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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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北海道新聞にて、戊辰戦争中に会津・庄内両藩が蝦夷の所領をプロイセンに99年の貸与を行い、連携を図ろうとしていたことが報道されました。
「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。

 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。

 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。

 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。

 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。

 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。

 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。

 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。

 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
 ビスマルクが却下しなかったら、ガルトネル事件と同じような展開が考えられたのでしょうね。
 
 土方さんが会津戦争末期に「この上は洋夷に頼る他なし」と言ったとされていますが、おそらくは、この同盟を前提に言っていたのでしょうね。

新潟
『越後戊辰戦争と加茂軍議』の出版記念講演会、著者稲川明雄氏が講演
 加茂商工会議所は、25日午後2時から加茂市産業センターで『越後戊辰戦争と加茂軍議』の発行を記念して、著者で河井継之助記念館館長の稲川明雄氏による出版記念講演会を開く。
著者の稲川氏は1944年、長岡市生まれ。長岡市立互尊文庫司書・長岡市史編さん室長、長岡市立図書館館長などを歴任し、現在は長岡市河井継之助記念館館長。河井継之助をテーマにした歴史講演会で、午後4時に終わる。

同商議所は2011年度から中心市街地の活性化支援を最重点事業に掲げ、加茂市の観光資源の調査研究、歴史を生かしたまちづくりに取り組む。これまでに「加茂山古道散策マップ」の発行や史跡モニュメントの設置などを行っている。
2011年に三条市諸橋轍次記念館で講演したときに稲川氏
2011年に三条市諸橋轍次記念館で講演したときに稲川氏
その一環として、戊辰戦争における奥羽越列藩同盟と加茂市のかかわりや、長岡城奪還への道のりなどの歴史的背景を記した書籍『越後戊辰戦争と加茂軍議』を9月10日に新潟日報事業社から出版した。

入場は無料。事前申し込みを受け付けているが、当日会場でも受け付ける。問い合わせは、同商議所(電話:0256-52-1740)へ。

高知
高知県の香美史談会が戊辰戦争従軍の宮地団四郎など調査
展覧会企画への資料提供を
 高知県香美市の歴史や文化を研究している香美史談会(今久保約雄会長)が、幕末に現在の香美市土佐山田町植から戊辰戦争に従軍した郷士、宮地団四郎(1838~1917年)を軸に、明治新政府のために戦った先人たちの調査を進めている。2018年の明治維新150年を前に展覧会を企画しており、香美市から従軍した人物の子孫らから資料を募っている。

 団四郎は、土佐藩の前哨隊や迅衝隊に所属し、戊辰戦争に従軍した。慶応3(1867)年11月に土佐を出発し、京都や大阪、江戸を経て会津若松まで転戦した。

 土佐をたってから明治元(1868)年11月に凱旋(がいせん)するまで、団四郎は一日も欠かさず詳細な日記を書いており、当時の様子や土佐藩の軍の仕組みを知る上で重要な資料となっている。2014年には幕末史研究家の小美濃清明氏が、日記の現代語訳と解説をまとめた「宮地團四郎日記―土佐藩士が見た戊辰戦争―」(右文書院)を出版している。

宮地団四郎が残した日記の原本と団四郎の写真
宮地団四郎が残した日記の原本と団四郎の写真
 香美史談会は日記を参考に、団四郎や、共に土佐山田町から従軍したと記述がある「高芝新二郎」「森尾林之助」の子孫宅を8月に訪問。宮地家では団四郎の写真や日記の原本を確認し、森尾家では林之助とみられるガラス湿板式の写真2枚とその原版を発見した。

 史談会は、団四郎らを紹介するパネル展を2017年10月ごろに開くことを目指している。香美市から戊辰戦争に従軍した人物の資料提供を市内外に呼び掛けており、今久保会長は「調査によって、香美市の歴史研究が大いに発展する。心当たりがある人は連絡を」と話している。

 問い合わせは今久保会長(090・3189・9560)へ。

福島
【Visit Fukushima外国人の目 会津若松編(上)】 ネットより面白い
 年間およそ300万人を誘客する観光都市・会津若松市。会津大大学院修士2年のファム・バン・タインさん(25)=ベトナム=が、市内の観光スポットを巡った。

 まずは会津を代表する観光スポット・鶴ケ城。観光ボランティアガイドの松本幹子さん(67)の解説で外郭を回る。歴史に興味があるタインさんは「インターネットの情報とは比べものにならないほど面白い」とガイドの説明を喜んだ。

