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新選組・土方歳三を中心に取り上げるブログ。2004年大河ドラマ『新選組!』・2006正月時代劇『新選組!! 土方歳三最期の一日』……脚本家・制作演出スタッフ・俳優陣の愛がこもった作品を今でも愛し続けています。幕末関係のニュースと歴史紀行(土方さんに加えて第36代江川太郎左衛門英龍、またの名を坦庵公も好き)、たまにグルメねた。今いちばん好きな言葉は「碧血丹心」です。
先週から始まった『西郷どん』ですが、私は早くも流し見モードです。原作者と脚本家に対する好みの問題が大きいのですが、幕末の歴史好きとして勝てば官軍的な宣伝臭が苦手なのです。

西郷隆盛 幕末維新の立役者は「工作員」だった? 倉山満
 明治維新150年の節目、平成30年のNHK大河ドラマは「西郷どん」である。主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄だが、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もある。西郷隆盛とはどんな人物だったのか。知られざる実像に迫る。(iRONNA)



 私の近著『工作員・西郷隆盛 謀略の幕末維新史』(講談社)のタイトルを見て「清廉潔白で人格者の西郷さんが工作員? 何を考えているのか、イロモノ本か?」と思われたであろうか。そもそも西郷は近現代で伝記の発刊点数が最も多い人物だ。そして、明治以来現在まで、一度も不人気になったことがない英雄である。中には「全人類の中で最も偉大な人物は西郷である」と信じて疑わない人もいる。

 ただ、ここで言う「工作」とは、最近の流行語で言うと、「インテリジェンス」である。では、インテリジェンスとは何か。情報を収集し、分析することである。では、何のために情報を収集して分析するのか。自らの意思を相手に強要するためである。これをコントロールとも言う。コントロールには他に「支配する」などの意味がある。

斉彬の「お庭方」

 青年時代からこうした意識をもって勉学に励んでいたのが西郷である。11代薩摩藩主、島津斉彬に見いだされてからは「お庭方」(つまり工作員)として情報収集に励む。情報収集には、人間関係の構築が何よりだ。ここに青年期の勉学が生きた。江戸の教育は世界最高だったといわれるが、西郷はその知的空間の一員として活動した。のみならず、そのような知的階層こそが、維新へのうねりを生み出していく。

 とはいえ、若いころの西郷は、何をやってもうまくいくという才人ではなく、苦労も経験している。あるいは人間臭い面もある。たとえば、単身赴任の妻に家庭のもめ事を押し付け、自分は仕事と称して女遊びに励むなど。そして、主君斉彬の死、幕府の大老井伊直弼の大弾圧、二度にわたる島流しなどを経て、さらに自らの勉学を磨く。

 しかし不遇の地位にあっても、限られた情報を頼りに己の未来を描いていた。そして常に、「皇国」の運命を思っていた。インテリジェンスオフィサーとしての西郷の真価が発揮されるのは、こうした苦労を経て帰還してからである。西郷は、薩摩藩重役として、幕末政局で多くの謀略を主導する。

 そして西郷の復帰に尽力したのが大久保利通である。大久保は常に西郷を指導者として立てていたが、西郷の失脚により政治家として目覚め、そして西郷の帰還により政治的盟友として御一新へと突き進んでいく。しかし、障害があった。徳川慶喜である。慶喜は常に西郷や大久保らの前に立ちはだかった怪物政治家だった。文久の政変で薩摩を利用して政権を奪取して以降、朝廷・将軍家・幕府・諸大名、そして外国勢力をも変幻自在に操り、幕末政局の中心に位地した。

奇跡の「鳥羽伏見」

 最近、明治維新は誤りであったとの説が流布している。「慶喜こそ真に日本の指導者にふさわしく、慶喜に任せておけば当時最高の人材を網羅した政府ができたはずだ。それを吉田松陰の弟子たちの長州や西郷に率いられた薩摩らテロリストがぶち壊した」と。これは謬(びゅう)論である。そのような政権で、富国強兵、殖産興業、日清、日露戦争の勝利以上の成果が見込めたのか。既成勢力の寄せ集めなど、しがらみだらけで何もできまい。

 一方で、大久保には未来が見えていた。その大久保を支え、泥をかぶったのが西郷だった。大久保の智謀と西郷の実行。この二つが掛け合わされたとき、奇跡が起きた。鳥羽伏見の戦いである。西郷が3倍の敵の猛攻を支え、大久保が錦の御旗を翻したとき、徳川軍は雪崩現象を起こして潰走した。大久保にとっては国づくりの始まりだが、「工作員」としての西郷の人生はここに完結する。

 その後、2人は愛憎入り交じる中で悲劇的な最期を遂げることとなる。2人の行き違いは、討幕御一新をどのようにとらえたかの違いだろう。大久保にとって討幕は、政治家人生の通過点だったが、西郷にとっては終着点だったといえよう。



 【プロフィル】倉山満(くらやま・みつる) 憲政史家。昭和48年、香川県生まれ。中央大大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得退学。在学中から国士舘大で日本国憲法などの教鞭(きょうべん)をとる。現在、倉山塾塾長を務めるとともに、ネット放送局「チャンネルくらら」を主宰。著書に『嘘だらけの日英近現代史』(扶桑社)など多数。

2018.1.2 07:00【鳥羽伏見の戦いから150年】日本近代化への扉開いた決戦 西郷を奮い立たせた1発の銃声
 260年あまりにわたった徳川幕府の世に終わりを告げ、明治維新に向かう戊(ぼ)辰(しん)戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いが起きたのは、大政奉還翌年の慶応4(1868)年1月。今年の正月、日本史の転換点からちょうど150年の時が流れる。近代国家建設を目指した新政府軍と旧幕府軍がにらみあった激戦の地(現・京都市南区、伏見区)は今、どのように変化し、痕跡を残しているのか。霊山歴史館(同市東山区)の木村幸比古(さちひこ)副館長(69)とともに訪ね歩いた。(池田祥子)

