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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 なかなか先の予定を立てる余裕がなかったのですが、函館旅行の予約を入れてしまいました……一応連休なので大丈夫とは思いますが、仕事の予定は何かすごいことになるかも知れない予感(^_^;)。

栃木
郡上おどり:幕末思いはせ--塩原温泉 /栃木
 岐阜県郡上市の一行約100人が10日、塩原温泉(那須塩原市)を訪れた。雨の中、郡上市に伝わる国指定重要無形民俗文化財「郡上おどり」を披露した。塩原側の市民らも踊りの輪に加わった。

 郡上市の日置敏明市長(67)を団長とする郡上おどり保存会員ら。戊辰戦争で郡上藩凌霜(りようそう)隊がたどった塩原温泉と会津若松市を訪ね、踊りを披露する旅として初めてやってきた。

 一行は午後7時半、浴衣姿で塩原もの語り館駐車場に勢ぞろい。日置市長は「東日本大震災の犠牲となった方々と凌霜隊の隊士に鎮魂の願いを込めて踊ります」とあいさつした。この後、やぐらを囲んで唄やお囃子(はやし)に合わせ1時間半にわたって踊った。観客たちは江戸時代に藩主が奨励したのを起源に7月下旬から延べ30日余も踊られるという日本有数の踊りを堪能した。【柴田光二】


東京
幕末の旅館と昭和の乾物屋、移築・復元 
 幕末ごろに建てられた旅館と昭和初期建築の乾物屋が、「江戸東京たてもの園」(小金井市桜町)に移築・復元され、3日から一般公開された。復元されたのは、江戸時代末から明治初期に建築されたと推定される「万徳旅館」(旧所在地・青梅市)、1928(昭和3)年建築の乾物屋「大和屋本店」(同・港区白金台)の2棟。いずれも現存していた建物を移築・復元した。
 万徳旅館は青梅街道沿いにあり、90年代前半まで営業を続けていた。今回、建物自体は創建当初に近い姿に、室内は旅館として営業していた1950年ごろの様子を復元したという。
 大和屋本店は木造3階建てで、創建当時から乾物類の販売を手がけ、海産物の手入れが困難になった昭和10年代後半以降は主にお茶とノリを売っていたという。
 9~10月にかけて、講演会や寄席など公開記念イベントも開かれる。入園料は一般400円、中学生(都外)・高校生200円、大学生320円、65歳以上200円。問い合わせは同園(042・388・3300)へ。


福井
坂本龍馬の書状、福井で発見 【2001年9月10日】
 1863(文久3)年7月、幕末41 件の志士・坂本龍馬が福井藩士の村田巳三郎(氏寿)にあてたとみられる書状が10日までに、福井市内で見つかった。龍馬の資料に詳しい霊山歴史館(京都市東山区)の木村幸比古・学芸課長が鑑定、直筆と断定した。薩長同盟の立て役者として知られる龍馬が、定説より1年早く薩摩藩と接触していたことを裏付ける内容で、維新史上、貴重な資料。福井県内で龍馬関係の資料が確認されたのは初めて。

 書状は縦16センチ、横60センチで、軸装されている。福井市内の骨とう商が4年ほど前、村田家の縁者から手に入れたらしい。骨とう商からこの話を聞いた越前龍馬会の牧田活宜会長が、先月18日、講演で小浜市を訪れた木村課長に書状の写真を見せた。木村課長は今月1日にこの骨とう商を訪ね、龍馬の筆跡と確認。同歴史館がこの書状を買い取った。

 木村課長によると、書状は明治時代後期に原本を撮影した上、和紙に焼き付けてあり、村田家が親類縁者に配布したものらしい。書状の原本は、福井震災などで焼失した可能性が高いという。

 書状の内容は、龍馬が、福井藩主・松平春嶽の補佐役として活躍した村田を京都藩邸に訪ね、京の情勢や国事についてあれこれ談じたことを、伏見の薩摩藩邸にいる薩摩藩士、吉井幸輔に手紙で伝えてほしいと依頼している。

 これまで龍馬と薩摩藩のつながりは、1864(元治元)年7月の蛤御門の変以降とみるのが定説だった。しかし、この書状により龍馬と薩摩藩の接触が、さらに1年早かったことが裏付けられた。木村課長は「福井藩の動向と薩摩藩の動向を意思統一しようとする龍馬の政治的仲立ちが見て取れる。第一級の資料」と太鼓判を押す。

