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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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歌舞伎美人八月納涼歌舞伎より。
演劇史上に輝く珠玉の名作がついに歌舞伎に!
坂口安吾作品集より
野田秀樹 作・演出
  野田版 桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)
耳男 勘九郎
オオアマ 染五郎
夜長姫 七之助
早寝姫 梅枝
ハンニャ 巳之助
ビッコの女 児太郎
アナマロ 新悟
山賊 虎之介
山賊 弘太郎
エナコ 芝のぶ
マネマロ 梅花
青名人 吉之丞
マナコ 猿弥
赤名人 片岡亀蔵
エンマ 彌十郎
ヒダの王 扇雀
野田版 桜の森の満開の下(さくらのもりのまんかいのした)
現代演劇史に輝かしい軌跡を残した戯曲が、待望の「野田版」歌舞伎として蘇る
 深い深い桜の森。満開の桜の木の下では、何かよからぬことが起きるという謂れがあります。それは、屍体が埋まっているからなのか、はたまた鬼の仕業なのか…。
 時は天智天皇が治める時代。ヒダの王家の王の下に、三人のヒダの匠の名人が集められます。その名は、耳男、マナコ、そしてオオアマ。ヒダの王は三人に、娘である夜長姫と早寝姫を守る仏像の彫刻を競い合うことを命じます。しかし、三人の名人はそれぞれ秘密を抱えた訳ありの身。素性を隠し、名人と身分を偽っているのでした。そんな三人に与えられた期限は3年、夜長姫の16歳の正月までに仏像を完成させなければなりません。ところがある日、早寝姫が桜の木で首を吊って死んでいるのが見つかります。時を同じくして都では天智天皇が崩御。娘と帝を同時に失ったヒダの王は悲しみに暮れます。やがて3年の月日が経ち、三人が仏像を完成させたとき、それぞれの思惑が交錯し…。
 野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに書き下ろした人気作『贋作・桜の森の満開の下』を、『野田版 研辰の討たれ』、『野田版 鼠小僧』、『野田版 愛陀姫』に続く、「野田版」歌舞伎の4作目として、満を持しての上演です。人間と鬼とが混在し、時空間を自由に操りながら展開する物語をお楽しみください。
長谷部浩の劇評より
【劇評81】『野田版 桜の森の満開の下』七之助の夜長姫の残酷
歌舞伎劇評 平成二十九年八月 歌舞伎座

八月納涼歌舞伎、第三部は、満を持して『野田版 桜の森の満開の下』が上演された。野田秀樹がかつて主宰していた夢の遊眠社時代の代表作であり、平成元年の初演以来、京都南座、大阪中座を含む伝統的な様式を持つ劇場でも上演されてきた。

十八代目中村勘三郎が健在のとき、この『贋作・桜の森の満開の下』の上演が企画され、勘三郎(当時・勘九郎)の耳男、福助の夜長姫を前提に、歌舞伎化する脚本がすでに進行して、三分の一が書き上がっていたと聞いている。結果として、勘三郎と野田の歌舞伎での共同作業は、平成十三年の『野田版 研辰の討たれ』が先行して、野田は歌舞伎座六度目の演出となる。

現・勘九郎の耳男、七之助の夜長姫の配役でこの舞台を観て、野田三十歳の若々しい文体には、この若い歌舞伎役者の肉体がふさわしいと思った。

この物語は、アーティストの耳男が、芸術の源泉となる力を追い求める物語である。彼にインスピレーションを与えるのは、夜長姫の美と残酷である。夜長姫は妖艶な美しさを放つばかりか、耳男の耳を切り取り、耳男のアトリエに火をつけることも辞さず、妹の早寝姫(梅枝)を自殺に追い込んでも平然としている。この二人の関係性が、勘九郎、七之助の踏み込んだ演技によって鮮明になった。

芸に一心に打ち込む耳男の真摯、そして酷いまでの残酷で他者を狂わせていく夜長姫がいい。特に、これまで女優によって演じられてきた夜長姫が、女方に替わって、その残酷を躊躇なく表現している。野田の歌舞伎作品のなかでも、もっとも、人間の精神性を深く描ききり、しかも国作りと歴史の改ざん、敗北した国の民を「鬼」として排斥していく人間の身勝手さが背景となっている。