伏見

 「明治維新は、王政復古の大号令と、段階的に新国家像を描きながら進んだ改革。戦いは日本の平定に必要な前哨戦だった」。当時の事情に詳しい木村氏が、改めて鳥羽伏見の戦いの意義を語った。

 正月早々4日間にわたった戦いは、鳥羽と伏見の2つの地が舞台となった。城下町として栄えた伏見では、御香宮(ごこうのみや)神社に陣取る薩摩軍と、南約50メートルの伏見奉行所に本陣を置く旧幕府軍がにらみ合った。

 伏見の戦の端緒は、1月3日、北西約3キロの鳥羽・小枝橋で薩摩兵が放った1発の銃砲だった。奉行所にいた旧幕府方の新選組副長、土方歳三も銃声と閃光(せんこう)を確認したという。火ぶたが切られ、激戦が続いたが、薩摩軍が撃った砲弾が奉行所の火薬庫に命中し、大爆発した。

 この砲弾が放たれたのは、同神社東側の高台。眼下には現在マンションが立ち並んでおり、奉行所があった場所は視界から遮られているが、木村氏は「かつてはしっかりと奉行所が見渡せたはずだ」と思い巡らせる。広大な奉行所跡は明治以降、旧陸軍が所有し、現在は市営桃陵(とうりょう)団地に。敷地からは薩摩軍のものとみられる砲弾も見つかった。
 近くの料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の表の格子には、生々しい当時の銃撃戦の弾痕がある。この戦乱で伏見の街の南半分が焼失したが、この店は運良く免れ、同神社の杜とともに往事をしのばせる。

 4日、明治天皇の命令を受けた仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍になり、5日に新政府軍は「錦の御旗」を掲げた。旧幕府軍は兵力では圧倒していたが、たちまち「賊軍」となり、勝負は決した。

 「新政府軍だけでなく、徳川慶喜も、おそらく大政奉還の先に新たな国家を見据えていただろう」。木村氏はそう推察し「世界地図を念頭に新しい国を生み出すために、明治維新は避けては通れない道だった」と語った。

鳥羽

 鳥羽の戦いは、城南宮周辺で起こった。木村氏は、境内にある文久元(1861)年建立の石造りの鳥居を見上げ「戦の一部始終を見ていただろう」と思いをはせた。

 慶応4年1月3日、新政府軍は城南宮から小枝橋に続く参道に陣を構え、旧幕府軍と長時間対峙(たいじ)した。

 突如、小枝橋で薩摩兵が挑発のため撃った一発で戦いの幕は上がった。

 〈鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし〉

 北に約3キロ離れた薩摩軍の本陣、東寺(南区)の五重塔から遠眼鏡で状況を見守っていた総指揮官の西郷隆盛は喜んだという。「倒幕が目的だった西郷としては、戦が勃発したことで旧幕府軍を朝敵として討てるという大義名分ができた」。木村氏が説明する。

 城南宮の西350メートルの小枝橋周辺。木村氏によると、戦後は田畑が多かったが、現在は住宅や工場が立ち並び、西郷がいた五重塔も見えない。150年前の記憶は、小枝橋近くと鳥羽離宮跡公園にある石碑のみに刻まれている。

  


 鳥羽伏見の戦い 王政復古の大号令の後、将軍家の領地返納を強行採決した薩長両藩に対し旧幕府側が1万5千人で挙兵。大坂から京に進攻し、両藩兵ら4500人が迎え撃った。慶応4年1月3日、鳥羽と伏見で衝突したが、「官軍」となった新政府軍が旧幕府軍を圧倒し、6日に戦が終わり、徳川慶喜は江戸へ逃れた。


観光マップ土方歳三の世界へ 戊辰戦争、一次資料に忠実に改訂 /栃木
 地域おこしに取り組む宇都宮市の市民団体「黄ぶな愉快プロジェクト」は、戊辰(ぼしん)戦争で戦場となった同市内の史跡などを集めた改訂版観光マップ「新撰組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ」を作製した。

 同プロジェクトは2011年、「歴女」ブームを受け、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」の内容に沿ったマップを作った。しかし小説は、実際には戦いに参加していない人物も登場するなど、史実に反する部分もあった。

 このため、宇都宮藩の資料や戦争参加者の日記など、一次資料に忠実な改訂版を作成。一般的には土方歳三が快進撃したと思われがちな第1次宇都宮城攻防戦が、実際には少ない兵力で宇都宮藩側が一時旧幕府軍を食い止めていたことなどが紹介されている。

 マップはアンテナショップ「宮カフェ」(同市江野町)で缶バッジ(200円)とセットで販売。また、宇都宮新撰組同好会ホームページ上にもPDFファイルで公開されている。【高橋隆輔】
幕末・維新を生きのびた、日本橋の大店たち榮太樓、西川、柳屋・・・試練を乗り切った老舗
明治末期のある日、取材記者の石井研同(陸奥国郡山)は、三ノ輪の埃っぽい裏路地にある長屋を訪ねた。「零落した豪商が住んでいる」と聞き込んだからだ。
6畳1間の主は伊勢屋加太八兵衛(かぶとはちべえ)。かつて麹町7丁目で呉服店を営み、「山手随一の豪商」と言われた「伊勢八」である。幕府御用商人として苗字帯刀を許され、旗本や諸大名の資金調達も担ったが、維新ですべて踏み倒された。「諸大名に数万金の貸し流れあり、その証書のみにて、つづら籠一つに満つ」(『明治事物起源』)。
明治維新で、たびたび御用商人に課せられた「御用金」など、幕府への債権は貸し倒れとなった。各藩への売掛債権の返済は新政府が肩代わりするが、20年以上前の天保年間以前のものは時効、それ以降は50年債での返済とされ、実際には棒引き。伊勢八はたまらず倒産したのだ。
幕末、幕府の統制が揺らぐと江戸の治安は悪化。ある日、日本橋西河岸の榮太樓の店に、京都・大覚寺の寺侍を名乗る数人の武士が訪れ、「誰の許しを得て『榮太樓』を名乗っているのか。『樓』は高貴な文字だ」と脅した。こんな謂われのないゆすりが横行し、群衆が大店に暴れ込んでの略奪や打ち毀(こわ)しも相次いだ。彼らは「天狗がやった、やったのは天狗だ」とうそぶいたという。今に続く老舗は、存亡をかけた試練をどうやって乗り切ったのか。

