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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
 今日も幕末関係の記事が目白押し……『龍馬伝』絡みの龍馬特需ですなぁ^_^;。

長野
息づく下諏訪宿の姿 名主らの日記を20年かけ解読
 下諏訪町の住民有志でつくる「友之町古文書を読む会」は、江戸時代半ばから明治初期にかけての地域の出来事が書かれた日記を20年かけて解読、約750ページの本にまとめた。かつての下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わる交通の要衝。名主や村役人がつづった約1200枚に及ぶ日記は、徳川家に降嫁した皇女和宮ら歴史上の人物についての記述もあり、当時のにぎわいや民衆の暮らしぶりを伝えている。
 同会によると、友之町は元禄年間から明治初年まで、下諏訪宿の「加宿(かしゅく)」として、宿場としての課役の一部を請け負っていたという。日記には1750(寛延3)年から1872(明治5)年まで約120年間の出来事が記されている。1990年、区が集会所に使う建物の倉庫に保管されているのを区民が確認。町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に寄託された。その後、同町西鷹野町の田中薫さん(84)ら古文書に精通した6人が分担して解読を進めてきた。
 将軍の妻や諸大名の姫による宿場の利用、公家の頻繁な往来、それらの対応に追われる村役人の様子をめぐる記述が目に付く。幕末には、徳川家降嫁の際に下諏訪宿に泊まった皇女和宮のほか、尊王攘夷(じょうい)を掲げて京都を目指す途中、和田峠で高島・松本両藩と戦闘を繰り広げた水戸浪士らの「天狗党」も登場。官軍の先鋒(せんぽう)隊として中山道を東進しながら「偽官軍」の汚名を着せられ、町内で処刑された赤報隊隊長・相楽総三の名も見られる。
 諏訪大社御柱祭をめぐる記録もあり、1866(慶応2)年の記述からは祭りが晩秋に行われたことも読み取れる。田中さんによると、こうした日記は名主や村役人個人の家々に分散されがちで、一つの集落でこれほどまとめて残していたのは珍しいという。
 「いくらかでも一般の人に読めるようにしたいと思って解読を始めた。完成した時は涙が出るほどうれしかった」と田中さん。地域の歴史について「資料集として、これを基に研究してほしい」と話した。
 A4判で、限定200部。価格は5千円。町や町立図書館、町立諏訪湖博物館・赤彦記念館などに寄贈した。古文書の写しは同記念館にあり、希望者は複写できる。問い合わせは田中さん(電話0266・27・5655、または27・0660)へ。


広島
「平成いろは丸」就航 福山
 坂本竜馬ら海援隊が乗り込み、福山市・鞆沖で沈没した商船「いろは丸」を模した市営渡船「平成いろは丸」が9日、鞆港―仙酔島間に就航した。黒い船体はレトロの雰囲気を醸し、観光客らが幕末の志士に思いをはせて乗船。地元の関係者はくす玉を割り、新たな観光資源の誕生を祝った。
 同市鞆町鞆の渡船乗り場で午前10時から就航式があり、羽田皓市長はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映開始に触れ、「竜馬とゆかりの深い福山、鞆を全国発信するまたとない機会。観光客には竜馬気分と鞆の新たな魅力を味わってもらいたい」とあいさつ。出席者約100人は早速、船に乗り込むと、陽光にきらめく瀬戸内海の風景をめでながら、仙酔島まで約5分の船旅を楽しんだ。
 同市今津町、丹藤東亜子さん(67)は「景色はきれいで乗り心地も静か。人気の高い竜馬の力を借りて福山市の知名度アップにつながってほしい」と期待していた。
 平成いろは丸(定員99人)は全長22メートル、19トンで3本のマストを配置。内装は木目調の落ち着いた感じに仕上げ、かじを操る舵輪(だりん)やコンパス、竜馬の写真が飾られている。総事業費8000万円。1日40往復する。
 いろは丸は1867(慶応3)年、鞆沖で紀州藩船と衝突して沈没。竜馬は鞆などで藩を相手に談判し、多額の賠償金を勝ち取った。福山市は「龍馬伝」のロケ地にもなり、竜馬とのゆかりを観光振興に生かそうと、国の交付金を活用し船を新造した。


