
 兄弟が藩主を勤めて政治行動を共にしたことで、「会津・桑名」と括られるのが幕末史の定番の記述だが、桑名藩の歴史は会津藩とかなり違う。会津藩は保科正之が入封して幕府が倒れるまでの200年以上、保科(松平)家が藩主を勤めたが、桑名藩は藩主の入れ替わりが多い藩であった。

 伊勢桑名は上方の要衝として、親藩大名や譜代大名が入封するのが通例だった。関ヶ原合戦の論功行賞で徳川四天王の本多忠勝が封じられた。本多家が姫路に転封となると、家康の異父弟である久松(松平)定勝が封じられる。

 百年近く松平家が藩主を勤めた後、奥平(松平)家が藩主となる。同家が同じく100年ほど藩主を勤めた後、文政6年(1823)に白河藩主松平定永が移ってきた。そして、明治まで松平家が藩主を勤める。なお、定永の父は寛政改革を主導した老中松平定信である。

 桑名藩の所領は11万石だが、越後柏崎に6万石近くの分領があり、陣屋を置いて支配にあたった。後に、定敬は柏崎陣屋を拠点に新政府軍に抵抗することになる。

 安政の大獄のさなかの安政6年(1859)、定永の孫にあたる藩主松平定猷が死去する。嫡男の定教は幼少であった。そのため、中継ぎの形で養子を迎える話となり、定敬が養子入りする。定敬は14才になっていた。

 高須4兄弟のうち、長兄の徳川慶勝(当時は慶恕)は前年に井伊大老(安政の大獄)により隠居に追い込まれ、次兄の茂徳が尾張藩主となっていた。すぐ上の兄松平容保は会津藩主の座にあり、これで4兄弟がみな藩主の座に就いたことになる。

 翌年に勃発した桜田門外の変を境に、幕府の権威は失墜の一途を辿る。そうしたなか、文久2年(1862)閏8月に容保が京都守護職に任命される。定敬が兄と運命を共にする時は刻々と近づいていた。
京都所司代として兄容保を支える
 兄の容保が会津藩士1000人を連れて京都に入ったのはその年の暮のこと。京都には守護職とともに治安維持にあたる所司代が置かれていた。時の所司代は長岡藩主牧野忠恭で、その家臣として奔走していたのが河井継之助である。

 しかし、長岡藩の所領は7万4000石に過ぎなかった。23万石の会津藩とともに、風雲急を告げる京都で鎮撫の任にあたることは無理があった。そのため、翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職し、淀藩主の稲葉正邦が後任に補される。淀藩の所領は15万石であった。

 元治元年(1864)4月、幕府は稲葉を老中に抜擢し、江戸へ向かわせる。そして、後任の所司代として白羽の矢が立ったのが定敬だった。ここに、兄弟揃って守護職・所司代として京都鎮撫の任にあたることになる。慶応3年(1867)12月に両職が廃止されるまで、会津・桑名藩が京都で幕府を支える体制は続く。

 定敬が桑名藩士を率いて入京した時、京都の情勢は既に緊迫していた。元治元年(1864)6月には会津藩配下の新選組が池田屋事件を起こし、長州藩士を殺傷する。これに激高した長州藩は会津藩主松平容保討伐を掲げ、京都に兵を進めた。

 当然、定敬は所司代として兄容保を支える。親藩の会津藩や福井藩、そして外様の薩摩藩とともに御所の警備に付き、長州藩兵を撃退した。7月の禁門(蛤御門)の変の名で知られる戦いである。

 その後も、桑名藩は会津藩とともに京都に駐屯する。最後の将軍となる慶喜を奉じ、長州藩そして薩摩藩との対決姿勢を強めていく。

 しかし、桑名藩も会津藩と同様の問題を内部に抱えていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからである。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となり、そのしわ寄せは藩士に降りかかった。

 このまま定敬が所司代の職にとどまっては、藩や藩士が疲弊して滅亡の危機に瀕し、仇敵長州藩との戦いも避けられない。藩内の不満と不安が増幅していくが、定敬はその職にとどまり続ける。兄容保と運命を共にする道を選び、戊辰戦争の渦の中へと飛び込む。だが、桑名藩は別の道を歩むのである。
藩存続のため家老の説得を容れる
 慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、会津・桑名藩は京都を目指す徳川方の先鋒を務める形で薩摩・長州藩と激突した。会津藩は伏見で、桑名藩は鳥羽で奮戦したが、徳川方のまとまりの悪さなども相まって、両藩は後退を余儀なくされる。そして朝敵に転落した。

 戦況の不利を悟った慶喜は大坂城から海路江戸へと向かうが、その折、容保と定敬に同行を命じる。二人を大坂に残しておくと、自分の代りに祀り上げられ、会津・桑名藩士が抗戦を続ける恐れがあったからだ。

 主君が江戸へ向かったことを知った会津藩士はその跡を追うが、桑名藩士の場合は事情が違っていた。もちろん定敬の跡を追った藩士もいたが、藩内では別の動きが起きていた。

 会津とは違い、桑名は上方の要衝であり、西日本を制圧しつつあった薩摩・長州藩を主軸とする新政府の軍事的圧力に晒されていた。その上、譜代大名の井伊家をはじめ、上方の諸藩は新政府に次々と帰順し、桑名藩は四面楚歌の状況に置かれつつあった。