染五郎の天武の大王(オオアマ)が大らかでありながら野心に燃える姿を活写。猿弥のマナコが野人の貪欲な欲望を精緻な演技で浮かび上がらせる。また、(片岡)亀蔵の赤名人、巳之助のハンニャロ(ハンニャ)が対となって狂言を回していく。彌十郎のエンマ、扇雀のヒダの王に、異界と現実界を支配する男の大きさがある。

Zakの音響と田中傳左衞門の作調がすぐれたコラボレーションを実現した。重低音の表現、また、笛による自転車のブレーキ音など、細部まで見どころがおおい。歌舞伎はまぎれもなく音楽劇であるが、空気感を創り出し、劇場を埋め尽くす音の力が大きい。それもまた、歌舞伎なのだと考えさせられた。二十七日まで。
 野田版歌舞伎は『鼠小僧』をビデオで見ただけし、原作の坂口安吾作品は読んでない。そんな私でも、30年前に現代演劇として成功した作品が歌舞伎になっても違和感がない、ただし中村勘三郎・中村勘九郎・中村七之助という親子リレーがあって初めてなんだろうと思う。坂口安吾原作だからか野田30才の作品だからか、込められた寓意を表現できないとならないからだ。

 歴史好きな私は天智天皇から天武天皇にかけての時代と聞くと、ああ壬申の乱だなと思う。古事記と日本書紀の時代だなと思う。青銅から鉄の剣に替わった時代だなと思う。ヒダの王は天智天皇に滅ぼされた蘇我石川麻呂かな。早寝姫は大田皇女、夜長姫は後に持統天皇になる鸕野讚良皇女。歴史劇としては大友皇子が出てこないとしまらないのだけど、まぁ歴史劇でなく寓意劇だし、テーマはむしろアーティストである耳男とミューズであり破壊神である夜長姫の関係だろう。

 『阿弖流爲』で立烏帽子と鈴鹿とアラハバキ神の三役を演じることで女性の三面を描いた七之助さんが一役で女性の神性(この場合はミューズと破壊神・戦争神)、あどけなさ無垢さと非情さ残酷さの二面性がよく表現されていた。

 勘九郎さんは相変わらず高い身体性で報われないミッションをひたむきに果たそうとする役が似合う。そしてオオアマの色悪ぶり(国崩し級)は染五郎さん似合う。歴史は勝者のものであり、勝者に都合の悪いものは改竄され隠蔽されないことにされる、というのは現代に通じた。

 戦または空襲や原爆の寓意である「青いおおきな空が落ちてくる」。人は突然の雨に降られたように雨宿りして「ああ、まいったなぁ」という、というのは、数え切れない焼夷弾や原爆2発を日本に落とした米軍を天災と理解しないと対米従属の日米地位協定を受け容れられない国民になってしまうからだと思う……受け容れられないと沖縄県民のようにまつろわぬ民になるしかない。自分は今限りなく沖縄民に近い心証にあるのだけど。

 七様がゆっくり倒れていく最後の場面が息を呑む美しさだった。

☆★☆★

追記。朝日新聞評
(評・舞台)歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」 愛の破壊衝動、三つ巴
 第三部野田秀樹作・演出「野田版 桜の森の満開の下」は、お盆興行のせいか、亡き十八代目勘三郎をしのばせる。

 古代の飛騨の国で、ヒダの王(扇雀)は耳男(勘九郎)、オオアマ(染五郎)、マナコ(猿弥)に、娘夜長姫(七之助)の守護仏ミロク像を彫らせる。

 彼らは3人で1人の匠(たくみ)を形作る分身たちである。耳男は師匠殺し。オオアマは壬申(じんしん)の乱の大海人皇子。マナコは山賊。

 大海人は権力を奪い、山賊は滅び、耳男は仏を彫って、夜長姫を殺す。バルザックの「知られざる傑作」の画家のように、芸術家は自分の作品を破壊したい衝動を抱く。芸術家に限らず人は、愛する者に対して同じ衝動を持っている。