鞆皿山焼釜跡:保命酒のとっくり生産、幕末の登り窯調査 福山・鞆で始まる /広島
 福山市鞆町特産の保命酒のとっくりを焼き上げるために建設された同市鞆町後地の「鞆皿山焼釜跡」の発掘調査が8日始まり、調査に先立って、安全祈願祭があった。
 祈願祭では、事業主体となる「重要文化財太田家住宅を守る会」のメンバーや、発掘に携わる研究者ら17人が出席。おはらいを受け、玉ぐしを奉納し、保命酒を飲むなどして発掘の無事を祈った。
 釜は、12段の有段式連房釜(登り窯)で、たき口が二つあるのが特徴。全長は約50メートルにも及び、幕末に造られたものでこれほどの規模が残っているのは、全国的にも珍しいという。08年から準備を始め、市教委への発掘の届け出も完了したことから、本格調査に着手した。約10日間で測量や補強など、基礎的な作業を行うという。
 調査の中心となる、文化財保存全国協議会常任委員の鈴木重治さん(76)は「釜が自然崩壊の危機にあるが、歴史的な資産。行政とも連携して、遺跡の整備に取り組みたい」と話した。【村本聡】




高知
龍馬の盟友、陸援隊・中岡慎太郎館が衣替え
 16日に開幕する「土佐・龍馬であい博」(龍馬博)を目前に控え、高知県北川村柏木の中岡慎太郎館が9日、改装オープンした。
 記念企画展「陸援隊~組織と人物」も始まり、大勢の歴史ファンが、幕末の激動期を駆け抜けた志士たちの人生に思いをはせていた。
 中岡慎太郎(1838~67)は、北川郷柏木村(現・北川村柏木)出身で、坂本龍馬(1835~67)らとともに薩長同盟の成立に奔走。1867年、京都・近江屋で龍馬と共に襲撃され、命を落とした。現在、村の特産品となっているユズの栽培を奨励し、郷土の発展にも貢献した。
 今回の改装では、従来のパネル展示に写真や図を加えたほか、1994年の同館オープン後の調査で明らかになった史実も反映。慎太郎の生涯を再現したドラマを見たり、パソコン検索したりできる「慎太郎アーカイブ」のコーナーも設け、温度や湿度を管理できる展示ケースも整備した。
 企画展では、慎太郎の肖像写真や日記などを展示。慎太郎が結成した「陸援隊」のメンバーとその活動内容、慎太郎死後の隊士らの人生について、約80点の資料をもとに紹介している。午前9時~午後4時半(入館は午後4時まで)。年内無休。
 入館料は一般500円、小中学生300円。問い合わせは、同館(0887・38・8600)。


長崎
龍馬の偉業を漫画で解説 学研教育出版「幕末の風雲児―」など
 幕末の志士、坂本龍馬についての書籍が相次いで刊行される中、龍馬の偉業を分かりやすく伝える漫画も人気を集めている。
 学研教育出版は「学研まんが伝記シリーズ」として「幕末の風雲児 坂本龍馬」を発行。「尊王攘夷運動と公武合体運動」「薩長の対立と薩長同盟」「船中八策と大政奉還」など、ストーリーに合わせた解説のほか、用語解説などの豆知識も盛り込み、子どもにとどまらず、大人も楽しめる内容となっている。定価700円。
 これまでに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などのシリーズも出版されている。
 トーラス発行の「長崎の記憶 龍馬が見た夢 亀山社中物語」はコンパクトサイズの入門書。県観光連盟、長崎国際観光コンベンション協会の協力も受け、龍馬と長崎のかかわりを観点に構成。長崎の龍馬ゆかりの名所、龍馬と交流のあった人物なども紹介。観光ガイドとしても役立つ。定価300円。


