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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
9/22夜の部

・ひらかな盛衰記 逆櫓
前半は、平和な船頭一家が取り違えで預かった子の素性が知れ、人のいい入り婿の正体が実はという話。小さな第二場があって、遠景に主人公が若い船頭に逆櫓を教えている場面、子役で遠景に見せるという趣向が面白い。第三場は碇知盛の着想の元となった、船頭多数との戦闘シーンから大碇を投げつけるシーン、最後は畠山重忠が出て来て締め。でも主人公はお縄になり、守った主君の子の命と引き換えに切腹する運命。
 ……吉右衛門がもう少し若い時に見たかったなぁ(ぼそ)。

・再桜遇清水
 最初は北条の桜姫と千葉家の若侍の恋物語で始まり、ちょっとシェイクスピア『真夏の夜の夢』か『十二夜』あたりのテーストなんだけど、桜姫の美しさに魅せられて彼女のために殺生戒を破った僧清玄が破戒僧に墜ちてなお桜姫を求める展開はプッチーニ『トスカ』も真っ青。衆道あり強盗殺人あり、小姓ふたりの入水自殺あり、どうなるかと思ったら最後は『四谷怪談』ばりの怪談オチ。死して成仏できない清玄が化けてなお桜姫を求めるスリラー仕立ての幕は後味がよくはなかったけど、高潔な僧が恋に落ち、肉欲物欲に怪物化するあたりは結構好き。染五郎が陽気な奴と破戒僧清玄の両方を演じ、時には笑いを呼びつつ最後のスリラーまでよく化けてくれた。雀右衛門の桜姫はやはりハマリ役だし、米吉と児太郎の若衆コンビが可愛美しい。

9/23昼の部

・彦山権現誓助劔 毛谷村
仇討ちものの傑作。女武道の菊之助が美しい。染五郎&菊之助の美男美女でうっとり。

・仮名手本忠臣蔵 道行旅路の嫁入り
通しで踊りなので、ついうとうとと。

・極付幡随長兵衛 「公平法問諍」
やはり吉右衛門は似合うなぁ。

芝居も極付、感動の長兵衛 歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」
 初代中村吉右衛門の俳名を冠し、功績をたたえる「秀山祭」。孫の二代目吉右衛門が、初代ともどもの当たり役である2作品に主演した。

 昼の「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」が河竹黙阿弥の名ぜりふと呼応して感動的。江戸・花川戸の侠客(きょうかく)長兵衛(吉右衛門)と旗本水野十郎左衛門(市川染五郎)との男の意気地をかけた対決。「長兵衛内」の場がことにいい。吉右衛門が、死を覚悟して後事に思いをはせる「歎息なして…」の語りにつれ、顔を硬直させる。無言の容貌に宿る芝居の醍醐味(だいごみ)。竹本葵太夫の炎のような浄瑠璃も、名演に火をつける。染五郎初役の水野の作りも眼を射る。白塗りに映える憂愁。含みある面立ちに人間性の分の悪さをあらわにする。見事な水野像だ。

 夜に「ひらかな盛衰記」から名場面「逆櫓(さかろ)」。せりふ、見得と俳優の器量で見せる時代物。吉右衛門が軟から硬へ、町人の船頭松右衛門から実は武将樋口次郎へと鮮やかに変わる。漁師権四郎に中村歌六(かろく)。

