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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
土曜日に左足首を捻挫し、今日は受診のため仕事を休みました。幸い、骨には異状がなく、痛みも治まってきたので、明日には仕事に戻れそうです。

宮城
戊辰戦争で謹慎となった伊達家子孫、『夕日と拳銃』のモデルに
 映画や小説などフィクションの世界では、実在の人物がモデルになることは多々あること。仙台藩藩主・伊達家の子孫もその一人。第18代当主伊達泰宗(やすむね)氏が先祖について語った。

*  *  *
 伊達家の分家と家臣団が開墾をしたのは、今で言う石狩郡当別町や伊達市、札幌市白石区などです。

 伊達家本家はというと、戊辰戦争で幕府側についたことで、13代慶邦(よしくに)公は東京で謹慎となりますが、幼くして家督を継いだ14代宗基(むねもと)は、後に初代の仙台藩知事となりました。

 実は、宗基のほかにもう一人、14代を継ぐはずだった人がいました。当初、慶邦公には男の子がいなかったものですから、「四賢公」の一人、伊予宇和島藩の伊藤宗城(むねなり)公の次男を養子にとりました。宗敦(むねあつ)という方でしたが、慶邦公とともに戊辰戦争の責任を負わされて14代目を継ぐことができませんでした。

 その子どもの順之助は中国へ渡り、大陸浪人として活動します。檀一雄さんの小説『夕日と拳銃』の主人公、と言ったらご存じの方も多いかもしれませんね。

 1884年に華族令が制定されて、華族は公候伯子男の五つの爵位に分けられました。北海道に入植した分家の岩出山(いわでやま)伊達家や亘理(わたり)伊達家、片倉家は、開拓の功績が認められて男爵を与えられました。

 伊達家本家は、領地を減らされてはいたものの28万石ありましたが伯爵でした。一方、分家である伊予宇和島藩の伊達家は10万石ながらも侯爵です。爵位の上では、本家と分家の地位が逆転しました。これは、伊達家本家が戊辰戦争で明治政府に弓を引いたのに対して、伊予宇和島の伊達家は政府に貢献をしたからではないかと思っています。

 明治以降の伊達家は、皆、東京住まいでした。ただ、藩知事となった宗基はたびたび仙台へ戻りますから屋敷が必要となり、市内の一本杉町に土地を求めました。屋敷は15代邦宗のときに完成します。書院造りで、お客様と当主だけが使う表玄関と家族が使う脇玄関が並んでいる武家屋敷です。

 1947年に、昭和天皇が東北をご巡幸されました。その際、一本杉町の屋敷を一夜借りたい、との打診を宮内府から受けました。大変名誉なことですが、折悪しく、祖父の興宗が亡くなったばかり。ご遠慮申し上げました。けれども、ほかにふさわしい所がない、ということでしたので、結局、一夜の宿に使っていただくことになりました。

 どのように陛下をお迎えしたらよろしいか。このとき、家族でいろいろと相談したそうです。最終的には、仙台城の「上々(じょうじょう)段の間」にあった襖絵を屏風にあつらえて、陛下のお休みになるお部屋にしつらえました。陛下は、それをご覧になって、とても感銘あそばされた、と伺いました。

「上々段の間」については説明が必要かと思います。藩主が座る場所を「上段の間」と呼びます。床が高くなった座敷で、ここで家臣と対面します。「上々段の間」というのは、藩主よりも格上の方が座る場所、ということになります。

「上々段の間」は、伊達家の菩提寺である瑞巌(ずいがん)寺にもあります。そこには、明治天皇が東北ご巡幸のときにお休みになられました。

 政宗公は、仙台城と瑞巌寺を造られたときに、「いつかは帝を仙台にお迎えしたい」と思っていたのでしょう。その願いは数百年の時を経て、明治と昭和にかないました。<次号に続く>

(構成 本誌・横山健)

伊達家18代当主 40年前、地下の柩に納められた政宗公の頭蓋骨と対面
 伊達家18代目当主、伊達泰宗(やすむね)氏。先祖でありながら、歴史上の人物としてしか知らなかった藩祖、政宗公に“出会った”ときの感動を語ってもらった。

*  *  *
 東京で生まれ育った私ですが、今は仙台に住んでおります。きっかけは、政宗公との対面でした。

 終戦間際の1945年7月、仙台大空襲で仙台の城下町7割とともに、政宗公の御霊屋(おたまや)である瑞鳳殿(ずいほうでん)も焼けてしまいました。ちょうど40年前、瑞鳳殿を再建する話が持ち上がり、地下の状況を確認する必要が出てまいりました。政宗公のお墓を発掘調査することになったのです。

 まだ父は健在でしたけれども、15歳の私も遺族として立ち会わせていただきました。地下の石室が開かれると、中に石灰の小山がありました。元々は、木でできた風呂桶のような柩(ひつぎ)があり、それをかごに載せた状態で埋葬されていたようです。330年以上の時間がたち、木や布でできた部分が腐食し、防腐剤として柩に詰めてあった石灰だけが残ったのです。