業態を華麗に変更した「ふとんの西川」

本記事は『東京人』2018年2月号(1月4日発売)より一部を転載しています(書影をクリックするとアマゾンのページにジャンプします)
日本橋の南側、日本橋通りをはさんでの通1丁目は「間口一間値千両」と言われた江戸第一級の商業地で、近江商人の店が集中した。豊臣の楽市楽座政策を機に、近江商人は全国に活躍の場を求め、御朱印貿易にも携わった。

今でも近江八幡や五個荘(ごかしょう)など北国街道沿いの街並みを歩くと、他の地方には見られぬ「勢い」が感じられる。

橋を渡ってすぐの「西川」は「近江八幡の御三家」、初代西川仁右衛門(にえもん)が元和元(1615)年、畳表や蚊帳を商う近江本店の支店として設けた。江戸はまだ普請中、畳表は江戸城や武家屋敷からの引き合いが多く、町屋向けに手代が売り歩いた蚊帳への需要も、江戸の街と一緒に膨張し続ける。売上は右肩上がりだった。

西川は経営の近代化に熱心だった。売上から運転資金、原材料費、当時多かった大火などの損失引当金を引いた分を従業員に分配する「三ツ割銀制度」は現代の会計理論にも通じ、寛文7(1667)年の勘定帳は、わが国に残る最古の帳簿とされる。「近江八幡の本家で拝見しました」と日本橋西川の店長・執行役員の伊藤敦司さんは語る。売り手、買い手、世間の「三方よし」とともに、近江商人の先進性と精神を現代の社員たちに伝える存在だ。
幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。


寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。

醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。

国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。

幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。

八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。

幕末、第2次長州征伐にあたり、幕府は西川に冥加金(みょうがきん)1800両の上納を命じている。さらに明治元年、旧幕府への売掛金2550両を新政府に「上納」した。債権放棄である。だが、社史に掲載されている当時の年商からざっと計算すると、西川にとって経営の屋台骨を揺さぶる額ではなかったようだ。さらに成長分野を見極め、大阪店の開店、木綿の扱いの開始などに続き、ついに明治20年、現在の主力商品である蒲団(ふとん)の扱いを開始した。


寛文7(1667)年の、日本で現存する最古の勘定帳。西川家が江戸時代初期から早くも近代的な「計数管理」に基づく経営を行い、在庫管理や利益管理の概念のもとに運営されていたことがわかる(提供・西川)
近くに店を構える柳屋は、鬢付油「栁清(りゅうせい)香」で名を馳せた。唐人の漢方医・呂一官(ろいっかん)が、徳川家康の江戸入城と同時に通2丁目に御朱印地を拝領、「紅屋」として紅、白粉(おしろい)、香油の製造販売を開始した。のち近江商人の外池(といけ)家が継承、店は隆盛を誇る。だが維新により思わぬ危機が訪れた。明治4年の断髪令で、男性用鬢付油が不要になったのだ。しかし、女性用油「瓊姿香(けいしこう)」が柳屋を支え、大正9年の「柳屋ポマード」の大ヒットでさらに飛躍する。日本橋交差点角の、ガラスブロックが美しい柳屋ビルディング(昭和39年竣工)の場所こそが、創業の御朱印地なのである。

醤油醸造業から食品問屋へ国分の変身
西川の向かいに店を構える国分のルーツは、「近江商人と日本橋を二分する」伊勢商人だ。四代國分勘兵衛が射和(いざわ)(現在の松阪)から元禄時代に江戸に出、正徳年間に日本橋で「大国屋」の屋号で呉服商を始めたと伝えられているが、同じ頃、土浦で醤油醸造業にも着手する。続く五代勘兵衛は江戸店を本町から現在の国分本社がある西河岸町に移した。醤油の日本橋川からの陸上げを考えてのことだろう。宝暦7(1756)年「亀甲大(キッコーダイ)醤油」の販売を開始、最上級の醤油との評価を得て、日本橋でトップクラスの問屋となった。

国分は創業期より決め事、順守すべき事柄を「式目、定目」として明文化し、従業員のモラルを高く保った。これらは時代とともに何度か書き改めながらも、現在もその精神は「平成の帳目(ちょうもく)」として受け継がれている。

幕藩体制の崩壊は、江戸城や土浦藩などの大口需要先が失われ、御用金も貸し倒れとなった。加えて新政府が金銀の国外流出対策で貨幣価値を切り下げると、インフレが進行して原材料費が高騰。低価格品の醤油も出回りはじめたことは、亀甲大醤油を売り物とした店にとって打撃であった。

八代勘兵衛は、安政年間から製茶の輸出も手がけており、明治13(1880)年、大国屋は170年弱続いた醤油醸造を断念、新時代に沿った食品を扱う事業に大きく転換した。日本人の伝統の食を扱い続けると同時に、洋風化への貢献を一貫して続けている。

