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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
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 2月28日に、ノーエ節は野毛山と三島とどっちが古いのか、ということを調べた記事を書きました。
「野毛山節」考

 まったく同じテーマでシンポジウムが開かれたそうです(笑)。

民謡「ノーエ節」のルーツはいかに?/横浜か三島かで激論
 「ノーエ節」の起源は横浜・野毛山か、それとも静岡県三島市か─。国内に十種類以上あるといわれる民謡の起源をめぐって激論が交わされると聞き、二十三日に横浜市西区の西公会堂で開かれた全国初の「ノーエ節シンポジウム」に足を運んだ。「野毛山節」と「農兵節」。「ノーエ♪」の掛け声を長年伝承してきた両者の論争の決着は、いかに-。

 「『野毛の山からノーエ』と歌ってもらうためにも、発祥の地は譲れませんね」。野毛山節を三十年近く、地元の小学生やお年寄りに指導してきた野毛山節保存会の片山浪代表は言った。

 野毛山節は、安政六年(一八五九年)に開港場として指定された横浜を「♪野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 野毛サイサイ 山から異人館を見れば 鉄砲かついでノーエ… 」と、野毛山から見た異人館や外国人の練兵風景などを揶揄(やゆ)した歌といわれる。

 農兵節について「ノーエは『農兵』を意味する。歌詞も地域が独自に育(はぐく)んだ歌」と、三島農兵節普及会の露木久夫会長は説明する。「♪富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける とけて流れてノーエ… 」。幕末に東海道筋で歌われた盆踊り歌などが変化したものとも考られている。

 幕末から明治維新に掛けた流行歌で、「日本近代の最初の流行歌」と評される「野毛山節」。一方、「農兵」の概念は武士制度が廃止された文明開化以降のものとされており、起源では農兵節より古い野毛山節を発祥とする説が有力視されている。

 ただ、知名度では圧倒的に農兵節が勝る。昭和初期にレコードが発売され、三味線の教本にも必ず掲載されているからだ。シンポジウムに参加した一人が「野毛山節を知ったのは、この企画がきっかけ」というように、民謡の世界で野毛山節はマイナーな存在という。


 うーん、「『農兵』の概念は武士制度が廃止された文明開化以降のものとされており」という点に誤りがあるなぁ。

 農兵隊を最初に組織しようとしたのは、幕末よりちょっと前、1855年に亡くなった江川太郎左衛門英龍(リンク先はWikipedia)ですから、文明開化よりも古い話です。幕府の許可を得て農兵隊を編成したのは息子の英敏で1863年のことになりますが、それでも明治維新より5年も前の話です。

 ただ、江川英龍は幕府の正式な許可を下りる前に、開港を迫ってくる諸外国の軍艦に対処するため、韮山代官領内の農民を鉄砲隊として武装させていたようです。

 「重要文化財 江川邸」のホームページより。

 英龍は、そうした点を考慮した上で、日頃から韮山代官領の農民に軍事的な訓練を施し、危急の際には農兵として動員して、迅速に海岸防備体制をとれるようにすることを考えたわけです。実際、韮山代官所の膝元にあたる金谷村の農民の一部は、かねてから洋式の小銃などを用いた訓練を受けていたようです。例えば、安政元年(1854)のペリー再来航の際、アメリカ側との交渉の一端を担った英龍は、交渉にあたって代官所の手代らと共に金谷村の農民からなる一隊を鉄砲隊として随伴しています。


 三島農兵節がいつから農兵隊の行進曲として採用されるようになったかは不明ですが、「農兵」の概念が文明開化以降に発生したという前提で野毛山節の方が三島農兵節よりも古いという議論がなされたとしたら、幕末の歴史ファンとしては物足りない議論だなぁと、ちょっとがっかり。もう少ししっかりした歴史考証をしていただきたいものだなぁと思います。

 野毛山節と農兵節は、歴史的背景と知名度でそれぞれ「ノーエ節」の双へきをなす。シンポジウムに先駆けて披露された演奏では歌詞こそ違うものの、旋律は全く同じに聞こえた。いずれかが伝承されたことに間違いはないらしい。

 民謡に詳しい千野一彦さんはシンポジウムをこう結んだ。「野毛山節が発祥の地と考えられるが、全国区にしたのは、やはり農兵節。結局、親子のように支え合う関係だと思います。これからもずっと─」。発祥の地をめぐる争いは、歴史ある民謡を後世に伝え残すという使命に変わったようだ。


 まぁ、どちらが古いかということを余り決着つけずにこういうまとめ方をすることについては、別に構わないんですが……^_^;。
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ノーエ節
by lzfelt 2008/07/14 15:12 編集
はじめまして。日本の吹奏楽や軍楽の歴史を調べている者です。こういう本を見つけました。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/books-gifts/content_07.html
の中に
「神奈川奉行所の軍制改革―集められた農民兵たち― 西川武臣」という章がありまして、安政6年のことだそうです。
    
コメントありがとうございましたm(__)m
by 白牡丹 URL 2008/07/14 15:21 編集
lzfeltさん、白牡丹です。コメントいただき、ありがとうございましたm(__)m。

安政6年(ほぼ西暦1859年に相当)、横浜開港に伴ってノーエ節が成立したということなのでしょうか。とすると三島農兵隊より古いということになりますね。
    
確信はありませんが…
by lzfelt 2008/07/14 20:31 編集
白牡丹さん、こんばんは。
時間が無くて図書館で少ししか読めなかったのですが、この本にはノーエ節このとは書かれていませんでした。
富士市のほうは市井の情景描写であり、
野毛のほうは鉄砲隊と軍楽隊の練習風景を歌ってます。
富士市のほうにも鼓笛隊あったと書いている人がいますが、それよりも市井のほうがテーマに用いられているのは、興味は持たれなかったのでしょうかね。わかりませんが。
それで…神奈川奉行所が農兵を集めていたということは、歌詞の裏づけにはなってますね。
ちなみに野毛ノーエ節保存会で作った団扇には、文久三年1863年誕生とあります。
    
再びありがとうございます
by 白牡丹 URL 2008/07/14 20:47 編集
lzfeltさん、白牡丹です。再びコメントいただき、深くお礼申し上げますm(__)m。

> 富士市のほうは市井の情景描写であり、
> 野毛のほうは鉄砲隊と軍楽隊の練習風景を歌ってます。

なるほど、その点はおっしゃる通りです。ただ、

> ちなみに野毛ノーエ節保存会で作った団扇には、文久三年1863年誕生とあります。

ただ、文久3年(1863年)成立説があるとすれば、横浜開港から4年の空白がありますね。わずか4年ではありますが、幕末の4年間は平時の20年ほどもイベントがありますから、決定打といえるかどうか、素人なので確信が持てません。

関連著作の情報提供、ありがとうございますm(__)m。ますます幕末に関心が持てます。

    
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