 石灰の小山のほぼ中心に遺骨の一部が見えました。それを調査員が掲げるように持ち上げた。頭蓋骨でした。歴史上のお話として伺っていた政宗公が目の前に現れた瞬間です。そのときの感動は、言葉では言い表せません。ごく自然に、私は心の中でお誓い申し上げておりました。

「成人したならば、必ず仙台に戻って参ります。近くで政宗公をお守りさせていただきます」

 願いがかないまして、今、仙台の瑞鳳殿や伊達家伯(かはく)記念會(かい)で伊達家の仕事ができています。子孫として本当にありがたいことです。

 政宗公の時代から約250年後、明治維新で伊達家は危機を迎えます。戊辰戦争で敗れ、62万石から半分以下の28万石に減らされたのです。約2万人もいた家臣の方々は大変だったでしょう。領地を失ったということは、生活の糧を失ったということです。流浪するか農民になるしか選択肢はありませんでした。

 ちょうどそのころ、明治政府から北海道開拓の打診がありました。それに対し、伊達の分家、仙台藩士たちは、士族でいられるなら、という条件を出します。彼らはとても誇り高かった。農民ではなく伊達家の元藩士という身分である、というだけのことで、彼らは次々と海を渡ってゆきました。

 未開の北海道は、木の根一つ掘り出すのに1年かかるような大変な場所だったそうです。道具が足りないので、日夜交代での作業。冬は地面が凍ってしまう。雪が吹き込む小屋に住みながら開墾を進めました。

 食器も満足に揃いません。分家のお姫様が、貝殻をお皿代わりに食事していたとき、唇を切ってしまった。お仕えしていた者たちは、「なんとおいたわしいことか」と涙を流したそうです。

 94歳で亡くなりました大伯母から、こんな話を聞いたことがあります。子どものときに、冬の朝、思わず「寒い」と口に出したら、父親(15代邦宗)から厳しく叱られたというのです。

「東京の屋敷にいながら、寒いとはなんたることか!北海道で苦労をしている家臣たちのことを思えば、そんなことは言えないはずだ!」

 私も父から、「疲れた」「つらい」といった泣き言を口に出してはいけない、と育てられました。明治以降の伊達家の家訓と言えるかもしれません。

※週刊朝日  2014年4月4日号

福島
福島・会津若松で白虎隊の霊慰める祭
 福島県会津若松市の飯盛山白虎(びゃっこ)隊士墓前で4月24日、「白虎隊慰霊祭」が行われる。

 白虎隊は戊辰戦争時に十代の少年のみで組織された部隊。会津藩にはこのほか年代別に玄武隊、朱雀(すざく)隊、青龍隊などがあり、これらの隊名は中国の神話に出てくる四神から取ったとされている。

 同祭では飯盛山で自刃した白虎隊の霊を慰めるために行われるもので、玉ぐしの奉納が行われた後、会津高校の生徒19人による白虎隊剣舞が披露される。白鉢巻きに紺のはかま姿で白虎隊に扮(ふん)した少年らが詩吟に合わせて勇壮に舞う。

 問い合わせは、会津若松市観光課(電話0242-39-1251)へ。

「八十里越」再び 新潟につながる古道を只見町が整備へ
 新潟・福島豪雨災害からの復興を目指す只見町は、町内から新潟県につながる国内有数の長さ(約32キロ)の峠道「八十里越」を調査・補修して「復活」させ、歴史と自然の名所として活用する。江戸時代などに両県の交易を支えた「古道」とされる。ブナの天然林を散策できる区間でもあり、今年登録を予定するエコパークの目玉の一つにする。
 町が調査、整備する「古道」は、江戸時代の天保14(1843)年に幕府が改修し、明治初期まで使われていた。しかし、明治14年に「中道」、同27年に「新道」が整備されて以降、一部を登山道に利用する以外は人の往来が途絶え、「幻の道」となっていた。20年ほど前に存在が再確認された。現在は通れない状態で、町が活用を検討していた。
 「古道」の詳細な調査は、町が平成26年度当初予算で確保した300万円を使い、今春から始める。町教委の担当者や有識者らが草木が生い茂る道を調べ、歴史上貴重な石橋跡や石垣跡、ほこらや排水路などの現状を確認する。豪雨災害による土砂崩れなど道が途切れている部分も点検する。調査後は危険な部分の補修などを検討し、安全に通行しながら史跡を見学できるようにする。ただ、保護が必要な国有林などもあり、補修地点は国、県と慎重に協議する。
 「古道」は歴史と自然の愛好家から整備を求める声があった。会津藩とゆかりがあり、戊辰戦争で新潟県から峠を抜けて只見町で死去した長岡藩家老の河井継之助が「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と自嘲する句を詠んだエピソードがある。
 また、今夏にユネスコの制度「エコパーク」に登録される予定の町内の中で、八十里越周辺のブナ林などは原生に近く、評価が高いという。町は歴史ファンや観光客が古道を歩きながら只見の魅力を知り、新潟県側まで歩く「ロングトレイル」の開催も視野に入れる。
 町内は若者の減少や高齢化に加え、豪雨被害からの復興の課題もある。斎藤修一町教育長は「地域の歴史に光を当てることで町民の郷土愛を育みたい。教育にも活用することでエコパークを象徴する場所の一つになるはず」と話し、10年後ごろを目標に国指定史跡の登録を目指す考えだ。

