新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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今日は午後になって急に真っ黒い雲が来たかと思うと、霙《みぞれ》が降りました。「お彼岸過ぎて……(汗)」と思いましたが、自分が子供の頃(どのくらい大昔かはツッコまないでください^_^;)は東京でも4月に入ってドカ雪が降ったことも何度かありました。
一方、まだまだ開花していないソメイヨシノが多いのですが、近所に一本だけ、すでに満開の木がありました。日陰にある木でした。桜は冬の寒さで開花スイッチが入ると聞いています……ちゃんと寒さを経験することって大事なんですね。
神奈川
横浜開港150周年・第28回横浜開港祭の「親善大使」を募集
静岡
お吉と龍馬題材に小説 伊豆龍馬会石垣副会長 下田
リンク先は静岡新聞サイト(閲覧に会員登録が必要、無料)です。
お吉がハリスのもとでの仕事を辞めた後どうなったかは「身持ちを崩して身投げしたとされる」という伝承の方が通説なので「ハリスと離別後、京都で開国運動に奔走した」という伝承もあると聞いて、面白いなと思いました。幕末に女性が、しかも開国派として奔走ってところが。
滋賀
本堂など3棟全焼、住職夫婦けが 大垣市上石津
和歌山
川合小梅:「小梅雑記」など寄託 県立文書館に子孫が28冊 /和歌山
川合小梅:「小梅雑記」など寄託 県立文書館に子孫が28冊 /和歌山
川合小梅さん、ちょっと気になる人物です。「ロシアへの漂流民を描いた大槻玄沢の『環海異聞』、周参見浦出身の沖船頭が嵐に遭ってカリフォルニアまで漂流した記録をまとめた『異国物語』を小梅が筆写していて、自身で描いた絵も多数収められている」というところを読んで、おおっと思いました。
和歌山県のホームページ: 川合小梅
御三家のひとつ紀州藩の藩校で教えていた儒学者が父、夫も儒学者を継ぐという教養の高い家に育ったとはいえ、女性で、異国関係のことや西洋の学問に高い関心を示したこと……いずれ小梅さんについてもっと詳しく知りたいと思います。
兵庫
勝海舟も教えた? 姫路藩の学問所「申義堂」復活へ
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 重野安繹
山内教授は作家の中村彰彦氏との対談本(『黒船以前――パックス・トクガワーナの時代』『黒船以降――政治家と官僚の条件』リンク先はamazon.co.jp……自分は単行本で読んだのですが、もう中公文庫に入ってるんですね)が面白かったです。専門はイスラームですが、江戸時代から幕末にかけて、とても詳しいです。
この連載コラム、楽しみにしています。
長州とともに明治政府の重職を占めた薩摩の出身者で、こんな道を歩んだ人物もいるんですね。しかも「考証史学を主張して児島高徳の存在や楠木正成父子決別の史話を否定した」という点が凄い! 「抹殺博士」と呼ばれたというのは、皇国史観にくみせず学術的実証的な史学を追究したからでしょうか(汗)……時代に迎合せずに生きた方なんですね。
一方、まだまだ開花していないソメイヨシノが多いのですが、近所に一本だけ、すでに満開の木がありました。日陰にある木でした。桜は冬の寒さで開花スイッチが入ると聞いています……ちゃんと寒さを経験することって大事なんですね。
神奈川
横浜開港150周年・第28回横浜開港祭の「親善大使」を募集
横浜開港祭実行委員会は、6月1日、2日に開催する「第28回 横浜開港祭」を、キャンペーンPR活動などを通して盛り上げる「横浜開港祭親善大使」を募集している。
親善大使の活動は、4月29日から開港祭当日まで横浜市内や近隣の主要駅などで行う「横浜開港祭PR活動」や、会場でのスタッフ活動・インフォメーションでの対応などの「開港祭当日のお手伝い」や「ラジオ・TVなど放送局への出演及び雑誌のインタビュー対応」など。募集対象は18歳以上(高校生は除く)の健康で明るい女性。約25人を募集する。
開港祭では、関東一早い花火大会「スターライトイリュージョン」を2日間にわたって行うほか、ライブ、海上イベントなどさまざまなイベントが行われる。
横浜開港祭の親善大使担当者は「横浜開港150周年を迎える記念すべき年に、『横浜開港祭』を私たちと一緒に盛り上げて頂ける開港祭親善大使を募集しています。一緒に『横浜開港祭』を楽しみましょう」と呼び掛けている。