 夜長姫は耳男の恋人で、作品の寓意(ぐうい)である。全ては耳男が桜の下で見た夢だった。坂口安吾の原作では耳男が主役(シテ)で、他の2人は主役に随伴する役(ツレ)の匠に過ぎない。

 それをオオアマとマナコという独自の性格に書き換え、3人が対等の主役として、三つ巴(どもえ)になる舞台に仕立てたのが、野田版の特徴である。十八代目勘三郎が上演を望んだが果たせず、遺児たちに手渡された。

 舞台の命は絵よりも短い。愛する者による破壊の手さえ待たずに消えていく。終幕耳男が独り夢から覚める寂しさは、演出家の思いであろうか。

 第一部「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」は、中車の直情径行さが、手取りの半太郎の命がけの生き方によくはまっている。七之助の病身の女房お仲の情愛の濃(こま)やかさ。他に舞踊「玉兎」「団子売」。

 第二部は「修禅寺物語」。弥十郎の面作師夜叉(やしゃ)王のスケールが大きい。染五郎と猿之助の弥次喜多コンビで、娯楽本位の「歌舞伎座捕物帖」。

 (天野道映・評論家)

 27日まで。

東京新聞
<評>心弾む「団子売」 歌舞伎座「八月納涼」
歌舞伎座は舞踊を除き、新歌舞伎・新作尽くしの「八月納涼歌舞伎」。
 第一部「刺青奇偶(いれずみちょうはん)」では市川中車の半太郎、中村七之助のお仲が、世間の片隅に生きる男女の純愛を描き出す。市川染五郎の政五郎。市川猿弥の熊介に軽みがあっていい。「団子売(だんごうり)」は中村勘九郎、市川猿之助の踊りがともに小気味よく充実していて気持ちが弾む。ほかに中村勘太郎の「玉兎(たまうさぎ)」。
 第二部はまず坂東好太郎、坂東吉弥の追善狂言「修禅寺物語(しゅぜんじものがたり)」。坂東弥十郎の夜叉(やしゃ)王は、自ら打った面にじっと見入る姿に、芸術家の狂熱とはまた違う、愚直な職人像が浮かんだ。猿之助の桂がまことに巧緻(こうち)で、職人を侮り「関白大臣将軍家のおそば」を望む気位の高さ、気性の激しさが鮮やかに表れる。坂東巳之助の春彦、坂東新悟の楓(かえで)も好演。勘九郎の頼家、秀調の修禅寺の僧、片岡亀蔵の金窪兵衛。
 次は昨年に続き染五郎、猿之助の「東海道中膝栗毛」。今回は「歌舞伎座捕物帖(こびきちょうなぞときばなし)」と題し、舞台稽古中の歌舞伎座で殺人事件が起きるというミステリー仕立て。旅をしない弥次喜多という趣向だが、その分二人の影が薄く、さらに推理劇、バックステージ物としての興味が欲しかった。
 第三部は「野田版 桜の森の満開の下」。故中村勘三郎と野田秀樹とが上演を約束していたという企画が実現。もとより屈指の名作であり、勘九郎ら役者の技量には舌を巻くが、少なくともこの戯曲の目も眩(くら)むような疾走感には、歌舞伎の感覚は必ずしも適していないのではないだろうか。二十七日まで。
 (矢内賢二=歌舞伎研究家)