茨城
幕末動乱期の人物に光 肖像画や刀剣展示土浦市立博物館
幕末から明治維新に至る動乱期の人物に焦点を当て、歴史の流れを読み解く土浦市立博物館の特別展「幕末動乱〜開国から攘夷(じょうい)へ〜」が21日から、同市中央1丁目の同博物館で始まった。5月6日まで。

同展は市立博物館が東京都板橋区立郷土資料館、同日野市立新選組のふるさと歴史館、壬生歴史民俗資料館(栃木県壬生町)の3館と連携。土浦展を皮切りに、日野、壬生、板橋の各館で展示品を変えながら順次開催する。

土浦市立博物館では第10代土浦藩主にして大阪城代を務めた土屋寅直(ともなお)、寅直の信頼厚い藩士、大久保要、土浦藩が招いた儒者、藤森弘庵(こうあん)などにスポットを当て、肖像画や直筆の書状、所有した刀剣など展示。尊王攘夷の水戸学の影響を受けた土浦藩の歴史的位置づけを浮き彫りにするとともに、土浦藩の国学者・色川三中(いろかわみなか)、地理学者・沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)の資料などを展示する。

新選組隊士を輩出した日野宿周辺。天狗党との関わりの中で尊王・佐幕がせめぎ合った壬生藩。洋式兵学者・高島秋帆とのゆかりが深い中山道板橋宿-と共催3館の所在地が幕末に果たした役割を歴史資料、パネル説明、写真などで紹介。新選組副長・土方歳三の肖像写真(複製)、沖田総司の直筆書状、天狗党を挙兵した藤田小四郎のかぶとなども目を引く。

4月5日には特別展を監修した宮地正人東京大名誉教授の講演。5月3日には菅良樹淳心学院高教諭が土屋寅直と大久保要について講演する。問い合わせは同博物館TEL029(824)2928。(芳賀和生)

茨城)黒船や女詐欺師 幕末の世相伝える日記 全巻刊行
 黒船来航から身辺雑事まで激動の幕末の出来事を土浦の商人が書いた「家事志 色川三中(みなか)日記」の最終第6巻が先月末、土浦市立博物館から刊行された。同博物館は「当時の女性の多様な生き方や、庶民目線の歴史がわかる貴重な資料だ」と話している。

 日記は国学者でもあった薬種商の色川三中(1801~55)と弟の美年(みとし)(1814~62)が、1826年から1858年まで30年余り書き継いだ。26冊におよび、原文はくずし字と候文で書かれ、ひらがな表記とカタカナ表記が入り交じる。全巻刊行まで12年がかりの作業だった。

 今回の第6巻は美年が書いた日記で、米国のペリー提督が率いる艦隊が最初に日本に来た1853年の記述には、興味深い話がいくつも出てくる。
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東京
東京)泉岳寺前にあった幕末の英国公使館 写真初公開
 幕末の1866(慶応2)年、幕府が港区の泉岳寺前に建てた英国公使館(高輪接遇所)を写したオリジナル写真が、横浜都市発展記念館(横浜市中区)で初公開されている。同記念館によると、接遇所の絵図や見取り図は残っているが、写真が確認されたことはなかったという。

 写真は、1866~68年に横浜に駐屯した英国第9連隊所属の中尉が収集した和とじの写真帳に納められていた。米国カメラマンのウィードが66年ごろ撮影。写真帳は欧州で見つかり、横浜開港資料館が10年前に購入。47枚の写真が収まり、37枚が横浜や江戸の街並みを写したものだった。

 英国の初代公使館は港区の東禅寺。日英修好通商条約締結にともなって1859(安政6)年に置かれたが、二度にわたり、国内の攘夷(じょうい)派に襲撃された。このため、北品川の御殿山に新しい公使館の建設が進められたが、長州藩の高杉晋作や伊藤博文、井上馨らの焼き打ちにあい、全焼した。

新銘菓「白銀三枚」が誕生近藤勇とのエピソードから
 町田市に新たな銘菓が生まれた。名前は「白銀三枚」。新撰組の近藤勇とのエピソードを当時親交のあった小島家の現当主・小島政孝氏が再現した。

 小島家は当時、小野路地区(武州多摩郡小野路村)で名主を務めていた。小島鹿之助の時代(1830〜1900年)、天然理心流の正師範だった近藤勇は小島家へ何度も訪れ、親交を深めていた。

 近藤勇ほか新撰組との歴史は書簡や日記に残され、現在は政孝氏が運営する小島資料館(小野路950、第1・3日曜日開館午後1時〜5時)に保管され、展示されている。

 銘菓「白銀三枚」は、鹿之助氏の甥の橋本道助氏の結婚を聞きつけた近藤勇がお祝いに「白銀を三枚」贈ったことにちなんだもの。現在の価値で約20万円し、その親交の深さが伝わる。