 夜の最後に吉右衛門が松貫四(まつかんし)の筆名で書いた「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」。歌舞伎伝来の「清玄桜姫物」にアイデアを借りた。美しい桜姫(中村雀右衛門(じゃくえもん))に恋い焦がれてしまった僧侶清玄(染五郎)が破戒、堕落をものともせず、殺され幽霊になっても姫に付きまとう。人間の業を諧謔(かいぎゃく)味たっぷりに描く。吉右衛門が32年前に作、主演。歌舞伎座では初上演。昼はほかに「毛谷村(けやむら)」と舞踊「道行旅路の嫁入」。25日まで、東京・銀座の歌舞伎座。(劇評家 石井啓夫)
<評>吉右衛門、緩急自在 歌舞伎座「秀山祭大歌舞伎」
 歌舞伎座は初代中村吉右衛門の芸をしのぶ秀山祭。昼夜にゆかりの演目が並ぶ。
 昼の部「極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)」の吉右衛門が素晴らしい。緩急自在のしみ通るようなせりふで、「たかが町人風情」の自分の死に場所を見定めた男の覚悟を浮き彫りにする。その覚悟をあくまでも静かに受け止める中村魁春(かいしゅん)の女房お時も感動的。中村又五郎が劇中劇の坂田公平と出尻清兵衛で好演を見せ、中村錦之助の近藤登之助に悪が利いていい。中村歌六の唐犬権兵衛、市川染五郎の水野十郎左衛門。
 「彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち) 毛谷村」は染五郎の六助、尾上菊之助のお園が華やかにして爽やか。お園のクドキに悲哀がにじみ、六助は出立で義太夫にのるところがわくわくさせるおもしろさ。又五郎の微塵弾正(みじんだんじょう)実は京極内匠、上村吉弥の後室お幸。昼の部は他に坂田藤十郎の戸無瀬、中村壱太郎(かずたろう)の小浪、中村隼人の奴(やっこ)で「仮名手本忠臣蔵 道行旅路の嫁入(よめいり)」。
 夜の部は「ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)」から。吉右衛門の松右衛門実は樋口次郎兼光は、カドカドの見得(みえ)が錦絵そのまま。中村歌六の権四郎は孫の死を聞いての衝撃と悲嘆、そして怒りと、胸の内が手に取るように伝わるきめ細かさ。中村東蔵の女房およしとともに、名もなき生活者のリアリティーに満ちている。中村雀右衛門のお筆、市川左団次の畠山重忠。
 「再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)」は吉右衛門が松貫四(まつかんし)の名で清玄桜姫物の古作を書き改めた作品。芝居の足取りがやや重いが、適役ぞろいで、埋もれた演目を甦(よみがえ)らせる意義ある試み。二十五日まで。
(矢内賢二=歌舞伎研究家)
渡辺保の歌舞伎評
2017年9月歌舞伎座新しい長兵衛
 今日、私は新しい長兵衛を見た。吉右衛門の「湯殿の長兵衛」である。別に