渡辺保
2017年8月歌舞伎座野田版「桜の森の満開の下」
野田秀樹が歌舞伎の歴史に新しい一頁を書き加えた。

その一頁は、今月三部制の歌舞伎座の第三部「野田版 桜の森の満開の下」の

大詰、勘九郎の耳男が七之助の夜長姫を殺すシーンの、幻想的な美しさである。

むろん歌舞伎にはこういう美しさはなかった。しかし在来の野田秀樹の「贋作 

桜の森の満開の下」にもなかった。その意味では単に歌舞伎の歴史の新しい一

頁であるばかりでなく、野田演劇の新しい特異なページでもあるだろう。 

染五郎のオオアマの政治体制が、扇雀のヒダの王を滅ぼし、勘九郎の耳男も桜

の森に追い詰められる。そこで耳男が七之助の夜長姫を殺す。満山の桜―――

堀尾幸男の墨の強く入った、一風変わった桜の森の装置のなか、桜吹雪が激し

く降る。高鳴る音楽。そこで展開する「殺し場」が官能滴るばかり。その美し

さは幻想的で、ぼってりとした厚みのある豊かさで、しかも儚く、これまでの

歌舞伎の「殺し場」とは一味も二味も違う新しい美しさであり、同時にこれぞ

歌舞伎という本質的な歌舞伎そのものの造形性の極北を示している。

さらに殺された夜長姫は薄衣一枚を残して消え、舞台上手奥から般若の面をつ

け、黒の薄衣を着た鬼たちが、枝垂桜の大きな枝を手に手に二列に並んで、舞

台を横切り花道へ入って行く。それと同時に舞台奥の下手から上手に向かって

鬼たちと逆行するように、影のようにオオアマの輿が朧に消えて行く。御承知

のように歌舞伎はページェントの面白さをその特徴の一つとする。この二組の

行列はこの作品の世界の構造を示すと同時に「殺し場」の余韻であり、背景で

もあった。

私はその美しさを堪能し、陶酔に浸った。今までにない美しさである。

しかしそこへ行くまで、ことに第一幕は大変だったし、見ていてくたびれた。

野田秀樹の言葉遊び、彼方へ飛び、此方へ行って時代の感覚に触れていくせり

ふの面白さが歌舞伎調になると失速し、ほとんど死んでいる。そうなると言葉

の方向性が見失われて、本来ならば舞台に浮かび上がるはずのもの―――たと

えばヒダの王の作ろうとした体制が少しもイメージとして成立しない。

全体のテンポも遅い。歌舞伎の造形性は「キマル」ところにあるが、この「桜

の森」は耳男に象徴されるように「キマ」らない疾走感にある。その二つの表

現の落差、違和感が強いのである。第一幕が終わったところで私はほとんど

「桜の森」の歌舞伎化は失敗だとさえ思った。

 しかし二幕目になるとその違和感がなくなり、ついに冒頭にふれた「殺し場」

に至って、第一幕とは全く違う一頁を開くことに成功した。

 この作品を歌舞伎化しようという話は、勘三郎生前、いや「野田版」三作以

前にあったというが、もしそうだとすれば勘三郎がやりたかったのも野田秀樹

がやりたかったのもこの第二幕にあるのだろうという気がした。そして今は亡

き勘三郎に代わってその夢を実現した野田秀樹の、勘三郎への深い愛情を思わ

ずにはいられなかった。

 「桜の森」の第三部に対して、第一部は中車、七之助の「刺青奇偶」と舞踊

の上下二幕。上の巻は勘太郎の清元「玉兎」、下の巻が猿之助、勘九郎の竹本

「団子売」。第二部が坂東好太郎、坂東吉弥追善で、好太郎の三男、吉弥の弟

である施主弥十郎の夜叉王で「修禅寺物語」と去年当たった染五郎、猿之助の

弥次喜多の新作「歌舞伎座捕物帖」。

 第一部の見ものは「団子売」である。猿之助の女房がほんのわずかな手ぶり

―――たとえば餅を取ってトントンとおこつく振りが絶妙の面白さで、この踊

りでやっと溜飲が下がった。対する勘九郎の亭主は、さすがに亡き三津五郎の

仕込みだけあってキッチリ踊って、猿之助の曲せ球に対して直球の対照的な面

白さ。この踊りくらべが第一部唯一の見ものである。