 「白銀三枚」は地元和菓子店『蛸八』(本町田3592の5)が製造し、同店のほか、町田ツーリストギャラリー、薬師公園内やくし茶屋、小島資料館で販売されている。

 小倉や芋、抹茶、汐、栗の5種類の味が楽しめる羊羹。1300円(税込)。

 (問)町田ツーリストギャラリー【電話】042・850・9311

根津美術館「清麿-幕末の志士を魅了した名工」展
「地鉄の強きこと限りなく、すがたは覇気に溢る。古今無双の出来ばえ也」

 57歳の若さで先月亡くなった直木賞作家、山本兼一氏は、刀工を主人公に2つの小説を残している。ひとりは江戸初期に活躍した虎徹(こてつ)(長曽禰興里(ながそねおきさと))、もうひとりは幕末の名匠、源清麿(みなもときよまろ)。清麿の生誕200年を記念し、山本氏も実行委員会副委員長として計画に関わった特別展「清麿-幕末の志士を魅了した名工」が、根津美術館(東京・南青山)で開かれている。

 清麿(本名・山浦環(たまき))は文化10(1813)年、信州小諸(長野県)の郷士の家に生まれた。江戸に出て幕臣の兵学者、窪田清音(くぼたすがね)のもとで研鑽(けんさん)を積んだ後、長州萩(山口県)で鍛刀。晩年、江戸・四谷で鍛冶場を構えたことから、鎌倉時代の天才刀工にちなみ“四谷正宗”と呼ばれ人気を博したという。しかし嘉永7(1855)年、42歳で自刃。理由は謎のままだ。

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「刀 号 一期一腰の大」(上)と「脇指 号 一期一腰の小」(下) いずれも「銘 源清麿/嘉永元年八月日」、江戸時代・嘉永元(1848)年、個人蔵
「刀 号 一期一腰の大」(上)と「脇指 号 一期一腰の小」(下) いずれも「銘 源清麿/嘉永元年八月日」、江戸時代・嘉永元(1848)年、個人蔵

 十代後半の清麿が故郷で兄と合作した処女作の脇指、30代前半に初めて「清麿」と銘を刻んだ太刀など、ファン垂涎(すいぜん)の約50点を展示。特に「清麿の到達点」と評される傑作が、「一期(いちご)一腰(ひとこし)の大・小」と名付けられた刀と脇指だ。長く鋭い切先(きっさき)、そりのかたちが何とも優美。複雑に波打つ刃文は、素人目にもダイナミックで華やかに映る。

 しかし、清麿の刀剣の魅力はそれだけではない。渡辺妙子・佐野美術館館長は、その澄んだ地鉄(ぢがね)に着目し、「強さと潤いのある軟らかさとを併せ持っている」と指摘する。硬いだけでは刀は折れる。幕末の混乱期、実践に耐える刀を追求した清麿。山本氏は小説『おれは清麿』(祥伝社)で、良質な鉄に徹底してこだわる姿を描いた。そして、師の清音に清麿の刀をこう絶賛させている。

 「地鉄の強きこと限りなく、すがたは覇気に溢(あふ)る。古今無双の出来ばえ也」

 4月6日まで、月休。一般1200円。問い合わせは(電)03・3400・2536。(黒沢綾子)

神奈川
幕末の江戸写す 「高輪接遇所」実物写真、横浜で展示
 幕末の江戸・東京にあった英国公使館「高輪接遇所」の現存する唯一の写真が、横浜市中区の横浜都市発展記念館に展示されている。江戸の景観を写した貴重な資料で、実物の展示は初めて。
 一八六六年から二年間、横浜に駐屯した英国陸軍のグレニー中尉が残したアルバムに収められている一枚。一八六六~六七年の撮影とされ、泉岳寺(東京都港区)の門前にあった平屋建て二棟の高輪接遇所を斜め横から捉えている。
 当時、江戸は外国人が公務以外で立ち入ることができず、カメラは外国から持ち込まれるだけの貴重品だった。記念館によると、現在確認されている江戸の写真は百枚に満たず、ほとんどが外国人が来日記念として浅草や江戸城の堀など名所を写したものという。
 高輪接遇所は英国の指示で建てられ、伝統的な日本の建築様式と異なる部分がある。撮影の経緯は分からないが、調査研究員の吉崎雅規さん(39)は「江戸にはこんな風景もあったと、新鮮な驚きを感じてほしい」と話す。
 今回の展示は企画展「港をめぐる二都物語」の一環。十三日まで。 (杉原麻央)

幕末の最高機密 大砲使用マニュアル初公開 神奈川・横須賀で20~23日
 幕末期の横須賀で、海上防衛の最前線に立った有力藩が導入した西洋流大砲(おおづつ)の撃ち方などを記したマニュアル「西洋流大砲且(かつ)歩兵銃 薬法調術手鑑(てかがみ)」が20~23日、神奈川県横須賀市の大津コミュニティセンターで初公開される。外国船の出現による海防強化を目的に、砲術が和流から西洋流に移行する過渡期に記されたもので、「当時の最高機密」ともされる。日本近代化の貴重な資料といえそうだ。(川上朝栄)

 嘉永6(1853)年に浦賀沖に来航した米東インド艦隊司令長官ペリーによる黒船など、江戸湾周辺に通商を求める外国の船が頻繁に姿を見せるようになった幕末期。幕府は川越・熊本・佐倉の有力3藩に江戸湾を一望できる現在の横須賀市大津町周辺に設置した大津陣屋で外国船の警戒に当たらせた。