幕末明治・横浜の西洋犬事情は 浮世絵から伝わる驚き
 犬はいつごろからペットとして飼われるようになったのだろうか。戌年(いぬどし)に合わせ、そんな歴史をひもとくミニ展示企画「幕末明治 横浜犬事情」が横浜開港資料館(横浜市中区)で開かれている。女性のそばに座る犬、飼い主と散歩する犬、台所をうろつく姿……。開港したばかりの横浜で描かれた西洋の犬に焦点をあてた。

特集:どうぶつ新聞
 幕末から明治初期にかけて、浮世絵師の歌川貞秀(さだひで)は横浜で、外国人の風俗や商館などを題材に数多くの浮世絵を描いた。「横浜絵」と呼ばれ、庶民の間でブームに。その中に、洋犬も数多く描かれていた。

 「最初は洋犬が珍しいから貞秀が描いたと思っていた。でも、それだけではなかったようです」。同資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は、史料や文献に当たるうちに気付いた。

 江戸時代までは、富裕層が室内で飼っていた小型の「狆(ちん)」や猟師が飼う猟犬を除き、個人で犬を飼うことは珍しかった。「犬公方」と呼ばれた5代将軍・徳川綱吉も江戸城で狆を飼っていた。集落周辺に住む里犬や町犬はいたが、「地域の番犬」の役割は果たしても、各戸で飼われていたわけではなかったという。

 明治時代に各道府県で「畜犬規則」が定められてから、個人の所有が増えていく。それまでの里犬たちは外国人らから「未開の象徴」とみられたこともあり、処分の対象になっていったという。「居留地で洋犬が飼い主に行儀よく従う姿は、貞秀にとっては驚きの光景だったのでしょう」と伊藤さんは話す。約10点の関係資料を紹介するミニ展示は2月末まで。(佐藤善一)
幕末~明治の「イヌ事情」に迫る 横浜開港資料館で展示
 二〇一八年の戌(いぬ)年にちなみ、幕末~明治の「イヌ事情」に迫った資料展が、横浜市中区の横浜開港資料館ミニ展示コーナーで開かれている。二月二十八日まで。 (志村彰太)

 同館によると、江戸時代は猟犬や狆(ちん)という小型犬を除き、個人がイヌを飼うことはなかった。雑種とみられるイヌが群れをなして地域内で暮らすのが普通で、現在の地域猫のような存在だった。幕末の開港後、海外から品種改良された西洋犬が流入。文明開化の象徴として室内や犬小屋で個人が飼い、散歩に連れて行く生活様式が定着していった。

 会場には、横浜を題材にした浮世絵で知られる歌川貞秀(さだひで)(一八〇七年~没年は不明)が、西洋犬を散歩させる外国人を描いた浮世絵や、明治期に横浜で撮影された飼い犬の写真など十点を展示。担当者は「幕末の開港が日本人とイヌの関係を変えたことが伝えられれば」と話している。

 入館料は大人二百円、小中学生百円。年末年始と原則月曜休館。問い合わせは同資料館=電045(201)2100=へ。 
 最近はワンちゃんに「カメ」という名前をつけることもなくなったようですが、一時はポピュラーな名前だったそうです。横浜辺りで"Come here!"と英語で呼ぶのを聞きつけた人が、「カメ」を犬の名前と思ったのが始まりとか。

企画展幕末の奈良町を伝える 28日まで、奈良・市史料保存館 /奈良
 明治維新150年に合わせ、奈良市脇戸町の市史料保存館で企画展「幕末の奈良町」が開かれている。1854年の伊賀上野地震を伝える瓦版など、幕末~維新期の奈良町の出来事を記した資料が並ぶ。無料。28日まで。

 瓦版には、同地震により「南都」(奈良)で350人が死亡し、火災や池の堤防の決壊による被害が記され…
 以下は有料版にて。

「幕末・明治-激動する浮世絵」展 時代の空気リアルに伝え
 平成30年の今年は明治維新から150年となる。幕末から明治へと、社会が大きく変わっていく中で浮世絵も様変わりしていった。その時代の作品に焦点を当てた「幕末・明治-激動する浮世絵」展が、東京の太田記念美術館で開かれている。

 約260年続いた江戸時代が終わり明治時代を迎えると、都市ではモダンな洋風建築が建ち始めた。文明開化の香りを感じさせるのが昇斎一景(しょうさいいっけい)の「東京名所 銀座繁栄之図」だ。ピンクの花を咲かせた華やかな桜並木。人々が歩き、馬車や人力車が行き交う。和装の女性がいれば洋装の紳士の姿もある。桜の背後には煉瓦造りの建物。和洋混交の不思議な光景は活気にあふれ、明治という新しい時代の高揚感を感じさせる。作者の昇斎一景は明治初期、「開化絵」といわれる東京の町並みや風俗を描いていたが、生没年や詳しい来歴もわかっていない。いわば謎の浮世絵師だ。

 急速に近代化が進んだ明治。5年には日本初の鉄道路線が新橋-横浜間で開通。明治に活躍した四代歌川広重の「高輪 蒸気車通行全図」はその鉄道をモチーフにした。ただ制作されたのは開通前で、実際に見て描いたわけではなく資料などを基に想像で表現したという。そのため、客車部分は馬車のようでちょっと変。現代の目で見るとユーモラスだが、この絵を見た当時の人たちはまだ見ぬ未知の乗り物にどれだけ心を躍らせていたのだろうか。

 浮世絵は絵として純粋に楽しむ一方、明治になると情報をもたらすメディアにもなった。「江戸時代は幕府の批判につながるということで、リアルタイムな事件を浮世絵にすることは禁じられていたが、明治になると制限はなくなり西南戦争なども絵にすることができるようになった。浮世絵は庶民が欲していた情報をもたらすものでもあった」と同館の日野原健司主席学芸員は話す。