【動画】「龍馬伝館」長崎歴文博にオープン 福山さんの衣装など展示
 幕末の志士坂本龍馬の生涯を描くNHK大河ドラマにちなんだ「長崎奉行所・龍馬伝館」が9日、長崎市立山1丁目の長崎歴史文化博物館内にオープンした。初日は大勢の龍馬ファンが訪れドラマの世界を楽しんだ。
 開館式は約220人が出席。NHKの福地茂雄会長は「龍馬伝は東アジアにも売るので、海外からの観光客増加も期待できる」とあいさつ。金子原二郎知事、田上富久長崎市長らとテープカットして祝った。
 「龍馬伝館」は、江戸期の長崎奉行所立山役所を復元した「奉行所展示室」約340平方メートルにドラマの世界を再現。同奉行所は、英国水兵が殺害されたイカルス号事件(1867年)で、部下の関与を疑われた龍馬が出頭したゆかりの史跡でもある。
 館内には、龍馬役の福山雅治さんが着用した衣装や小道具などを展示。長崎の商人大浦慶、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎ら登場人物をパネルや映像で紹介している。
 長崎市に帰省中の熊本市の会社員、向田達宏さん(25)は「龍馬の『我がなすことは我のみぞ知る』という言葉が好き。館内は雰囲気がいい。故郷の長崎がドラマで盛り上がってほしい」と話した。
 同館は1年間で40万人の入館者を見込む。観覧料は大人500円、小中高生250円。


【龍馬ゆかりの地を行く】港町が生んだ偉大な功績 丸山
 長崎の花柳街・丸山は幕末期、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町と並び称される遊郭だった。その一角で、当時からの建物で営業を続けているのが、県の史跡に指定されている「史跡料亭『花月』」だ。
 寛永19(1642)年に創業した前身の「引田屋花月楼」は、江戸時代を通じて丸山で最も格式の高い遊郭とされ、当時も外国商人と取引しようとする各藩の藩士らが盛んに利用していたという。
 坂本龍馬ら海援隊や土佐藩も例外ではなかった。施設内にある資料コーナーでは、海援隊が英国水兵殺害を疑われたイカルス号事件で、龍馬が長崎奉行所に提出した抗議文の下書きなど約50点を展示、幕末の志士の勇躍もしのばせる。
 そして、今も大広間の床柱には、「龍馬がつけた」と伝えられる刀傷が残っている。
 「刀傷については、後に高杉晋作がつけたとか、さまざまな説が出てきたが、店では、まだ龍馬が国民的なヒーローになっていなかった大正や昭和初期の時代から、龍馬がつけた傷という説があった。当時はそれほど有名ではなかった人物であり、龍馬説は店のPRのためとも思えない。だから、むしろ信憑(しんぴょう)性があると思う」
 花月の従業員で、花月史編集プロジェクトリーダーの加藤貴行さん(38)は、こう話す。
 戦後の高度経済成長期、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で一気に知名度が高まった龍馬。長崎にも数多くのファンが生まれ、その熱烈な思いが結実した名所もある。
 市街地や長崎港を見渡す風頭山頂の風頭公園一角に立つ高さ約3メートルの龍馬の銅像は、立案から資金集めまで地元の青年らが進め、平成元年5月に建立された。発起人は筋金入りの龍馬ファンで、焼き鳥店「風雲児焼とり竜馬」を経営する河野健一さん(62)。昭和54年に開業し、全国から口コミで龍馬ファンが集まるようになった。常連たちの前で、「長崎に龍馬の銅像ば建てたかねえ」と口にしたのがきっかけで、建立計画が動き出した。
 計画には、地元の龍馬ファンでつくる「長崎龍馬会」の前会長、柴崎賀広さん(53)が真っ先に賛同した。「全国龍馬社中」の理事を務めるほか、「現代龍馬学会」にも所属するなど、龍馬一途の柴崎さんは、「まるで龍馬になった気分」で計画を推進。昭和62年6月には「龍馬の銅像建つうで会」が発足し、会長として建立に全力を挙げた。
 1千万円を目標に始めた募金は約1200万円に達し、計画のスタートからわずか2年で念願の銅像建立が実現。建立計画を足がかりに、建つうで会はその後、長崎龍馬会に発展し、全国の龍馬ファンの組織と交流などを続けている。
 長崎を拠点に、龍馬自身も活動の舞台を広げ、数々の功績を残した。
 「歴史に残る龍馬の仕事のほとんどが、長崎に本拠地を持って以降。薩長同盟の実現、第2次幕長戦争での海戦、五箇条の御誓文の原型とされる船中八策の作成、大政奉還の立案、みんなそう。その長崎が、龍馬を忘れちゃいかんと思うたと」。柴崎さんは、龍馬に寄せる思いを熱っぽく語る。
 幕末当時、すでに横浜、函館、兵庫なども米英などに開港されていたが、長崎は長い鎖国の間もオランダ、中国との貿易が認められていた。
 司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、龍馬に「勝(海舟)先生、京のさきは大阪にすぎず、江戸のさきは小田原にすぎませんが、長崎のむこうは上海ですな」と語らせている。
 龍馬にとって、大きな飛躍の地となった港町・長崎。龍馬と長崎のかかわりについて、河野さんはこう指摘する。
 「龍馬は長崎の人やなかし、実際に住んだ期間は短かばってん、当時、日本で最も海外に向かって開かれていた長崎の街がなければ、亀山社中も海援隊も生まれんかったと思う」