 今回公開される「薬法調術手鑑」は3藩に伝わるものとみられ、10年ほど前、福岡県内にある熊本藩士の末裔(まつえい)の自宅で発見された。その後、横須賀市で郷土史を研究する市大津観光協会理事の杉本幸三さん(69)が入手。同市と共同で2年間かけて、約百ページにわたる資料の解読を進めていた。

 資料には、歩兵の歩き方▽火薬の調合の仕方▽大砲のサイズ-などが図解を含め克明に記されている。中には発射のタイミングを図る際に打ち鳴らす太鼓や笛の演奏方法なども描かれている。この資料を基に、熊本藩はほぼ3日に1回、猿島や観音崎などで訓練射撃を行っていたとみられている。

初公開される西洋流大砲の使用手引き書。幕末期の最高機密とされる

 当時は和流大砲が主流だったが、降雨時には使用できなくなるほか、射程圏も数百メートル程度だった。各藩は「このままでは異国船に通用しない」と判断し、飛距離が1キロにまで向上した西洋流大砲に切り替えていったという。ただ、実際に海上の異国船を仕留めるには飛距離が足らず、備えが不十分との見方が大勢を占めていたもようだ。

 杉本さんは「砲術に関しては最高機密であったため実態がほとんど分かっていなかった」と指摘し、「西洋流大砲の導入は開国に向けた動きを示すものだ」と話している。

 展示会「大津陣屋の西洋流大砲」は午前10時~午後4時。入場無料。22日午後1時半から横須賀開国史研究会の山本詔一会長による講演会(参加費500円)もある。問い合わせは大津観光協会((電)046・836・3531)。

奈良
幕末史に思いはせ - 歴史ファンら集う/天誅組・伴林光平没後150年祭
 明治維新のさきがけとされる天誅組に参加した幕末の歌人・国学者、伴林光平(1813〜1864年)の没後150年祭が16日、大阪市藤井寺市の天誅(忠)組記念館で営まれ、歴史ファンらが光平の功績をしのんだ。

 光平は法隆寺村(斑鳩町)に住み、国学者や歌人、勤皇家として活躍。文久3(1863)年に挙兵した天誅組の記録方として吉野山中を転戦し、従軍記の「南山踏雲録(なんざんとううんろく)」を記した。天誅組壊滅後、北田原(生駒市)で捕らえられ、翌年、京都で斬首された…
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兵庫
幕末の威容よみがえる 和田岬砲台の修理完了 神戸
 幕末期に外国船襲来に備えて造られた国指定史跡「和田岬砲台」(神戸市兵庫区和田崎町1)の大規模修理が終わり、14日、報道機関などに公開された。

 1864年、江戸幕府の軍艦奉行並だった勝海舟の指揮で建造。97年、三菱合資会社(現・三菱重工業)が買収、現在は三菱重工業神戸造船所内にある。1921年、兵庫県内で初の国史跡に指定された。

 高さ約11メートル、直径約15メートルの円筒形。外壁は石積みで内部は木造2階建て。同社が2009年から国や県、神戸市の補助を受けて「平成の大修理」を進め、雨漏りなどで傷みが激しい内部の部材を取り換えるなどし、今年3月に修復を終えた。総工費は約4億円。

 関係者によるテープカットに先立ち、同造船所の河野文紀所長が「非常に感慨深い。歴史的建造物を次世代に引き継ぐ使命を感じる」などとあいさつ。幕府の国家事業としての威容がよみがえり、砲台内部には真新しい木材の香りが漂っていた。
 一般公開(申込制)は24日から。リョーイン関西支社神戸業務グループTEL078・672・4820

(金川 篤)