 城内も見学し、歴代城主や白虎隊などについての展示を見学。母国でベトナム戦争があった際は、父親も出兵したというタインさんは、戊辰戦争当時の生活を学び「どこの国でも戦争は大変」と国境を超えて平和の大切さに思いをはせていた。

 タインさんは日本に住んで4年目だが「日本語が話せる外国人は少なく、歴史の専門用語も難しい」と指摘する。言葉が分からない時、頼りになるのは英語が併記された案内板。「名所だけでなく人が多い所に案内板を置いて、離れた所でも名所の魅力が分かるように工夫したらいい」と提案した。

 次に向かったのは、着物で街を散策できるサービスを提供する同市の「きものべんりやとしの坊」。市内には同様の着物屋が数軒あり、同店では会津の伝統産業「会津木綿」の着物で市内を歩ける。今回は風通しの良い浴衣を選んだ。初の着付け体験で、階段の上り下りの難しさなど動作に苦労した点もあったが「涼しくて快適。冬は会津木綿だと暖かそう」と日本の伝統衣装を楽しんでいた。

 【ひとくちメモ】 ビザの要件緩和 国が指定する重点20カ国のうち、訪日にビザが必要な5カ国(中国、フィリピン、ベトナム、インド、ロシア)をインバウンド観光の潜在力が大きい市場と位置付けて緩和を実施。観光庁の宿泊旅行統計調査(6月、第2次速報)によると、本県の外国人延べ宿泊者数は5700人で前年同期比12.6%増。

コラム
平和をたずねて軍国写影 反復された戦争/2 対外危機演出の原型=広岩近広
 江戸時代は徳川家康が幕府を開いた慶長8(1603)年から、第十五代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)が大政を朝廷に返還する慶応3(1867)年まで続いた。元特攻隊員の岩井忠正さん(96)と忠熊さん(94)の祖父、忠直さんは江戸時代の弘化2(45)年に山形・米沢藩の家に生まれた。忠熊さんによると、忠直さんは上杉藩主が設立した学問所「藩校興譲(こうじょう)館」に入った。

 「祖父の経歴に、助教と書かれていた記憶があるのですが、学問や文事に関する書物は家に伝わっていません。軍事関連の訓練が行われていて、その助教をしていたのなら理解もできます」。忠熊さんは笑顔を見せて続けた。「姉たちから聞いたのは、祖父は両手をついて『姉上様にはご機嫌よく』と言って、芝居を見るようなあいさつをしていたそうです」

 忠直さんが22歳のときに幕末を迎える。53年に米国の東インド艦隊司令長官ペリーが黒船で来航し、開国を迫ってきた。米国との不平等な日米修好通商条約の調印をめぐる論争は、行き詰まっていた幕府政治の追及へと向かう。その勢いは尊王攘夷(じょうい)論へと発展し、そして倒幕論に至る。

 薩摩藩と長州藩を中心にした討幕派は68年1月、佐幕藩の武力制圧に乗り出し、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。米沢藩は朝敵とされた会津藩への信義から「東北諸藩同盟軍」(奥羽越列藩同盟)に加わる。米沢藩士の忠直さんは、東北戊辰戦争に従軍した。

 戊辰戦争の最中、新政府は「王政復古の大号令」を発して、当時16歳の天皇を担いだ。天皇は「五箇条の誓文」を宣布するが、そこには「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」との文言がみられた。明治新政府が天皇を前面に押し出したことについて、立命館大学名誉教授で近代史研究者の忠熊さんは、こう説明する。

 「戊辰戦争の折に奥羽越列藩同盟は、薩長は少年の天皇を擁して私意を遂げようとしている、と非難しました。これに対して新政権は、天皇の親政として政策を執り行っていると宣伝する必要から、五箇条の誓文を支配層や諸外国に向けて発表したのです」

 忠熊さんは「五箇条の誓文」と同じ日に出された「国威宣布の宸翰(しんかん)」を重視する。宸翰は天皇直筆の国民向けの手紙で、そこに「万里の波濤(はとう)を開拓し、国威を四方に宣布し」とある。忠熊さんはこう説き明かす。

 「国家の大方針として、海外に進出するというのですから、異常な国威宣揚です。新政府があえて宸翰を発表したのは、国民の関心を戊辰戦争から国外に向けさせる目的があったからでしょう。近代の日本は常に対外的危機を演出し、国内の矛盾から国民の目をそらしてきた。そうして国内一致を訴える原型が、ここに出現しています」

 戊辰戦争に勝利した新政府は、この年の9月から、天皇一代を元号とする一世一元の制により、年号を明治と改めた。明治元年だった。(次回は27日に掲載)
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