変った新演出があるわけではない。いつもの通り。しかし回を重ねて洗練され

て、今まで見えなかった一本の線がつながって、長兵衛という男の人生のドラ

マがはっきり浮かび上がった。これだから古典は同じものを何度見てもその度

に新しい発見があるのだ。

 むろん「湯殿の長兵衛」はいつ見ても江戸ッ子の男一匹、意地の張り合いか

ら殺される男の話であるが、今度はそうではなかった。死に場所を自ら発見す

る男の話であった。人間はいつか死ぬ。しかしいつ死ぬかはだれもわからない。

死を自ら求めるのは単なる自殺に過ぎない。長兵衛は自殺者ではない。自ら死

に場所を発見した。ここで死ななければならないと思い、そうすることが自分

の人生を全うすることだと思った。全てを終わらせようとしたのではない。そ

こが自殺と違う。

 たとえば二幕目の花川戸の長兵衛の内の長兵衛自身の告白を聞いているとよ

く分かる。今度の吉右衛門のそれは、自然な軽さのなかに実がこもっていて、

そのリァリティがこれまでにない深さである。すでに夫の覚悟を知っている魁

春の女房お時がせっかく仕立てた黒紋付がこんな役に立とうとは思わなかった

という。そうすると長兵衛はこれが一世の晴れ舞台だからこそ仕立て下ろしを

着るのだという。なぜ晴れ舞台なのか。実力があっても所詮しがない町奴にと

って士農工商の身分制度は鉄壁であった。その鉄壁に向かって長兵衛は革命を

起こしたわけではない。八千石の旗本と対等に死ぬのは晴れ舞台だと思った。

むろんたかが八千石である。八万石でも八十万石でもない。そこに長兵衛の勇

気と哀れさがある。

 彼が偉いのは彼がプライドを捨てなかったこと。体を張って血の涙を流しな

がら生きて来たからである。多くの人の難儀になることを知りながら、ここが

自分の人生の終末だと思った。そこにこの男の発見がある。今度の吉右衛門の

長兵衛はそういう男のドラマであった。

 序幕村山座の名調子もさることながら、それ以上に大事なのは坂田金左衛門

に対してあくまでお詫びに出たのでございますといっていることである。この

卑下した態度が一貫している。初代吉右衛門の長兵衛は愛嬌こぼれるばかりで

あったが、その愛嬌こそ士農工商の最下位にいる人間の被差別感覚とそれを超

えようとする方便から出る。当代またそれに近く初代の光彩につながっている

と同時に、次の幕の花川戸の内での述懐で爆発する。私が一本筋が通って男の

ドラマが浮かび上がったといい、新しいという所以である。

 大詰水野の屋敷では、風呂場へ誘われてよんどころなく立ち上がって向うを

見る思い入れが、夫婦、親子の別れの情が出てうまい。それに引きかえて湯殿

では満場を沸かせる、ここ一番の大タンカ、胸のすく出来である。

 魁春のお時は、あえてベタベタせずにサラリとしながら、夫の気持ちは底の

底まで知っている女房を描いて、しかも風格がある。

 又五郎が村山座の坂田金平の大荒事のあとすぐ引っ返しての三枚目の出尻清

兵衛で腕を見せる。ことに金平で舞台番に思わず「もう大丈夫なんだろうね」

というさり気なさ、可笑しさがうまい。橘三郎の慢容上人が手に入ってうまい。

 染五郎の水野は悪が効かないが、この年配では仕方がない。その分錦之助の

近藤登之助が悪を聞かせて水野を助けている。

 歌六の唐犬権兵衛が舞台を締めている。

 錦吾の渡辺綱九郎、吉三郎の保昌武者之助、吉兵衛の舞台番、蝶十郎の中間。

脇のなかでは吉之亟の坂田金左衛門がいい。

 児太郎の頼義、米吉の御台、松江、亀鶴、歌昇の子分。

 以上この芝居がこの興行一番の見ものである。

 昼の部はこの前に染五郎、菊之助の「毛谷村」と藤十郎、壱太郎の「八段目」

の道行がある。

 「毛谷村」は次代の歌舞伎を背負う二人。ことに染五郎の六助がいい出来で

ある。前半の「なんとでごんす、ぼろんじどの」の愛嬌から、太鼓を叩いてス

キを見せずにお園への物語がいい。お園と知れてからの居所が真中へ出過ぎて

せせこましいほかは、ニンも芝居もいい。後半、斧右衛門が出てからはやや力

不足。タッチが弱くなる。しかし「義の一字」と扇を開いた大見得で大分取り

返した。まずは上出来である。

 菊之助のお園は花道の出がよくない。女が男装しているという面白さがはっ

きりしない。男か女かわからぬ中途半端。相手が六助と知れてからは、尺八を

火吹き竹と取り違へたり、臼を持ち上げたりするのがとかく段取りめく。六助

への狂熱的な思いが出ていないからである。くどきはカラミを使って一通り。

型通りであるが、もう少し色気が欲しい。

 この一幕では又五郎の微塵弾正が、凄味、憎みともによく、今月昼の部の三

役、大当たり。