鹿児島
幕末薩摩の豚肉料理
焼き豚、豚汁、丸焼きと多彩

薩摩藩江戸藩邸から出土した豚骨=東京都港区教育委員会提供
 東京・港区田町にあった薩摩藩江戸藩邸の上屋敷跡を発掘調査したら、大量の豚の骨が出土して話題になったことがある(写真参照)。
 江戸時代には仏教の殺生禁断の教えが浸透しており、日本人は肉食を好まなかった。ところが、薩摩人だけは例外で、豚肉をよく食べた。黒豚王国・鹿児島のルーツを見る思いがする。
 幕末の薩摩人が豚肉を食べたことが多くの史料に登場する。では、どんな食べ方をしたのだろうか。驚くなかれ、まさに現代人とほとんど変わらない。
 家老・小松帯刀が一橋慶喜(のち十五代将軍)の豚肉好きにほとほと困った書簡が残っている(「玉里島津家史料三」一二一七号)。慶喜が何度も豚肉を所望するので、小松の手持ちがなくなり、これ以上は無理だと断ったと書かれている。小松は「琉球豚」とも書いており、豚肉は塩漬けが一般的で、「炒いり豚」という言葉から炒めて食したのだろう。琉球から伝来した調理法、保存法だと考えられる。
 ところで、慶喜は豚肉好きだったため、「豚一ぶたいち殿」(豚の好きな一橋殿)とあだ名されていたほどである。じつは慶喜の豚肉好きには薩摩がかかわっているのではないか。
 島津斉彬と水戸藩主・徳川斉昭なりあきの交流は知られている。両者の往復書簡には、斉彬が斉昭に豚肉を贈った記事が何度も登場する(「島津斉彬文書・上」八号など)。斉昭は秘蔵の息子・慶喜に肉食や牛乳など西洋式の食べ物を勧めていた。慶喜の豚肉好きは斉彬の豚肉贈呈によるものだと思われる。
 斉彬もまた豚肉を食していた。側近の山田為正の日記によれば、嘉永五(一八五二)年九月、参勤交代で鹿児島から江戸に向かう途中、山田が国元の納戸奉行や琉球館聞役ききやくに「煙豚」のことを問い合わせている。これは琉球の豚肉調理法で、「煙豚」とあるくらいだから、焼き豚(チャーシュー)かスモークハムのようなものか(「嘉永五年島津斉彬参府御供日記」)。
 豚肉料理の定番に豚汁があるが、これも幕末にあった。西郷吉之助が同志の吉井幸輔(のち友実)にあてた書簡に「豚の汁、熱からず、また冷えてもいず、よい加減に出来たので、都合のよいときにおいで下さい」とあり、豚汁を食べに来るよう勧めている(「西郷隆盛全集五」一八二号)。
 土佐脱藩士の土方久元ひじかたひさもと(のち農商務大臣)の話もある。太宰府で三条実美さねとみなど五卿の護衛をしていた慶応三(一八六七)年三月六日、同じく護衛の薩摩藩陣営に行ったところ、豚汁の馳走ちそうをうけたと書いている(「回天実記」)。藩外の人間にも豚汁のふるまいが当然のように行われていたのである。
 慶喜の側近だった渋沢栄一が元治元(一八六四)年二月頃、京都の二本松藩邸に西郷吉之助を訪ねたところ、西郷から豚鍋をふるまわれたとある(「渋沢栄一伝記資料1」)。これは豚汁か、すき焼き風の豚鍋だろうか。
 圧巻は子豚の丸焼き料理である。同二年六月、薩摩藩は英国公使・パークス一行を鹿児島に迎えて大歓待した。一日目は日本料理だったが、二日目は洋風料理でもてなした。パークスたちは薩摩藩側から出された料理に驚いた(「忠義公史料四」二三二号)。
「今日の饗応きょうおう中最も奇観は、一度シユツキングピグ三尾卓上に出て来れり」
 これはsuckling pig=子豚の丸焼きのこと。薩摩藩はこのような料理もお手のもので、英国人の舌も満足させたのである。
 幕末薩摩の豚肉料理は想像以上に多彩で、現代にひけをとらなかった。 
(歴史作家・桐野作人)
 豚一公のエピソードが面白いですね。む

ブックレビュー
幕末のビジネスマンを分析
企業家たちの幕末維新 (メディアファクトリー新書)
宮本又郎著
メディアファクトリー新書 740円(本体)
 政治・経済・社会のあらゆる面で激しい変化が訪れた幕末から明治の時代、企業家たちはどんな活動を行い、危機を克服していったのか。この時代を率いたビジネスマンを5つのタイプに分け、主な人々の歩みをたどる。

 5タイプとは、「旧商家」「ベンチャー企業家」「技術者・職人出身の企業家」「社会的企業家」「財界リーダー」。旧商家の代表と言えるのが三井家だ。幕末、呉服業、両替業が不振に陥り危機的状況にあった三井家は、出入りしていた小両替商・三野村利左衛門を支配人に抜擢する。三野村は三井の事業を政府御用担当の銀行業を中心に再構築。発足した三井銀行は三井財閥躍進の原動力になっていく。

 ベンチャー企業家の1人が松本重太郎。23歳の時、兵庫と大阪が開港したのを機に、洋反物のブローカーを始める。大阪・船場の一等地に店舗を構えると、断髪令を見越して帽子や襟巻きを、台湾出兵や西南戦争の際に毛布、羅紗を買い占めるなど、時代のニーズを巧みにつかんで巨利を得る。その後も銀行、鉄道、保険など多くの事業に関係し、「東の渋沢(栄一)、西の松本」と呼ばれる企業家となった。

 困難に直面しながら新しい日本を創造してきた先人たちの英知と勇気に学ぶべきものは多い。

【書評】『西郷隆盛の首を発見した男』大野敏明著
元藩士を通じ描く激動期
 西郷の首という衝撃的な言葉で読者の興味をそそる本書の主役は、千田登文(せんだ・のりふみ)という加賀藩の元藩士である。

 千田は、江戸末期の弘化4(1847)年に金沢で生まれ、昭和4年に81年の生涯を閉じた。

 その千田自身が書き残した「履歴書」を丹念に読み解いたのが本書だ。前半では戊辰(ぼしん)、西南、日清、日露という4つの戦争で数々の戦功を挙げた千田の姿が描かれる。圧巻は、西南戦争において、伝説に包まれた西郷隆盛の首級を発見した経緯である。