                   ◇
 「龍馬と長崎」 龍馬が元治元(1864)年、初めて長崎を訪れたときの滞在日数は2月から4月にかけての41日間。約1年半後に亀山社中を結成するが、龍馬自身は京都、大坂、長州、薩摩を飛び回り、長崎にあまり落ち着いていない。その後の長崎での主な業績は、慶応3(1867)年春の海援隊の結成、同年5月のいろは丸沈没による紀州藩との賠償交渉、8月から9月にかけてのイカルス号事件の処理などがある。9月18日には、長州、土佐経由で兵庫に向けて長崎を出帆。11月15日に京都で暗殺され、長崎に戻ることはなかった。12月中旬には、長崎で海援隊士らによる慰霊祭が営まれている。(服部幸一)


コラム
【日本人とこころ】福地桜痴と「改良」(上)
■歌舞伎座を建てた新聞人

 言論人としての福地桜痴は歴史も認めるところだが、演劇人としての横顔は意外に知られていない。
 桜痴は幕末から明治初期にかけ、福沢諭吉や伊藤博文らとともに4度にも及ぶ洋行で見聞を広め、東京日日新聞(現毎日新聞)主筆(のちに社長)として、新聞創生期を支えた。
 だが、演劇人としての桜痴を伝えるシンボルが今でも、東京・東銀座の歌舞伎座正面に掲げられている。
 座紋である鳳凰(ほうおう)丸を染め抜いた櫓(やぐら)。
 江戸時代、各芝居小屋は幕府の許可を得て興行する証しとして、座元の紋を櫓で掲げた。顔見世興行の際に上る櫓はその名残だ。この鳳凰丸こそ、法隆寺宝物の紋にあやかって桜痴自宅の釘隠(くぎかくし)に使われ、明治22年(1889)に桜痴が歌舞伎座を建てた際、座紋に決めた紋なのである。
 現在の歌舞伎座は、桜痴が建てた劇場から数えて4代目。桜痴は当初、「改良座」「改良演劇場」の名称を考えた。歌舞伎の伝統を打ち破ろうとする動きが、出発点だったのである。
 演劇学者の河竹登志夫早大名誉教授(85)は、こう裏打ちする。
 「初代歌舞伎座の外観が洋風だったのが象徴的ですが、明治10年代後半から20年代にかけ、歌舞伎を西洋風にしようという演劇改良運動が起こった。花道や黒子まで否定しようという意見も出る中、桜痴は頑迷な改良論者ではなく、ただ自分の改良歌舞伎を書きたかった人物だと思います。それを九代目團十郎にやらせたかった」
 「改良」から出発した歌舞伎座は、なぜ古典芸能の殿堂に姿を変えたのか。