 勘太郎の「玉兎」は教わった通りに踊ってご愛嬌。

 さて「刺青奇偶」は玉三郎、石川耕士の共同演出。そのためだろう。七之助

の酌婦お仲は玉三郎生き写し。目をつぶって聞いていると玉三郎がやっている

のかと思うほどである。しかしそうなると玉三郎ではそう見えなかった序幕の

ふてくされ具合が、七之助だと実に嫌な女に見えてくる。七之助の個性が死ん

でいるためにお仲という女のイメージがつかまえられていないからである。

 その点、中車の手取りの半太郎は、それなりの独自の人間像を作っている。

ことに大詰の

鮫の政五郎とのやりとりの、こんな瀕死の状況でも性根を失わないところがう

まい。

 猿弥の熊介がユーモラスでうまい。

 勘之丞の医者、芝のぶの近所の女房ともに生活感がない。錦吾と梅花の半太

郎の親夫婦も平凡。

 染五郎が鮫の政五郎を付き合うが、まだ年配が足りないのは是非もない。

 かくして総体に水っぽい「刺青奇偶」になった。

 第二部の「修禅寺物語」は、弥十郎の夜叉王が抑えた心理的な芝居でいいが、

その分この男に潜んでいる職人としてのプライドの高さ、そのプライドゆえに

先の将軍頼家にも楯突く激情が薄い。これはのちにふれるせりふの朗誦法にも

かかわるだろう。

 幕開き、例の如く砧を打つ桂と楓姉妹のせりふで始まるが、猿之助の桂が観

客の気持ちを一気にとらえるリアリティがあってうまい。この女の生まれ、育

ち、そこから来る性格の権高さ、生き方の理想手に取る如くである。新悟の楓、

巳之助の春彦がこの猿之助に食いついていい。

 勘九郎の頼家は、この人ならばいま一息鋭いだろうと思ったが、意外に穏や

かである。

 亀蔵の金窪兵衛が本役。秀調の修禅寺の僧、万太郎の下田五郎。

 さてこのメンバーの一座過不足のない出来、リァリティは十分であるが、私

には大きな不満がある。いずれもせりふの歌うべきところを歌わないことであ

る。綺堂作品を歌舞伎役者が歌わなくなってからすでに久しい。おそらく幸四

郎歌右衛門の、久保田万太郎演出の「番町皿屋敷」以来だろう。しかしそれは

せりふを歌うことによってリァリティを喪失したことへの反省のためであった。

そのリァリティがこれだけ濃くて、しかもうまく表現されるようになったから

は、歌うところは歌ってもいいのではないかと私は思う。それが歌舞伎であり、

岡本綺堂の戯曲だろう。弥十郎の夜叉王にも猿之助の桂にも、今一歩激情が出

ないのはそのためである。考えてみればいくら芸術至上主義者でも、断末魔の

娘の死に顔をスケッチしようというのは異常だろう。父も父、娘も娘の狂気で

あるが、その狂気こそ歌うアリアに支えられているのであって、歌わなければ

夜叉王は唯の老父になってしまい、スケッチも芸術のためではなく、唯の遺品

を残すに過ぎなくなってしまう。それでは作者が書こうとした芸術にのみ生き

る人間の悲劇は意味を失うのではないか。 

 この後が、去年ラスベガスまで行った「弥次喜多」の第二編。杉原邦生構成、

戸部和久脚本、猿之助脚本演出。

 歌舞伎座で殺人事件が起きる。犯人はだれが。思い付きは面白いが、サスペ

ンスとしてはすぐ犯人がわかってしまうので面白くなく、ドラマとしての見せ

場もなく、喜劇としても爆笑とはいかなかった。劇中劇に「四の切」があって、

化かされの法師にバイトで出ていた弥次喜多が、間違いで宙乗りになるのが面

白いだけの芝居になった。構成も台本も芝居のツボを外しているからである。

 中車の座元、児太郎の女房、大道具の棟梁に勘九郎、鑑識の女医に七之助、

竹本に門之助、笑三郎、役人に亀蔵、猿弥、役者に巳之助、隼人、新悟、竹三

郎、弘太郎という、ほとんど一座総出なのにもったいない。

 

Copyright 2017 Tamotsu Watanabe All rights reserved.