 金沢の歩兵第7聯隊の聯隊旗手として出陣した千田の「履歴書」に歴史的検証を加え、わかりやすく、淡々と首級発見の経緯が記述される。

 なぜ首級の贋物(がんぶつ)説が流布されたのか、また、千田はなぜ首級を発見することができたのか。その理由を、本書はさまざまな角度から検証し、千田の娘婿となった、のちの陸軍大将、今村均(ひとし)の回顧録に出ている千田の証言まで引き、解き明かしている。

写真に写っている4人の軍服姿の男のうち…

 そして後半は、千田の後半生と、軍人になっていく子供や孫たちの生涯が綴(つづ)られている。本書に掲載されている大正5年に千田の古希に撮られた記念写真は、本書のハイライトとでもいうべきものだ。

 写真に写っている4人の軍服姿の男のうち、のちに2人が陸軍大将、1人は陸軍少将となる。この「軍人一家」の歩みが、そのまま明治・大正・昭和という激動の時代の息遣いを読者に伝える。

 著者は、陸軍を専門とする戦史研究家でもある。あとがきで著者の祖母の姉の夫、すなわち義理の大伯父が、実は千田の三男だったことが明かされる。

 その大伯父は、大正9年の陸軍特別大演習で、ある失態の責任をとって自決している。先の写真の中に写っていた残りの軍服姿の人物こそ、その大伯父である。

 不思議な糸に導かれるように著者がこのテーマに取り組んでいったことがわかる。

 本書が編まれることに導いたのは千田自身か、あるいは西郷隆盛その人であったのかは、それぞれの読後感を待ちたい。(文春新書・本体820円+税)

 評・門田隆将(ノンフィクション作家)


エンターテインメント
「PEACE MAKER 鐵」7巻、ドラマCD付きの初回限定版も
 黒乃奈々絵「PEACE MAKER 鐵」7巻の通常版と、カバーイラストが異なるドラマCD付き初回限定版が5月14日に同時発売される。

ドラマCDで描かれるのは、市村鉄之助がある行商人から大喜びで購入した「箱庭」をめぐるエピソード。鉄之助は山崎烝や沖田総司を巻き込み、新撰組屯所の「箱庭」を作り始めるのだが……。キャストはTVアニメ版と同様、市村鉄之助を小林由美子、沖田総司を斎賀みつき、土方歳三を中田譲治、市村辰之助をうえだゆうじ、山崎烝を櫻井孝宏が演じる。

なおAmazonでは現在、初回限定版の予約を締め切っているが、そのほかのオンライン書店や実店舗では目下予約を受付中。希望者は早めに申し込んでおこう。

滋賀)ツイッター小説「独白新選組」出版
 幕末の京都で活動した新選組隊士らの心の交流を簡易投稿サイト・ツイッターで連載した小説「独白新選組 隊士たちのつぶやき」がサンライズ出版から刊行された。極限状態の中でも仲間への熱い思いを吐露する男たちの姿が、幅広い女性ファンの人気を呼び、書籍化が実現した。

 小説は大津市の松本匡代さん(56)作。新選組の前身・浪士組の入京から、1915(大正4)年まで生き延びた斎藤一の最期までを、土方歳三や沖田総司、山南敬助ら5人の隊士が心のうちを仲間に語りかける形で進む。出来事は史実に沿いながら、隊士らの内面描写は大胆に独自性を出した。

 仲間を離れ、函館・五稜郭での戦いに向かった土方を思い、別れの場面を回想する斎藤は「俺じゃダメなんですか? 離れたくない。最期まで土方さんと一緒に戦いたい」と嘆き、「そう思った時、抱きしめられた。……『残ってくれるな』 土方さんの言葉に、もう逆らえなかった」とつぶやく。土方は、斎藤を会津藩に置いてきた意外な真意を口にし、「あいつの将来は、会津の人たちに託すことにした」と独白する。
 引用を見る限り、BLっぽい……。

「新選組の求人広告」を考える
新選組と云えば、幕末に京都で治安維持にあたった近藤勇、土方歳三、沖田総司らが所属した組織のことですね。幕末の魅力を象徴するもののひとつですよね。小説、大河ドラマ、映画など数々の作品のモチーフになっていて、ファンだという方も多いのではないでしょうか。ダンダラ模様に「誠」の文字。カッコイイですよね。

さてそんな幕末を駆け抜けた新選組。隊士の募集にあたって現代風の求人を出していたとしたらどんなものになるでしょうか。今日はアルバイト雑誌に出ている風の「新選組の求人広告」を考えてみました。

基本的に退職できないのでご注意を。
 広告記事をテキストで読み込めないので、内容はリンク先ご参照ください。
 基本的に退職できませんが、海外留学を希望して除隊が認められた例もあるにはあります。

軍師官兵衛インタビュー】谷原章介 岡田“官兵衛”の多面的魅力を明かす「武士で小学生みたいな人」 もう一人の軍師・竹中半兵衛役
 2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に竹中半兵衛役で出演している俳優の谷原章介。谷原が演じる半兵衛は、豊臣秀吉最初の参謀であり、黒田官兵衛と合わせて“両兵衛”とも呼ばれた軍師。官兵衛にとって厳しい師となるが、官兵衛が幽閉された際には思わぬ手段で黒田家を手助けする。