 小林清親の「明治十四年一月廿六日出火 両国大火浅草橋」は、大火を題材にした。立ち上る赤い炎はすさまじく、天まで昇る勢いだ。明治14年1月26日に起こった大火災を、清親は写生帖を手に、一晩中火の行方を追ってスケッチした。灰燼(かいじん)に帰した焼け跡の絵も残したように、何枚も作品にした。そのため、帰宅したときには自分の家まで焼失していたというエピソードも。画題には、場所や日時が記されていることからジャーナリスティックな目を持っていたことがうかがえる。
 清親は明治初期、江戸から東京となった都市を光や影を駆使し情感たっぷりに描いた「光線画」と呼ばれる浮世絵版画で人気があった。「大川岸一之橋遠景」もその一つで明暗のコントラストが鮮やか。「従来の浮世絵は輪郭線があったが、ヨーロッパの絵画は基本的に輪郭線がなく陰影で立体感を表現した。そうした手法を木版画に取り入れようとし、浮世絵らしくない油絵のような世界を生み出した」(日野原主席学芸員)

 明治期、近代化によって江戸の面影が失われたものの、新しい名所が各地に誕生していった。展示された約150点の作品からは、時代のリアルな空気を感じることができる。(渋沢和彦)

 ■りりしい西郷どん

 明治維新をなしとげた人物として人気があるのが西郷隆盛だろう。本展には西郷を描いた鈴木年基の「文武高名伝 旧陸軍大将正三位 西郷隆盛」が出品されている。ひげをたくわえ、軍服姿でりりしい姿だ。制作されたのは明治10年。西南戦争がすでに始まり、西郷軍の劣勢が伝えられていた時期で、作者の年基は実際会って描いたわけではない。東京の上野公園にある、犬を連れた親しみのある銅像の姿とはイメージが違う。西郷の絵は数多いが、上半身アップの作品は少ないという。作者の年基は明治初期に活躍し、名所絵などを描いていた浮世絵師で生没年は不明だ。
 本展には、西郷関係の浮世絵が前期・後期あわせて8点出品。西郷が自刃して幽霊となった不気味な姿を見せる月岡芳年(よしとし)の「西郷隆盛霊幽冥奉書」(後期)も展示され、さまざまな偉人像に触れることができる。

 NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」も始まり、すでに多くの本が出版されている。ブームが起こっているが浮世絵の「西郷どん」も必見だ。

                   


 【ガイド】「明治維新150年 幕末・明治-激動する浮世絵」展は東京都渋谷区神宮前1の10の10、太田記念美術館。前期1月28日まで、後期2月2~25日(前後期で展示替え)。月曜休。一般700円、大高生500円、中学生以下無料。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。
【号泣】佐賀県、大河ドラマに無視されすぎ問題
遂に始まりました、大河ドラマ『西郷どん』。方言が激しくてテロップがないと何を言ってるかわからないって話題になってますが、こういう時字幕放送は便利ですね。

いやぁ、それにしても10年くらい前から幕末、戦国、幕末、戦国、ひとつ飛ばしてまた幕末、戦国、幕末、戦国、戦国、幕末と、幕末と戦国を行ったりきたりしている大河ドラマ。『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』に『花燃ゆ』と、薩摩、土佐、会津に長州……日本史でも習いましたもんね。明治維新は幕末の雄藩「薩長土肥」が主力となってなされたって……うん、うん、うん……って、おーい!

肥(肥前)はどこへ行ったよ!!!
肥前どこ行ったよ!明治維新の立役者と日本史の授業やテストで出題され、漫画とかでもよく登場するこの言葉「薩長土肥」。今で言うと、

薩摩 → 鹿児島
長州 → 山口
土佐 → 高知
肥前 → 佐賀

肥は?ねえ肥は??肥、僕の地元なんですけど?何でまた薩摩?10年前に『篤姫』やったじゃん!なぜ、ここでまた薩摩の『西郷さん』??もっといえば、西郷隆盛は1990年に『翔ぶが如く』でやってるじゃん!

『ブラタモリ』未踏の地、佐賀県
大河だと秀吉が朝鮮攻めするとき名護屋城がチラッとセットで出てくる程度の扱い。そして、もう直ぐ100回に手が届きそうなのにあのタモリさんが一度もブラついてない『ブラタモリ』未踏の地の一つ、それが我が地元佐賀県。

朝ドラだって、主人公の出身地どころか『おしん』(1983)以来舞台にもならない佐賀県。『信子とおばあちゃん』(1969)では主人公の出身地だったらしいけど、それも半世紀以上前の話。だいたいその『おしん』だって、嫁いで佐賀に来てみたら旦那も姑も酷い奴らでイビられ倒されたあげく右手が使えなくなるという地獄設定。どうよ、この冷遇ぶり!佐賀県民だって受信料払ってんだぞ!

幕末佐賀藩大河ドラマ
え?だって、佐賀でしょ?大河になりそうな人いるの?って声も聞こえてきそうなんで、歴史それほど詳しくないですがこの際なので『幕末佐賀藩大河ドラマ』のプレゼンをさせていただきます。

肥前の妖怪『鍋島直正(鍋島閑叟)』
若干17歳で家督を継いだら、浪費家だった父親のツケが溜まりに溜まってて藩は財政破綻状態。そうとは知らず江戸藩邸から佐賀に向けて出発しようとしたら、商人たちが金返せと押しかけ大名行列がストップしてしまったという超苦労人。口癖は「腹を割って話そう」「一丸になろう」。

国元に帰ったら「ソロバン大名」と揶揄されるほどの質素倹約で財政改革、教育改革、農村復興を推し進め、結果佐賀藩は今だったら『ガイアの夜明け』(テレ東)で取材されちゃうんじゃないかって勢いで奇跡のV字回復!