横浜港は、1854年の日米和親条約、1858年の日米修好通商条約の締結を経て、1859年6月2日に開港した。当初の貿易相手はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5ヵ国。横浜と同時に長崎と函館が、その後、新潟と神戸も開港を迎えた。
横浜では、開港1周年にあたる1860年6月2日に、山車や手踊りで開港を祝ったのが開港記念日のはじまりと言われている。1909年には、開港50年祭を開催し、記念事業として横浜市開港記念開館を建設。1959年に、開港100年祭を開催し、マリンタワーや市庁舎、市民病院などが建設された。6月2日は横浜開港記念日として市が定める祝日となり、1981年に横浜国際デー「プレ横浜どんたく」という名称で横浜の開港を祝う祭りを実施したのが「横浜開港祭」のはじまり。
親善大使への応募は、履歴書を横浜開港祭実行委員会「開港祭親善大使応募係」まで郵送。締切は3月31日。問い合わせは、横浜開港祭実行委員会(TEL 045-212-5511)まで。
静岡
お吉と龍馬題材に小説 伊豆龍馬会石垣副会長 下田
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下田市の坂本龍馬の愛好家らでつくる「伊豆龍馬会」の石垣直樹副会長(44)はこのほど、歴史小説「お吉と龍馬・風の出会い」(四六版、141ページ)を文芸社から出版した。幕末の悲劇のヒロイン・唐人お吉(本名・斉藤きち)は龍馬と親交があった―との想定で、共に開国運動に足跡を残すというストーリー。同会では、出版記念の弁当や龍馬を題材にした曲も同時期に発売するなど、会員たちによる活動が盛り上がりをみせている。
同会は昨年4月、龍馬と縁のある同市1丁目の宝福寺(竹岡幸徳住職)の修復に合わせて発足した。同寺は初代米国総領事のタウンゼント・ハリスに奉公した後、身持ちを崩して身投げしたとされるお吉の菩提(ぼだい)寺として広く知られている。
小説はお吉がハリスと離別後、京都で開国運動に奔走したという伝承をヒントに創作。龍馬や勝海舟らと交流を深め、幕末を力強く生き抜いた新時代の女性としてお吉を表現した。石垣副会長は「供養の気持ちで書いた処女作。少しでもお吉さんのイメージが変わればうれしい」と期待する。
小説の発刊に合わせ、会員の遠藤一郎さん(44)は地元素材でお吉と龍馬を表現した釜飯弁当「ほうふくめし」を企画。阿部まさし(本名・櫛田雅志)さん(58)は龍馬のオリジナルソングをCD化した。同寺では27日に営む「お吉祭り」でそれらに加え、2人をイメージした「サクラダイとカギテリョウマエビ」の水槽なども紹介する。
伊豆龍馬会の会長も務める竹岡住職は「わずかな期間で活動が広がったことが驚き。本当にありがたい」と話している。
お吉がハリスのもとでの仕事を辞めた後どうなったかは「身持ちを崩して身投げしたとされる」という伝承の方が通説なので「ハリスと離別後、京都で開国運動に奔走した」という伝承もあると聞いて、面白いなと思いました。幕末に女性が、しかも開国派として奔走ってところが。
滋賀
本堂など3棟全焼、住職夫婦けが 大垣市上石津
26日午前10時20分ごろ、大垣市上石津町祢宜上、正林寺の庫裏から出火、木造2階建て庫裏のほか、隣接する木造平屋本堂、トイレの計3棟約500平方メートルを全焼した。消火作業中に住職(71)が手などに軽いやけどをしたほか、妻(65)が腰に打撲を負った。
養老署によると、住職が庫裏にいたところ、庫裏玄関付近から火が出たため、119番通報した。同署が出火原因を調べている。
本堂の倉庫には、市重要文化財に指定されている幕末の掛け軸「絹本着色十六善神図」が保管してあり、焼失したとみられる。
和歌山
川合小梅:「小梅雑記」など寄託 県立文書館に子孫が28冊 /和歌山
川合小梅:「小梅雑記」など寄託 県立文書館に子孫が28冊 /和歌山
◇幕末から明治 記事写し、うわさ、俗謡…
幕末~明治の約70年間、県内で「小梅日記」を残した川合小梅(1804~89)の雑記や写し書きなど計28冊が、子孫から「小梅日記を楽しむ会」を通じて県立文書館(和歌山市西高松1)に寄託された。今月から一部が公開されている。【嶋谷泰典】