 また書状の末尾には「龍馬」をもじったとみられる花押が記されている。これまで全国で発見されている龍馬の書状133通には、花押らしきものはなく、確認されたのは初めて。木村課長は「神戸海軍操練所設立の資金調達で、福井藩主の松平春嶽から約束を取り付け、その後の国事奔走に自信を深めたため、高揚した気分で記したのではないか」と推測している。



幕末の執務日誌を紹介 春嶽、小楠の様子記す
 幕末期、熊本藩から政治顧問として招かれた横井小楠と福井藩の関わりや福井藩主・松平春嶽の日々の動きなどを記した執務日誌「御用(ごよう)日記」などを紹介する展示会「文久三年のあつい夏」が、福井市下馬町の県文書館で開かれている。原本やパネル約50点が並ぶ。10月26日まで。
 文久3(1863)年、福井藩は農兵4000人で上洛(じょうらく)し、朝廷と幕府の混乱を打開する「挙藩上洛計画」を進めていた。ところが、京都の様子を探りに行った春嶽の側近が「いまだその機にあらず」と報告。御用日記には、その報告を受けて春嶽や小楠らが協議する内容などが記され、緊迫した当時の世情がうかがえる。計画は最終的に中止になった。
 そのほか、復元福井城下絵図もあり、春嶽が視察したルートなども作図されている。 (平林靖博)


京都
「新選組」姿で清掃ボランティア 木屋町通で造形芸大生
 京都造形芸術大の学生らが毎月、新選組隊士に扮(ふん)して木屋町通の清掃ボランティアを行い、観光客や地域住民の目を引いている。学生らは「興味を持ってくれる人が増えて、市民活動として広がれば」としている。

 坂本龍馬の姿に装って木屋町通近くで観光ガイドをする俳優吉田信夫さん(61)が「地域に貢献したい」と一帯の掃除をすることにした。知人を通じて同大学の女大衆演劇サークル「桃色女剣劇団」のメンバーに呼び掛け、3月から始めた。

 学生の授業やサークル活動の兼ね合いで実施日は不定期で毎回、メンバーのうち5、6人が参加。吉田さん自作の新選組衣装を着て、木屋町通の二条-三条間を約1時間かけて、ごみ袋を持って回る。毎回、たばこや空き缶、包装袋などで大きなごみ袋がいっぱいなる、という。

 龍馬姿の吉田さんと、新選組の学生が仲良く清掃する“呉越同舟”の様子に、観光客が声をかけたり、外国人が写真を撮ったりするという。

 同サークルの代表、石岡美咲希さん(20)は「ボランティアをしたいというメンバーも多く、喜んでやらせてもらっている。人目を引く格好をしているので、見て楽しんでもらえたら」と話す。

 次回は9月4日に実施する予定。


徳島
阿波の海運、隆盛伝える 徳島城博物館で企画展
 幕末24 件から明治期にかけて隆盛を極めた鳴門の廻船問屋、山西家を紹介する企画展「阿波の海運 廻船問屋山西家と金光山仙龍寺」が27日、徳島市の徳島城博物館で始まった。10月10日まで。

 撫養港を拠点に特産の藍玉や塩、砂糖を売って財を成した山西家に関する資料約50点を展示。商取引を記載した帳簿や古文書、北前船の模型、山西家から依頼されて勝海舟が筆を執ったとされる書などが関心を集めている。

 仙龍寺(鳴門市撫養町)は初代山西庄五郎が建立した寺院で、花鳥やヒョウタンなど、岩絵の具で色彩豊かに描かれた本堂の天井絵も展示。絵は撫養港に出入りする関東から九州までの船乗りらから奉納されており、山西家が全国的に活躍したことを物語っている。

 9月18、24日には講演会があり、研究者が天井画の意味合いや美術的な価値について講演する。
【写真説明】山西家の繁栄を伝える天井絵などが並ぶ企画展=徳島城博物館

コラム
【幕末から学ぶ現在(いま)】
(128)東大教授・山内昌之 松浦武四郎(下)
 
アイヌ保護策の挫折

 強力な民族と弱体な民族が接触し遭遇すると、未知の伝染病など疾病の深刻な打撃を受けることは世界史の常識である。

 病気の伝染は、拡大しつつある商業活動の副産物でもあった。アイヌと日本人との交易、山丹(さんたん)交易と呼ばれる沿海州やサハリンとの交流は、アイヌの知らなかった病気をかれらの生活にもちこんだ。