また、日本初の実用反射炉でアームストロング砲を完成させ、極秘裏に洋式陸海軍を備え蘭学・英学を奨励。海外文明を積極的に移植し近代化に成功。幕末最強の科学・技術・軍事力を持ってるにもかかわらず最後の最後まで佐幕派からも倒幕派からも距離を保って加わろうとせず、あまりにも得体が知れない存在だったため「肥前の妖怪」と呼ばれたキレモノ且つ、クセモノなお殿様。

司馬遼太郎先生も短編集『酔って候』の中で「肥前の妖怪」ってタイトルで小説書いてるし、ちょっとググったら逸話がわんさと出てくるしネタには困りませんよNHK様!

佐賀にもいるぞ維新志士
直正公を含め、佐賀の七賢人とか呼ばれてるので何人かご紹介。

不遇の才物『江藤新平』
桂小五郎や伊藤博文とも交流のあった佐賀の維新志士。最下層の出身から薩長が圧倒的権力を握っている新政府の中枢で司法卿になった超逸材。この人の献言で「江戸」が「東京」と改称された。犬猿の仲だった大久保利通と大モメ、そして下野。「新政府クソくらえ!」と武力蜂起しようとする地元佐賀の不平士族を諌めようと帰郷したら、逆に担ぎ上げられ佐賀の乱が勃発。大久保の策略で正式な裁判にもかけられず斬首の上、さらし首にされた(ほとんど見せしめ)という不遇の人。

司馬遼太郎先生も『歳月』って小説を書いちゃうくらいなので、そろそろまともに評価してあげて!佐藤健くんとかイケメンだけど哀愁感のある演技派に演じてもらいたい。

あだ名はハゼ『大隈重信』
落ち着きが無く激しく動き回ることからあだ名はハシクリ(ハゼ)。藩校では常にトップの成績をおさめるも直正の教育方針に批判的だったアンチ閑叟。佐賀の特色である『葉隠』的教育に反発し退学。蘭学寮に入学し、閑叟にオランダ憲法を講義するまでに至る。副島種臣と将軍・徳川慶喜に大政奉還を進めることを計画し、脱藩するも失敗。

大政奉還後は「直ちに兵を率いて上洛いたしましょう!」と藩主の直正に熱弁するもスルーされる。相性悪そうなこの2人のやりとりを大河で見てみたい。

大河ドラマ『直正 -肥前の妖怪-』(主演:大泉洋)
維新の後は、北海道開拓と防衛の必要性にいち早く気づき北海道初代開拓使長官に任命され「北海道開拓の父」と言われる島義勇を送り込んだり他藩が尻込みするなか600人以上集団移住させたりと、意外にも北海道と繋がりがある直正公。

ここは是非、北海道出身の大スター大泉洋さんに主演をやっていただき、脇を安田顕さんとかTEAM NACSで固め『直正 -肥前の妖怪-』とかいうタイトルで大河やっちゃいましょう!大泉さんが大河主演!北海道の視聴率も取れる筈(多分)!

というわけで、次の幕末大河ドラマは是非、「薩長土肥」の肥!肥前でお願いします!
 私は相変わらず江川英龍の大河ドラマ化を希望する者ですが、佐々木譲さんの歴史小説三部作の三作めとして『英龍伝』が刊行されて嬉しい限りです。
毎日新聞出版 英龍伝 著者佐々木 譲 
ISBN:978-4-620-10833-9
定価:本体1,800円(税別)
判型:四六判
頁数:320頁
ジャンル:小説・評論

平和的開国に尽力した知られざる異能の行政官。その不屈の生涯。
開国か戦争か。いち早く「黒船来航」を予見、未曽有の国難に立ち向かった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍。誰よりも早く、誰よりも遠くまで時代を見据え、近代日本の礎となった希有の名代官の一代記。明治維新から180年。新たな幕末小説の誕生。
『武揚伝』『くろふね』に続く、幕臣三部作、堂々完結!


【江川太郎左衛門英龍 1801-1855】
伊豆韮山の世襲代官だったが、「黒船来航」の十年以上前から幕府に海防強化の建議を繰り返し、ペリー来航時には海防掛に任命され、江戸湾台場築城を指揮した。
幕末遣米使節随員・玉虫左太夫~近代への大いなる目覚めと挫折~「航米日録」記した悲運の逸材
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。


玉虫左太夫墓(仙台市・保春院、提供:高崎氏)
異文化の衝撃、サムライの覚醒
激動の幕末に太平洋を渡った遣米使節団(77人)のうち、私は使節団正使・新見豊前守正興(にいみぶぜんのかみまさおき)の従者(随員)である仙台藩士・玉虫左太夫(たまむしさだゆう)に注目する。彼の克明な「航米日録」(航海日誌)に強くひかれるからである。

左太夫は、文政6年(1823)仙台に生まれた。学問を究めたい一心から、24歳の時脱藩し江戸に出て大学頭林復斎の門に入った。高い教養が認められ塾長を命じられ、大名などに復斎の代講をつとめるまでになった。万延元年(1860)、幕府がアメリカと通商条約締結のため使節団を送ることになった。彼は正使新見豊前守の従者に選ばれアメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を渡った。未知の国への旅立ちであった。

日本を離れるとすべてが新しく、奇異に映るのは当然であった。左太夫は外国語の知識に欠け、海外事情にもそれまで無縁であった。だが、俊才の彼は儒学の素養と鋭い観察眼によって異国をつぶさに観察し、詳細かつ正確な記録を残した。「航米日録」(8巻)である。比類ない観察記録といえる。副使・村垣淡路守範正(のりまさ)の日記が、アメリカの進んだ文物に接しながら、「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我日本(ひのもと)の 国の光を」と31文字に読む国粋ぶりとは異なり、左太夫は知的に、客観的に見聞を詳細に書き留めた(批判的記述は別の日誌に書き止め他見に供しなかった)。米艦ポーハタン号乗艦から世界一周を果たして横浜帰港までの9カ月の間、果敢な取材や観察をもとに具体的数字を挙げて実証的に記述するその手法には類を見ない価値がある。彼は緻密で冷静な頭脳の持ち主であった。