 吉弥のお幸は、人品卑しからず、立派な吉岡家の後室。ことに後半斧右衛門

が入ってから舞台にスピードが出たのはこの人のリードの力である。吉之亟の

斧右衛門は突っ込みが足りず不発。

 次の「八段目」は、私は藤十郎の戸無瀬をはじめて見た。九段目は再三見た

が八段目は東京では初役。小浪とともにせり上がったところはさすがに立派な

風格。しかし仕どころがあまりない役だから、それまでである。

 藤十郎とともにせり上がった壱太郎の小浪が十分藤十郎に対抗するだけの立

派さには一驚した。ここのところ大いに芸格が上がったからである。しかしと

かく顔を上げすぎるのはよくない。むろん小浪は力弥に会えて嬉しいだろうが、

同時に不安もあるはず。上を向いてばかりいては、その性根を失う。

 隼人の奴。

 夜の部は、吉右衛門の「逆櫓」と染五郎、雀右衛門の「清玄桜姫」。

 吉右衛門の樋口は、前半花道のはなやかさから、梶原に目通りしての物語の

うまさが、浮き立つようで面白い。後半は「権四郎、頭が高い」で門口の柱に

つかまって向こうを見込んでのキマリ、二重に上がりかけて振り返っての裏見

得、表になっての大見得まで錦絵の美しさ。これぞ歌舞伎という味わいで堪能

させる。物語はわずかな動きでありながら大波が波頭に砕ける如き面白さであ

る。「そめろの山、千尋の海」の情愛、遠見を挟んでの逆櫓の松の大立ち回り、

物見のカドカドの見得の立派さ。いずれも堪能させる。

 歌六の権四郎が秀逸。ことにお筆の話を聞いている間の、絶望に打ちひしが

れてジッと動かずしかもハラで芝居を受けている具合が印象的であった。今日

の権四郎である。

 東蔵のおよしは、お筆が帰るというのを聞いて引き留めるところに、わが子

可愛さからせめてこの人と話をして居たいという母親の情、女の気持ちが出て

ホロリとさせる。このあと権四郎に手を引かれてのれん口へ入る時、二重に上

がった歌六、東蔵がフッと立ち止まる。その二人の背中に親子の不運を思わず

にはいられなかった。結婚によって血族には他人が入ってくる。そして新しい

絆が生まれる。およしの再婚、樋口の入り婿。まして武士と船頭という身分の

差。その人間関係の複雑ななかから樋口はむろん、およしも権四郎も生きてい

かなければならない。そう思わずにはいられない親子の後姿であった。

 雀右衛門のお筆はベテランに囲まれてまずは神妙な出来。又五郎、錦之助、

松江の三人が船頭に出る顔揃い。

 左団次が重忠。

 次の「清玄桜姫」は南北の名作「桜姫東文章」の先行作。南北のネタは全部

ここに揃っていることがわかる。その「遇曽我中村」という古い脚本を吉右衛

門が三十年余り前に「松貫四」の筆名で脚色、四国と大阪で上演したが、私は

どちらも見なかったので今度はじめて見た。吉右衛門監修、戸部和久補綴。

 全三幕のうち、序幕新清水花見の場は、染五郎の清玄上人と奴波平の二役早

変わり、錦之助の千葉之助清玄、雀右衛門の桜姫、魁春の山路という適役揃い

なのに、いささか冗長な上に、演出がキッパリせず、役者が芝居に慣れぬとこ

ろもあって芝居がこなれていない。

 一つだけ例を挙げる。千葉之助と桜姫の不義が証拠の手紙で手詰めになった

時、山路がその手紙は「キヨハル」ではなく「セイゲン」だと主張するのを思

いつくところ、セイゲンが偶然石段の上に立っているのは、芝居としては面白

くない。なんのためにここへ清玄が出て来たのかがわからず、その分山路が思

いつく運命的な瞬間が立体的になっていない。

 桂三の荏柄の平太が手強くない上に、一味の吉之亟の大藤内が神職だといい

ながら雑色みたいな格好しているのも軽々しい。敵役陣が弱いので主役たちに

枷が掛からないのである。もっと整理して演出を面白くすればいい芝居になる

のに惜しいことである。

 二幕目雪ノ下桂庵宿の場は、原作の風俗描写をするには装置が原作と違って

ありきたりの店先であるのが不自由。原作が面白いだけに残念。

 大詰六浦庵室になってもまだ物語がごたつく。児太郎、米吉の寺小姓も、京

妙の富岡の後室もカットしてここまで来たらばもう清玄桜姫に筋を絞った方が

インパクトもあり、役者も仕甲斐があったろう。現に染五郎、雀右衛門、錦之

助の三人もここでグッとよくなる。

 再演に期待したい。

 

Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.

『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/



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