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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
1880(明治13)年に容保が明治政府宛てに送った嘆願書の草案だそうです。戊辰戦争から10年以上たった時点でも困窮している元会津藩関係者の苦境がしのばれます。

会津藩主・松平容保の嘆願書草案発見 秋月悌次郎が執筆
 藩政時代、最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の側近として仕えた秋月悌次郎(1824~1900年)の遺物から、1880(明治13)年に容保が明治政府宛てに送った嘆願書の草案が3日までに見つかった。元藩士の復権に向け、安積開拓事業に参画して容保自らと元藩士の県内への移住を求める内容。戊辰戦争(1868年)で敗れ、困窮する元藩士を救うための書簡だったが、認められなかった。

 秋月悌次郎顕彰会(会津若松市)顧問を務める金城学院大名誉教授の中西達治さん(76)=岐阜県、中世日本文学=が、秋月家に残されていた文書から発見した。

 草案では「断然志ヲ決シテ開墾地ニ移住シ 旧臣等ト(中略)国家ノ万一ニ補アラン事ヲ期セリ」(意を決して開墾地に移住し、旧臣と国の大事業を補助したい)と事業参画への意欲を示した。また「士族ノ如キハ 既ニ困難ノ極ニ陥リ 奈何トモスベカラズ」(士族は困難の極みに陥り、どうすることもできない)と元藩士の困窮を訴え、安積平野の開拓地に移住することで元藩士の本県帰還を促そうとしたとみられる。

 秋月家から嘆願書の草案が発見されたことから、起草したのは悌次郎だったことが判明。容保が計画の実現に向け、文面からは、秋月らと連携して細心の注意を払った様子がうかがえる。中西さんは「容保の代弁者として草案を書いた秋月が、容保から、いかに信任を得ていたかを知ることができる」と述べた。

 旧会津藩は青森県で斗南藩として再興したが、元藩士や家族約1万7千人は苦しい生活を強いられた。多くの人が会津に戻るのは1871年の廃藩置県が行われて以降だ。

 初の国営開拓事業となった安積開拓では、人員確保のため全国9藩の士族約2千人が集められた。国策として士族が本格的に移住を始めるのは1878年から。容保が明治政府に嘆願書を出した事実は政府高官の日記に記されており、研究者には知られていた。しかし、移住が実現しなかったこともあり、一般的にはあまり知られていない。

 郡山市によると、安積開拓を先導した元米沢藩士の県典事(課長職)中條政恒が容保を誘い、大勢の元会津藩士を入植させようと計画した。容保もこれに賛同し移住の準備を進めていたが、元米沢藩士の県令山吉盛典が中條の計画を独断だとし、元会津藩士の大量帰還や容保の移住は頓挫した。
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