遠藤周作の左太夫評価
文学者・遠藤周作は左太夫の近代化への目覚めに注目した最初の作家である。「走馬灯」の「玉虫左太夫のこと」より引用する。
「左太夫の『航米日録』は、その素直な感受性と率直な批判精神で書かれた得がたい外国体験の記録である。まず彼には、その後の留学生たちに見られるような卑屈なコンプレックスは毛頭なかったが、と言って無意味な強がりや偏見もない眼で、米国を見ようとしたのである。彼は最初、米国を聖道のない国と考えていた。米国人を礼節をわきまえぬ国民と考えていた。その定太夫が、幕府の遣米使節の最下級の属官として米国船に乗りこんだのである。そして彼は、毎日の船旅で少しずつ、自分のこの考えが間違いであったことに気づいていくのだ」。

遠藤は左太夫の目覚めを具体的に記す。
「日本を離れると、船はたびたび暴風にあった。属官である彼は正使、副使たちと違い、もっともひどい場所に起居していたため風波に持物を濡らし、ずぶ濡れになったが、その都度、親切に助け、慰めてくれたのは同乗した日本人の上司たちではなく、ほかならぬ米国人の下級船員たちだった。彼は米国人にたいする偏見がまず薄れたのはこの時である。
左太夫は、この船内で士官と水兵とが互いに助けあい、協力しあい、その交情の親密なことに気づき始めた。これは、彼が受けた儒教的教養にたいする最初の衝撃だった。米国人には聖道はないかもしれぬが、そのかわり人間的な暖かさがあると彼は気づいたのである。
『我国にては礼法、厳にして、総主などには容易に拝謁するをえず、少しく位ある者は…下を蔑視し、情交、かえって薄く、兇事ありといえども悲嘆の色を見ず』と彼は書いた。『しからば、礼法厳にして情交薄からんよりは、寧(むし)ろ、礼法薄くとも情交、厚きを取らんか』
なんと爽やかで、率直な観察と結論であろう。玉虫左太夫は厳しい儒学的教育を受けて育った侍だっただけに、この彼の反省は我々もしみじみと受け取れるのだ。
こうして太平洋を渡り米国に赴く船のなかで、左太夫の心には少しずつだが微妙な変化が始まった」
「属官である彼が、自分の船内観察や考えが上司に伝わるのを怖れて、自分だけの日記をつけだしたのもこの時からである。その日記には、同船の日本人上司にたいする痛烈な批評も書き込まれている。たとえば、同船の日本人たちは船内の食事に不平を言いつづけているが、連中は平生は家にあっては一汁一菜しか食べていないくせに、こういう旅行の際には『俄(にわ)かに奢侈の言を発して美味を好む』とは不思議であると、彼は言っている。
(中略)。左太夫の上司にたいする批判は彼自身が属官であるゆえんの不平も感ぜられないではないが、しかし、いかにも外国旅行に行く日本人的な性格を浮き彫りにしていて、今も昔も変わらない部分を衝いているのが面白い。いずれにせよ、『航米日録』には、初めて接する異国の人によって目ざめていく若い日本青年の心の変化が、手に取るように書かれている」。
ワシントンでの観察と見解
首都ワシントンでの観察を見てみたい。玉虫左太夫は、副使村垣と異なり、女性の存在に驚いたり、複雑な礼儀に欠けていることに苛立ちを覚えたりすることはなかった。また、議事堂の訪問に際しても、村垣とは全く違った感想を述べている。

「又行くこと2町計にして議事堂あり、カビテンハウス(注:キャピトルハウス)と云う。花盛頓府(ワシントン府)第一の巨屋高さ3、4層なり。出入口四方にあり、周囲10町計にして・・・事を議するときは中央卑き所に官吏及び書記官等列出、而(しか)して其事に管する者都(ルビすべ)て毎階に列し、高きより卑き臨む。故に官吏の公私分明に見え衆をして怨を抱かしめざるなり。」(原文カタカナ、ちなみに副使村垣は議会を「我が日本橋の魚市のさまによく似ている」と愚かにも記して、同行の監察(ナンバー3)小栗忠順の失笑を買っている)。

左太夫にも他の同行者らと同様に儒教思想の背景があり、彼はまた、その後半生を徳川幕府の封建体制支持に傾倒して生きたサムライであった。彼の記録には権力の側の価値観に対する明らかな批判や挑戦を指摘することが出来る。近代西洋文明に触れた目には、忠義という縦のつながりが弛緩しているとさえ感じられる。玉虫の体制批判は控えめである。が、それでも彼は、極度に異なったアメリカ文化の中で自国に欠けていると痛切に感じた制度を発見した数少ない使節一行の一人であった。
                  ◇
万延元年(1860)遣米使節及び咸臨丸の随員が残した旅行記、回想録のうち現存するものは約40を数えるとされる。(新見、村垣のような徳川幕府の高級官僚(幕臣)や、福沢諭吉、勝海舟のような蘭学の教養を身に着けた才気あふれる人物、さらには玉虫のような外様藩士たち、もっと身分の低い武士ではない奉公人にいたるまで、すべての階層の人びとによって書かれたこれらの記録は、未知の西洋と遭遇した際の、近代日本の夜明けの時代の徳川精神を最も適切に表している。だが「航米日録」に勝る観察記録はない。