   ◇

 桜痴は長崎で蘭語、江戸で英語を学んで幕府に仕官し、文久元(1861)年、21歳で通弁方(通訳)として最初の洋行に出る。仏マルセイユ、パリ、ロンドン、蘭ハーグ、ベルリン、露ペテルスブルグ、ポルトガルを巡る道中は、同行の福沢諭吉の「西洋事情」にも詳しい。
 明治期、「天下の双福」と並び称されることになる2人の若者は、各地を貪欲(どんよく)に見回ったが、諭吉が興味を示さず、桜痴の心をとらえたのが演劇だった。
 使節一行は当初、劇場特等席に招待されても言葉が分からず、居眠りに終始した。しかし、桜痴が観劇前にあら筋を説明すると、次第に興味を示すようになる。桜痴自身、「櫻痴居士と市川團十郎」(榎本破笠著)の中で、《予(あらかじ)めセキスピア(=シェークスピア)やシルレル(=シラー)の脚本を読んで置いたが、何(いか)にも旨(うま)い物だと感心をした》と語り、この時期多くの脚本を読み、演劇人の土台が形作られたことが伺える。
 河竹名誉教授は「当時の西洋劇界は歴史的写実主義の全盛時代」と指摘。西洋の時代考証によるリアリズム劇に触れた桜痴に、様式化された歌舞伎はいかにも不自然と写った。
 《西洋の劇には自然の性格を巧に写してある(中略)善人にも時には悪念を起こし、悪人も時には善心を動かす等の変化を描いてある、然るに日本の劇に顕(あら)わる孝子、忠臣、節婦、義人らは積極的で、何れも忠孝節義の権化でなければ観物人が面白いと思わぬ》(同)
 桜痴は日本の演劇に不満を抱いたが、新聞人の傍ら東京府会議長になったり、立憲帝政党を設立するなど政治活動に忙しかった。本格的に「改良」に着手するのは、言論人としての盛りを過ぎた明治19(1886)年、末松謙澄らと「演劇改良会」を設立して以降である。
                   ◇

 明治22(1889)年11月21日、歌舞伎座こけら落としの座主挨拶(あいさつ)で、桜痴は演劇改良目的で建設した趣旨を述べた。
 洋風劇場開場は改良運動の柱だったが、桜痴は金策と役者集めに奔走した結果、脚本執筆まで手が回らず河竹黙阿弥原作の「黄門記」に手を入れ、「福地源一郎添削」とわざわざ番付にただし書きを入れ上演した。当然ながら観客は、見慣れぬ「改良」芝居に戸惑う。「これが果して演劇の改良なりや」(正岡子規著「筆まかせ」)。一高在学中の子規は冷ややかに記している。日本の演劇を「改良」しようという桜痴の意図は、のっけから不評を買った。(飯塚友子)

                   ◇
■社説を新聞に定着 西南戦争に従軍

 桜痴は東京日日新聞の主筆だった全盛期、「吾曹(ごそう)記者」と呼ばれていた。吾曹とは「われわれ」の意味。和漢洋に通じ、識見、筆力とも群を抜く桜痴の、「吾曹」を一人称とする社説は「日本の新聞に社説を定着させ、新聞の地位を上げた」と、新聞史に詳しい春原昭彦上智大名誉教授(82)は評価する。
 日本の新聞の創生期、桜痴の論説は、同僚の岸田吟香(ぎんこう)の雑報、朝野新聞の成島柳北の雑録(コラム)と並び、「三大記者」ともてはやされたという。
 明治10(1877)年の西南戦争では、桜痴は社長自ら現地に赴き、戦況を伝えた。当時、従軍記者は珍しく、桜痴が田原坂の激戦や、戦死した少年兵の英文混じりの手帳を拾い《可ほどに英学も相応に出来る少年が賊となりて死せし事可憐(かれん)》(3月24日付)などと伝えた連載「戦報採録」は評判になった。
 横浜の日本新聞博物館には「教導立志之基」(1885、小林清親作)と題する、西南戦争を現地取材する桜痴を描いた浮世絵が残されている。チェックのスーツに黒いブーツと帽子、なぜかステッキ小脇にメモ帳を開く雄姿である。
 桜痴はこの戦争の最中、京都で木戸孝允の依頼に応じ、明治天皇に戦況を奏上(そうじょう)している。「当時の新聞記者は、薩長中心の新政府にいられなかった旧幕臣が多かった。いわば認められない存在だった記者が、天皇に拝謁した初の例として、地位を向上させた」(春原名誉教授)
 しかし、太政官御用新聞として官報の役割を担い、自由民権派新聞に対抗し、国会開設漸進論を掲げて政府を擁護したことから、桜痴の意見は政府の代弁ではなかったのに「御用新聞」とのレッテルを張られた。明治14年の政変で政府攻撃に転じ、さらに東京日日を官報に昇格できなかったことから以後、言論人として影響力を失っていく。
                   ◇