『渡辺保の歌舞伎劇評』http://homepage1.nifty.com/tamotu/

河村常雄の新劇場見聞録 八月納涼歌舞伎評
<見>恒例の三部制。大看板は姿を見せず、若手花形で大歌舞伎座を賄う。今回の芝居は、若手花形だと勉強会になりがちな古典物がなく、新歌舞伎2本に新作喜劇、野田版。それだけに出演陣は存分に持ち味を発揮、三部とも概ね充実した舞台になっている。

第一部は長谷川伸の新歌舞伎「刺青奇偶」から。玉三郎と石川耕士の演出。
渡世人半太郎(中車)と元酌婦お仲(七之助)の哀しくも純な夫婦愛を描く。中車は元来芸達者、古典でなければうまい。渡世人のいなせな感じがよく出ている。お仲を病から救うために賭場荒らしに手を染めた経緯を語る件がうまい。七之助は薄幸の女性が仁に叶う。自暴自棄の前半から亭主思いで病弱の女房になる後半への切り替えも鮮やか。初役の2人の好演で見応えのある舞台になった。
染五郎が鮫の政五郎。最後に親分の貫禄を見せる役だが、貫禄を見せるにはあと一歩。錦吾演じる半太郎の父・喜兵衛、梅花の母・おさくが、情味を出している。
舞踊は勘太郎があどけなさの残る「玉兎」。猿之助のお福、勘九郎の杵造でテンポのいい「団子売」。勘三郎、三津五郎亡き後の踊り手。暗い芝居のあと、舞台を明るくして第一部の幕を下ろした。

第二部は岡本綺堂の新歌舞伎「修禅寺物語」。猿翁の監修。映画スターであった初代坂東好太郎の三十七回忌、その長男で二代目坂東吉弥の十三回忌の追善演目である。好太郎三男の彌十郎が夜叉王を勤め、その息子・新悟が妹娘・楓。
近年、彌十郎は脇役でありながら存在感を増しているが、期待通り主役を無事勤めた。相手が将軍といえども納得できない面は渡せないという芸術家としての気概、二人の娘への情愛、瀕死の姉娘の顔を写し取ろうとする芸術家魂など的確に表現している。
猿之助が姉娘・桂。上昇志向の強さを浮き彫りにして好演。勘九郎の源頼家、已之助の春彦。
もう一本は戸部和久脚本、猿之助脚本・演出の新作喜劇「東海道中膝栗毛・歌舞伎座捕物帖」。昨夏、染五郎の弥次郎兵衛、猿之助の喜多八がクジラに乗ったり、ラスベガスで遊んだりの破天荒な「膝栗毛」を上演した。本作はその続編で、ラスベガスから帰った弥次喜多が活躍するのは江戸の歌舞伎座の舞台裏。「義経千本桜・川連法眼館」の初日を前に役者が殺され犯人を推理していく。舞台の仕掛けや舞台作りの過程が見られて楽しめる。宙乗りで出て、宙乗りで引っ込む染五郎と猿之助。今回も喜劇のセンスを発揮している。
共演は人気花形、若手、御曹司が大挙出演。勘九郎、七之助、已之助、児太郎、隼人、千之助、虎之介、新悟、片岡亀蔵。超若手の金太郎、團子から超ベテランの竹三郎。中車、門之助、笑也、笑三郎、猿弥らおもだか勢などなど。大挙出演で薄味にしているが、にぎやかな舞台にはなった。
第三部は「野田版 桜の森の満開の下」の一本立て。坂口安吾の2作品をベースにした野田秀樹作品の歌舞伎化。壬申の乱を背景にして権力、国家、恋愛,芸術を民話風にかつダイナミックに描く。演出も野田。
特有の言葉遊びで分かりにくくなりがちな野田戯曲であるが、歌舞伎俳優の強い台詞がそれをカバーする。勘九郎の耳男。染五郎のオオアマ、七之助の夜長姫。梅枝の早寝姫、猿弥のマナコ、片岡亀蔵の赤名人、彌十郎のエンマ、扇雀のヒダの王。いずれも好演である。
11日所見。
――27日まで歌舞伎座で上演。





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