帰国後の玉虫左太夫は、世界一周の体験や見聞に基づいて技術の重要性を感じ、食塩の製造法を研究した。文久3年(1863)、40歳の時に「食塩製造論」を著し、3年後には自ら属する東北の雄藩・仙台藩気仙沼の浜辺に製塩場を建設した。だが左太夫は不運であった。仙台藩重臣に取り立てられ小姓組並、江戸勤務学問出精を命じられ、また仙台藩学問所養賢堂指南頭取(学長)となった。

慶応4年(1868)仙台藩主の命を受けて、会津に赴き、藩主松平容保に会い佐幕連盟の約を果たした。が、仙台藩内が勤王、佐幕に分裂し、明治新政府に組しない立場を貫いた左太夫は劣勢となった。左太夫は、幕府の軍艦奉行榎本釜次郎(後に武揚)が軍艦を率いて蝦夷地(北海道)へ向かうことを聞き知って、これに乗って蝦夷地に一緒に逃げようとし、自ら造った気仙沼の製塩場に行って塩を集めて、これを榎本の軍艦に積み込み持っていこうとした。榎本武揚も、軍艦を気仙沼に寄港させ左太夫と同志門弟16人を救出しようと試みた。だが、わずか1日の差で左太夫らは捕吏に捕えられた。反対派の桜田良佐らの策謀によって反逆者の烙印を押されて、翌明治2年(1869)4月切腹自刃に追い込まれた。

享年46歳。左太夫の無念の思いはいかばかりであったろうか。明治維新後、玉虫家は家名を奪われ相続も許されず、明治22年(1889)憲法発布まで家名復興を許されなかった。明治新政府に反抗した者を容赦なく追及し罰してやまなかった非情な暴挙を、まざまざとここに見る。

参考文献:「走馬灯」(遠藤周作)、「我ら見しままに 万延元年遣米使節の旅路」(マサオ・ミヨシ)、「西洋見聞集 日本思想大系」(岩波書店)

(つづく)
2月に史跡足利学校で清光、安定の日本刀展示 新選組の沖田総司愛用の刀工
刀剣ブームに沸く栃木県足利市で、刀剣女子に人気の刀工「加州清光(かしゅうきよみつ)」と「大和守安定(やまとのかみやすさだ)」の日本刀などが特別展示されることが決まった。新選組の一番隊隊長の沖田総司が愛用の日本刀を作った刀工の作で、2月2~25日、史跡足利学校(同市昌平町)で展示される。所蔵家の好意で実現したもので、全国から多くのファンが訪れそうだ。(川岸等)

 清光は室町時代から続く加賀(石川県)の刀工で、展示されるのは刃長69センチ。安定は江戸時代に活躍した武蔵(東京都など)を代表する刀工で、展示品は同82センチ。また、江戸時代の足利の刀工・源景国(みなもとのかげくに)の刀、同70センチも展示される。

 清光と安定の刀は幕末、沖田総司が愛用したことで知られ、清光は新選組が尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件で使用されたといわれる。いずれも、刀剣ブームの火付け役となったオンラインゲーム「刀剣乱舞」で擬人化され、刀剣女子と呼ばれる若い女性の間で人気が高い。
 足利市では昨年春、開催した地元ゆかりの刀工・堀川国広の名刀・山姥切(やまんばぎり)国広展にファン約4万人が訪れたのを契機に、市と地元商店会など官民連携で夏、秋と刀剣関連イベントを開催し、刀剣による地域活性化に力を入れている。

 今回は複数の個人所蔵家から足利学校に対し打診があり、学校側は「刀剣を通して足利および足利学校の歴史を深く知ってもらう絶好の機会」と急遽(きゅうきょ)企画。会期中、専門家による刀剣鑑賞会なども検討している。

 また期間中、市内では「足利冬物語」として伝統行事の節分鎧年越(よろいどしこし)など多彩なイベントが予定されており、地元商店会関係者は「話題の刀がまた足利で展示されることになり、大きな反響を呼ぶのではないか」と期待している。
 うーん、「伝・加州清光」だと思うんですが、確定的に伝えられるのはどうなんでしょうね。土方さんの和泉守兼定のように実物が残ってないので。。

影山貴彦のテレビ燦々「風雲児たち~蘭学革命篇~」 最も見応えのあった正月ドラマ
 今年の正月のテレビも、見かけは華やかだが中身の薄い長尺番組が少なくなかった。長らく思っていることだが、正月こそ質の高い番組を数多く制作してはどうだろう?「正月三が日のテレビは面白くない」と感じている視聴者の先入観を打ち破る時代になってほしいと願っている。

 もちろん、素晴らしい番組もいくつか放送された。優れた作品を探し出して見るのも無類のテレビ好きとしての楽しみである。特に良かったのが、元日の「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」だった(NHK総合)。

 みなもと太郎原作の大河歴史ギャグ漫画をスペシャルドラマの脚本に仕上げたのは、名手・三谷幸喜である。このドラマを見たおかげで、正月ボケがなかった。優れたエンターテインメントは、触れる者に大いなるエネルギーを与えてくれる。

 史上初の西洋医学書の和訳本、「解体新書」の名を知らない人はいないだろう。その執筆、出版にあたり多大な貢献をした前野良沢と杉田玄白の間で繰り広げられた人間模様を描いたドラマだ。なぜ良沢の名は「解体新書」に載らなかったのか。「医術のため」との熱き信念で結ばれていながら、互いに心離れてゆく様を描いた三谷の脚本が卓越していた。

 前野良沢を片岡愛之助が、杉田玄白を新納慎也が熱演した。他の共演者も素晴らしかったが、特に輝いていたのが、平賀源内役の山本耕史と田沼意次役の草刈正雄だった。そして忘れてならないのが、NHKの有働由美子アナウンサーだ。彼女の語りはうまさを超えている。

 ■人物略歴

かげやま・たかひこ
 同志社女子大学教授(メディアエンターテインメント論)。1962年生まれ。元毎日放送プロデューサー。日本笑い学会理事。
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