 定敬が所司代を長く務めることへの不満と不安が藩内には渦巻いていた。それが、ここに至り、一気に噴出する。新政府への帰順、つまり不戦論が藩内で急速に台頭した。しかし、藩内では抗戦論も根強かったため藩内は分裂の危機に陥る。藩主が不在であったことも混乱に拍車を駆けた。

 桑名藩の留守を預かっていた家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一する。藩を守るため、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。1月28日のことである。以後、桑名藩は新政府側の尾張藩の管理下に入る。

 国元を長らく不在とし、さらには養子だったこともあり、定敬が家中を充分に掌握できていなかったことは否めない。兄弟が藩主を務めたことで会津・桑名藩は政治行動を共にしたが、もともとは別の藩である。会津藩に引きずられることへの不満と不安が藩内で渦巻いていたことは否めない。

 葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、会社が存亡の危機に瀕したのを契機に別々の道を歩んだわけである。

 一方、江戸に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意思を示すことを決めたため、抗戦の意思を捨てない松平容保・定敬兄弟は帰国を命じられる。容保は会津若松城に帰るが、定敬には帰るべき城がなかった。

 止むなく、定敬のもとに駆け付けた藩士たちとともに、分領の越後柏崎陣屋に向かう。しかし、越後でも新政府軍に敗れた定敬は、蝦夷地に渡り箱館で最後の抗戦を試みる。

 これでは桑名藩の存続も危ういと事態を憂慮した酒井は、自ら箱館まで赴く。定敬を説得して、新政府に帰順させた。年は明け、明治2年(1869)5月になっていた。

 これにより、桑名藩は会津藩のように御家断絶からは免れる。所領は約半減されたものの、桑名藩は存続を許された。

 会津藩に比べ、桑名藩の苦難が明治維新史で取り上げられることは少ない。会津藩とは異なり、戦わずして帰順したことが大きい。同じ徳川一門に連なる藩で藩主が兄弟であっても、別々の藩であることが桑名藩をして帰順の道を取らせた格好であった。

 桑名藩における家老酒井孫八郎の行動は、会社が存亡の危機に立たされた時、社長の意向よりも会社の存続を優先させるため役員が決起した社内クーデターに似ているのではないか。

(次回は、3月23日に越前藩主・松平春嶽をお送りします)

第一弾は幕末・明治の長崎にフォーカス「写真発祥地の原風景」展幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を楽しむ展覧会が5月6日(日)まで開催。
日本の写真発祥地といわれる3都市にフォーカスし、初期写真を核に幕末・明治の日本を再構築するシリーズ「写真発祥地の原風景」の第一弾が、5月6日(日)まで恵比寿・東京都写真美術館で開催中。

本展では「明治150年」を記念し、写真を中心としたオリジナル作品のほか、古地図や絵画・工芸作品など、 ジャンルや時代を超えて、幕末・明治の「長崎」に焦点を当て、日本の写真文化発展の源流を考察するとともに、初期写真の記録性に着目する。現代に生きる我々が決して訪ねることが出来ない、幕末・明治の長崎にタイムトラベルをする臨場感を、集積された初期写真・資料等から楽しんでみては。

タイトル
「写真発祥地の原風景 長崎」

会期
2018年3月6日(火)〜5月6日(日)

会場
東京都写真美術館(東京都)

時間
10:00〜18:00(木金曜は20:00まで)

休館日
月曜、4月30日(月・祝)*5月1日(火)は開館

入場料
【一般】700円【学生】600円【中高生・65歳以上】500円

URL
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2960.html
幕末維新博 最先端の「肥前」体感5万人体験授業計画、肥前中の50人が第1号
 唐津市の肥前中学校2年生約50人が20日、「肥前さが幕末維新博覧会」の会場を訪れ体験した。佐賀市城内のメインパビリオン「幕末維新記念館」、県立博物館・美術館などを訪れ、日本の近代化をけん引した佐賀県の業績を“体感”した。

 県は来年1月14日までの期間中、県内の小学校4年生から中学校3年生まで約5万人が博覧会で体験授業を受けられるよう準備している。肥前中の生徒はその第1号として訪れた。

 生徒たちは5月、鹿児島県への修学旅行を予定。その事前学習の一環という位置づけもあり、幕末維新記念館では、最新のデジタル技術などを駆使した演出のほか、役者や映像が一体となったショーに見入っていた。

 「未来につなぐメッセージ」を書くコーナーでは、「佐賀、大好き」など思い思いの言葉を記した。岩本藍さん(14)は「これまでは田舎…と思っていた佐賀が、最先端を走っていたんだなあと実感した」、井上真帆さん(14)は「看護師になるのが夢。将来は佐賀のいいところを伝えられるようになりたい」と目を輝かせていた。

 生徒たちは事前学習で偉人をテーマにした壁新聞作りにも取り組んだ。県立美術館ホールで開いた表彰式で副島種臣を取り上げた最優秀の吉田咲笑さん(14)らに賞状などが贈られた。
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