【プロフィル】福地桜痴

 ふくち・おうち 天保12(1841)年、長崎生まれ。本名、源一郎。新聞記者、劇作家。長崎で蘭学、江戸で英学を修め、通訳として幕府に出仕。明治元(1868)年、江湖新聞発刊し、逮捕される。4度の洋行経験を生かし、東京日日新聞で主筆(のちに社長)を務める。演劇改良運動にも力を入れ、明治22(1889)年、歌舞伎座を創設。主な作品に「鏡獅子」「春日局」「幕府衰亡論」など。



都内に龍馬像が!? まったく歴史に関係ない、龍馬スポット巡り(前編)
 福山雅治が幕末の志士・坂本龍馬を演じる、NHK大河ドラマ『龍馬伝』。強めのパーマをかけて龍馬役に挑む福山のビジュアルが、さまざまなメディアで話題となっていますが、坂本龍馬の出身地である高知県が『龍馬伝』に便乗して町おこしを画策するなど、何度目かの"龍馬ブームリバイバル"もあちこちで起こりつつあります。
 が、実は全国各地に点在する、"龍馬ゆかりの地!"と銘打たれたスポットの中には、歴史的事実はちょいグレーだけれども、龍馬へのあふれる思いによって成り立っているものもあるです。今回はそんな、B級だけどかな~りホットな龍馬スポットを巡ってきました!
■龍馬が渡米し、ハンバーガーを食べた!?

 まずは東京・六本木でハンバーガー片手に泰然自若とたたずむ龍馬を発見!......といっても正確には、「佐世保バーガー 六本木店」に展示されている龍馬のパネルなんです。しかし、土佐藩(現在の高知県)出身の龍馬と、長崎ご当地グルメの佐世保バーガーがなぜゆえコラボしているのかというと......真相は同店のHPにありました。それによると、

坂本龍馬がアメリカへ渡った際、現地でハンバーガーに出会った。初めて食べたハンバーガーの美味しさに感動し、是非日本へ持ち帰ろうと思いたち、アメリカ人シェフから作り方を教わり佐世保へと伝来したと云われているとかいないとか...。
 とのことで、佐世保バーガーにとって何ともおいしすぎるエピソードが語られているではないですか! さらに先に紹介した龍馬パネルも

渡米の際に撮影されたとかされてないとか...。

 とあります。HPといい、パネルといい、「いるとかいないとか」というあやふやな言い回しが妙に気になります。というのも、龍馬が渡米した歴史的事実はないよう。けれど、その突拍子のない無茶な設定が、逆に「あの坂本龍馬ならやりかねないかも」と思わせてしまうもの確か。それも同店の行き過ぎた龍馬愛のたまものなのかも。佐世保バーガー(レギュラー690円・ジャンボ1380円)をほお張りながら、龍馬のように大志を抱くロマン派志向のアナタにおススメのスポットです。

『佐世保バーガー 六本木店』
東京都港区六本木3-13-10北麻布ビルディング1・2F

■あの有名な龍馬像が縄で縛られていた!?

 坂本龍馬像といえば、高知県高知市の桂浜にあるモノが有名ですが、それとまったく同じ型の龍馬像がなんと東京・品川区の北浜川児童公園に設置されていました! なんの接点もなさそうな品川と坂本龍馬。しかし彼が19歳の頃、江戸で武芸修行をする傍ら、品川にある土佐藩の浜川砲台で黒船を見張る海岸警備を担当していた、といわれているそうです。

 全長3.3mのプラスチック製の龍馬像を管理するのは、"全国龍馬会"の承認を得て昨年10月に発足した"品川龍馬会"。ちなみに、この龍馬を生き方や思想に感銘を受けた有志で結成された"龍馬会"と名のつく団体は、全国に132もあり(そのうち6つはアメリカ・ロサンゼルス、フランス・パリなどの海外にあるというから驚き!)、それらの各団体を取りまとめるのが全国龍馬会です。

 また、現在は立派な台座にそびえ建つ品川の龍馬像ですが、これまでに味わった苦難の道のりもご紹介していきましょう。元々はこの像、04年に高知県の坂本龍馬の屋敷跡に立つ宿 「ホテル南水」から譲り受け、京浜急行電鉄・立会川駅前に設置していたのですが......。