 ◆疾病で民族の活力が衰弱

 ことに梅毒の流行は、オーストラリアの先住民の場合のように、先住民族の女性の出生率を下げて胎児の流産や未熟児化をもたらした。これは民族の活力を確実に衰弱させる大きな要因となっていく。

 松浦武四郎は石狩漁場の和人の番人が、アイヌの男を小樽(オタルナイ)に送った留守を狙って、その妻を犯し梅毒をうつした例を紹介している。また松浦は、釧路(クスリ)の41人の番人のうち36人が、アイヌを近くの厚岸(アッケシ)場所の仕事に送り出したのち、その妻たちを「妾(めかけ)」にしていた没義道(もぎどう)を記録していた。

 これは、箱館、松前、江差(えさし)の遊郭や色町などを通した感染と並んで、アイヌに抵抗力のなかった梅毒を広げる原因の一つになった。

 また寛政12(1800)年に記録を残した松田伝十郎は、天然痘の流行が人口激減と村落破壊の大きな原因になったと語っている。松前藩の放置政策は、都合が悪くなると、蝦夷(えぞ)のアイヌ居住地が異民族の住む異国であり、統治責任の外にあるとして疫病対策をとろうともしなかった。この認識は、時に不法となる経済搾取の事実と矛盾するはずであったが、そうしたギャップは松前藩にはなかったようである。

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親交があった絵師、河鍋暁斎に自らの臨終シーンを釈迦になぞらえて描かせた「武四郎涅槃図」(国重文、画像は中央部分の拡大)=三重県松阪市の松浦武四郎記念館提供

 しかし、この不正を鋭く告発したのが松浦武四郎であった。

 松浦は、文化4(1807)年に2万6256人と記録された北海道アイヌの人口が47年後には1万7810人に減少し、32%も人が減った悲劇を調査している。その一例を挙げるなら、東蝦夷地の厚岸のアイヌ人口は1809年には177軒と874人を数えたのに、安政3(1856)年になると53軒と217人に激減し、47年間のうちに75%も衰退してしまったのだ。東部の根室(ネモロ)では19世紀初頭に1200人以上のアイヌが住んでいたのに、1850年代になると人口は511人に減った。57%も激減した勘定になる(ブレット・ウォーカー『蝦夷地の征服』第7章)。

 伝染病境界線ともいうべき寄せ波が限りなく北上し、蝦夷地に新たな疫病を持ちこんだのである。アイヌの自治力が弱体化し、その土地の日本領土への統合に抵抗する能力を失わせた大きな原因は、疾病の拡大と抵抗力の減退であった。

 すでに幕末には、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)らは蝦夷地情報を知るために、松浦の家を訪れていた。明治新政府が成立すると、松浦を高く評価していた大久保は政府に彼を登用させ、「蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)」に任じている。

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親交があった絵師、河鍋暁斎に自らの臨終シーンを釈迦になぞらえて描かせた「武四郎涅槃図」(国重文、画像は中央部分の拡大)=三重県松阪市の松浦武四郎記念館提供

 明治2(1869)年に戊辰戦争が終結し開拓使が設置されると、これまでの調査実績を認められ蝦夷地通として、ややあって開拓判官(はんがん)の職に任命された。長官、次官に次ぐポストである。新天地で理想の政治を目指すには十分な職であった。

 ◆真面目な政策に抵抗勢力

 松浦は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。和人とアイヌが共存しながら、アイヌが安心して暮らせる日々を夢見ていた松浦は、抵抗勢力とぶつかることになる。それは、江戸時代の商場知行制(あきないばちぎょうせい)のように商人たちが勝手気儘(きまま)にアイヌの男女労働力を酷使する悪習を守るか、廃止するかという争いでもあった。

 開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。また松浦は、律令制度における遥任(ようにん)のように東京で勤務させられて、北海道現地で手腕を振るうこともできなかった。

 孤立した松浦は、開拓使を辞めてしまった。それでも終身15人扶持(ぶち)(米価換算150万円ほど)を給された異例の厚遇は、新政府の後ろめたさからであろう。

 その後に雅号として「馬角斎(ばかくさい)」を名乗ったともいわれるが、それは明治新政府に対するあてつけでもあろうか。(やまうち まさゆき)



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