寄託したのは、雑村(さいむら)悦子さん=大阪府吹田市。小梅のひ孫に当たる父の志賀裕春さんが長期間保管していたが、亡くなる直前に引き継いでいた。雑村さんも高齢になったため「貴重な文書をなくさないよう、きちんと整理してほしい」と依頼してきたという。
最初に展示されているのは、「忠臣蔵」や新聞記事の写し書きなど雑記9冊。陸奥宗光の父、伊達千広が紀州藩内で粛清される時にささやかれたうわさ、俗謡なども書き込まれ、さまざまなニュースに対する小梅の関心の高さがうかがえる。
それ以外にも、ロシアへの漂流民を描いた大槻玄沢の「環海異聞」、周参見浦出身の沖船頭が嵐に遭ってカリフォルニアまで漂流した記録をまとめた「異国物語」を小梅が筆写していて、自身で描いた絵も多数収められている。
他の資料も整理でき次第、順次公開する予定。展示品はガラスケースに入れられて表紙しか見ることができないが、希望者には、中身のコピーを閲覧できるようにする。同館は「和歌山が生んだ小梅という人の魅力を、いろんな角度から学んでもらえれば」としている。
川合小梅さん、ちょっと気になる人物です。「ロシアへの漂流民を描いた大槻玄沢の『環海異聞』、周参見浦出身の沖船頭が嵐に遭ってカリフォルニアまで漂流した記録をまとめた『異国物語』を小梅が筆写していて、自身で描いた絵も多数収められている」というところを読んで、おおっと思いました。
和歌山県のホームページ: 川合小梅
御三家のひとつ紀州藩の藩校で教えていた儒学者が父、夫も儒学者を継ぐという教養の高い家に育ったとはいえ、女性で、異国関係のことや西洋の学問に高い関心を示したこと……いずれ小梅さんについてもっと詳しく知りたいと思います。
兵庫
勝海舟も教えた? 姫路藩の学問所「申義堂」復活へ
江戸時代後期、高砂市に設けられた姫路藩の学問所で、勝海舟らも講師として名を連ねたとされる「申義堂」が、同市内に復元される見通しになった。復元場所は、市立高砂小学校敷地内を検討している。よみがえる歴史的建築物は「社会教育施設としての運営や活用方法を考えたい」(同市教委)という。同市は実施設計費を二〇〇九年度予算に盛り込み、秋にも工事に取りかかりたい考えだ。(増井哲夫)
申義堂は文化年間(一八〇四-一八年)、姫路藩が庶民教育の拠点として開設。町民の子ども約二百人が朱子学などを学んだ。憲法学者・美濃部達吉の父で医師の秀芳や、幕末の重臣・勝海舟ら著名人が教えたとされる。明治維新後の廃藩置県で閉鎖となり、一八七九(明治十二)年、加古川市東神吉町西井ノ口に移築された。
同地区内にあった西井ノ口自治会共同倉庫が申義堂と確認されたのは一九九〇年。高砂、加古川両市の文化財審議委員会が同年、高砂市への移転保存を答申した。九三年に解体され、部材は同市の教育センターで保管。神戸大が九九-二〇〇〇年に復元基本計画を策定した。
これを受け、市は〇二年度予算で、申義堂の復元建築を計画したが、財政難や建設地が二転三転したことなどから断念した。〇三年度も飾り瓦のみの復元にとどまり、その後は予算化も見送られていた。
昨年から、高砂小学校敷地内での復元案で関係者と協議を進め、今年二月、教育委員会で「ベストではないがベター」と了承され、計画は十年ぶりに動きだすことになった。
耐震性の問題をクリアするため工期は約一年を見込んでおり、市は九月議会で工事費用などの関連予算を提案する。
コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 重野安繹
山内教授は作家の中村彰彦氏との対談本(『黒船以前――パックス・トクガワーナの時代』『黒船以降――政治家と官僚の条件』リンク先はamazon.co.jp……自分は単行本で読んだのですが、もう中公文庫に入ってるんですね)が面白かったです。専門はイスラームですが、江戸時代から幕末にかけて、とても詳しいです。
この連載コラム、楽しみにしています。
■英相手に堂々外交談判
歴史の神クリオは時にいたずらをする。地味な人物を一度だけ表舞台に登場させ、一大事を処理させる。そして、その役者は二度と華やかな場面には戻らないのだ。
関が原の合戦前夜、尾張(愛知)に滞陣した福島正則らを督戦(とくせん)するため、徳川家康が口下手な村越茂助を送らなければ、合戦の様相は変わっていたかもしれない。茂助は命じられた通り、「家康は諸将の戦闘意欲を確認後に出陣する」と愚直に語り、合戦を開始させる。彼の役割はこれで終わった。
◆意表つく連続駆け引き