 「駅前に置いてると強風で何度も倒れるもんだから、龍馬像を縄で縛り付けていたこともあったね(苦笑)。その後、浜川砲台跡の近くの勝島運河沿いへと像を移転したんだけれど、普段はひと気のない寂しい場所で......。ようやく昨年末にしっかりとした台座を作り"カタチ"になりました」と話してくれたのは、品川龍馬会の会長浦山嗣雄さん。

 縛られたり隅に追いやられたりの龍馬像でしたが、大河ドラマ『龍馬伝』の放送決定と共に、立会川商店街のシンボルへと晴れて昇格! がしかし、浦山さんは『龍馬伝』便乗をやんわりと否定。



おいしそうですが、なぜに海苔なん
でしょう
「『龍馬伝』にあわせて品川龍馬会を発足したのではないんですよ。龍馬像も5年前から品川にありましたし。ただ『龍馬伝』の経済効果で商店街がまた活気づけばいいと思っています。今後、龍馬のイラスト入りの焼きのり(630円)をはじめ、さまざまな龍馬グッズを商店街の各店舗で作っていきたいと考えています」

 なるほど...。品川にある"全国龍馬会公認の龍馬像"。実のところ、その栄えある肩書きがどのくらい凄いことなのかピンとこないのですけど、平たく形容するのであれば、"熱狂的龍馬ファンたちにも認められた本格的な龍馬スポット"ということなのでしょう、きっと! というわけで、近くに行かれる際には、ぜひぜひこの苦難を経て鎮座している、龍馬像を拝みに行きましょう。
 
『品川龍馬会』
東京都品川区大井1-1-16
※入会費1000円・年会費3000円
※入会特典として龍馬帽がもらえる。

 「駅前に置いてると強風で何度も倒れるもんだから、龍馬像を縄で縛り付けていたこともあったね」って……プラスチック像なだけに、軽いのね^_^;。
 都内B級龍馬スポット巡り、後編も楽しみです。

ブックレビュー
【著者に聞きたい】渡辺惣樹さん『日本開国』
■ペリー派遣の真相“解読”

 1853(嘉永6)年、黒船艦隊を率いて浦賀沖へやってきたアメリカ海軍のペリー提督。幕末の日本人を仰天させたペリーは“開国の恩人”などではない。「鯨油を取るための捕鯨の補給基地確保」でさえ、主たる目的ではなかった。
 「アメリカは日本の先にある中国市場・労働力を見据えていた。ペリー来航の数年前にはメキシコからカリフォルニアを手に入れて西海岸に到達し、サンフランシスコ-上海を結ぶ『太平洋ハイウエー(シーレーン)構想』を描いていた。その中継地点としての“安定した日本”がほしかったのでしょう」
 シナリオを書いたのはロスチャイルド財閥とも深い関係を持つニューヨークのロビイストのアーロン・パーマー。ペリー来航前に彼が当時のクレイトン国務長官に提出した「日本開国提案書」を見れば、アメリカが日本や日本人のことをよく研究し、高い評価を与えていたことが分かる。
 「『名誉を重んじる騎士道のセンスを持っている』『アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画している』などと評価し、『日本は東洋におけるイギリスになるであろう』とまで言い切っています」
 つまり、アメリカが太平洋における覇権を確実なものにするために、高いポテンシャルを持った日本というパートナーがほしかった。何のことはない現在の「日米同盟」と同じ発想である。
 米海軍を代表する提督だったペリーと開国後に初代米国総領事として日本(下田)に来たハリスとの“格の違い”に触れたくだりも興味深い。
 「ハリスはノンキャリアの役人で専門は畑違いの教育行政。アメリカが日本とのビジネスを本気で考えていたのならこのクラスは送らない。日本を開国さえさせればよかったのですね」(草思社・1890円) 

 喜多由浩
                   ◇

【プロフィル】渡辺惣樹

 わたなべ・そうき 昭和29年、静岡県生まれ。東大経済学部卒。ソーワトレーディング代表。日本専売公社(現JT)勤務を経て、カナダ移住。近現代の日米関係の深層を新たな視点から探るべく、米側資料を中心に研究している。



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幕末、特に新選組や旧幕府関係者の歴史を追っかけています。連絡先はmariachi*dream.com(*印を@に置き換えてください)にて。
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