 半兵衛を演じるに当たっての思い、同じ軍師役の岡田准一、半兵衛が仕える秀吉役の竹中直人の印象を語ってもらった。

-半兵衛のオファーを受けた時の率直な感想をお願いします。

 役を頂いたときはガッツポーズをしました。希代の名軍師といわれる半兵衛役ということでうれしい半面、プレッシャーもありました。

-撮影に入ってからの手応えや印象はいかがですか。

 半兵衛はせりふが多く感情的にしゃべる官兵衛とは対照的に、状況をかみ砕いたやりとりや左脳的なせりふが多いので大変ですが、やりがいがあります。ドラマの最初の方は黒田家を中心に物語が動くので、現場も黒田家中心の空気があって、さらに官兵衛を中心とした熱気の渦を感じます。

-半兵衛を演じる上で意識している点はどこですか。

 半兵衛をどう演じるかはクランクインする前に監督と話しました。現場に入ってからは監督の描く半兵衛像と僕の描く半兵衛像が分かってきて、それをお互いに理解して最小限のことを話すぐらいで演じています。半兵衛は普段は動かずにせりふを言って、無駄な動作をしないで芝居をするように心掛けています。ずっと動かない人間がちょっと目線をずらしたりしたときに、その行動に意味が出ると思うんです。見ている方に「何か意味があるのかな?」と思わせられるよう、ここぞというときにだけ目線を動かしたり体の位置を変えてみたりしています。

-半兵衛、ゆかりの地へは行かれましたか。

 仕事で岐阜の市内へ行ったときに、次の日が移動日だったので朝からレンタカーを借りて菩提山に行きました。頂上まで登って景色を見たり、近くのお寺にある半兵衛のお墓参りもしました。ドライブをしながら、「よくこんな山に登ったな」とか、「なんて不便な生活をしていたんだろう」とか、「こんな景色を見ていたのかな」といろいろ思いを巡らせました。でも霊感はないので(半兵衛が)降りてくることはなかったです(笑)。

-ドラマでは戦国の時代が描かれていますが、谷原さん自身は歴史という作品ジャンルはお好きですか。

 歴史というと、時代小説を読むのは好きで司馬遼太郎さんの本も読みました。このドラマで描かれているのは、歴史上でも時代が動いて人間が生々しくなっていく部分。荒れた時代かもしれませんが、例えば秀吉様のように農民が天下を取ることもできたり、自分の力次第でどんどんのし上がることができる、夢のある時代だと思います。どきどきするし、生き生きしたものがあって面白いです。

-2人が出会ったとき、半兵衛は官兵衛のことをどう思っていたと思いますか。

 半兵衛は出会う前から官兵衛という人間の事を知っていたと思いますね。もともと官兵衛に着目していたがゆえに、官兵衛が秀吉様のところへ来たときに「試させていただいてもよろしいですか」と秀吉様に願い出て、官兵衛の軍師としての力量やどの程度自分と同じレベルで会話できる人間なのかを試したのだと思います。

-“両兵衛”の違いは、どのようなところでしょうか。

 同じ熱さがあっても、(人との)接し方が違います。官兵衛が、小刀と小刀がぶつかるぐらいにぐいっと半兵衛に近寄る場面があるのですが、刀と刀がぶつかったら刃傷沙汰に発展するような時代に多少乱暴な行動だとは思いますが、そこをあえて近づいてくるところに官兵衛の熱さを感じます。

-岡田さんの印象をお聞かせください。

 岡田さんは武士みたいな人だと思います。自分の追い求めるものをストイックに自らにも課すし、無言のうちに周りも気が引き締まるようなオーラを持っていると思います。それと同時にやんちゃだしおちゃめで、スタッフを大事にしています。スタッフの似顔絵を描いていて、それがよく似ていてすごく面白いんです。メークをされながら描いているので小学生みたいだなと思ったり(笑)。多面的にいろいろな魅力を持っている方だなと思いますし、役の上での関係性も大事にしている。黒田軍の方々とは、わいわいしていますが、半兵衛とはそうならない。僕が年上ということもありますが(笑)。

-秀吉役の竹中さんの印象はいかがですか。

 竹中さんは引き出しをたくさん持っている面白い方。日本で秀吉を演じたら右に出る人はいないのではないでしょうか。現場ではずっと、口笛を吹いているか歌を歌っているかふざけているかのいずれかです。一緒に仕事をしていて癒やしになるし、こちらの肩の力を抜いてくれます。人たらしな秀吉の雰囲気で臨んでいらっしゃるのか、元からそうなのか分かりませんが、役者やエキストラ、スタッフみんなに話し掛けてはおどけています(笑)。

-大河ドラマの魅力についてお聞かせください。

 1年間を通してやるのでスタッフが家族のようになっていくし、大河でないと味わえない空気感があります。「新選組!」(2004年放送)では伊東甲子太郎役をやりましたが、いまだに土方(歳三)さん(山本耕史)が主催でキャスト、スタッフが集まる忘年会をやってくれます。僕は物語を通しで出演する役をやったことがなく半兵衛の役も途中で死んでしまうので、バトンをつないでいくという意識で演じています。
 『組!』ファンには嬉しい最後のお言葉でした。
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