幕末にいちばん厳しい外交の修羅場を経験した男、薩摩の重野厚之丞(あつのじょう)こと安繹(やすつぐ)も一度だけスター級の役割を果たした。36歳の若さで、七つの海に冠たる大英帝国を向こうに回し、日本の進路を左右する外交談判を堂々と繰り広げた人物である。島津久光の行列先を乱した英国人らを斬殺した生麦事件、その結果生じた薩英戦争という厄介な国際事案の処理を任され、現代の職業外交官顔負けの活躍をした人物なのだ。
1863(文久3)年の薩英交渉において、重野らは進んで講和を求めるのを潔しとせず、会談劈頭(へきとう)から英国の非ばかりを一方的に責め立てた。重野らの談判は英国の意表をつく駆け引きの連続であった。当初は薩摩藩が大英帝国の外交官を相手に交渉の主導権を握った感さえある。
重野は英国代表のニールに対して、薩英戦争の原因を英国艦隊による薩摩の商船拿捕(だほ)に求め、生麦事件も「不作法な英国人らが大名行列の供先(ともさき)を妨げたので臨機に処置しただけだ」と強弁した。国内法の論理を正面から展開してひるまなかったのだ。
16歳で藩校造士館のスタッフに抜擢され、22歳で江戸の昌平黌(しょうへいこう)に留学した秀才とはいえ、相手が大英帝国である。それでも、少しも臆(おく)せず、卑屈にならない様子が文句なく凄(すご)い。
しかし英国側が国際法や日英条約もからめた議論を始めると、雲行きが怪しくなり、重野らは交渉の引き延ばしにかかる。ロンドンまで直接使節が赴き、女王陛下に直接談判すると、人を食った要求で反撃をはぐらかしたのだ。重野らとしても、藩内の主戦派をなだめ、怒りを鎮めるには一方的に屈服してはならず、いきおいニールを煙(けむ)にまいたのだろう。
◆政治家にもなれた学者
重野らは、妥協の光が見えると一転、ニールの意表をついて「両国懇親」「両国和親」のために「主君へ申訳も相立つ筋」として、交戦相手国に軍艦購入の周旋を求めた。戦った敵国から、艦船の購入や教官の斡旋(あっせん)を請われたニールはさぞかし仰天したことだろう。
しかし軍艦の購入こそ二心ない証しではないかという薩摩藩の姿勢は率直であり、江戸幕府を含めたスエズ以東のアジアの為政者にない清新さをもっていた。この毅然(きぜん)とした態度にニールも矛を収め、急転直下、両者は和平に向かい、むしろ薩英は接近することになったのだ。
これはまことに爽(さわ)やかな日本外交史の物語である。面白いのは重野のその後だ。薩英提携の功労者は外交官や政治家の道を選ばず、藩の造士館助教を経て、明治になると、東京大学教授として地味な歴史家の道を歩んだ。
幕末の日本人は、国への義務感と個人の能力を生かす上で政治家と学者という職業に現在の日本人ほどの違いを感じなかったのだろう。一般に多分野で業績を残した人が多い。
現在、選挙の地盤や資金に苦労せず世襲の政治家となる人たちに、重野のようなタイプはいるだろうか。テレビで多弁を弄(ろう)するより、ここぞという場合以外には寡黙でも存在感を発揮できることもある。静かに思索にふければ、「浄玻璃(じょうはり)の鏡」に浮かぶ人の痛みや苦しさをもっと切実に理解できるのではないか。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】重野安繹
しげの・やすつぐ 文政10(1827)年、現在の鹿児島市に生まれた。父は郷士で、重野は藩校に入り、嘉永元(1848)年、江戸に出て昌平黌で学ぶ。7年後に舎長となるが、金銭上のトラブルから大島に流刑となった。当時、西郷隆盛も大島におり、交流があったという。文久3(1863)年、薩英戦争では英国側との交渉にあたった。元治元(1864)年、造士館助教になり、『皇朝世鑑』の編纂(へんさん)にあたった。明治4年に文部省入り。10年には年史館を設置して「大日本編年史」の編纂を主宰。21年から帝国大教授を務め、考証史学を主張して児島高徳の存在や楠木正成父子決別の史話を否定したため、「抹殺博士」と呼ばれた。43年、83歳で死去した。
長州とともに明治政府の重職を占めた薩摩の出身者で、こんな道を歩んだ人物もいるんですね。しかも「考証史学を主張して児島高徳の存在や楠木正成父子決別の史話を否定した」という点が凄い! 「抹殺博士」と呼ばれたというのは、皇国史観にくみせず学術的実証的な史学を追究したからでしょうか(汗)……時代に迎合せずに生きた方なんですね。
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